2017-02-23

<参考資料> NHKスペシャル 日本と朝鮮半島 第一回 「韓国併合への道」 を見て 中塚 明 (歴史学者)

<参考資料> NHKスペシャル 日本と朝鮮半島 第一回 「韓国併合への道」 を見て 中塚 明 (歴史学者)

(2010.4.22)

<参考資料> NHKスペシャル 日本と朝鮮半島
第一回「韓国併合への道」 を見て

中塚 明(歴史学者)


 この文章は、歴史学者で奈良女子大学名誉教授の中塚明(なかつか・あきら)氏が、出版社の高文研編集部に寄せられた感想文である。「感想文」というには、余りにも科学的・実証的な内容で、一読して、これはわれわれ日本の一般市民の間で広く読まれるべきものと判断した。それで、高文研編集部に再録掲載を依頼したところ、ご本人の了解を得られた上でこのサイトに掲載することに許可された。原題は「NHKスペシャル 日本と朝鮮半島 第一回 「韓国併合への道」(2010.4.18)を見て とりあえずの感想」である。

 NHKスペシャルのプロジェクトJAPANシリーズ、「日本と朝鮮半島 第1回 韓国併合への道 伊藤博文とアン・ジュングン」は2010年4月18日、午後9:00から10:13までNHK総合テレビで放映された。昨年からNHKは「坂の上の雲」など一連の国家主義的色彩の濃い番組を制作して放映している。われわれ一般市民は、こうした番組内容に、どこか「キナくさい」ものを感じながらも、科学的な批判を加えられないでいる。しかしこうしたNHKの姿勢は、どこか2008年5月に発表された田母神俊雄の論文「日本は侵略国家であったのか」に通じる、一種危険なものを感じる。恐らくその危険を感じているのは私一人ではないだろう。

 そう言う時に、中塚明氏のここに掲載する文章のような、科学的批判を展開した実証的な「歴史観」、「見識」、「素養」は、是非ともわれわれ一般市民が共有しなければならないものだと思う。こうした「歴史観」「見識」「素養」こそ、われわれの「知的武器」となりうるからだ。またこうした「知的武器」の助けを借りない限り、われわれは、未来に向けた正しい、現在の政治判断はできない。そしてわれわれ市民が正しい政治判断をしない限り、日本は正しい進路を選択できない。

 なお、中塚明氏は1929年(昭和4)年、大阪府に生まれ。1953年京都大学文学部史学科卒業。日本近代史専攻。奈良女子大学文学部附属高校教諭をへて、1963年から奈良女子大学文学部に勤務、93年定年退職。この間、朝鮮史研究会幹事、歴史科学協議会代表委員などをつとめる。現在、奈良女子大学名誉教授、日本学術会議会員。 著書『日清戦争の研究』(青木書店)『近代日本と朝鮮』(三省堂)『「蹇蹇録」の世界』(みすず書房)『近代日本の朝鮮認識』(研文出版)など。近著には「司馬遼太郎の歴史観」(高文研)がある。次のサイトは参考になろう。<http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2009/06/0906j0928-00001.htm>

 また高文研は次のサイトが参考になろう。<http://www.koubunken.co.jp/>
 原文には見出しはないが、私が自分の検索用に入れた。私が入れた見出しは青字で表示した。原文はすべて黒字の大きめのフォントを使った。
以下本文。


伊藤博文を美化


 韓国統監に着任した伊藤博文は、韓国をいわゆる「併合」ではない、朝鮮人による「自治」(朝鮮人による「責任内閣」制など)構想を持っていて、もっぱら日本の近代化を手本に韓国を近代化しようとしていた。しかし、朝鮮人がその伊藤構想に従わなかったので最後は「併合」に同意せざるを得なかった――というのが、この番組での伊藤博文の描き方でした。これは京都大学法学部の伊藤之雄氏らの主張にそったものであることは言うまでもありません。

 ちらっと映像に登場した『末松謙澄文書』や『倉富勇三郎文書』などについては、断片的な言葉の引用が行われましたが、これはその文書全体の分析が当然必要です。テレビの番組ではその全面的な分析は無理だと思いますので、この小文でも取り上げません。



番組への2つの疑問


 ここでは、二点の疑問を呈します。


(Ⅰ) 1905年11月17日の第二次日韓協約(いわゆる「保護条約」)を武力で強迫、強要して、韓国の「外交権」は奪われ、列国外交団は韓国から引き上げてしまい、韓国は自主的な外交権を奪われ独立国としての形式も内実も失いました。これは伊藤博文みずから韓国に乗り込んで自明の政策として実践、強要した結果でした。

この状態で、「韓国の近代化をはかるから、韓国人は伊藤博文統監の言う通りについて来なさい」というのが、「併合ではない伊藤構想」だというのですが、そんなことがどうして言えるのでしょうか。なぜ、韓国人は「外交権を奪った日本に従順に従わなければならないのか」――そんな疑問を、この番組制作者は、まったく問いませんでしたね。

 朝鮮(韓国)は古い歴史と伝統をもった国、民族です。その民族を相手に散々、無法を繰り返した後に、こんな虫のいいことを言われても、韓国人がついてこないのは当たり前ではないでしょうか。



(Ⅱ) 私はいま、「散々、無法を繰り返した後に」と言いましたが、この番組では、日清戦争は「朝鮮を属国扱いにしている清国から朝鮮を独立させる戦争だった」ということで片づけられています。

日清戦争中に、「朝鮮の独立」といいながら、朝鮮の主権をどれだけ侵害したか、朝鮮人をどれだけ殺したのか、はては国王の后を惨殺するという世界史上空前絶後の事件を引き起こしたのか、その意味、そしてその事件には伊藤博文が肝心、要のところで全部かかわっていたことを、まったく描きませんでした。

 以下、肝心、要のところで伊藤博文が関わっていたことを史料をあげて紹介しておきます。




朝鮮王宮占領の目的



(1) 日清戦争における日本軍の第一撃が朝鮮の王宮に向かっておこなわれたことは、もう否定できないので、画面には一応出ました。しかし、なぜ「王宮占領をしたのか」、その意味はまったくふれないままでした。朝鮮の国王を擒(とりこ)にして、「属邦保護」として朝鮮に上陸している清国軍を国外に駆逐してほしいという公式文書を、国王から出させて、「戦争の大義名分を入手する」のが、この王宮占領の大きな目的でした。

 清国が朝鮮を属邦としていることを取り上げて開戦の口実にしようとした陸奥宗光外相の案に、「そんな清韓宗属関係は昔からのことで、そんなことを開戦の口実にしても欧米諸国の賛成は得られない。もっと適当な口実をつくれ」といっていた伊藤博文でした。

 そこで陸奥外相が大鳥公使に使者を送り、大鳥が考え出したのが、朝鮮国王を責めたてて、その返答を開戦の口実にしようとしたのです。伊藤博文はこの大鳥の案に、

 「最妙(面白い案だ)、……大鳥強手段一着手ト被察候、此両三日之挙動ニ依リ、或ハ将来ヲ卜(ぼく)スルニ足ル乎(か)ト奉存候。精密御注意可被下候。……」

 と陸奥外相に手紙を送っています(明治27年6月29日、高橋秀直『日清戦争への道』東京創元社、1995年、384~385ページ)。

 「速やかな開戦にいたる道を見いだせず焦慮していた伊藤にとり,このとき実行しようとしている朝鮮への圧迫は、その展望を切り開くものであったのである」(高橋、同書)。

 まだこのあと列強の干渉などがありこれをかわしつつ、朝鮮の王宮占領が実行され、日清戦争の扉を日本軍がこじ開けたのが1894年7月23日だったのです。

 すなわち、伊藤博文は戦争には消極的、できるだけ清国とは戦争したくなかった、というのは全くの作り話です。




東学農民軍の反撃



(2) しかし、こんな無茶をやりながら、日本政府は王宮占領の事実を伏せたまま開戦に持ち込み、まんまと成功したかに見えました。しかし朝鮮人は怒りますね。当然のことです。秋には東学農民軍を主力とする朝鮮人民の抗日を旗印にした大規模な蜂起が始まります。日本政府・日本軍は困りました。「朝鮮の独立」のために戦うといっている日本軍に向って、「朝鮮の主権を侵害するもの」として公然たる大衆蜂起が始まったのですから。しかしこれは、昨日のNHKTVでは、まったく描かれず無視されました。

 これに対して日本政府・日本軍はどうしたか。井上勝生さん(北海道大学名誉教授)の詳細な研究があります。『東学農民軍包囲殲滅作戦と日本政府・大本営-日清戦争から「韓国併合」100年を問う-』(『思想』岩波書店、2010年1月号。この号はよく売れて雑誌としてはまれなことですが増刷され、まだ大きな書店には売っていますので、ぜひ買って読んで下さい)。

 新たに一個大隊の日本軍を朝鮮に送り、日本軍を三隊に分けソウルから西南方にむかわせ、朝鮮の抗日闘争を西南の珍島まで追いつめて殲滅する作戦を展開したのです。

 この作戦について、井上さんの論文の結論をあげておきます。

 東学農民軍に対する三路包囲殲滅作戦は、朝鮮現地の外交部や軍部が立案したものではなかった。広島大本営で伊藤博文総理、有栖川宮参謀総長、川上操六参謀次長兼兵姑総監以下の政軍の最高指導者たちが共同して、東京の陸奥宗光外相も参画の上、立案・決定され、朝鮮現地へ命令された作戦であった。「討滅大隊」後備歩兵第一九大隊は、非道で不法な「ことごとく殺戮」作戦を、朝鮮南部ほとんどの地域で実行するように命令された。(前掲『思想』41ページ)。
 
 伊藤は文官ですが、大本営に出席することを認められていて、日清戦争の軍事指導にもしっかりと参画していたのです。




「閔妃殺害」と伊藤博文



(3) 最後に、いわゆる「閔妃殺害」と伊藤博文との関係です。伊藤之雄氏は「当時の外交文脈から、伊藤首相が関係していないことはすでに論証されている」(京都大学法学会『法学論叢』第164巻 第1~6号合冊、2009年3月、2~3ページ)と言っています。そして自著『立憲国家の確立と伊藤博文』(吉川弘文館、1999年)をあげています。しかし、残念ながらその「論証」はきわめて杜撰なもので、とても「伊藤首相が関係していないことはすでに論証されている」とは言えません。

いわゆる「閔妃殺害」については、昨年、金文子さんによって詳細な研究『朝鮮王妃殺害と日本人』(高文研、2009年)が出版され、この事件についての研究水準が画期的に高められました。
 
この事件では、井上馨に代わって朝鮮駐在公使になった三浦梧楼(元陸軍中将)が、日清戦争が終わった後もまだ朝鮮にいる日本軍を必要なときに動かす権限を手にいれておきたいという要求を赴任早々から持っていました。

ソウルに着任して20日もたたない「明治28年9月19日付け、三浦公使から川上参謀次長あて電報」に「……本官(三浦公使)の通知に応じ、何時にても出兵するよう、兼て兵站司令官に御訓令相成、而して其趣外務大臣に御通牒相成りたし」(大韓民国国史編纂委員会『駐韓日本公使館記録』第7巻、1992年)とあります。

公使というのは外務大臣の指揮下にある外務省の官吏のはずです。それが、外務大臣にではなく参謀次長にこういう重大電報を打ち、こんな電報が来たことを外務大臣に知らせておいてくれ、といわんばかりの電報です。西園寺公望外相代理(陸奥外相は病気で一時休養中)の激怒をかいましたが、当然のことでした。
 
電報を受け取った陸軍参謀本部の川上操六次長は、この三浦の要求を伊藤内閣総理大臣に伝えます。


「 別紙之通、三浦公使より電報有之候に付、参命第三二三号之通、南部兵站監へ訓令可相成筈に候得共、一応御意見相伺度候也」(参謀本部としては三浦の要求にそえるように参謀本部の命令第三二三号として韓国にいる南部兵站監へ訓令する積もりですが一応意見をうかがいます――という内容)。

参命第三二三号とは「今後若し朝鮮内地に賊徒再燃する場合に於て、之が鎮圧の為め、貴官の指揮下にある守備兵を派遣する件に関し、特命全権公使三浦梧楼より協議あらば、貴官は固有の任務を尽くすに妨げなき限り成るべく同公使の協議に応ずべし 大本営」というものです。


 意見をうかがうというより、一応伝え置くと言う感じの川上の伊藤あての文書ですね。 

 さて、伊藤首相はどうしたか。10月2日、伊藤首相は大山巌陸軍大臣にあてて「三浦公使より通知次第、何時にても出兵する様、大本営より予め在朝鮮兵站司令官に訓令相成度旨、大本営へ照会の儀、可然(しかるべく)御取計相成候也」と書きました。

 つまり、三浦公使から出兵の要請があった時は、いつでも応じられるようにして取りはからってほしい、と伊藤首相は陸軍大臣に申し伝えたのです。
 
 西園寺外相は激怒したのですが、伊藤首相によって、9月19日付の三浦公使から川上参謀次長あてに送られた「……本官(三浦公使)の通知に応じ、何時にても出兵するよう、兼て兵站司令官に御訓令相成……」ということは追認されて大山陸軍大臣に通知され、大本営と然るべくと計らうようにと、伝えたのです。
 
 伊藤博文首相が「閔妃殺害」と「関係していないことはすでに論証されている」という伊藤之雄氏の論証は、改めて検証されるに値する不十分な論証だと私は思いますが、いかがでしょうか。

 NHKも遠くアメリカやロシアにまで取材をして、たくさんのお金をこの番組につぎこんだことでしょうが、日本の国内の新しい研究の紹介にももっと精力をさいて、視聴者に上滑りしない情報をしっかり届けてほしいものです。

 以上、昨夜の「NHKスペシャル 日本と朝鮮半島 第一回 「韓国併合への道」を見て、とりあえずの感想です。ご参考までに。 
(2010.4.19 中塚 明)





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