2017-02-06

朝鮮事件(三浦梧楼の政界回顧録 7)

朝鮮事件(三浦梧楼の政界回顧録 7)

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朝鮮事件 
(三浦梧楼の政界回顧録 7)
      一

 明治二十八年八月十七日、我輩朝鮮特派公使に任ぜられた。
 これがまた大波瀾であった。
 その頃我輩はこの熱海に引っ込んでおったが、今度井上(馨)が帰ることになったから、その代りに是非朝鮮へ往ってくれということである。
 我輩は外交の事は素人である。
 不得手である。
 前にフランスの公使に擬せられた時にも断わったほどである。
 それで我輩も再三拒絶したが、是非にということで止むを得ず引き受けることになった。
 しかし我輩が朝鮮に往くについては、まず決定しておかねばならぬことがある。
 それはいうまでもなく対韓政策である。
 そこで我輩は、
 「自分は外交の事は一向知らんから、まず政府の意向を聞いておきたい。
 朝鮮は独立させるか、併呑するか、日露共同の支配にするか、この三策のうち、政府の意見はいずれにあるかを明示してもらいたい。
 自分はどこまでも政府の方針に従ってやるつもりである」
と言って、意見書を差し出したが、それに対してうんともすんとも沙汰がない。
 我輩はもとより政府の方針に従って働くつもりである。
 しかるに政府がその方針を示さぬ以上は、羅針なくして航海を強うるようなもので、我輩には出来ぬ、と断然謝絶して熱海に帰った。
 すると野村靖を使いとして、とにかく帰京してくれと言うて来る。
 帰ってみると、山県(有朋)から申し出の三大政策は事重大にして最も熟慮を要するから、いずれ何らかの決定を示すべきに付き、一日も速やかに渡韓をしてくれとの事である。
 そこで我輩は政府無方針のままに渡韓する以上は、臨機応変自分で自由にやるの他はないと決心したのである。
 いよいよ朝鮮に行くこととなったので、内閣大臣総出で送別会を開いてくれたが、こういう事は全くこれが始めてであった。
 それから後の事は知らんが。
 送別会の場所は帝国ホテルであったと思う。
 松方(正義)はその時大蔵大臣であったから、これも同じくやって来た。
 その折我輩に向って、
 「三浦さん、対韓政策はドンガイにやるつもりですかい」
と尋ねるではないか。
 我輩は対韓政策に対する三ヶ条の質問書を提出しているのである。
 松方がもしこれを知っていれば、決してこういう質問は出来ぬはずである。
 さては伴食だな、我輩の意見書は見せられてないなと思った。
 それで我輩もわざととぼけて、
 「いや永らく野におったから、対韓政策なんてそんな事は考えていませんぜ。
 まあ往ってから後の事です。俺の腹には、二重三重の棚は拵えていませんぜ」
と言うと、何だか変な顔をしているのだ。
 「まあ三浦という大坊主を、朝鮮の野に放ったと思っていて下さい」
と言って笑ったことであった。
 今では元老であるが、その時は一個の伴食であったのである。

     二 top

 我輩はいよいよ朝鮮に往った。前任の井上(馨)は性急な人であり、またどうも恐ろしい細かい所まで干渉する人であった。
 大体に於ては、それは如何にも道理なやり方である。
 従来朝鮮では官職を糴売(てきばい:競り)して、宮中の費用に充てたものである。
 多く金を出すものにはよい官職を与える。これがずっと古くから続いている。
 まず金を出して地方官になると、その地方の豪農と結託する。
 良民を虐遇する。賄賂を貪る。膏血を搾る。
 それは実に酷いことをして金を溜める。
 その溜めた金を宮中に献じて、よい役人になるというわけであるが、これが長続きはせぬ。
 また新たに金を出すものがあれば、たちまち罷めさせられてしまう。
 これが何百年から行われた悪習である。
 そこで井上は日本からたくさんの顧問官を連れて往って、政務の改善を計った。
 大蔵省から連れて往った財務顧問官は、今貴族院にいる仁尾惟茂である。
 これが日本流に租税法を行おうとしたが、朝鮮人にはわけが分らぬ。
 それを日本の通りに予算を立って、きちきちとやってゆこうというのだ。
 決して急に行われるものでないことは分っている。
 それで井上が朝行く、昼行く、夜行く。しきりに世話をやく。
 宮中の細かいところまで決めないと、政府に財源がないのに王室は勝手に使うから、どうも仕方がない。
 朝鮮の内閣も趣意は一通り立ったが、こういう状態であるからなかなかやって行けない。
 それで王室はなるべく政治に干渉せぬように定めたい。
 これが歴代内閣の希望であった。
 王室も日本の公使がかれこれ喧ましく言うから、是非そうしたいと言いながら、なおちょいちょい搾る。
 これが仕様がない。是非矯正せねばならぬということになっておった。
 それから日清戦役後、日本の将校を入れた訓練隊というものが出来た。
 朝鮮としてはこれが訓練された唯一の兵隊であって、それが一大隊ある。
 かなり規則立ったものが出来た。
 これが日本の将校に薫陶せられて、自然と日本に因みが深くなる。
 時の内閣もこれに槌(すが)ろうというのであるが、これが王室の非常な邪魔になった。
 井上が朝鮮に往ってから、王妃が政治に嘴(くちばし)をいれることはよくない、大院君が政治に口を出すこともよくない、この二人とも政治に関係してはならぬという厳命を下した。
 それで大院君は知らず識らずの間に、孔徳里という所で、押し込め隠居同然の身となったが、王妃の方はなかなか引っ込んでいない。
 この王妃は女性としては実に珍しい才のある豪い人であった。
 我輩も度々宮廷に出たが、朝鮮では婦人は男子に会うことは出来ぬ。
 したがって、王妃も我輩などには会われぬ。
 最初一、二度の間は、国王の椅子の下で何だか声がするように思ったが、これが王妃の声であった。
 王妃は国王の椅子の裏の襖を開け、そこから口を出して国王に何かと指図をするので、実質上の朝鮮国王はこの王妃だといってもよいのである。
 我輩に対しても、
 「はなはだ遺憾であるが、この国の風習として直接にお目にかかることが出来ない」
というご挨拶である。
 それは実に行届いたものだと思ったほどである。
 こういう才智ある王妃だ。
 井上から政治に容嘴することを厳禁されたが、井上が始終宮中に出て指図するうち、何とかその干渉を緩めようと計り、とうとう井上を口説き落して、また政治上に口を利くようになった。
 独り馬鹿を見だのが大院君である。
 それにはまた裏にロシアの公使が付いている。
 日本はただ表から行くばかりであるが、向うは裏から行く。公使ばかりではない。
 公使の細君が始終宮廷に出入して、王妃を操る。
 そこでこちらからもどうしても女を入れねばならぬということがあったのだ、その対抗上から。
 これが我輩の朝鮮に行くまでの状態であったのだ。

     三 top

 そこで井上は帰る。我輩が行く。王妃はもう少しも気を置かれぬ。
 「今度の公使は軍人上りだ。与し易いものだ」
と高を括(くく)ってかかった。
 それで王妃の手は早くもいろいろの方面に伸びて来た。
 井上が出発して間もなく、王妃から使いがあった。
 「巡検と訓練隊がしばしば喧嘩をして困る。何とか一つ取計ってもらいたい」
ということであった。
 そこで早速取調べさしてみたが、どうもそういう形跡もない。
 その後また使いが来た。
 「どうも巡検と訓練隊が喧嘩をして困る」
というのである。
 また取調べさしてみたが、やはりそういう形跡はない。
 その後もまた来た。そこで、
 「これはおかしい。事実ありもせぬのに、二度も三度も使いが来る。これはおかしい」
と思っていると、ある日の朝、国王のお使いだといって安駟寿という人がやって来た。
 我輩は二階におったが、そこへやって来て、
 「どうも訓練隊と巡検としばしば衝突して困ります。
 一時訓練隊の武器を取り上げておきたいと思いますから、ご承諾を願います」
というのだ。さあ来た。これだ。向うの腹はすぐ分った。我輩が、
 「訓練隊の武器を取ろうと取るまいと国王の勝手だ。何もご相談には及ばぬ」
と刎ねつけると、重ねて、
 「しかし日本のご厄介になっている兵隊の事であるから、一応公使の手から穏やかに武器を渡すよう、お取り計いを願います」
 と言うのだ。大喝一声、
 「相成らぬ」
と怒鳴りつけると、胆を潰して梯子段をけし飛んで杉村(濬:ふかし、当時書記官、後外務省通商局長、ブラジル公使となり、現地で死去)の所へ転げ込んだ。
 すると杉村が上って来た。
 「どんな事ですか」
と聴くから、我輩は、
 「いやこの間から毎日巡検と訓練隊と喧嘩するなどと言って来る。
 今も訓練隊の武器を取り上げたいと言って来た。
 訓練隊の武器を取り上げたら、今度は内閣員の馘首と来るのはきまっている。目に見えている。
 君、もう見てはいられぬぞ」
と言うと、杉村はさては何かやるなと思ったらしい。
 「それはよろしゆうございましょう」
と答えた。あまり口数を利かぬ男であった。それで、
 「乃公は様子を如らぬから、どうかそれだけの準備をしてくれ」
と命じておいた。
 杉村は以前知らぬ人であったが、朝鮮に往ってから始めて知ったのだ。
 転任の辞令を受け取ってもう帰るばかりの時であった。
 これまで朝鮮では新任の公使が国王の謁見を済ますと、その足ですぐ大院君の所へ行くのが例となっておった。
 ところが我輩は殊更に行かなかったので、大院君はすこぶる不審を起した。
 岡本柳之助を通じて、
 「これは前例と違う。如何なるわけか」
と尋ねて来た。
 「いや少々考えがあるから控えている。出る時が来たらこの方から出る」
と答えておいたが、大院君は、
 「公使が来られねば自分の方から行く」
というようなわけで、二日置き三日置きに催促する。
 岡本も大いに困って、
 「行くとなり来さすとなり、早く決めてもらいたい」
としきりに迫るが、我輩は、
 「いや行こうと思えば無論この方から訪問する」
と受け流して、それに応ぜぬ。岡本は、
 「毎日子供の使いを見たようなことで、はなはだ困る。はっきりしたご返事を承わりたい」
と喧しく迫るが、我輩は相変らず、
 「何と言われても、自分が必要と思う時まではお目にかからぬ。どうぞそう言うてくれ」
と答えておいた。
 我輩の腹の中では、大院君を中に置いて大体の改革をしようと思っているのである。
 つまり大院君を利用して、改革を実行しようと考えているのである。
 しかし大院君は幽居同様の有様で、孔徳里におられたのである。
 あれを宮中に送るにはどうしても兵力を要する。素手では行われぬ。
 それで杉村にも、
 「大院君を宮中に入れるには、兵隊の護衛を付けてやらねばなるまい。
 城門を打ち破ってあれを宮城に入れるにぱ、兵力を要するぞ」
とただこれだけの事を授けて、
 「あとは皆よいようにしてくれ」
と言って、一切を杉村に委ねてしまったのである。

     四 top

 そこで計画実行の日はいよいよ十月八日(明治二十八年)と定めた。
 即ち大院君はこの日に入城するに決したのである。
 我輩は杉村に向って、
 「天長節が近いから手入れをすると言って、あの座敷の内のペンキ塗りから始めよう」
と言うと、
「それは面白いです」
と答えて、早速ペンキ屋を入れ、足場を組んでペンキを塗り始めた。
 この計画は誰にも知らせぬ。ただ通訳と杉村とこの二人より他には一切知らせぬ。
 今どこかの公使をしている内田(定槌)、これが総領事であったが、無論知らぬ。
 その日には我輩を晩餐に呼ぶことになっている。
 さていよいよ八日が来た。
 何か起るぞ、何かあるらしいと、一般に何となく響き渡った。
 すると、ロシアの公使とアメリカの代理公使と二人揃うてやって来た。
 我輩に面会したいということである。
 「ははあ感付いたな。きっと偵察に来たに違いない」
と察したから、
 「この通りペンキ塗りを始めておるから、お通し申す場所もない。
 裏の日本座敷より他にないが、それでもお構いなくば」
と言うと、
 「いやそれでもよろしい」
ということだ。
 しからばとて、我輩のいる日本座敷へ椅子を並べて、それへ招いた。
 ずっと入ってみれば、あちらには大工がいる。こちらにはペンキ屋がいる。
 どこもかしこも手入最中で足を踏み入るべき所もない。
 我輩は我輩で、狭い所へ畳を敷いて坐っている。
 ここが何らかの策源地であろうとはどうしても思われぬ。
 彼らはすっかり計略に陥った。
 「いろいろの風説があるが、きっと流伝であろう。実説ではあるまい」
と思ったものと見え、ただよもやまの話をしたばかりで暇を告げた。我輩は、
 「今日は総領事の晩餐に招かれている。少し早いが門前までご一緒に参ろう」
と告げて、時刻は少し早かったが、わざと二人と連れ立って立ち出で、さようならと言って領事館へ入った。
 公使館の中は、修繕で大騒ぎをしている。公使は晩餐に招かれて行く。
 天下泰平、何事があろうとも思われぬ。
 「大丈夫、何事もない」
と二人は安心して帰ったことであろう。すっかり我が術中に陥れてやったのである。
 さて内田の所に往った。いろいろ談話を交うるうち、いよいよ晩餐の時刻になった。
 ところが内田は何となくそわそわして落付かぬ様子であったが、やがて、
 「折角お招き致しましたが、領事館のものが朝出たきりで帰って来ません。もう戻りそうなものですが」
と言うのだ。
 「どこへ往ったのか」
と問うと、
 「それは分りませんが、馬に乗って参りました」
との答えである。我輩は早くも、
 「ははあ杉村が使ったな」と思った。
 これは一人は警備長で、この間まで朝鮮におった太田という男。
 一人は領事補で、この頃ブラジルの公使になった男だ。
 内田はこの二人を所謂お取待役に招いたのであるが、一向に帰って来ぬ。
 「今に戻って来ましょうから」
ということでしばらく時刻を移したが、なかなか戻って来ぬ。
 杉村が使ったら、今頃帰って来べきものではない。
 あまり時刻が遅れるから、ついに待ちくたびれて晩餐を始めた。
 向うは内田夫婦、この方は我輩。ただそれきりであった。
 我輩はいろいろの話をしながら、時間の経つのを待っておった。
 そのうちかれこれ十二時にもなるから、暇を告げて帰って来た。
 公使館に入って見ると、杉村の宅に燈火の光が見えている。
 そこで立ち寄って見ると、
 「まだ大分時間がかかりますから、お休みになっては如何ですか。よい時刻に私が参ってお起し申します」
と言うから、
 「それでは帰って寝よう」
と言ううち、裏の方で赤子の泣き声がするではないか。
 「あれはどこだ」
と言うと、
 「妻が産をしたのでしょう」
と言うのだ。なるほどそう言えば、臨月の腹らしかった。
 「それじゃ往ってやらねばいかんぜ」
 「至って産の軽い質ですから、心配はありません」
 「それじゃ乃公は帰って寝るよ」
と往って別れて帰り、一眠りすると、杉村が来て起した。
 「もうそろそろよい時刻です」
 そうかと言って起きると、
 「葡萄酒でも飲もうじゃありませんか」
というので、我輩と杉村と通訳、この三人で葡萄酒を飲んでおった。
 たちまちわあっという声が聞えると思うと、バリバリという銃声が聞えた。
 「さあやった」
と思う間もなく喊声も止む。銃声も止む。夜は元の寂寞に帰った。

      五 top

 しばらくすると侍従が来た。国王よりの使いである。
 「大変が起りました。片時も早くご入朝を願います」
と言うのである。
 「何事かい」
 「何事かは存じませんが、大変です。大分死傷者も出来たような有様です」
 「それは大変だ。すぐ出ると申し上げてくれ」
 まず侍従を帰して、すぐそのあとから参内した。
 国王は板の間の所へ出て、おどおどしてござる。余程ご心配の体である。
 「尊体に何もお差し障りはありませぬか」
と申し上げると、今まで国王に向って何か朝鮮語でしきりに喧ましく言っておった一老人が、急に我輩の方を向いてこうやった。
 即ち九拝だ。
 「あれは一体どなたか」
と問うと、通訳が、
「あれが大院君です」
と言うのである。犬院君はいよいよ乗り込まれたのであった。我輩は、
 「陛下はご静養遊ばさるるよう。殿下はこれへお在りなされてよろしい。
 後の協議もあるから、早速閣員をお呼び下さるよう。
 陛下には各国公使が拝謁を望んでも、決してお許しなさるな」
と堅く止めて、国王にはご静養を勧めおき、大院君を拉してその場を去った。
 さあ、ロシアの公使が来る。アメリカの代理公使が来る。続いて各国の公使が来る。
 いずれも謁見を求めたが、早やこの方から止めてある。誰が何と言っても、
 「ただ今ご静養中であるから、誰にもお会いにならぬ」
と言って、皆拒絶した。すると、
 「日本公使は早くから出ている様子ですが」
となじった。
 「いやそれは今朝事件の起るや否や、早々の間に参朝されましたので」
と答えると、
 「しからば日本公使に会いたい」
と来た。そこで我輩の所へ来て、
 「こう申しますが、如何致しましょうか」
と言うから、
 「構わぬ、会おう」
と答えてやったが、さて会うべき室がない。
 家と家との繋ぎで、廊下のようになっている所がある。そこで会った。
 ロシアの公使とアメリカの代理公使だ。向うは主動的、この方は受動的。
 全く受け身である。どう来るかと思っている。
 「実に意外なる椿事で、日本人がこれこれである。
 今途中でも見た。抜刀をしてこういう有様であった。
 この騒動は確かに日本に関係がある」
と恐ろしく切り込んで来た。
 そう言っているうち、我輩がそっと二人の足もとを見ると、ぶるぶると震えているではないか。
 「しめた。大丈夫だ」
と思った。向うは何しろ刀を持って、飛び回るところを見たのであるから、狼狽している。
 もうこの方は平気だ。
「責下方は居留地をもっておられぬが、自分はこれに反して多くの居留民を持っておる。
 その行為について、本国政府に対しては重き責任を持っておるが、なにも貴下方から責任を問われる筋のものではない。
 なるほどこの事件のうちには、日本人がいたであろうが、これが果してことごとく日本人であったか否かということは、これから調査を遂げた上でなくては分らぬ。
 朝鮮人であっでも、人に侮らわるというところから、殊更に日本人の風をすることもある。
 したがって日本の刀を使うこともやる。
 それ故このうちに真実の日本人が何ほどおったか、また贋者が何ほどおったか、これはこれから調査せねばならぬ。
 ただ日本の風をして日本の刀を持っておったから、それで日本人だと言うは速断である。
 しかしこれは自分の責任である。何も責下方からご質問を受くべき筋合のものではない」
と断然はね付けた。
 「しからば今日公使会議を開いてもらいたい」
という請求である。これは公使の上席たる我輩から招集すべきものである。
 「よろしい、承知した。午後一時から開こう」
と答えた。早速その手続きに及ぶと、皆公使館へ集まった。
 種々の質問を発するが、皆今のようにぽんぽんはね付ける。一切取り合わぬ。
 ここで一つ情ないものだと思ったのは通訳だ。
 これは公使館のもので、英語の出来る男であったが、我輩の言うことはほんの少ししか通弁せぬが、先方のことは蛇足を付けてまで取次ぐ、実に情ないものだと思った。
 この方の言うことはまことに短い。先方の言うことは丁寧に通ずる。
 我輩は言葉は分らぬが、通弁の仕方によって分る。
 どうしてこうも変るものか、全く国という観念がない。
 平生懇意にする外国人ということが元になっているのである。
 後には立派な人になったがね。
 談判は今の調子で水掛論だ。皆小気味よくはね付けた。
 何と言っても足を震わしているような相手だ。この方は平気なものだ。
 そのうちにイギリスの代理公使が口を開いたが、皆と違う。案外鷹揚だ。
 「我々が何と言ったところで、公使は責任は実に重いと言われるのであるし、その公使が責任上調査すると言われるものは、他から想像や風説をもって、かれこれ論争するというは、ちと早過ぎはせぬか」
と言い出すと、すぐこれに賛成したのはドイツであった。
 主として喧く言うのがロシアとアメリカ、この二人だ。
 アメリカは今なお朝鮮の事には口を出すのだ。
 さあこの騒動で、我輩は呼び帰された。
 十月二十四日付で罷免となった。
 東京からはロシア語の通ずる半ば探偵のようなものが、多人数乗り込んで来る。
 そのうちに小村(寿太郎)が代りの公使となって来た。
 我輩は最初朝鮮に行く時、三ヵ条の質問書を差し出したが、政府はそれに対して何の指図をもしない。
 それでこれは我輩に自由にやれという意味だと承知して赴任したわけである。
 今までのごとく弥縫して行くくらいのことはもとより知っている。
 弥縫すれば弥縫の出来ないことはない。しかし弥縫はどこまでも弥縫である。根本の解決ではない。
 こういうやり方では、実に際限がない。什方がない。
 たとえ自分の身を焚くも、国権の重きには換えられぬ。
 これが煙草三服喫む間に決した事で、ついに思い切って断行したのである。
 それで政府に対しては案外平気だ。
 「帰れということなら帰ろう。事情は帰ってからお話する」
ということだけ報告しておいて、さていよいよ帰朝の船に上ったのである。

      六 top

 汽船は馬関(下関)に着いた。
 我輩は上陸の支度までしたが、上陸地はここではない。
 広島の宇品だということで、また宇品に往った。
 あそこにカランテンがある。コレラか何かが流行って検疫するから、そこへ小舟で上れということである。
 そこで検疫を受けて湯に入った。
 やがて湯から上るや否や、多人数の巡査がやって来て、拘引状を示した。さあ我輩は大いに憤った。
 「内閣員が出て末て、一通りこの事の顛末を聴きそうなものだ。
 しかしてこの方に罪があるというなら甘んじて受けもする。
 一言も聴きもせず、直ちに火付け夜盗の扱いをする。
 人を欺いて検疫所へ連れ行き、湯に入れておいて、こういうことをする。実にけしからぬ」
 憤ってはみたものの、相手は巡査だ。仕様がない。
 それなり広島の裁判所へ引っ張られて往った。
 一応事実を尋問したが、
 「いや自分に対するお尋ねは、誰か内閣員が来て聴くのが当然である。それまでは言うべき筋でない」
 断然はね付けて、一切答弁しない。
 日が暮れてから送られて往った所が監獄だ。監獄へ連れて往かれた。
 一通り獄則を言い渡した上、監房へ入れてピチンと錠を卸した。
 身は既に鉄窓場裏の人となったのである。
 その後一度裁判所へ呼び出されたが、別に大した尋問もなかった。
 監獄では身分が身分だけに、大分寛大に取扱ってくれた。
 たった一人広い所へ入れ、朝夕二度ずつ運動を許してくれた。
 他の監房でいろいろの話声が聞える。
 あれも来ている、これも来ていると、その声音で薄々分った。
 運動の時間にブラブラとその前を通ると、軍鶏の龍から覗くように、皆顔を出して見ている。
 多くは知らぬ顔であるが、場所が場所だ。
 「やあ親分が運動に出ている」
と思えば、なおさら懐かしいものであろう。
 皆顔を並べている。実に不憫(ふびん)だと思った。
 我輩は取扱いが寛大で、宿から弁当も入れる。菓子も入れる。まず不自由はない。
 その菓子や食物はだか自分が少し食うばかりで、跡は紙。紙といったところで、ただ便所の塵紙があるばかりだ。
 その塵紙に包んで袂へ入れ、運動に出る度ごと、監視の隙を見て、そっと監房の中へ放り込んでやるのだ。
 もっとも看守も鷹揚に見てはくれたが。
 ビスケットがくればビスケット、蒸芋が来れば蒸芋、それを少しずつ紙に包んで放ってやる。
 別には今日は誰々まで行ったということを書き付けておくのだ。
 入監九十日の間、楽しみというは、これが一つだ。
 今の内務大臣の水野錬太郎、あれが内務書記官であったが、監獄へ回って来た。
 これは前から知っておったが、その折、
 「こういう所へお入りになって、実にお気の毒だ」
と言うから、我輩は、
 「乃公と外の者とは、その間にただ鉄窓が一つあるばかりだ。
 外の者は乃公が監獄に入っていると見えようが、乃公からは外の者が監獄にいるように見える。
 ただ間に鉄の格子が嵌っているだけだ」
と答えた。
 その間世間の様子が聞えぬだけに、かえって呑気に日を暮らした。
 そうしてまるまる九十日経つと、無罪放免と来た。
 その間は華族の礼遇その他皆停止されておったと見える。
 監獄から出ると、あの辺の有志者の歓迎会に招かれた。
 それから汽車で帰ったが、沿道到る処、多人数群集して、万歳万歳の声を浴せ掛けるような事であった。
 汽車が静岡に着いた。我輩は途中下車して大東館に一泊したが、谷夫婦が出迎えに来てくれた。
 「これからどうするつもりか」
と聞くから、
 「我輩はもともと熱海の山から出て往ったのだ。済んでみれば、また元の熱海へ帰るまでだ」
と答えた。
 「それもそうだが、途中の駅々には、わざわざ多人数出て来て送迎するということになっている。
 それに内輪でも心配しているから一応は東京に帰り、その上で熱海へ往ってはどうか」
と言うから、
 「それではそうしよう」
と言って、谷夫婦とともに東京に帰った。

    七 top

 東京に着いたその晩、早速米田侍従が訪ねて来た。我輩はまず、
「お上には大変御心配遊ばしたことであろう。誠に相済まぬことであった」
と挨拶すると、
 「今夜お訪ねしたのは、他でもない。
 これには何か特約でもあったことか、それを聞いて来いと申すことで、それでお訪ねした」
とのことである。我輩はこれに対して、
 「いや大院君とは約束も何にもない。
 最初井上から、大院君と王妃とは決して政治上に嘴を容れてはならぬということにして、書付まで取っておる。
 しかるに王妃はいつの間にか以前に倍して政治上に関係するに反し、大院君は相変らず押込め隠居同然の有様であった。
 それであの事件の起った朝、自分は大院君に会って、もともとこういう関係になっておるから、殿下は政治上に容嘴することはなりませんぞと戒めた。
 大院君も、李家を救うてくれるということなら何よりも有り難い。
 決して政治上に関係せんから安心してくれということであった。一言半句も理屈はない。
 ただ自分の言いなり次第になったわけで、約束も何もない。
 ただ井上の折の書付が反古になったのを、自分が再び活かしたまでの事だ。
 この辺の事情をよく申上げてくれ」
と答えたことであった。
 我輩の行為は是か非か、ただ天が照臨ましますであろう。

      八 top

 それから今度は宮内大臣の田中がやって来た。
 これは伊藤(博文:当時の首相)から頼まれて来たということである。その趣意は、
 「今度の一件から、各政党がしきりに君を担ごうとしている。
 君は例の気性だから、悪くするとこの事に憤慨してこれに身を投ずるかも知れぬ。
 これはどうも三浦のためにはなはだよろしくない。
 君はごく懇意だから、どうか往ってこの事を話してくれということで、それで訪ねて来た」
というわけである。我輩ははなはだ不満だ。
 「それは折角のご親切だが返上する。
 伊藤に今日それだけの親切があるならば、何故広島に来て乃公に会わなかったか。
 真実に国を憂うる心から出ておる事だ。
 よくても悪くても、伊藤にそれだけの親切があるならば、一応乃公の真意を聴きそうなものだ。
 それを何ぞや、火付け夜盗の扱いをして、閣員一人も出て来ぬ。
 それに今日乃公の一身のためによろしくないなどというのは、乃公に受けぬ。返上する。
 伊藤にそう言ってくれ」
と断然はね付け、さらに、
 「もともと乃公は好んで朝鮮に往ったわけではない。
 熱海の山に引っ込んでいるものをわざわざ引き出して朝鮮へ往ってくれとの事であった。
 その相談が気に入らぬと言って一旦熱海へ帰ったが、またまた呼び出されて、とうとう往くことになったのだ。
 もう済んでみれば、身体に傷が付いたではなし、監獄へ入れようが入れまいが軽微の事だ。
 広島からすぐ熱海へ帰るつもりであったが、谷夫婦が静岡まで出てきて、一応は東京へ帰れと言うからそれで一緒に帰って来た。
 今日は立とう明日は立とうといううち、朝早くから人が訪ねて来る。
 それを無下に断わり兼ねて、だんだん日が延びたが、もう際限がない。明日は断然熱海へ行く」
と言ったら、田中もそれならばと言って帰ったが、この時、華族の礼遇は元の通りということに運んで来ておった。
 宮中顧問官というような役もあったが、皆復された。
 我輩は政党の関係など、そんなことはちっとも問題にはしていない。
 それで伊藤も後には大いに安心したとみえる。それから後には会いもしたがね。

       九 top

 その後、井上は、
 「三浦は実に気の毒たった。自分の身をああまでにしてやったのだ。実に気の毒だ」
と思い込んだ。
 ここが井上の他と違っている点である。性急の男だ。早速、藤田伝三郎を使いとして寄越した。
 「実は井上さんのお使いで参りました。
 貴下の事について、どうも気の毒だ気の毒だとしきりに言われております。
 それで今夜乃公の手料理で一緒に飯を食いたい。
 貴様は何の関係もないが、懇意の間柄だ、相伴してくれ。
 そして案内して来てくれということで、お迎いに参りました」
ということだ。
 「それは有り難い。行こう」
と言って出掛けたが、井上も喜んで、
 「久し振りで自分の指図で拵えた」
と言って、すこぶる贅沢な馳走をしてくれたが、ただ気の毒だ気の毒だという一言のみであった。
 伊藤であろうが井上であろうが山県にしたところが、我輩が好んで往ったのではない。
 無理にやったことはよく知っている。
 事が済んでみれば、どこまでもそれは気の毒だということであった。
 山県のごときも、
「あれは胆を焼かして仕様のない奴じゃが、自分一個の事についてかれこれ言ったことは、かつてない」
と始終人に言っておった。
 これは知己の言と謂うべきである。
 朝鮮事件は大体こんなものであった。

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