2017-02-11

閔妃 - Wikipedia

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閔妃

明成皇后
명성황후
朝鮮王妃
称号孝慈元聖正化合天洪功誠徳斉徽烈穆明成太皇后[1](諡号)
全名閔玆暎
出生咸豊元年9月25日1851年10月19日
朝鮮京畿道驪州郡近東面蟾楽里
死去開国504年8月20日1895年10月8日
李氏朝鮮の旗 李氏朝鮮漢城府
埋葬大正8年(1919年3月3日
大日本帝国の旗 朝鮮京畿道南楊州市金谷洞、洪陵
配偶者高宗
子女純宗
父親閔致禄
母親韓山李氏
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閔妃
各種表記
ハングル민비 / 명성황후 / 민자영
漢字閔妃 / 明成皇后 / 閔玆暎
発音:ミンビ / ミョンソンファンフ / ミン・ジャヨン
日本語読み:びんひ / めいせいこうごう / びん じえい
ローマ字Minbi / Myeongseong Hwanghu / Min Ja-yeong
英語表記:Queen Min / Empress Myeongseong
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閔妃(びんひ、みんひ、1851年10月19日 - 1895年10月8日)は、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃。明成皇后[2](めいせいこうごう、ミョンソンファンフ)、朝鮮王后(閔氏)とも呼ばれる。本貫驪興閔氏。尊号は孝慈元聖正化合天[3]諡号は孝慈元聖正化合天明成太皇后[4]
国王の正妃として強い権力を持ったが、縁故主義汚職、そして義父興宣大院君との20年以上にわたる権力闘争により政局は混乱し、巫堂に国庫の6倍以上の国費を浪費するなど腐敗していため乙未事変朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使、日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)らの怒りを買って暗殺された[5][6]
을미 사변으로 조선 친위대 조선 훈련 대 조선 경무 사용 일본군 수비대 영사관 경찰, 일본인 장사 (대륙 낭인)들의 분노를 사고 암살 되었다.

死後、大院君によって平民に降格された。
そもそも本来「閔妃」とは「閔氏の王妃」という意味で固有名詞ではないが、近代朝鮮史で「閔妃」と言えばこの高宗の妃を一般に意味する。

生涯[編集]

閔致禄の娘として京畿道驪州郡近東面蟾楽里に生まれる。幼名は玆暎(チャヨン、朝鮮語자영[7]同治5年(1866年)、15歳の時に王の実父である興宣大院君(以下、大院君)の夫人閔氏の推挙で王宮に入った。閔玆暎が王妃に選ばれたのは、それまで60年間にわたって王の外戚として権勢を誇った安東金氏の政治的影響力を削ぐための人選だったとされるが、その方策は裏目に出た。
高宗は政治と妃に全く関心を持たず、関心が深いのは専ら多数の宮女妓生達を相手にした漁色と酒といった放蕩三昧のみという愚昧な人物であった[8]。高宗が愛人である李尚宮との間に長子である完和君をもうけると、祖父の大院君は喜び、完和君を王世子(世継ぎ)にしようとした。閔妃は急いで自身の子を出産し、その子である李坧(純宗)を王世子とするため、宗主国であるに側近を派遣して賄賂を贈り、李坧を嫡子として承認(冊封)してもらうことに成功した[9]
世継ぎ問題など、大院君と権力争いをしていた閔妃は高宗が成人して親政をとるようになると、同治12年(1873年)、大院君追放の指揮を裏で執り行い、大院君とその腹心の部下たちを失脚させた。そして自分の一族(閔氏)を高官に取り立て、政治の実権を握った。大院君はその後京畿道楊州に隠居させられたが、閔妃の存在を国家存続を脅かすものとして政局復帰、閔妃追放の運動を始め、それが朝鮮末期の政局混乱の一因にもなった。閔妃と大院君の権力闘争は敵対者を暗殺するなど熾烈なものであった。閔妃は「まず閔妃一族の栄達をはかる為に、国家有為の人物よりも、大院君排除に必要な策士を網羅し、大院君が生命をかけて撤廃した書院や両班の特権を復活させるため彼らを煽動し、儒者にへつらい、大院君系の人を根こそぎ追放、流刑、死刑にし、処世の改革を破壊、復元(金熙明『興宣大院君と閔妃』)」したとされる。
攘夷政策をとった大院君が失脚した当初、閔妃は開国路線をとり、日本と日朝修好条規(江華島条約)を締結するなど積極的な開化政策を行った。日本から軍事顧問を呼び寄せ、軍隊の近代化に着手したが、従来の軍隊(旧式軍隊)が放置され、また賃金未払い問題なども発生し、新式軍隊に対する不満がたまっていった。そこに開化政策に不満を持つ大院君等の勢力が合わさり、光緒8年(1882年)、朝鮮の旧式軍隊が閔妃暗殺を目論んだ(壬午事変)。その際多くの閔妃派要人や日本人が殺され、日本大使館は焼き討ちにされたが、いち早く事件を察知した閔妃は、侍女を自らの身替りとして王宮を脱出し、当時朝鮮国内に駐屯していた袁世凱の力を借りて窮地を脱した。このクーデターを指揮していたとして、大院君は清に連行され天津に幽閉された。高宗の嘆願・朝貢も効果なく、幽閉は3年間続き、帰国がかなったのは駐箚朝鮮総理交渉通商事宜の袁世凱と共にであった。
この当時の閔妃は巫堂ノリという呪術儀式に熱中し、国庫の6倍以上にあたる金額の国費を布施により浪費している。これは法外な額であるため、宮廷の役人は民衆から搾取しては競って閔妃に賄賂を贈っていた[9]。また庶民が苦しい生活をしている中、毎晩遅くまで、俳優や歌手を宮中に招いて遊興しており、起床はいつも午後で、そのため宮中の空気は「混濁腐敗」していたとも言われる[10]
政敵の大院君が清によって天津に幽閉されると、閔妃は親日的な政策から次第に清に頼る事大主義に路線変更していった。そのような状況を見た親日的な開化派の金玉均らは、閔妃を追放しない限り朝鮮の近代化は実現しないとして、光緒10年(1884年)12月に甲申政変を起こした。それにより一時期政権を奪われるが、袁世凱率いる清軍の力によって政権を取り戻し、開化派の政権は3日で崩壊した(1894年、金玉均は閔妃の刺客、洪鐘宇により上海で暗殺され見せしめとして晒し首にされた)。
光緒11年(1885年)になると、ロシア南下政策を警戒しだしたイギリスなどを牽制するために親露政策もとりはじめる。光緒20年(1894年)に甲午農民戦争(東学党の乱)が起きると清軍と日本軍の介入を招き、日清戦争の原因と戦場になった。

乙未事変[編集]

日清戦争後、勝者である日本側の推す大院君派の勢力が強くなり、後ろ盾となっていた清が大きな打撃を受けた閔妃の勢力は衰退していく。そのため閔妃は清への事大主義に代わり親露政策を更に推し進め、今度は7月6日にロシア軍の助力を得て権力奪還に成功する。この一件後の反閔妃派の不穏な動きを察し、反対勢力(訓練隊等)の武装解除等を行った[11]
親日開化主義から親清事大を経て親ロシアへと次々に方針を転換したかのように見える閔妃の政策は、まさに大院君への怨念ともいえる姿勢で貫かれており、これらが原因で大院君に代表される反対派勢力による反感を買うことになる。閔妃の動きは閔妃に不満を持つ大院君や開化派勢力、日本などの諸外国から警戒され、開国504年(1895年10月8日早朝、景福宮に日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らが侵入する事件が発生、その混乱の中で殺害された(乙未事変)
경복궁에 일본군 수비대 영사관 경찰, 일본인 장사 (대륙 낭인) 조선 친위대 조선 훈련 대 조선 경무 사용 등이 침입하는 사건이 발생, 그 혼란 속에서 살해 되었다. (을미 사변 )
死後、対立してきた大院君によって王后としての称号を剥奪され、平民に降格された[12]ため、当初は東九陵の崇陵前に埋葬されたが、後に清凉里の洪陵に移され、さらには高宗没後は南楊州市の金谷洞に位置する洪陵に高宗と彼女の合葬陵として現在の洪陵[13]に移された。

略伝と関連年表[編集]

閔妃と関連の深い事項に関する年表を示す。
  • 1851年(満0歳)
    • 閔致禄の娘として生まれる。
  • 1863年(満12歳)
    • 12月 25代朝鮮王哲宗が32歳で薨去。
    • 高宗即位。11歳であったためその父・李昰応が興宣大院君として摂政職となる。
  • 1866年(満15歳)
    • 9月 王妃となる。
  • 1868年(満17歳)
    • 高宗が宮女李尚宮に長子(完和君)を生ませる。
  • 1871年(満19歳)
    • 閔妃 男子出産、男子は数日後死亡。
  • 1873年(満21歳)
    • 11月 高宗親政、大院君失脚(摂政の座を降りる)。
    • 閔氏が政権を取る。大院君系列の人々は追放・流刑・処刑等で追放。
    • 閔氏一族の官吏30数名が高官になる。
    • 12月 閔妃の宮殿に仕掛けられた爆弾が爆発。
  • 1874年(満22歳)
    • 3月 男子出産(李坧、後の純宗)。
    • 完和君を世子とする大院君派と李坧を世子とする閔妃派で争い。
    • 11月 閔氏一族の最高実力者で領議政の閔升鎬(閔妃の義兄)宅が爆発。閔升鎬とその母子が爆死。
  • 1875年(満23歳)
    • 8月 李裕元を世子冊封使として清へ。李坧が王世子(世継ぎ)として清に認められる(帰国 翌年1月)。
    • 9月 江華島事件→日朝修好条規
    • 11月 大院君の兄李最応の家に火が放たれる。
  • 1876年(満24歳)
  • 1877年(満25歳)
    • 高宗第5男子平吉(1891年(満29歳)義和君に封じられる)誕生。
  • 1880年(満28歳)
    • 側室の李尚宮が急死。その子(高宗の長男)完和君も変死(閔妃による暗殺説が濃厚)。
  • 1882年(満30歳)
    • 1月 李坧の戴冠式。
    • 閔氏一族の高官閔台鎬の娘が世子嬪(王太子妃)と決まる(後の純明孝皇后閔氏)
    • 7月 壬午事変 閔妃は侍女を囮にして昌徳宮から脱出し、閔応植に匿われるが、甥の閔泳翊は重傷、閔台鎬(純宗の妃 純明皇后の父)と閔永穆等が殺害される。[14]日本公使館包囲、焼き討ち、堀本工兵少尉ら数十名が死傷、花房義質公使ら逃亡→済物浦条約
    • 8月26日 政敵大院君が清へ強制連行される。大院君は天津で幽閉される。
    • 8月30日済物浦条約
  • 1883年(満31歳)
  • 1884年(満32歳)
    • 12月 甲申政変 日本軍が王宮を占領する。 閔妃失脚。
    • 閔妃 袁世凱と清軍の助けで政権奪回。日本公使館焼失、居留民被害(→漢城条約天津条約)。
    • 金玉均朴泳孝徐載弼らが3日間で失脚、日本へ亡命(家族は服毒自殺、処刑等)。
  • 1885年(満33歳)
    • 1月 9日 日朝が漢城条約を締結(日本:井上馨、朝鮮:金弘集)。
    • 4月15日 巨文島事件
    • 4月18日 日清が天津条約を締結(日本:伊藤博文、清:李鴻章)。日清両軍が朝鮮から撤退。
    • 朝露密約、日本が清に大院君の帰還を要請する。閔妃側、大院君帰国の通達に難色を示す。
    • 10月 3日 大院君が清から帰国する(仁川)。
  • 1891年(満39歳)
  • 1892年(満40歳)
    • 高宗29年春、大院君爆殺計画が失敗[16]
  • 1893年(満41歳)
    • 閔妃政権、金玉均を暗殺するため、地運永を日本に送る[17]が同年6月22日に朝鮮に送還。
  • 1894年(満42歳)
    • 3月28日 閔政権が上海に刺客(洪鐘宇)を送る。金玉均が暗殺される。
    • 金玉均の遺体は清の軍艦咸靖で朝鮮に搬送。遺体は六支の極刑(凌遅刑)に処せられる。金玉均の父は死刑、母は自殺、弟は獄死、妻の兪氏と娘は奴婢として売られる。
    • 5月31日 全琫準率いる東学農民軍が全州を占領。清と日本が出兵(甲午農民戦争)。
    • 7月 日本軍が王宮を包囲。開化派中心の政権が成立する(閔氏政権を倒すクーデター)。
    • 金弘集を中心とする政権 甲午改革
    • 閔氏一族の閔泳翊、閔台鎬、閔泳穆、趙寧夏が殺される。
    • 8月 1日 日清戦争宣戦布告。
  • 1895年(満43歳)
    • 3月30日 日清休戦条約。
    • 4月17日 下関条約
    • 5月 4日 三国干渉受諾(閔妃、親露政策へ)。
    • 7月 6日 閔妃、ロシア公使ヴェーバーとロシア軍の力を借りてクーデターに成功 [11]
    • 7月10日 閔妃に関する謀議の風説の報告。[11]
    • 朴泳孝に閔妃殺害計画謀議の嫌疑。朴泳孝は京城を脱出、釜山経由で亡命。
    • 9月 1日 三浦梧楼、朝鮮国駐箚公使として着任。
    • 10月 7日 閔妃派政権 訓練隊の解散と武装解除を通告。
    • 10月 8日 閔妃殺害。死体は午前8時30分頃確認され、焼却(乙未事変[18]
    • 10月10日 身分を剥奪され平民となる。「大院君の提言による」と『高宗実録』は伝える[12]
    • 10月11日 王太子の上訴で廃庶人閔氏に嬪を与える[19]
    • 10月15日 同復儀 22日→成服[20]
    • 10月17日 三浦公使、解任・召還。(18日)→朝鮮国駐箚小村寿太郎弁理公使
    • 10月19日 朝鮮王朝、閔妃殺害で李周会、尹錫禹、朴鉄及び彼らの一族を処刑(李周会の妻子は田舎に身を隠す。高等裁判所裁判長 張博)。
    • 10月27日 15歳から20歳までの妃の選抜(揀擇)の公示。[21]
    • 11月26日 閔妃を平民とした詔勅が取り消される。→再び王后閔氏に[22]。同日、興宣大院君失脚。趙羲淵、李周會、権鎮は免官。
    • 11月28日 春生門事件[23]
    • 12月3日 この日はじめて閔妃の薨去が公表される(閔妃を平民とする詔勅や王后に復活させる詔勅時、閔妃の死亡は公表されていなかった)。
    • 12月12日 三浦梧楼以下48名、広島地方裁判所にて予審開始(一部軍法会議)[24]
  • 1896年
    • 1月20日 三浦梧楼以下48名、証拠不十分で免訴される(広島地方裁判所)[24]
    • 謀反の怪文書が高宗に届く。「各大臣が日本兵と共謀して国王を退位させようと計画。ロシア公使館に逃げ加害を免れたし」[25]
    • 2月 ロシア軍が王宮へ突入。高宗と世子、ロシア公使館へ移る(露館播遷)。
    • 閔妃殺害事件史料で特赦された禹範善、李斗鎬、李範来、李軫鎬、趙羲淵、権鎭等の処刑の勅令[26][25]
    • 5月11日 朝鮮国ニ渡航禁止ノ件[27]
    • 7月27日 成嬪。
  • 1897年 明成皇后の諡号を受ける。
    • 尚宮嚴氏生下高宗第7子英親王李垠
    • 10月28日 下玄宮・返虞[13]
  • 1903年
    • 11月24日 禹範善が高永根魯允明により「王妃を殺害した極悪無道の者」への復讐として広島県呉市で暗殺される。享年52。純宗の放った刺客ともされるが、日本への亡命を余儀なくされていた高永根が、暗殺を手土産に高宗からの信頼回復と亡命窮乏生活からの脱却を目的に自発的に刺客になった可能性も高いとされる。
  • 1919年

人物評価[編集]

  • 朝鮮専門家であったアメリカのジョージ・トランブル・ラッド博士は1908年、閔妃について「頭は良かったが朝鮮の玉座にとって恥となるほど最も残酷な人物であり、何年も国王の父である大院君と政争を続けており、この間両派閥の殺し合いはまるで毎年の挨拶交換のように行われてきた。」としている[28]
  • 乙未事変の首謀者の一人とされる三浦梧楼は「実に珍しい才のある豪(え)らい人」「事実上の朝鮮国王は此王妃だと謂っても好い」と評している[29]
  • 杉村濬は、前任の朝鮮公使である井上馨との会見で閔妃が理路整然とした言葉を語り、井上が「鳴程(なるほど)と深く感じ全く対韓方針を変ぜられたる」と述べている[30]
  • 崔基鎬は、閔妃は自身の権力欲のみで庶民の生活を思いやることは無く、義父で恩人でもあった大院君を追放し、清国の袁世凱をそそのかして逮捕されたり、ある時は日本に擦り寄り、ある時は清国に接近し、清国を捨てると今度はロシアと結んだりと、智謀家ではあったが、倫理が無く、背恩忘徳(恩に背く裏切りをする行為)の生涯だったとしている[31][9]
  • 朴垠鳳は、門戸開放した朝鮮は西洋の先進文物を取り入れ、富国強兵と産業振興を目指すと同時に、古くなった封建制度を捨て去って新たな秩序を打ち立てなければならなかったが、閔妃とその一族は、この内どれも満足にできず、その結果として、どの勢力からも支持を得られなかった。開化反対を叫び壬午軍乱に参加した群衆は、閔妃を攻撃の的とし、また甲申政変を起こした開化派も東学農民軍もすべて閔妃とその一族の打倒を叫んだ。誰からも支持を得られなかった閔妃は、外国勢力に頼り、自身の権力欲のために清を引き入れ、朝鮮を日清戦争の地としたのは閔妃である、としている[32]
  • 文芸評論家の内藤千珠子や奈良女子大学事務補佐員の金文子は、乙未事変以後、日本の当時のメディアによって、王妃を誹謗したり、事変を大院君との権力抗争として面白おかしく描き出す言説など負のイメージが強調されたと主張している[33][30]
  • 北朝鮮では、「反動的な保守派集団を作り、封建両班と地主の利益を代弁し、あらゆる進歩的傾向を無条件に弾圧して、人民に対する苛酷な搾取を行った」と否定的な評価をしている[34]

実話と称したフィクション[編集]

金辰明『皇太子拉致事件』では日本人が妃を「死姦」したと記述し、角田房子(参考文献)から示された石塚英蔵報告書を根拠とする実話であるとしているが、本物の石塚書簡には記載がなく、金によるフィクションであることが判明している[35]
また、同小説には「秘密外交文書電報435号」と称する架空の文書が書かれ、ここには閔妃暗殺の詳細として『日本の浪人が明成皇后の死体を屍姦し、死体を焼いて証拠隠滅した』という内容があるとされているが、現物の電報第 435 号(極秘扱)は「中山書記官より広田外務大臣宛電報」(昭和8年10月14日[36])であり、事件と同時代の文書でもなく、また小説に出てくるような記述は一切ない[37]

閔妃とされた写真[編集]

これまで日韓で閔妃とされた写真は頭にかつら(クンモリ)をつけ、かんざしをつけた写真であったが、この写真は別の写真であることが2000年10月[38]から2003年にかけての三谷憲正の検証で明らかになっている[39]
この写真を閔妃とキャプションをつけた最古例は、1955年の日本近代史研究会『写真・図説 総合日本史』[40]であり、ここから「閔妃」とキャプションがつけられるようになった[41]角田房子は『閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母』(1988年)において「日本人写真師・村上天真撮影の閔妃といわれる写真」とキャプションを付け、それを閔妃として掲載した[42]。さらに角田は事件当時の資料では「(日本人は)誰も閔妃の顔を知らなかった」と記録されていることについて、下記の辛基秀などの論をもとに、日本は写真を持っていたので、それは嘘であるとし、また、閔妃の写真は数枚あったはずだが、日本側がほとんど破棄したために、この一枚しか残っていない、と自説を展開した[要ページ番号]
なお、『別冊1億人の昭和史 日本植民地史①朝鮮』(1978年)[43]」、『目でみる李朝時代』(1986年)では[44]では宮中女官として紹介されている[45]
閔妃殺害に写真が利用されたとする説
1987年には辛基秀が『映像が語る「日韓併合」史』[46]において、この写真「閔妃(1851-1895年)国王高宗の皇后」として掲げ、以下論じた[41]
ソウルの日本軍守備隊や公使館員らは、1895年10月7日の夜、王宮に侵入、婦人3名を殺害、閔妃をはづかしめ、松林で焼きはらった。この前代未聞の暴虐の行為でにほんのカメラマンが果たした役割を看過できない。— 辛基秀、『映像が語る「日韓併合」史』1987年8月、労働経済社。p.13
辛基秀はその根拠として韓国で1976年に刊行された姜相圭『韓国写真史』[47]を挙げたが、『韓国写真史』では次のように論じてあった[48]
安達謙、岡本柳之助が引率した幽徒隊が、閔妃の人物写真を皇室専属写真師から入手して、実際の顔と対照し、確認した後、閔妃を殺害したのであり、このときの皇室嘱託写真師は日本人の村上天真である。— 姜相圭『韓国写真史』1976年12月、図書出版一心社(原文韓国語)
当時の資料
一方、閔妃付きの侍医のように王妃の傍らにいたアンダーウッド(L.H.Underwood)が1905年(明治38年)に刊行したWith Tommy Tompkins in Koreaの「家政(Housekeeping)」章で、この写真が掲載されており、キャプションに「正装の朝鮮人令嬢(A KOREAN LADY IN HULL COSTUME)」とある[49][50]。また、高宗の政治顧問をしていたハルバート(Homer B.Hubert)が1906年に刊行したThe Passing of Koreaでのキャプションは「A PALACE-WOMAN IN FULL REGALIA(正装の宮中女性)」とあり、三谷は閔妃の側にいたアンダーウッドやハルバートが王妃の顔を知らないということがあっただろうかと疑問視した[50]。2001年7月7日東亜日報で建国大学のシンポンニョンは、この写真は明成皇后の写真ではなく、アンダーウッド女史やハルバートが王妃の写真としていないことがその理由であるとし、「追慕の情が度を越して、存在しない形姿を描いたり、想像が行き過ぎたりすると、それは追慕ではなく、むしろ故人を辱めることになる」その代表的な例がこの写真であると述べた[51]
さらに三谷の調査によって、1904年の『日露戦争 写真画報』(第一巻、博文館)ではこの写真を掲げ、「宮中の侍女」とキャプションをつけていたことがわかった[51]。翌年の同第25巻では「宮中の女官」とあった[52]。また1911年の『韓国併合記念帖』啓文社には「宮中の老官女 AN OLD WOMAN IN THE COREAN COURT」とある[53]
三谷はさらにロセッティ(Carlo Rossetti)の1904年の著書「朝鮮と朝鮮人(Corea e Coreani)」に掲載された「宮殿の貴婦人」の写真を人物から切り取られて合成されたと推測する説については、同年に日本の雑誌に掲載されていることから、違うとしている[54]
戦前では閔妃とキャプションのついた写真は、日本の資料では発見されていない[38]

韓国での論争[編集]

1997年から韓国では閔妃肖像写真ついての論争が始まり、それに先立って 1994年8月23日の朝鮮日報では閔妃を殺害したと推定される刃物と日本人の犯行自白が九州で発見され、1995年5月10日同紙ではロシア人の目撃記録が発見されたと報じられていた[45]。1997年11月12日の朝鮮日報から写真論争が始まり、以降、この写真の服が皇后の服ではないこと、19世紀末ガードーナーの『朝鮮』では宮女の挿画が発見され、またフランスの資料(Villetard de Laguerie,La Coree,independante,Russe,ou Japonaise.1898)からこの写真の女は天主教信者ではないかなどと報じられた[55]
2001年7月7日付け東亜日報では、この写真真偽問題に関連して「当時“写真を撮らせると、魂が抜ける”と認識 カメラ忌避」と、当時の人間が写真を避けることが説明されるようになり、2004年8月12日付け朝鮮日報では「1909年馬山郵便局消印「閔妃」ハガキ発見」として、「日本人写真師・村上天真撮影の閔妃といわれる写真」とはまったく別の写真が提示された。
ファイル:Empress Myeongseong.jpg
閔妃説もある写真
2006年にイギリス出身の写真収集家テリー・ベネットが7月25日の聯合ニュースのロサンゼルス発記事を通じて再び閔妃の写真論争を提起した。テリー・ベネットは興宣大院君や高宗が掲載されたアルバムを公開したが、その中の1人が閔妃だと主張した[56]。 ソウル大学国史学教授のイ・テジンは、アルバムの中の閔妃推定写真と興宣大院君の写真の背景が似ている点に注目し、「興宣大院君が座った席に座って写真を撮ることができる女性は、大院君と相応の身分でなければならないはず」とし、「私は閔妃だと思う」と主張した。それに対し明智大学の韓国服飾史の名誉教授であるチョ・ヒョスンは「写真の女性が着た衣装は皇后の服装ではない」とし、「閔妃ではない」と主張した[57]。                 

死者に対する名誉毀損訴訟[編集]

2003年、従来は閔妃のものとされていた肖像写真について、朝鮮王宮の女官を写したものではないかとする論説が発表されたり、彼女を名誉誹謗したとして罰金刑(罪名『死者に対する名誉毀損』)がソウル高等裁判所から作家金完燮に下された。
2005年9月2日にも、金完燮がその著作の中で歴史上の人物である閔妃のことを、「朝鮮を滅ぼした亡国の元凶であり、西太后と肩を並べる人物」などと評論したことに対して、ソウル中央地裁から名誉毀損であるとして閔妃遺族らへそれぞれ1000万ウォンを支払うよう命じられた[58]

近年[編集]

2005年5月、「明成皇后を殺害した者の子孫ら」を名乗る日本人が明成皇后が埋葬されている洪陵を訪れて謝罪した。事件から110年目のことであった。このときに子孫らは墓地を訪れていた明成皇后の曾孫に対しても謝罪の言葉を送ったが、皇后の曾孫は「謝罪を受ける、受けないは、自分がすることではない。政府レベルの謝罪がなければならない」と語った。
2009年8月24日テレビ朝日報道ステーション』にて閔妃の暗殺事件についての特集が組まれた。この特集は、鄭秀雄監督が2005年に制作したドキュメンタリー『110年ぶりの追跡 明成皇后殺害事件』を基に作られた[59]この特集では、「犯人は日本人」としており、「暗殺事件の犯人は朝鮮人による物であった」という目撃証言を日本の工作とした。一方で現場に居合わせた王子・李坧が、「国母を殺したのは、禹範善だ」と[60]、国王・高宗が、「王妃を殺したのは、不貞の私の部下だ」と証言した[61]とするこの特集と異なった内容の資料も存在する。
2015年8月30日、産経新聞政治部専門委員の野口裕之が書いた記事「米中二股 韓国が断ち切れぬ「民族の悪い遺産」」[62]で、朴槿恵大統領を閔妃に例えた事に対して、韓国政府が「論評する価値もない」と論評し、記事の削除と再発防止を要求した[63]

家族[編集]

  • 父:驪城府院君 閔致祿(1799-1858。第19代粛宗の2番目の王妃仁顕王后の兄・閔鎭厚の玄孫。)
  • 前母:海寧府夫人 海州 吳氏(1798-1833。学問の師匠である学者・吳熙常の娘。父の前妻で、子女は無く死去。)
  • 実母:韓昌府夫人 感古堂 韓山 李氏(?-1874。1男3女を儲けたが、三女の皇后以外は早世した。爆弾事件に巻き込まれ、息子や孫と共に死去。)
  • 兄(義兄):閔升鎬(1830-1874。姑の実弟にあたり、後嗣が無かった父の養子に迎えられた。爆弾事件に巻き込まれ、死去。)
    • 甥:閔泳翊(1860-1914。嫁の実兄。爆弾事件に巻き込まれ死亡した閔升鎬の養子に迎えられた。升鎬には息子がいたが、ともに爆弾事件で死去し、後嗣がいなくなった為である。)
  • 義父:興宣大院君
  • 義父:翼宗(夫の養父。第23代国王・純祖の長男。)
  • 義母:驪興順穆大院王妃 閔氏(1818-1898。夫の実母で閔升鎬の実姉。)
  • 義母:神貞王后趙氏(翼宗の妃、夫の養母。)
  • 夫:高宗
    • 長男:大君(早世。1871-1871)
    • 長女:公主(早世。1873-1873)
    • 次男:純宗
    • 嫁:純明孝皇后閔氏(閔泳翊の実妹。)
    • 嫁:純貞孝皇后尹氏 ※ともに純宗の妻。
    • 三男:大君(早世。1875-1875)
    • 四男:大君(早世。1878-1878)

関連作品[編集]

小説[編集]

  • 角田房子「閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母」 新潮社、1988年
  • 檜山良昭「閔妃殺人事件」(『ポンパドール伯爵夫人殺人事件』中央公論社に収録)。事件当時景福宮にいた日本軍将校(日本で三浦梧楼とともに裁判にかけられて無罪となる)の一太刀が直接の死因となったとする推理作品。
  • 金辰明『皇太子拉致事件』2001年

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『高宗実録 1863年12月13日』
  2. ^ 死後、大韓帝国が成立すると皇后に追封された。「明成皇后」の呼称は追封された諡号に由来する。
  3. ^ GK17289_00I0079 光武六年三月七日 韓国官報2141号 宮廷録事
  4. ^ 高宗太皇帝明成太皇后祔廟主監儀軌 請求記号2-2218 1921年
  5. ^ 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会 『新版 日本外交史辞典』、872,983。「三浦公使は杉村濬書記官、楠瀬幸彦公使館付武官、岡本柳之助朝鮮国軍部兼営内府願問官らと協議して、閔妃の政敵で京城郊外孔徳里に蟄居する大院君を擁して閔妃を倒し親日政権樹立を計画した。(中略)8日早朝、上記計画を決行した。訓練隊、日本軍守備隊、日本警察官、日本人新聞記者・壮士らを動員、大院君を擁して景福官に入り、王宮護衛の侍衛隊を撃破し、閔妃を殺害、その死体を火葬した。」
  6. ^ 『国史大辞典』11、p1116
  7. ^ 『明成皇后と大韓帝国』18~20頁
  8. ^ イザベラ・バード著、時岡敬子訳『朝鮮紀行』における記述(p.441-)「王家内部は分裂し、国王は心やさしく温和である分性格が弱く、人の言いなりだった。そしてその傾向は王妃の影響力がつよまって以来ますます激しくなっていた。」からもうかがえる。高宗に関しての記述はフレデリック・アーサー・マッケンジー著、渡部学訳注の『朝鮮の悲劇』(平凡社)を参照。
  9. a b c 崔基鎬『韓国 堕落の2000年史』pp236-247
  10. ^ 片野次雄『李朝滅亡』[要ページ番号]
  11. a b c アジア資料センター レファレンス コード:B03050001800
  12. a b 『高宗実録 乙未(三十二)年8月22日』 廃王后閔氏為庶人。韓国官報号外も参照。
  13. a b 閔妃殯殿魂殿都監儀軌 奎章閣 Ref. 奎 13890-1-3
  14. ^ 承政院日記高宗 19年 9月 22日前後にはその後の上訴等が記載
  15. ^ 梶川光・藤勝顕らが暗殺事件に参加したとされる。
  16. ^ 梅泉野録には閔妃によると記述。『大院君邸内火薬爆発ノ件』アジア歴史資料センター Ref.A04010006500には爆薬による爆殺計画と記載
  17. ^ 4.金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日(韓国亡命者金玉均ノ動静関係雑件(京城説伝) 第二巻)アジア歴史資料センター レファレンスコード B03030201100
  18. ^ 『高宗実録 乙未(三十二)年8月20日』
  19. ^ 韓国官報 号外 開国504年8月23日 にも同じ記載。
  20. ^ ソウル大学韓国学研究院 奎章閣 Ref. 奎 13885-1-3 明成皇后殯殿魂殿都監儀軌 殯殿都監(朝鮮)編
  21. ^ 韓国官報 開國五百四年九月八日 号外 GK17289_00I0004 本月七日에 宮內府大臣이揀擇節次取稟야十五歲로二十歲에至處女捧單라시聖旨奉홈
  22. ^ 開国504年10月10日 官報号外 Ref. GK17289_00I0005 GK17289_00I0005 詔勅 王后閔氏の其位号を復す。本年八月二十二日詔勅の取り消し。
  23. ^ 韓国王露公使館ヘ播遷関係一件 公文雑纂・明治二十九年・第九巻・外務省一・外務省一 朝鮮京城事変ノ顛末ニ関シ小村弁理公使ヨリ報告ノ件 アジア歴史資料センター レファレンスコード A04010020500 5画像目/23画像
  24. a b 新聞集成 明治編年史 第九巻 日清戦争期 時事 1986年1月23日記事
  25. a b 電受第75号 「1. 明治29年2月12日から明治29年2月20日(韓国王露公使館ヘ播遷関係一件)」レファレンスコードB03050313400
  26. ^ Official Gazette of Korea, Feb. 12, 1896(韓国官報 建陽元年二月十二日 號外)
  27. ^ 明治29年勅令第204号
    1. 文武官其ノ他官庁ノ命ニ依ル者ノ外日本臣民ハ管轄地方庁ノ許可ナクシテ朝鮮国ニ渡航スルコトヲ禁ス犯ス者ハ一月以上一年以下ノ重禁錮ニ処シ二十円以上二百円以下ノ罰金ヲ附加ス
    2. 本令ハ発布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
    明治29年5月11日に公布即日施行
  28. ^ 1908年4月5日 ニューヨーク・タイムズ(「外国新聞に見る日本4」 1993年 毎日コミュニケーションズ)
  29. ^ 三浦梧楼『観樹将軍回顧録』p324
  30. a b 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年高文研、p.345-p.349
  31. ^ 崔基鎬『韓国 堕落の2000年史』
  32. ^ 朴垠鳳『わかりやすい朝鮮社会の歴史』
  33. ^ 内藤千珠子『帝国と暗殺』2005年、新曜社[要ページ番号]
  34. ^ 2001.10.22 中央日報
  35. ^ 根拠 国立国会図書館憲政資料室蔵 憲政史編纂会収集文書 外交問題主要事件資料 546 朝鮮王妃事件関係資料 546-1 標題:"石塚英蔵書簡、法制局長官末松謙澄宛" マイクロフィルム
  36. ^ 『日本外交文書』昭和期II、第1部第2巻、69 頁
  37. ^ 韓国人の日本偽史(野平俊水)小学館 ISBN 4094027165
  38. a b 三谷 (2003), p. 107.
  39. ^ 三谷憲正「『閔妃』試論―図像をめぐる一考察」国際日本文化研究センター、2003年
  40. ^ 日本近代史研究会『写真・図説 総合日本史』第11巻―近代Ⅱ(1955年11月 国文社)
  41. a b 三谷 (2003), pp. 95-96.
  42. ^ 三谷 (2003), p. 95.
  43. ^ 「王朝時代の官女の正装」『別冊1億人の昭和史 日本植民地史①朝鮮』(毎日新聞社 1978年7月)110頁
  44. ^ 「宮中の女官の正装」『目でみる李朝時代』(国書刊行会 1986年3月)の183頁
  45. a b 三谷 (2003), p. 103.
  46. ^ 辛基秀『映像が語る「日韓併合」史』1987年8月、労働経済社。p.13
  47. ^ 姜相圭『韓国写真史』1976年12月、図書出版一心社
  48. ^ 三谷 (2003), p. 96.
  49. ^ L.H.Underwood,With Tommy Tompkins in Korea,(London:Fleming H.Revell Company,1905)p292-293
  50. a b 三谷 (2003), pp. 98-99.
  51. a b 三谷 (2003), p. 100.
  52. ^ 三谷 (2003), p. 101.
  53. ^ 三谷 (2003), pp. 101-102.
  54. ^ 三谷 (2003), p. 105.
  55. ^ 三谷 (2003), p. 104.
  56. ^ 明成皇后はどんな顔? 2006年07月26日 中央日報日本語版
  57. ^
    明成皇后はどんな顔? 2006年07月26日 中央日報日本語版
    ^ 親日作家が敗訴 9600万ウォン賠償命令(朝鮮日報 2005年9月2日)
    ^ 明成皇后殺害事件、日本のテレビ局が取り上げる朝鮮
  58. 日報2009年8月24日
  59. ^ 明治40年8月31日付往電31号
  60. ^ 1906年・統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告(國分書記官通訳并筆記)
  61. ^
    米中二股 韓国が断ち切れぬ「民族の悪い遺産」 産経 2015年8月30日
    ^ 韓国、産経に記事削除を要請 大統領を閔妃に例え
  62. 日本経済新聞 2015年9月1日

参考文献[編集]

一次資料[編集]

  • イザベラ・バード「朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期」講談社学術文庫、翻訳:時岡敬子、講談社)ISBN 4061593404
  • 近世朝鮮史(著者:林泰輔早稲田大学出版部 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館
  • 「明治100年叢書 288巻 日韓外交史料5 韓国王妃殺害事件」(編集:市川正明、原書房)
  • [有馬頼寧関係文書目録] 国立国会図書館専門資料部(1989年1月) ASIN: 4875822294
  • 「朝鮮旅行記」『1895―1896年の南朝鮮旅行』の章(著者:ロシア参謀本部中佐カルネイェフ、編集:ゲ・デ・チャガイ、翻訳:井上紘一、平凡社) ISBN 4582805477
  • 「朝鮮王妃事件関係資料」国会図書館憲政資料室(編集 憲政史編纂会) マイクロフイルム 整理番号546
  • 「法制局参事官石塚英蔵傭聘ニ付朝鮮政府ヨリ依頼ノ件」朝鮮問題5(公信類) 陸奥宗光関係文書 国会図書館憲政資料室 資料番号 77-2
  • 「新聞集成明治編年史 第九巻 日清戦争」(編集:新聞集成明治編年史編纂會、出版:財政経濟学会) 昭和33年
  • 「梅泉野録 近代朝鮮誌・韓末人間群像」(著者:黄玹、翻訳:朴尚得、国書刊行会) ISBN 4336031584
  • 「訳注梅泉野錄」(著者:黄玹、翻訳:朴尚得、文学と知性社 全3巻) ISBN 89-320-1565-1 94900 89-320-1563-5 (mun-hak-kwa ji-seong-sa)
  • The tragedy of Korea''(著者:Frederick Arthur Mackenzie、出版:London, Hodder and Stoughton 1908) LC Call Num: DS916 .M2.
    • 日本語訳 『朝鮮の悲劇』(訳注:渡部学、東洋文庫 222 平凡社)ISBN 4-256-80222-3

研究文献[編集]

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