閔妃を暗殺したのは大院君 - 反日勢力無力化ブログ
2015/09/02
韓国が産経新聞のコラムを削除するよう要求しているそうです。
どうやら、コラムの中で朴大統領を閔妃にたとえたのが不快なのだそうです。
この韓国のコラム削除要求を朝日新聞が報じていましたが、なんとそこには産経新聞の記事にはない「日本の軍人らに殺された朝鮮の閔妃」という一文が加えられていました。
当時の在韓英国公使館員が回想記に
「閔妃を暗殺したのは大院君である」
と記しており、閔妃暗殺の様子は、当時朝鮮宮廷にいたアメリカ人とロシア人も目撃しているそうですから、朝日新聞の報道は誤報か朝日新聞的歴史観だと思います。
【産経新聞のコラム】
一方、
【朝日新聞的歴史観】
1895(明治28)年10月8日午前3時、大院君が閔妃を暗殺した夜、朝鮮宮廷にはアメリカ人のゼネラルダイ将軍とロシア人のサバチン氏がいました。
ゼネラルダイ将軍は朝鮮近衛隊の教官として、サバチン氏は皇宮警察の任務を負って朝鮮に滞在していました。
この二人が眠っていたところ、大院君率いる朝鮮訓練隊が光化門の門衛を殺害し、宮中に参入して閔妃を殺害しました。
この頃、大院君は日本に「日本軍の将校に朝鮮訓練隊を指揮してほしい」と依頼していたこともあって、日本は疑われるどころか、大院君に信頼されていました。
閔妃を暗殺するために大院君が宮殿に向かう時、日本人男子と非番巡査が護衛として同道したそうです。
その後、大院君は宮殿光化門前で朝鮮訓練隊と合流し、朝鮮訓練隊が宮中に参入して閔妃を殺害しました。
閔妃なき後、大院君は復権し、息子の高宗に「朕が閔妃を廃した」という官報を発布させました。
そして、それと同時に高宗は閔妃の身分を朝鮮の奴婢階級に落としました。もし日本が閔妃を殺害したのなら、「哀れな王妃」と同情を集めることはあっても降格されることはないはずです。
それに、当時の日本はまだ外国という立場だったので、朝鮮王族の身分を自由にできたとは思えませんし、関心もなかったでしょう。
閔妃暗殺後、朝鮮人の間であらゆる妄想が開花しました。
遣(や)り口が巧妙だ朝鮮人の手際ではない、人を斬ることの鮮かさ朝鮮人の腕前ではない、悲劇が演じられる間その周囲を警戒していたのは服装が違って朝鮮兵ではないらしい、月影にひらめく銃剣は朝鮮兵の持物ではないようだ
虐殺事件は日本公使館内で画策されたのだ、日本の居留民が和服姿で太刀を帯び拳銃を持参した奴が直接の犯人だ、暴徒に日本の警官も加わり、他の日本人の男も加わって60人の日本人がいた
というようなウワサが広まっていきました。
そしてそのウワサが 韓国の「正しい歴史」になってしまったのでしょう。
韓国の外交省は
「過去の歴史について厚顔無恥な主張をする日本の特定の人物と、それに関連するメディアの根拠のない記事」
と日本を非難していますが、なんでもかんでも同胞の罪でさえ日本のせいにする韓国の方が厚顔無恥です。
自国の正しい歴史を探求せず、日本が悪い、日本がやったと世界に宣伝してまわる韓国とは、一秒でも早い断交を希望するところです。
( )内は管理人による注釈です。
【写真出典】
・1910(明治43)年 統監府 「韓国写真帖」
閔妃を暗殺したのは大院
韓国が産経新聞のコラムを削除するよう要求しているそうです。
どうやら、コラムの中で朴大統領を閔妃にたとえたのが不快なのだそうです。
この韓国のコラム削除要求を朝日新聞が報じていましたが、なんとそこには産経新聞の記事にはない「日本の軍人らに殺された朝鮮の閔妃」という一文が加えられていました。
当時の在韓英国公使館員が回想記に
「閔妃を暗殺したのは大院君である」
と記しており、閔妃暗殺の様子は、当時朝鮮宮廷にいたアメリカ人とロシア人も目撃しているそうですから、朝日新聞の報道は誤報か朝日新聞的歴史観だと思います。
【大院君】
【産経新聞のコラム】
米中二股 韓国が断ち切れぬ「民族の悪い遺産」 2015年8月31日 産経ニュース 【第九幕】閔派は95年、ロシア軍の支援で権力を奪還するも3カ月後、閔妃は暗殺される。 |
一方、
【朝日新聞的歴史観】
韓国政府、産経コラムに不快感 大使館通じ削除要求へ 2015年9月1日 朝日新聞 韓国外交省は1日、産経新聞社が8月31日付で電子版に掲載したコラム記事の内容に強い不快感を示した。同省は1日、在日韓国大使館を通じ、同社に記事の削除と再発防止を求めた。同省によれば、同社は内部で申し入れの内容を報告すると回答したという。 記事は政治部専門委員の連載コラムで、今回の記事は「米中二股 韓国が断ち切れぬ『民族の悪い遺産』」と題し、朴槿恵(パククネ)大統領を、1895年に日本軍人らに殺された朝鮮の閔妃(ミンビ、明成〈ミョンソン〉皇后)にたとえ、韓国外交を「事大主義」として批判した。(後略) |
ウワサが正しい歴史になる韓国
1895(明治28)年10月8日午前3時、大院君が閔妃を暗殺した夜、朝鮮宮廷にはアメリカ人のゼネラルダイ将軍とロシア人のサバチン氏がいました。
ゼネラルダイ将軍は朝鮮近衛隊の教官として、サバチン氏は皇宮警察の任務を負って朝鮮に滞在していました。
この二人が眠っていたところ、大院君率いる朝鮮訓練隊が光化門の門衛を殺害し、宮中に参入して閔妃を殺害しました。
この頃、大院君は日本に「日本軍の将校に朝鮮訓練隊を指揮してほしい」と依頼していたこともあって、日本は疑われるどころか、大院君に信頼されていました。
閔妃を暗殺するために大院君が宮殿に向かう時、日本人男子と非番巡査が護衛として同道したそうです。
その後、大院君は宮殿光化門前で朝鮮訓練隊と合流し、朝鮮訓練隊が宮中に参入して閔妃を殺害しました。
【光化門】
閔妃なき後、大院君は復権し、息子の高宗に「朕が閔妃を廃した」という官報を発布させました。
そして、それと同時に高宗は閔妃の身分を朝鮮の奴婢階級に落としました。もし日本が閔妃を殺害したのなら、「哀れな王妃」と同情を集めることはあっても降格されることはないはずです。
それに、当時の日本はまだ外国という立場だったので、朝鮮王族の身分を自由にできたとは思えませんし、関心もなかったでしょう。
【高宗】
閔妃暗殺後、朝鮮人の間であらゆる妄想が開花しました。
遣(や)り口が巧妙だ朝鮮人の手際ではない、人を斬ることの鮮かさ朝鮮人の腕前ではない、悲劇が演じられる間その周囲を警戒していたのは服装が違って朝鮮兵ではないらしい、月影にひらめく銃剣は朝鮮兵の持物ではないようだ
虐殺事件は日本公使館内で画策されたのだ、日本の居留民が和服姿で太刀を帯び拳銃を持参した奴が直接の犯人だ、暴徒に日本の警官も加わり、他の日本人の男も加わって60人の日本人がいた
というようなウワサが広まっていきました。
そしてそのウワサが 韓国の「正しい歴史」になってしまったのでしょう。
韓国の外交省は
「過去の歴史について厚顔無恥な主張をする日本の特定の人物と、それに関連するメディアの根拠のない記事」
と日本を非難していますが、なんでもかんでも同胞の罪でさえ日本のせいにする韓国の方が厚顔無恥です。
自国の正しい歴史を探求せず、日本が悪い、日本がやったと世界に宣伝してまわる韓国とは、一秒でも早い断交を希望するところです。
本記事の資料
( )内は管理人による注釈です。
出典:1925(大正14)年 東亜経済時報社 バード・ビショップ 「三十年前の朝鮮」 14 王妃暗殺 日本第一流の政治家にして且つ朝鮮国王及(および)王妃が尊信せる井上伯が胸襟を開き熱誠を披瀝して進言せるに対して両陛下は心大に動き日本を信頼すべき道理を了解せられたものと見える。 其(そ)の証拠には大事件勃発の当夜すら日本人に対しては一点の含む(心にとめておく)所なく警戒の念は毛頭無かった。然(しか)し乍(なが)ら危険は日々王宮の周囲に迫りつつあった。 大院君は三浦子(三浦子爵)を語らい日本軍の一将校をして朝鮮訓練隊を指揮せしめ、一方日本人壮士(そうし:男子。意気の盛んな若者)を招き大院君自身の護衛たらしめた。非番巡査も亦(また)和服に日本刀を帯し一味に組して大院君邸に行った。 十月八日午前三時一味の徒党は大院君の乗輿に扈従(こしょう:つき従う)した。大院君は事態已(や)むを得ず王宮を犯し白狐を退治する旨を公言した。光化門前で訓練隊に合し門衛を殺し宮中へ参入した。 以上の事実は頗(すこぶ)る詳細に判って居るが、内房の一段に至れば誰も判(わか)らぬ。話が甚(はなは)だ飽き足らぬ心地がする。それで私は自余(じよ:このほか)の物語はゼネラルダイ氏、皇宮警官サバチン氏の手記及公文書の記録を辿(たど)りて書いて見たい。 王妃殺害の事を叙するには順序として少しくそれ以前に遡(さかのぼ)りて見る要がある。 事の起りはこうだ。十月訓練隊と近衛隊と衝突した。訓練隊は其の数一千洪大佐の率ゆる所で、皇城は旧式の近衛隊之(これ)を守護し玄大佐の指揮の下に在った。 而(しか)して(そして)洪氏は千八百八十二年(明治二十五年)王妃の危急を救うて信頼浅からず、玄氏は千八百八十四年(明治二十七年)国王の危難を助けた人である。 右衝突の結果近衛隊は著しく縮少せられ、頼みとする武器は取り上げられ、弾薬は何処(どこ)かに移転されて仕舞った。その後月の七日訓練隊は王宮内を反覆行進して地理を暗ずる迄(まで)演習した。 果然翌八日の未明にはゼネラルダイ及サバチン氏の夢は驚かされた。二百名以上の訓練隊は忍ぶ姿は蔭(かげ)暗き所を択(えら)んで隠れて居るのが見えた。ダイ氏及サバチン氏は俄(にわか)に取る可(べ)き手段も無い如何(いか)にせんと相談中光化門の方に当りて銃声が聞えだした。(ダイ将軍は亜米利加合衆国の人にして近衛隊の教官だしサバチン氏は露国人で歩哨監督の任務を有って居た) ゼネラルダイ氏は近衛隊を呼集せんと試みたが出来なかった。のみならず訓練隊は二人の外国人を追い出す為(た)めに数回の一斉射撃を試みて後、国王及王妃の御室の門際に押寄せて来た。 正確の記録はこれ迄でこれからは頗る分明せぬ。話は後に戻る。訓練隊長洪大佐は光化門側で斬殺された。訓練隊は方々へ乱入した。
× × × × × × × × × × × × × × ×
嗚呼(ああ)斯(か)の如(ごとき)にして野心家たり術数家たり魅惑的な女丈夫は ─── 其の反面には敬す可(べ)き愛すべき性格の所有者たる王妃は ─── 義父の教唆による暴漢の手に斃(たお)れ給うた。 時に御年四十有四、御存生中の事を語り井上伯は、 『王妃殿下は韓国稀に見る女傑で敏感聡明の人であった。特に反対派の人々を懐柔し部下の信任を得ることの巧(たくみ)なる一人も比肩する者が無かった』 と言って居る。 悲風惨雨の劇的な夜は明けた。大院君は次の様な院宣を発布した。 一、王宮は小人輩の巣窟となり民心離散した。由(より)て大院君は改善を計り小人を除き旧制を復し皇帝の尊厳を維持すべき権力を与えられた。 二、皇帝を補佐し小人を除き国家を救い平和を維持せんが為めに今宮中に入ったのだ。 装弾し着剣したる銃器を執れる訓練隊は宮門を警戒した。其等(それら)の門を出つる者入る者隊を為(な)して居た。旧近衛隊の兵士は兵器を捨て軍服を捨て逃れんと試みたが一々捜索せられ逮捕せられた。近衛隊の退去お構いなしのお触れが出たが後の祭であった。 光化門辺(あたり)碧血凄じきは洪大佐最後の場所である。内閣諸公或る者は逃亡し或る者は其の地位を失った。其他の高位大官多くは危急を免れて生命丈(だけ)は安全だったらしい。皇帝御信任の者は一人残らず宮中を去って各省主要の椅子は訓練隊の有力者によりて占められた。 三浦子爵は杉村公使館書記官及数人の日本人を帯道(同)して早朝参内した。国王の眼には数人の日本人には見覚えがあった。国王は一瞥甚(はなは)だしく当惑遊ばされた。三浦公使謁見の間大院君は陛下と共に進言を聞いた。 三浦公使に引続き列国の使臣は国王に謁見した。陛下は固(もと)より心乱れて時々咽(むせ)び泣きにお泣き遊ばされた。而(しか)もお痛わしい事には、王妃の御落命の趣は少しも御承知なく無事に逃げ延びて居(お)られるものと信じ、御自身独(ひと)り非道な父上と暴徒との間に居られることを淋しく寂しく感ぜられた。 外国の使臣を見るや思い余って陛下は旧慣を破り使臣の手を堅く握ってどうか此(この)上に凶事出来せぬ様(よう)尽力頼むと仰せられたそうである。 王妃暗殺後一日経ち二日経ち而(しか)も尚国王陛下も一般国民も王妃御存命だと信じて居た。三日目になって其の顛末が官報に詔勅として掲載された。然し陛下は此の詔勅に御親署遊ばすことを拒み「朕の名を署するよりも寧(むし)ろ朕が隻腕(せきわん:片腕)を斬って捨てろ」と仰せられた。然し事実は勅語として公にされ宮内大臣、総理大臣及六大臣が副署した。即ち 勅 語 朕の即位以来三十二年になるが未(いま)だ治績挙らない。皇后閔妃は其の一族を国家の顯職に据えて朕の側(そば)に侍らしめ朕の明を蔽(おお)い、国民を困(くるし)め府中を紊(乱)り、官を売り職を售(売)り、虐政単(ひと)り行われ盗賊全道に蜂起した。 斯(か)の如き状態で李朝の社稷(しゃしょく:国家)は誠に懼(おそ)るべき危殆に瀕して居た。朕は閔妃が予(か)ねて無道悖(背)徳の女たるを知って居たが彼(か)の徒党の勢力は朕の独力以て如何(いかん)とも為(な)し難かった。 朕は彼等の勢力を遏(とど)め之(これ)を制するに努めた。昨年第十二月朕は祖宗の神霊に誥(つ)げ皇后及皇后の一族並(ならび)に朕及朕が子孫は国政に容喙(ようかい:口出しすること)せざらんことを誓った。朕は之を以て閔の私党が其の前非を悔ゆるのを希(ねご)うた。 然(しか)し乍(なが)ら閔妃の陰険前非を改めざるのみならず却(かえっ)て不逞の徒を糾合して朕に背かしめ内閣諸卿と国政を議することを妨げた。 加之(しかのみならず:そればかりでなく)暴動を教唆煽動し愈(いよいよ)それが勃発するや、閔妃は却て逃亡回避した。朕は閔妃の居所を捜索せしめしも遂に隠れて出でず依(よっ)て朕は閔妃が既に皇后の位に在るに適せず且つ其の資格なきのみならず其の罪大にして之(これ)を廃するに充分なるものと認めた。 朕は閔妃と共に祖宗の位を紹(つ)ぐ訳(わけ)には行かない。(ここ)に閔妃を皇后の位より除き賤民に下すのだ。 御名御璽 各大臣副署 虚構的な不名誉な右の勅令に続いて当日更に勅令が発布せられた。此の二度目の勅令によりて一旦穢多に貶せられた故閔妃は一牌妓生に昇叙せられた。 蓋(けだ)し(考えてみるに)皇太子殿下が父陛下に対する孝心深く在しますことと殿下が穢多の子に渡らせられるも如何にやとの意見があったからだ。 外交は混乱憂慮すべき状態になって朝鮮の地位は絶えず議論の中心となった。勿論(もちろん)暗殺事件の如き極端な凶事が一小範囲内に局限された因果相とも思われぬ。 暗殺劇の背後には黒幕がある。黒幕の裡(うら)では水も漏さぬ陰謀が工(たく)らまれている。而もあろうことか可弱き婦人に屈強の男が多数を恃(たの)んで毒刃を振うなど、政情の前後を考うれば邪推すべき節が少くない。流言蜚語は刻々に伝わりそれが耳より耳に私語するが如く而も流るが如く迅速に拡がって行く。 遣(や)り口が巧妙だ朝鮮人の手際ではない。人を斬ることの鮮かさ朝鮮人の腕前では無い。後宮悲劇が演ぜられる間その周囲を警戒していたのは服装が違って朝鮮兵では無いらしい、門内月影に閃く銃剣は朝鮮兵の持物ではない様だなどと噂が伝わる様になった。 ゼネラルダイ及サバチン氏の言う所は間違の無い所だが民衆の猜疑心は取り取りに暗鬼を画く様になる。其の日の午後には子爵三浦将軍は刑法上連座すべきものかなど勝手な議論さえ伝わった。 (中略) 日本政府の本件に関する無干渉の声明も軈(やが)て忘れられ不愉快な事のみ記憶せられる様になった。即ち虐殺事件は日本公使館内で画策せられたとか、日本の居留民が和服姿で太刀を帯び拳銃を持参した奴が直接の下手人であるとか、暴徒中日本の警官も加わり、壮士を加えて六十人の日本人が居たとかの類である。 |
【写真出典】
・1910(明治43)年 統監府 「韓国写真帖」
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