作家 小田 実のホームページ > 朝日新聞連載「アジア紀行」
2001年6月20日号根張る小さなコリア 韓国 「時代に」耐え育てた教育の志
ソウルから東南へ車で1時間の利川(イチョン)は、古来、やきものの地である。今は山間の小さな田園都市だが、水よく土よく、窯の薪になる木にも恵まれて、窯場の数は80余。ことに青磁がいい。日本人も数多く訪れる。
しかし、そのあたり、かつては日本の支配に抗する義兵闘争の地だった。逆に日本軍の苛酷(カコク)な鎮圧、破壊の現場でもある。1907年、「利川にのびる渓谷を見下ろす山道に立った」カナダ人の記者は、「わたしのまえに見える村という村は、すべて灰燼(かいじん)と化していた」と書いた。
利川自体は破壊されていなかったが、住民は山に逃げていた。彼は近くのべつの土地で義兵にも会った。義兵には日雇い労働者も、上流の出らしいのも、80歳ほどの老猟師もいた。武器は猟銃も小銃もすべて古くて錆(さ)びついていた。ひとりが言った。「われわれは死ななければならないでしょう。それでよいのです。日本人の奴隷として生き永らえるよりは自由である方がましです」(F・A・マッケンジー『義兵闘争から三一独立運動へ』韓晰曦訳)
金東玉(キムトンオク)が利川で生まれたのは10年。それから、彼の言い方で言えば、李朝時代、日本時代、解放後の三時代を同じ利川で生きて来た。かつては牧師。今は生徒数3000人の名門の誇りをもつ女子中・高校を理事長として経営する。いつでも背筋まっすぐの端正な姿勢を崩さない。
この91歳の老人は話しぶりによどみはないし、乱れなく足早に歩く。利川とその周辺の義兵闘争について最初に注意を提起してくれたのは彼だが、韓国の植民地化には、韓国人自身の自主性のなさが大いにからんでいる、日本に植民地にされなかったらロシアにされていたにちがいないと、ことば鋭く言ったのも彼だ。
日本時代、彼はキリスト教の牧師だったから、当然、日本の警察で言う「不逞(ふてい)鮮人」になった。そうみなされた。韓国人の「特高」がつきまとった。利川にはアメリカ人の牧師が作った女学校があったが、「神社参拝拒否」でつぶされた。その状態のなかで彼は動き、苦労して正規の学校に行けない貧しい子供たちのために学校を開いた。そして、ようやく解放。韓国の女性の教育はおくれていると考えた彼は、新しく女学校をつくった。生徒数33人。
しかし、すぐ朝鮮戦争が始まった。「北」に、まず利川は占領される。「北」にとってキリスト教の牧師は――「わたしはまた不逞鮮人にされましたよ」。彼は日本語でそう言った。山に逃げた。
利川に入った「北」は「南」の「国軍」に参加した男たちを殺し母と子が残った。やがて形勢逆転、「南」が帰って来て、「北」に協力した男たちを殺し、母と子が残った。いくさが終わったあと、彼は双方の母と子を収容する施設と学校をつくった。
それから紆余(うよ)曲折、もとからつくっていた女学校は生徒数33人から今は3000人の大きな名門校になった。この学校の伝統は、試験は先生が監督しない、生徒が自主的に運営する。
学校へ行った。私が息切れするほど91歳は足早に歩く。生徒が親しげに挨拶(あいさつ)する。彼がいかに敬愛されているかが判(わか)る。理事長室に昔の王様の大きな肖像画があった。「新羅の王です」と彼は説明したが、そのあとを「わたしの先祖です」とこともなげにつづけた。
これが「朝鮮=コリア」だと思った。小さな「朝鮮」だが、これが各地に根をはって、「朝鮮」全体の歴史をかたちづくって来た。彼の場合、その根にキリスト教が深く結びついている。いや、彼の場合だけではない。キリスト教徒は1000万人。首都ソウルには教会5000。韓国はフィリピンにつぐアジアのキリスト教国だ。数だけの問題ではない。金大中大統領の生死をかけての自由と民主主義のたたかいの底にはキリスト教の信仰があった。キリスト教徒の4分の3がプロテスタント――「プロテスト」は「抗議する」という意味だ。
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