鶴見俊輔との対話――『戦時期日本の精神史』を読む(05) - Rechtsphilosophie des als ob
鶴見俊輔との対話――『戦時期日本の精神史』を読む(05)
2015-10-17 | 日記
鶴見俊輔『戦時期日本の精神史 1931~1945年』ノート
第05回 大アジア
はじめに
日本は、海の囲まれた島国です。それは、鎖国性を作り出した地政学的な要因の一つです。しかし、それだけに海の向こうに広がる大陸への憧れは非常に強かっただろうと思います。あの海の向こうには何があるのだろうか、と誰もが一度は思いながら、夕日を見つめたことがあるのではないでしょうか。
その思いや憧れにも様々なものがあるでしょう。大陸、とくにアジアに対する思いは、1931年から1945年までの15年間、複雑な形をとりました。ときには、「大東亜」という言葉で語られ、またあるときには、「大アジア」という言葉で表されたりしました。そこには、侵略の野望だけでなく、平和に生きる共同体の理想も同時に込められていました。15年間の戦争時代を冷厳に見つめ、未来の歴史を志向することが必要ですが、その時代にも平和的な共同体を志向する思想と努力があったのならば、今日的にも学びとれるものがあるのかもしれません。
(1)「大アジア」から「大東亜」へ
明治維新より前、中国が清の時代にイギリスと戦争していたアヘン戦争の時、イギリスの不当な貿易相手国として選ばれるのは、次は日本ではないかと危機感が持たれました。アジアが欧米の帝国主義国から距離を置き、平和な国際環境のなかで平和に生きていくことができるのであれば、それは中国だけでなく、日本や朝鮮にとって良いに越したことはなかったのです。大陸、とくにアジアに向けられた目には、アジア全体の平和と繁栄という未来像が映っていたのかもしれません。しかし、このようなアジア観、大陸観があったにもかかわらず、多くの知識人がアジアの問題、アジアの諸国間の関係について、あまり関心を持たず、遠く流れたヨーロッパの科学と思想に引かれていったのは、今から考えれば、不幸な時代の原因だったのかもしれません。福沢諭吉しかりです。彼らは、アジアからではなく、ヨーロッパから学びました。それは、ヨーロッパが当時の日本やアジア諸国の文化・技術をはるかに凌駕する水準に達し、日本がそれを学ぶことなしには、欧米諸国と互角な関係を築くことができないと感じたからだと思います。アジアではなく、ヨーロッパに目が向いたのは、その意味では、やむを得なかったことでした。
しかし、欧米から多くを学んだ知識人が、再びアジアと日本に目を向けたとき、そこに見えたのは、余りにも遅れた東洋の国々と日本であり、封建的な身分関係に固執していた中国と朝鮮でした。知識人は、遅れた日本を、そして遅れたアジアを文明国にするために、欧米から学んだ知識を普及しなければならない、自分達がそれをしなければならない、その資格と使命が自分達にあると自覚しました。他の国の科学・思想、文化を学び、それを他人に伝えるというのは、容易なことではありません。歴史も違えば、文化も違います。宗教も違います。土着のものには、それなりの理由があります。新しい異質なものとの共存は、簡単にはいきません。ある文化と他の文化が、例えばクリスマスと正月が、対等平等な関係にあり、並列的で、別次元にで執り行われるならば、問題は顕在することはないのかもしれません。しかし、そこに上下関係・優劣関係があるならば、話は違ってきます。1931年以降の中国に対する対外政策は、実際には戦争という形で進められながら、理念的には大東亜共栄圏の樹立という理由によって正当化されました。そこには、進んだ西洋文化を摂取した日本の覇権的な態度が現れています。太平洋戦争が始まる直前の1940年の時点で、当時の近衛内閣の外務大臣だった松岡洋右は、1931年以降の中国政策を次のように説明しました。ここに日本的な覇権の特殊性というか、巧妙さというか、何となく付いて行けそうなところがあります。
われわれの現在の政策は皇道の偉大な精神に基づいて日本、満州国および中国を結びつける大東亜共栄圏を樹立することにあります。……大東亜共栄圏のなかに仏領インドシナと蘭領インドを含めることは当然であります。
皇道の偉大な精神。神秘的で非合理的な響きの言葉です。日本、満州国および中国を結びつける大東亜共栄圏の樹立。壮大なスケールの国家的・歴史的なプロジェクトを想像させます。そこには、東南アジアの諸国、ベトナムやラオス、インドネシアなども含まれ、東アジアから東南アジア、日本を起点にアジア大陸の西側前域が大東亜共栄圏のエリアに入っています。人によってはウキウキする構想だろうと思います。その後、1937年には、いわゆる日中戦争が始まりました。対中国に対する全面戦争のなかで、日本は満州、中国、さらにはフランスが植民地にしていたベトナムとラオス、オランダが植民地にしていたインドネシアに進んで行きます。それが大アジアの平和的な共同体を志向するものであったとしても――現実にはそのようなものではなかったのですが――、その勢力圏に中国・満州だけでなく、ベトナム、ラオス、インドネシアなども含まれる以上、フランス、オランダのアジア植民地政策を排除することなしには不可能であり、かりに排除しえても、北方から南進を狙うソ連との関係、インドを植民地にしていたイギリスとの関係、フィリピンにいたアメリカとの間において、さらに緊張関係が高まることは十分に予想されます。つまり、平和的なアジア共同体を建設するにしても、またアジア全域を日本の勢力圏に収める覇権の野望を実現するにしても、ソ連との関係、英米との関係をどのようにするかという問題は、緊急の課題であったということです。満州事変を起こした関東軍の参謀将校であった石原莞爾は、東亜連盟の構想を持っていました。日本が大東亜を建設するにあたって、いずれはソ連と含む西洋帝国主義と衝突することは最終的に避けられないため、中国との戦争を早く終結させなければならない。石原は、そのように考えました。そのために、東亜連盟を作りあげなければならない。東亜連盟を作るためには、中国を植民地にするのではなく、中国・満州に国家主権があることを前提にして、それらとの対等平等な関係を作らなければならない。東亜連盟とは、国家間の対等平等な関係の上に作られる。石原は、このように東亜連盟を構想していたようです。
後藤隆之助(ごとう りゅうのすけ 1888-1984年)という政治家がいました。彼は、1936年、昭和研究会という組織を設立しました。彼は、当時の日本の状況をどのように見ていたかというと、世相は徐々に軍国主義に向けて地盤が崩れ始めている。崩落すると、一挙に加速してしまう。なんとかして、それに一定の歯止めをかける必要がある。当面する日本の課題は、そこにある。そのためには、思想と党派を超えて協力し合わなければならない。後藤は、そのように考えたといわれています。軍国主義を弱め、中国や満州国との同盟を強化することによって、ソ連や英米との戦争を回避することができたのであれば、当時としては結果的に現実的な政策ではなかったとしても、今日的には「ありえた政策」として考察の対象にはなります。この時期は、すでに日本共産党やマルクス主義者は弾圧を受けていましたが、自由主義系の学者やマルスク主義系の学者はまだ活動の余地がありました。後藤は、彼らをも招きいれて、日本の対外的な政策について検討を始めました。それが昭和研究会です。日本の軍事政策に対して、強固に反対すると、再び厳しい弾圧を受ける危険性があります。それに対して弾力的に柔軟に対応し、ベターな政策を提示するならば、たとえマルクス主義系の知識人であっても、まだ活躍の場があったようです。しかし、昭和研究会は、結果的には戦争を回避することができませんでした。それは、中国、満州国との間に東亜連盟を結成しても、戦争状態が終結するような状況ではなかったからです。ベトナム、インドネシア、フィリピンに大東亜を拡大することは、オランダや米英との戦争を避けがたいものにしました。
(2)尾崎秀実の東亜連盟構想
石原莞爾は、英米の帝国主義との衝突を避けるために、日中戦争を長引かせてはいけないと考えていました。早期に事態を収拾するために、東亜連盟を構想していました。この構想は、昭和研究会の後藤隆之助の考えと同じものかどうかは分かりませんが、英米・ソ連との戦争を回避するという点では共通していると思います。しかし、石原の関東軍における地位が不安定になるにつれて、また後藤をブレーンとしていた近衛文麿から東条英機へと首相に変わるにつれて、中国・満州国との対等平等な関係を作ることは難しくなっていきました。むしろ、日本中心の東亜連盟の構想に変わっていったようです。それが、いわゆる大東亜構想であり、先に見た1940年の松本洋右の声明に現れています。日本中心とは、「皇道の偉大な精神」に基づいたアジアの統合です。ここに、西洋の文明国家から科学と思想を学んできた日本が、アジアの中心になるという覇権的な考えが現れています。大まかに言うと、理念的なアジアの連盟構想から、現実的な大東亜共栄圏構想へと変化・変質していますが、その契機になったものが何であったかを現在の時点からさかのぼって明らかにする必要があります。
日本と中国の友好関係を基礎にしてアジアを統合する構想は、石原莞爾や後藤隆之助だけではなく、他の知識人によっても主張されていました。尾崎秀実(おざき・ほつみ)もまたそうです。尾崎は、近衛内閣の参謀メンバーとして活躍したジャーナリストであり、思想的には共産主義者として数え上げられています。とはいえ、日本共産党の党員ではありません。また、コミンテルンとも連絡をとっていません。いわば、尾崎は一個の独立した共産主義者であったということです。彼は、1937年に近衛内閣が誕生して以降、近衛に対して政策提言を行ない、またそれに相応しい人物を仲介するなどして、政策ブレーンとしての役割を担っていました。また、ジャーナリストとしては、ドイツ人新聞記者のリヒャルト・ゾルゲと緊密な連絡をとっていました。日本の警察は、ゾルゲはソ連から送られてきたスパイであると見られていたので、逮捕し、尾崎もまたその共犯として、近衛の失脚後に逮捕しました。この2人は、1944年に死刑に処せられました。
尾崎が近衛内閣のブレーンになったのは、どのような目的があったからでしょうか。また、なぜリヒャルト・ゾルゲと緊密な連絡をとったのでしょうか。ゾルゲがソ連のスパイであったならば、尾崎の目的は、内閣や政府の情報をゾルゲを通じて、ソ連に通報することであったと考えられます。日本の警察の目を欺くために、あえて日本共産党に属さず、またコミンテルンとも連絡をとらずに、妙なスパイ活動を続けたといわれても仕方ないでしょう。しかし、尾崎がゾルゲと関係していても、その面からだけで評価してはいけません。大アジア主義の論客としての尾崎の役割は、鶴見さんによれば、決して単なるスパイなどではありません。彼は、共産主義者でしたが、同時に民族主義者でもありました。彼は、アヘン戦争以降、日本の知識人の意識の中にあった課題、すなわち英米やソ連などの西洋諸国から日本を守る方策を考えていました。そして、日本人は、西洋および日本の帝国主義のクビキから自らを解放しようとしている中国人と力を合わせなければならないとの結論を得ました。これは、大まかにいえば、1930年代の日本共産党の基本路線と共通していますが、決定的な違いは天皇制の評価にあります。尾崎は、日本の支配構造に関して、コミンテルンの判断や指令からは自由な立場にありました。彼は、共産主義運動の基本的な方向性は、日本の財閥と軍閥との結合体と闘争することにあると考え、その闘争において天皇制は二義的な位置付けしかない(飾りである)と考えていました。どういうことかというと、日本を支配しているのは独占資本であり、軍閥は彼らに後押しされて台湾・朝鮮に進出し、中国をも支配下に置こうとしている。それを止めさせるためには、大衆的な労働運動を強化して、そこにおいて共産主義者の影響力を強めて、独占資本の支配に対する労働者階級の抵抗力を強化しなければならない。それと同時に日本の中国侵略の本質を暴いて、それを止めさせる必要がある。このように主張していました。中国侵略の本質については、日本国内における宣伝だけでなく、諸外国における宣伝などを通じて、国際的な世論に訴えました。その闘争において、天皇制との闘争が二義的であたっというのは、理由としては二つ考えられます。一つは、天皇制反対とか、国体の変革というスローガンを掲げただけでも、治安維持法が容赦なく適用されました。もはや天皇と国体については、顕教の教えが圧倒的に支配していた時代なので、それに従わざるをえなかった実情があったと思います。また、天皇制との闘争なしに社会を変革することは不可能だと考えて、そのスローガンを掲げたならば、抹殺されることを覚悟しなければならず、そのような闘争方針が果たして実のりのある成果を生み出すのか、懐疑的であったのではないかと思います。もう一つの理由は、天皇が「飾り」に過ぎないという認識にも現れているように、明治憲法のもとで天皇は国家権力を掌握する地位にありましたが、実際には官僚が政策を立案し、帝国議会がそれを決定し、天皇が承認するという手続が踏まれていた、つまり天皇は独占資本や軍国主義勢力の支配のために利用されていたという認識がここにはあります。
戦前の日本社会の支配構造をめぐっては、いわゆる講座派と労農派の対立、共産主義者と社会民主主義者の対立があります。戦前戦中に労農派の理論家や社会民主主義者が、戦争に全面的に協力したことから、彼らは戦争への協力責任が問われました。講座派の理論家と共産主義者は、そのような協力をしなかったので、戦争責任が問われることはありませんでした。従って、戦争に対する姿勢という点では、共産主義者が正しかったといえます。しかし、そのことが天皇制打倒を政策的に掲げたことの正しさを証明する基準になるかどうかは、私には判断がつきません。尾崎のような立場は、ありえなかったのでしょうか。正しい政策を貫こくためには、天皇制打倒を掲げるしかなかったのでしょうか。もしも、尾崎のような立場もありえたならば、理論の実践は、状況に応じた柔軟さが必要であったと思います。昭和研究会のような構想に可能性があったかどうか。英米やソ連との戦争を回避するために、中国との戦争を早期に終わらせるための構想として意義があったのか。これは非常に難しい歴史の問題です。
(3)戦時中の日本とアジア諸国の関係
1931年から1945年までの15年間は、鶴見さんによれば、中国に対する戦争からアメリカに対する戦争までを含みます。この戦争を「太平洋戦争」と呼ぶ人もいれば、「大東亜戦争」と呼ぶ人もいます。なかには「アジア・太平洋戦争」と名付ける人もいます。戦争の名称は、後の歴史家がつけるので、それを開始したときに、「~~戦争と呼びましょう」とは言わないと思います。鶴見さんは、「15年戦争」と呼んでいますが、一般には「太平洋戦争」と呼んでいるのではないかと思います。しかし、「太平洋戦争」という名称は、戦後になってアメリカが用いた名称であり、15年間の戦争を主として太平洋で戦われた日米戦争の部分だけを指しています。そのため、その全体を正確に捉えることができない弱点があるように思います。日本は、アメリカとの講和条約を結びましたが、ソ連や中華人民共和国はその条約に入らなかったため、ソ連や中国と戦争をし、敗北したという歴史認識が希薄になっています。従って、15年の戦争のアメリカと決戦をした最後の5年間に目が奪われるために、日本がその前後の時期にアジア諸国に対して、どのような対応をとったのかということが、問題として浮かび上がりにくくなっているように思います。
例えば、近衛内閣の後を受けて成立した東条内閣は、石原莞爾や後藤隆之助のように、また尾崎秀実のように独自のアジア構想を持っていたわけではなかったのですが、フィリピン、インドネシア、タイ、インド、中国、満州国の指導者を東京に招いて、大東亜会議を開催しました。参加者は、日本政府が進める戦争の目的に対して消極的でしたが、それを自国の独立を進めていく機会として活用しようと考えていました。私は、この事実に2つのことを感じました。1つは、アメリカとの戦争に突入した時期の日本のアジア対応が、話し合いを通じて、アジアの連携を図っていこうとしているように見えることです。民主主義的とは思いませんが、戦争の真最中に、アジア諸国の指導者を東京に集めて会議を開いているというのは、やはり一定の連合体があったことをうかがわせます。しかも、日本の戦争が後にアジア諸国への侵略戦争と呼ばれるようになっただけに、事態を多面的に見る必要性を実感させますす。もう1つは、その会議の出席者が、日本の戦争に対して消極な態度をとりながら、自国の独立のために活用しようと考えていることです。日本の戦争を自国の独立のために活用するというのは、言うまでもなくイギリス、フランス、オランダなどの西洋諸国の植民地支配から独立するためです。その達成のために日本の戦争を活用するというのは、日本の戦争目的が政府の主観的な意図はどうあれ、客観的にはアジア諸国の独立のきっかけになりうるものであったことを表しています。従って、15年戦争を全体として見るときには、日本がアメリカと戦争を行なって敗北したという部分だけでなく、それに先立つ西洋諸国の植民地政策がアジアにおいてどのように展開されていたのか、中国においてはどうか、インドネシアやベトナムにおいてはどうか、といった史実を踏まえ、そのことと日本政府の戦争目的とがどのような関係にあったのかを知る必要があります。歴史認識としては、日本が一方的に中国や東南アジア諸国を侵略し、大東亜共栄圏を作ろうとしたが、それが米英、ソ連、中国に敗れたというのが一般的であり、欧米の植民地政策からアジア諸国を解放しようとしたと認識するのは間違いであるように言われていますが、日本と欧米諸国との関係はどうであったのか、このままでは日本もまた植民地にされてしまう危険にさらされていたのかどうか、その予防線を張るために一定の対外的な政策を講ずる必要――それが大東亜共栄圏のを構想である必要は必ずしもありませんが――はなかったのか。東条内閣の大東亜会議を踏まえて、いくつかの視点から史実をトータルに見ていく必要性を感じます。
もちろん、日本の戦争目的を善意で解釈することは許されません。ビルマ、現在のミャンマーのバー・モウは、戦後になって日本政府の戦争目的が日本中心であったこと、しかも日本の利益・利害を重視し、全ての国に満州国や朝鮮と同じ様になることを求めたことを冷ややかに回想しています。他方で、日本国民に対しては肯定的な評価をしています。歴史を振り返って見ると、白人の支配からアジアを解放するために、これほどのことをした民族は他にいない。しかし、日本政府の戦争目的と手法がアジア諸国に受け入れがたいものであったために、日本人は誤解されたのだ。このように評価しています。15年戦争の全般的な評価としては、台湾、朝鮮、中国において日本政府が行なったことを抜きに語ることはできませんが、それを含めて、史実に基づいて検証していくならば、ビルマの指導者のような評価が意外なものなのかどうかを正確に見る必要があります。鶴見さんが指摘しているように、結果によって判断するならば、日本政府の活動は、やがてアジア諸地域に解放と自由をもたらしたと見ることもできるからです。しかし、見誤ってはならないのは、ビルマやフィリピン、インドネシアの独立が、いつ、どのようにして達成されたのかということです。日本政府がこれらの地域に対して軍事上の影響力を行使したときに、イギリスやオランダなどからの独立が達成されたというのであれば、日本が行なったことに一定の肯定的な側面もあるといえるのかもしれません。しかし、軍事的な影響力が弱まっていく中で独立を勝ち取ったというのであれば、そのように肯定的に評価することは難しいように思います。
戦前の知識人の大アジアという観念には、軍部が求めたアジア諸国への軍事的覇権や大東亜共栄圏や樹立とは異なる側面がありました。それは、中国におけるアヘン戦争期に日本を含むアジア全域を西洋の帝国主義から守るために、アジアを平和的に結束するという発想です。結果的に日本がそれを壊してしまいました。そのような平和的な発想を持ち出して、15年戦争において行なったことを正当化することはできません。それは冷厳な事実として見る必要があります。
(4)「大東亜」から「大アジア」へ
大東亜という言葉だけでなく、大アジアという言葉も、今日ではあまり使われません。日本がアジア諸国に戦争を仕掛けた国であったという事実は、日本にそのような構想を持たせることを禁じてきたように思います。それは、日本が経済的に発展し、アジア諸国と経済的に緊密な関係を作るようになっても、そう簡単に口に出せる構想ではないと思います。
とはいえ、世界は地域ごとにまとまりを見せ始めています。ヨーロッパであれば、政治的・経済的にフランスとドイツを中心にしてまとまっています。太平洋地域であれば、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ベトナム、フィリピンなどが環太平洋における経済協力を推進しようとしています。そこに日本が入っていくことになりましたが、今後の動きに注目しなければなりません。では、アジア地域では、一定のまとまりがあるでしょうか。東南アジア諸国連合・アセアンのまとまりは、他の地域にも影響を与えています。アセアンを一国としてみたとき、世界第8位の経済力を誇るほどまで発展しています。
では、東アジアはどうでしょうか。中国、台湾、韓国、北朝鮮、そして日本のまとまりはどうでしょうか。はっきり言って、まとまるという以前に、まともに話し合いができる状況にはありません。ヨーロッパやアセアンを見る限り、隣接した国と地域がまとまり、結束することによって、経済的な協力と発展が促され、その結びつきが平和と安定を維持するきっかけになっていることを知ることができます。日本と中国、日本と台湾、日本と韓国、日本と北朝鮮との間には、そのような結束はありません。それを阻んでいる要因が何であるかを考える必要があります。
近年、中国、韓国との間で歴史認識の問題がクローズアップされています。中国や韓国は、首相の靖国参拝問題を取り出して、日本の戦争責任問題が過去の問題ではないことを主張しています。また、史実の問題としても、中国は南京事件を、韓国は日本軍慰安婦問題を取り上げ、日本政府を厳しく批判しています。とくに韓国の謝罪と賠償を求める運動は、国連人権委員会などの場でも展開されています。南京事件は、2015年、ユネスコの歴史記憶遺産に正式に登録されました。このような状況に対して、保守派の論客のなかには、石原や尾崎の大アジア構想を持ち出して、戦争中に日本が行なったことのなかにも、肯定的に評価できることもあると主張するものもいます。良いことを行なったことまで否定され、日本の名誉が傷つけられてはならないと、憤慨し、嘆く人もいます。このような状況を目の当たりにすれば、東アジアの結束のためには、いくつかの困難を超えていかなければならないと思わざるをえません。
しかし、私には、東アジア諸国の結束を阻んでいる要因は、このような歴史認識問題ではなく、経済問題があるように思えて仕方ありません。中国も韓国も、日本の経済システムを模倣して、近代化と経済発展を遂げてきました。韓国は1990年代以降、中国は2000年代に入ってから、目まぐるしい経済成長を遂げてきたのは、多くの人の知るところです。中国と韓国の経済システム、主要産業が日本の輸出産業と競合しているために、国家間において競争が激化しています。韓国の経済が伸びれば、日本が落ち込んで行くといっか関係があります。第2次安部政権以降、急速な円安傾向が続いています。日本の輸出産業は空前の収益を上げています。自動車、家電産業などは、ようやく経済復興のチャンスが来たと歓迎しています。それは同時に韓国産業の原則を伴います。歴史認識の問題は、そのような経済競争において、日本に譲歩をせまるために持ち出されているような気がしてなりません。もしそうであれば、東アジアの結束は、経済構造の面において困難であるのではないかと思います。最近の政府の外交政策が、東南アジア、インド、中東、アフリカ諸国、南アメリカ諸国を包括するように展開され、そこから中国と韓国がすっぽり抜け落ちているのは、経済的に激しい競争関係にあるからです。ロシアとの関係は非常に難しそうに見えます。日ロの外務大臣の会談などを見ていますと、領土問題の解決のための交渉など不可能としか思えません。しかし、私は、「けんか」の状態は「話し合い」と「仲直り」のためにあるように受け止めています。その関係が好転すれば、東アジアの構想は、緊急に必要なものではなくなっていく感じもします。現在進行形で動いている問題であり、目が離せません。
次回は、第6章「非転向の形」を検討します。
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