2017-02-18

日本から見た韓国併合2b

日本から見た韓国併合2b

日本から見た韓国併合2
日本から見た韓国併合2

▼ 閔妃暗殺
明成皇后(閔妃)は親露派と連結して、日本の侵略勢力を排除しようとし、このため日本の侵略者らは明成皇后を弑殺する乙未事変を起こした。(韓国高校歴史教科書1996年版より)

閔妃暗殺事件で日本人を厳しく非難している韓国人であるが、その時に朝鮮人も行動を共にしていたことは意図的に無視されている。人数的には朝鮮人のほうが多かったにもかかわらずである。朝鮮の実権を掌握していた閔妃は、西洋列強の植民地化の危機下にありながらも自らの一族の繁栄のために、敵対する大院君一派との内部抗争に明け暮れていていた。しかも享楽に心を奪われて莫大な国費を浪費していたため徴税は一層厳しくなり、役人の不正ともあいまって民衆の苦しみは極限に達していた。そのような現状に危機感をいだいた朝鮮政客は、閔妃を暗殺しない限り朝鮮の独立と近代化は実現しないと考えていた。そのことは、南下政策を進めていたロシアを引き入れて、排日政策を進めていた閔妃を排除しないことには、日本の独立も危うくなると考える三浦公使らの考えとも一致した。こうして閔妃暗殺の事件となるのである。
「日韓共鳴ニ千年史」 名越二荒之助 平成14年 明成社
韓国を訪問した日本人がショックを受けることの一つに、閔妃(日本ではビンヒ、原音ではミンビ)殺害事件」があります。閔妃というのは、李氏朝鮮末期の、王妃(皇后)ですが、それを暗殺したのは日本人ではないか、と韓国側から詰め寄られるのです。閔妃の遭難碑は、国立民族博物館の側に建っています。(中略)これらの碑の前には、油絵で書かれた二枚の大壁画が掲げられています。その一つは壮士風の男二人が、日本刀を振りかざし、閔妃がキッと睨み返したものです。そしてもう一つの壁面には、閔妃の死体を焼いている惨状が画かれています。(中略・朝鮮人も行動を共にしたのに、日本人しか描かれていない。)天安市の「民族独立記念館」に行けば、殺害現場が等身大の蝋人形で再現されています。ここでも日本刀を振りかざした日本人が襲いかかり、血が飛び散っています。これは迫力があり、この惨状を目にした者には惨劇が焼きついてしまいます。韓国の国定教科書(中等教育用)にも「日本人が明成皇后(閔妃)を殺した」とはっきり書いていますし、修学旅行でこれらの絵や蝋人形を見た韓国の生徒たちの心の底に日本の暴虐ぶりが強烈に印象づけられるに違いありません。(中略)以上のような私の体験をもとに、ここでは「閔妃暗殺」について考えてみましょう。

三国干渉と親露派の台頭

李王朝末期の朝鮮には、高宗という国王がいたのですが、優柔不断で、名目上の存在に過ぎず、実際は国王の実父である大院君と、王妃である閔妃とが主導権争いに終始していました。それに宗主国である清国と結ぶ派(事大党)と、金玉均ら日本の近代化に学ぼうとする独立派(開化党)との思惑もからんで複雑多岐な権力争いが続き、とても正確に全貌を言い尽せるものではありません。宮廷内の蝸牛角上の争いは特に陰湿でした。閔妃が舅(しゅうと)の大院君を抑えて実権を握りだしたのは一八八二年の「壬午軍乱」が契機と言われます。閔妃が実権を握ると、「まず閔妃一族の栄達をはかる為に、国家有為の人物よりも、大院君排除に必要な策士を網羅し、大院君が生命をかけて撤廃した書院や両班の特権を復活させるため彼らを煽動し、儒者にへつらい、大院君系の人を根こそぎ追放、流刑、死刑にし、処世の改革を破壊、復元」(金熙明『興宣大院君と閔妃』)しました。閔妃は聡明多才、権謀術数に長じ、陰険にして残忍。妖婦型の逸話もたくさん残っています。独立党の金王均らは閔妃を追放しない限り、朝鮮の近代化は実現しないとして来日し、前章で述べたような「甲申政変」を起こし、一時は政権を獲得しました。しかし閔妃の画策で清の大軍を導入し、金玉均の革命は三日天下で終わってしまいました。二度ならず、三度までも閔妃によって清軍を大量に導入したのです。「閔妃を亡きものにしない限り、開化も独立も実現しない」というのが心ある朝鮮人の願いであり、「閔妃撃つべし」は日本人の声ともなりました。

そして明治二十七年(一八九四)、日清戦争が起ります。この戦争は宣戦の詔書(明治二十七年八月一日渙発)に「朝鮮をして禍乱を永遠に免れ、治安を将来に保たしめ、以て東洋全局の平和を維持せむと欲し」とあるように、朝鮮の確固たる独立と、アジアの安定のための義戦でした。当時の清国はまだ世界から「眠れる獅子」と警戒され、日本の勝利を信ずる国は皆無といってもよいほどでした。しかし開戦すると日本は連戦連勝し、明治二十八年一月七日、高宗は歴代の国王と王后を祀っている宗廟の霊前に於て、国政改革の施政方針(洪範十四条)を宣布しました(甲午更張)。その中には、「朝鮮は清国に依付する慮念を断ち、自主独立の基礎を確建する」とあり、清国との宗属関孫を断絶すること、そして国政は国王が各大臣と協議して採決し、王妃その他が干渉しないこと、などが謳われていました。更にその年の二月二十七日には、日本の教育勅語(明治二十三年発布。我が国の教育指針)に倣って「教育勅語」さえ公布しました。

しかし日本が日清戦争に勝利し、下関条約に調印したのが四月十七日。その直後の四月二十九日には早くも日本は露・独・仏の三国干渉に屈従し、遼東半島を手放さざるを得ませんでした。閔妃は西欧列強にはとてもかなわない日本の姿を見ると、掌を返したようにロシアに迎合してゆきました。ロシア公使はウェーベルという切れ者で、たちまち閔妃の心を掴んでしまいます。日本の顧問官が日夜心血を注いで作った法律や勅令を悉く無効にする詔勅を下し、閣僚は閔派、親露・米派で固めてゆきます。更には日本軍が育成した朝鮮の訓練隊も、解散させる気配を見せました。このまま推移したら日清戦争の成果は烏有に帰してしまいます。閔妃暗殺に参加した小早川秀雄の手記『閔妃暗殺』によれば、「朝鮮とロシアの関係を放置するならば、朝鮮はロシアのものになり、これは東洋の危機であり、日本の危機である。宮中の中心である閔妃を除けば、ロシアは相手を失う」とあります。同様の趣旨は、クーデターを背後にあって指導した三浦梧楼公使の「観樹将軍回顧録」(観樹は三浦の号)の中にも見られます。当時既に西欧列強は虎視眈々とアジアを狙っていました。イギリスはアヘン戦争によって清国を半植民地にし、インドを支配下に置いて、一八八六年にはビルマ全土を領有。フランスは清仏戦争に勝つと、カンボジア・ラオス・ベトナムを領有し(一八八五年)、ドイツも東方侵略を目指しています。ロシアはアイグン条約(一八五八年)によって沿海州を手に入れ、朝鮮にまで手をのばしています。このままゆけば朝鮮はロシアの支配下に置かれ、日本はロシアと戦わねばならなくなる。この際、閔妃一人を犠牲にすればこれが防げる、という思惑が日本人の間に働いたわけです。

閔妃暗殺のクーデター

それに閔妃暗殺を狙ったのは、日本人だけではありません。閔妃暗殺は反閔妃派の朝鮮政客の願いでもありました。閔族の横暴甚しく、怨嗟の声が国中に満ちていることを憂慮した李周會将軍(りしゅうかい・元軍部次官)や、日本軍に養成された訓練隊長の李斗[王+黄]、禹範善等は、特に危機感を抱きました。その頃、ウェーベル公使は閔妃を使って最も規律厳正な訓練隊の解散を画策している情報が入りました。彼ら反閔妃政客の上に何時危害が及ぶか予断を許しません。彼らは悶々の情を抱いている大院君を押したてて事を起こそうとしました。三浦公使は「首謀者は大院君、実行部隊は朝鮮の訓練隊」というシナリオを描いていました。しかし朝鮮人だけではとても実行できないと知り、日本の民間有志も続々加わりました。当時朝鮮にいた与謝野鉄幹も、ひとかどの志士気どりでいたのでしょう、次のような歌を詠んでいます(『東西南北』より)。
  韓山に 秋風立つや 太刀なでて われ思ふこと なきにしもあらず

三浦公使は、決行日を十月十日(明治二十八年)と定めていましたが、十月七日朝鮮政府は訓練隊の解散と武装解除を通告してきました。訓練隊を解散させられたら、使うことができなくなってしまいます。そこで翌八日未明、事を起したのです。俄か作りの日朝混成軍の中で誰が手を下したのか。その経過については色々の説があって、正確に事実を掴むことはできません。騒然たる混乱の中で、女性三人を殺しています。時に午前八時三十分、閔妃四十五歳。その後、閔妃とおぼしき者の遺体を焼き捨てたのです。閔妃を抹殺して意気あがる大院君は、総理大臣金弘集に命じて閔派の閣僚を罷免しました。組閣を終った金首相は、閔妃のために速かに国喪を発するよう大院君に言上しました。しかし大院君は「王妃は廃して庶人にするつもりだから、国葬は行なわない」と言明しました。庶人にするとは平民にするというわけで、皇后から一挙に平民に格下げしたのです。それどころか閔妃の罪悪を挙げる詔書を、国王に出させました。日本は列国との修復を図るべく、井上馨を特命全権公使としてソウルに派遣しました。彼は大院君に対して、「死ねば皆仏になる。過去を水に流して王妃の菩提を弔って、民心の安定をはかること」を勧めました。しかし閔妃を復位させ、「明成皇后」の諡号を贈り、国葬を行なったのは、大韓帝国が誕生した後の明治三十年十一月のことでした。

全責任を負って処刑された李周會将軍

閔妃殺害事件をめぐってロシア公使ウェーベルは動き始めました。そのこともあってか、外国の政府代表は大院君政権の承認を拒否し、直接、高宗国王との交渉を主張しました。しかし、どの政府も国益を重視して、この暗殺問題で日本に抗議した国はありませんでした。日本政府としては欧米諸国との不平等条約(関税自主権や外国人を裁判する権利が日本に認められていなかった)を改正するという悲願もあり、対外的な配慮もあって三浦公使以下四十余名を広島の獄に送り、裁判にかけました。それを知った李周會は悩みました。彼はかつて国王に対して「閔妃と奸臣を宮廷から遠ざけ、国王親政を実現するよりほか、国家の滅亡を救う道はない。それができなければ、自分の首を斬って貰いたい」と死をもって諌言したことがあります。その時国王は聞き容れず、李周會を宮廷外に追い出してしまいました。それ以来彼は官を辞し、野に下って日朝の志士と往来し、八方画策しておりました。そしてこのたび閔妃事件が突発し、三浦公使以下は獄に繋がれました。彼は「日本が我国のために尽してくれたことは数えきれない。このたび公使以下多数の志士が拘留せられた。朝鮮人として見るに忍びない」として閔妃暗殺の全責任を負い、自分が閔妃を殺害したと供述し、他の二人(尹錫禹、朴鉄)と共に処刑されました。時に明治二十八年十月十九日、五十三歳。

三浦梧楼公使は広島の獄中でこのことを知って痛哭し、次のような七言絶句の詩を作りました。
  廃沢荒山玉尚存 銀難国歩哀王孫
  無由一束供青草 涙向西天灑義魂
  〈荒廃した朝鮮にも玉のような心があった。朝鮮国の前途を思えば気の毒に堪えない。自分は獄中にいるため献花することもできず、西の空に向かって李周會の義魂に涙を注ぐのみである。)
刑の執行後、李周會の遺骸は逆徒として山に棄てられ、遺族も国法により死刑に処せられようとしました。しかし、夫人は子供を連れて地方に遁(のが)れ、行方をくらますために母子は生別し、幾多の辛酸を嘗めました。母子が再会できたのは日韓併合後のことでした。昭和四年、頭山満、内田良平等は有志から資金を募り、遺骨を龍山の瑞龍寺境内に移し、処刑された三人の顕彰碑を建てました。

閔妃(明成皇后)は国家の衰亡と国民の困窮を顧みることもなく、自らの一族の繁栄だけを追い求めた傾国の権力者で、清の西太后のような存在だった。
「韓国 堕落の2000年史」 崔基鎬 平成13年 詳伝社
傾国の政治家・閔妃の登場 (灰色文字は管理人注)

大院君は自分に従順な娘を、高宗の王后としようと捜していた。大院君は妻の閔氏の実家の紹介で、兄弟も姉妹もいない15歳の閨秀(後の閔妃)のことを知った。閔妃は困窮した家庭の育ちで、8歳で父母と死別していた。しかし、賢かったために、親戚のあいだで評判がよかった。そこで大院君はこの親も兄弟もない閔妃を高宗の姫に決め、王妃として冊封した。閔妃は王妃になって宮中に入ったものの、王妃とは名ばかりの存在だった。高宗は当時、宮女である李氏を愛して同居しており、正妻である閔妃にはまったく関心を示さなかった。だが、閔妃はいっさい、愚痴をこぼすこともなく、よく礼儀作法を守ったから、宮中で称賛された。その間、李氏は高宗の寵愛を独占したが、男子を出産し、完和君と命名した。祖父である大院君は、大いに喜んだ。閔妃は大院君が満足する姿を見て、不満と嫉妬を爆発させた。そして隠していた爪を、秘かに用いはじめた。天性の政治的手腕を発揮して、大院君に対する謀略をめぐらした。

大院君は閔妃に対して警戒心をまったくいだいていなかったために、油断していた。閔妃は、そこに乗じた。閔妃は、大院君の反対勢力を糾合して、自分の勢力を構築するかたわら、夫の高宗の愛を独占しようと、あらゆる努力を傾けた。そして、1874年に、男子を出産した。後の純宗王となった王子拓である。大院君は、ようやく閔妃の・戚族一派が策動しているのを見抜き、李氏の子である完和君が長男であったことから、世子(世継ぎ)として冊封しようとした。閔妃と大院君との闘争が激化した。彼女は利発だった。閔妃は側近の李裕之を北京に派遣して、清朝から拓を嫡子として承認してもらうことに成功した。

閔妃は、摂政の大院君から嫌われて権力の座から遠ざけられていたあらゆる階層と連絡をとり、不満勢力を抱き込んだ。自分を中心とする政治勢力を形成したうえで、儒生の崔益鉉を煽動して、大院君の攘夷鎖国政策を弾劾させた。崔益鉉は国王に上訴した。閔妃と大院君との溝は日増しに深まり、爆発寸前に追った。だが、ここでは国王の意志が絶対だった。国王を掌中に入れていたのは閔妃のほうだった。1873年、大院君は9年余にわたった摂政の座を降りて、野に下ることを強いられた。そうして高宗の親政が始まった。が、高宗はあいかわらず酒色に耽っていたから、実質的には閔妃の専制となった。高宗は、妻の閔妃が実父である大院君を追放して、戚族と勢道の悪政を復活させても、享楽に心を奪われていた。李朝の王たちは倫理観を、まったく欠いていた。大院君が失脚したことによって、実権は閔妃一族に移った。閔妃一族の開化党による新政権は開化政策に転換して外国に門戸を開放し、日本や欧米列強との間に修好条約を結んだ。このために、開化党と、清への忠誠を誓う事大党との間の軋轢が、深刻化した。

閔妃は王子拓を世子として冊封するために莫大な資金を費やした。そのうえ、閔妃は世子の健康と王室の安寧を祈るために、「巫堂ノリ」を毎日行なわせた。「巫堂ノリ」は巫女(シャーマン)たちが狂ったように踊り、祈る呪術である。そのかたわら、金剛山の1万2000の峰ごとに、一峰あたり1000両(朝鮮の1両は銭10枚、日本では4000枚)の現金と、1石の米と1疋の織物を寄進した。つまり、合計して1200万両の現金と、1万2000石の白米、織物1万2000疋を布施した。当時の国家の財政状態は、150万両、米20万石、織布2000疋を備蓄していたにすぎなかったから、閔妃が金剛山に供養した額は、国庫の6倍以上に当たるもので、とうてい耐えうるものでなかった。これは法外な浪費だった。宮廷の要路(重職)の顕官たちは、民衆から搾取して、競って閔妃に賄賂を贈り、王妃に媚びて「巫堂ノリ」に積極的に参加し、巫女たちとともに踊った。閔妃は、狂気の宮廷に君臨する女王だった。また、閔妃は音楽を好んだので、毎夜、俳優や歌手を宮中に招いて演奏させ、歌わせた。そして自分も歌った。俳優や歌手たちに惜しみなく金銭を撒いて、遊興した。
(中略)
日本のおろかな女性作家が、閔妃に同情的な本を書いたことがあるが(角田房子著「閔妃暗殺」と思われる)、閔妃は義父に背恩したうえに、民衆を塗炭の苦しみにあわせ、国費を浪費して国を滅ぼしたおぞましい女である。このような韓国史に対する無知が、かえって日韓関係を歪めてきたことを知るべきである。
(中略)
李朝は信義がまったくなかった。そのために国際的な信頼を得ることも、まったくできなかった。高宗は、実父の大院君と后の閔妃とのあいだで激しい闘争が繰り広げられている間も、傍観をつづけて、多数の犠牲を出した。閔妃の政策も、ある時は清国に接近し、ある時は日本に擦り寄り、親清かと思えば、親日に変わり、日本を捨てると、ロシアと結んだ。庶民の生活を思いやることが全くなかったのは、李朝の支配者の通弊であったとしても、高宗の実父であり、恩人であった大院君を追放し、清国の袁世凱をそそのかして逮捕させるなど、智謀家ではあったが、その行ないは倫理に大きくもとったものだった。背恩忘徳の生涯であった。高宗も、閔妃も、大院君も、ただ権力を維持するために、その時々、力がある外国と結んで利用し、政治をもてあそんだ。
「李朝滅亡」 片野次雄 1994年 新潮社
国王と王妃の堕落ぶりは、目に余るものがあったらしい。ある側近は、宮中の腐敗ぶりを、次のような文章で手記に留めている。
『宮中はつねに長夜の宴を張って歓楽を尽くし暁に至るが常なるが、故に国王も閔妃も寝所を出ずるのは、いつも午後になるのが常習なり。かくして政務、謁見は、つねに午後に決まれり。斯の如くにして、宮中の空気は益々混濁腐敗し、魑魅魍魎の巣窟たる観を呈し苛性百出、百姓は冤罪に泣き、誅求に苦しみ、怨嗟の声八道(朝鮮全土をさす)に満つ…』
「わかりやすい朝鮮社会の歴史」 朴垠鳳 石坂浩一・清水由希子訳 1999年 明石書店
明成皇后に対する評価は、20年あまりに及ぶ彼女の執権期に施行された政策とその結果に基づいて、冷静になされなければならない。明成皇后を頂点として閔氏一族が執権した1873年から1895年までは、わが国にとって非常に重要な時期であった。押し寄せてくる西洋列強、根幹から揺らぐ封建体制、新たな変化を求める動き、こうした多様な勢力が絡まりもつれ合って壬午軍乱、甲申政変、東学農民革命などの事件が起きた。

大院君の対応策が「鎖国」であった反面、明成皇后の対応策は「門戸開放」であった。明成皇后は、1876年に日本と結んだ丙子修交条規を手始めにアメリカ、イギリス、ドイツ、ロシア、フランスなどと次々に修交条約を結んでいった。明成皇后に、西洋列強との修交を積極的に勧めたのは清の北洋大臣、李鴻章である。朝鮮における清の既得権を守りつつ、西洋勢力を引き入れて日本の独走を防ごうという考えからであった。夷をもって夷を制すという清の「以夷制夷」政策である。

人によっては、明成皇后が『卓越した明敏な判断力をもとに西洋各国と同等な立場で条約を結び、<以夷制夷政策>をとることによって日本を牽制した』と激賞したりもする。しかし、外国勢力を引き入れて自領を争いの場にした行為は、「以夷制夷」の本来の意味からはかけ離れている。のみならず、この時、朝鮮が西洋と結んだ条約が明らかに不平等条約であったことはすでに解明済みの事実である。

結果はどうあれ、門戸開放した朝鮮の当時の当面の課題は自主的な近代化を成し遂げることであった。西洋の先進文物を取り入れ、富国強兵と産業振興を目指すと同時に、古くなった封建制度を捨て去って新たな秩序を打ち立てなければならなかった。明成皇后と閔氏政権は、この内どれ一つとして満足にできなかった。その結果、どの勢力からも支持を得られなかった。開化反対を叫び壬午軍乱に参加した群衆は、明成皇后を攻撃の的にし、甲申政変を起こした開化派も東学農民軍もすべて明成皇后と閔氏一族の打倒を叫んだ。誰からも支持を取り付けられなかった明成皇后は、外国勢力に頼った。壬午軍乱と甲申政変を武力で鎮圧し、明成皇后が再び執権できるようにしたのは清であった。東学農民革命が起こるや清に援軍を申し入れて日本軍上陸の口実を提供し、その結果、わが地を日清戦争の戦場とした張本人は、まさに明成皇后であった。

『わが国の全羅道管轄下にある泰仁・古阜などの村に住む民は粗暴で狡猾な性格をしており、普段から統治するのが難しいといわれてきました。最近になって東学教匪が不逞の輩どもを一万名余りも集めて十以上の村を攻略し… 壬午軍乱、甲申政変と、わが国に二度起きた内乱は皆、天朝兵士の力を得て平定いたしました… 』。
閔泳駿が、ソウルに滞在していた清の総理朝鮮通商交渉事宜、袁世凱のもとを訪ねて援軍を要請した際に手渡した手紙である。日清戦争がわが国で行われたのは東学農民革命のせいではなく、明成皇后率いる閔氏政権の腐敗と無能、外国勢力依存のためであったのである。
閔妃が現代の韓国で高く評価されているのは、王妃殺害という異常性で日本人の贖罪意識を引き出し、その上に立っての対日糾弾を行えるカードとして使えるからであろう。

閔妃(明成皇后)の北朝鮮での評価は、「列強に依存して政権を維持し、人民に対する苛酷な搾取を行った」と否定的。
Link 韓国・中央日報日本語版 明成皇后、北では「保守勢力の擁護者」

閔妃と大院君の権力闘争史は、そのまま李氏朝鮮亡国への歴史でもある。植民地化の危機に際して、適切な対応策を取ることもなく党派争いを繰り広げ、お互いに外国勢力の力を借りて敵対勢力を弾圧した。閔妃は大院君に何度も命を狙われていたのである。
ニューヨーク・タイムズ 1908年4月5日号 (「外国新聞に見る日本4」 1993年 毎日コミュニケーションズ)
(アメリカにおける朝鮮についての最高権威であるジョージ・トランブル・ラッド博士の記事)

故王妃暗殺の下手人は日本兵だという説については、三浦将軍(公使)が暗殺計画に荷担し、一部の日本人壮士たちが韓国兵を援助したことは、どうも事実のようだ。しかしこの王妃は、頭はよかったが朝鮮の玉座にとってすら恥となるほど最も残酷な人物の一人で、何年も国王の父、大院君と政争を続けており、この間両派閥の殺し合いはまるで毎年の挨拶交換のように行われてきたものだ。
「朝鮮の悲劇」 F.A.マッケンジー 1908年 (渡辺学訳 1973年 平凡社東洋文庫)
(著者のマッケンジーはロンドンのデーリー・メール紙の朝鮮特派員で朝鮮に対し同情的であった。 *注 閔妃と大院君に関する個所の抜粋です)

大院君は、摂政としてその子である国王高宗が未成年である間、政権を掌握していた。彼は、その統治の初期、貴族勢力に対抗して王権を確立するため、強硬な路線をとった。徹底した鎖国主義で、かの最悪のキリスト教大迫害も、彼の治世下で行なわれた。国王が成年に達したとき(1873年)、大院君は、これまでと同じように、事実上の統治者としてとどまろうとはかった。彼は当初、「大老」の称号を与えられて、玉座の影からその勢力を維持していた。しかしそれも、国内に新しい勢力が台頭してきたため、長く続かなかった。懦弱であった国王は、閔家の息女と結婚したが、王世子(世継ぎの王子)が生まれてからは、王妃(閔妃)の権勢は日々に大きくなっていった。この王妃もまた、大院君その人と同じように、彼女なりに果断な性格の持ち主であったから、やがて二人の間に極めて激しい争いが起こった。王妃の兄閔升鎬が領議政(総理大臣にあたる)になって。大院君の職権を次々と剥奪していった。しかし、大院君とてそうたやすく追い出されるわけもなかった。彼は、数多くの扇動的なたくらみに着手した。ある日、王妃の寝室の一隅が爆破されたが、それは、大院君の部下がそこに爆薬を仕掛けたからだ、と人々によって噂された。またある日、領議政の閔升鎬は、王宮からと思われるひとつの箱を受け取った。彼の家族たちがその内容を見ようと周囲に集まった。ところがその箱の蓋を開けたとたん、それは爆発した。それは偽装爆弾であった。そしてこの爆発によって領議政およびその母と子が死亡した。その箱は大院君から来たものであった。

(1875年江華島事件 鎖国から開国へ)
日本との条約(日朝修好条規 1876年)は、大院君の反対を押しきって締結されたものであった。それで、大院君はただちに、それを王妃攻撃の武器として用いたが、1882年に至るまで大院君に好機は到来しなかった。同年5月、朝鮮とアメリカ合衆国とのあいだに条約の調印をみた。それによって、アメリカに対して朝鮮は門戸を開放したのである。その年の夏、朝鮮は大干ばつに見舞われた。穀物は枯れ果て、政府の財源は枯渇して、軍人や官吏の給料は不払いとなり、食料も欠乏した。人々は、『これは天の怒りだ』とか『我々は外国人の入国を許した。そしてその結果がこれだ』とかささやきあった。大院君の部下たちは忙しく東奔西走していたが、1882年7月23日夜半、彼らに率いられた暴徒の群れは、政府高官の私邸を襲い、彼らを寸断した後、ついに王宮へと侵入した。軍人たちもこの暴徒の群れに合流し、統治層を打倒せよとの激しい叫びは口々に爆発した。国王は奇跡的にも逃れたが暴徒たちは、閔妃だとばかり思い込んだ死体を凝視していた。誰もが、閔妃は大院君の指図によって毒殺されたものと考えていた。しかし、閔妃は、暴徒の侵入の報に接するやいなやいち早く用意を整えた。すなわち、一人の侍女が閔妃のいる王宮で毒薬を飲み、閔妃はこっそり自分の部屋を抜け出したのであった。そして下僕の一人が彼女を背にして、怒り狂う暴徒の群れをかきわけてくぐり抜け、安全な場所へと逃れ去ったのである。暴徒の他の一群は日本人を襲撃した。街路上で離れ離れになっていた日本人たちは、たちまちにして殺害された。また多数の群衆が日本公使館を襲撃し、建物に火を放ったので、日本側は撤退せざるをえなかった。彼らは闇にまぎれてソウルを抜け出し、済物浦(今の仁川)へ落ちのびたが、途中で襲撃を受け、5名が殺害された。彼らは海上に逃れ本国に引き揚げたのであった。(この事件を壬午軍乱と呼ぶ)

日本国内では、朝鮮に対する即時報復説が台頭した。国内各地からの義勇兵志願者たちは、朝鮮におもむいてこれらの野蛮人どもと戦うことを許可するよう騒ぎ立てたが、日本政府は、これに対して懐柔的な方策を採った。公使花房義賢は、多数の武装護衛隊をしたがえて再びソウルにのりこみ、朝鮮政府に対して賠償を要求した。一方中国は、暴徒鎮圧のため4000名の軍隊を派遣した。閔妃は、逃避先から保護を求める要望書を北京に送り、大院君を犯罪的行為を犯した一派であると指摘した。これに対して大院君は、自分の計画が失敗したのを見て、花房に対して、これらの暴徒は自分の強力な制止努力にもかかわらず突発蜂起したものだと弁明した。中国の軍隊はソウル市街をその支配下に置いた。いっぽう日本政府は、巨額の賠償支払い、新しい公使館の設立、そして貿易・旅行上の特別の便宜供与を朝鮮政府に約束させた(漢城条約)。中国の軍隊は、残酷な方法で暴徒を処刑した。大院君自身も自由に行動することを許されなかった。彼は中国軍陣地の宴会に招かれたが、彼がそこに到着するやいなや海岸に連れて行かれ、そして船に乗せられて中国に送られたのである。李鴻章は、彼を罪人として白塘沽に送り、大院君はそこに、数年もの間拘留されたが、しかしこの白塘沽でも大院君は、いろいろな方法で、王座に対する策謀を引き続きはかったのである。。日本公使館襲撃と中国の干渉とは、後になって、日清戦争により解決されるに至る問題を引き起こしたのである。閔妃は、王宮に帰ったが、その勢力は以前にも増してよりいっそう増大した。

1886年、大院君はその抑留地(中国)から帰国し、日本人官憲たちと友好同盟を結んだ。かつては国王を後見したこともある大院君も、今ではすでにその栄誉の大部分を剥奪され、その寵愛する甥の投獄を防ぎうるだけの権勢さえも、今はもうもっていなかった。しかし、彼はまだ、数多くの秘密の手下たちに対して、その忠実な奉公を要求することが出来たから、これらの人々を通じて、徐々に活動を開始した。

(1894年 東学党の乱(甲午農民戦争)が起こり日本は朝鮮に出兵、続いて日清戦争となる)
日本軍は朝鮮の首都ソウル支配の配備をとった。7月23日日本軍の一隊はひそかに王宮に向かって進み、はしごを使って塀をのりこえ、王宮護衛兵とわずかな戦闘を交えたのち、王宮を占拠した。日本は大院君を呼び寄せた。大院君は、このような動きの中で日本に協力し、再び政権の座についた。しかし、彼は、日本側のとった措置に驚いて、自分の新しい権力を行使しないまま、数日後にその職務を放棄した。日本軍護衛兵が王宮から撤退した頃、閔妃一族の政権からの放逐が行なわれたのである。ほんの数ヶ月前までは、この王国の重要ポストのすべてを掌握していたのであるが、それが公職から一掃されて、国家の新しい諸部署の中にはただの一人も居ない、というほどになってしまった。

(日本が日清戦争に勝利するも獲得した領土を三国干渉で放棄させられる)
新しい勢力が、朝鮮の面前にしだいに強力に立ち現れてきはじめた。帝政ロシアが東方への道をとりはじめたのである。シベリア横断鉄道が太平洋岸に向かって敷設を急いでいたし、ソウルではロシアの手先たちが無遠慮にその進出政策を押し進めていた。大院君の一時的な勝利は長く続かなかった。王妃が再び前面に立ち現れてきたのである。王妃は次々と自分の一族の者たちを引き立てて官職に復帰させた。王妃は、時には日本とともに、また時には日本に敵対して、密謀を重ね、それによって週ごとにその勢力を増していった。そしてその年の夏までには、年老いた大院君はまったく退けられてしまった。次に王妃は、(開化派の)朴泳孝の打倒を進めた。彼は、自分を大臣の職から罷免するという命令に接したとき、身の危険を察して日本公使館に保護を求め、日本の汽船に搭乗して脱出し、かろうじて逮捕を免れたのである。彼は、『王妃は抜け目のない、野心に満ちた女性である。彼女にはただ一つの目的がある。それは閔氏一族に権勢を掌握させることである。閔氏が統治を掌握する限り朝鮮には何らの変化をも生ずることはないであろう。今日の我が国民は、まったく王妃のものであって、その思いのままに取り仕切ることが出来る。国民の生命や財産でさえも王家に所属しているのである』と、語ったという。

夏も深まった頃、王妃が日本の利権に対して直接的な敵対行為をしていることが次第に判明してきた。9月の初め、三浦梧楼が公使として赴任してきた。彼は、自分自身が常に王妃の頑固な妨害を受けていることに気がついた。彼の計画という計画はすべて、王妃によって挫折せしめられた。王妃は日本にとって恐るべき人物の一人であり、三浦もそのことを知っていた。ちょうどこの頃、大院君とこの新任公使とは互いに接触し始めた。日本人の説明では、大院君の方から密かに三浦に接近したのだという話だが、おそらく、杉村が、両者の仲介役となって、行動の手順などを計画したものであろう。大院君は再度権勢の座につくことを切望し、三浦は衰退の一路をたどる日本の勢力挽回を願望していた。両者の願望の前に立ちふさがっている王妃を払いのけさえすれば、ことはすべてうまく運ぶはずであった。双方は、行動路線について何度も協議し、お互いの果たすべき役割はすべて順調にとり進められた。10月3日、三浦、杉村、そして朝鮮政府の軍務衙門および宮内府の顧問であった岡本柳之助が、彼らの騒動の計画を決定するため日本公使館に集まった。大院君が、その復帰の後、実際の国政関与において自制すること、ならびに、日本の望む通商上および政治上の特権を供与すること、これが明確に公約されなければ、行動は起こさないことになっていた。この要求は文書に作成された。もし大院君がこれらの要求に同意すれば、日本軍、日本警察はもとより、朝鮮軍つまり日本人によって教育され統率されていた『訓練隊』は、王宮に侵入して、国王をとらえ、王妃を殺害した後、大院君の執政を宣言するはずであった。すなわち、日本側報告公文書の正確な辞句を引用すれば、『(大院君、入闕ヲ援ケ)其機ニ乗ジ、宮中ニ在テ最モ権勢ヲ擅(ほしいまま)ニスル王后陛下ヲ殪(たお)サント決意シタ』(明治29年1月20日広島地方裁判所予審終結決定書)である。岡本は、大院君をその孔徳里の私邸に訪問し、その文書を示して参加を促した。当時すでによわい八十歳に達していた大院君は、その子息や孫とともにそれに同意し、彼自身は日本の保護下におかれる、と文書をもって約束した。

血を血で洗う李朝の内紛。閔妃は義父大院君を清国に讒言(ざんげん)して失脚させただけでなく、殺害を図った。
「梅泉野録 ―近代朝鮮誌・韓末人間群像―」 黄○著 朴尚得訳 1990年 図書刊行会 ○=[王+玄]
(『梅泉野録』は李朝末期の野史として重要な史料、著者は黄[王+玄](こうげん))
閔妃の大院君殺害陰謀

壬辰(高宗29年、1892年)春、盗人が雲[山+見]宮に入ったが、捕えられなかった。大院君が排斥されて、もう永いこと経った。往き来する者がいると、奇禍にあうので、客人が永いこと杜絶え、門の外は草で塞がれていた。

しかし、明成王后(閔妃)は、あくまでも彼を忌み嫌った。ひそかに殺害しようと、陰謀をはかった。事は極秘に付され、多くは外部に聞かれなかった。ある夜、大院君は気持ちが暗く、ぼんやりし、独り寝るのは厭になった。枕や布団などで、まるで人が寝ているかのようにつくろっておいた。寝室に移り、座って、様子を伺っていた。しばらくして、戸を叩く音がしたので、往ってみると、匕首(あいくち)が枕に刺さっていた。侍者は色を失った。大院君は『とり乱したことを言ってはならない。これは、きっと鬼かばけものの仕業であろう』と言った。

翌日、府大夫人・閔氏(大院君夫人)が、とても驚き、すぐ宮中に入り、王の前で泣きながら訴えた。王は、じいっと見ているだけであった。閔氏は泣きながら出た。都下の人びとは伝えあい『寒くもないのに体が震える』と言った。

その後また、ある夜、大院君が不安で、以前あったことと似たことが、起こりはしないか、と思われた。嘆いて『おかしなことだ。私がどうして、ついに死なずにいられようか』と言った。とうとう起き出し、家の前の軒あたりを散歩していた。突然、部屋の中が急に崩れ落ち、火の玉が家屋の梁を打った。思うに、火薬が続けて爆発したものである。大院君は急ぎ、命じて、小さな客間と山亭の竈(かまど)の焚き口を調べさせた。ふたとこに、それぞれ、一斗ばかりの火薬の塊があった。しかし、火縄に、尚まだ熱が及んでいなかった。小さな客間は、その子、李載冕が居住し、山亭は、その孫・李○鎔が居る処である。

翌日、大院君は家のものに向かい、『私たち祖父、子、孫は、みな、同じ年で、今年生まれになった』と言った。三世代がともに、この年月日に再生した、と言うのである。
朝鮮では王族に対する殺害が驚くほど多い。李朝500年の間に16人の王子と数十人の王族が党派争いなどで処刑、殺害された。高宗皇帝も1898年にコーヒーに毒を盛られるという事件があり、皇太子が深刻な後遺症を負った。

閔妃暗殺は三浦公使の指示による日本人の手によるものとされているが、朝鮮人の部隊も参加していたことはほとんどの書物で無視されている。この事件の最中王宮内に居たロシア人技師が、閔妃暗殺の惨劇と朝鮮人部隊の参加を目撃していた。下記の文は当時朝鮮を旅行していたロシアの軍人が聞き書きしたものである。
「朝鮮旅行記」 ゲ・デ・チャガイ編  井上紘一訳 1992 平凡社東洋文庫
『1895―1896年の南朝鮮旅行』の章 カルネイェフ(ロシア参謀本部中佐)

1895年11月26日に実行された王妃暗殺では、間違いなく大院君(国王高宗の父)がかなりの役割を演じていた。(中略)

午前3時、王宮を日本軍(守備隊)が包囲し始めた。日本軍の一部隊は北西門に配備され、北東門に集結したのは、日本人によって教育された朝鮮兵(訓練隊)約300人である。(中略)宮中では、日本軍と朝鮮軍の兵士によって王宮が包囲されたことが明らかとなるや否や、国王は前の農商務相李範晋に米国とロシアの公使館へ駆け込み、救援を求めるよう命令した。(中略)

午前4時過ぎ、最初の銃声を合図に数名の日本人が、差掛けはしごを伝って王宮の壁を北側からよじ登った。南壁をよじ登った者たちが銃撃で歩哨を追い散らして、正門を開けたので、正門の外に待機していた朝鮮兵が怒涛のごとく乱入した。一方、北門を押し破って侵入した日本軍や朝鮮軍の兵士らは、差掛けはしごを用いて北の小門を乗り越え、銃撃によって宮中の衛兵(侍衛隊)を追い散らした後に、門を開放して、王宮の北の部分を占拠した。王宮の中央部は日本人将校指揮下の朝鮮兵部隊が陣取り、国王の居間では、庭園に出る扉と宮殿の内部に通じる扉のそれぞれに、日本兵が二名ずつ立哨していた。王妃の離れが所在する中庭は、平服に軍刀を帯びる日本人で充満していた。彼らの何人かは、抜き身の刀を手にしていた。この群団の指揮者もやはり、長い刀を帯びる日本人だった。

彼らは中庭を走り回って、王妃の所在を聞き出せると判断される人々を捕まえては打擲するも、誰一人として彼らの求める情報を与えた者はいなかった。王妃が女官の間に身を隠しているに違いないと考えた日本人たちは、か弱い宮廷婦人を手当たり次第に殺しだした。日本人らは婦人たちに襲いかかり、王妃の引渡しを要求するのだった。王妃と全ての女官たちは口裏を合わせて、王妃はここにいないと答えていた。しかし、哀れなる王妃の神経がもはや耐え切れなくなって、彼女が廊下へ逃げ出すと、一人の日本人が脱兎のごとくその後を追い、王妃を捕まえ刺し殺した。しばらく経って、日本人らは殺害した王妃を近くの林に運び出し、灯油を振り撒いた上に火を放って焼却した。1895年11月26日の流血劇は、こうして幕を閉じた。

日本人らが自らの虐殺を実行していた頃、南門からは日本軍兵士とともに大院君が、そして彼とほぼ同時に三浦公使も王宮に入った。彼らは直ちに王の許に赴き、王妃からその称号を剥奪し、平民の身分に降格させることを宣する布告に署名するよう迫った。

<同書解説から>
特に印象に残ったのは、カルネイェフが伝える閔妃暗殺の現場報告である。これは恐らく、現場に居合わせて一部始終を見届けたロシアの建築家セレドニン・ソバチンに直接取材した聴書であろう。
(これはロシア軍参謀本部中佐の報告書であり、日本とロシアが朝鮮をめぐって厳しく対立していた当時の時代背景も考慮する必要がある)
この事件に朝鮮兵も参加していたことからも分かるように日朝だけの問題ではなく、朝鮮内部の主導権争いも複雑に絡み合っていたのである。閔妃はか弱い王妃ではなく、政敵を次々に葬っていた冷酷非情な権力者で、大院君とも激しく対立していた。

韓国人が閔妃暗殺事件を説明する時に「外国人の暴漢たちが東京の皇居に侵入し美智子皇后を惨殺されたのと同じことだ」と日本人を非難しているが、そもそも閔妃の罪業と本性を無視して日本の皇后と同列に置いて述べるのが間違っているのだ。
「閔妃暗殺」 角田房子 1988年 新潮社
(灰色文字は管理人注)
閔妃が産んだ王子[土+石](せき・高宗国王の次男、後の純宗皇帝)は世子(皇太子のこと〉と定められ、領議政(総理大臣に相当)李裕元を世子冊封都監に、左議政李最応を世子傅に任命して、盛大な祝典が挙げられた。だがまもなく、李裕元を困惑させる情報がはいった。それは――宗主国である清国は、生母が王妃か側室かを重視せず、長幼の序列にしたがって、李尚宮(高宗国王の側室、尚宮は女官の位)が産んだ完和君(高宗国王の長男)を世子として認許する意向らしい、というものであった。

(中略)
李裕元は翌一八七五年、世子冊封使として北京へ行き、それまでの裏工作を土台に運動を続けた。その結果、閔妃の産んだ[土+石]は清国からも世子と認められ、次代の王の座を約束された。世子問題がもつれてから六年後の一八八○年、一時は清国が世子として認許すると噂された完和君が急死した。閔妃の密命で毒殺されたとの説が強い。いま昌徳宮に暮す英親王(李朝最後の皇太子李垠)の未亡人、李方子(りまさこ、日本の皇族梨本宮出身)もその著書『流れのままに』に、次のように書いている。
「じつは[土+石]殿下より六年早く、側室の李氏を母として完和君が誕生されていますが、十三歳のとき急死され、閔妃の陰謀による毒殺説が流れたまま、真相はいまだに謎となっているそうです」
「梅泉野録 ―近代朝鮮誌・韓末人間群像―」 黄○著 朴尚得訳 1990年 図書刊行会 ○=[王+玄]
(『梅泉野録』は李朝末期の野史として重要な史料、著者は黄[王+玄](こうげん))
◇完和君の卒去 (灰色文字は管理人注)

巳卯(高宗十六年、1879年)春、完和君・李[土+善]が卒去した。外部に伝わる噂によると「明成王后が塩辛の瓶に逆さに入れて殺した」とか「(洗濯に使う)砧の棒で叩いて殺した」との事である。

◇李[土+岡]とその母・張氏

義和君・李[土+岡](高宗国王の三男)は、尚宮・張氏の出自である。李[土+岡]が生まれた時、明成は怒った。刀を掴んで張氏の所に行き、その窓に刀を差し込み「刀を受けろ」と怒鳴った。張氏はもともと力が強かった。すぐに片手で刀の柄を握り、片手で窓をおし開けて出て、ひれ伏して命乞いをした。髪は乱れて垂れ下がり、顔は掩(おお)われて見えなかった。明成は憐れに思い、刀を投げ捨てて笑いながら「よろしい。大殿の寵愛を受けているそなたを、今は殺せない。しかし、宮中に置くことはできない」と言った。力士を呼んで縛らせた。陰溝のそばの両方の肉をえぐり、外に担ぎ出させた。張氏は、その兄弟を頼って十余年生きたが、傷に苦しみ、死んでいった。
SAPIO 2003年2月26日号
(灰色文字は管理人注)
明成皇后(閔妃)ブームの怪(下) 「朝鮮のジャンヌダルク」どころか亡国の女帝 金完燮

朝鮮王も畏怖・非難した閔妃の残虐性と浪費

事実、閔妃はその攻治的な性向から、改革に激しく抵抗した反逆者であったが、人格的にもそれほど肯定できる人物ではなかった。閔妃は王妃になって以来、高宗の愛妾たちをことごとく捕らえて拷問したり殺害したと伝えられている。当時の宮中の権力は王妃が管掌する内命婦(宮中の女官)と王が管掌する外命婦(王族の娘、妻、高官の妻の総称)に分かれていたが、王といえども内命婦のことに関与できなかった。従って皇后には王と同衾(一緒に寝ること)する女官たちを拷問したり殺害する権限もあったということだ。閔妃は高宗の愛妾たちに性器を火で焼く宮刑を加え殺したが、なかには高宗の哀願により死を免れ、王宮を追い出された女官もいた。閔妃は高宗の愛妾たちを虐待することで高宗を掌握したのである。

閔妃は無知で欲深く利己的だった。彼女はあらゆる心配事を迷信に頼って解決した。かつて閔妃は2歳になる自分の息子(後の朝鮮最後の王、純宗)を世子にするため清国に銀2万両というとんでもない賄賂を贈った。息子が清国から世子の冊封を受けた後は、金剛山(江原道にある名山)の1万2000の峰ひとつひとつに1000両(朝鮮の1両は銭10枚、日本では4000枚)のカネと米1石、絹織物1疋(ぴき)を棒げ「世子の無病長寿を祈った。国庫金1200万両を迷信に使ってしまったわけだ。当時米1石が1両、牡牛1預が20両だったから、これがどれほどの金額かわかる。いつも宮中にムーダン(巫女)を呼ぴ入れ、儀式がない日はなかったという。腕のいい占い師には即座に絹100疋とカネ一万両を渡すなど、国のカネを湯水のように使った。

閔妃が政権を掌握した後、このような4年間が流れると、朝鮮の国庫は破綻し全ての公務員への支給が途絶えることとなった。以来5年間、朝鮮の文武百官は政府から一文の給料ももらえなかった。禄俸が出ないと官僚たちは利権ブローカーとなって蓄財し、人民の暮らしは日に日に悪化していったが、閔妃だけは違った。閔妃が朝鮮の国政を独占した22年間、閔妃の親戚たちである驪興閔氏は朝鮮のあらゆる要職を独り占めし、民の膏血をむさばった。閔妃の執権期間中、公職を得た驪興閔氏は2000名を超えたという。つまり閔妃は朝鮮の自主独立を願った救国の希望ではなく、朝鮮を滅ぼした亡国の元凶だったのだ。閔妃は決して「朝鮮のジャンヌダルク」ではなく、むしろ中国の西太后と肩を並べる人物であったといえる。西太后は清国末期に48年間も君臨し、中国の改革を妨げた女帝である。
欧米列強の植民地化の危機の時代にありながらも、このような非道な人物が朝鮮の実権を掌握していたのだ。閔妃を暗殺し奸臣を宮廷から排除しないことには朝鮮の独立も近代化も実現しない、というのが反閔妃派の朝鮮人政客の思いであり、閔妃のロシア接近に危機感を持った日本人政客の考えとも一致した。

韓国で閔妃を主人公にした「明成皇后」という反日ミュージカルが好評を博し外国公演まで行なわれているが、内容の是非はともかく李朝時代の上層階級の女性を主人公にして演劇が成立するのか疑問がある。"儒教原理主義"の朝鮮では「男女七歳にして席を同じゅうせず」という『礼記』の教えを忠実に守っており、上層階級の成人男女が面会することも直接話をするということもなく居住空間も厳密に区別されていたのである(当サイトのこちらを参照1)(キーセン等は奴婢身分だから自由にできた)。李朝末期の朝鮮を訪れた外国人の紀行文には、ソウルでは男女別に外出できる時間が決められていることが記されている。それほど男女の別が徹底していたのである(当サイトのこちらを参照2)。ところがミュージカル「明成皇后」では男女が同じ舞台に立って演技をしているのだが、、、(まぁ演劇ではありますが、笑)。実際のところ閔妃暗殺事件に参加した日本人は、誰一人として閔妃の顔を知らなかったのである。
「朝鮮新話」 鎌田沢一郎 昭和25年 創元社
(灰色文字は管理人注)
井上馨公使が生前閔妃を語って「吾輩が国王に謁見するとき、たいがい閔妃は国王の椅子の背後、屏風の中に隠れていて、国王との交渉を一々聞いていた模様であった。(閔妃暗殺)事件の起こる前に、辞任帰朝の挨拶のため、国王に謁見すると、例の屏風の中から優しい小さい声で何か語っていたが、通訳によってそれが、辞任帰国されると聞いて名残惜しい。今後も朝鮮のために尽力頼む、今度の三浦公使は、何だか怖いような爺さんだ――との挨拶であったが、三浦を怖い爺さんと直覚したのは、いわゆる虫が知らせたのかもしれない」と言っている。当時の朝鮮婦人は、外国人でなくとも、男には一切会わない習慣で、宮中のみでなく庶民もそうであった。普通の家庭でも障子や襖のうちから、三人称を用いて来客と話をするのだ。

閔妃事件の中心人物三浦観樹(梧楼)は「閔妃は女性としては珍しく才分の豊かな豪(つよ)い人であった。わが輩が宮中へ行って、国王と話をする度毎に、王さんの椅子の後ろで、何だか声がするのだがそれが閔妃であったのだ。椅子の背後の襖をそっと開け国王になにかと注意するのが段々と分ってきたが、最初伺候したとき、この国の習慣として、婦人は男子に面会することが出来ないのですが、何卒よろしくご指導を乞う――と通訳に言わせたが、なかなか如才のない人だ」と言うている。ただ朝鮮の人に聞くと「姦才縦横――性刻薄惨忍、殺を好み――牝鶏晨(ひんけいあした)を告ぐるものだ(女が権勢をふるい政治を乱すたとえ)」と評し、死後余りほめる人はいなかった。
(中略)
ただ男勝りの女性の陥りやすい欠点として、彼女もまた俳優や嬖人(へいじん=気に入りの者)や、雑輩に取り巻かれて得意になり宮中の胥吏(しょり=小役人)、兵卒の中から声のよい美少年を選抜し、女装させて身辺に侍らせ、李範晋のような美男で、歌舞をよくする者は、自由に宮中に出入りさせ、果ては大臣にまで登用してその寵をほしいままにした。また得に銭を愛し、李太王(高宗)とともに随分官を売って金を貯めた。また迷信を信じ巫子(シャーマン)神霊君もっともその信任を得、北廟を建てて一事一物この巫女の指示に従うという有様であった。

嫉妬心も相当強く国王寵愛の女官には、強烈な圧迫を加え、ほとんど宮中より追い出して、李垠氏(りぎん・李朝26代高宗国王の四男で異母兄の27代純宗に子供が出来なかったため皇太子となる)の生母厳妃氏の如きも、十数年の間国王の側近に近づけさせず、その嫉悍(しっかん=ヒステリー)を恐れた厳妃は永く市中に隠れていたのであって、閔妃の死後久々にロシア公使館に姿を現し李太王に近侍することが出来たのであった。

ともあれ彼女は李朝五百年間稀に見る女傑であり、美人であり、権勢を愛し、物欲旺盛な生の人間そのものであった。そのロシア最後の皇后アレキサンドリアが、怪僧ラスプーチンを愛し、その妖言を信じてニコライ二世の専制政治に容喙(口出しをする)し陰謀と派閥の錯綜する宮廷に欝然たる大勢力を保持しそれが革命の対象となって、ついにロマノフ王朝を滅亡に導くのと全くその軌を一にし、神霊君とラスプーチンが女と男の相違はあっても、祭祀、祈祷、卜筮(占い)、呪詛などの迷信を政治に導入して、野心家策士山師の群が宮廷の奥深く暗躍する点は少しも変わらない。年代も僅々十余年の差である。
韓国人による歴史の美化と歪曲の典型が"亡国の女帝"から"救国の国母"へと祭り上げられた「閔妃」である。

忘れ去られた閔妃の実名
「閔妃暗殺」 角田房子 1988年 新潮社
(灰色文字は管理人注)
「閔妃」(びんひ=ミンビ)とは、当然ながら王妃となった後の名で、明成皇后とは死後に贈られた称号である。私は彼女のフルネームを探したが、簡単にわかると思ったその名前はついにわからずじまいであった。資料はどれも「閔致禄(閔妃の実父)女」と書いてあるだけで、韓国の学者、研究者にたずねても誰も知らなかった。「閔妃のファースト・ネームは?」という私の質問は、韓国ではおかしなものであったらしい。ソウル滞在中の私は、作家鄭飛石の長篇小説「閔妃」に、この王妃の名前を「紫英」と書いてある――と教えられた。ハングル文字だけで書かれた小説なので私には全く読めないが、この名前は著者の創作であろうと思っていた。だが、「いや、私が勝手につけた名前ではありません」と鄭飛石は語った。「今は故人となった歴史研究家が『これが閔妃の名前だ』と教えてくれたのが頭に残っていて、小説を書くときそのまま使ったのです。さあ、根拠は知りませんが、私はこれを本名と信じております」 「紫英」とはいかにも閔妃にふさわしい美しい名前だが、資料の裏づけなしに私がこれを本名として使うわけにはいかない。

朝鮮では、現代の韓国も同じだが、男も女も生まれた時に、父系によってさかのぼる氏族の一員として位置づけられ、女は結婚しても父の姓のままで生涯変更されることはない。この「父系血族社会」では王妃も例外ではなく、「金妃」「韓妃」というように実父の姓だけで記録され、名前は伝わらない。これが他の国の有名な女性なら、閔妃より古い時代でも、頼朝の妻は政子、ルイ16世の妃はマリー・アントワネットと、調べるまでもなく名前がわかるのだが、韓国ではそうはいかない。李氏朝鮮王朝の歴史を見ると、「閔妃」と呼ばれた王妃は4人である。前述の二人と本篇の主人公である高宗の妃、さらにその実子の第27代の王純宗の妃も、閔氏一族の出である。しかしいま「閔妃」といえば、波瀾万丈の生涯を送って非業の死を遂げた高宗の妃だけを指す呼ぴ名となっている。

No comments: