林 俊嶺
伊藤博文暗殺100年の2009年10月26日、ハルビンや韓国で「抗日の英雄」をたたえる記念式典があったという。日本では、近代国家の基礎をつくったと評価され、千円札にも登場した伊藤博文だが、朝鮮民族にとっては、「侵略の元凶」であり、伊藤博文を暗殺して処刑された安重根は、今も「民族の英雄」であるという。したがって、記念式典は安重根の「義挙100年」の行事なのである。「伊藤博文」という個人を暗殺した安重根が、今なお韓国のみならず中国でも英雄視されている事実に抵抗を感じないわけではないが、江華島事件以来の日韓(朝)・日中の歴史をふり返ると、これからの日本は、さらに深く広く日本の過去の「あやまち」に向き合い、日韓(朝)・日中との関係改善に努めなければならないと思う。
閔妃暗殺事件もそのひとつであり、極めて野蛮な国家的犯罪であると認めざるを得ない。前段は「日韓併合小史」山辺健太郎(岩波新書)から閔妃殺害事件の概略を抜粋した。後段は「外交文書で語る-日韓併合」金膺龍(合同出版)から内務省法制局参事官(朝鮮内部顧問)石塚英蔵の末松法制局長宛報告書の一部を抜粋した。
「日韓併合小史」山辺健太郎(岩波新書)-----------------
6 ロシアの進出と日本
三国干渉と朝鮮における日本の地位
日本は清国と、朝鮮における支配権をあらそって日清戦争をおこし、清国の勢力を朝鮮から一掃した。ところが、ロシア、フランス、ドイツの三国が、日清講和条約にある日本の遼東半島領有に反対して、これを清国に返還するよう要求した。戦争でそうとう弱っていた日本はとうていこの三国には対抗できないので、この要求に屈服したのである。
これが有名な三国干渉で、日本はこのため朝鮮で大いにその威信をおとした。かわりにロシアが朝鮮へ進出して、朝鮮の宮廷でも、閔氏の一族はロシアと接近し、日本を排撃しようとしたのである。
1895年(明治28年)の7月6日、閔氏の一派はソウル駐在のロシア公使ウェーバーと結んで、朝鮮政府から親日分子の朴泳孝、金嘉鎮、徐光範などを追放し、かわりに親露派の李允用、李完用、李範晋らがあらたに入閣し、日本人が訓練した軍隊も解散された。これは宮廷勢力を中心にしたクーデターであったが、これはかねてから日本にたいしてひじょうな反感をもっていた朝鮮の民衆からは支持されていたのである。
閔妃事件
そのころソウル駐在の日本公使は三浦梧楼であったが、三浦は、ソウルの日本守備隊長の楠瀬幸彦と共謀のうえ、かねて閔妃と敵対していた大院君をかつぎだし、そのころソウルにいた日本人の大陸浪人たちを手先にして閔妃の暗殺をはかったわけである。
1895年の10月7日の夜から翌日早朝にかけて、大院君は訓練隊に護衛され、これに日本の守備隊と抜刀した日本人の一隊が随行して景福宮におしいって閔妃を惨殺し、その死体を陵辱したのち石油をかけて焼いてしまった。これまでこの兇行は日本の大陸浪人がやったようにいわれていたが、彼らは直接閔妃に手を下しただけである。主体は守備隊で、たとえば景福宮の城壁をのり越えるための梯子は、兇行の前日に守備隊でつくっており、また広い宮殿のなかで閔氏の行方をさがすために、わざわざ宮殿内の地理にあかるい日本領事館の萩原警部まで連れて行った。
この兇行は8日の未明におこなわれたのであるが、これは当時宮中にいたロシア人のサバチンと王宮警備の親衛隊を訓練していたアメリカ人のゼネラル・ダイも見ていた。それに夜があけてから異様な風体の日本人が王宮から引きあげてくるのを、一般の朝鮮人も見ていたので、ソウル市内は騒然たる有様であったという。
一方この間に宮廷では、大院君の執政のもとに内閣の改造が行われ、総理大臣金宏集、内部大臣兪吉濬、度支部大臣魚允中、法部大臣張博、学部大臣徐光範、外部大臣金允植という親日派の内閣ができた。
・・・(以下略)
「外交文書で語る 日韓併合」金膺龍(合同出版)-------------
第3章 閔王妃殺害事件
3 遺体の陵辱と処置
・・・
石塚英蔵は内務省法制局参事官のまま、朝鮮の内部顧問(日本の内務省相当)に送り込まれた人物である。石塚は次の法制局長宛の報告書の中で、王妃殺害を日本の誰もが考えていたと、報告書の冒頭に書いている。王妃殺害の必要は三浦も早くから感じていたといい、日本の守備隊が主力であったこと、王妃の殺害と遺体の陵辱の状況を仔細に書いている。
乱暴狼藉の現場を外国人に見られた上、この外国人と口論までしたことと、王城での狼藉を終えて、見苦しき風体をして王城から引き上げるところを、王城前広場に詰めかけた朝鮮人群衆と急ぎ入城するロシア人公使にも見られたと報告している。
謹啓其後ハ益々御清福ニナサレ、恭賀奉リ候。サテ当地ニ於ケル昨朝ノ出来事ハ既ニ大要御承知済ノ御事ト、察シ奉リ上ゲ候。王妃排除(王妃殺害)ノ儀ハ、モシ時機ガ許セバコレヲ決行シタシトハ、不言不語ノウチニ誰人モ含ミ居リタルコトコレ有候得共、モシ一歩ヲ過ラバ忽チ外国ノ関係ヲ惹キ起シ永ク彼ノ国ニ占ムル、日本ノ地歩ヲ亡失スルハ必然ノ儀ナレバ、深ク軽挙ヲ戒シムベキハ今更申ス迄モ之レ無キ儀ニ御座候。
今回ノ事ハ小生共最初ヨリ少シモ相談ニアズカラズ、却ツテ薄々其計画ヲ朝鮮人ヨリ伝聞致シ候程ニコレ有リ、段々聞知スル所ニ依ニ、局外者ニシテ其謀議ニ参与シ、甚ダシキハ弥次馬連ガ兵隊ノ先鋒タリシ事実ニ之レ有候。而シテ其方法ハ軽率千万殆ド児戯ニ類スルナキヤト思ワルルモノ之レ無キニアラズ。幸二其最モ忌ワシキ事項ハ外国人ハ勿論朝鮮人ニモ 知ラレテイナイ様子ニ御座候
現公使ニ対シテハ聊サカ不徳義ノ嫌イ之有リ候エ共、一応事実ノ大要御報告イタスハ職務上ノ責任ト相考候間、左ニ簡単ニ申述候。
王妃排除ノ必要ハ三浦公使モ早クヨリ、感ゼラレタルモノノ如シ、而シテ其ノ今日之ヲ決行シタル所以ハ「危急ノ場合、露ニ援兵ヲ請フノ約束」並ニ宮内省ニ於イテ「訓練隊解散ノ決定」ヲナシタルニ由ルモノノ如シ。即チ訓練隊ヲ利用シタルナリ。
推察スルニ岡本ハ首謀者(首謀者は三浦公使である)タルガ如シ。大院君ノ入闕ヲ斡旋シタルハ正シク同人ナリ。外ニ柴、楠瀬、杉村ハ密議ニ参与シタリト言ウ。其他ハ少シモ聞知セズ。守備隊長馬屋原ノ如キハ命令的ニ実行ノ任ニ充タラレタルガ如シ。コノ荒仕事ノ実行者ハ訓練隊ノ外守備隊ノ後援アリ。(中略)後援ハ或ハ当ラザルガ如シ。(中略)尚守備隊ノ外ニ日本人20名弱アリ(裁判記録によるだけでも40名いる)。熊本県人多数ヲ占ム。守備隊ノ将校兵卒ハ門警護ニ止マラズ門内ニ侵入セリ。殊ニ弥次馬連ハ深ク内部ニ入リ込ミ王妃ヲ引キ出シ2,3ヵ所刃傷ニ及ビ、且ツ裸体ニシテ局部検査(可笑可怒)ヲ為シ最後ニ油ヲ注ギ焼失セル等誠ニ之レ筆ニスルニ忍ビザルナリ。ソノ他宮内大臣ハ頗ル残酷ナル方法ヲ以ツテ殺害シタリト言ウ。
右ハ士官モ手伝イタリシモ王トシテ兵士外日本人ノ所以ニ係ルモノノ如シ。大凡3時間ヲ費ヤシテ右荒仕事ヲ了ラシタル後、右日本人ハ短銃又ハ刀剣ヲ手ニシ、徐徐トシテ光化門(王城正門)ヲ出テ群衆ノ中ヲ通リ抜ケタリ。時巳ニ8時過ニシテ王城前ノ広小路ハ人ヲ以ツテ充塞セリ。(『末松法制局長宛石塚英蔵書簡』井上馨文書、国会図書館憲政資料室所蔵)
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閔妃暗殺事件もそのひとつであり、極めて野蛮な国家的犯罪であると認めざるを得ない。前段は「日韓併合小史」山辺健太郎(岩波新書)から閔妃殺害事件の概略を抜粋した。後段は「外交文書で語る-日韓併合」金膺龍(合同出版)から内務省法制局参事官(朝鮮内部顧問)石塚英蔵の末松法制局長宛報告書の一部を抜粋した。
「日韓併合小史」山辺健太郎(岩波新書)-----------------
6 ロシアの進出と日本
三国干渉と朝鮮における日本の地位
日本は清国と、朝鮮における支配権をあらそって日清戦争をおこし、清国の勢力を朝鮮から一掃した。ところが、ロシア、フランス、ドイツの三国が、日清講和条約にある日本の遼東半島領有に反対して、これを清国に返還するよう要求した。戦争でそうとう弱っていた日本はとうていこの三国には対抗できないので、この要求に屈服したのである。
これが有名な三国干渉で、日本はこのため朝鮮で大いにその威信をおとした。かわりにロシアが朝鮮へ進出して、朝鮮の宮廷でも、閔氏の一族はロシアと接近し、日本を排撃しようとしたのである。
1895年(明治28年)の7月6日、閔氏の一派はソウル駐在のロシア公使ウェーバーと結んで、朝鮮政府から親日分子の朴泳孝、金嘉鎮、徐光範などを追放し、かわりに親露派の李允用、李完用、李範晋らがあらたに入閣し、日本人が訓練した軍隊も解散された。これは宮廷勢力を中心にしたクーデターであったが、これはかねてから日本にたいしてひじょうな反感をもっていた朝鮮の民衆からは支持されていたのである。
閔妃事件
そのころソウル駐在の日本公使は三浦梧楼であったが、三浦は、ソウルの日本守備隊長の楠瀬幸彦と共謀のうえ、かねて閔妃と敵対していた大院君をかつぎだし、そのころソウルにいた日本人の大陸浪人たちを手先にして閔妃の暗殺をはかったわけである。
1895年の10月7日の夜から翌日早朝にかけて、大院君は訓練隊に護衛され、これに日本の守備隊と抜刀した日本人の一隊が随行して景福宮におしいって閔妃を惨殺し、その死体を陵辱したのち石油をかけて焼いてしまった。これまでこの兇行は日本の大陸浪人がやったようにいわれていたが、彼らは直接閔妃に手を下しただけである。主体は守備隊で、たとえば景福宮の城壁をのり越えるための梯子は、兇行の前日に守備隊でつくっており、また広い宮殿のなかで閔氏の行方をさがすために、わざわざ宮殿内の地理にあかるい日本領事館の萩原警部まで連れて行った。
この兇行は8日の未明におこなわれたのであるが、これは当時宮中にいたロシア人のサバチンと王宮警備の親衛隊を訓練していたアメリカ人のゼネラル・ダイも見ていた。それに夜があけてから異様な風体の日本人が王宮から引きあげてくるのを、一般の朝鮮人も見ていたので、ソウル市内は騒然たる有様であったという。
一方この間に宮廷では、大院君の執政のもとに内閣の改造が行われ、総理大臣金宏集、内部大臣兪吉濬、度支部大臣魚允中、法部大臣張博、学部大臣徐光範、外部大臣金允植という親日派の内閣ができた。
・・・(以下略)
「外交文書で語る 日韓併合」金膺龍(合同出版)-------------
第3章 閔王妃殺害事件
3 遺体の陵辱と処置
・・・
石塚英蔵は内務省法制局参事官のまま、朝鮮の内部顧問(日本の内務省相当)に送り込まれた人物である。石塚は次の法制局長宛の報告書の中で、王妃殺害を日本の誰もが考えていたと、報告書の冒頭に書いている。王妃殺害の必要は三浦も早くから感じていたといい、日本の守備隊が主力であったこと、王妃の殺害と遺体の陵辱の状況を仔細に書いている。
乱暴狼藉の現場を外国人に見られた上、この外国人と口論までしたことと、王城での狼藉を終えて、見苦しき風体をして王城から引き上げるところを、王城前広場に詰めかけた朝鮮人群衆と急ぎ入城するロシア人公使にも見られたと報告している。
謹啓其後ハ益々御清福ニナサレ、恭賀奉リ候。サテ当地ニ於ケル昨朝ノ出来事ハ既ニ大要御承知済ノ御事ト、察シ奉リ上ゲ候。王妃排除(王妃殺害)ノ儀ハ、モシ時機ガ許セバコレヲ決行シタシトハ、不言不語ノウチニ誰人モ含ミ居リタルコトコレ有候得共、モシ一歩ヲ過ラバ忽チ外国ノ関係ヲ惹キ起シ永ク彼ノ国ニ占ムル、日本ノ地歩ヲ亡失スルハ必然ノ儀ナレバ、深ク軽挙ヲ戒シムベキハ今更申ス迄モ之レ無キ儀ニ御座候。
今回ノ事ハ小生共最初ヨリ少シモ相談ニアズカラズ、却ツテ薄々其計画ヲ朝鮮人ヨリ伝聞致シ候程ニコレ有リ、段々聞知スル所ニ依ニ、局外者ニシテ其謀議ニ参与シ、甚ダシキハ弥次馬連ガ兵隊ノ先鋒タリシ事実ニ之レ有候。而シテ其方法ハ軽率千万殆ド児戯ニ類スルナキヤト思ワルルモノ之レ無キニアラズ。幸二其最モ忌ワシキ事項ハ外国人ハ勿論朝鮮人ニモ 知ラレテイナイ様子ニ御座候
現公使ニ対シテハ聊サカ不徳義ノ嫌イ之有リ候エ共、一応事実ノ大要御報告イタスハ職務上ノ責任ト相考候間、左ニ簡単ニ申述候。
王妃排除ノ必要ハ三浦公使モ早クヨリ、感ゼラレタルモノノ如シ、而シテ其ノ今日之ヲ決行シタル所以ハ「危急ノ場合、露ニ援兵ヲ請フノ約束」並ニ宮内省ニ於イテ「訓練隊解散ノ決定」ヲナシタルニ由ルモノノ如シ。即チ訓練隊ヲ利用シタルナリ。
推察スルニ岡本ハ首謀者(首謀者は三浦公使である)タルガ如シ。大院君ノ入闕ヲ斡旋シタルハ正シク同人ナリ。外ニ柴、楠瀬、杉村ハ密議ニ参与シタリト言ウ。其他ハ少シモ聞知セズ。守備隊長馬屋原ノ如キハ命令的ニ実行ノ任ニ充タラレタルガ如シ。コノ荒仕事ノ実行者ハ訓練隊ノ外守備隊ノ後援アリ。(中略)後援ハ或ハ当ラザルガ如シ。(中略)尚守備隊ノ外ニ日本人20名弱アリ(裁判記録によるだけでも40名いる)。熊本県人多数ヲ占ム。守備隊ノ将校兵卒ハ門警護ニ止マラズ門内ニ侵入セリ。殊ニ弥次馬連ハ深ク内部ニ入リ込ミ王妃ヲ引キ出シ2,3ヵ所刃傷ニ及ビ、且ツ裸体ニシテ局部検査(可笑可怒)ヲ為シ最後ニ油ヲ注ギ焼失セル等誠ニ之レ筆ニスルニ忍ビザルナリ。ソノ他宮内大臣ハ頗ル残酷ナル方法ヲ以ツテ殺害シタリト言ウ。
右ハ士官モ手伝イタリシモ王トシテ兵士外日本人ノ所以ニ係ルモノノ如シ。大凡3時間ヲ費ヤシテ右荒仕事ヲ了ラシタル後、右日本人ハ短銃又ハ刀剣ヲ手ニシ、徐徐トシテ光化門(王城正門)ヲ出テ群衆ノ中ヲ通リ抜ケタリ。時巳ニ8時過ニシテ王城前ノ広小路ハ人ヲ以ツテ充塞セリ。(『末松法制局長宛石塚英蔵書簡』井上馨文書、国会図書館憲政資料室所蔵)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。
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