姜尚中 「キリスト教・植民地・憲法」(『現代思想』 1995.10)
(1)キリスト者のナショナリズム
矢内原忠雄が戦後北海道大学で内村鑑三と新渡戸稲造についてふれている講演が あります。敗戦直後です。うちひしがれた日本国民に対して新渡戸と内村(の精神) に帰れという内容です。それをみると、矢内原にある日本のもっとも良質な知識人 の系譜を、彼がどこで押さえているかということがみえてくるんです。それはやは り内村であり、それから新渡戸です。そこで気になったのは、フィヒテのいう「内 的国境」というか、内なるナショナリズムの普遍性、純粋性に対する思い入れです。 矢内原はあたかも対ナポレオン戦争で破れた後のフィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」 と同じような地点で戦後日本の「精神的な」ナショナリズムを訴えているのです。 キリスト教の問題を考えていくときに、日本の中では、とりわけ無教会の場合は、 もっとも「抽象度」の高い、それでいてもっとも日本的な「愛国的基督教」だった と思います。それは教会を作らないことにおいてもそうだし、それからやはり内的 精神性というものをもっとも重要視する。それは、ナショナリズムの持っている単 なる偏頗な特殊性ではなく、ナショナリズムの持っている内的な普遍性みたいなも のを、実は日本の思想史の中でもっとも「抽象度」の高い形でつきつめていったの は、ある意味では無教会派かもしれないという気がしているんです。 ご存知の通り、内村の場合、日清戦争の時これは聖戦だといって、徹底して日本 の側に立つわけです。もちろん新渡戸もそうなんだけれども。そのときの内村の考 えは、「ふたつのJを愛する」つまり日本とイエスを愛するに凝縮されています。 それはやはり、非常に内的に深められたある種のナショナリズムとキリスト教の密 接な結び付きを語っています。 もちろん内村の場合は日露戦争から反戦に転じました。さらに内村の場合は「不 敬罪」の問題があって、彼は非常に天皇制と対峙したという風に見られている。し かし基本的には天皇制の持っているある種のシンボリックな意味というものを、内 村自体は肯定していたと思います。むしろそれは日本人を支えている。そういう意 味では決して反天皇制ではなかった。 内村を評価する場合に、「内村鑑三というのは徹底して反国家主義的であった」 というのが決まり文句のように言われています。明治政府的な上からの国権主義に は対抗したにしても、やはりナショナリズムというものがもっている内側の、日本 の、それこそ身体化されたような支えとしての天皇制あるいはナショナリズム、そ ういうものに対する彼の思い入れというのは一貫してあったと思います。 内村と新渡戸の出発点で共通しているのは、彼らは明治政府のいわば特待生とし て札幌農学校で、基本的には国家の官吏、エリートとしての青春時代を送ったこと です。そこでクラークと出会ってキリスト教へと開眼していくわけです。あの二人 に共通していることは、北海道という新天地に、先ほど言った、キリスト教と内な るナショナリズムとをミックスしたひとつの、どういったらいいのかな、それまで の薩長の藩閥政治ではつくれなかったような新しい日本をつくりたい、そういう願 望があったと思うんです。ある種のキリスト教的な新天地として。 後藤新平 しかし、内村は挫折していくし、新渡戸の場合には、内村とは違って、もっとプ ラグマティックだったと思うんです。新渡戸は、内村ほど終末論的な意識は持って いなかった。彼の場合には、後藤新平に見いだされて、台湾に行くわけです。あの ときにもやはり北海道での「予行演習」があって、植民地台湾にいく決心がついた のだと思います。やはり北海道は本格的な植民地経営に向けた実験室だったと思い ます。 |
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