2017-02-21

「朝鮮の自由のための戦い 義兵闘争から三一独立運動へ」F.A.マッケンジー著 韓皙曦(ハン・ソッキ)訳



「朝鮮の自由のための戦い 義兵闘争から三一独立運動へ」F.A.マッケンジー著 韓皙曦(ハン・ソッキ)訳

「朝鮮の自由のための戦い 義兵闘争から三一独立運動へ」F.A.マッケンジー著 韓皙曦(ハン・ソッキ)訳

この本の最後の文章を読んだ時、予言かと思わず口走った。ちょっと長くなるけど引用する。

「日本の将来、東洋の将来、そしてある程度までは世界の将来も、(日本の)もっとも近い将来において政権を握るのが軍国主義者か、あるいは平和的発展を志す政党かと言う問いに対する答えにかかっている。もし、前者ならば、いよいよ苛烈に朝鮮を統治し、満州へ確実に侵入し、中国にたいする内政干渉をおこない、ついには大紛争を起こして、そのゆきつくところはなんぴとも予測しえない。後者であれば、日本は数世紀間アジアのいかなる強国にもまさって、栄光と安全の遺産を末ながく継承することになるであろう。
日本は剣を手にして属領に君臨するような、東洋の支配者になるのではなく-そんなことでは決して永続するものではない…」(本書P.279)

1908年頃 著者マッケンージーによる言葉。40歳を前にしてほぼその後の歴史の辿った道を予測している。

マッケンジーは1869年ケベックにスコットランド系カナダ人として生まれる。1900年(31歳)から1910年(41歳)のあいだにロンドンの「デイリー・メール」の記者となり、1904年と1907年の2回朝鮮に特派員として来ていた。



「義兵闘争から三一独立運動へ -朝鮮の自由のための戦い-」 フレデリック・A・マッケンジー
訳  韓皙曦(ハン・ソッキ) 太平出版社 1972
(原題)Korea's Fight for Freedom

この本は1908年に著者によって発行された「朝鮮の悲劇」(原題The Tragedy of Korea) を元に併合から三一独立運動にいたる部分を書き加えている。

原著は日本の敗戦までは朝鮮、日本では禁書となっており、原書が絶版となっていたため、一般からはほど遠い存在(訳者解題より)となっていた。

さて、この本の出版は1972年、「朝鮮の悲劇」も平凡社東洋文庫より1973年に渡辺学訳で出ている。

ほぼ同年代に別の翻訳者が同じ作家のテーマを同じくするものを訳したというのは何か理由でもあったのだろうか?

私は西原基一郎=韓皙曦(ハン・ソッキ)という方の文章をネットの中のPDFで偶然知るようになってから、他の出版物の前書き、自伝、そしてこの本に行き着いた。
今から約40年前の出版になるが、読みやすい文章だ。

この時代、特に日露戦争に従軍した著者マッケンジーが日本軍の軍律と秩序に感服して、すっかり日本ファンになるのだが、その後朝鮮での特派員として、日本の朝鮮への横暴な態度に憤激し徹底的な批判を始める。

今まで私は日本からの視点、朝鮮からの視点、そして現在からの視点で捉えてきた。しかs、その当時日本と朝鮮にいた外国人社会、特にジャーナリストからの視点は当時の世界情勢の捉え方がうかがい知れて興味深い。



この写真はいろんなところでみかけた。1905年以降、各地で義兵闘争がおこなわれるのだが、それをあらわすものとしてよく使われる写真だ。これは1907年に著者マッケンジーが撮影したものだ。

著者が2度目の特派員として韓国に来た1907年も目まぐるしい年だった。
6月に高宗によるハーグ密使事件があり7月に高宗の退位強制、第三次日韓協約によって韓国の正規軍を解散させる。しかし、解散命令に従わない韓国軍部隊が各地で蜂起し義兵闘争が再びおこる。

しかし、ソウルにいる著者にはその情報が伝わらない。だが地方農村からの避難民によって各地で行なっている”驚くべき物語”を耳にするようになる。

・各地方で日本に反対して蜂起し、義兵が組織されている
・日本軍のある分遣隊は全滅し、あるいは駆逐された
・日本軍が勝利する時もあり、その場合は全村を破壊し、一般の農民達を大殺戮する

マッケンジーは日露戦争に従軍した経験から、個別的な日本人の横暴さ、犯罪は知っているが、そのような殺戮が将校の指揮下にある日本軍によって行なわれることは想像もできなかった。

マッケンジーは自らの目で義兵を確認し、交戦を見たいと思うようになる。

しかし、日本の当局により旅行証明書の交付を拒まれる。イギリス総領事からもそれらの行為をやめることを勧告される。

しかし、マッケンジーは取材旅行の準備を着々と進める。問題は鉄道を利用できない地方への旅行は必要なものを全て持参せねばならないわけで、そのためには三頭の馬かロバ、そしてそれぞれのロバには馬夫、そして従者が必要になる。この馬夫、従者探しから困難を極める。だって、誰もそんなところに行きたがる者はいないからである。

このあたりのマッケンジーの描写は細かく、苦労のほどがよく伝わってくる。

彼らは一日16時間から18時間歩いた。”汚れて無感動な”都市ソウルと違い、途中で通る忠清道の農村はちょうど穫り入れの時期で、美しい田畑とそこでは”全ての人が豊かでいそがしくて幸福そう”な姿を見る。
それらの村でどこに行けば戦闘がみられるのかを聞きながら歩を進めていく。

道中での馬夫たちとの葛藤も描き出されている。

さて、「利川にのびる渓谷を見下ろす山道に立っとき」はじめて「日本の強さ」を目にすることになる。
目の前に見える村という村は全て灰燼と化していた。
近くにあった70~80戸あった大きな村はの破壊は全面的であり完全で、一戸の家、ひとつの壁も残されておらず、甕も火鉢も全て壊されていた。一旦、山に逃げた村人たちは再び村に戻って再建を始めていた。

マッケンジーはこれらの光景にやがて不感症になっていく。あまりにも多くを目にしたからだ。
村々で何が起きたかを直接聞いていく。村人達からは「白人がきてこのような光景を記録していく」ことを歓迎される。

マッケンジー一行は義兵達に間違って撃たれないようにきをつけながら歩を進めやがて義兵たちと出会うようになる。そこで撮った写真の一枚が上のものだ。

彼のこのルポルタージュは今読んでも色あせるものではない。それどころか朝鮮の義兵闘争の現地取材としては唯一のものであり貴重な史料でもある。だからこそこの写真をはじめとした何枚かの写真が残る。

文章からも、目を閉じてその時のことを思い浮かべると、彼の取材旅行はもはやある種の冒険譚であるともいえる。
※現在出ているさまざまな旅行記・体験記と一概に比較はできないが、手に汗握る度合いはかなり高い。

彼はこの取材旅行の翌年「朝鮮の悲劇」を出版する。強いエネルギーと意思によって書かれたと思う。

日本と朝鮮では1945年までは禁書であったことは前に述べた。彼が心血を注いだこのルポルタージュが朝鮮や日本の人々の目に触れたのはいつだったのだろうか。

1972年に訳出された二つの本があることによって、その取材旅行を100年たった今目にすることができる。もうお亡くなりになっておられるが 翻訳された韓皙曦(ハン・ソッキ)さんに感謝したい。

なお、英文は次のところからダウンロードして読むことができる。

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