2017-02-11
閔妃殺害事件に関するマスコミ(報ステ)のウソ|ナツミカンのブログ
閔妃殺害事件に関するマスコミ(報ステ)のウソ|ナツミカンのブログ
閔妃殺害事件の真実とは・・・日本人の関与なし!
犯人は韓国人であるのに、韓国では真実を伝えない!?
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http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-604.html ねずさん記事より転載加工あり。
閔妃・明成王妃
複数の方から、テレビ朝日で放映された明成皇后暗殺事件・・・放送では、あたかも日本人が朝鮮国王の立派な皇后陛下を殺害した事件であるかのごとく放送されていたとか・・・について、実際の史実について検証してもらいたいとのメールやコメントをいただきました。
最近のメディアの反日・侮日放送は、眼にあまるものがあり、今回の放送も、根本的に史実を捻じ曲げた偏向報道であった模様です。
ちなみに、明成皇后などという“皇后”なんて名を課したのは、後年のことです。
当時は、閔妃(みんぴ)と呼ばれていた。
ちなみに下の写真は、韓流ドラマ「明成皇后」のワンカット。
TOPにある険のある実物写真の人物が、ドラマでは、美しく華麗な王妃になっています。
印象操作とは恐ろしい。
韓流ドラマの「明成皇后」
たしかに李氏朝鮮国王である高宗の妻ではあるけれど、李氏朝鮮というのは、清の属国であり、清王が皇帝、したがって、その属国の朝鮮王は、皇帝と名乗るなんてことはできなかった。
つまり、あくまで、高宗は、属国の“王”です。
したがって、閔妃も、当然“皇后”ではない。
単に“王妃”です。
こういうところからして、歴史認識がぜんぜん間違っている。
本件放送では、「閔妃殺害事件は、日本人にとってきわめて恥ずべき事件であり、日本の教科書では教えていないが、韓国では学校で教えており、韓国民の反日の原点となっている」と報じています。
ありもしないことをでっちあげた韓国売春婦や、実際には日本軍という虎の威を借りた同じ朝鮮人同士の残虐行為について、これをすべて“日本がやったこと”と報じる、韓国の反日主義者たちですら、これまで明星皇后暗殺事件について、なんの騒ぎも起こしていない。
なぜなら、本件事件は、当時の朝鮮国王によって、徹底的に犯人は訴追され、犯行に加わった全員、ならびに、その家族に至るまで処刑されている。
さらにいえば、逃亡した主犯格の男に対しては、朝鮮国王は、なんと刺客まではなってこれを殺害した。
日本も、国際的な非難を畏れ、本件事件に関与したといわれる人物を逮捕・拘留し、徹底的に調べているけれど、公正な調査の結果は“シロ”。つまり犯行への関与は完全に否定されています。
ついでにいえば、このとき、のちに与謝野晶子の夫となる与謝野鉄幹(いま大臣の与謝野氏の曾祖父)も、取り調べの対象となったけれど、彼などは、当日、ぜんぜん見当違いの場所で“釣り”を愉しんでいた。・・・つまり、事件になんの関係もなかったことが証明されています。
当然、この事件は、韓国から日本に対し、これまで一度たりとも教科書に載せようなどという運動はなかったのだけれど、韓国内では、反日教育の一環として、自国の王妃を日本人によって殺害された事件として、教育し、かつ、資料館などにいくと、なんと江戸時代の武士の姿をした日本人が、白人を振り上げて閔妃を殺害しようとしている“絵”などが描かれている。
印象操作のためのねつ造閔妃暗殺絵
これだとまるで犯人は日本人です。
閔妃の殺害は、日清戦争終結、下関条約の年です。
この時代、和服にたすき掛けで日本刀をぶら下げて、などという動きにくい服装で宮廷に殴り込みなど、誰が考えても不自然です。
つまり、過去の歴史を知る人にとっては、本件事件に関して、日本の関与は完膚なまでに否定されていた事件です。
にも関わらず、どういう人物か知らないが、番組では、河野龍巳などという老人を登場させ、私の先祖がやりました。許してください、などと、土下座までさせている。
しかも報道は、閔妃殺害ではなく、明成皇后殺害事件と報じた。
なんだか明成皇后などと聞くと、立派な王妃のイメージがあるけれど、この“明成皇后”という名前は、閔妃の死後に贈られた“諡名(おくりな)”である。いってみれば、戒名みたいなもので、もちろんその名を使ってはいけないということにはならないけれど、普通常識で考えても、亡くなった過去の人について、わざわざ戒名呼ぶ人はいない。
要するに、さも立派な人物を「日本人によって残虐に殺害されたのだ」という印象操作の意図が見え見えです。
そもそも、閔妃事件というのは、朝鮮王朝内の権力闘争の結果もたらされたものであり、歴史をたどれば、日本こそ、いい迷惑の被害者であるに他ならない。
朝鮮内では、事件当時に“現場に居合わせた”朝鮮国王によって事件が明確に裁かれた事件なのに、これが韓国内の反日運動としてスポットライトを浴びるようになったのは、なんと2005年のことです。
どういうことかというと、2005年に、ロシア大学の教授によって、Aleksey Seredin-Sabatin (Алексей Середин-Cабатин) というロシア人による事件についての報告書が、なぜか“発見された”。
ソ連崩壊が、1991年。それから14年も経ってからのことです。
14年も経ってから、韓国の歴史を語る上での重要事件である閔妃殺害事件について“重要文書が発見された”ということ自体がかなり“イカガワシイ”のだけれど、まず、この文書からみてみます。
Seredin-Sabatin という人物は、当時、大韓帝国政府に仕えており、同様に契約によって大韓帝国政府に仕えていたアメリカ人将軍のWilliam McEntyre Dyeの指揮下で働いていたとされています。
記録の公開は、2005年5月11日です。
Seredin-Sabatinは以下のように記録している。
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王妃の居住する王宮の一角には、おおよそ20人から25人程度の「日本人」が詰め掛けていた。
彼らは奇妙なガウンを羽織っており、サーベルで武装していた。
そのうち何人かはサーベルを鞘から抜いていた。
複数の「日本人兵士」が宮殿のあちこちを捜索し、他の者は女王の居住区域になだれ込み、その場で見つけた女たちに襲い掛かっていた。
私は「日本人」が王妃の居住区域で物をひっくり返したりしているのを観察し続けた。
二人の「日本人」が女官たちのひとりをつかんで建物から引きずり出し、そして彼女を引っ張って階段を駆け下りた。
また「日本人」のうち一人は、私に向かって、英語で「王妃はどこだ? 答えろ!」と繰り返し聞いてきた。
私が謁見の間を通り過ぎたとき、私はその場所が「日本人」兵士と将校、そして韓国人の高級官僚の協力によって包囲されていることが分かった。
しかし、その中で何が行われていたのかは、私には知る由も無かった。
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まず、この記録で「日本人」と、一方的に決めつけている点が気になります。
“奇妙なガウン”、鞘から抜いた“サーベル”、“女王”? 閔妃は“王妃”です。いつのまに女王?
“日本人の兵士と将校に包囲”? なぜ「日本人」と特定できたのでしょう。
このあたり、記述だけを見ても、かなりクサイ。
加えて、当時、現場に居合わせた日本人、朝鮮総督府取調局農工商部各長官石塚英蔵の書簡によれば、次のような生々しい記述がある。(朝鮮王妃事件関係資料・ペン書き)
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王妃ヲ引キ出シ二三ヶ処刃傷ニ及ヒ
且ツ裸体トシ
局部検査(可笑又可怒)ヲ為シ
最後ニ油ヲ注キ焼失セル等
誠ニ之ヲ筆ニスルニ忍ヒサルナリ
(口語訳)
王妃をひきだして、2~3ヵ所に切り傷を負わせ
かつ、裸体にして
笑いながら、また怒りながら、王妃の局部を念入りに検査し
最後に油を注いで閔妃を殺害したなど
その模様は筆舌に尽くしがたかった。
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日本人というのは、強姦やらこうした破廉恥な行為を、非常に嫌う習性があります。
刑務所にはいっても、昔は女性に対する強姦や破廉恥行為の犯人は、もっとも恥ずべき犯罪者として最下位に置かれた。ましてや軍隊においては、なおのことです。
すくなくとも、王妃を裸に向いて局部を晒すような神経は、日本の軍人には、ない。
そして、事件については、国王である高宗自身が、
「王妃を殺したのは、不貞の私の部下だ」と証言している(1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告(國分書記官通訳并筆記))
また、現場にいた王子の純宗は、
「国母を殺したのは、禹範善だ」と証言(往電31号)
そして純宗は、後に刺客を放って、禹範善を暗殺しています。
さらに、実行部隊隊長の朝鮮人・禹範善は、
「王妃を直接殺したのは、私です」と証言している。
(在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件)
禹範善
要するに、閔妃は高宗国王の命を受けた禹範善らによって、高宗と純宗の目の前で、高宗の居室から引き出されたのであって、禹範善らは、閔妃を裸にして局所を晒し念入りに検査し、嘲笑した挙句、閔妃を殺害した、というのが、実際の歴史です。酷い><;;
そもそもではなぜ閔妃が、ここまでして辱められ、殺害されるに及んだか。
この原因は、そもそも閔妃自身にあります。
閔妃は、15歳の時(1866年)に王の実父の夫人の推挙で王宮に入りました。
閔妃の夫である高宗は、政治と妻に全く関心を持たず、漁色と酒の放蕩三昧だったといいます。
結果、閔妃は、嫁いで数年もしないうちに王朝の政治に深く介入するようになった。
そして、1873年には、高宗の父で摂政を務めていた大院君とその腹心の部下たちを、裏で画策して、これを追放し、開いたポストに、自分の一族を据えて、政治の実権を握ります。
こうして始まった閔妃一族による政治は、「勢道政治」といいます。
地位が低いけれど勢力のある者が、一方的に政治の実験を握った政治、という意味です。
閔妃は当初、日本と日朝修好条規(江華島条約)を締結するなど積極的な開化政策を実施し、日本から軍事顧問を呼び寄せ、日本のような近代的な新式軍隊を創設したりします。
ところが新式軍隊がお気に入りとなった閔妃は、清王朝に習った朝鮮の旧式軍隊を放置・・・つまり軍事費の支出をしなかった。
旧式軍隊は、給料も食事も出ず、放置された。
閔妃の開化政策に不満を持った旧式軍隊は、1882年、閔妃殺害を目論み、皇室に乱入します(壬午軍乱)。
このとき、多くの閔妃派要人が残虐な方法で殺されるのだけれど、このとき王宮内にいた日本人の軍事顧問やその家族も、同様に旧式軍隊の兵士たちによってじつに残虐極まりない方法で、殺された。
旧式軍隊が王宮に乱入してきたことを知った閔妃は、侍女を自らの身替りにして王宮に残し、自分はいち早く王宮を脱出。残された閔妃の身代わりの侍女は、死ぬまで強姦されつくしたあげく、五体をバラバラに切断されて殺害された。
他方、王宮を抜け出した閔妃は、当時朝鮮に駐屯していた清の袁世凱のもとへ逃げ込みます。
そしてこのとき閔妃が清の袁世凱のもとに逃げ込んだことが遠因となって、実は日本と清との戦争・・・日清戦争が起こる。(このあたりの詳しい説明は、「日清戦争開戦に学ぶ」 を参照)
このほか閔妃は、みずからの贅沢のために、日本が資金を出し、苦労して築いた鉄道の利権をロシアに勝手に売りさばき、それを知った日本が、さらに高値を払ってロシアから権益を買い戻すなんていう事件もあった。
また閔妃は、閔妃の通貨を発行すれば、もっと贅沢三昧ができると、勝手に朝鮮国内で閔妃通貨を発行。国内の流通・金融を大混乱に陥れる等、やりたい放題をしています。
一方追放された大院君は、その後京畿道楊州に隠居したけれど、この追放謀議に閔妃の怖さを知った大院君は、閔妃を“国家存続を脅かすもの”として大いに憂慮し、苦労してた政局に復帰するや、閔妃追放運動を始めます。
そしてこのことが、400年続いた李氏朝鮮王朝末期の政局混乱の一因にもなった。
閔妃は、内政が混乱し、大院君側が権力を取り戻すと、その都度、清をけしかけ、あるいはロシアにすがって、自分の権力の保持を図った。
このため、朝鮮国内は、完全に大院君側と、閔妃側の2つに割れていた。
そうした中で起ったのが、1895年10月8日の閔妃暗殺事件(乙未事変)です。
そしてその犯人は、大院君を中心とした開化派武装組織であり、彼らによって閔妃は、景福宮で、ついに暗殺され、遺体は武装組織により焼却された。
この事件では、当時、国際的な注目を集めた事件であっただけに、日本も朝鮮も、徹底して事件の詳細を調べています。
そしてその結果、日本人の関与は“ない”ことが確認され、事件は、大院君の一党と、高宗国王によって、引き起こされたことまで、つまり、ぜんぶ朝鮮人たちによって行われた事件であることが、明白な事実として確認されている。
にもかかわらず、いまになって、報道ステーションあたりが、さも、日本人が半島で行った非道を告発する、のような語り口で、この事件を“日本人による犯行”として取り扱うのは、売国行為以外のなにものでもないです。
番組や局自体が反日・侮日勢力の手先になり下がり、真実の報道をせず、世論を騒がせ、世の中を混乱させ、嘘八百の報道を、あたかも真実であるかのごとく述べる、こうしたメディアの侮日姿勢には、もう、うんざりです。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-604.html より転載加工あり。
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http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/41677855.html
正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現 さまより転載加工あり。
明成皇后殺害犯の後えいら、河野龍巳、家入恵子両氏が、明成皇后と高宗が合葬された洪陵を訪ね、祖先の過ちを謝った。
2005.05.10
テレ朝の「報道ステーション」で閔妃(明成皇后)暗殺に関する虚偽報道をしていた!「報道ステーション」の報道は次のとおり。
1895年10月8日早朝、軍隊を伴った日本人らの一団が宮殿に侵入し王妃を殺害した。河野龍巳(87歳)は、母から祖父が閔妃(明成皇后)を暗殺したと教えられた。以来、80年余り、河野龍巳の心の中で重い十字架となっていく。新聞記者だった河野龍巳の祖父がなぜ暗殺に加わったのか。閔妃は国を守ろうとロシアに近づいていたが、日本はそんな閔妃を排除しようとした。事件は駐朝鮮日本公使の三浦梧楼が指揮したとされる。河野さんの祖父はソウルの新聞記者をしていた。河野龍巳は韓国にあった偽造レリーフ(日本人が日本刀で朝鮮王妃を殺害)を見て、自分も罪を感じたという。
同じく心を痛めてきた人が居る。家入恵子(80歳)。家入恵子の大叔父である家入嘉吉も事件に関わったとされる。家入嘉吉は当時18歳で朝鮮で日本語の教師をしていた。
重い十字架を背負ってきた2人は、2005年5月に韓国に訪れた。閔妃(明成皇后)殺害者の孫たちが韓国を訪れたことは韓国で大々的に報道された。2人は閔妃の孫(李春吉)に会い、頭を下げた。墓を訪れ、墓を管理する側から地面に膝をついて3回お辞儀をしてほしいと求められた。
河野龍巳「祖父に代わっておわびします。」
家入恵子「これから日本も韓国と仲良くしていきましょう」
古舘伊知郎「国が強い国になろうとして他国に入っていく。そして戦争すると必ずこういう悲劇が起きてくる。やはり韓国の人たちの深い恨みというのは急に氷解しないと思うんですね。だからこそ日本も認めてこうして民間レベルで動いて、まず手を取り合うということは良いことですね。」
酷い歴史偽造!虚偽報道だ!朝鮮王妃を暗殺したのは、朝鮮人だ。 閔妃暗殺というのは、朝鮮をマトモにしたかった朝鮮人たちが、三浦公使などにも手助けされて行った事件だ。
「王妃を殺したのは、不貞の私の部下だ」と現場に居た高宗が証言 (1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告(國分書記官通訳并筆記))
「国母を殺したのは、禹範善だ」と現場に居た息子の純宗が証言。 (往電31号)(後に純宗は刺客を放ち、禹範善を暗殺)
「王妃を直接殺したのは、私です」と実行部隊隊長の禹範善の証言。 (在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件)
禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ
「王妃殺害を今回計画したのは、私です」と証言した李周會 (朝鮮での裁判。裁判に関しては官報に記載あり)
「計画の首謀者は、大院君だ」と記したロシアの参謀 (ゲ・デ・チャガイが編集した「朝鮮旅行記」のロシア参謀「カルネイェフ」の発言)
『機密第36号』と『機密第51号』及び『附属地図』を基本とし、『往電第31号』と『在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』より分析した結果
【高宗と純宗の証言によれば】
1.閔妃は高宗と純宗の目の前で朝鮮人によって高宗の居室から引出された。
2.禹範善の命令或いは禹範善本人により殺害された事件である。
【日本の機密第51号によれば】
1.閔妃が殺害された。
2.内田自身が見たのは、「燃残リタル薪類」と「何物ヲカ埋メタル如キ形跡」が歴然であった事。
【在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件によれば】
1.禹範善は、「旧年王妃を弑せしは自己なり」と自白している。
以上の資料から、閔妃暗殺事件の首謀者が大院君(国王高宗の父)で、実行犯が禹範善ということが判明している。首謀者から実行犯まで朝鮮人であり、三浦公使ら日本人は少し手を貸したに過ぎない。
カルネイェフ(ロシア参謀本部中佐)は、『1895―1896年の南朝鮮旅行』の章で、「1895年11月26日に実行された王妃暗殺では、間違いなく大院君(国王高宗の父)がかなりの役割を演じていた。」と述べている。以上のことから、報ステの報道は明らかな虚偽であり、悪質だ。私は早速、テロ朝に電凸して、これらの事実を述べ、悪質な虚偽報道だから訂正と謝罪の放送をするように抗議した。
石塚英蔵の記録「守備隊の警護の制止を突破し、城内に侵入し、野次馬は深く建物の内部に入り、王妃に傷を負わせ、裸にし、念入りに局部の検査をし(笑いながら、また、怒りながら)、最後に油をかけて焼き殺した…」
王妃ヲ引キ出シ二三ヶ処刃傷ニ及ヒ且ツ裸体トシ局部検査(可笑又可怒)ヲ為シ最後ニ油ヲ注キ焼失セル等誠ニ之ヲ筆ニスルニ忍ヒサルナリ其他宮内大臣ハ頗ル残酷ナル方法ヲ以テ殺害シタリト云フ右ハ士官モ手伝ヘタリ共主トシテ兵士外日本人ノ所為ニ係ルモノノ如シ。「朝鮮王妃事件関係資料」石塚英蔵書簡[ペン書き・法制局長官末松謙澄]
「野次馬」という表現は、日本兵には使用せず、朝鮮人に使用する表現。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/41677855.html
正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現 さまより転載加工あり。
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