2022-11-26

娼妓等周旋業と慰安婦の要員確保 外村 大

 娼妓等周旋業と慰安婦の要員確保   日本内地と朝鮮との比較

外村  

経営学論集 Vol. 61 No.2 April 2022

キーワード

人身売買  売春  慰安婦  植民地

===

目 次 

1. 先行研究と本論文の課題

2.営業許可と関連法令

3.統計が示す事業経営の実態

4.業務内容とその専門性

5.違法行為と取締りの限界

6.慰安婦の求人需要への対応

7. まとめ-国家責任の議論の深化をめざして


1.先行研究と本論文の課題。

近代日本では,業として売春を行うことが合法であり,それを行う(正確には形式としては自身の営業としてだが,実態としては強いられて行う,あるいはやむを得ずそれを行わざるを得ない境遇に陥っていたというべきであろう) 女性たちも少なくなった。そして,売春のための施設を経営する者に女性たちを紹介する業者もおり,彼らの活動もまた法的に認められていた。彼らの存在と活動は,同時代においても, その後それが非合法化された後も,当然知られていた。ただし彼らの活動がその時代の社会を理解するうえで,特別重要であると考えられたことはない。それについての学術的分析はほとんどなかったと言っていいだろう。

たが, 20世紀末になると慰安婦問題との関係で,そうした売春施設に女性を紹介する業者についても若干の関心が払われるようになった。慰安婦問題が政治外交の問題としても焦点となっていったなか,女性たちがどのようにして慰安所に送り込まれたかという史実が議論の的となり,そこに,「業者」が関係している事例が多数あることが確認されたためである。そして, 1990年代以降,韓国人の被害当事者が名乗り出てようやくにして始まった,慰安婦についての歴史研究に関連して,「業者」の活動について,いくつかの重要な指摘がなされた。

吉見義明は,慰安婦を集めた主体は日本軍であるとしたうえで,「業者が手足として使われた」と見るl)。そして,彼らが誘拐や就業詐欺といった,当時の法律でも違法とされる行為によって女性たちを慰安所に送り込んでいたことを述べている。しかも,そうした「業者」の活動に対する取締りは十分ではなく,とりわけ朝鮮では違法行為は黙認されたとの見方も提示されている )。また,朝鮮の状況について広範な史料をもとに分析した尹明淑は,関連法令での規制が日本内地(植民地を除く,現在の47都道府県とほほ同じ領域)と比べて厳格でなかったことを指摘した )。つまり,違法行為を行う

「業者」があまり制約を受けずに活動しうる条件があったと言うのである。また,公娼制度自体が日本の侵略,植民地支配のなかで朝鮮に持ち込まれ,広がっていったことも論じられており,そのなかで必要とされた娼妓等を紹介する「業者」も増加していったことも,尹や宋連玉の論文で紹介されている  )。なお,「業者」の増加は,娼妓等の紹介が,資金がなくとも稼げる, 朝鮮人にとって成功を展望しうる数少ない職業であったためであるとの指摘もなされた )。これらの指摘のうち,「業者」による違法行為は特に驚きをもって受け止められることでもないだろつ。慰安婦以外にも,そのような女性の人身売買の話は小説や演劇でも登場するし, それを自慢げに語る関係者の回想記すらある )。警察の違法行為の黙認も,売春や違法賭博が厳格に法を適用して取り締まられず,見逃されているケースがあることを考えれば,十分ありそうなことである。

ただし,誘拐のごとき極めて重大な犯罪が果たしてそう簡単に黙認されたのかという疑問は残る。特に戦時下の場合,治安秩序に多大な影響を及ほすような犯罪が放置されるとすれば, 社会的不安が広がる。それは総力戦を遂行している日本帝国にとって避けるべき事態である。また,植民地朝鮮で公娼制が広がり,それを支える娼妓等を紹介する「業者」が増加したのはそうだとしても,しかしそのことが同時代の社会の中でどれほどの意味を持ったかは,十分な吟味が必要である。というのは,植民地朝鮮での都市化は,日本内地に比べて限定的であったし,公娼ではない私娼,合法の「業者」ではないルートでの売春施設への女性の紹介という行為も考慮しなければならないからである。そして,そうした業( =反復してあることを

行いそれで利益を得る行為)が果たして,簡単に始められるものであったのかも考えて見るべきだろう。存在している職業のほとんどは,ある種の専門的知識や経験に基づく技能,判断力を必要とする。さらにそれだけでは経営を維持することはできない。取引きを行う相手との信用を得なければならないのである。それが1回限りではなく,相手との関係を長く維持するべきものならば,提供するサービスや商品の質が問われることにもなる。

ところが,既存の研究ではそれに関連した議論は見られない。そもそも「業者」となるうえで何が求められ,経営がどのように維持されたという問題自体が設定されて来なかったと言ってよいだろう。おそらくそれは,「業者」について,女性を騙して売り飛ばす,粗暴な犯罪者というだけのイメージで理解しているためであろう。そうであれば,専門的な知識等はなくともよく,取引もI回限りなので信用も必要ない。だが,果たしてそうと言えるのであろう

 

そこで,本論文では,娼妓等の紹介を行う「業者」について,より踏み込んだ実態把握を行いたい。つまり,その業務内容や経営のあり方,違法行為と警察の取り締まりの関係等の解明の解明を試みる。同時に,日本内地と朝鮮のそれぞれにおいて,そうした「業者」の活動かどの程度の規模で展開されていたのか,その社会においていかなる位置を占めていたのかを分析していく。そのうえで,日本軍によって進められた慰安婦とすべき女性の確保における,そうした「業者」の関りについても,日本内地と朝鮮との差異に留意しつつ考察を提示したい。

以上が本論文の課題である。

2.営業許可と関連法令。

具体的な分析に入る前に,本論文で分析の対象とする,娼妓等を紹介する「業者」が,類似する職業とどう区別されるのか,どのように合法性を与えられていたのかを確認しておく。それには関連法令と行政施策の説明が必要となる。

日本において,売春を行う女性を置く施設, つまり,遊郭その他がすでに前近代においても多く存在し,そこに女性を紹介する「業」も成立していたことはよく知られている。職業を表す名称としてはロ入れ屋とか,桂庵という語があった。もっとも,凵入れ屋や桂庵とは,娼妓等の紹介のみならず,女中や商店員などの紹介も行っている。それは,近代以降,私設の職業紹介所として存続することとなる。

だが,そこでは,悪質な行為が問題となっていた。仕事の内容を隠したり,条件について誇大な話を提示した詐欺行為や女性を誘拐して売り飛ばすといったことも行われていた。これらの行為は,前近代でも発覚すれば処罰されたし,近代以降も初期段階で整備された法令によって,つまり詐欺行為は民法で,誘拐は刑法を適用するなどして罰せられた。ただし,民間で行われる職業紹介,とりわけ,売春施設への紹 介での犯罪行為は, 20世紀初頭になっても相当に多かった。19 Ⅱ年に出された警察法規を解説した書籍では,娼妓等周旋業者について「往々人ヲ誑惑シ或ハ誘惑シテ依頼人ノ意思ノ反スル所ニ周旋シ・・・甚シキハ妙齢ノ婦女ヲ海外又ハ遊郭ニ誘拐シ或ハ強テ醜業ヲ営マシムル等其ノ弊害挙テ数フ可カラス」との文言が見え

しかし時期が下るにしたがって,こうした問題の発生の予防や罰則,関係者の統制等のために関連行政機関と取締り法令の整備,公営事業としての職業紹介の拡充等が進められる。この過程では,娼妓等の紹介と,それ以外の職業紹介との「業者」を分離し(兼業の禁止) ,それぞれの適用法令も区別されていった。これは, 第一次世界大戦後,ます日本内地で先行して進

められた。すなわち,日本内地では1921年に公営の職業紹介事業について定めた職業紹介法 (大正11年法律第55号)が公布された。同法には,営利職業紹介事業については別途の命令によるとの条文があり, 1925年12月19日には営利職業紹介事業取締規則(大正14年内務省令第30号)が公布された。その第3条によって,営利職業紹介業者およびその同居の家族らによる娼妓等の紹介は禁じられた。また,公営職業紹介所では,芸娼妓酌婦等の紹介は国家公共の施策として適当ではないとの認識から 取り扱われていなかった8)。そして, 1938年4 月1日に公布された改正職業紹介法と同年  月 1日の厚生大臣の告示によって芸妓や酌婦,これに類する職業の紹介は,改正職業紹介法での適法範囲から除外されることとなった )。

他方,朝鮮では, 1940年1月11日に制令第 7号として朝鮮職業紹介令が施行されるまで, 統一的な職業紹介の法令は作られていなかった。そのようななかでも,若干の公営職業紹介所があり,加えて営利職業紹介所が存在した川)。この営利職業紹介所は,日本内地同様, 多くは商店員や女中等の業種を取り扱っていたものの,朝鮮では芸妓・娼妓・酌婦その他類似の職業の紹介の兼業も認められていた。しかし,朝鮮職業紹介令やその施行規則等によって,公営の職業紹介所


のみならず, 営利職業紹介所においても娼妓等の紹介は禁止される。ただし,それまで娼妓等の紹介を行っていた営利職業紹介所ではそれを続けることは認められた。だが,それは朝鮮職業紹介令施行規則の施行( 1940年1月20日)から1年に限っての経過措置であった。その延長を伝える史料は確認できず, 1941年1月20日以降は,娼妓等の紹介を兼業で行う営利職業紹介所もなくなったはずである(l)。

このように,行政当局は,娼妓等の紹介についての扱いについて,一般の職業紹介との分離を進めた。同時に,一般の職業紹介とは別建てで,娼妓等の紹介についての監督や諸手続きを定めた法令を整備していくこととなる。それは,日本内地全体,あるいは朝鮮全体に統一された法律や省令,朝鮮総督府令ではなく,日本内地であれば各道府県の出す道令,府令,県令,朝鮮では各道が制定する道令として制定されたに)。

それらにおける,娼妓等の紹介を行う「業」の呼び方も様々であった。具体的には「人事周旋営業」,「紹介営業」,「周旋業」,「周旋営業」などの語が当てられており,どれが統一的に用いるべき行政用語なのかは確定していない。なお,府県によっては,養子や配偶者の斡旋,不動産の売買等の営業も,同じ規則で監督取締りを行っている。そうした事情を勘案し,以下では,芸妓・娼妓・酌婦とそれに類する職業を紹介する「業」について便宜的に「娼妓等周旋業」の語を用い,それを行う者を,「娼妓等周旋業者」と呼ぶこととする。ただし,文脈によってそれを指すことがわかる場合は,単に業者の語を用いる。

では,娼妓等周旋業を監督し,取り締まる各道府県の規則はどのような内容のものだったのだろうか。それぞれの府県や道ごとに異なっているが,奸計による被紹介者・紹介者らの被害や不正な利益の取得を防ぎ,それがあった場合は処罰するためのものである点ではどれも同じである。

具体的に述べれば,それぞれの規則は,事業の申請と許可の条件,営業における禁止事項, 警察によるチェックにかかわる条文を備えていた。まず,事業の申請と許可については,娼妓等周旋業を行う者は所轄警察に届け出て許可を得るべきことや,その際の許可条件が記されている。許可が認められないのは,禁治産者やほかの職業紹介や貸座敷業,金貸しなどを兼業している者など,具体的に書かれているほか, 「公安を害し風俗を紊す虞」「其の他営業上不適当と認むる者」といったかなり広範囲な裁量で不許可としうる文言を持っ規則もある13 )。要するに,警察当局が問題ありと判断した者,信用できない者は許可しなかったということである。また,一部の府県の規則では一定の財産を持っことを条件としている )。このほか, 部の府県の規則では,他県で許可を得た業者が活動する場合に,所轄警察署に届出ることも義務付けるなどの他府県の業者の活動も管理しようとするものもあった。

具体的な営業活動では,次のようなことが禁じられている。例えば,虚偽を述べての,あるいは重要な事実を隠した紹介,直接依頼されていない者の紹介,秘密の漏洩,被紹介者を宿泊させる,財物を貸付ける,すでに従業中の者についてその意思がないのにほかに紹介することを勧誘する,などである。さらに,身元不詳の者や,法定代理人の承諾を得ていない未成年者,夫の承諾を得ていない妻の紹介を行い得ない,との条文も通常,備わっていた。

そして,多くの府県等の規則では,紹介が成立した場合には,その年月日,本人の氏名や生年月日,本籍,紹介先の住所,前借金,受け取った手数料等を帳簿に記載し,それを一定年数保管すること,警察が臨検し,帳簿等を閲覧することも規定していた。これは,悪質な紹介の事例や不正,それが疑われる事例などの把握を,ある程度は可能にしたと言えよう。

当然ながら,上記の規定を守らず,問題を起こした場合には罰則が下される。管轄の警察当局は科料の支払い等のほか,営業の許可の取消しを命じることもできたのである。

とは言え,どんなに警察力を強化してもそれをかいくぐって違法行為を働く者はいる。また見つかる危険性がそれほどでもないか,違反による罰則がさして重くもないとなれば,その法令を遵守しようという意識も生まれない。そうしたことが関係して,現実には, こうした規則の制定後も,娼妓等周旋業者の悪質な行為が根絶したわけではなかった。とは言え,法令がある以上,それに対する違反を摘発し罰則を下すことは可能であり,それは違法行為への抑止にもなる。その意味では,娼妓等周旋業についての法令の整備の意義はあったと言えよう。 


3.統計が示す事業経営の実態。

では,そうした娼妓等周旋業者とその活動は,どの程度のもので,社会の中でいかなる位置を占めていたのであろうか。これについては,売春施設とそこで売春を強要されている女性たちの数などとともに論じる必要がある。以下では,行政当局による調査や統計をもとにそれを確認していく。

表1日本内地における芸妓置屋・貸座敷業者・ 妓・娼妓・酌婦の推移

単位人



       芸妓置屋   貸座敷業者 芸妓    娼妓    酌婦

1925年 20, 176 1 1 ,756     79,348 52,886

1926年 20923  , 11 ,532 79934  , 50800 , 101 ,966

1927年 20, 852 Ⅱ ,393 80086      50056      111 ,032

1928年 21 ,468 11 , 155 80, 808 49058  104931

1929年 21 ,708 Ⅱ ,081 80,717 49,477 73,942

1930年 21 ,530 10,861 80,075 52, Ⅱ 7 75,535

1931年 21 ,343 9,799 77 ,3引 52064   , 8し019

1932年 21 ,040 10,500 74,999 5し557 85 ,951

1933年 20,949 10,281 74,200 49,302 85 ,590

1934年 21 , 197 9,738 72,538 45,705 85 , 121

1935年 21 ,610 9,526 74,855 45,837 82,621

1936年 22052  , 9386  , 78 ,699 47078  , 85685

1937年 22, 541 9238  , 79, 868 47,217 85,699

1938年 22649  , 9,012 79585  , 45 ,289 83,754

1939年 23 , 192 8, 514 79,908 39,984 74,472

典拠:内務省警保局「第9回警察統計報告」1934 年,「第16回警察統計報制円40年。

 

---



 

まず,表1は日本内地の,表2は朝鮮についての,芸妓置屋や貸座敷業,芸妓,娼妓,酌婦の数の推移である。朝鮮の統計における芸妓では,朝鮮人もかなりいるので,おそらくこのカテゴリはいわゆる妓生を含むと考えられる。そこでの芸妓置屋も妓生券番を含むと見ていいだろつ。

では,娼妓等周旋業者の人数はどれくらいであっただろうか。この点については限定的にしか把握できない。日本内地の統計について見れば,内務省警保局『警察統計報告』には,「紹介周旋業」という項目がある。これらのなかには,娼妓等周旋業者が入っていることは確かである。だが,そのなかには,そうではない別の業種の人びとの数もカウントされていることに注意しなければならない。というのは,「紹介 周旋業」と呼ばれるもののなかには,養子や配偶者,不動産の紹介を行う者等も含んでいるか

表2朝鮮における芸妓置屋・貸座敷業者・芸妓・娼妓・酌婦の推移 単位:人

2朝鮮における芸妓置屋・貸座敷業者・芸妓・娼妓・酌婦の推移 単位:

 

置屋業

敷業

 

 

 

1925

510

594

2,235

 

606

1926

250

579

3 , 165

 

670

1927

242

546

3 ,494

2, 883

566

1928

271

538

4,073

2,907

1 ,578

1929

270

560

4,449

3 ,053

1 ,712

1930

243

520

4430

,

3 ,205

1 ,685

1931

234

521

4,508

3 ,093

1 , 836

1932

217

496

4,476

2, 187

1 , 557

1933

253

477

4620

,

2,561

1 ,438

1934

238

475

5,066

2,759

1 ,528

1935

252

461

6,061

3, 109

1 ,704

1936

296

465

6,983

3 ,575

1 ,749

1937

308

471

7, 164

3 ,594

1 ,734

1938

368

470

7,377

3627

,

1 ,762

1939

343

539

8,348

3,712

1 ,796

1940

329

480

8305

,

3934

,

1 ,616

1941

0

474

6,723

3, 813

1 ,602

1942

289

469

6,287

3, 850

1 ,616

典拠・朝鮮総督府「朝鮮総督府統計年報』各年版。



置屋業 敷業

1925年 510 594 2,235 し606

1926年 250 579 3 , 165 し670

1927年 242 546 3 ,494 2, 883 し566

1928年 271 538 4,073 2,907 1 ,578

1929年 270 560 4,449 3 ,053 1 ,712

1930年 243 520 4430

, 3 ,205 1 ,685

1931年 234 521 4,508 3 ,093 1 , 836

1932年 217 496 4,476 2, 187 1 , 557

1933年 253 477 4620

, 2,561 1 ,438

1934年 238 475 5,066 2,759 1 ,528

1935年 252 461 6,061 3, 109 1 ,704

1936年 296 465 6,983 3 ,575 1 ,749

1937年 308 471 7, 164 3 ,594 1 ,734

1938年 368 470 7,377 3627

, 1 ,762

1939年 343 539 8,348 3,712 1 ,796

1940年 329 480 8305

, 3934

, 1 ,616

1941年 引0 474 6,723 3, 813 1 ,602

1942年 289 469 6,287 3, 850 1 ,616

典拠・朝鮮総督府「朝鮮総督府統計年報』各年版。

らである。ただし,確実に芸妓・娼妓・酌婦および類似の職の紹介を行う業者=娼妓等周旋業者についての統計が,全国については中央職業紹介事務局の調査から,一部の年次について確認でき,東京府については警視庁の統計がある。それをまとめると表3のようである。朝鮮の娼妓等周旋業者については,これまでの研究において,朝鮮総督府『朝鮮総督府統計年報』での「仲介業」と「雇人口入業」という項目が,娼妓等周旋業者だと見なされてきた。例えば,尹明淑は「1913年,紹介業者(雇人ロ入業と仲介業)は,朝鮮人385名,日本人 133名であったのが, 1940年には朝鮮人3 ,776 名,日本人286名」となり,「紹介業者のうち,

表3日本内地全国及び東京府の娼妓等周旋業者数単位:人

3日本内地全国及び東京府の娼妓等周旋業者数単位:

 

日本内地全国

東京府

1925

 

242

1926

6,456

266

1927

 

245

1928

4972

,

221

1929

 

217

1930

6,403

217

1931

 

203

1932

 

191

1933

 

196

1934

 

181

1935

6,786

174

36

 

184

1937

 

187

1938

 

205

1939

 

209

1940

 

191

1941

 

189

1942

 

180


典拠:中央職業紹介事務局『営利竝芸娼妓酌婦紹介業調査』1929年,社会局職業課「芸娼妓酌婦等周旋営業者数調」(「種村氏警察参考資料第 46集」,アジア歴史資料センター ・レファレンスコード・A05020179500) ,警視庁『警視庁統計書』各年版。

表4 日本内地と朝鮮の人口10万人当たりの娼妓等の数


:同じ年次でも数字の異なるものは社会局職業課の数字を記載している。

 

日本内地( 1930)

朝鮮( 1930)

実数

10万人当りの数

実数

10万人当りの数

総人口

64,450,005

 

21 ,891 , 180

 

芸妓置屋

21 ,530

33.4

243

 

貸座敷業者

10, 861

16.9

520

 

 

80,075

124.2

4,430

202

娼妓

52, 117

80.9

3 ,205

14.6

酌婦

75,535

117.2

I ,685

 

娼妓等周旋業者

6,403

 

128

 

典拠.内閣統計局『大日本帝国統計年鑑』および内務省警保局「第9回警察統計報告』1934, 中央職業紹介事務局『本邦二於ケル営利職業紹介事業調査』。

娼妓や酌婦などの接客業婦を周旋する雇人口入業者は, 1913年朝鮮人25名,日本人78名であったのが, 40年には朝鮮人219名,日本人 62名」と変化したことを紹介している国。だが,そもそも,「仲介業」イコール娼妓等周旋業ではない。むしろそれ以外の「仲介」,つまり有価証券や不動産,あるいは食品等の売買の仕事を指すのが一般的である。「雇人口入業」という語についても,娼妓等周旋業がそこにカウントされている可能性はあるが,同時にそこには女中や商店員の紹介,つまりは営利職業紹介業も含まれていると見るのが自然である。したがって『朝鮮総督府統計年報』での「雇入口入業」の人数を娼妓等周旋業者数として考えることは避けなければならない。

結局,「朝鮮総督府統計年報』からは娼妓等周旋業者の数は不明である。そして,残念ながら,ほかの資料でもそれが記されているものはほとんどない。ただし,中央職業紹介事務局『本邦ニ於ケル営利職業紹介事業調査』1931 年,において, 1931年9月末現在で,朝鮮については128だとする記述が確認できる。

以上からわかるように,日本内地に比べて朝鮮では,芸妓置屋,貸座敷業者や,芸妓,娼妓,酌婦,娼妓等周旋業者の数は少ない。そして,その少なさは日本内地と朝鮮との人口規模に単純に比例したものでもない。1930年についての人口10万人当たりの数字を出しても, それは相当な差がある(表4)。朝鮮では日本内地ほどには,遊郭等の公娼制下の売春施設, そこで働く女性たち,娼妓等周旋業者は多くはなかったのである。

 

では,紹介周旋業による,売春施設への女性の紹介はどれくらいの件数にのばったのであろうか。この点についても詳しい資料は少ないが,東京府については,求人・求職・就職件数がわかり,それをまとめると表5のようになる。朝鮮については,前述の中央職業紹介事務局の資料に1930年度の件数の紹介がある。それは求人件数4018件,求職4815件,紹介件数 3438件,就職件数3020件というものである。朝鮮の業者は前述のように1931年9月現在の 128人という数字しかわからないものの, 1930 年度とは時期的に近いので,この数をもとに1 業者当たりの年間の就職件数を割り出すと,

23.6である。これは東京府の数字とそれほど変わらない。

では, こうした娼妓等周旋業者を通じた売春施設への就業がどの程度,一般的であっただろうか。これについても,全国的な統計は見当たらない。ただし,次のような資料がある程度参考になる。まず,日本内地については1934年

注:朝鮮についての娼妓等周旋業者数の128人は, 19引年9月の数字である。

 

表5東京府における娼妓等周旋業者数と取扱い数の推移 単位.人,件

:朝鮮についての娼妓等周旋業者数の128人は, 19引年9月の数字である。



[1]

業者数

求人

求職

就職

ー業者の紹介者数平均

1929

217

9,552

8 ,371

6, 130

28.2

1930

217

8 ,336

7,948

5,434

25.0

1931

203

7,976

7,866

5,249

26.3

1932

191

8 ,006

8239

,

5,770

30.2

1933

196

8 ,902

12,748

6,6

33.8

1934

 

8,924

8,242

6,208

34.3

1935

177

8,741

8,771

6,355

35.9

1936

184

9,211

9, 160

6,631

36.0

1937

187

7,864

7, 535

5,828

31.2

1938

205

7,430

6,428

5,377

26.2

1939

209

6,945

5 ,609

4,958

23.7

1940

191

4,968

4, 864

4213

22.1

1941

189

5 ,606

4, 128

3495

,

18.5

1942

180

3 ,232

2,338

1 ,852

10.3

典拠:警視庁「警視庁統計書』各年版。

時点の青森県八戸市についての調査がある。それによれば,同年中に出稼ぎ中である女性は 948人で,内訳を示せば,芸妓122人,娼妓ロ6人,酌婦289人,女給193人,その他218 人となっている的。そしてそれらの出稼ぎ者の経路は,「周旋屋の紹介に依るもの」が534人, 「知己縁故の手を経るもの」100人,「募集事業者の手を経たるもの」が86人であった。八戸市は,困窮した民衆の多い農村の隣接地であり,娼妓等周旋業者も地方都市としては多い (その数は19であり, 1935年の国勢調査での八戸市の人口が6万2214人で,その前年は若干これより少ないと見ても,人口10万人当たりの数はおそらく30程度である。これに対して, 1930年の全国平均は10万人当たり9.9,

1935年も同程度である)。その点を勘案するべきとしても,日本内地では,多くの場合,芸妓・娼妓・酌婦・女給となった者は,その娼妓等周旋業者を通して,職場を決めていたのである。言い換えれば,生活に困窮した家庭の親が娼妓等周旋業者と接触することもまた,それほど珍しくなかったということも言えるだろう。ちょっとした都市であれば,そうした事業所があり,連絡が可能だったのである。

他方,朝鮮についても,売春施設で働くようになった女性たちの多くは,娼妓等周旋業者によって就業先を紹介されていた。これについては1930年末の娼妓に関する数字がわかる。すなわち,朝鮮内の日本人娼妓1798人中1536 人,朝鮮人娼妓1372人中985人が娼妓等周旋業者を経由して,就業している。比率を示せば,日本人娼妓では85.4 % ,朝鮮人娼妓では 7L8 %となる(業者を通さないケースは親族や親,あるいは本人が直接,貸座敷業者と交渉を行ったとされる)  )。ただし,朝鮮においては, 前述したように娼妓も,娼妓等周旋業者自体も日本内地に比べて少数であった。したがって, 専門的な業者と連絡し,その紹介によって朝鮮内の売春施設で就業するようになった者の絶対数は,日本内地と比べると少ない。朝鮮社会においては娼妓等周旋業者の利用が日本内地ほどには一般的ではなかったのである。ただ,これはもちろん警察の営業許可を持っ娼妓等周旋業者と,やはり警察に営業を認められた売春施設の経営者との取引きのケースが相対的に少なかったというだけである。売春に従事する女性のたどったルートがそれだけではないことは後述する。

4.業務内容とその専門性

次に,娼妓等周旋業者がどのような業務を行って利益を得ていたかどのようにして経営維持が図られたかを見ていく。そのためには,娼妓等と売春施設経営者との関係をおさえることが必要となる。

芸妓,娼妓,酌婦の事実上の使用者は,それぞれ芸妓置屋,遊郭,料理屋の経営者である。遊郭の経営者は行政用語としては貸座敷業者と呼ばれる。芸妓は技芸の披露,娼妓は売春が仕事で,ともに建前としては自営業者である。しかし,娼妓は貸座敷業者に従属し,その指示のもとに客を取り,売春を行わなければならない。芸妓については,単純に技芸を披露することをもってお金を得ている者もいるが,やはりしばしば芸妓置屋の経営者に従属し,その指示のもとに客を取って売春を行う。このような関係は,しばしば芸妓置屋の経営者や貸座敷業者が芸妓,娼妓を抱えると表現される。そこから芸妓置屋の経営者や貸座敷業者は,芸妓や娼妓との関係では抱主と呼ばれていた。酌婦も文字通り,料理を運びお酌をする仕事のみを行う者もいるが,通常は雇用主である料理屋の経営者によって客に対する売春を強要されている。そして,芸妓置屋の経営者,貸座敷業者,料理屋の経営者は,芸妓・娼妓・酌婦が客に対して支払う花代,つまり売春の対価の何割かを得て収益を上げることとなる。なお,このほか,芸妓・娼妓・酌婦に貸し与える衣装代や食事代等からも利益を得てもいる。

当然ながら,自分から他人の指示のもとに売春するという境遇を望む限う者はいない。やむなくそれを行うのは,借金を背負い,売春によって返済しなければならないためである。それは、おおくのばあい、ほんにんではなくそのおやそれに 



代わる近親者らに対する,売春施設経営者による貸付けである。そうした前借金の額は時には 1000円以上,同時代において家1軒を建てることができるほどの額にもなった。

娼妓等周旋業者は,こうした売春施設経営者に女性を紹介し,設定された前借金の一部を手数料として得る。その額は,通常,前借金の1  割程度である。つまり,娼妓等周旋業者は1回の紹介で100円以上を手にすることもしばしばであった。100円程度あれば,都市で4, 5人の家族が暮らしていくには十分である )。もちろん,前借金が少額であるケースもあり,様々な経費は掛かるので,毎月1人だけを紹介して経営を続けるのは一般的ではない。標準的な経営としては年間20 ~ 30人程度,したがって月に 2, 3人の紹介で80円程度を得ている19)。

こうした娼妓等周旋業の事業展開では,まず,紹介すべき女性=求職者を確保することが必要となる。求職者は,売春未経験者とは限らない。すでに芸妓・娼妓・酌婦として働いている女性で抱主や雇用者を替える(これを「住み替え」と言った)ことを希望する者でもよかった。むしろ売春施設経営者にとっては,そうした女性のほうが仕事ぶりの予想もつくなどメリットがあった2の。こうした住み替えは,抱主や雇用者が知り合いの娼妓等周旋業者に連絡を取って進めるか,あるいはもともとその女性を紹介した業者が担当することになる。

しかしもちろん,毎年一定数,廃業する女性と同じ程度は,売春未経験者の女性を参入させることが求められていた。ではそうした,新規に売春施設に就労させるべき女性はどのようにして探し出していたのであろうか。

これについては,娼妓等周旋業者やその使用人が手あたり次第,女性に声をかけていたわけではなかった。それは非効率的であるし,法令上も禁止されていた(1)。そこで,娼妓等周旋業者は,農村等に住む,あるいは行商等で各地をまわり「困窮せる家庭の調査,生活状況の調査を為し居」る者と「潜行的な連絡方法,手段を用ひて陰に陽に求職者の開拓」を進めていた22)。そうした困窮家庭などから娼妓等周旋業者のもとに女性を連れてくる行為はしばしば誘引と言われているので23) ,以下,それを行う者を誘引者と呼ぶ。

そうした誘引者らとの連絡で娼妓等周旋業者のもとに来て,売春施設に紹介されることにな る女性たちは,誰でもよく,誘拐したり,騙したりして連れてきた女性でも構わないというわけではなかった。そのような粗暴な犯罪で確保した女性の取引きは,売春施設経営者,娼妓等周旋業者双方にとって,危険である。発覚した場合,営業が持続できないし,裁判になって収監されることもありうる。

同時に,よくわからない女性を受入れて働かせることは,売春施設の経営上も得策ではない。売春施設の経営は,就労する女性の働き= 客がどれだけ付くかで左右される。そして,女性たちを雇入れるにあたって,売春施設経営者は,通常,その親にお金を貸し付けている(もっとも,誘拐して連れてきた女性については, 親との間での前借金の設定はないであろう)。その額がかなり多額であることはすでに述べた。そうした多額の金の貸付,いわば投資の回収は,女性の身請けを希望する者による借金残額の支払いというケースもあるにせよ,多くの場合は,女性が客を取って働き続けることによって実現する


ーーー

このことは,就労させるべき女性の選択によって,売春施設の経営も多大な影響を受けることを意味している。問題のある女性を就労させることで,売春施設経営者が見込んだ利益を得られない,さらには最初の投資=親への貸付の金額も回収できなくなることもありうる。あるいは大きな損失につながらないまでも,トラブルに煩わされる結果につながることもある。例えば,心身に病気を抱えているとか(性病の検査は行われるが,仕事に差し障るような病気はそれだけではない) ,書類が偽造であったため, その女性が働けないということもある。売春施設で働くことに納得していない女性であれば精神に変調をきたしたり,自殺を図ったりしてもおかしくないし,自暴自棄になって暴れるといったことも起きうる。そうなれば客をとるのも難しい。本人以外の問題もありうる。前借金の追加をたびたび要求する,待遇についてクレームをつける親や情夫がいても厄介である。さらには,売春施設業者が貸し付けたお金を得た上で逃亡を図る前借金詐欺もしばしば問題になっていた )。売春施設の経営では,それらの点の考慮も重要となっていた。

したがって娼妓等周旋業者による紹介も慎重に進めなければならなかった。本人が売春に従事することを受入れていない,身分関係がはっきりしない女性(どこかから誘拐してきたり騙して連れてきたりした場合はそうなる)を扱うことは避けなければならなかったし,本人や親が何かトラブルを持込む可能性がないか等のチェックも必要である。さらには,紹介では,前借金の設定が付随するのであり,そのために 女性がどの程度利益を挙げる働き手となるかの査定も求められた。

そのような手順を踏んで紹介が成立すれば, 娼妓等周旋業者は手数料収入を得られる。ただ し,彼らの仕事はそこで終結というわけではない。紹介した女性とその親,紹介先の売春施設経営者との関係は,前借金完済かあるいは住み替えで抱主や雇用者が変わるまで続くこととなる。明文化された契約に基づいていたわけではないが,娼妓等周旋業者は,売春施設に「紹介就職させた芸娼妓の稼業中に起れる障碍に関しては概ね解決に当らねばなら」なかった。特 前借金の返済が終わっていない女性が,就労先から逃げ出したとなれば,「捜索若くは債務の督促に当るなど第一線に立つのは紹介業者〔娼妓等周旋業者〕の負ふべき慣習的責任」と見なされていた )。そして,そのようなトラブルを予防する上でも,娼妓等周旋業者は「一度紹介をした「玉」〔売春施設で働くことになる女性たちを指す〕は,終身世話する様絶へず, 稼業者〔娼妓等となった女性〕及其の親権者と連絡を保って」いた )。その「世話」はもちろん,売春施設で働く女性とその親の互いの様子を知らせるという親切心だけから行われているわけではない。女性たちに家族の状況を意識させることで,自身が犠牲になるほかないと諦めさせて,仕事に向かわせるという効果を,娼妓等周旋業者や売春施設経営者は期待していたはずである。いわば前借金を媒介にした,娼妓等となった女性についての「親と娼妓等周旋業者 と売春施設経営者との共同管理」が成立し維持されたのである。

また,このような関係の維持は,娼妓等周旋業者が,いったん紹介した女性を住み替えさせて利益を得るうえでもメリットがあった。住み替えは,女性本人の希望による場合もあるが,

売春施設の経営者の思惑との関係,例えば客があまりつかないとか,周囲との折り合いが悪い

といった理由で進められる場合もある。あるいは,親の追借金(借金の追加)の申入れを抱主が断り,別の抱主を探すということもあった。そして,住み替えを行うとなれば,女性本人の働きぶりなどを新たな紹介先に伝えなければならない。一度紹介した女性らとの連絡を維持していれば,娼妓等周旋業者は,住み替えの動きがあるか,そうであるとすればどのような条件を提示して新たな抱主と交渉するか等についての情報を得ることができたのである。

以上のような娼妓等周旋業者の活動を見る

時,それは誘拐や詐欺による勧誘等の犯罪の繰り返しでで続けられるものではなかったことがわかる。その業務は,専門的な知識や判断力, 情報収集の能力等を備えてこそ,続けられた。まず,情報をもたらす誘引者や紹介先となる売春施設経営者との人脈を築かなければならなかった。売春施設に紹介すべき女性についての問題の有無のチェックととともに,どれだけの価値があるかを見極め,前借金がいくらまで設定しうるかを算出し,交渉をまとめる能力が求められた。しかも,手数料を得た後も紹介した女性の働きに一定の責任を負うわけであり,取引先となる売春施設経営者からの信用も不可欠であった )。

したがって,娼妓等周旋業者は,通常,関連業務での仕事をしたり,ある程度の経験を積んだうえで独立したりするケースが多かったと見られる。その点について詳しく記した史料は, 見当たらないが,東京市社会局の報告書には娼妓等周旋業者7名の簡単な経歴が紹介されている。それによれば, 2名は配偶者が娼妓等周旋業でその補助を行っており, 1名は「ロ入業」 (同じ事業所が商店従業員の紹介とともに娼妓 36

等周旋業務も可能な時期において)の住込み従業員として働いた後に独立,さらに別の1名が 吉原で代書業を営み,さらに品川の貸座敷業で「書記」の経験を持つ。彼らは開業前に人脈や専門的知識を習得していたと言える。残りの3 名のうち1名は大工,もう1名は下宿業の後に飲食店経営なので娼妓等周旋業との関係は明らかではないが, 1名は巡査ののち代書業を行っていた )。警察は貸座敷業や娼妓等周旋業の営業許可を行い,娼妓等の衛生検査なども管轄するそこで何らかの関係を築いていたか,専門的知識を得ていた可能性がある。また,青森県八戸市内の娼妓等周旋業者19名のうち女性の12 名は「何れも過去に於て芸娼妓,酌婦を稼業としたるもの」であった )。彼女たちは,紹介するべき仕事の内容をよく知っていたし,かっての自身の使用者への紹介によって事業を成り立たせることができたはずである。

事例は少ないが, こから,娼妓等周旋業は,誰もが簡単に参入できるような事業ではなかったことがある程度裏付けられよう。経験に基づく知識や判断力,人脈などを得て始められる仕事だったのである。

5.違法行為と取締りの限界。

以上,娼妓等周旋業の業務内容と経営に求められるのが何であるかを述べて来た。ただし, それはあくまで,当局の許可を得て開業した者による法令を前提とした活動についてである。だが,現実には許可を得ずに事実上,業として

娼妓等の紹介を行う者は少なくなかった。同時に当局の許可を得て事業経営を行う持っ業者だからといって,その全員が違法行為と無縁というわけでもない。さらに言えば,売春施設もまた,正規の事業許可を得ていないものもある。そもそもが,娼妓の鑑札を持たない芸妓や酌婦が売春を行うこと自体も法令違反とも言えるが,それだけではなく,なんらの事業許可自体も得ないで秘密裏に,あるいは当局の黙認を得て,売春を行う女性を管理し利益を上げる者もいたのである。以下では,それについて説明を行っておく。

まず,「モグリ」などと呼ばれた,当局の許可を得ずに娼妓等の紹介を行っていた者について述べる。こうした無許可業者の活動はかなり広範になされていた。必要となるのは売春施設経営者や彼らとつながる者との連絡と若い娘を持っ貧困家庭についての情報,就労に向かわせる話力であり,ほかの仕事との兼業も可能であった。ただし,それを業として行う,つまり何度も紹介を続けていることは法に触れる行為となり,発覚すれば処罰の対象となった。

だが,無許可での紹介業務自体についての処罰は,拘留ないし科料であり,そう重くはなかった。それゆえ処罰を恐れずに無免許業者として活動する者は少なくなかった30)。しかも発覚さえしなければ,法令上の制約を気にせずに活動しうるというメリットもあった。法外な手数料を受取り,騙したり,誘拐したりして支配下においた身元不明であったり,戸籍等の書類を揃えられなかったりする女性を売春施設に紹介することもできた。その場合には前借金も設定せず,したがって親や売春施設経営者との継続的な連絡の必要もなかった。 

ただし,誘拐や虚偽条件での勧誘等の手段を用いて確保した女性の紹介は,売春施設経営者も秘密を守ることが条件となる。しかし,それは営業許可を得ている者との間では困難である。芸妓や娼妓,酌婦としての仕事は警察署への届出が不可欠であり,その際には戸籍等の書類のチェックや本人からの事情聴取等も行われ

ていた31)。したがって,詐欺や誘拐を犯している無許可業者は,そうした警察の正式な登録を経ていない女性たち,つまり私娼を置く売春施設との取引きを主要ルートに据える必要があった。そして,私娼を置く売春施設は少なからずあった。

私娼は隠された存在であるので全体の数は不明であるが,警察当局は私娼が多数集まっている場所=私娼窟を把握しており,そこでの私娼の数の制限や性病の検査の義務付けなどの措置をとっていた(その意味では,そうした私娼はむしろ「準公娼」という呼称のほうがふさわしいかもしれない)。したがって,そうした警察の把握可能な範囲での私娼に関する統計もある。それによれば,まず, 1930年6月現在の日本内地では,私娼窟が207カ所あり,私娼をおく売春施設(呼び名は一定ではなく,様々な名目で店を構えた。酒を置いて飲ませるという形式をとっていた店では銘酒屋,新聞を置いた店では新聞縦覧所と名乗るケースがあった)を経営する者=抱主は4513人,私娼の数は1万 2181人となっていた32)。朝鮮に関しては,どのような手法による調査か不明ながら, 1925 年7月時点の警察調査で「全鮮に散在せる私娼及其の疑ひある者内鮮人を通して実に7651人の多きを算するの状況に在る」と伝えられている。

ーーーーーー

たし ) ,浅草の銘酒屋では騙されて連れてこられた者が少なからずいたとの証言がある )。犯罪の秘密を保持しつっ取り引きを行いうる,無許可業者と無許可の売春施設経営者のつながりが広がっていたのである。

ーーー

もっとも,違法行為で集めた女性たちの紹介に関与していたのは,無許可業者だけではない。娼妓等周旋業者が頼る誘引者がそもそも無許可業者である,ということもしばしばあった )。そして,無許可業者が騙して連れてきた女性を,娼妓等周旋業者が秘密裏に私娼を置く売春施設経営者に紹介することもできた。営業許可を持つ売春施設経営者が,騙されて連れて来られてた女性を受入れて使うこともあっただろう。これは脅して言うことを聞かせれば警察のチェックを潜り抜けることもできたためである。

だが,法令違反を放置することは問題である。軽微な犯罪はともかくとしても,騙したり,誘拐したりして連れてきた女性に売春を強いるというのは,社会通念上,とうてい許されない行為である。したがって,無許可業者の活動はもちろん,許可を得ている娼妓等周旋業者や売春施設経営者の違法行為も取締りの対象となった。

 

38

特に1920年代以降には,当局としても取締りの強化に迫られていた。廃娼運動が盛んとな り,それは,帝国議会,地方議会でも議論の俎上にのほった。実際に,日本内地ではいくつかの県で廃娼が実現している(と言っても,そこでは私娼が存在したので完全に売春が根絶したわけではない)。また,第一次大戦終結後に成立した国際連盟やILOも,人身売買や売春の強制の規制に取り組んでいた )。さらに, 1930 年代には,昭和恐慌や冷害で凶作に苦しむ農村での娘の身売りが大きな社会問題として注目を集めた。新聞や雑誌にも関連する記事が掲げられ,社会的な関心も高まっていたのである。こうしたことを背景に,娼妓等の紹介行為や,娼妓等としての営業許可での審査や監督, そこでの違法行為の取締りは強化された。日本内地の,とりわけ,経済的窮乏が原因となり, 多数の女性が「身売り」の対象となっていた東北地方各県では,行政当局が対策を打ち出していた。そこでは,娼妓等周旋業者への監督強化,違法行為に対する厳罰,無免許業者の活動の絶減,求職者からの詳しい事情聴取などが指示されてもいた )。

こうした施策がどれだけ功を奏したかは不明である。悪辣な違法行為をすべて摘発できたわけではないし,無免許業者についても,むしろ増えたという噂を伝える史料もある )。ただ  

紹介を受けようとする女性について,家庭の事情や前借金の用途も含めて事情を詳しく聞く, 他県への紹介の際には届出をさせるといった措置を警察がとっていることなどを考えれば4の, 許可を得て活動して居る娼妓等周旋業者にとって違法行為やそれに抵触しそうな活動はしにくくなっていたことが推測できる。また無許可業者についても,身売り防止に尽力していた関係者は「取締の厳重なる今日にては其の活動範囲縮少せられた」という見解を示している(1)。雑 い 記口 事でも,警察の許可を得た遊郭が並ぶ東京の吉原について「よく地方で聞く悪周旋屋などといふもの,悪周旋屋と悪楼主の結託などといふことは,この世界では,全然起り得ないことになってゐる」と書かれていた42)。営業許可を得ている娼妓等周旋業者と売春施設経営者の活動は,警察の監視の中で合法の枠で行われる傾向が強まっていたと考えられる。

だが,以上はあくまで,日本内地についての動向である。朝鮮では異なる条件があり,状況は違っていた。まず,朝鮮には普通選挙も行われておらず,日本内地同様の地方議会も存在しなかった。社会団体の活動も日本内地以上に制限があり,新聞等での意見表明も自由ではなかった。そもそも,日本内地のように新聞や雑誌が普及していたわけではない。したがって,社会的弱者の存在を意識した世論が行政当局を動かしうる回路は,ほとんど用意されていなかった。また,国際的な売春等についての規制も, 植民地について除外されることがあった43)。

うしたなかで,朝鮮の警察当局は,娼妓等の紹介にかかわる,悪質な人権侵害等の取締りをすべきであるとの圧力を感じずにいることができた。朝鮮農民の困窮は日本内地以上に深刻であり,したがって,女性の人身売買も多数,行われるような状況があったはずであるが,にもかかわらす,朝鮮総督府が身売り防止に関連する特別な対策は樹立されなかったのである。もちろん,警察官が法令を厳格に適用して業務に励む,それを督励するというだけでも対策にはなる。だが,もし,通常以上に警察官が業務に励んだとしても,朝鮮での娼妓等の紹介にかかわる悪質な行為の摘発は,日本内地と同じレベルとはならなかったであろう。まず,巡査 1名あたりが担当する住民の数は日本内地に比べて多かったし,加えて,朝鮮の巡査の過半数以上は日本人であり,そのなかには朝鮮語の能力が十分でない者も相当数含まれていた“)。それゆえに,朝鮮人のコミュニティ内部で密かに行われる犯罪行為の摘発は,そう容易ではなかった45)。しかも,植民地期の朝鮮では,朝鮮語も含めて識字能力を持たない者は,戸主であっても珍しくなかった。売春施設に女性を送り込むためにとられる悪質な行為は,相手が文字を知らないことに付け込んでなされる )。日本内地以上に,騙しうる女性やその親は多かったのである。

 ーーー

以上のほかに,かなり重要な点で,朝鮮には日本内地と異なる条件があった。それは,警察当局が許可を与えた業者が,娼妓等周旋業者と売春施設経営者のいずれをとってみても少ないということである。すでに見たように,人口 10万人あたりの数でみても日本内地とはかなりの差があった。つまりは,警察当局が,娼妓等の紹介や登録が法令にしたがって行われているかどうかのチェックをし得る対象者も限定的だったのである。

もちろん,朝鮮において,無免許業者や私娼 (特に完全に警察が把握できていない私娼)もまた,少ないというのであれば,把握できなかった違法行為も問題にするほど多くはないということにもなるであろう。だが,その可能性は小さい。困窮している民衆が多数いてそのかなりの数が非識字者であるという条件は,無免許業者にとっては,好都合であったし,朝鮮内で私娼を置く売春施設も多かった。朝鮮内の私娼は1925年に7651人を数え,これは同じ年の朝鮮内の芸妓・娼妓・酌婦を合計した数の6900 人を上回っていたほどでである。ちなみに,日本内地では, 1930年の私娼は1万2181人であり,同じ年の芸妓・娼妓・酌婦の合計は20万 7727人と,圧倒的に後者が多い。日本内地と異なり,朝鮮における売春施設とは私娼を置く場所のほうが一般的であったとすら言えるのである。40

しかも, 1920年代以降,売春施設で働かせる朝鮮人女性の紹介先は,朝鮮外にも広がっていた。満洲や日本内地でも,朝鮮人女性を置く売春施設経営者が増えていたのである。満洲の売春施設では,すでに満洲事変勃発時にも,売春に従事する朝鮮人女性がおり,さらに「事変〔1931年の満洲事変〕後6年の間に・・・半島の女が多くなった」。これは「内地から女を抱へて行くと,旅費や仕込金がかかる」のに対して「安く手に入る」朝鮮人が「抱主によろこばれるやうになって」いるという事情があったとされる )。日本内地では, 1920年代には青年層の男子を中心とする在日朝鮮人増加の増加を背景に,売春を行う朝鮮人女性を置いた料理屋が出来ていた )。1930年代にはいると,「朝鮮遊郭」と呼ばれるような区画すら成立し,それが問題となって当局が撤去する事態も起こっている )。しかしその後も,各地でそうした朝鮮人女性を置く売春施設は増加の傾向を見せ,在日朝鮮人社会のなかで問題として認識されていた )

 

このような満洲や日本内地の売春施設で働く朝鮮人女性は,やはりほとんど私娼であった。同時代の在日朝鮮人社会のリーダーは,問題とされる朝鮮人女性を置く料理屋について「密淫売窟」と表現していたし(1) ,そもそも日本内地では,朝鮮人を娼妓として登録してはならないという行政当局の方針があった )。満洲についても,大連の状況について「朝鮮ピー(私娼) の勢力下にある」と記述している史料がある )。

つまりは,朝鮮における,売春に従事させる女性の取引は,かなりの部分,無免許業者と無免許の売春施設経営者との間で行われており, 警察がチェックできなかったのである。しかも,朝鮮では,世論を背景とした取締りの強化もなく,警察カ自体にも日本内地と比べて劣る部分がある。となれば,無許可業者による違法な売春施設への女性の紹介が減少していくはずはなかった。むしろ,それで利益を上げられるとなれば,新たにそこに参入する,あるいは業として常に行うわけではないが機会があればそれを行う,という者は増えていったはずである。付言すれば,合法の枠を意識しなくともよい売春施設の経営では,騙したり,誘拐したりした女性を監禁状態で売春させるということもありうる。そこでは親との間での前借金の設定すら行われない。紹介した業者が売春施設経営者や親との連絡を維持し,女性を働かせるための共同管理を続ける必要もない。そうした売春施設経営者ととの取引では,娼妓等周旋業者が通常身に着けるノウハウや専門的な知識もなくてもよい。違法な活動を行いそれで処罰されようともよいという心構えさえあれば誰でも参入は可能であったのである。


6.慰安婦の求人需要への対応

以上,娼妓等周旋業の実態,無許可業者の活動,そしてそれに関わる日本内地と朝鮮との事情の違いについて説明して来た。こうした娼妓等周旋業者らは, 1937年末頃より本格化する日本軍による慰安所で働く女性たちの確保にも,必然的に関わりを持っことになる。

占領地等に置かれた軍慰安所は,一般的な遊郭の経営と異なり考慮しなくてよい点もある。

例えば遊客の入りについての心配をしたり,そこで働く女性の逃亡や引き抜きを警戒したりする必要はそれほどないであろう。とは言え, 様々なトラブルを予防,処理し,女性たちを働かせて利益をより多くあげるためには,やはり一定のノウハウは必要である。だが日本軍は, それ以前から,売春施設を専門的に運営していたわけではなく,ノウハウを持たない。したがって(後には一部で軍直営の慰安所も設置され たものの)慰安所の必要が認識された時点では,日本軍は売春施設経営者に慰安所の運営を任せるほかなかった。日本軍は,資金を提供も含めて便宜供与を提示し,それに応じた者が, 慰安所経営に乗り出すこととなる )。

そのように遊郭の経営者らが,慰安所を設置,運営する場合は,もともと自分の支配下に 置いていた娼妓らをそのまま連れて行くことが可能である。しかし,それでは人員が足りないとなれば,新たに慰安所で働く女性を集めることになる。その際,慰安所の経営者は,誘拐したり騙されたりしてやってきた,仕事の内容について何も知らない女性ではなく,すでに売春施設での就労経験者を選好したはずである。そのほうが,多くの客をとることを厭わず,というよりは様々な事情からそれをやむを得ないとして受け入れ,客をあしらうことにもたけていたはずだからである。そしてそうした女性を集められるのは娼妓等周旋業者であり,彼らが活用されることになる。日本軍にとっても,自分たちが管理する慰安所で,誘拐されたり,騙されたりしてやってきた女性が働いているというのは好ましいことではなかった。その事実が多少なりとも外部に伝わったならば,大きな問題となりかねないからである。それゆえ,日本軍も合法の枠内で活動する娼妓等周旋業者による慰安婦の必要人員の充足を望んでいたはずである。

実際,慰安所で働く女性の需要が発生すると,日本内地では娼妓等周旋業者がこれに対応した。これは慰安所を経営することになる「貸席業者」=遊郭経営者の連絡を受けたもので, 活動は1937年末に始まった。そこでは「貸席業者」自身が,他者が雇用している酌婦に対して慰安所で働くことを勧誘するなど,合法の範囲からの逸脱もあったが,仕事の内容を隠しての誘拐や,脅しや拉致で女性を連れ出そうとするといった悪辣な行為はなされていなかった )。ただし,そうした活動は,一部の地方警察で軍が慰安婦を集めているということが事実であるのかという疑念や,誘拐ではないかという嫌疑を呼び起こし,問題となった。この事態を受けて, 1938年3月には,陸軍省は,軍の威信が毀損されないよう(つまりは軍の指示のもとで慰安婦を集めている事実等が広く知られないよう)業者の選定に注意し,関係地方の憲兵や警察当局との連絡を取ることなどを関係者に指示した )。またその前月には,内務省警保局長通牒「支那渡航婦女の取扱に関する件」が,発せられ,一定の基準条件を設定し,チェックを経たうえで,「醜業」のために中国に渡航する女性への身分証明書発給を行うべきことが伝えられた。具体的な条件やチェック事項は,すでに「醜業」についている女性で21歳以上であること,親の許可を得ていること,略取誘拐による渡航ではないことなどであった。なお,この通牒では,「醜業」目的で渡航する女性の「募集周旋」に際して虚偽や誇大な事実を伝えることへの取締り,正規の許可を受けていない者がそれに従事することを認めない旨も記されている )。慰安婦の確保を合法の枠内で娼妓等周旋業者が進めるべく,軍と警察当局との間での調整が行われ,ガイドラインが確認されたのである。

日本内地について見れば,軍や警察当局が構想したこうした統制のもとで慰安婦を集めることは可能であった。それ以前から娼妓等周旋業に対する社会的な批判の目は厳しかった。そして総力戦下では,軍の威信を毀損しない,社会不安を増大させないことは重要な意義を持つ。警察当局は,営業許可を付与した,つまりその活動を監督しうる,娼妓等周旋業者の動向に目を光らせたであろう。他方,娼妓等周旋業者の側も,利益になるならば軍による多数の求人需要に応じようとしたはずである。

 ここで問題になるのは, 1937年末から翌年にかけて陸軍が日本内地で集めようとしていた,慰安婦とすべき女性たちがどれくらいであるのか,またいつまでに要員を確保しようとしていたのかである。これについては,「北支派遣軍ニ於テ将兵慰問ノ為全国ヨリ二千五百名ノ酌婦ヲ募集」という語や上海派遣軍に対して「年内ニ内地ヨリ三千名ノ娼婦ヲ送ル事トナリ」との文言を記した史料が確認できる )。北支派遣軍と上海派遣軍は別の「軍」であるので人数は,両者を合わせて5500人となる。期間については,後者の「年内」は,慰安所での要員を集める相談をしているのが1937年なので,同年の末までであると理解できるが,実際には, 日本内地で慰安婦を集める活動は1938年初頭も行われている。このようなことから, 1937 年末から,なるべく早く, 5500名を集めるという計画であったと考えられる。そして要員確保はなるべく目立たないように遂行する必要があったはずである。

とすれば,無闇に慰安所で働かないかと女性に声をかけるわけにもいかないし,そもそもそれで多数の人員が集まるかどうかは,見通しは立たない。したがって,計画の遂行は,それは許可を持っ娼妓等周旋業者のみが担当し,売春施設ですでに働いている女性から選ぶという方法に依存するほかなかった。

すでに見てきたように,娼妓等周旋業者と売春施設で働く女性たちとの関係は紹介の時点で終わるわけではない。彼らはその後も女性たちやその親に関わる情報を把握していた。どこまで頻繁に連絡して詳しい情報を得ていたかは, 個々人によっても違いがあるだろうが,住み替えの手数料が得られる機会を念頭において,本人の働きぶりや,負債額の変動,親の経済状況なども探って知るのはごく自然なことであっただろう。その情報は,誰であれば慰安所に移動させられるか,それを希望するかの判断に用いるられよう。つまり,お金がさらに必要になったとか,早く完済しなければならない等の事情があるとなれば,娼妓等周旋業者はその女性に対して,稼ぎがよい場所があるとの話を出して慰安所行きを進めることになる。

では,娼妓等周旋業者が情報を持っ,すでに売春施設で就業中の女性たちはどれくらいいただろうか。1930年代半ばの日本内地での芸妓・娼妓・酌婦の合計は20万人強で推移している )。仮に半数程度が娼妓等周旋業者を経て就業に至ったと考えれば60) , 10万人程度であったと推定できる。そこから5500人程度の慰安婦を集めるのは無理ではない。もちろん,慰安婦を集める業務の命を受けていたのは日本内地の娼妓等周旋業者のうちの一部であり,自身の紹介した女性のなかから慰安婦の候補者を多数思いつくという者ばかりでもなかっただろう。だが,娼妓等周旋業者にとっても利益を得る貴重な機会であり,場合によっては同業者と情報を融通しあうことによって(1) ,慰安所への紹介に尽力したはずである。しかも,そうした娼妓等周旋業者は日本内地では6000人以上もいたのであり(表3 ) ,正体不明の無許可業者とわざわざ接触する必要はなかったのである。日本内地で慰安婦を集めようとする場合,娼妓等周旋業者に依頼することはごく自然な選択であったし,それがもっとも現実的で合理的な方途だったと言えよう。

では朝鮮の状況はどうであっただろうか。この点については手掛かりとなる史料はあまり見あたらない。そもそも日本内地と同様に,中国への売春施設への就業のための中国渡航についてすでに「醜業」従事者のみが許可されたのか,その許可にあたって,親や本人の意思確認や誘拐等ではないことのチェックが厳格に行われたのかなどがよくわからない。

ただ,日本内地のように,営業許可を得ている娼妓等周旋業者を中心に慰安婦が集められたとは考えられない。なぜなら,すでに朝鮮の売春施設で働いている女性だけから慰安婦とすへ き女性を見つけることは無理であったと推測できるためである。すでに述べたように,朝鮮では娼妓等周旋業者も,芸妓・娼妓・酌婦の人数も日本内地に比べてかなり少ない。1930年代     後半になると芸妓・娼妓・酌婦の合計が1万を超える水準となっており,そのほとんどが娼妓等周旋業者の紹介を経ていたとしても,そうした女性の数は日本内地の10分の1の水準である。

軍が,朝鮮で確保しようとしていた慰安婦とすべき女性の数をどの程度としていたのかは不明である。仮に人口に比例して日本内地と同程度のレベルで集めようとしていたとすれば,日本内地の3分の1弱の人口規模であった朝鮮では,日本内地で5500人を集めようとしていた時,つまり1938年初頭に,少なく見積もって 1500人程度を確保しようとしていた計算になる。これも仮にその要員をすでに朝鮮で芸妓・娼妓・酌婦となっている者のなかから集めようとした場合,かなりの無理が生じる。1937年末の朝鮮の芸妓・娼妓・酌婦の合計は1万 2520人であり(表2 ) , 10 %以上の女性が,いわば引き抜かれることになる。このことが朝鮮の売春施設経営者に与える影響は小さくない。

もちろん, 1938年初頭に朝鮮から慰安所に連れて行こうとしていた女性が, 1500人程度であるかどうかはよくわからない。そもそも, 慰安婦とされた女性がどれくらいで,慰安所に来る前の居住地や民族別の比率も不明である。ただ,歴史研究者による検討はなされており, そこで提示された推計はもっとも少ない数字でも, 2万人程度の慰安婦,その2割が朝鮮人であったというものである62)。つまり, 4000人程度が朝鮮人であったということになる。この数字は最小の推計値であることに注意すべきで,実際にはもっと多数であった可能性もあるが,もしこれだけの数の女性を朝鮮半島で集めるとすれば(朝鮮人慰安婦のうちには日本内地に住んでいて集められた者も若干いるが、 それは少数であると見て捨象しておく)。たとえ短 期間でないとしても、 かなりの部分を売春施設 で就業していなかった女性から求めるほかな。実際,軍慰安所を利用した兵士や女性たちの検診の担当者も,朝鮮人の場合は売春の仕事の経験がない女性が多かったことを証言している 42)

しかも,朝鮮ではそもそも娼妓等周旋業者は少ない。娼妓等周旋業の開業は一定の経験が必要であり,慰安婦の求人需要が増加したことを受けて,急に参入できるわけではないので,  の時点で増加したとも考えられない。したがって,娼妓等周旋業者を通じて,彼らがかって紹介し現在も売春施設で仕事をしている女性たちに声をかけても,それほどの人員を確保できない。結局,朝鮮で慰安婦を集めようとすれば, 無許可業者に依存し,売春の未経験者を集めるほかなかったのである。そして,必要人員の確保はそう簡単ではなかったはずであり,軍から依頼を受けた無許可業者はさらに同業者や知人と連絡をとり,慰安所に送り込むべき女性を探すほかなかった。

そうした無許可業者の活動については,その地域の警察当局によるコントロールは難しい。厳罰を下すことを背景に活動を合法の範囲に誘導することも不可能だし,そもそも誰がそのような活動をしているのか自体も警察は把握できないからである。また,軍も,直接依頼した相手との連絡,統制は可能であろうが,下請けで動く無許可業者らについてはそれが誰であるかわからなくてもおかしくない。そのようなかで,無許可業者やその下請けを担う者が,虚偽の好条件を伝えたり,仕事の内容を隠したりといった手段を用いて,慰安所に送るべき女性を確保する,ということは大いにあり得た。また,騙して連れていく,しかも本人も親も字が読めず近代的な教育を受けていないとなれば,多額の前借金を設定する必要もなかった。


そもそも,慰安婦とすべく声をかけた女性が, 家族との連絡を断ち切られた状態になっていたこともある。その場合は前借金の話自体を持ち出す必要もなかった )。

そのようにして女性を騙して連れてきた者は慰安所の経営者にその女性を引き渡せばそこで取引きは終了となる。騙した者が継続して親との連絡を取りながら女性が慰安所の仕事を続けるように共同管理を行う義務も必要もなく,慰安所の経営者も,暴力と脅しで女性に売春を強要し続けるだけである。付け加えれば,もし, 慰安婦が酷い扱いを受けて仕事ができなくなったとしても,慰安所の経営にはさほどの影響はない。前借金が設定されていない=投資が行われていないためである。朝鮮人慰安婦が慰安所で想像を絶するような過酷な経験を強いられたのは, こうした事情が関係していると見てよいだろう。

このように,娼妓等周旋業者が少数であった朝鮮では,日本軍は彼らだけを用いて,合法的に慰安婦を集めることは,困難であった。それゆえに,無許可業者らが主に任務を担うこととなり,違法な手段を用いて女性を集める行為が横行することになった。日本内地と異なる条件が,朝鮮における慰安婦の確保における,統制不能を生み出していたのである。

7.まとめ.

ー国家責任の議論の深化をめざして.

本論文では,娼妓等周旋業の業務の内容や経営の実情について史料をもとに論じてきた。先行研究では,それについて,誘拐や虚偽を伝えて売春施設に女性を売り飛ばすといった悪辣な行為ばかりが語られて来た。確かに,娼妓等の周旋では,そうしたことが行われることがあったことも事実である。だが,それは,摘発されれば厳重に処罰される犯罪である。当然,娼妓等周旋業は当時の合法の範囲内で,売春施設経営者に娼妓等の紹介を行っていた。そこでは, 紹介すべき女性が問題なく仕事を行い得るか等を判断し,その親との間での前借金の設定の交渉をまとめるために,経験で養われる知識や判断力が求められた。そして,紹介した女性が売春施設で働き続けるべく,本人とその親との連絡を維持してもいた。

日本内地ではそのような,合法の範囲内で活動する娼妓等周旋業者が多かった。彼らに対しては警察当局の側は監視し,違法行為があれば罰則を下すことが可能であった。これに対して朝鮮では合法的に活動する娼妓等周旋業者の数は少なかった。このことが日本内地と朝鮮における慰安婦の求人需要への対応の差となる。日本内地では,娼妓等周旋業者を用いて,すでに売春施設で働いている女性たちから慰安婦とすべき者を選ぶことができた。合法の業者として届出ていた彼らの活動を警察当局がある程度把握し,統制することも可能である。だが朝鮮では,売春未経験の女性を無許可業者に依存しながら集めるほかなかった。彼らの活動は警察当局が十分監視できるわけではない。そのなかで,騙して女性を慰安所に送り込むなどの悪辣な犯罪が横行したのである。

これまで,慰安婦がどう集められたかについて語る際,「業者」は実行部隊であると見なさ れてはいたものの,それはあくまで軍によって手足のように動かされていた存在として語られて来た。しかし,これまで述べてきたことを踏まえるならば,まず,慰安婦を集めた「業者」というのが,娼妓等周旋業者であるのか,無許可業者か,あるいはそのさらに下請けの者であるのかに注意すべきである。すでに見たように,朝鮮では,多くの場合,それは無許可業者やその下請けの者である   そして彼らは,依頼  者である日本軍人から,誘拐せよとか騙して連れて来いと言われるまでもなく,それを行いうる条件があるなかで,しばしばそのような手段を取っただろう。つまり,朝鮮での慰安婦を集める際に起きた犯罪は,その担い手を官憲がコントロールする条件がない 言い換えれば,手足のように使えなかったゆえに起きたと見るべきである。

同時に,これまで述べて来たことから,慰安婦は当時の合法的な公娼制度のなかで民間の「業者」によって集められたのであり,自由な契約のもとで商行為を行っていたので問題とすべきことはないというような議論が一部に見られるが65) ,少なくともそれは朝鮮においては成立しないという点を確認することができる。日本内地の公娼制度のもとでも,娼妓等となる女性たちが自由意思で売春を行ってお金を得ることを選択したのかは疑問であるしその点をもし論じないとしても,そもそも朝鮮では行政当局が女性の人身売買を把握し,管理する体制自体が十分には整えられていなかったのである。

日本帝国が少なくない朝鮮人女性を慰安婦としたことを問題する論者も(もちろんそれは極めて深刻な人権侵害である) ,そうではなく彼女たちは自由意思で商行為を行っていたというする論者も(そんなことをする人びとがいるとは到底考えられないのは通常の感覚があればわかりそうなものであるが) ,おそらくともに日本帝国が朝鮮に持ち込んだ公娼制が広く社会に定着しそのなかで,行政当局が管理,把握する娼妓等周旋業が発達したように考えている。だが,植民地朝鮮の実情はそうではなかった。行政当局が社会の隅々で行われる売春と女性の人身売買を十分に把握し,管理していたわけではない。言い換えれば,植民地期の朝鮮を日本内地並みの近代的な社会であったかのように考えるのは誤りであり,慰安婦の要員確保について議論する際にも,その点を見据える必要がある。

なお,朝鮮の行政当局が直接,かつ計画的に 慰安婦の要員確保を行っていたわけではないという本稿の見解に対しては,日本帝国を免罪しているのではないかという疑問を持つ者もいるかもしれない。しかし本稿で明らかにしたことは,慰安婦の要員確保をめぐる日本帝国の責任をより精緻に把握する前提となるはずである。植民地支配下の朝鮮では多くの者が経済的に困窮し,売春施設に若い女性が売られるような状況が生み出された。のみならず,売春施設の経営やそこに女性を紹介する行為に対する取締りも,あるいはそれについて合法の枠を設定して警察当局が統制しうる体制を築くことも十分にはできなかった。そのなかで大量の女性を慰安婦として集めたため犯罪行為が横行し,その取締りも徹底しなかった。それらのいずれもが日本帝国の責任と言える。

しかも,朝鮮の警察当局や憲兵は,女性たちが騙されて慰安婦にされていることを知り得る機会が多々あったはずである。言い換えれば, 彼らが違法行為を黙認していた可能性はかなり高い。また日本帝国の陸海軍の枢要な地位にいた者も,そうした朝鮮における慰安婦の要員確保の実情を知っていたとしてもおかしくない。むしろ,それを前提として,朝鮮で多く慰安婦を集め続けたことも推測しうる。その点において,日本帝国の責任は厳しく問う必要がある。最後に付け加えれば,粗暴な犯罪によらずに売春施設に女性を紹介していた娼妓等周旋業者の活動も,警察当局か統制しうる合法の範囲であったから問題ないというわけではない。彼らの存在は売春施設で働くべき女性の情報を流通させ,そうした女性を商品として扱い,円滑に取引きする上で寄与していた。さらに,紹介した女性たちについて,彼らはその親と売春施設経営者との共同管理を続けた。娼妓等周旋業者の存在は,社会不安を生み出すような誘拐等の犯罪を伴わすに,女性たちを売春施設に送込み,逃げられないまま売春を強いる仕組みを維持する上で不可欠であり,そこに大きく寄与していた。そして彼らによって売春施設に送込まれ,管理されていた女性たちも,むき出しの暴力で支配されていた慰安婦と同様に,後々まで心身に傷を負って人生を送ることになったであろう。娼妓等周旋業について論じるとすれば, その点を忘れるわけにはいかない。

(受理2021年9月22日)


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