鶴見俊輔との対話――『戦時期日本の精神史』を読む(02) - Rechtsphilosophie des als ob
鶴見俊輔との対話――『戦時期日本の精神史』を読む(02)
2015-10-06 | 日記
鶴見俊輔『戦時期日本の精神史 1931~1945年』ノート
第02回 転向について
はじめに
今回のテーマは、「転向について」です。前回も少し話題になりましたが、鶴見さんによれば、「転向」という言葉は、1920年代から使われ始め、1930年代に入って、それが具体的な現象として現れるようになりました。1920年代から1930年代の初頭から用いられるようになったということは、この時期の前と後とで、時代が大きく異なり始めたことを示唆しているように思います。つまり、転向が問題にならなかった時期から、それが重要な問題になり始めた時期への転換期が1930年前後だということです。転向の意味を明らかにするためには、この転換期の意味を明らかにしなければなりません。
転向は、戦争へと本格的に向かう政治的・社会的な雰囲気のなかで生まれ言葉であり、戦争中の15年間の知的・文化的な傾向を持っています。この章では、その言葉が生まれた背景を遡って、戦争中の政治的雰囲気だけでなく、それに先立つ日本社会の在り方についても考察されています。私たちは、もしかしたら日本が海外で戦争を行なうかもしれない時代に生きています。多くの人々がそれに危機感を持ち、反対しています。転向は、かつて、そのような人々のなかから現われた現象です。それは、現在の状況と無縁であるとはいえません。
(1)転向の背景について
「転向」という言葉が使われ始めたのは、1920年代のことです。その言葉を用いて表現される社会や個人の思想的な傾向は、すでに一定の規模において社会現象として現れていたように思います。例えば、「登校拒否」や「不登校」という言葉がありますが、40年以上前に私が小学校に通っていた頃にも、学校に来ない友達がいました。時々、みんなで家に遊びに行ったりしましたが、しかしその子は学校には来ないんです。私たちには、「学校に来ない子ども」という程度の認識しなありませんでしたが、他の小学校にもそのような子どもがいたと思います。それが後に社会的に一定の規模で問題化するようになって「登校拒否」であるとか、「不登校」という言葉で表されるようになりました。
「転向」も同じ様に、後にその言葉によって表される社会現象が1920年代頃に生じていたようです。鶴見さんは、この問題を「身分制度」という観点から分析しています。そこには二つの制度があります。一つは、日露戦争以降に成立した「華族制度」、公侯伯子男という爵位の制度です。これは1945年以降に廃止されました。憲法に華族制度が廃止されたことが明記されています。もう一つは、19世紀末に定着した「学歴制度」です。これは、偏差値に対する過度な重視傾向や受験競争の激化は、生徒・学生の人格形成に悪影響を及ぼすという批判を受けながらも、戦後廃止されることなく、現在においても受け継がれています。「転向」の問題は、1931年から1945年までの日本思想史の一つの問題ですが、鶴見さんがこれを学歴制度との関わりで考えようとしているのは、転向を現代の問題として捉え直すべきであると考えているからだと思います。
華族制度は、いつ頃成立したかというと、それは日露戦争の後です。日本は、明治維新以降、欧米の科学技術・学問を取り入れ、文明化を促進してきました。そのなかに、軍事技術の獲得や兵器体系の整備も含まれます。日清戦争で清朝を倒し、日露戦争でロシアにも負けなかったのは、このような文明化の努力があったからです。それ以前の明治政府の指導層は、西洋諸国の植民地にされないように、日本を守らなければならない。国の経済力と軍事力を増強するために、西洋の学問や文明国の方法を学びました。日本は、西洋諸国において形成された「文明のハシゴ」を登り、大国・清とロシアを軍事力で追い抜いた日本は、欧米と肩を並べる「一等国」の仲間入りを果たしたことを実感したと思います。そして、その実感は、欧米諸国との間に一定の友好関係が続いているうちに、日露戦争を早く終わらせ、ロシアとの講和を結ぶことを急がせました。というのも、そうすることによって、様々な国家建設の課題――そのなかには日本が欧米の植民地にならないようにするための方策が含まれていたと思います――を達成しようと考えたようです。
鶴見さんは、幕末から日露戦争までの日本の指導層の気分、一等国になった実感には、共同の目的と共同の意識、同志的連帯感のような謙虚な姿勢があったといいます。「遅れた国」から、欧米に匹敵する「一等国」になるために、日本の指導層は連帯して、協力し合っていた。すでにインドはイギリスの植民地となり、清朝もアヘン戦争において様々な権益をイギリスに譲り渡していました。西側諸国が東へ東へと進出してくることに対して、日本はどのように対抗するか、日本の若い指導層には共通する問題意識があったということです。しかし、そのような協力関係・連帯意識は、大正時代、その後の昭和時代の日本の指導層には引き継がませんでした。日露戦争が終わった後で、一等国になった彼らは、自分たちを「貴族階級」としてお祝いしたというのです。ここには歪んだ利己的な立身出世観が政治の指導層のなかに浸透していることを窺わせます。社会的地位、社会的貢献、それによって得られる名声と人望。それは非常に価値あるものです。当時は、そのなかに軍人としての貢献も含まれていたのでしょう。しかし、それを「身分」として固定化したいと考えるのは、ここにはゆがんだ立身出世観があり、その名声を維持し、社会的地位を高めるためには、戦争をテコにしなければならなくなります。こような身分制度は、その後の15年の戦争につながっていっく、戦後憲法のもとで廃止されたのです。1930
年前後の時代、転向が社会現象として現れ始めた時代の特徴として、このような好戦的な身分制度、華族制度がありました。鶴見さんが「転向」との関係で問題視しているもう一つの身分制度は学歴制度です。この制度は、好戦的な身分制度に抵抗することができたでしょうか。
明治時代に入る前の時点において、日本社会にはかなり広い規模で初等教育が行なわれていたようです。男性の40パーセント、女性の15パーセントが、読み書きと算術の能力を持っていたといいます。これは民衆の日常生活の必要性と結びついていたからこそ普及したのす。そのような教育制度は、「身分制度」とは無縁のものです。これに対して、明治以降の育制度は、日常生活の必要性から生まれたものではありません。明治政府は、それ以前の教育制度の延長線上に、新し教育制度を構想しませんでした。明治政府が構想したのは、国家的な人材育成政策としての教育制度でした。教育機関の最頂点に東京帝国大学を置き、その周辺に帝国大学と師範学校を配置し、何度かにわたる選抜試験を通り抜けた者だけが、その門をくぐることができるという制度です。それは、国民のだれでもが、才能があり、努力しさえすれば、そこに入学できるという制度でした。それは、国民全体の向学心を刺激し、日本に西洋の文明を広める有効な手段として機能しました。しかし、それによって選抜された者には職業上の身分と地位を保障するというものであり、華族制度とは違うものの、一種の身分制度として機能し、すでに1880年には社会に定着していたようです。
東京帝国大学に入学すると、その学生はどのような将来が保障されていたのでしょうか。その学生は、卒業後には政府の役人になれました。役人になるための選抜試験制度はありましたが、帝国大学の学生はその試験を免除されていました。役人になって以降の出世の道も保障されていました。これは官僚の世界だけでなく、産業界や財界においても同じでした。日露戦争が終わった頃から、日本の官僚、産業界、ジャーナリズムの領域において、その中心的存在はすべて大学卒業者によって独占され、その中心には東京帝国大学法学部の卒業生がいました。これもまた身分制度の一つです。能力が認められて、選び出されたとはいっても、その後の地位が保障されるというのは、本質的に身分制度と同じです。この制度は、1931年から始まる戦争の時期においても、またそれが終わった1945年以降の時期においても変わることはありませんでした。連合国の日本占領によっても変えられませんでした。日露戦争が終わった頃から、日本の官僚、産業界、ジャーナリズムの領域において中心的存在であった人たちが直接的・間接的に戦争に関わったというならば、そのよう人たちを育て上げた制度の問題を考えなければなりません。
以上のように、鶴見さんは、「転向」の背景には「身分制度」があると捉えています。
(2)東大新人会について
皆さんは、東大新人会という団体の名前を聞いたことがあるでしょうか。1917年にロシアで社会主義を目指す革命が起こりました。翌年の1918年、第1次世界大戦後のコメの値上がりに抗議して、日本全土で「米騒動」が起こりました。それは地方から起こり、大都会にも広がりました。このような社会の動きと変化が、東京帝国大学の学生の意思に大きな影響を与えたのです。
先にも述べたように、一種の身分制度ともいえる学歴制度を勝ち抜いてきた若い学生は、将来には社会の各界で指導者として働くことが期待されていましたので、大学時代の約6年間は、専門的な知識と技能を身につけながら。日本の将来の設計図を描くために費やされました。政治家を志す者は政治の理想を、企業家を目指す者は最先端の経済様式を、学問を志す者は欧米に比肩する科学と思想を構想しました。決められたコースを決められた速度で、それぞれが歩むわけです。しかし、ロシア革命と米騒動は、そのような学生の進路に横から大きな衝撃を与えました。その当時の東京帝国大学法学部には吉野作造という政治学者がいました。いわゆる民本主義の思想の提唱者であり、日本の民主主義思想の代表的な論客です。彼は若い学生に非常に大きな影響力がありました。そのような影響を受けた学生のなかから、新人会という団体が生まれました。
新人会は、1918年に生まれました。その目的は、次のようなものだったといいます。第1には、世界の文化的な流れである「人類解放」の新しい気運に協調しながら、それを促進するために努力する。第2には、日本社会の合理的に改革するための運動に取り組む。世界の文化的な流れである「人類解放」の新しい気運とは何でしょうか。それは、ロシア革命のインパクトによって得られた世界史的動きの認識です。つまり、社会主義による人類解放の思想が現実のものになったという認識です。では、日本社会の合理的に改革するための運動とは何でしょうか。この時点では、まだ明確な組織的運動はありませんでしたが、おそらく社会主義政党を作り、そこを基盤にして帝国議会に影響を及ぼしていくという考えだと思います。吉野作造の民主主義思想に影響されながら、新人会の若者が目指したのは、非常に素朴な認識でありましたが、現在の言葉で表現すれば、終局的には人類の解放の思想、社会主義・共産主義であったといえます。ただし、それは吉野の民主主義思想とは異なります。学生は、いつの時代でも、最終的にたどりつく理想的なゴールを発見し、それを追い求めます。しかも、自分たちの手でそれを達成しようとします。非常に急進的です。粘り強さ、地道さは、あまりありません。そのような新人会の学生の目には、吉野の民主主義思想は非常に穏健的に映ったのかもしれません。吉野から影響されながらも、それを追い越して、社会主義・共産主義の理想に接近していきました。
新人会の学生は、まず1922年に設立された日本共産党に入って、社会主義・共産主義の理想を追い求めました。しかし、日本共産党は、設立から数年後に組織を解消し、その後、再建されたのが1920年代後半でした。新人会のメンバーだった人たちのなかには、再建された日本共産党に入って活動した者のいれば、そこから離れて、別の組織を作った者もいれば、1930年代には国家社会主義の運動――とはいっても、ナチスとは違いますが――に向かっていった者もいました。例えば、社会民衆党であるとか、社会党であるとか、日本共産党とは違う社会主義政党で活動を継続した者もいました。なぜ日本共産党から離れて、他の社会主義政党で活動を継続したかというと、それは一言でいえば天皇制に対する評価の違いがあったからです。普通選挙制度と抱き合わせで制定された治安維持法によって、国体の変革と天皇制の廃止、私有財産制度の廃止には厳罰が科され、後に死刑をも含めた極刑が科されるようになったのは、皆さんもご存じだと思います。実際にも、日本共産党は、1928年に天皇制の廃止を主張したために、大弾圧を受けました。天皇制を廃止しなければ、民主主義・社会主義の日本を建設できないのであれば、この主張を止めることはできません。しかし、果たしてそうか。このような疑問が活動家の間で議論され、天皇制は日本社会の政治・経済の発展の阻害要因ではなく、そのようなものとは次元を異にする文化的な制度ではないのか。日本古来の歴史と伝統に根ざした日本固有の文化ではないのか。資本主義とか社会主義などの経済制度とは関係ないのではないか。このように考えれば、天皇制とは無関係に、あるいは天皇制を頂点とした社会主義を構想できるのではないか。このように考えた人たちは、再建された共産党には関係せずに、他の社会主義政党を作りました。また1928年の弾圧以降、組織を離れて行きました。元東大新人会のメンバーで、1928年の弾圧の当時に日本共産党の委員長を務めていた佐野学は、逮捕・投獄後、1933年に同じ幹部の鍋山とともに「転向声明」を発表します。この声明には、天皇制を容認しながら、社会主義を目指すことが明言されていました。ここに転向が典型的に表されています。しかも、それは「身分制度」と不可分の関係にあります。
(3)身分制度の裏返しとしての転向の特徴について
鶴見さんは、日露戦争以降、日本社会の指導層のなかに華族制度が生まれ、また学歴制度によってエリート階層が生まれ、そのような制度が15年間の戦争に結びついていったことを示唆しています。鶴見さんは、とくに学歴制度としての身分制度と「転向」の問題について関連づけて考察していますが、それは非常に興味深いところがあります。それは、日本共産党の最高幹部であった佐野学が、その党籍の離脱を申し出ることなく、それまでの党の地位にとどまりながら、党の立場とは異なる見解を表明したことに如実に現れています。佐野が党の委員長のポストについたまま、転向した、このことが重要だと、鶴見さんは見ています。日露戦争以降、形成された日本の身分制度、明治以降続いてきたエリート養成の教育制度は、日本社会を支える担い手を作り出すと同時に、それを変革する主体をも作り出した。東大新人会のメンバーや日本共産党の運動家がそれです。その委員長が、その立場から離れるときに、組織を離脱するのがふつうですが、佐野は党籍の離脱を申し出ることなく転向しました。転向を表明した佐野の意識のなかに、身分制度が無意識のうちに定着したようです。
最も難しい入学試験を乗り越え、東京帝国大学法学部に入学することが決まった若者は、政治の世界であれ、経済の世界であれ、国の指導者、民衆の指導者の後継者として選抜されたことを実感します。その若者の心理は、どのようなものでしょうか。少なくとも、親や兄弟は大きな期待をかけるでしょうし、地元の友人、知り合い、学校の先生たちも喜んでくれるでしょう。立派な官僚になって、立派な政治家になって、故郷に恩返ししてほしいと思うでしょう。彼らは、そのような期待を背負って東京に向かうわけです。エリートを選抜する試験に合格した若者は、不安と期待に胸を膨らませながら、自分は選ばれた者であることを自覚するでしょう。鶴見さんは、この若者は、「彼の心の底においてどのように政治上の意見が変わろうとも、指導者であり続けるという信条を持っています」と書いています。この指摘は非常に重要だと思います。
大学に入学するための試験制度は、誰もがチャレンジできる公平性と民主性を持っています。確かに、一定の経済力がなければ、また両親や兄弟姉妹の応援がなければ、チャレンジできなかったのかもしれませんが、そのような条件がそろえば、チャレンジし、東京帝国大学法学部への入学資格を得て、最終的に国の指導者になる夢も叶えてくれる制度でした。そのような選抜試験を乗り越えてきたことの意味は、たんに学力が優れているということに尽きるものではありません。人望がある、信頼できる、頼りになるという全人格的に評価されるということです。明治時代のエリートは、今のようなエリートではなく、学力だけでなく、体力もありました。柔道や剣道など何らかのスポーツをやっていた人が多く、なかには地元の県大会で優勝した経験がある人も珍しくありません。学力優秀、スポーツ万能、そして中学生・高校生のときには英語やドイツ語の読み書きができて、外国の事情にも通じている。日本語訳されていない本を読み、その内容を友人に分かり易く話す。
日本のことだけでなく、世界の動きを話してくれる。そんな憧れの人が試験を突破し、東大に入学していくのです。ようするに、周りの人々は、「彼が述べていることは正しい」と信じるのです。もちろん神様ではないので、彼の言葉を全て信じるわけではないでしょうが、困難に直面し、なんとかして事態を打開したいというというときに、とくに社会を変革する共産主義運動が困難に直面したとき、佐野学が出した転向声明は、その信奉者に、「彼が述べていることは正しい」、「彼は正しいことをいう人だ」と思わせたのではないでしょうか。弾圧に直面していた共産主義の運動家は、それにすがってしまう、すがりたくなる心情を抱いたのではないでしょうか。だから、鶴見さんも述べているように、「その追随者のなかから現れた反応もまた、結果としては彼らの指導者の暗黙の前提を受け入れたことを示しています」ということになったわけです。共産党の委員長である佐野学が獄中で転向したということは、彼が党から離れていくべきだというのではなく、彼が委員長をしている共産党が方向転換をしなければならないということなのです。少なくとも佐野の意識の上ではそうです。しかし、他の幹部たちは、転向せずに、党を守り、頑張った者もいました。彼らもまた選ばれたエリートであり、指導者でした。指導者が党組織を守り、不屈に頑張った。転向しなかった。だから、その指導者は立派だ、その人は尊敬できる。ゆえに、その主張は正しいと受け止められたわけです。転向した佐野に従った活動家の論理は、転向せずに不屈に闘った指導者に着いて行った活動家の論理と、どれほど違っているでしょうか。鶴見さんは、指導者が転向せず不屈に闘ったことが、その主張の正しさの証明であると信じている人の論理もまた、転向の論理と同じであると問題にしているのだと思います。
ある論文で読んだことがあるのですが、佐野学が転向した理由と同じことを警察官が述べると、逮捕され取調べを受けていた若い学生や活動家もまた、それまで信じてきた社会主義・共産主義の理想から外れて、佐野の主張する新しい理論に反応し、それに引き寄せられていったというのです。頑なに転向を拒む者に対しては、拷問とリンチという方法が用いられますが、追随者に対しては、決して押し付けることはなかったようです。むしろ、自然に受け入れさせることができたのです。それは挫折や屈服、裏切りという感情ではなく、正しいものに導かれたという感情だろうと思います。
(4)大衆的孤立を忌避する傾向としての転向の特徴について
転向の特徴として、鶴見さんが上げているもう一つの特徴は、大衆からの孤立の感情です。1945年までの15年にわたる戦争は、本格的には1933年の満州事変から始まりましたが、満州事変を日本国民はどのように捉えたでしょうか。戦争の恐怖と捉えたでしょうか。いいえ違います。熱狂的に歓迎したのです。社会主義・共産主義は、インターナショナリズムなので、資本家階級による国内外における経済的搾取と他国に対する軍事的侵略と植民地化に反対しました。それは何よりも国民の利益のため、人民に利益に奉仕するためでした。しかし、その国民が、満州事変を歓迎したことを日本共産党の活動家はどのように感じたのでしょうか。国民から孤立している、家族からも孤立していると感じたようです。日本のために、日本国民のために、出世の道を投げ打って共産主義運動に身を投じたにもかかわらず、国民から浮き上がっている。国民は自分たちを見ていない。彼らは違うものを見ている。それは、天皇であり、日本の政治であり、日本の歴史であり、日本の文化と伝統を見ている。社会主義・共産主義の理想を実現する運動を見ていない。ヨーロッパから輸入されたマルクス主義の理論など眼中にはないとった感じです。
共産主義者たちは、次のように感じたのではないでしょうか。自分は、共産主義の理論だけを見つめ、追い求めてきた。その過程において、国民が見ている日本的なものをあえて見てこなかった。避けてきた。古くさい、時代遅れのものを見る必要などないと思っていた。しかし、あらためてそれを見ると、ヨーロッパの理論にはない奥行きの深さ、きめ細かさ、全体を包み込むような包容力があることに気がついた。そんな心境になったのではないでしょうか。そのような思いを抱いたときに、自然に共産主義から離れ、天皇制を頂点に置いた日本の伝統に引き寄せられていったのではないかと思います。多くの日本国民は、そのような理論的な考えに基づいて天皇制を信奉したのではないと思いますが、一度はヨーロッパの進歩的な思想を身につけた者が、そこから離れて、他の思想に引き寄せられていくとき、ヨーロッパの思想よりも、強く、清く、正しく、信頼のできるものでなければなりません。そうでなければ、エリートは自分自信を説得することはできないでしょう。ある一つの大きな理論体系に基づいて考え行動してきた者が、そこから離れて、他の考えと行動に移るときには、以前よりも大きく、以前よりも荘厳な理論体系に基づかなければならないでしょう。彼らは、転向するにあたって、そのような理由を探し求めたのだと思います。佐野は、自分自身を説得できる根拠を探すことができたので、転向できたのだと思います。笑ってはいけません。佐野は、日本の歴史、伝統、文化は、共産主義の理論よりも説得力があると実感したことを、笑ってはいけません。マルクス主義のような科学的な理論体系よりも「納得できる」、「腑に落ちる」、「分かり合える」ものがあたっということです。
こんなエピソードがあります。佐野が転向声明を発表した1933年、愛媛の松山にある拘置所に学生の共産党員が、治安維持法違反の容疑で収容されていました。拘置所という所は、犯罪を行なった疑いのある者を収容する場所です。おそらく松山の高校生か、どこかの帝国大学の学生だと思います。天皇制反対という政治的要求を主張したために、容赦なく治安維持法が適用され、逮捕され、拘置所に収容されたのだと思います。そこは、孤独な闘いの場です。転向すれば、釈放してもらえる誘惑にかられます。誘惑との闘いは、自分の弱さとの闘いです。誘惑に負けるということは、自分に負けることを意味します。拘置所では、「絶対に負けない」という信念から闘いが始まります。闘いは、長期に及びます。しかし、その学生は転向しました。自分との闘いに敗れました。なぜでしょうか。拘置所の窓から見える、朝のすがすがしさ。夕暮れとともに沈む夕陽のものがなしさ。四季の移ろい。独房の木造建築の柔らかさ、あたたかさ。これらのことを体感したとき、そこに永遠の真理があると達観したのです。理論ではなく、体験こそが、真理へと到達する確実な道のりであることを知ったのです。これまでは、分厚い書物を、しかも欧米の言葉で書かれた難解な書物を読み、そこから知識を吸収してきました。そこに真理が書かれている。そこに社会発展の法則が書き表されている。それを読み、頭で理解する。そのような作業を続けて来ました。しかし、それは日本の風景の前には、あまりにも稚拙なものでしかなかった。欧米の知識人が頭で考えて、作り出した理論の体系は、それはそれでよい。社会発展の法則に従って、世の中を変えてみせると意気込むのは、それはそれで理解できることである。しかし、日本という国は、どういう国であるのか。日本人とは、どのような人間であるのか。日本人とは、欧米の知識人とは違い、この国に、この社会に、この風土と自然に従って、その運命を受け入れる。それこそが、日本人の生き方である。松山の学生は、そのように悟ったのです。この日本人として歩み道を無視して、やれ社会を変革するとか、やれ人民を解放するなどと主張しても、空回りするだけ。誰も振り返ってくれない。このように実感したのだと思います。
1930年代の日本のイデオロギー状況を考察する場合、そこには戦争という大きな問題があります。戦争の時代には、言論が抑圧され、報道の自由もなく、多くの人々は不本意に戦争政策に協力せざるをえなかった、自分の力ではどうすることもできなかった。政治の大きな力に引き込まれてしまった。このようにな議論をよく耳にします。「仕方なかったんだよね」。「でも、今の時代は自由な言論が保障されているから、大丈夫だよね」。このような会話も聞こえてきそうです。しかし、大きな力に抵抗できなかったというのでしょうか。抑えられて、不本意に従ったのでしょうか。違うと思います。不可抗力という理論的枠組だけでは、転向の全てを論じつくすことはできないと思います。自発性、悟り、覚醒というような心的現象もあったのではいかと思います。1930年代の後半から、戦争へと向かう社会的雰囲気が強まったときに、穏健な人々、特にイデオロギーを意識していない人が、時代の流れに沿うようにして、「始めた戦争は勝たねばならない」と主張し始めました。そのような人々は、いつの時代においてもいます。しかし、問題なのは、天皇制の対極に位置し、天皇制に反対していた共産主義の運動家が、天皇制に引き寄せられ、最終的には中国に対する全面戦争を正当化していった理由を明らかにすることです。政治的イデオロギーを持たない人の思想的な揺れ幅はそんなに大きくないと思います。しかし、共産主義運動に関わっていた人の場合、大きく「左」から「右」に揺れるというか、「ここにいる自分」が「あちらの側」に行ってしまうという事実のなかに、戦時期の日本人の精神史の固有の問題があるように思います。意見や考えを変えるというのは、誰にもあることですが、転向の現象と原因は、他にはない日本固有の問題ではないかと思います。鶴見さんは、そのように見ていると思います。
(5)転向を支える精神史は現代にも続いているか?
このような日本固有の精神史の現象をカナダの学生が興味をもって考え、学んでいるようです。驚くべきことです。私たち日本で生まれ育った者が、このような問題に興味を持っているでしょうか。私は、職業柄、このような問題を考え、頭の中はこの種の問題でいっぱいですが、私のような人間は例外的なのではないでしょうか。私は、皆さんも例外的な存在になり、この問題を考えて欲しいと思っています。
鶴見さんも述べているように、転向の問題を考えるのは、戦争に反対していた人たちが戦争に賛成する側に回った、絶対主義的天皇制に反対していた人たちが天皇制を支持し始めたという方向転換のなかに、日本精神史の重要なテーマがあるからです。それは、転向した人を責めるためではありません。戦前・戦中に転向を拒否し、自己の信念を貫いた政治家がいました。拘置所で、獄中で、拷問されながらも、転向を拒んだ人は、信念の人です。それは非常に立派だと思います。戦後直後、多くの日本人が、転向を拒否し続けた精神の強さに感動し、それを支えた理論的確信の強さに憧れました。しかし、そのように考えてしまうと、転向した者は精神的に弱かった、理論的確信が足りなかったと総括されてしまいかねません。「転向したこと」と「理論的確信がなかったこと」は、イコールでしょうか。「転向せずに、不屈に闘ったこと」と「理論的に正しかったこと」もイコールでしょうか。そのようなことも含めて、転向と呼ばれる1930年代の精神現象には、まだまだ考えなければならないことがあるように思います。すでに多くの研究者がこの問題を考察しています。カナダの学生と同じように、あるいはそれ以上に、私たちもこの問題に向き合う必要があるように思います。
次回は、第3章「鎖国」を検討します。
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