2017-01-06

鶴見俊輔―『戦時期日本の精神史』を読む(09) - Rechtsphilosophie des als ob



鶴見俊輔との対話――『戦時期日本の精神史』を読む(09) - Rechtsphilosophie des als ob







鶴見俊輔との対話――『戦時期日本の精神史』を読む(09)
2015-11-06 | 日記
 鶴見俊輔『戦時期日本の精神史 1931~1945年』ノート
 第09回 玉砕の思想

 はじめに
 鶴見さんは、ホワンチュンミンの『さよなら・再見』という台湾人作家の小説をもとに、興味深いことを指摘しています。それは、戦争中の記憶を呼び覚まされることが、戦争を体験した日本人にとって、都合の悪いこと、できれば心の奥底に閉じこめておきたいこと、ふれられたくないことであり、日本人の意識のなかにこのような潜在的な願望があることを指摘しています。

 例えば、戦後生まれの人が、戦争の経験者に対して、「あなたは、あの戦争に対して、どのような態度をとりましたか」とたずねると、様々な答えが返ってきます。「あの戦争を侵略戦争だと主張する人がいるが、イギリス、フランス、オランダが19世紀にアジアで何をやったか知っていますか。中国が、ベトナム、ミャンマーが、インドネシアが植民地にされ、次は日本の番だと、狙われていたんです。欧米が行なった侵略に対して抵抗した日本が、なぜ侵略者扱いされなければならないのでしょうか。日本は、欧米のアジア侵略に対して抵抗したアジアで唯一の国でした。私は、この事実を誇りに思っています」。このような主張は、戦争の正当化論として批判されています。今日では保守派の論客の主張だと言われています。また次のような答えが返ってきます。「当時、戦争はよくないと誰もが思っていました。しかし、戦争に反対すると刑務所に入れられる時代でした。この時代に力のない1人の人間ができることは限られていました」。このように厳しい時代の厳しさをそのまま語る主張に対しては、抵抗できなかったのはやむを得なかったのではないかと同情する議論もあります。

 このようなやりとりは、内容が若干異なるとはいえ、戦後の日本だけではなく、ドイツでも見られたことです。よく聞かれるエピソードですが、ある少年が、背中に大きな傷跡のある祖父に、その理由をたずねました。祖父は、なかなか答えようとしません。それでも、繰り返したずねました。すると、祖父が重い口を開いて、自分は戦争中に共産主義運動に関わり、ナチスが政権をとってからは、そのような活動は不可能になったが、家の中ではヒトラーの政策に大きな問題があること、共産主義者に対する弾圧、ユダヤ人や障害者に対する迫害のことを家族に話していました。ある日、警察がとつぜん家の中に入って、祖父を逮捕し、拷問を加えました。背中の傷は、そのときに受けた拷問の跡です。少年は、なぜ逮捕されたのか、誰が密告したのかをたずねましたが、祖父は答えてくれませんでした。しかし、ある日、少年は学校の歴史の時間に、ナチの時代には共産主義者やユダヤ人を密告することが奨励され、それは家族の場合でも同じであったことを教わりました。少年は、もしかすると父親が祖父を密告したのではないかと疑い、家に帰って祖父にたずねました。祖父は、「当時、密告はよくないと誰もが思っていたが、ナチスの政策に反対すると刑務所に入れられ時代だった。反対者がいることを通報しない者も同じように扱われた。力のない1人の人間ができることは限られていた」と答えました。自分の父親が祖父を密告した事実、戦争の悲劇が、家庭のなかで起こっていたこと知った少年は、父親が行なった行為を許すことができず、父親と疎遠になりながら、思春期を過ごしました。多くの戦後生まれのドイツ人が経験したことです。戦争は1945年に終わりましたが、その影響は続いています。しかも、背中の傷跡のように、家族のなかで今でも続いているのです。

 ホワンチュンミンの『さよなら・再見』に出てくる、戦争を体験した日本人の息子の世代、それは戦後生まれの日本人ですが、その世代とドイツの戦後世代とを比べると、戦争の受け止め方に大きな違いがあることが分かります。日本人は、どちらかというと、過去の時代に国家が行なった痛ましい悲劇として受け止めますが、それは必ずしも自分の問題には直結してはいません。しかし、ドイツ人の中には、祖父と父親の関係の問題、そこからつながえる自分の問題として受け止める人もいます。それゆえ、戦争に対する向き合い方も、また反発の仕方も違ったものになります。

(1)戦争の勝敗の論理と正当性と論理
 鶴見さんは、第二次世界大戦のドイツについて、興味深い指摘をしています。第二次世界大戦の軍事史の研究者によれば、日本は、第二次世界大戦において、ドイツと軍事同盟を結ばなければ勝利するtこはできなかったと言われています。1939年、ドイツがポーランドを侵略して、その西半分を分割統治しますが、東半分はソ連が分割します。また、ドイツはフランスを制圧して、西へと進んで行きます。この時点で、ソ連はドイツと不可侵条約を結んでいますので、東からソ連が攻め入ってくる可能性はなく、アメリカもまだ参戦していません。軍事史家のリデルハートによれば、この時点でヨーロッパでドイツに対抗しているのはイギリスだけであり、ドイツがイギリスに対して上陸作戦に踏み切っていたならば、イギリスを征服できたかもしれないといいます。しかし、ドイツが西側に進み、海峡を超えると、東側が手薄になり、ソ連の進撃が予想されます。従って、ヒトラーは、イギリスに攻め入るために、先にソ連を撃破しておく必要があると判断し、不可侵条約を破ってソ連に攻めて行ったわけです。ドイツがそうせず、イギリスに攻め入っていた場合、ソ連がどのような態度をとったか分かりませんが、ドイツがイギリスに勝利したならば、アジアにおけるフランスとイギリスの植民地の解放も加速し、残っているのはオランダとアメリカだけであり、中国と東南アジアにおける戦況にも影響を及ぼしたにちがいないありません。

 しかし、現実はそのように推移しませんでした。1941年、ドイツはソ連に攻め入ります。同じ年、日本はアメリカに宣戦布告します。ドイツは、西ヨーロッパにおける戦争にソ連を引き入れ、さらに日本はアメリカに太平洋での戦争に参戦するきっかけを与えました。ソ連が戦争終結の直前に日本に宣戦布告したのも、アジアでの日本の戦況が不利になり、そこに目を付けたからです。

 1941年12月8日、日本はアメリカ・ハワイの真珠湾に奇襲攻撃をしかけ、宣戦布告しましたが、宣戦布告することそれ自体は、9月の御前会議ですでに決まっていたようです。ただし、条件付きです。アメリカとの外交交渉が成功しない場合には、アメリカに宣戦布告して、戦争を始めることが予定されていました。日本はアメリカと何を交渉するのでしょうか。それは、アメリカが日本に対してとった禁輸政策を解除する問題についてです。現在もそうですが、日本は当時においても、物資やエネルギー、とくに石油を輸入に頼っていました。それが枯渇することは、日本の経済だけでなく、軍事にも影響します。当時の日本の石油の蓄蔵量は、中国に戦争をしかけ、東南アジアにも戦域を拡大させていたので、ものすごい速さで減って生きました。石油が枯渇すれば、戦争の継続はできません。なくなる前に、手を打たなければなりません。なくなる前に、アメリカの禁輸政策を解除させなければなりません。アメリカは、日本に対して満州国は承認するが、中国から撤退することを要求しました。また、ドイツとイタリアをヨーロッパ戦線で孤立させるために、三国同盟から離脱するよう求めました。日本がアメリカのこの提案を受け入れていたならば、宣戦布告は回避できたのかもしれません。しかし、日本はこの提案を拒否し、宣戦布告しました。日本は、エネルギーの面においても、また軍事力と工業力の面においても、アメリカにはかないません。英米中の3国と戦うことは無理です。しかし、宣戦布告したのです。それは、なぜでしょうか。日本精神と天皇の国体に対する信念があったからでしょうか。それとも、もう少し綿密な計画があったからなのでしょうか。私は、精神主義が日本を無謀な戦争に駆り立てたのではないかと考えていましたが、最近読んだ論文によると、合理的な判断と計算に基づいていたことが実証されています。

 ドイツがソ連に攻め入ったたえに、イギリスは西ヨーロッパでの戦略を転換し、後にノルマンディー作戦を展開するきっかけをつかみました。イギリスは、戦力をヨーロッパ大陸にシフトする必要があったので、東南アジアにおける日本との関係で力不足になりかけていましたが、日本がアメリカに宣戦布告したため、アメリカの協力を得ながら、アジアでの支配を継続することができました。ヨーロッパにおいて、ドイツが敗北したのは、アジアにおいて日本が敗北したのと似ています。それは、ソ連やアメリカを戦争へと引き込んだ戦略上の誤りがあったからです。少なくとも、軍事専門家はそのように分析していますが、一般にはそうではありません。戦争の戦略、戦力と兵器体系が敗北の理由ではなく、戦争の目的、理念が間違っていたからだと語られています。あるいは、侵略戦争、不正な戦争が敗北に終わることは、歴史の必然であったとも言われています。

(2)「正義の戦争」と玉砕の思想
 その後の戦況は、一般に知られているように、武器・燃料、食糧が枯渇し、東南アジアにおけるアメリカとの戦争で壊滅的な打撃を受け、沖縄での地上戦へと向かいます。このように追い詰められたときの日本人の精神状況は、どのようなものだったのでしょうか。軍事的に劣勢に立たされている原因を明らかにし、そこを立て直すといった対応は客観的に不可能でしたが、そのような発想さえなかったのではないかと思います。

 国民は、天皇陛下の忠実な臣民として、国体を護持するために、玉砕することも辞さない覚悟を持つべきであえると教え込まれていました。また、実際にも覚悟していました。教育勅語と軍人勅諭の二つは、天皇を神として崇め奉り、そのためには死をも覚悟することが日本国民の美徳であると教えました。それを疑う知識人は少数であり、批判は聞こえてきませんでした。なぜなのでしょうか。おそらく、それは正しい戦争を戦っているという認識があったからでしょう。もちろん、後から考えれば、軍事的に勝利する可能性がなかったことは明らかなのですが、戦争を行なっている段階では、勝てると思いこんでいた、信じていたということです。なぜかというと、正しい戦争を行なっていると認識していたからです。正しい戦争は勝利するという確信は、侵略戦争は必然的に敗北するという予見の裏返しです。

 戦局に関する情報が、大本営から一方的に提供されるだけで、しかもその情報も日本に有利な情報を誇張したものであったために、冷静に分析する目を持っていても、正確な分析はできなかったかもしれません。正しい戦争は必ず勝利するという思いによって、多くの国民が自己暗示にかかっていたようです。伊藤整が、アメリカに対する宣戦布告を聞いて、「我が知識階級――この感動萎えざらんが為に」という文章を書いて、英米に対する劣等感を克服しようとしました。そこには、長いあいだ英文学を学んで、進歩的な知識を摂取してきたことに対する劣等感とアジアでは日本だけが英米に対抗できるという優越感が複雑に入り乱れています。そして、開戦の日に英米に対抗し始めた日本に感動し、長い戦争の時代が日本の勝利とともに終わることへの期待がうかがわれます。1931年から続く暗い時代に、言論の自由が抑圧され、共産主義者が激しく弾圧されるのを横で見ながら、ようやくそれが終わろうとしている、その時に感じた安堵感は敗戦の予感ではなく、勝利の確信だったと思います。当時の京都大学の哲学者もまた、対米戦争の開始を耳にして、晴々した気持ちになった、、もやもやしていたものが吹っ切れたと述べてます。このような感情は知識人だけでなく、一般の国民も同じだったと思います。NHKの「おひさま」という連続ドラマのワンシーンにも、主人公が微笑みながら対米戦争の開始を聞きながら、ようやく戦争の時代が終わると確信いているシーンがあります。それと玉砕の思想とは、どのような関係にあるのでしょうか。この点が、鶴見さんの文章を読んで疑問に残ったことです。

(3)戦争の責任と運命の達観
 正しい戦争を行ない、戦局が良好であれば、玉砕の思想は出てこないと考えるのが一般的だろうと思います。しかし、多くの国民は、戦局が良好であると感じていなかったのでしょう。戦局に関する政府の見解やマスコミの報道を信用しながらも、どこかで疑っていたのではないでしょうか。始めた戦争の理由や責任は問わないにしても、とりあえずは勝利することによって終わってほしいと希望してはいたでしょうが、それが叶わなくても、仕方がないと悟っていたのではないでしょうか。この国と運命を共にすることが正しい生き方であると教えられ、それ以外の生き方を知らないで育ってきた多くの国民にとって、戦争が敗北に終わる可能性があるときに、どのような態度がとれたでしょうか。選択の余地はなかったのではないでしょうか。国家、天皇、戦争と運命をともにするしか選択肢はなかったと思います。

 「玉砕の思想」とは、戦局が悪化したときに、軍が壊滅的な打撃を受けて、全滅することなのですが、玉が砕け、飛び散る美しい様のように表現したものです。日本的美意識の現れです。戦いに敗北するというよりも、むしろ天に運命を任せて、全てを受け入れるということを意味しているように思います。自己の主体的な努力によって状況を変えるというのではなく、全てをありのままに受け入れる、それが天皇の命ずるところであると悟るところに、玉砕の思想の本質があるように思います。それは、たとえ戦争に負けることがあろうとも、本望であると達観した境地です。従って、死は美に、美は死に変わります。それが生きた証(あかし)であり、生それ自体であると解されることになるのです。それは、冷静に考えればおかしな話であって、悲劇としか言いようがありません。何が自分の利益になるのかということを、人生の目的という視点から合理的に考えれば、玉砕の思想は非合理でしかないので、玉砕の思想を非合理であると考えるのは、合理的なのですが、非合理な行動を合理的に評価しきれないのが現実なのです。現代人であっても、常に合理的に考え、行動しているわけではありません。自分の手の届かない問題、自分の力では左右することができない問題については、その是非を論ずるのではなく、受け入れるしかないのです。それを玉砕の思想とはいわないでしょう。非合理だともいわないでしょう。

 玉砕とう言葉は、決して負け惜しみの表現ではないようです。むしろ、自己の責任と義務を果たしたという充実感を含んでいるようです。美徳であると実感しているように感じます。日本的な責任の取り方というようなものです。そのような責任は、無責任に他ならないともいえますが、その無責任な態度は国民だけでなく、国全体に蔓延していたようです。政治学者の丸山真男は、1946年に「超国家主義の論理と心理」という論文のなかで、次のように述べています。

 全国家秩序が絶対的価値体たる天皇を中心として連鎖的に構成され、上から下への支配の根拠が天皇からの距離に比例する。価値のいわば漸進的稀薄化にあるところでは、独裁観念は却って成長し難い。なぜなら本来の独裁観念は自由なる主体意識を前提としているのに、ここでは凡そそうした無規定的な個人というものは上から下まで存在しえないからである。一切の人間乃至社会集団は絶えず一方から規定されつつ他方を規定するという関係に立っている。戦時中に於ける軍部官僚の独裁とか、専横とかいう事が盛んに問題とされているが、ここで注意すべきは、事実もしくは社会的結果としてのそれと意識としてのそれとを混同してはならぬという事である。意識としての独裁は必ず責任の自覚と結びつく筈である。ところがこうした自覚は軍部にも官僚にも欠けていた。

 日本の国家の秩序は、天皇という絶対的な権威者であり、かつ権力者によって構成されていました。天皇の権威と権力、その政策と命令は、国家の上級機関から下級機関へと行政的に伝達されます。それが連鎖的(伝言ゲーム的)に上から下へと伝えられていったところに、日本の特徴があります。天皇の側近の者たちは、天皇の意思と命令を、その言葉通り下級機関へ伝達し、その機関は、その側近の言葉を、天皇の意思と命令が表現されたものとして、さらに下級機関に伝達するのです。そうして、その言葉は天皇の意思として国民に伝達されます。何をなすべきか、いかに行動すべきかといった価値の基準は、一応は伝達されますが、天皇の口から直接聞いたわけではないので、それを正面から受け入れたというような実感はありません。伝達された言葉が一応は天皇の意思であると理解できても、その重みは実感できません。そうすると、自分で決断したという意識が希薄になるわけです。そのような空間にいると、自分が天皇の意思と命令に従っている、天皇と運命を共にしているという認識はあっても、丸山がいう「自由なる意思主体」であるという自覚はわいては来ません。自由な意思にもとづいて判断し行動する主体、何にも左右されずに自分で決定する主体は、そこには存在しません。上から下に伝達され、それを受け入れさえすればよいシステムのなかでは、言葉の本当の意味での自覚とか責任はわいてこないわけです。外国から見れば、天皇が独裁的に物事を決めて、国民に押し付けているように見えても、また軍部が他の政治勢力を抑えつけて、暴走しているように見えても、そのような伝言ゲーム的なシステムにおいては、誰もそれを意識しえないのです。無自覚なところに責任意識は生じえません。丸山はそのように主張しています。この丸山の指摘は、的を射ていると思います。少なくとも国民の意識のレベルでは、政治や戦争に対して無自覚であり、無責任でした。それは、戦後直後に「私たちは何も知らなかった」と主張して、戦争の個人責任を免れようとした多くのドイツ人にも共通しています。ドイツ人もやはり、戦争の責任の問題、自分とナチとの関わりについて問われた時に「何も知らされていなかった」と主張したのです。

 自分は何も知らなかった、という主張が全くの虚偽だとは思いません。多くの日本人もドイツ人も、一方で加害者としての責任を追及されながら、他方で国家の被害者でもあるからです。その上で注目したいことは、戦後直後の日本人とドイツ人の表情です。戦争が終わった、戦争に負けたことを受けて、彼らがとった表情の違いです。ドイツ人の敗戦の表情は良く分かりませんが、日本人は泣きました。ラジオから流れる天皇の肉声を聞きながら泣きました。ポツダム宣言を受諾し、降伏することが語られた難解な言葉を、誰一人としてとりみだすこともなく、ただじっと耐えながら聞き入っていました。このような姿というか、情景はドイツにはなかったのではないでしょうか。それは、たとえ戦争に負けても、本望であるという達観した境地ではないかと思うのです。このような境地は、戦後も日本人の心理に残ったのではないでしょうか。玉砕という言葉は、伝言ゲーム的な日本的システムのなかで自覚的な責任感を持ち切れなかった日本人に、自分たちは責任と義務を全うしたと意識させるのに役立ったのではないかと思います。今となれば、あの戦争は正しい戦争であったかどうかはともかく、無謀な戦争であったと考えている人が多いと思います。だから、戦争のことは触れないでほしいと拒否反応を示すのです。しかし、それでも心のどこかで、玉砕の美学があるように思います。戦争の最後を美しく捉えようとする気持ちがあるように思います。

(4)玉砕の思想の日常化
 以上が、「玉砕の思想」についての考察です。戦争の心理学というか、支配と従属の心理学は、国民の意識の全体傾向をつかむことを目的とし、それは当時の意識傾向の大きな流れを明らかにするものです。しかし、他の流れと併せて考察しなければ、その日本的な特徴は十分に明らかにはなりません。

 ここで、玉砕の美学に関して、若干の雑感を述べておきたいます。それは、まだ私たちの文化に残っているようです。手塚治虫のアニメ『鉄腕アトム』の最後のシーンでは、巨大な惑星(太陽だったか?)が地球に向かって接近し、アトムは、地球を守るために、それに体当たりし、自爆します。惑星は爆発して燃え尽き、地球は守られました。アトムは、まるで特攻隊のように花と散りました。このようにラストシーンは必ずしもハッピーエンドではありませんでしたが、日本人とその子どもたちは、涙を流しながら、それを見て感動し、アトムの功績をたたえ、その存在を心に永遠に刻んだのです。なんて無謀なことをするんだ、というような反発は考えられません。このアニメはアメリカでも『アストロ・ボーイ』というタイトルで放映されましたが、このラストシーンだけ書きかえられ、ハッピーエンドで終わることになったようです。アメリカ人とその子供には、ヒーローが最後に玉砕することは宗教的だけでなく、精神的に受け入れがたいというのが理由だったそうです。

 『鉄腕アトム』以外のアニメでも、同じ現象があります。例えば、梶原一輝原作の『巨人の星』、『明日のジョー』がそうです。いずれも、主人公は命が燃え尽きるまで戦います。『巨人の星』は、主人公星飛雄馬が真のヒューマンに成長するドラマですが、ニューマンになると同時に野球選手としての生命は燃え尽きます。『明日のジョー』もまた、非行少年の矢吹丈が人間的愛情に目覚め、自己の人間性を回復するプロセスを描いたドラマですが、人間性を回復すると同時に燃え尽きます。実写版の『ウルトラマン』では、ウルトラマンがゼットンという名の怪獣に倒され、命尽きるシーンが衝撃的でした。それを見ている子どもたちは、倒されたウルトラマンが起き上がって、ゼットンと戦うと信じてテレビを見ていましたが、ウルトラマンは起き上がっては来ません。番組の最後では、倒れたままのウルトラマンの姿の上に、過去の英雄的な戦いのシーンが回想され、重ね合わされます。強靭な精神で地球を守ったウルトラマンが、今はゼットンに敗れ、立ち上がれないまま、死に絶えようとしています。どこの家庭でも、子どもが絶叫し、泣き叫んだために、パニックに陥ったそうです。呼吸不全のため病院に運ばれた子どももいたそうです。『ジャイアントロボ』という作品でも、状況は同じです。『鉄腕アトム』と似ていますが、人間に指示・命令されるロボットが、地球を守るために、人間の命令に背いて、宇宙空間で巨大な隕石に体当たりして、玉砕します。ラストシーンでは、青い空に一瞬光が輝きます。玉砕のシーンは、直接描くよりも、きらめく光によって描かれた方が、心理的効果があったようです。他にもあると思いますが、かつての玉砕の思想と心理が日常の文化のなかに浸透しているといえるのではないでしょうか。

 この日常的心理は、学問的に考察に値するものだと思います。第二次世界大戦・太平洋戦争の後遺症として、悪しき日本的文化として斥けるべきではありません。キリスト教の伝統が一般化していない日本では、キリストの復活のような観念はないので、死生観にも違いがありますが、日本人の意識の中には、死後に「復活」するという観念はないため、死をニヒリスティックに捉える傾向があるのかもしれません。『十訓抄』(じゅっくんしょう)には、「虎は死んで皮を留め、人は死んで名を残す」という諺が残されています。人は死んだ後、復活しません。残るのは名声だけです。英語の諺の場合、「ライブ・ウェル・アンド・ライブ・フォエバー」(Live well and live forever.)というのがあります。立派な生き方をし、永遠に生きなさい、という意味です。ここにあるのは生だけであり、死はありません。

 15年戦争における玉砕の思想は悲劇でした。しかし、その思想は日本の伝統と文化、日本の精神の奥深いところにあり、それが形を変えて今日にも引き継がれているようです。それを戦争と切り離して考えることができるかどうか。それを考えてみようと思います。

 次回は、第10章「戦時下の日常生活」を検討します。

No comments: