2016-10-19

姜尚中 「キリスト教・植民地・憲法」(5)矢内原忠雄の帝国主義論

姜尚中 「キリスト教・植民地・憲法」(5)矢内原忠雄の帝国主義論

姜尚中 「キリスト教・植民地・憲法」
(『現代思想』 1995.10)

(5)矢内原忠雄の帝国主義論

 ただ、唯一例外があったとすれば、それは矢内原でしょう。彼の朝鮮に対する思
い入れ
は、モラリッシュなレベルでいうと、今からみてもきわだっています。なぜ
彼が新渡戸を師として仰いだかがぼくにはわからないのです。新渡戸に対する批判
的言説は一言も書いていません。矢内原の中に新渡戸と同じように文明とコロニア
リズムの考え方があったにせよ、朝鮮は最終的には自治論に向かうべきだという考
えをもっていたんです。そういう点では吉野作造より先にいっています。

 それにもかかわらず、戦後の矢内原の天皇制論というのは非常にナショナリステ
ィックです。それは福沢以来の問題です。それは矢内原が植民地問題を根本におい
民族問題としてとらえきれなかったということと関係があります。やはり日本の
コロニアリズムの持っているフランス型に近い、そしてまたフランス型とは違った
意味で、地政学的に近い部分から同心円的に植民地化していったということは世界
史の中にはまれなんですが、その「特殊性」を、矢内原は軽く見ていたのではない
でしょうか。
--たいていは遠くからやりますね。

 そうです。しかも大東亜共栄圏の場合は、大東亜会議には台湾と朝鮮は呼ばれな
かったんですよ。それ一つとっても、大東亜会議の虚妄というのはすぐわかるわけ
です。矢内原は時間がたてば朝鮮に自治権が付与されるという楽観論を抱いていた
んです。それはまったく状況にあわなかったんです。それが限界でしたね。

 矢内原の帝国主義観は基本的にイギリスがモデルです。ですからイギリスとオー
ストラリア、カナダの関係が念頭にあったと思います。しかしユナイテッド・キン
グダムを日本に当てはめること自体がどだい無理なんです。(略)

 矢内原の『帝国主義下の台湾』をみると、経済的には日本は台湾統治をできるよ
うな状態ではなかったのです。まちがいなく金融資本主義はそれほど整ってはいな
かったのですから。しかし、イデオロギー的にはすでに帝国主義だと書いています。
それは、後発帝国主義であったぶん、日本は学習はきちんとやったんだろうと思い
ます。

 それはとくにドイツを通じてです。ところがドイツはイギリスやフランスと較べ
て植民地をまともにもてなかったんです。ドイツ自体は植民地帝国とはいえないで
しょう。ところが日本はドイツを学習して、台湾植民地を五十年、朝鮮半島三六年、
つまり半世紀にわたって植民地の実験が出来たということはドイツと全然違います。
--日本は帝国主義とファシズムを両方やったということですね。

 そうです。それをぬきにして、15年戦争のある時期だけを抜き出してアウシュ
ビッツと南京大虐殺を比較するのは無理があります。そこにいたるプロセスは違う
のです。そのあたりの問題を考えていくと、後藤新平の時代の桂太郎とか児玉源太
郎の文章を読むと、最初から徹底して日本膨張論ですよ。なぜ台湾から中国へ向か
っていったかというと、福建省の人が台湾には多いんです。日露戦争でロシアの鉄
道をもらいうけ、そこから中国経営は台湾の成功からはっきりとでてきています。

 だから、戦後50年決議でいうような、こういう時代状況でみんなが帝国主義で
あって、その流れの中で日本はしかたなくそういう選択をしたかのような話は事実
とかけ離れています。非常に計画的でフランス型に近いんです。

 だから、本来ならば吉田茂という人は戦犯になっても仕方のない人です。外務官
僚としてそのまま残った人なんですから。どういうわけか、日本のクリスチャンに
知識人が多いから、比較的インテリの高級官僚の中にはそのシンパがいたかもしれ
ません。吉田たちがやった近衛をかついだ反軍部の平和活動がお墨付きになって、
戦後パージされなかったんです。でも本当に彼が何をやろうとしたのかということ
をみると、満州事変とか軍部の暴走以前の「背広を着た帝国主義者」の問題はまっ
たく不問にふされたのです。

 だから、五千円札としての新渡戸稲造にも、そうした視点から光を当てる必要が
あると思います。それがこれまでできていないことが、日本とアジアとの関係を作
れないことの根本的原因なんです。それをやらない限り戦前と同じなんです。太平
洋の架け橋は一度として玄海灘に架け橋をかけるどころか、それを踏みにじること
しかしてこなかったんです。戦前は日米関係の中で日米がアジアで覇権を争ったと
きに軍部支配がでてきました。そうならないように今もいろいろやっていますよね。
つまり、日米がアジアの権益を争うのはまずいということです。これが新渡戸以来
の日米の基本的スタンスです。その流れをくんだ日米関係の責任者や学者というの
は多いのです。

 問題なのは反米であれ、親米であれそのレベルで議論している限りでは植民地支
配以来の、しかも戦後もポスト・コロニアルで受け継いできたアジアの問題という
のは見えないし、ダイアローグすべき<他者>はアメリカしかない、ということに
なり、そこが切れるとモノローグになってしまうのです。それが大正から昭和の時
期に起こったことであり、それが1930年代に流れていくのです。日本がダイア
ローグの相手としてアメリカというものを出すのが比較的リベラルだと見られてい
ました。新渡戸に対する評価もそうだったんです。ところが彼は徹底的にコロニア
リストだったんです。戦後リベラリストと呼ばれている人たちがコロニアリズムの
問題を切開できなかったことに通じています。対話をすべき<他者>がそういう形
でしかない、ということは問題です。そのような固定化された<自-他関係>の図
式をどう組みかえていけるかが問題です。

No comments: