2023-04-26

思索の日記 (金泰昌)さんとのコメント対話(fb)「優等生」(東大病・教=一流病・教)の致命的な欠陥。

思索の日記 (クリックで全体が表示されます)



Taechang Kim(金泰昌)さんとのコメント対話(fb)「優等生」(東大病・教=一流病・教)の致命的な欠陥。
2020-11-25 | 教育


11月20日のfb

昔の革新の流れをくむ人は、
人を褒める・人を育てるという一番大事なことが苦手で、
自分の「正しさ」の主張ばかり。
批判することは得意だが、生みだすことができない。
致命的な欠陥だが、「優等生」はみなそう。
教育と文化を変えないと。

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Taechang Kim(金 泰昌)

本当に そのとうり、韓国では 一流病気と言われてます. 何事にも

一等だけが 記憶される 世の中の矛盾が もたらした 社会悪 とも見られて います。

変態的な意識状況にもなっているわけです。

一流病、 一流教 の 大弊害です.

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武田 康弘

Taechang Kim(金 泰昌)さん

学者が治める、政治家が治める、経営者が治める、

それで、庶民は従う存在。一流とされる人が偉い。

みな唯我独尊として生まれてきた、という根本思想を理解できない「エリート教」の信者は、末世をつくり出しているのが自分の想念と行為であることに気付かない。底知れぬ愚かさだ。

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一松 邦安

武田 康弘さん

天上天下唯我独尊を武田さんは本当にアタマだけで得心できたのでしょうか?

私の場合は、禅門の教え、諸法無我(一切は因縁の結果であってこの我もない)を念じるなかでの直感でした。

(太古から創造神として、無量光として敬慕されてきた存在によって)せっかく存在させて頂いている本来の我の尊さ。それに相応しくすべてから解放されて真善美に生きるのだ、との溢れるような歓びと勇気。

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武田 康弘

わたしには、実感のない考えはないのです。それは、わたしの生き方です(fbの種々の記事や写真でもお分かりと思いますが)。

「禅」とは無縁で、わたしの日々の生活と仕事(こどもたちとの種々の学び・種々の遊び)からの心身全体での会得です。

ずっと会社や組織とは無縁で、裸の個人として生きてきましたから。

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Taechang Kim(金泰昌)

正に だからこそ

武田さんが 私に

大事な 友人じゃ

ありませんか?

国境を 越え 民族を 越えた 友情が可能だったのも

そうゆう 武田流の 生き方 が あったからだと

思います。
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武田 康弘

Taechang Kimさん

近くても遠い。
寒々しくなるほどに遠いことも多いです。
互いに自分の損得で生きれば、相手は利用可能性でしかなく、
あるいはまた、「主義」により裁断する固い想念をもてば、無視か攻撃対象でしかなくなります。
心は、地理的に離れていても、おかれた境遇が離れていても、年齢が離れていても、【真心】があれば、つながり、よろこびや感動がえられます。

意見が違えば排除し、
社会的地位・立場上の上位者は、自分の枠内に相手がいないと切ります。冷たくあるいは慇懃無礼に。
周りには、そういう人が多いのに、異邦人の金さんは違いました。
とても人間的です。よろこびです。ありがとうを何度でも。
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Taechang Kim

100% 共感、いや 同感です。
本音と 本心と で共に哲学する友人=恋知のともでしたから。
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武田 康弘

Taechang Kimさんは、

日本での活躍だけでも、
東大出版会のシリーズ「公共哲学」20巻をはじめ、数多く本を世に出し(各シリーズでは最高責任者)、
人事院からの依頼で、課長級と初任者級双方の公務員研修を何年間も続けていたのですから、
一流ではなく、超一流もいいとところです。

一流病・一流教を越えています。

もともとの人間の資質が、そういうものに拘るほどちっぽけではないので、お付き合いしていて、爽やかで気持ちがよく、たのしかったです。
なぜか、そういう日本人は皆無に等しいのです。みな知識・履歴・財産の【所有】に価値を置き、【存在】の魅力に乏しいのです。
自由闊達や溌剌さがなく、ツマラナイ。


(写真は、昨年4月。白樺教育館で)
現在、Taechang Kim(金泰昌)さんは83才、わたしは68才




哲学の民主化のためにー『ともに公共哲学する』(含・「金・武田の哲学往復書簡」)東大出版会刊
2010-07-09 | 書評
もし、哲学する(白紙の目で、日々の経験を踏まえ、自分の頭で考える)ことが、
西洋哲学の書物の読解か、あるいは中国やインドの古典を読むことであるならば、ほとんど全ての人にとって「哲学する」というのは、縁のない話です。

しかし、ほんらいの哲学するという営みは、幼い子ほどよくしていることで、「なぜ?」「どうして?」と問い、考えることです。生き生きとした知的興味の世界です。初源に戻り自分の頭で考える営みは、ただ覚える勉強とは次元を異にし、とても楽しいものです。本当は、どのような勉強や研究でも、一番大事なのは「考えること」にあるはずで、そうでなければ「覚える」ことは宙に浮いてしまい、「知」は根付く場所を失ってしまうのです。

したがって、哲学を「哲学史 内 哲学」というマニアックな世界から解き放ち、皆にとって有益で面白いものにすることは、21世紀の世界にとって極めて重要な課題であるはずです。


わたしは、シリーズ『公共哲学』全20巻(東大出版会)の最高責任者であり、日本・韓国・中国における公共哲学運動の牽引者である金泰昌(キム・テチャン)氏と、【哲学の民主化】のために、2007年に『哲学往復書簡』を36回交わしましたが、そのうちの30回分が、このたび東京大学出版会から刊行されました。

その本の題名は、『ともに公共哲学する』です。一般への販売は、8月1日からとなるようです。全体で400ページの大著ですが、そのうちの四分の一を金・武田の『哲学往復書簡』が占め、この本のメインとなっています。
他には、新聞ジャーナリスト、NPO主宰者らとの対話、人事院公務員研修所での金氏の講演と対話、国会所属の官僚・荒井達夫さんの問題提起と金氏の応答など、多彩な内容です。
大著で、装丁・紙質ともに上等なため、定価は3800円(税込で3990円)と高いのが困りものですが、8月以降に図書館でぜひお読みください。後からの加筆・訂正のない『オリジナルの金・武田の往復書書簡』については、すでに白樺教育館のホームページで公開されています。 その1(はじめに、1~23)   その2(24-34)なお、最後の33と34の2回分は、未発表のものです。

蛇足ですが、わたしは、【哲学の民主化】のためには、『金・武田の往復書簡』の部分をブックレットにし、千円未満で出すべきだと考えています。なお、わたしは、「出来るだけ安く」に協力し、原稿料も印税も頂いていません。


『ともに公共哲学する』 金 泰昌(キム・テチャン)編著  東京大学出版会刊 定価3800円+税  2010年8月1日初版

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コメント

公共のために俗物的な学の権威を放棄した (荒井達夫)
2010-07-10 00:54:59

この本は本当に素晴らしいと思います。学の世界を越えて対話・討論し、異論・反論をそのまま掲載する。しかも、それを権威ある学術書として公刊するというのは、見たことがありません。日本の歴史上はじめてではないでしょうか。言論表現の自由も理解できない日本人公共哲学者には、到底できないことです。偉業というべきでしょう。公共のために俗物的な学の権威を放棄して実現した学術書であると言えるかもしれません。公共とは学者の頭の中にあるのではなく、普通の市民の頭の中にあるのです。金泰昌さんの常識外のご努力とご功績に深く敬意を表します。

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わたしも読みました (森田明彦)
2010-08-14 15:24:48

武田さま&荒井さま

森田明彦@子どもの権利活動家です。
ご無沙汰しておりますが、引き続き元気にご活躍のようでなによりです。

私は日本社会に「権利主体としての自己」という人間観を如何に定着させるか、ということをずっと考え実践してきた人間なのですが、その観点から武田さんがどのような「私」観を持っているのか、ぜひ、お聞きしたいと思いました。

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「私」の本質論 (タケセン=武田康弘)
2010-08-15 10:17:47

森田さん、コメント感謝。

わたしは、日々の具体的経験(純粋意識)を根付かせる場所が「私」(自我)だと捉えています。
「権利主体としての自己」の確立には、「責任を持つ私」を絶対要件とします。
では、【責任】はいかに自覚されるのかと言えば、幼いころからの【自由】の行使です。「私」が自由に考え自由に行為することがないと(親や教師の言うなりではなく)、責任といういう意識は生じません。「自由と責任」とはセットですが、それは並列にあるのではなく、まずはじめに「自由な言動」の行使がないと「責任をもつ」という意識・態度は生まれようがありません。
こども(人間)を「責任をもつ私」へと成長させるためには、受験知は何の役にも立ちません。こども(人間)が「権利を行使する」という経験を積むことが、社会人・公共人 イコール 「責任をもつ私」をつくる唯一の方法です。

以上、わたしの簡潔なお応えですが、
森田さんはどのようにお考えでしょうか?

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日本の「私」 (森田明彦)
2010-08-24 08:28:47 ]

お返事が遅くなり失礼しました。
明快な回答をいただき、ありがとうございます。
子ども達を育てる方針としては、まったく異存はありあせん。

しかし、問題は階層的意識を個人の心の深層まで貫徹しようとする、この社会の伝統的な社会意識・社会構造にあるように思います。
しかも、私の見るところ、この社会意識は社会を安全で機能的に運営する上では意外に有効です。
だからこそ、多くの日本人は「言挙げ」することを嫌い、自己主張の強い人間を排除しようとするのだと思います。
そこを超える、日本的自己の構想が必要ではないか、と私には思えます。
ちなみに、社会意識・社会構造とは、私の場合は、その社会の構成員の多くが無意識ないし意識的に持っている「社会とはこういうものだ」という共通理解のようなもので、その社会を成り立たせている「この社会のあり方は正しいのだ」という正統性の感覚を伴ったものです。
社会像と言ってもよいと思います。
社会像はそれぞれの特有の人間観を伴っていると思います。
日本の社会像とか人間観は本来の国民主権、民主主義が想定する社会像、人間観ではないと私は思っています。
しかし、日本人はたいへん器用に、この社会像、人間観を根本的に変えることなく、近代化に成功し、戦後の経済復興に成功し、そして1990年代に入って、とうとう原理的に行き詰ってしまったということなのではないか、と思っています。
要するに、共産主義体制が最終的に崩壊したように、日本の社会を支えてきた原理もとうとう機能不全を起こしたのではないか、ということです。
そして、私の問題意識は、そういう日本社会が武田さんの目指される「ほんとうの民主主義社会」に脱皮するために必要とされている社会像、人間観の変容はどうしたら可能で、そもそも、そのような社会像、人間観はどのようなものなのだろうか?ということなのです。

武田さんはどうお考えになりますか?

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全身で対話する習慣を。 (タケセン=武田康弘)
2010-08-26 00:12:48

森田さん

わたしは、身振り言語を大いに含めての対話を意識的に行う努力が何よりも大切だと思い、長年実践してきました。その行為がいろいろな分野に波及して、成果をあげてきたわけです。

裸で本音で語り合う習慣、その面白さを体験できる場を身近なところにつくることが必要で、それが広がると、日本人の旧い人間観や社会観は自ずと変わっていくはずです。

その営みを、日本の風土・文化の中で行うことで「日本的自己」は、結果として生まれるのでしょう。日本的、は、目がけるものではない、というより目がけてはいけないと思っています。予めそれを意識すると矮小な世界に陥るからです。

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心とアタマで対話する習慣 (森田明彦)
2010-08-27 15:06:37

武田さま

森田明彦です。
実践論とはしては、私もまったく同感です。

ただ、日本人がどのような社会を目指し、どのような人間を育てたいと考えているのかは、やはり世界に通用する言葉で伝える必要があると思います。
そして、その際には当然、自分達がどのような歴史認識を持っているかもはっきりさせる必要があると思うのです。
もちろん、その歴史観は日本社会だけで通用する一国史観であってはならないと思います。

要するに、もし日本人が人間の基本的平等を信じ、主権者としての自覚を持つ権利の主体としての自己(市民)となっていくのであれば、それは過去の反省と新しい社会原理の(公共的な)承認を伴う歴史観を必要とすると思うわけです。

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セットの廃棄が基本条件 (タケセン)
2010-08-27 22:17:54

わたしは、先に記した「実践論」こそが基底的であり、かつ価値として上位にあるという明晰な認識をもたないと、理論は古い型から出られず、結局は「理論信仰」に陥る悲喜劇しか招かないと確信しています。おそらく森田さんと考えは近いとだろうと思います。

また、日本人は、キリスト教という強い一神教を持たないために、かえって社会契約論に基づく民主主義をより徹底して行える可能性をもつと見ています。ただし、その可能性を現実にもたらすには、明治政府がつくった国体思想(近代天皇制)を根元から断ち切る知的作業が必要ですし、同時に、民主的倫理の実践が不可欠のはずです。わたしが「靖国思想―近代天皇制・官僚主義―東大病」はセットであることを強調するのは、民主主義の現実化のためには、そのセットを廃棄することが絶対条だと考えるからです。アジアの国や世界の国と共有できる歴史認識をつくるためにもそれは不可避の作業のはず。



コメント (7)



Taechang Kim(김태창)씨와의 코멘트 대화(fb) 「우등생」(동대병·교=일류병·교)의 치명적인 결함.
2020-11-25  |  교육
11월 20일의 fb

옛날의 혁신의 흐름을 끄는 사람은,
사람을 칭찬·사람을 기른다 는 가장 중요한 것이 서투르고,
자신의 「정확함」의 주장만.
비판하는 것은 특기이지만, 낳을 수 없다.
치명적인 결함 이지만, 「우등생」 은 보인다.
교육과 문화를 바꾸지 않으면.

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김태창 (金泰昌)

정말 그렇다고 한국에서는 일류 병이라고합니다.

일등만이 기억되는 세상 모순이 초래한 사회악이라고도 볼 수 있습니다.

변태적인 의식 상황이기도 합니다.

일류병, 일류교의 큰 폐해입니다.

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다케다 야스히로

Taechang Kim(김태창)씨

학자가 다스리는, 정치인이 다스리는, 경영자가 다스리는,

그래서 서민은 순종하는 존재. 일류로 여겨지는 사람이 위대하다.

모두 유가독존으로 태어났다는 근본사상을 이해할 수 없는 '엘리트교' 신자는 말세를 만들어내는 것이 자신의 상념과 행위임을 깨닫지 못한다. 바닥 모르는 어리석음이다.

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이송방안

다케다 야스히로 씨

천상 천하 유가 독존을 다케다 씨는 정말로 아타마만으로 득점할 수 있었을까요?

제 경우에는 선문의 가르침 , 제법 무아(일체는 인연의 결과이며 이 나도 없다)를 염두에 둔 직감이었습니다.

(태고부터 창조신으로서, 무량광으로서 경모되어 온 존재에 의해) 모처럼 존재시켜 받고 있는 본래의 우리의 존중. 거기에 어울리게 모두로부터 해방되어 진선미에 사는 것이다, 라는 넘치는 기쁨과 용기.

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다케다 야스히로

저에게는 실감 없는 생각은 없습니다. 그것은 나의 삶의 방법입니다 (fb의 다양한 기사와 사진에서도 알고 생각합니다만).

「선」이란 무연하고 , 나의 나날의 생활과 일 (어린이들과의 여러가지 배움·여러 가지 놀이)로부터의 심신 전체로의 회득입니다 .

계속 회사나 조직과는 무연하고, 알몸의 개인 으로서 살아 왔기 때문에.

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김태창 (金泰昌)

바로 그렇기 때문에

다케다 씨가 나에게

소중한 친구

없습니까?

국경을 넘어 민족을 넘은 우정이 가능했던 것도

그렇다면 다케다 류의 삶의 방식이 있었기 때문에

생각합니다.
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다케다 야스히로

Taechang Kim씨

가까워도 멀다.
추워질 정도로 먼 일도 많습니다.
서로 자신의 손익으로 살면, 상대는 이용가능성 밖에 없고, 혹은
또, 「주의」에 의해 재단하는 굳은 상념을 가지고 있으면, 무시하거나 공격 대상으로 밖에 없어집니다.
마음은, 지리적으로 멀어져 있어도, 놓친 처지가 멀어져 있어도, 나이가 멀어져 있어도, 【진심】이 있으면, 연결해, 요로코비나 감동을 할 수 있습니다 .

의견이 다르면 배제하고,
사회적 지위·입장상의 상위자는, 자신의 틀 내에 상대가 없으면 끊습니다. 차갑거나 혹은 무례하게.
주위에는 그런 사람이 많은데 이방인 김씨는 달랐습니다.
매우 인간적입니다. 괜찮습니다. 감사합니다 여러 번.
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김태창

100% 공감, 아니 동감입니다.
본심과 본심과 함께 철학하는 친구=연지와 함께했기 때문입니다.
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다케다 야스히로

Taechang Kim 씨는

일본에서의 활약만으로도, 동대 출판회의
시리즈 「공공 철학」20권을 비롯해, 수많은 책을 세상에 내놓고(각 시리즈에서는 최고 책임자), 인사원으로부터의 의뢰로, 과장급과 초임자급 양쪽
의 공무원 연수를 수년간 계속하고 있었기 때문에,
일류가 아니고, 초일류도 좋다고 곳입니다.

일류병·일류교를 넘고 있습니다.

원래 인간의 자질이 그런 것에 얽매이지 않을 정도로 붐비지 않기 때문에 교제하고 상쾌하고 기분이 좋고 즐거웠습니다.
왠지 그런 일본인은 전무와 같습니다. 모두 지식·이력·재산의 【소유】에 가치를 두고, 【존재】의 매력이 부족합니다.
자유 闊達이나 발랄함이 없고, 투마라나이.


(사진은, 작년 4월. 자작나무 교육관에서)
  현재, Taechang Kim(김태창)씨는 83세, 나는 68세


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철학의 민주화를 위해-『모두 공공 철학한다』(함・「김・다케다의 철학 왕복 서간」) 동대출판회간
2010-07-09  |  서평
철학 (백지의 눈으로, 매일의 경험을 바탕으로 자신의 머리로 생각)이 서양 철학의 책을 읽거나 중국이나 인도의 고전을 읽는다면 거의 모든 것 사람에게 '철학한다'는 것은 인연이 없는 이야기입니다.

하지만 철학을 한다는 뜻은 어린아이만큼 잘 하고 있는 것으로, 
"왜?" "어째서?"라고 묻고 생각하는 것입니다. 

생생한 지적 관심의 세계입니다. 초원으로 돌아가 자신의 머리로 생각하는 영업은, 단지 기억하는 공부와는 차원을 다르게, 매우 즐거운 것입니다. 사실은, 어떤 공부나 연구에서도, 가장 중요한 것은 「생각하는 것」에 있을 것이며, 그렇지 않으면 「기억하는」것은 공중에 떠 버려, 「지식」은 뿌리 내리는 장소를 잃어 버리는 것입니다 .

따라서 철학을 철학사 내 철학이라는 매니악한 세계에서 벗어나 모두에게 유익하고 재미있게 만드는 것은 21세기 세계에 있어서 매우 중요한 과제일 것입니다.


나는 시리즈 「공공 철학」전 20권(동대출판회)의 최고 책임자이며, 일본・한국・중국에서의 공공 철학 운동의 견인자인 김태창씨와,[철학의 민주화]를 위해, 2007년에 「철학 왕복 서간」을 36회 나누었습니다만, 그 중의 30회분이, 이번에 도쿄 대학 출판회로부터 간행되었습니다.

그 책의 제목은 "모두 공공 철학한다"입니다. 일반에의 판매는, 8월 1일부터가 되는 것 같습니다. 전체로 400 페이지의 대저입니다만, 그 중의 4분의 1을 김·다케다의 「철학 왕복 서간」이 차지해, 이 책의 메인이 되고 있습니다.

그 밖에는 신문 저널리스트, NPO 주재자들과의 대화, 인사원 공무원 연수소에서의 김씨의 강연과 대화, 국회 소속의 관료 아라이 타츠오씨의 문제제기와 김씨의 응답 등 다채로운 내용 입니다.

대저로, 장정・지질 모두 상등하기 때문에, 정가는 3800엔(부가세 포함으로 3990엔)으로 높은 것이 곤란합니다만, 8월 이후에 도서관에서 꼭 읽어 주세요. 나중에 가필·정정이 없는 “오리지날의 금·다케다의 왕복 서서”에 대해서는, 이미 자작나무 교육관의 홈페이지에서 공개되고 있습니다. 그 1(초기, 1~23)    그 2(24-34) 또한, 마지막 33과 34의 2회분은, 미발표의 것입니다.

뱀족이지만, 나는, [철학의 민주화]를 위해서는, 「금·다케다의 왕복 서간」의 부분을 소책자로 하고, 천엔 미만으로 내야 한다고 생각하고 있습니다. 덧붙여 나는, 「가능한 한 싸게」에 협력해, 원고료도 인세도 받고 있지 않습니다.


『모두 공공철학한다』 김태창 편저 도쿄대학 출판회간 정가 3800엔+세 2010년 8월 1일

초판 ------------------------

코멘트

공공을 위해서 속물적인 학의 권위를 포기했다 (아라이 타츠오)
2010-07-10 00:54 :59

이 책은 정말 훌륭하다고 생각합니다. 학의 세계를 넘어 대화·토론하고, 이론·반론을 그대로 게재한다. 게다가 그것을 권위있는 학술서로 공간한다는 것은 본 적이 없습니다. 일본의 역사상 처음이 아닐까요. 언론 표현의 자유도 이해할 수 없는 일본인 공공 철학자에게는, 도저히 할 수 없는 것입니다. 위업이라고 해야 할 것입니다. 공공을 위해 속물적인 학의 권위를 포기하고 실현한 학술서라고 할 수 있을지도 모릅니다. 공공이란 학자의 머리 속에 있는 것이 아니라 보통 시민의 머리 속에 있는 것입니다. 김태창씨의 상식외의 노력과 공적에 깊이 경의를 표합니다.

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나도 읽었습니다 (모리타 아키히코)
2010-08-14 15:24:48

다케다님 & 아라이님

모리타 아키히코@아이의 권리 활동가입니다.
무사히 하고 있습니다만, 계속 건강하게 활약과 같이 무엇보다입니다.

나는 일본 사회에 「권리 주체로서의 자기」라고 하는 인간관을 어떻게 정착시킬 것인가, 라고 하는 것을 쭉 생각해 실천해 온 인간입니다만, 그 관점에서 타케다씨가 어떠한 「나」관을 가지고 하고 있는지, 꼭, 듣고 싶습니다.

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"나"의 본질론 (타케센= 다케다 야스히로)
2010-08-15 10:17:47

모리타씨, 코멘트 감사.

저는 매일의 구체적인 경험(순수의식)을 뿌리내리는 장소가 '나'(자아)라고 파악하고 있습니다.
“권리 주체로서의 자기”의 확립에는 “책임을 가진 나”를 절대 요건으로 합니다.
그렇다면 【책임】은 어떻게 자각되는가 하면, 어릴 때부터 【자유】의 행사입니다. 「나」가 자유롭게 생각 자유롭게 행위하지 않는다고(부모나 교사가 말하는 것이 아니라), 책임이라는 의식은 생기지 않습니다. 「자유와 책임」이란 세트입니다만, 그것은 병렬에 있는 것이 아니라, 우선 처음에 「자유로운 언동」의 행사가 없으면 「책임을 가진다」라고 하는 의식・태도는 태어날 수 없습니다.
어린이 (인간)를 "책임을 가진 나"로 성장시키기 위해서는 수험 지식은 아무런 도움이되지 않습니다. 어린이(인간)가 「권리를 행사한다」라는 경험을 쌓는 것이, 사회인・공공인 이콜 「책임을 가진 나」를 만드는 유일한 방법입니다.

이상, 저의 간결한 응답입니다만,
모리타씨는 어떻게 생각하십니까?

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일본의 "나"(모리타 아키히코)
2010- 08-24 08:28:47 ]

답장이 늦어져 실례했습니다.
명확한 답변을 주셔서 감사합니다.
아이들을 키우는 방침으로서는, 전혀 이존은 있을 수 없다.

그러나 문제는 계층적 의식을 개인의 마음의 심층까지 관철하려고 하는 이 사회의 전통적인 사회의식·사회구조에 있는 것처럼 생각합니다.
게다가, 제가 보면, 이 사회의식은 사회를 안전하고 기능적으로 운영하는 데 있어서 의외로 유효합니다.
그렇기 때문에 많은 일본인들은 '말씀'을 싫어하며 자기주장이 강한 인간을 배제하려고 한다고 생각합니다.
거기를 넘는 일본적 자기의 구상이 필요하지 않을까, 나에게는 생각됩니다.
덧붙여서, 사회 의식·사회 구조란, 나의 경우는, 그 사회의 구성원의 대부분이 무의식 내지 의식적으로 가지고 있는 「사회와는 이런 것이다」라고 하는 공통 이해와 같은 것으로, 그 사회 을 이루게 하고 있는 「이 사회의 본연은 맞다」라고 하는 정통성의 감각을 수반한 것입니다.
사회상이라고 해도 좋다고 생각합니다.
사회상은 각각의 특유의 인간관을 수반하고 있다고 생각합니다.
일본의 사회상이나 인간관은 본래의 국민주권, 민주주의가 상정하는 사회상, 인간관이 아니라고 나는 생각하고 있습니다.
그러나 일본인은 매우 손쉽게 이 사회상, 인간관을 근본적으로 바꾸지 않고, 근대화에 성공하고, 전후의 경제 부흥에 성공하고, 1990년대에 들어가, 마침내 원리적으로 막혀 버렸다는 것이 아닌가, 라고 생각하고 있습니다.
요컨대, 공산주의 체제가 최종적으로 붕괴한 것처럼, 일본의 사회를 지지해 온 원리도 겨우 기능부전을 일으킨 것은 아닐까, 하는 것입니다.
그리고, 제 문제 의식은, 그러한 일본 사회가 다케다씨가 목표로 하는 「정말의 민주주의 사회」에 탈피하기 위해서 필요한 사회상, 인간관의 변용은 어떻게 하면 가능하고, 원래, 그 그런 사회상, 인간관은 어떠한 것일까? 라는 것입니다.

다케다 씨는 어떻게 생각하십니까?

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온몸으로 대화하기 습관을. (타케센=다케다 야스히로)
2010-08-26 00:12:48

모리타씨

저는, 몸짓 언어를 많이 포함한 대화를 의식적으로 실시하는 노력이 무엇보다 중요하다고 생각해, 오랫동안 실천해 왔습니다. 그 행위가 여러 분야에 파급되어 성과를 올려 온 것입니다.

알몸으로 진심으로 말하는 습관, 그 재미를 체험할 수 있는 장소를 친밀한 곳에 만드는 것이 필요하고, 그것이 퍼지면, 일본인의 옛 인간관이나 사회관은 스스로 바뀌어 갈 것입니다.

그 영업을, 일본의 풍토·문화 속에서 실시하는 것으로 「일본적 자기」는, 결과적으로 태어날 것입니다. 일본적으로는 눈에 띄는 것이 아니라는 것보다 눈에 띄지 말아야 한다고 생각합니다. 미리 그것을 의식하면 왜소한 세계에 빠지기 때문입니다.

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(마리타 아키히코)

2010-08-27
15:06:37

다케다 님
실천론이란, 나도 전혀 동감입니다.

다만, 일본인이 어떤 사회를 목표로 하고, 어떤 인간을 키우고 싶다고 생각하고 있는지는, 역시 세계에 통용하는 말로 전할 필요가 있다고 생각합니다.
그리고 그 때에는 당연히, 자신들이 어떤 역사인식을 가지고 있을지도 분명히 시킬 필요가 있다고 생각합니다.
물론, 그 역사관은 일본 사회만으로 통용하는 일국사관이어서는 안 된다고 생각합니다.

요컨대, 일본인이 인간의 기본적 평등을 믿고, 주권자로서의 자각을 가지는 권리의 주체로서의 자기(시민)가 되어 가는 것이라면, 그것은 과거의 반성과 새로운 사회 원리의(공공적 나) 승인을 수반하는 역사관이 필요하다고 생각하는 것입니다. 
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 세트의 폐기가

기본 조건 (타케센)
2010-08-27 22:17:54

"실천론"이야말로 기저적이고 가치로서 상위에 있다는 명백한 인식을 가지지 않으면 이론은 낡은 형태에서 나오지 못하고 결국은 "이론 신앙"에 빠지는 비희극 밖에 초대하지 않을 것이라고 확신한다. 있습니다. 아마 모리타 씨와 생각은 가깝다고 생각합니다.

또한 일본인은 기독교라는 강한 일신교를 갖지 않기 때문에 오히려 사회계약론에 근거한 민주주의를 보다 철저히 할 수 있는 가능성을 가진다고 보고 있습니다. 다만, 그 가능성을 현실로 가져오기 위해서는, 메이지 정부가 만든 국체사상(근대천황제)을 근원으로부터 차단하는 지적 작업이 필요하고, 동시에, 민주적 윤리의 실천이 불가결할 것입니다. 내가 「야스쿠니 사상―근대 천황제・관료주의―동대병」은 세트인 것을 강조하는 것은, 민주주의의 현실화를 위해서는, 그 세트를 폐기하는 것이 절대조라고 생각하기 때문에 입니다. 아시아의 나라나 세계의 나라와 공유할 수 있는 역사 인식을 만들기 위해서도 그것은 불가피의 작업이어야 한다.


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