2016-10-20

姜尚中 「キリスト教・植民地・憲法」(6)キリスト教の完成としての象徴天皇制

姜尚中 「キリスト教・植民地・憲法」(6)キリスト教の完成としての象徴天皇制
姜尚中 「キリスト教・植民地・憲法」(『現代思想』 1995.10)

(6)キリスト教の完成としての象徴天皇制

--1945年前後のお話をうかがいたいのですが。特に矢内原忠雄と南原繁につ
  いてお願いします。


 矢内原さんについては、彼はイギリスの影響が強く、コロニアリズムについての
基本的考え方は新渡戸から継承したにせよ、彼はぎりぎりのところで朝鮮半島の自
治論
を考えていたと思うし、もう一つは、マルクス主義の影響があったのです。そ
れは植民地論の中に帝国主義論を導入したことからもわかります。そのあたりの
かれた態度
がなぜ可能だったかということはぼくにとって謎です。ただ、彼の天皇
論は思い入れという面ではそう違いはありません。

 矢内原と新渡戸に共通するのは、彼らは日本のマージナルな部分からでてきてい
るということです。矢内原は四国、新渡戸は岩手県です。日本を通り越して欧米に
向かうという脱亜的発想
は非常に強いですね。そこにキリスト教というのは大きな
支えになっています。

 ただ二人は、時代的背景が少し違います。矢内原の時代は社会主義、帝国主義論
はいやでも植民地論を展開していくとき避けては通れなかったものです。その点で、
民族問題として植民地を見れなかったとしても、すれすれでそこに行き着いたので
す。

 ただ戦後彼は一貫して文化天皇制に対する思い入れがあります。だから、象徴天
皇制というのは矢内原にとっては天皇制の完成形態なのです。一時期の国家天皇制
というのは、アブノーマルで、象徴天皇制というのは日本のキリスト教のあり方
調和しているという考えでしょう。それはキリスト教と矛盾しないと思われてたの
でしょう。

 南原さんの場合はヘーゲル、フィヒテなどのドイツ観念論哲学をやって、当然彼
は敗戦後の日本を考えているんです。フィヒテがナポレオン戦争後の敗戦国ドイツ
の中で語ったナショナリズムと、矢内原が内村や新渡戸に託し、南原さんがフィヒ
テに託したものはパラレルだと思うんです。

 その中で戦後憲法、象徴天皇制、敗戦国のもっている罪に汚れているということ
をバネにしての平和主義という、キリスト教でいうコンバージョン、これは内村に
通じていますし、ドイツでいうとフィヒテにつながっています。内村は晩年、終末
論的考えが強くなります。日本は滅亡する、日本の軍国主義は滅亡までいくんだ。
そして日本が滅亡するということは世界にとって救済につながる、という考えです。
これは選民思想の裏返しです。そこに強烈なナショナリズムが見えるんです。それ
は国権的ナショナリズムではなく、もっとキリスト教的な内的に純化された、旧約
聖書の選民思想に現れてくるような、自民族、自国民が犠牲の羊になることによっ
て世界が救済されるという思想
です。内村は最後までこれをもっていました。

 つまり、アメリカはもう駄目だとわかったときに、日本に対してそういう思い入
れがでてくるのです。こういう考え方は南原さんの中にもあったのではないでしょ
うか。つまり敗戦、多大な犠牲、そしてそこから甦って平和に徹するという、そこ
の内なる支えとして、象徴天皇制、平和主義のシンボルが内なるナショナリズムに
つながっていたと思います。

 ナショナリズムの普遍性と内的な純化は戦後平和主義の精神的支えになっていま
す。その限りでは無教会の流れというのは、戦後民主主義の中である面でうまく、
というよりは無教会が考えたようなある種の理想状態というのが敗戦を通じて戦後
民主主義の中に実現したのです。内村がいうように、日本の滅亡で世界が救われる
わけですから、戦後民主主義の中で日本は唯一の平和憲法をもってこれだけ罪の汚
れの中で再生する、ということなのです。

 そういう点ではフィヒテがいうように、戦争に負けたドイツ国民というのはなる
ほど、物理的には負けたけれど、精神的戦いにおいてはドイツ国民こそが世界を救
うんだということです。イアン・ブルマが『戦争の記憶』の中でいっているとおり
です。世界の倫理的高みに達するということです。ヴァイツゼッカー元大統領の演
説というのも、日本でふつうに言われているようなものではなくて、そこにドイツ
国民の倫理的高みという問題もあるのです。それは非常にパラドキシカルなもの
す。
 そこに日本の戦後のナショナリズムの内的根拠が見つかったのです。もしそれす
らもなくなったときにはどうにもならないのです。敗戦国でめちゃくちゃにやられ
て、ひどい民族だと思われ、唯一あるのはお金だけで、何のディグニティもない。
ですから、無教会の流れというのは、戦後日本の中できわめてオーソドックスなも
のになったのではないでしょうか。それは政治的力という意味ではなくて、精神的
にそうなのです。だから、吉田茂と南原繁は以外と近いのではないでしょうか。

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