2023-04-20

天正遣欧使節の史料学 伊川 健二(早稲田大学、日本)

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天正遣欧使節の史料学  伊川 健二(早稲田大学、日本)

はじめに/ Introduction

 最初に、日本側のご参加者の方は、天正遣欧使節についてご存じの方も多いと思いますが、必ずしも詳細までは共通認識になってない場合もあると思いますので、基礎的なところからお話をしたいと思います。タイトルは、「天正遣欧使節の史料学 /Classification of Historical Sources about the First Japanese Mission to Rome」ということにしています。まずですね、天正遣欧使節の概略について、かなり基礎的なところも含めてお話をしたいと思います。適宜英語を交えてお話するところとしないところがあるかと思います。
 最初はその天正遣欧使節、つまり横文字だと、特にスペイン語圏では、「La Embajada Tenshō」でしたでしょうか。そういう表現も出てきているようですけれども、「the First Japanese Mission to Rome」みたいな言い方を、一般的にはするだろうというふうに思います。その天正遣欧使節についてです。
 ルートは、世界地図的な規模でいうと、日本を出発して、マカオ、ゴア(パナジ)等を通って、とはいえ、インドにおける港としては、行きはコーチン(コチ)を使うのですけども、ポルトガルはリスボンからヨーロッパに入って、スペインを通って、アリカンテを出港し、イタリアはリヴォルノから入ってローマに行きます。ローマではもちろん、2 人の教皇、グレゴリオ 13 世およびシスト 5 世と謁見を果たすわけですが、旅が長くなるのは、むしろその後です。教皇に謁見したということで、各地から招待が来て、ボローニャ、ヴェネツィア、ミラノ、ジェノヴァなどを通って、スペインに戻って、そこからポルトガル。さらには、ほぼ同じルートを通って長崎に戻るというのが彼らの行程ということになります。
 で、次は期間とメンバーについてですが、期間は 1582 年 2 月 20 日出発、1590 年 7 月 18 日帰国のいずれも長崎発着です。メンバーは伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの著名な 4 名に加え、企画したのは、イエズス会士のアレッサンドロ・ヴァリニャーノであることは、ご存じの方も多いのではないかと思います。
 彼らの旅のイメージとしては、たとえば、昭和になってからの絵画ですけれども、個人的になかなか好きでして、著書なんかに使わせていただいていますけども、寺崎武男が連作「キリシタン文化史的絵画ー天正少年使節伝」(昭和 31 年完成)のなかで、「法王との謁見」という絵画を描き、グレゴリオ 13 世との謁見のようすを彷彿とさせたものがあります。
 ということでこれだけお話をしても、史料学に結びつけることの意義が、必ずしも了解されにくいのではないかと思います。天正遣欧使節そのものに一種の挿話的な話題という印象が強く、「どれだけの情報量があるの?」と、研究されている方にとってはもちろん自明なのですけれども、それ以外の方に関しては、ちょっと学術的な研究対象としてのイメージが湧きにくいところがあるのではないでしょうか。
 ところが、後でお話しするとおり、関係史料の種類の多さ、それぞれの量の多さというのは、実は目を見張るものがありまして、まず、この点をできるだけ共通認識にして、本格的に資料を収集していくための基盤を整えたいというふうに思っています。(Variety and  quantity of historical sources about their journey are huge. And many examples have been confirmed in various countries. This paper will share concrete picture of this point. 
Therefore I would like to establish a framework of international cooperation. This is the intention of my paper.)。
 ですので、まずは、いかにいろんな種類があるか。何というか、東京大学史料編纂所がまとめた、『大日本史料』という非常に厚い史料集があって⑴、その 2 冊分がメジャーな情報としては共有されているわけですが、決してそれにとどまらない情報量があるということが、どんどん分かってきています。その枠にとらわれない、史料収集が実は必要で、既知の各史料がどういう性格を持っているかと傾向をつかむことによって、未紹介の、さらなる情報にたどり着きやすくなるのではないかということで、まだこの点は研究史上、必ずしも十分には共有されていないことだと思いますけれども、天正遣欧使節関係の史料をあえて分類してみる試みでございます。

1、 関係史料の多様性(1)芸術作品/ 
Variety of Historical Sources (1) Fine & Performing Arts

1-1 肖像画/ Portraits

 まず「肖像画/ Portraits」ということで、つまり、いわゆる芸術というか、絵画が中心ですけれども、絵画
にとどまらない情報なども残っていますので、初めに、そのあたりを概観してみたいと思います。
 最近絵画に関しては新発見が続出していますが、それでも『ウルバーノ・モンテ年代記 / the chronicle of Urbano Monte』⑵の存在は大きいのではないだろうかと思います。ウルバーノ・モンテはミラノの地理学者で貴族ですが、その記事の位置付けは難しい。松田毅一さんは、「(天正遣欧)使節たちに実際に逢った」とお書きになっていますが⑶、どうも詳しく読んでいくと、そんなことはないだろうと思われます。この年代記には
「ナポリに行った」と書いているのですね。彼らが会ったとしたらその場所はミラノであるはずですけれども、ミラノ滞在時点ではナポリ行きはすでに中止になっています。直接会ったのであれば、そうした記事があるわけがありません。会ってはいないと思います。絵だけではなくて、彼らもしくは当時の日本に関する詳細な記録を留めていますが、記事の詳細についてはここでは省略します。(Urbano Monte is a geographer in Milan. 
And Prof. MATSUDA Kiichi mentioned possibility he had seen the mission directly. But I do not think so for some 
reason.)。
 ただ、この本の価値については、その後絵画について幾多の発見がありながら、見過ごせないのは伊東マンショだけではなくて、それ以外の 3 名と、引率したイエズス会士ディエゴ・デ・メスキータの 5 人の絵画を含んでいることを指摘するべきだろうと思います。最近発見された絵画の中には、伊東マンショ、もしく、メスキータを含めた事例がありますけれども、5 人全員を含んだものというものは、肉筆のものとしてはこれだけであろうと思います。もう一つ有名なのは京都大学が持っている、新聞の印刷されたものがありますが、それとこちらが、どちらが先かは、にわかには分かりません。明らかに類似している絵であるということは言えますが、肉筆画としては、これが唯一だろうと思います。
 もう一つは、数年、10 年ぐらい前でしょうか。やはり発見が世上をにぎわせた伊東マンショ像があります。これは、彼らと会ったローマ教皇、グレゴリオ 13 世の家系といわれている、ボンコンパーニ(Boncompagni)家から見つかった像⑷で、現在は長崎歴史文化博物館に所蔵されている、長崎県が買い取ったということになるようです。これは、伊東マンショだけではなくてディエゴ・デ・メスキータと 2 人の肖像を含んでいます。このようなものが教皇の家系の家から発見されたということは、ご存じの方も多いと思いますけれども、一時期、世上をにぎわした情報としてございます。
 さらに、これまた最近ですね。3、4 年ぐらい前でしょうか。トリヴルツィオ財団(Fondazione Trivulzio)のコレクションの中から発見された伊東マンショ像がございます。X 線の調査の結果、このひだ襟が、当初の絵に比べて、現状ではずいぶん派手に描かれているということが明らかにされました⑸。後年描き改められた、
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⑴ 東京大学史料編纂所編『大日本史料/ Dai Nippon Shiryo』第 11 編別巻之 1-2/ Part XI, Suppliment I-II(東京大学、1959-
1961 年)
該当部分は、同年代記の 1585 年 7 月 25 日条である。稿本(Manuscript)は Biblioteca Ambrosiana, Ms. P.251.sup, Urbano Terzo di Tal nome In detta Fameglia De’Monti,vol.4, ff.64-91v. 写真 (Reproduction) は、Camera di Commercio, Anno 1585, Milano vista dei giapponesi (Milano: Camera di Comercio, 1990)、全文テキストおよび邦訳 (text and Japanese translation) は伊川「『ウルバーノ・モンテ年代記』にみる天正遣欧使節と織豊期の日本(一~二)/The first Japanese mission to Rome and images of sixteenth century Japan as presented in the chronicle of Urbano Monte(1-2)」(『東京大学日本史学研究室紀要 / Bulletin of the 
Department of Japanese History Faculty of Letters The University of Tokyo』13-14、2009-2010 年)を参照。
松田毅一『天正遣欧使節』(講談社学術文庫、1999 年)p.292
⑷ 長崎歴史文化博物館編集・発行『ローマを夢みた美少年 天正遣欧使節と天草四郎展』(2006 年)p.24
もともとはそれほど大きくないひだ襟が描かれていたのが描きかえられたというようなこともいわれています。同時代もしくはそれに近い頃に描かれたと思われる絵としては、現段階ではそれぐらいでしょうか。ただ場合によっては、もう少し発見があるのではないかというような風説もなきにしもあらずです。
 あとはですね、先ほどの寺崎武男という、明治の頃にヴェネツィアに渡った日本の画家がいます⑹。先ほど言及した「法王との謁見」は、青山学院が現在所蔵してる一連の連作なのですけれども、その中の教皇謁見の絵は象徴的です。この同じ寺崎武男が、ヴェネツィア滞在中の明治 43 年(1910)に、その近くのヴィチェンツァにその関係の絵があるという情報を入手し、書き留めた絵が東京芸術大学に「イタリア・ヴェチェンツァ市オリムピア劇場壁画日本使節」として保存されています。
 絵画としては最後の例になりますが、このシンポジウムのチラシにも使用させていただいた絵画があります。有名な近代日本画家である前田青邨による「羅馬使節」と題された作品で、本学内に會津八一記念博物館という博物館がございまして、そこの所蔵です⑺。年代は 1927 年ですので、古いものではありませんし、写実を意図したものでもありません。何だろう、街も多分、フィレンツェのパラッツォ・ヴェッキオみたいな建物も描かれています。特定のどこかのリアルな街を描こうとしたわけではなくて、イタリアのイメージを重ね合わせて、そこに騎馬に乗った、おそらくは伊東マンショなのでしょうか、イメージの中の彼らを 20 世紀になってから思い描いた絵画ということになります。チラシにはクリーム色を使いたいと思っていましたので、それに青はヒットするかなというところもありまして使用させていただきました。

1-2 地図/ Maps

 芸術とは違うかもしれませんけれども、地図をここに分類しました。フィレンツェの国立公文書館(Archivio di Stato di Firenze, Miscellanea Medicea 97-91)に保存されているものです。天正遣欧使節とメディチ家の接触によりもたらされたと考えられ、日本で描かれたものがフィレンツェに持ち込まれた可能性と、彼らの知識を前提にフィレンツェで描かれた可能性が想定されますが、どうもその紙が、分析の結果によると、イタリアで作られた紙ということのようですので、イタリアで何らかの、彼が持って来た地図を写したのではなかろうかという推定がされているようです。北が下、南が上に描かれています。いわゆる行基図と言われる地図の形の影響があると言われています。(About this map, a certain scholar discusses that it was copied in Italy, because the 
paper was made in Italy. But the style is based on old Japanese map. Therefore the mission brought this kind of map to Florence, and someone copied it.)。
1-3 石碑/ Stone Inscription
 これも芸術とは違うかもしれませんけれども、文献資料ともちょっと違うのでここに入れました。石碑ですね。ヴェネツィアのサンタ・マリア・デッラ・サルーテ(S. Maria della Salute)教会に併設されるヴェネツィア総大司教神学校(Seminario Patriarcale di Venezia)の碑文が著名です⑻。「日本に帰ったらカリター校(現在のヴェネツィア総大司教神学校)のような学校をつくりたい」というようなことを述べていますが、そういう碑文なんかも、紙の媒体だけではなくて石碑にも残されている。あとはですね、このサン・ベネデット・ポーというところにある修道院にも記念碑があります。早い段階から知られていたんですけども、一時期、行方不明になっていたと思われていたものが再発見された経緯がある碑です⑼。ですので、以上二つの碑があるとい
────────────────────────────────────────────────────────── ⑸ 小佐野重利『《伊東マンショの肖像》の謎に迫る』(三元社、2017 年)pp.115-116
⑹ 寺崎武男については、館山市立博物館編集・発行『寺崎武男の世界』(2003 年)に詳しい。ヴィチェンツァの壁画は同図録 ⑺ 會津八一記念博物館所蔵となる以前の 1929 年に、前田青邨本人から早稲田大学図書館(現、會津八一記念博物館)への寄贈がなされた模様である。『早稲田学報』1240 (2020 年 ) p.35
p.15 参照。
⑻ 前掲『大日本史料』2、邦訳編 p.132 において「サンタ・マリヤ・デ・ラ・カリター校碑文 /Memorial Inscription of the Japanese Embassy at Scuola di Santa Maria della Carità in Venice」と名付けられたものである。この碑文情報が近代日本へもたらされた経緯については、伊川「近代における天正遣欧使節の再発見」(甚野尚志・河野貴美子・陣野英則編『近代人文学はいかに形成されたか ―学知・翻訳・蔵書』勉誠出版、2019 年)参照。
うことは、もしかしたら他の街にも碑があるかもしれないという目でもって調査することもできるのではないだろうかと思っています。

1-4 音楽/ Music

 もう一つは、やっぱり音楽ですね。ヴィラ・ヴィソーザというポルトガルの街で出されている雑誌の論文に、彼らがヴィラ・ヴィソーザを訪れたときに演奏された『グローリア・ラウス(Gloria Laus)』という曲の譜面が掲載されています⑽。もちろん当時の譜面ですから、この論文に書かれているようなスタイルで書かれていたわけではなくて、再構成されたものだろうと思いますけれども、音楽、彼らがローマに着いたときに『テ・デウム・ラダムス』という曲が奏でられたということも、『ウルバーノ・モンテ年代記』の中でもしばしば出てきますので、やはり音楽の歴史とも、密接に基づくトピックだろうと思います。こういうものの具体的な譜面が分かるような史料群については、ただ残念ながら、見つかっても僕には読めませんし、もう研究などもあるかとは思いますけれども、そのあたりも情報収集を、今後ともやっていきたいと思っています。

2、 関係史料の多様性(2)書籍および印刷物/ 
Variety of Historical Sources (2) Books & Printed Works

 文献については、はじめに「書籍および印刷物」と題しましたように、比較的情報としてとっつきやすいというか、親しみやすいところからいきたいと思っています。
2-1 旅行記/ Travel Records
 天正遣欧使節の行程に関しては、ほぼ全容が知られています。松田毅一さんの『天正遣欧使節』、若桑みどりさんの『クワトロ・ラガッツィ』等々、僕も書いたことがありますが、そういうものでごらんになった方もいらっしゃるんじゃないかと思います。全行程が一応分かるわけですね。なぜ分かるかというと、以下のようないくつかの旅行記があるからです。このほか、ルイス・デ・グスマン(Luis de Guzman)『東方伝道史 /Historia de las Missiones que han hecho los Religiosos dela Compañia de Iesus...』なんかも入れてもいいと思います。 グイド・グアルティエーリ/ Guido Gualtieri『日本遣欧使者記/ Relationi della Venuta degli Ambasciatori Giaponesi a Roma fino alla partita di Lisbona』の邦訳は、近代の医者であり文学者として著名な木下杢太郎(太田正雄)です。この頃の日本の南蛮ブームを牽引した人物の一人ということになるのですけれども、それにとどまらず、実は詳細に、『えすぱにや・ぽるつがる記』という、今でももしかした通用するのではないかという、詳細な文献調査記録を残しています。イタリア語版の復刻は、在ローマ日本大使館で確か出ていると思いますけれども、10 年以上前ですから、今も入手可能かどうかはちょっと分かりません。
 あるいはルイス・フロイス/ Luís Frois『九州三侯遣欧使節行記/ Tratado dos Embaixadores Japões que forão de Japão á Roma no anno de 1582』という記録も残っています。これは一時期、フロイス『日本史』との関係がなかなかつかみにくくて、その一部だろうと考えられていた時期もあるわけですけれども、現在は一応分けて考えようという方向になっています⑾。ただ、このあたりの関係はなかなか難しいので、それで決着がついたかどうかということはないのではないかと思います。ちなみに、邦訳本で『続九州三侯遣欧使節行記』というものがありますが、これはそういう原題を訳したものではなくて、フロイス『日本史』からピックアップしてきた情報の総体ですので、この文献の続編というものとは性格が異なる文献だということは、余談ですが補足をしたいと思います。原典は刊本になって同時期に出版されたということはなくて、現在はポルトガルの国立図書館に稿本が架蔵されている(Biblioteca Nacional de Portugal, COD.11098)ということになります。
 旅行記の最後としては、ドゥアルテ・デ・サンデ/ Duarte de Sande『デ・サンデ天正遣欧使節記/ De Mis-
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この碑文については、伊川『世界史のなかの天正遣欧使節』(吉川弘文館、2017 年)pp.133-134 参照。
Michael Ryan, "Musicians and Music in the Chapel of the Dukes of Braganca at the time of the visits by the Japanese princes in 
1584 and 1585" in Callipole 9 (2001), p.104
⑾ 『日本史』との関係については、伊川「フロイス史料研究事始」(『多元文化』8、2019 年)p.7 などを参照。

sione Legatorum Iaponensium ad Romanam curiam, rebusq; in Europa, actoto itinere animaduersis Dialogus』という、またしばしば『遣欧使節対話録』ともよばれる記録があります。ドゥアルテ・デ・サンデは著者ではなく、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが書いたスペイン語版をラテン語に訳した人物だといわれています。非常に大部なものですけれども、天正遣欧使節の旅行だけではなくて、ヨーロッパの知識体系に関する記述も多く含まれています。
 これらの旅行記からですね、一行の、長崎を出発しローマに行き、また長崎に帰るまでの全行程が分かるということだけ、簡単にここでは触れておきたいと思います⑿。

2-2 パンフレット/ Pamphlets

 パンフレットは、宣伝・啓蒙などを目的に出版された小冊子です。具体的には、『天正遣欧使節記/ Relatione del Viaggio, et Arrive in Europa, et Roma, de’ Prencipi Giapponesi』のようなものです⒀。東京国立博物館などが所蔵していますけれども、こういう印刷された、彼らの旅とヨーロッパやローマへの到着に関する記録が、冊子として、特に彼らのローマ到着の前後に集中的に出される。これに関しては、もうすでに包括的な研究がありまして、ご存じの方もいると思いますが、アドリアーナ・ボスカロ(Adriana Boscaro)さんというヴェネツィアで教えてらっしゃった先生が、もうずいぶん前ですけれども、労作をお出しになっている⒁。
 これによりますと、オーストリー、ベルギー等々ですね、多くの国に所蔵されているということが、目次を一瞥しただけでもあきらかになります。まだ、僕はこれに関しては本格的な調査をやったことがなくて、イタリアで若干、後追い的な調査をしただけですけれども、まだまだ出てくる可能性もあるのだろうと思っています。
2-3 年代記/ Chronicles
 あとはですね、総括的な、まとまった情報という意味では、年代記というものがあるかなと思います。年代記に関しては、先ほどの、『ウルバーノ・モンテ年代記』というものもありますが、ここでは、フィレンツェの街の年代記(Chronicle of Florence by Settimani)を紹介します⒂。そういうものの中に、つまり彼らが、もちろんフィレンツェの記録ですので、フィレンツェに来たときのようすなどがまとめられている。ですので、必ずしも追い切れてないですけれども、他の街の年代記のなかにも使節関係の記述が出てくる可能性はあるだろうと思っています。
3、 関係史料の多様性(3)稿本/ 
Variety of Historical Sources (3) Original Manuscripts
 第 2 章は、まとまった分量がある記録を扱ってきたのですけども、ここでは、本来歴史学で一番重要とされる第一次史料(primary sources)といわれるものを、若干挙げています。
3-1 派遣主体または使節からの書簡/ Letters from Sender or Embassy
 一つには書簡です。使節自身の名前によって書かれたものもありますし、彼ら自身ではなくて、彼らを送った大名たちとか、随行した宣教師たちによる書簡、あるいはそれに対する返信の書簡。そういうものがたくさんあります⒃。
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旅行記から彼らの旅程の全貌を知ることができるのであるが、スペイン、ポルトガルにおける彼らの動向を伝える一次史料の存在はほとんど知られていない点を後半で指摘する意図があったのだが、失念したまま報告を終えてしまった。ここに補足したい。
邦訳は岡本良知「天正遣欧使節記」(『大分県地方史』13~16 合併号(1958 年)。
Adriana Boscaro, Sixteenth Century European Printed Works on the First Japanese Mission to Europe (Leiden: E.J.Brill, 1973)
『大日本史料』1、邦訳編 pp.189-191、原文編 pp.162-164
たとえば、伊東マンショらの書簡については、不完全ながら伊川『大航海時代の東アジア』(吉川弘文館、2007 年)p.270 がある。
 書簡の例としては、邦文のみで書かれたものとしては、1582 年正月 27 日付イエズス会総会長クラウディオ・アクアヴィヴァ宛大村純忠書簡(Letter from ŌMURA Sumitada to Claudio Aquaviva, General of the Society of Jesus. ŌMURA Sumitada was a daimyō, or local authority in Kyushu region, and a sender of the mission.)があります⒄。邦文で書かれたものにイタリア語訳が付けられたものとしては、1585 年 8 月 2 日付マントヴァ公世子ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ宛伊東マンショ書簡(From ITŌ Mancio to Vincenzo Gonzaga, the Prince of Mantova)があります⒅。ほかにもいくつかの類型があって、1585 年 6 月 18 日付イモラ市宛伊東マンショほか 4 名書簡⒆は、邦文の本文の行間にイタリア語が混ぜられてるとか、邦文はなくヨーロッパ語だけで書かれたものとか、いくつかの類型があります。

3-2 各国使節の報告書簡/ Letters from Embassies in Europe

 もう一つはですね、彼らの位置付けに関して注目すべきなのは、各国使節の報告書簡。どういうことかというと、例えば特にローマですね。ローマには、ヴェネツィアだとかフィレンツェ、トスカーナ大公国、スペインなどの他の国の大使たちが駐在してるわけです。その大使たちが、天正遣欧使節がどういう扱いを受けているのか、どういう人たちなのかという情報を本国に送るわけです。一例としては、駐ローマ、ヴェネツィア大使、ローレンツォ・プリウリという人物から、ヴェネツィア総督、ニコロ・ダ・ポンテという人物に宛てられた書簡があります(A Letter from Lorenzo Priuli, Venetian ambassador in Rome to Nicolò da Ponte, governor of Venice, on 23 Mar. 1585⒇. He mentions the mission.)。使節のことは、あまりよく言っていないのですけれども、ただ扱いに関しては非常に面白い情報だろうと思います。このような事例も、ヴェネツィアのほかに、モデナのものがよく知られていますけども、その他にも、探していけば、スペイン大使なんかも書いていますが、もう少しいろいろな大使の情報に目を付ければ、情報量が増えていくのではないかと思っています。

3-3 会議録/ Conference Minutes
 ヴェネツィアの会議録にも記事がございます㉑。

3-4 会計帳簿/ Accounting Book

 会計帳簿ですね。彼らをもてなすときにいくらかかったのかというようなことが、たとえばフェラーラに残っているそうですけども、そういうものがあります㉒。

おわりに/ Conclusion

 最初にお話ししたとおり、天正遣欧使節に関する基本史料は、東京大学史料編纂所が出している、『大日本史料』の 2 冊ということは、今でも動かないだろうと思います。非常によくできた史料集で、これを見て現地調査をしに行っても、現地のスタッフが、「こんな古文書はないよ」と平気で言う場合があるんですね。ところが、それは全く事実ではなくて、ただ真っ向から反論しても煙たがられるだけなのでしませんが、実は、探っていくとあります。スタッフが知らないだけで、絶対にあります。かなり正確な情報ですので、今でもそうい
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⒄ 京都大学総合博物館蔵。写真は新村出・濱田耕作解説『京都帝國大學文學部所蔵天正年間遣欧使節關係文書』(史学研究会、一九二九年)第 1 文書、後掲『大日本史料』など。テキストは『大日本史料』1、邦訳編 pp.319-320
⒅ 稿本は Archivio di Stato di Mantova, Archivio Gonzaga, Busta 1704。テキストは邦文、伊語訳ともに『大日本史料』2、邦訳
編 pp.206-207
⒆ テキストは邦文、伊語訳ともに『大日本史料』2、邦訳編 pp.31-32
稿本は Archivio di Stato di Venezia, Senato, Dispacci, Dispacci degli ambasciatori e residenti, Roma, Filze, Pezzo 19, ff.38rv, 41r。テキストは『大日本史料』1、邦訳編 pp.297-300、原文編 pp.257-259。プリウリの情報については『世界史のなかの天正遣欧使節』pp.160-162 で概観している。
21 Archivio di Stato di Venezia, Senato, Deliberazioni, Terra, Filze, Pezzo 94。テキストは『大日本史料』2、邦訳編 pp.126-127、原文編 pp.101-102
22 Paride Zajotti, L’Ambasciata Giapponese del MDLXXXV (Venezia: Gazzetta, 1884) pp.7-24。『大日本史料』2、邦訳編 pp.43-
75、原文編 pp.36-57


う位置付けをしていい史料集だと思います。
 ただ、大きなことで 1 点だけ申し上げますと、ご存じの方はいらっしゃると思いますが、イエズス会ローマ文書館(Archivum Romanum Societatis Iesu)文書が『大日本史料』には 1 点も入っていません。同文書館は、『大日本史料』発行時点では公開されていなかったからなのですけれども、後年、結城了悟神父が邦訳をお出しになっています㉓。そういう事情もあって、現段階の研究水準においては、やはりこの 2 冊の枠組みを再編する総括的な情報収集が必要になってくるだろうと思います。自分自身も調査してく中で、未紹介の情報はいくらでも出て来てます。ただ面白い情報が少なくて、学会ではあまり発表してないのです。すでに知られていることを、例えば他の人物が書いていたとか、その程度の情報は数限りなくあるのですが、それをこういう場でお話ししても、「ふーん」という感じで終わってしまいますので。その中で面白いものを抽出するのは難しいのですが、ただ情報の体系自体は、もう再編すべき段階に来てるだろうと。その再編するにはどうしたらいいかということに関しては、僕自身は、これまではやみくもに史料調査をしているところがあったのですが、これからはちょっと戦略的に収集する必要があるだろうと思います。その一つの方法として史料群を分類して、その分類から目星をつけて、現地の公文書館などで調査をするという方法があるのではないかというご提案です。概括的な話ですから、皆さんのように、きりっと、「あ、これが分かった」という報告ではなくて、ちょっともやもや感が、お疲れのところ残るようなお話かもしれませんが、そういう意味で学術的な意味がある話じゃないかと、こちらとしては思って提案をさせていただいたということになります。(The purpose of 
this presentation is to share variety and  quantity of historical sources about their journey. The sources are conserved in libraries or archives in various countries. It means international cooperation is necessary to continue documental research as the framework. I believe that as a methodology, classification of sources is helpful to seek for unfound documents. This presentation was an attempt for it as the first step.)
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23 結城了悟『新史料 天正少年使節』(南窓社、1990 年)
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천정견 유럽사절의 사료학 이카와 켄지(와세다대학, 일본)
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천정견 유럽사절의 사료학 이카와 켄지(와세다대학, 일본)

소개 / Introduction

 최초로, 일본측의 참가자는, 천정견 유럽 사절에 대해 아시는 분도 많다고 생각합니다만, 반드시 상세까지는 공통 인식이 되어 있지 않은 경우도 있다고 생각하므로, 기초적인 곳 에서 이야기하고 싶습니다. 타이틀은, 「텐쇼구 유럽사절의 사료학 /Classification of Historical Sources about the First Japanese Mission to Rome」이라고 하는 것으로 하고 있습니다. 우선이군요, 천정견 유럽 사절의 개략에 대해, 꽤 기초적인 곳도 포함해 이야기를 하고 싶습니다. 적당히 영어를 섞어 이야기하는 곳으로 하지 않는 곳이 있을까 생각합니다.
 처음에는 그 천정견 유럽사절, 즉 횡문자라고 특히 스페인어권에서는 'La Embajada Tenshō'였을까요? 그러한 표현도 나오고 있는 것 같습니다만, 「the First Japanese Mission to Rome」같은 말을, 일반적으로는 할 것이라고 하는 식으로 생각합니다. 그 천정견 유럽 사절에 대해입니다.
 루트는, 세계지도적인 규모로 말하면, 일본을 출발해, 마카오, 고아(파나지)등을 지나고, 하지만, 인도에 있어서의 항구로서는, 행은 코친(코치)를 사용합니다만 , 포르투갈은 리스본에서 유럽으로 들어가 스페인을 통해 알리칸테를 출항하고 이탈리아는 리보르노에서 들어와 로마에 간다. 로마에서는 물론, 두 교황, 그레고리오 13세 및 시스트 5세와 겸견을 이루는 것이지만, 여행이 길어지는 것은 오히려 그 이후입니다. 교황에 속견했다는 것으로 각지에서 초대가 와서 볼로냐, 베니스, 밀라노, 제노바 등을 통해 스페인으로 돌아가 거기에서 포르투갈. 게다가 거의 같은 루트를 통해 나가사키로 돌아가는 것이 그들의 행정이라고 합니다.
 그래서, 다음은 기간과 멤버에 대해입니다만, 기간은 1582년 2월 20일 출발, 1590년 7월 18일 귀국의 어느쪽이나 나가사키 발착입니다. 멤버는 이토 맨쇼, 치요이시 미구엘, 하라 마티노, 나카우라 줄리안의 저명한 4명에 가세해 기획한 것은 예수회사의 알레산드로 발리냐노라는 것은, 아시는 분도 많을까 생각 합니다.
 그들의 여행의 이미지로서는, 예를 들면, 쇼와가 되고 나서의 회화입니다만, 개인적으로 좀처럼 좋아하고, 저서 어떠하게 사용해 주시고 있습니다만, 테라자키 타케오가 연작 “키리시탄 문화사적 회화 ―텐쇼 소년 사절전」(쇼와 31년 완성) 속에서, 「법왕과의 속견」이라고 하는 회화를 그려, 그레고리오 13세와의 속견의 모습을 방불케 한 것이 있습니다.
 그렇다고 해서 이것만 이야기를 해도, 사료학에 묶는 것의 의의가, 반드시 양해되기 어려운 것은 아닐까 생각합니다. 천정견 유럽 사절 그 자체에 일종의 삽화적인 화제라는 인상이 강하고, 「얼마만큼의 정보량이 있는 거야?」라고 연구되고 있는 분에게 있어서는 물론 자명합니다만, 그 이외의 분에 대해서는, 조금 학술적인 연구 대상으로서의 이미지가 솟아나기 어려운 곳이 있는 것은 아닐까요.
 그런데, 나중에 이야기하겠지만 관계사료의 종류가 많음, 각각의 양이 많다는 것은, 실은 눈을 바라보는 것이 있어, 우선, 이 점을 가능한 한 공통 인식으로 하고, 본격적으로 자료 를 수집해 나가기 위한 기반을 정돈하고 싶다고 하는 식으로 생각하고 있습니다. (Variety and quantity of historical sources about their journey are huge. And many examples have been confirmed in various countries. This paper will share concrete picture of this point. 
Therefore I would like to establish a framework of international cooperation. This is the intention of my paper.).
 그러니까, 우선은, 어떻게 여러가지 종류가 있는가. 뭐라고 할까, 도쿄 대학 사료 편찬소가 정리한, 「대일본 사료」라고 하는 매우 두꺼운 사료집이 있어 ⑴, 그 2권분이 메이저인 정보로서는 공유되고 있는 것입니다만, 결코 거기에 머물러 없는 정보량이 있다는 것이 점점 알고 있습니다. 그 틀에 얽매이지 않는, 사료 수집이 실은 필요하고, 알려진 각 사료가 어떤 성격을 가지고 있는지 경향을 잡는 것으로, 미소개의, 더 많은 정보에 도착하기 쉬워지는 것은 아닐까 하는 것으로, 아직 이 점은 연구 사상, 반드시 충분히는 공유되어 있지 않은 것이라고 생각합니다만, 천정견 유럽 사절 관계의 사료를 굳이 분류해 보는 시도입니다.

1, 관계 사료의 다양성 (1) 예술 작품/ 
Variety of Historical Sources (1) Fine & Performing Arts

1-1 초상화 / Portraits

 우선 「초상화/Portraits」라고 하는 것으로, 즉, 이른바 예술이라고 할까, 회화가 중심입니다만, 회화
에 머무르지 않는 정보 등도 남아 있기 때문에, 처음에, 그 근처를 개관해 보고 싶습니다.
 최근 회화에 관해서는 새로운 발견이 속출하고 있습니다만, 그래도 『울버노 몬테 연대기 / the chronicle of Urbano Monte』⑵의 존재는 큰 것이 아닐까 생각합니다. 울버노 몬테는 밀라노의 지리학자로 귀족이지만, 그 기사의 위치는 어렵다. 마츠다 코이치씨는, 「(텐쇼 송유럽) 사절들에게 실제로 만났다」라고 쓰고 있습니다만 ⑶, 아무래도 자세하게 읽어 가면, 그런 일은 없을 것이라고 생각됩니다. 이 연대기에는
「나폴리에 갔다」라고 쓰고 있는군요. 만약 그들이 만난다면 그 장소는 밀라노이어야하지만, 밀라노 체류 시점에서 나폴리 행은 이미 중단되었습니다. 직접 만났다면 그러한 기사가있을 수 없습니다. 만나지 않는다고 생각합니다. 그림뿐만 아니라, 그들 혹은 당시의 일본에 관한 상세한 기록을 두고 있습니다만, 기사의 자세한 것은 여기에서는 생략합니다. (Urbano Monte is a geographer in Milan. 
And Prof. MATSUDA Kiichi mentioned possibility he had seen the mission directly. But I do not think so for some 
reason.).
 다만, 이 책의 가치에 대해서는, 그 후 회화에 대해서 다수의 발견이 있으면서, 간과할 수 없는 것은 이토만쇼 뿐만이 아니라, 그 이외의 3명과, 인솔한 예수회사 디에고 데 메스키타의 5명 의 회화를 포함하고 있는 것을 지적해야 할 것이라고 생각합니다. 최근 발견된 회화 중에는, 이토 맨쇼, 게다가, 메스키타를 포함한 사례가 있습니다만, 5명 전원을 포함한 것이라고 하는 것은, 육필의 것으로는 이것만이 될 것이라고 생각합니다. 또 하나 유명한 것은 교토대학이 가지고 있는, 신문의 인쇄된 것이 있습니다만, 그것과 이쪽이, 어느 쪽이 앞인지는, 왠지 모릅니다. 분명히 유사한 그림이라는 것은 말할 수 있습니다만, 육필화로서는, 이것이 유일할 것이라고 생각합니다.
 다른 하나는 몇년, 10년 정도 전입니까? 역시 발견이 세상을 떠들썩하게 한 이토만쇼상이 있습니다. 이것은 그들을 만난 로마 교황, 그레고리오 13세의 가계라고 불리는, 본컴파니(Boncompagni) 집에서 발견된 동상⑷으로, 현재는 나가사키 역사 문화 박물관에 소장되고 있는, 나가사키현이 매입했다 라는 것이 되는 것 같습니다. 여기에는 이토 만쇼뿐만 아니라 디에고 데 메스키타와 두 사람의 초상이 포함되어 있습니다. 이러한 것이 교황의 가계의 집으로부터 발견되었다고 하는 것은, 아시는 분도 많다고 생각합니다만, 일시기, 세상을 붐비는 정보로서 있습니다.
 게다가 이것도 최근군요. 3, 4년 정도 전입니까? 트리브르치오 재단(Fondazione Trivulzio)의 컬렉션 중에서 발견된 이토만쇼 동상이 있습니다. X선의 조사 결과, 이 주름 옷깃이, 당초의 그림에 비해, 현재 상태에서는 대단히 화려하게 그려지고 있다는 것이 밝혀졌습니다⑸. 후년 그려진,
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⑴ 도쿄대학사료편찬소편 『대일본사료/Dai Nippon Shiryo』 제11편별권지 1-2/ Part XI, Suppliment I-II(도쿄대학, 1959-
1961년)
해당 부분은 동년대기의 1585년 7월 25일조이다. 책(Manuscript)은 Biblioteca Ambrosiana, Ms. P.251.sup, Urbano Terzo di Tal nome In detta Fameglia De'Monti,vol.4, ff.64-91v. 1585, Milano vista dei giapponesi (Milano: Camera di Comercio, 1990), 전문 텍스트 및 일본어 번역(text and Japanese translation)은 이카와 「『울버노 몬테 연대기』에서 보는 천정견 유럽사절과 오오 유키기의 일본(일 ~2)/The first Japanese mission to Rome and images of sixteenth century Japan as presentad in the chronicle of Urbano Monte(1-2)」(『도쿄대학 일본사학연구실 기요 / Bulletin of the 
Department of Japanese History Faculty of Letters The University of Tokyo(13-14, 2009-2010) 참조.
마츠다 코이치 『텐쇼 견 유럽 사절』(고단샤 학술 문고, 1999년)p.292
⑷ 나가사키 역사문화박물관 편집·발행 “로마를 꿈꾼 미소년 천정견 유럽사절과 아마쿠사 시로전”(2006년) p.24
원래는 그다지 크지 않은 주름 옷깃이 그려져 있던 것이 그려진 것 같은 것도 말해지고 있습니다. 동시대 혹은 그것에 가까운 무렵에 그려졌다고 생각되는 그림으로서는, 현 단계에서는 그 정도일까요. 단지 경우에 따라서는, 좀 더 발견이 있는 것은 아닐까 하는 풍설도 없는 것도 아닙니다.
 나머지는군요, 방금전의 테라자키 타케오라고 하는, 메이지의 무렵에 베니스에 건너간 일본의 화가가 있습니다⑹. 방금 언급한 「호왕과의 겸견」은, 아오야마 학원이 현재 소장하고 있는 일련의 연작인데, 그 중의 교황 겸견의 그림은 상징적입니다. 이 같은 테라자키 타케오가 베니스 체재 중인 메이지 43년(1910)에, 그 근처의 비첸차에 그 관계의 그림이 있다고 하는 정보를 입수해, 적어둔 그림이 도쿄 예술 대학에 “이탈리아·베첸차시 오림피아 극장 벽화 「일본 사절」로서 보존되어 있습니다.
 회화로서는 마지막 예가 됩니다만, 이 심포지엄의 전단지에도 사용해 주신 회화가 있습니다. 유명한 근대 일본 화가인 마에다 아오카에 의한 「라마 사절」이라고 제목이 붙은 작품으로, 본 학내에 모치즈 핫이치 기념 박물관이라는 박물관이 있어, 거기의 소장입니다⑺. 연대는 1927년이므로 오래된 것이 아니며 사실을 의도한 것이 아닙니다. 무엇일까, 거리도 아마, 피렌체의 팔라조 베키오 같은 건물도 그려져 있습니다. 특정 어딘가의 현실적인 도시를 그리려고 했던 것이 아니고, 이탈리아의 이미지를 거듭해, 거기에 기마를 탄, 아마는 이토 맨쇼일까, 이미지 속의 그들을 20 세기가 되고 나서 마음껏 그린 그림이 됩니다. 전단지에는 크림색을 사용하고 싶었기 때문에, 거기에 파랑은 히트 할까라고 하는 곳도 있어 사용해 주셨습니다.

1-2 지도/ Maps

 예술과 다를 수 있지만지도를 여기에 분류했습니다. 피렌체의 국립공문서관(Archivio di Stato di Firenze, Miscellanea Medicea 97-91)에 보존되어 있는 것입니다. 천정견 유럽사절과 메디치가의 접촉에 의해 초래된 것으로 생각되며, 일본에서 그려진 것이 피렌체에 반입되었을 가능성과 그들의 지식을 전제로 피렌체로 그려진 가능성이 상정됩니다 하지만 아무래도 그 종이가 분석 결과에 따르면 이탈리아에서 만들어진 종이라는 것 같기 때문에 이탈리아에서 어떠한 그가 가져온 지도를 찍은 것이 아닐까 하는 추정이 되고 있다 같아요. 북쪽이 아래, 남쪽이 위로 그려져 있습니다. 이른바 행기도라고 불리는 지도의 형태의 영향이 있다고 합니다. (About this map, a certain scholar discusses that it was copied in Italy, because the 
paper was made in Italy. But the style is based on old Korean map. Therefore the mission brought this kind of map to Florence, and someone copied it.).
1-3 비석 / Stone Inscription
 이것도 예술과는 다를지도 모르지만, 문헌 자료와도 조금 다르기 때문에 여기에 넣었습니다. 비석입니다. 베니스의 산타 마리아 델라 살루테(S. Maria della Salute) 교회에 병설된 베니스 총대주교 신학교(Seminario Patriarcale di Venezia)의 비문이 저명합니다⑻. 「일본으로 돌아가면 카리타교(현재의 베니스 총대주교 신학교)와 같은 학교를 만들고 싶다」라고 하는 것을 말하고 있습니다만, 그러한 비문도 종이의 매체 뿐만이 아니라 비석에도 남겨져 있습니다. 그리고는, 이 산 베네데트 포라는 곳에 있는 수도원에도 기념비가 있습니다. 이른 단계부터 알려져 있었지만, 일시기, 행방불명이 되어 있었다고 생각되고 있던 것이 재발견된 경위가 있는 비입니다 ⑼. 그러므로 두 개의 비석이 있습니다.
─────────────────────────────────────────────────── ──────── ⑸ 코사노 시게토시 『《이토 맨쇼의 초상화》의 수수께끼에 다가온다』(三元社、2017년)pp.115-116
⑹ 테라자키 타케오에 대해서는 다테야마 시립 박물관 편집·발행 『데라사키 타케오의 세계』(2003년)에 상세하다. 비첸차의 벽화는 동도록 ⑺ 會津八一記念博物館 소장이 되기 이전의 1929년에, 마에다 아오나 본인으로부터 와세다대학 도서관(현, 會津八一記念博物館)에의 기증이 이루어진 모양이다. "와세다 학보"1240 (2020 년) p.35
15페이지 참조.
⑻ 이전 『대일본사료』2, 국역편 p.132에 있어서 「산타 마리아 드 라 칼리타 교비문 / Memorial Inscription of the Japanese Embassy at Scuola di Santa Maria della Carità in Venice 있다. 이 비문 정보가 근대 일본에 가져온 경위에 대해서는, 이가와 「근대에 있어서의 천정견 유럽 사절의 재발견」(진노 나오시·고노 타카미코·진노 영칙편 번역·장서』공부 출판, 2019년) 참조.
그것은 어쩌면 다른 도시에도 비가 있을지도 모른다는 눈으로 조사할 수도 있는 것은 아닐까 생각합니다.

1-4 음악/Music

 또 하나는 역시 음악이군요. 빌라 비소자라는 포르투갈의 거리에서 나온 잡지의 논문에 그들이 빌라 비소자를 방문했을 때 연주된 '글로리아 라우스(Gloria Laus)'라는 곡의 악보가 게재되어 있습니다⑽. 물론 당시의 악보이기 때문에, 이 논문에 쓰여 있는 듯한 스타일로 쓰여진 것은 아니고, 재구성된 것일 것이라고 생각합니다만, 음악, 그들이 로마에 도착했을 때에 「태대움・라다무스」라고 하는 곡이 연주되었다는 것도, 「울버노 몬테 연대기」중에서도 자주 나오므로, 역시 음악의 역사와도, 밀접하게 근거한 토픽일 것이라고 생각합니다. 이런 것의 구체적인 악보를 알 수 있는 사료군에 대해서는, 단지 불행히도, 발견해도 나에게는 읽을 수 없고, 이미 연구등도 있을까는 생각합니다만, 그 근처도 정보 수집을, 향후와 가고 싶습니다.

2, 관계사료의 다양성 (2) 서적 및 인쇄물/ 
Variety of Historical Sources (2) Books & Printed Works

 문헌에 대해서는, 처음에 「서적 및 인쇄물」이라고 제목을 붙인 것처럼, 비교적 정보로서 붙어 쉽다고 할까, 친숙한 곳으로부터 가고 싶습니다.
2-1 여행기/ Travel Records
 천정견 유럽사절 행정에 관해서는 거의 전용이 알려져 있습니다. 마츠다 코이치 씨의 「텐쇼 송유럽 사절」, 와카쿠와 미도리 씨의 「콰트로 라가치」등, 나도 쓴 적이 있습니다만, 그런 것으로 보인 분도 계신 것이 아닐까 생각합니다. 모든 행정이 일단 알 수 있네요. 왜 아는가 하면, 다음과 같은 몇개의 여행기가 있기 때문입니다. 이 밖에 루이스 드 구스만(Luis de Guzman) 『동방전도사 /Historia de las Missiones que han hecho los Religiosos dela Compañia de Iesus...』도 넣어도 좋다고 생각합니다. 귀도 과르티에리/Guido Gualtieri 『일본견 유럽사자기/Relationi della Venuta degli Ambasciatori Giaponesi a Roma fino alla partita di Lisbona』의 일본어 번역은 근대의 의사이며 문학자로서 유명한 키노시타 아츠타로(오타 마사오)입니다. . 요즘 일본의 남만 붐을 견인한 인물 중 한 명이라는 것이 됩니다만, 거기에 머무르지 않고, 실은 상세하게, 「에스파니야・포르츠가루기」라고 하는, 지금도 혹시 통용하는 것은 아닐까 라는 상세한 문헌 조사 기록을 남기고 있습니다. 이탈리아어판의 복각은, 재로마 일본 대사관에서 확실히 나와 있다고 생각합니다만, 10년 이상전이기 때문에, 지금도 입수 가능한가 어떤가는 조금 모릅니다.
 혹은 루이스 플로이스/Luís Frois 『규슈 삼후견 유럽사절 행기/ Tratado dos Embaixadores Japões que forão de Japão á Roma no anno de 1582』라는 기록도 남아 있습니다. 이것은 일시기, 프로이스 「일본사」와의 관계가 꽤 까다롭고, 그 일부일 것으로 생각되고 있던 시기도 있는 것입니다만, 현재는 일단 나누어 생각하려고 하는 방향이 되고 있습니다⑾. 다만, 이 근처의 관계는 꽤 어렵기 때문에, 그래서 결착이 붙었는지 어떨지는 없는 것은 아닐까 생각합니다. 덧붙여서, 일본 번역본에서 '속 규슈 미후 송 유럽 사절 행기'라는 것이 있습니다만, 이것은 그러한 원제를 번역한 것이 아니고, 프로이스 '일본사'로부터 픽업해 온 정보의 총체이므로, 이 문헌의 속편이라고 하는 것과는 성격이 다른 문헌이라고 하는 것은, 여담입니다만 보충을 하고 싶습니다. 원전은 간본이 되어 동시기에 출판되었다고 하는 것은 아니고, 현재는 포르투갈의 국립 도서관에 고본이 가장되고 있다(Biblioteca Nacional de Portugal, COD.11098)라고 하게 됩니다.
 여행기의 마지막으로는, 두아르테 데 산데 / Duarte de Sande
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이 비문에 대해서는 이카와 『세계사 속의 천정견 유럽사절』(요시카와 히로후미칸, 2017년) pp.133-134 참조.
Michael Ryan, "Musicians and Music in the Chapel of the Dukes of Braganca at the time of the visits by the Korean princes in 
1584 and 1585" in Callipole 9 (2001), p.104
⑾ 『일본사』와의 관계에 대해서는 이카와 「프로이스 사료 연구사시」(『다원문화』 8, 2019년) p.7 등을 참조.

sione Legatorum Iaponensium ad Romanam curiam, rebusq; in Europa, actoto itinere animaduersis Dialogus'라고 하며, 종종 '유럽 사절 대화록'이라고도 불리는 기록이 있습니다. 두아르테 데 산데는 저자가 아니라 알레산드로 발리냐노가 쓴 스페인어판을 라틴어로 번역한 인물이라고 합니다. 매우 큰 것입니다만, 천정견 유럽사절의 여행 뿐만이 아니라, 유럽의 지식 체계에 관한 기술도 많이 포함되어 있습니다.
 이러한 여행기로부터군요, 일행의, 나가사키를 출발해 로마에 가고, 또 나가사키에 돌아갈 때까지의 전행정을 알 수 있다는 것만, 간단하게 여기에서는 접해 두고 싶습니다⑿.

2-2 브로셔/Pamphlets

 브로셔는 선전·계몽 등을 목적으로 출판된 소책자입니다. 구체적으로는 천정견 유럽사절기/Relatione del Viaggio, et Arrive in Europa, et Roma, de' Prencipi Giapponesi'와 같은 것입니다⒀. 도쿄 국립 박물관 등이 소장하고 있지만, 이러한 인쇄된 그들의 여행과 유럽이나 로마 도착에 관한 기록이 책자로서 특히 그들의 로마 도착 전후에 집중적으로 나온다. 이에 관해서는 이미 이미 포괄적인 연구가 있었고, 아시는 분도 있다고 생각합니다만, 아드리아나 보스카로(Adriana Boscaro)씨라고 하는 베네치아에서 가르쳐 주신 선생님이, 조금 전이지만, 노작을 내놓고 있다 ⒁.
 이것에 의하면, 오스트리, 벨기에 등등군요, 많은 나라에 소장되고 있다는 것이, 목차를 한눈에 보는 것만으로도 분명해집니다. 아직, 나는 이것에 관해서는 본격적인 조사를 한 적이 없고, 이탈리아에서 약간, 후추적인 조사를 한 것입니다만, 아직도 나올 가능성도 있을 것이라고 생각하고 있습니다.
2-3년대기/ Chronicles
 그리고는군요, 총괄적인, 정리된 정보라는 의미에서는, 연대기라고 하는 것이 있을까라고 생각합니다. 연대기에 관해서는, 방금전의, 「울버노 몬테 연대기」라고 하는 것도 있습니다만, 여기에서는, 피렌체의 거리의 연대기(Chronicle of Florence by Settimani)를 소개합니다⒂. 그러한 것 중에, 즉 그들이, 물론 피렌체의 기록이므로, 피렌체에 왔을 때의 모습 등이 정리되어 있다. 그러므로 반드시 쫓겨나지 않지만 다른 도시의 연대기 속에서도 사절관계의 기술이 나올 가능성은 있을 것이라고 생각합니다.
3, 관계사료의 다양성(3)고본/ 
Variety of Historical Sources (3) Original Manuscripts
 제2장은, 정리된 분량이 있는 기록을 다루어 왔습니다만, 여기에서는, 본래 역사학에서 제일 중요하게 되는 제1차 사료(primary sources)라고 불리는 것을, 약간 들고 있습니다.
3-1 파견 주체 또는 사절의 서한 / Letters from Sender or Embassy
 하나는 편지입니다. 사절 자신의 이름으로 쓰여진 것도 있고, 그들 자신이 아니라 그들을 보낸 다이묘들이나, 수행한 선교사들에 의한 서한, 혹은 그것에 대한 회신의 서한. 그런 것들이 많이 있습니다 ⒃.
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여행기로부터 그들의 여정의 전모를 알 수 있는 것이지만, 스페인, 포르투갈에서 그들의 동향을 전하는 1차 사료의 존재는 거의 알려지지 않은 점을 후반에 지적할 의도가 있었지만, 실망한 채 보고를 마쳤다. 여기에 보충하고 싶다.
쿠니역은 오카모토 료치 「텐쇼쿠구사절기」(『오이타현 지방사』13~16 합병호(1958년).
Adriana Boscaro, Sixteenth Century European Printed Works on the First Japanese Mission to Europe (Leiden: EJBrill, 1973)
『대일본사료』1, 일본역편 pp.189-191, 원문편 pp.162-164
예를 들어, 이토만쇼 등의 서한에 대해서는 불완전하면서 이천 『대항해 시대의 동아시아』(요시카와 히로후미칸, 2007년) p.270이 있다.
 편지의 예로는 일본문으로만 쓰여진 것으로는 1582년 정월 27일자 예수회 총회장 클라우디오 아쿠아비바로 향한 오오무라 준타다 간서(Letter from ŌMURA Sumitada to Claudio Aquaviva, General of the Society of Jesus. ŌMURA Sumitada was a daimyō, or local authority in Kyushu region, and a sender of the mission.)가 있습니다⒄. 1585년 8월 2일자 만토바 공세자 빈첸조 곤자가 앞으로 이토 맨쇼 서간(From ITŌ Mancio to Vincenzo Gonzaga, the Prince of Mantova)이 있습니다. . 그 밖에도 몇 가지 유형이 있고, 1585년 6월 18일자 이모라시 받는 이토만쇼 외 4명서간⒆은, 일본문의 본문의 행간에 이탈리아어가 섞여 있다든가, 일본문은 없고 유럽어만으로 쓰여진 것과 같은 몇 가지 유형이 있습니다.

3-2 국사절 보고서 간편/ Letters from Embassies in Europe

 또 하나는군요, 그들의 자리 매김에 대해 주목해야 할 것은, 각국 사절의 보고서 간편. 무슨 일이라면 예를 들어 특히 로마군요. 로마에는 베니스나 피렌체, 토스카나 대공국, 스페인 등 다른 나라의 대사들이 주재하고 있는 것입니다. 그 대사들이 천정견 유럽사절이 어떤 취급을 받고 있는지, 어떤 사람들인지의 정보를 본국에 보내는 것입니다. 예를 들어, 주 로마, 베니스 대사, 로렌조 프리우리라는 인물에서 베네치아 총독, 니콜로 다 폰테라는 인물에게 보낸 서한이 있습니다(A Letter from Lorenzo Priuli, Venetian ambassador in Rome to Nicolò da Ponte, governor of Venice, on 23 Mar. 1585⒇. He mentions the mission.). 사절은 그다지 잘 말하고 있지 않지만, 다만 취급에 관해서는 매우 재미있는 정보일 것이라고 생각합니다. 이와 같은 사례도 베니스 외에 모데나의 것이 잘 알려져 있지만, 그 외에도 찾고 가면 스페인 대사도 쓰고 있습니다만, 좀 더 다양한 대사의 정보에 눈길을 끌 수 있다. 그렇다면 정보량이 늘어나는 것이 아닐까 생각합니다.

3-3 회의록/ Conference Minutes
 베니스의 회의록에도 기사가 있습니다㉑.

3-4 회계장부/ Accounting Book

 회계장부군요. 그들을 대접할 때에 얼마 걸렸는가 하는 것이, 예를 들면 페라라에 남아 있다고 합니다만, 그러한 것이 있습니다㉒.

결론 / Conclusion

 처음에 말했듯이, 덴쇼 송유럽 사절에 관한 기본 사료는 도쿄 대학 사료 편찬소가 내놓고있는 「대일본 사료」의 2 권이라는 것은 지금도 움직이지 않을 것이라고 생각합니다. 아주 잘 생긴 사료집에서 이것을 보고 현지 조사를 하러 가도 현지 스태프가 "이런 고문서는 없어"라고 태연하게 말하는 경우가 있네요. 그런데, 그것은 전혀 사실이 아니고, 단지 정면에서 반론해도 연기가 나는 것 뿐이므로 하지 않습니다만, 실은, 찾아 가면 있습니다. 직원이 모르는 것만으로 절대 있습니다. 꽤 정확한 정보이므로 지금도 그렇습니다.
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⒄ 교토 대학 종합 박물관 창고. 사진은 신촌출·하마다 경작 해설 『교토 제국대학문학부 소장천정 연간 송구사절계계문서』(사학연구회, 1929년) 제1문서, 후기 『대일본사료』 등. 텍스트는 "대일본 사료"1, 일본 번역편 pp.319-320
⒅ 논문은 Archivio di Stato di Mantova, Archivio Gonzaga, Busta 1704. 텍스트는 일본문, 이어역 모두 「대일본사료」2, 일본역
편 pp.206-207
⒆ 텍스트는 일본문, 이어역 모두 『대일본사료』2, 일본역편 pp.31-32
고본은 Archivio di Stato di Venezia, Senato, Dispacci, Dispacci degli ambasciatori e residenti, Roma, Filze, Pezzo 19, ff.38rv, 41r. 텍스트는 『대일본사료』1, 국역편 pp.297-300, 원문편 pp.257-259. 프리우리의 정보에 대해서는 『세계사 속의 천정견 유럽사절』 pp.160-162에서 개관하고 있다.
21 Archivio di Stato di Venezia, Senato, Deliberazioni, Terra, Filze, Pezzo 94. 텍스트는 『대일본사료』2, 일본역편 pp.126-127, 원문편 pp.101-102
22 Paride Zajotti, L'Ambasciata Giapponese del MDLXXXV (Venezia: Gazzetta, 1884) pp.7-24. "대일본 사료"2, 일본 번역편 pp.43-
75, 원문편 pp.36-57


우위치를 해도 좋은 사료집이라고 생각합니다.
 다만, 큰 일로 1점만 말씀드리면, 아시는 분은 계신다고 생각합니다만, 예수회 로마 문서관(Archivum Romanum Sociedadis Iesu) 문서가 「대일본 사료」에는 1점도 들어 있지 않습니다. 이 문서관은, 「대일본 사료」발행 시점에서는 공개되어 있지 않았기 때문입니다만, 후년, 유키 료고 신부가 일본역을 내놓고 있습니다㉓. 그러한 사정도 있어, 현 단계의 연구 수준에 있어서는, 역시 이 2권의 틀을 재편하는 총괄적인 정보 수집이 필요하게 될 것이라고 생각합니다. 자신도 조사해 가는 가운데, 미소개의 정보는 얼마든지 나오고 있습니다. 단지 재미있는 정보가 적고, 학회에서는 별로 발표하고 있지 않습니다. 이미 알려진 것을, 예를 들면 다른 인물이 쓰고 있었다든가, 그 정도의 정보는 수제없이 존재합니다만, 그것을 이런 장소에서 이야기해도, 「흠」이라고 하는 느낌으로 끝나 버려 그래서. 그 중에서 재미있는 것을 추출하는 것은 어렵습니다만, 단지 정보의 체계 자체는, 이제 재편해야 할 단계에 와 있을 것이라고. 그 재편하기에는 어떻게 하면 좋을까에 관해서는, 나 자신은, 지금까지는 어쩌면 사료 조사를 하고 있는 곳이 있었지만, 앞으로는 조금 전략적으로 수집할 필요가 있을 것이라고 생각 합니다. 그 하나의 방법으로 사료군을 분류하고, 그 분류에서 목성을 붙이고, 현지의 공문서관 등에서 조사를 한다는 방법이 있는 것은 아닐까 하는 제안입니다. 개괄적인 이야기이기 때문에, 여러분과 같이, 분명, 「아, 이것이 알았다」라고 하는 보고가 아니고, 조금 역시 감이, 수고하자 남는 것 같은 이야기일지도 모릅니다만, 그런 의미로 학술적 그런 의미가 있는 이야기가 아닌가, 이쪽으로서는 생각해 제안을 했다고 하는 것이 됩니다. (The purpose of 
this presentation is to share variety and quantity of historical sources about their journey. The sources are conserved in libraries or archives in various countries. It means international cooperation is necessary to continue documental research as the framework. I believe that as a met sources is helpful to seek for unfound documents. This presentation was an attempt for it as the first step.)
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23 유키 료고 『신사료 텐쇼 소년 사절』(남창사, 1990년)

Posted by Sejin at 4:10 PM  
Labels: 덴쇼 소년 사절단
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