2020-11-22

海軍飛行予科練習生 - Wikipedia

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海軍飛行予科練習生

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海軍飛行予科練習生の制服

海軍飛行予科練習生(かいぐんひこうよかれんしゅうせい)とは、大日本帝国海軍における航空兵養成制度の一つ。志願制。予科練(よかれん)と略称で呼ばれることが多い。英語では、“Naval Aviator Preparatory Course Trainee”と訳されている。

歴史[編集]

戦前[編集]

軍隊が航空機利用し始めた時点では必要とされる能力の高さから操縦訓練は少年期から開始するべきという考えが提唱され、アメリカでは1907年からFlight cadetを、イギリスでは1919年Royal Air Force College Cranwellを創設した。この制度で優秀な操縦士が誕生したことで各国の軍では年少者を操縦士候補生として採用し養成する制度が広まった。

日本では1929年(昭和4年)12月、海軍省令により予科練習生の制度が設けられた。「将来、航空特務士官たるべき素地を与ふるを主眼」とされ、応募資格は高等小学校卒業者で満14歳以上20歳未満で、教育期間は3年(のちに短縮)、その後1年間の飛行戦技教育が行われた。全国からの志願者5807名から79名が合格し、1930年昭和5年)6月、第一期生として横須賀海軍航空隊へ入隊した(後の乙飛)。

1936年(昭和11年)12月、「予科練習生」から「飛行予科練習生」へと改称。1937年(昭和12年)、更なる幹部搭乗員育成の為、旧制中学校4学年1学期修了以上(昭和18年12期生より3学年修了程度と引き下げられた)の学力を有し年齢は満16歳以上20歳未満の志願者から甲種飛行予科練習生(甲飛)制度を設けた。従来の練習生は乙種飛行予科練習生(乙飛)と改められた。海軍省は甲飛の募集の際、待遇も進級も「海軍兵学校に準ず」と喧伝し、受験資格も海軍兵学校の応募資格(旧制中学校4学年修了程度)と遜色なかったために、海軍が新設した航空士官学校との認識で甲飛に入隊した例も多かった。ところが、兵学校相当の難関試験に合格し、晴れて入隊した練習生に与えられた階級は海兵団で訓練中の新兵らと同じ最下級の四等水兵で、制服も水兵服であった。それらの低待遇に失望した練習生たちは、飛行隊では決して口にできない不満を、故郷に帰って発散し、「予科練には来るな」そんなことを地元の出身中学で堂々と言ってはばからぬ練習生が後を絶たず、不満はさらに膨れ上がり、ついには第三期生がストライキを起こすという、前代未聞の事態に発展してしまった。人気を回復するため海軍省は苦肉の策として不評であった「水兵服」を廃止し、軍楽兵と同様の短ジャケットに「桜に錨」の七つボタン、下士官型軍帽を制定した。ちなみに当時の甲飛募集の内容は「きわめて短年即ち僅々約5年半にて既に海軍航空中堅幹部として、最前線に於いて縦横無尽にその技量を発揮するのである。次いで航空特務少尉となり、爾後累進して海軍少佐、中佐ともなり得て、海軍航空高級幹部として、活躍することができるのである」であった。

1940年(昭和15年)9月、海軍の下士官兵からの隊内選抜の制度として従来から存在した操縦練習生(操練)・偵察練習生(偵練)の制度を、予科練習生の一種として取り込み、丙種飛行予科練習生(丙飛)に変更した。

戦中[編集]

1942年当時の予科練生

1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争が始まると、航空機搭乗員の大量育成の為、予科練入隊者は大幅に増員された。甲飛1期生-11期生の採用数は各期200名-1000名程度であったが、12期生4000名、13期生以降は、各期3万人以上の大量採用となる。養成部隊の予科練航空隊は全国に新設され、土浦航空隊の他に岩国海軍航空隊三重海軍航空隊鹿児島海軍航空隊など、最終的には19か所に増えた。

1943年(昭和18年)から戦局の悪化に伴い、乙種予科練志願者の中から選抜し乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛)とし短期養成を行った。また、1944年(昭和19年)10月頃に、海軍特別志願兵制度で海軍に入隊していた朝鮮人日本兵台湾人日本兵を対象にした特別丙種飛行予科練習生(特丙飛)が新設され、特丙飛1期が乙飛24期と同じ12月1日に鹿児島空へ配属された[1]

戦前に予科練を卒業した練習生は、太平洋戦争勃発と共に、下士官として航空機搭乗員の中核を占めた。故に戦死率も非常に高く、期によっては約90%が戦死するという結果になっている。また昭和19年に入ると特攻の搭乗員の中核となり、多くが命を落としている。

1944年(昭和19年)夏以降は飛練教育も停滞し、この時期以降に予科練を修了した者は航空機に乗れないものが多かった。中には人間魚雷回天・水上特攻艇震洋・人間機雷伏竜等の、航空機以外の特攻兵器に回された者もいた。

終戦間際は予科練自体の教育も滞り、基地や防空壕の建設などに従事する事により、彼等は自らを土方(どかた)にかけて『どかれん』と呼び自嘲気味にすごした[2]。また予科練教官もこれらの任務に割り当てられることになり、三重の予科練では教官が朝鮮半島出身者を指揮し、軍艦を隠すための穴を掘らせるなどの土木工事が行われた。人材の質についても当初のようなエリートである航空機搭乗員を養成するという意義が薄れ、大量採用を目的に素行不良者も受け入れた結果、市民からは与太者(よたもの)にかけて『よたれん』と呼ばれていたという[3]。また慶應義塾商業学校(慶應義塾大学の夜間商業学校)に在籍していた酒井雄哉は落第生で卒業が危ぶまれたため、教授の薦めで予科練に入隊しているなど、成績不良の学生の受け皿として使われる状況だった。

1945年(昭和20年)6月には一部の部隊を除いて予科練教育は凍結され、各予科練航空隊は解隊した。一部の特攻要員を除く多くの元予科練生は、本土決戦要員として各部隊に転属となった。

教育[編集]

教育は、普通学(12科目)・軍事学(9科目)・体育(ラグビー、プールでの遠泳訓練や綱引きなど[4]10種目)の他、精神講話[4]などもあり、当初の履修期間は2年11か月だった。その後、履修期間は徐々に短くなり、終戦直前には1年8か月で、海軍二等飛行兵から海軍飛行兵長に昇格し終了した(乙飛、1942年以降の階級)。甲飛の履修期間も当初の1年2か月から終戦前には6か月に短縮された。修了後は練習航空隊で飛練教育を受け、その後実戦部隊に配備された。

一日中訓練漬けではなく、休憩や自習の時間もあった[4]

分類[編集]

十八期の碑(京都市)
  • 甲種飛行予科練習生(甲飛)
    • 1937年(昭和12年)発足。
  • 乙種飛行予科練習生(乙飛)
    • 1930年(昭和5年)発足。
  • 丙種飛行予科練習生(丙飛)
    • 1940年(昭和15年)発足。操縦練習生・偵察練習生の制度に代わるもの。特乙飛制度の新設によって廃止となった。
  • 乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛)
    • 1942年(昭和17年)12月発足。
  • 特別丙種飛行予科練習生(特丙飛)
    • 1944年(昭和19年)12月に第1期教育開始。海軍特別志願兵の朝鮮人日本兵・台湾人日本兵対象。実例は1期(朝鮮出身者50人・台湾出身者50人)のみで、鹿児島空で教育開始後、1945年6月に土浦空へ異動して教育中に終戦[1]

甲飛と乙飛の対立[編集]

甲種飛行予科練習生制度の導入以降、両制度を甲・乙と言う優劣を表す名前に変更した為、また昇進速度の違いなどもあり、練習生間での対立が問題となった。予科練航空隊を増設する際、甲飛・乙飛を分離する計画もあったが、戦況の悪化によって後発航空隊による甲乙分離計画は立ち消えとなり、末期まで尾を引いた。

その他[編集]

智恩寺にある供養塔
予科練平和記念館
  • 当初は水兵服であったが、1942年(昭和17年)11月からは制服を軍楽兵に範を取った濃紺の詰襟制服を採用する事になった。制服にはに海軍の象徴である桜と錨が描かれた7個のボタンが付いており、七つボタンは予科練を表す隠語となった。海軍兵学校の反対により、練習生の制服には佩刀の制度はない。服制の詳細については、軍服_(大日本帝国海軍)#飛行練習生等参照。
  • 制服の金のボタンは「世界の7つの大陸・七大洋」と「月月火水木金金」の訓練を表していた
  • 予科練の宣伝のため戦意高揚映画決戦の大空へ』が製作された。主題歌の『若鷲の歌』の歌詞には桜と錨七つボタンなど制服の特徴が登場する。
  • 出身者はマスコミなどから荒鷲の通称で呼ばれていた[5]
  • 土門拳は海軍に訓練風景の写真撮影を依頼され1944年6月から1ヶ月間、甲種十三期三十一分隊と共に生活をしている。構図にこだわるあまり訓練を何度もやり直させるため、予科練生らには不評だったという[4]
  • 海空の自衛隊では操縦士の早期育成制度として高卒者を対象とした航空学生を継続している。特に海上自衛隊は制服が『桜と錨が描かれた七つボタンの詰襟』、学生歌が『若鷲の歌』の歌詞を変更した『海の若鷲』であるなど予科練の伝統を引き継いでいる。
  • 茨城県の阿見町には予科練出身者の顕彰と平和学習のための施設として、土浦海軍航空隊の跡地に予科練平和記念館が開館している。なお茨城県内には海上自衛隊の施設は存在しない。
  • 1943年10月には兵舎として天理教の信者詰所が徴用された。予科練生が入る前に海兵団から選ばれた100名程が掃除を行っており、この中には新藤兼人がいた[6]

予科練出身の著名人[編集]

乙種1期生(1930年(昭和5年)6月1日入隊、79名[7]
乙種2期(1931年(昭和6年)6月1日入隊、128名[7]
乙種3期(1932年(昭和7年)6月1日入隊、157名[7]
乙種4期生(1933年(昭和8年)6月1日入隊、149名[7]
乙種5期生(1934年(昭和9年)6月1日入隊、220名[7] )
乙種6期生(1935年(昭和10年)6月1日入隊、204名[7]
乙種7期生(1936年(昭和11年)6月1日入隊、187名[7]
乙種8期生(1937年(昭和12年)6月1日入隊、218名[7]
甲種1期生(1937年(昭和12年)9月1日入隊、250名[8]
甲種2期生(1938年(昭和13年)4月1日入隊、250名[8]
乙種9期生(1938年(昭和13年)6月1日入隊、200名 )
甲種3期生(1938年(昭和13年)10月1日入隊、260名 )
乙種10期生(1938年(昭和13年)11月1日入隊、240名[7]
甲種4期生(1939年(昭和14年)4月1日入隊、264名[8]
乙種11期生(1939年(昭和14年)6月1日入隊、264名[7]
甲種5期生(1939年(昭和14年)10月1日入隊、258名[8]
乙種12期生(1939年(昭和14年)11月1日入隊、370名[7]
甲種6期生(1940年(昭和15年)4月1日入隊、267名[8]
乙種13期生(1940年(昭和15年)6月1日入隊、294名[7]
甲種7期生(1940年(昭和15年)10月1日入隊、323名[8]
丙種2期生(1940年(昭和15年)11月28日入隊、186名[9]
乙種15期生(1940年(昭和15年)12月1日入隊、620名[7]
丙種3期(1941年(昭和16年)2月28日入隊、402名 )
甲種8期生(1941年(昭和16年)4月1日入隊、455名 )
丙種4期生(1941年(昭和16年)5月1日入隊、358名[9] )
丙種6期生(1941年(昭和16年)8月30日入隊、376名[10]
丙種7期生(1941年(昭和16年)10月31日入隊、243名[10]
丙種8期生(1941年(昭和16年)12月27日入隊 )
甲種9期生(1941年(昭和16年)10月1日入隊、841名 )
甲種10期生(1942年(昭和17年)4月1日入隊、1,097名 )
笠井智一

甲種11期生(1942年(昭和17年)10月1日入隊、1,191名 )


丙種10期生(1942年(昭和17年)2月28日入隊、329名[10]

石井勇加藤邦逵服部一夫

丙種12期生(1942年(昭和17年)7月20日入隊、181名[10]
丙種15期生(1942年(昭和17年)12月1日入隊、252名 )
乙種16期生(1943年(昭和18年)5月1日入隊、1,237名[8]
丙種17期生(1943年(昭和18年)3月31日入隊、204名[10]
甲種12期生(1943年(昭和18年)4月1日入隊1,960名、6月1日入隊493名、8月1日入隊762名、 合計3,215名 )
甲種13期生(前期:1943年(昭和18年)10月1日入隊11,092名、後期43年12月1日入隊19,086名[8]、合計30,178名 )
乙種21期生(前期:1943年(昭和18年)12月1日入隊4,356名、後期:44年5月15日入隊2,023名[8]、合計6,379名[7]
甲種14期生(1944年(昭和19年)4月1日入隊19,086名、5月15日入隊1,602名、6月1日入隊6,010名(土浦、松山)、6月15日入隊1,117名(土浦、藤沢、岡崎、垂水、防通校)、同1,519名(土浦、岡崎)、7月1日入隊121名(藤沢)、7月10日入隊5,362名、7月15日入隊766名(藤沢、第二岡崎、垂水)、同1,602名(土浦、岡崎)、8月15日入隊1,429名、9月15日入隊1,624名、10月15日入隊1,617名[12]、合計41,855名 )
甲種15期生(1944年(昭和19年)9月15日入隊24,461名、10月20日入隊1,999名、11月15日入隊8,825名、12月30日入隊1,432名[12]、合計36,717名[13]
卒業年不詳

映像[編集]

原作・脚色:伏見 晃 監督:佐々木 康
出演:本郷英雄、水島光代、日下部 章、石山隆嗣、飯田蝶子笠智衆
脚本:山崎謙太、山本嘉次郎 監督:山本嘉次郎
出演:伊東薫原節子藤田進英百合子河野秋武
脚本:八住利雄 監督:渡辺邦男
出演:高田稔原節子、小高まさる、英百合子、黒川弥太郎
  • 映像資料『海軍飛行予科練習生-予科練の若き戦士たち-』
製作:株式会社 日本映画新社 平成9年(1997年)製作
販売:日本クラウン株式会社

脚注[編集]

  1. a b 日高(2007年)、256-257頁。
  2. ^ 大佛次郎玉川一郎から聞いた話として、昭和20年8月4日の日記に書いている(大佛次郎『終戦日記』文春文庫お-44-1 ISBN 978-4-16-771735-3 P.311)。
  3. ^ 伊藤祐靖-スッキリだけはできるだろう - 伊藤祐靖が回想した祖母の発言。
  4. a b c d 「土門拳の予科練写真 発見」河北新報2015年8月16日
  5. ^ 1944年11月23日付の朝日新聞で初めて零式艦上戦闘機の存在が公開された際には「荒鷲などからは零戦と呼び親しまれ」と紹介されている。
  6. ^ <4> 戦争 人間性奪い家庭も破壊”. 中国新聞 (2009年8月21日). 2013年6月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年11月7日閲覧。
  7. a b c d e f g h i j k l m 零戦搭乗員会 1987, p. 343.
  8. a b c d e f g h i 零戦搭乗員会 1987, p. 341.
  9. ^ 零戦搭乗員会 1987, p. 345.
  10. a b c d e 零戦搭乗員会 1987, p. 346.
  11. ^ 河越誠剛『全員参画の最強理念経営』PHP研究所、216頁。
  12. a b 零戦搭乗員会 1987, pp. 341-342.
  13. ^ 零戦搭乗員会 1987, p. 342.

参考文献[編集]

  • 『等身大の予科練 : 戦時下の青春と、戦後』 常陽新聞、2002年 ISBN 9784921088132 (出版案内)
  • 倉田耕一『土門拳が封印した写真 : 鬼才と予科練生の知られざる交流』新人物往来社、2010年 ISBN 9784404038807
  • 日高恒太朗『不時着―特攻 “死”からの生還者たち』文藝春秋〈文春文庫〉、2006年。ISBN 4-16-771713-1
  • 『海軍戦闘機隊史』零戦搭乗員会 編、原書房、1987年。

関連文献[編集]

  • 『海軍少年飛行兵』朝日新聞社、1944年。NDLJP:1460209
  • 海軍航空本部『海軍飛行予科練志願読本』興亜日本社、1944年。NDLJP:1460213

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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