鶴見俊輔 鶴見俊輔の「転向論」の意味 - Rechtsphilosophie des als ob
鶴見俊輔との対話――鶴見俊輔の「転向論」の意味
2016-02-07 | 日記
鶴見俊輔は『戦時期日本の精神史』の第3章「鎖国」において、伊藤整と中野重治の転向を論じています。
伊藤整は、優れた知性の持主で、1930年代には、ヨーロッパの心理主義文学の影響を受けて、小説や批評を書き注目を集めていました。プロレタリア文学運動において指導的な地位にあった小林多喜二と同じ学校に通っていたこともあって、その存在と影響は伊藤にも及んでいましたが、彼は注意深い性格であったため、左翼政治活動には関わらないように慎重な態度をとっていました。1930年代の後半には、心理主義の立場から、心理主義の方法で小説を書くことを続けていました。
1941年に日本がアメリカと戦争を始めると、彼は「我が知識階級 ―― この感動萎えざらんが為に」というエッセーを発表しました。伊藤は、戦争が本格化するまでは、心理主義文学の方法に依拠して作家活動を行なっていましたが、日本の軍国主義化を賛美し、中国への軍事的な進出を肯定するような態度はとっていませんでした。日本政府の政策に対して距離を置き、自分の精神的・心理的な自由を維持しようとしました。ただし、アメリカとの戦争が始まると、この態度は一変します。伊藤の態度変化は、1個人の思想的変化であるだけでなく、戦時期の日本の精神史のドラスティックな展開でした。
伊藤の文学的立場である心理主義は、分かり易く言えば、価値とは自分自身が価値あると考えたものが価値あるものであると論ずる立場です。それは、一種の観念論、主意主義であり、プロレタリア文学運動の基礎に据えていた共産主義の哲学である唯物論や客観主義とは異なります。それが伊藤を左翼政治運動から距離をとらせた原因なのですが、たとえ心理主義の立場であっても、15年戦争に価値を見出せない限り、伊藤は日本政府の戦争政策に対して、批判的な意見を持たざるをえなかったと思います。伊藤が、社会主義・共産主義に理想を見出したことを理解できなかったからといって、彼がその対極にある戦争と侵略に与せず、それを拒否しえたのは、ヨーロッパの文学や思想などの進歩的な科学を学び、そこから価値あるものを摂取してきたからです。しかし、彼はアメリカとの戦争が開始されると、その態度に変化が出てきました。鶴見俊輔は、この態度変化を惹き起こしたのは、日本の国家的孤立性と文化的鎖国性であった、伊藤の態度のなかにその日本的な性格が現れていると指摘しています。
伊藤は、エッセーにおいて、彼が英語の教師をしていた時代、彼はイギリス人やアメリカ人の真似して半生を費やしてきましたが、その間に積もり積もった劣等感のはけ口を与えたのが戦争でした。アジアの小国・日本が西洋の大国・アメリカに宣戦布告したことによって、ようやく自分のなかにある劣等感を追い出すことができるようになった。そう述べました。欧米の文学は、それまで人間とは何か、人生とはいかに生きるべきかと問い、それに答えを与えてきたが、普遍的で抽象的な人間など存在しない、存在するのは、常に民族、人種、文化、言語、思考様式を備えた具体的な存在であり、文化と伝統、そして歴史的な宿命を背負った固有の存在だけであり、戦争の時代には、この固有の民族性を備えた日本人はいかに生きるべきかを問い、その姿を描かなければならないと、エッセーを発表した翌年に「戦争の文学」を書きました。鶴見俊輔は、伊藤整の心理主義的立場が自由主義から権威主義へと転向したのは、彼の思想的な脆弱性にあるのではなく、日本の国家的孤立と文化的鎖国性にあると指摘しましたが、その点を詳しく見ていきたいと思います。
日本の国家的孤立とは、明治維新までの鎖国政策によって、日本に欧米の先進的で優位性のある科学と思想が取り入れられず、いわば遅れた、劣った状態にあったということです。それは同時に日本の科学、思想、文化が鎖国状態にあったことを意味します。ただし、孤立、鎖国とはいっても、それは鎖国政策が続けられていた時代には認識されることはありませんでした。というのも、国家的孤立と文化的鎖国の時代には、自己を映し出す鏡がなかったために、国家や文化が孤立していることは知っていても、そのことの重大性には気づき得なかったからです。自分の国が、世界において、いかに孤立しているか、その文化がいかに遅れた劣等な文化であるかを自覚的に認識することはありませんでした。しかし、日本文化の持っている鎖国性は、例えば1918年に結成された新人会が海外から輸入した言葉と思想によって日本を改造しようと試みたときに対面せざるをえなかった手強い相手であったと、鶴見俊輔は指摘しています。そして、文化的な鎖国性の意味を、中野重治の文学作品に探っています。
中野重治が1935年に発表した『村の家』、中野自身の思想的な転向が何を意味したのかについての生々しい告白であり、かつその記録です。主人公は中野自身です。東京帝国大学で西洋の哲学と文学を学び、その進歩的・批判的知性を身に付けたがゆえに、1930年代の初頭に日本共産党の党員として、プロレタリア文学運動に関わり、その指導的な立場にありました。中野の文学運動と作品は、多くの若い文学徒を魅了し、若き文学者を彼が指導するプロレタリア文学運動へと引き寄せました。しかし、多くの人々に影響を与えた主人公は、治安維持法違反の嫌疑で逮捕・投獄され、獄中で転向声明に署名します。そして、仮釈放され、日本海沿いの父親のもと帰ってきます。鶴見は、そこで行なわれた父親と主人公の対話のなかに、日本の文化的鎖国性が転向の思想的原因になったことを見抜いています。
父親は農民であり、主人公のように大学で西洋の科学を学んだことはありません。知性のない無学な人間です。それが文明の中心から離れたところに位置する日本として描かれています。その父親は、共産主義運動に身を投じ、そして転向し挫折した息子を、渋い顔をして迎え入れます。そして次のように話しかけます。わしはもう、お前は死んだものと思っていた。お前のことはすっかり諦めていた。それでもお前は帰ってきた。父親としては、息子が生きて帰ってきたことを嬉しく思わないわけではないが、自ら選んだ共産主義の理念のために闘い、死ぬこともできなかったのだから、もう文学作品を書くべきではないと諭します。これに対して主人公は、「よくわかりますが、やはり書いてゆきたいと思います」と返します。主人公は、警察署で拷問を受け、禁錮刑を言い渡され、監獄に収容されましが、同志や仲間を裏切るような卑劣な態度はとっていません。そこまで堕落して、権力に屈服したわけではありません。共産主義運動には関わらないと転向声明に署名しただけで、自身の思想的立場の撤回まで誓約したわけではありません。だから、「書いてゆきたい」と述べたのです。その理由には、一応の論理があり、説得力もあります。しかし、父親としては、そのような息子の論理的で整合的な理由には納得できないのです。
主人公は、東京帝国大学で西洋の哲学と文学を学んだ、知性のある博学な人間です。それが文明の中心に位置する西洋として描かれています。彼は、プロレタリア文学運動の指導者として数多くの文学徒に運動への参加を呼びかけました。その呼びかけに応えて、文学運動に関わり、ある者はつまずき、悩み、またある者は絶望し、なかには死んでいった者もいました。主人公には、そのようにさせた責任があります。自らの文学運動の方針を堅持せずに、転向声明に署名した以上、自らの過ちを認め、多くの者に対して償う必要があります。父親は、そのように伝えたかったのです。それが、一農民である父親の立場から見て、まともな人間が行なうべきことであると言いました。知性がなくても、学問がなくても、それだけは確かなことだと息子に伝えようとしたのです。その言葉には、主人公が文学を続けたいと述べたときに述べた論理的で整合的な説明とは違い、断片的で感覚的、情緒的なものでした。しかし、この感覚と情緒が、農村の生活を保ってきた力なのです。古く、遅れたものであっても、日本の文化と伝統を守り抜いてきた智恵なのです。
確かに感覚や情緒だけでは、深刻化する軍国主義と戦争の危機に対して、どのように対抗すべきかという政治綱領を定式化することはできません。正面から闘うことが困難な政治状況において、今は一歩後退して、抵抗戦を築こうとしている息子の政治的計算の意味を理解することもできないでしょう。しかし、主人公には、このあまりにも素朴な父親の語り口調が、何よりも内容と説得力のある言葉として聞こえたのです。西洋科学と思想によって磨かれた知性でさえも、越えれない壁として力強く立ちはだかったのです。西洋の知性を身に付けることで、遠の前にすでに乗り越えていたと思っていた日本が、いま自分の目の前にある。これが現実である以上、自らの知性は空虚でしかない。無意味な空虚にすがるのではなく、意味ある現実に帰依する。転向は、西洋の知性を身に付けた日本人が日本を超えれなかった結果であり、そのような日本人が自ら日本人であることを自覚しことのあかしです。日本の若い革命家は、日本の限界を超えるためにロシアの共産主義を移入しましたが、それによって本質的に日本を超えれないことを悟った後、古き良き日本へと回帰したのです。それは、中野だけでなく、1933年に獄中で転向声明を出した佐野や鍋山などにも見られる思想現象だったといえます。
日本はヨーロッパから遠く離れたところにあります。中心はヨーロッパにあり、日本は辺境の土地でしかありません。ヨーロッパの歴史は「世界史」であり、日本の歴史は地域史でしかありません。文明、科学、思想はヨーロッパから発信されて、世界を包み込む、日本は西洋化されるしかありませんでした。孤立と鎖国を続けてきた日本と日本人の精神は、惨めで、憐れで、劣ったものでした。中野は、西洋の知性で、この遅れた日本を乗り越えたつもりでした。しかし、西洋の知性では、乗り越えれない土着のものが日本にはあったのです。父親の純朴な語り口調、感覚的で情緒的な話し方、深層心理の奥深いところで響く情感は、西洋の科学よりも、より説得力のある、安心して寄りかかれる教えであることを、中野は初めて知ったのです。
直輸入された科学の用語は、人々のエリート意識をかきたてることはできても、心の底から動かすだけの力を持ってはいません。それらの言葉が人々を突き動かす力を持ち得るのは、日本社会に昔からある伝統や文化、土着のものに移され、そこで育っていくことを通して、新しく生まれ変わったときだけです。中野が実感した西洋文明、科学、思想の限界、それが日本に土着化できないことの苛立ちは、伊藤の場合、心理主義的文学から離反させ、戦時期に日本人の文学を書くよう知識人に呼びかけさせた日本的な情念であり、躍動する日本的な何かであったのではないかと思います。
鶴見俊輔との対話――鶴見俊輔の「転向論」の意味
2016-02-07 | 日記
鶴見俊輔は『戦時期日本の精神史』の第3章「鎖国」において、伊藤整と中野重治の転向を論じています。
伊藤整は、優れた知性の持主で、1930年代には、ヨーロッパの心理主義文学の影響を受けて、小説や批評を書き注目を集めていました。プロレタリア文学運動において指導的な地位にあった小林多喜二と同じ学校に通っていたこともあって、その存在と影響は伊藤にも及んでいましたが、彼は注意深い性格であったため、左翼政治活動には関わらないように慎重な態度をとっていました。1930年代の後半には、心理主義の立場から、心理主義の方法で小説を書くことを続けていました。
1941年に日本がアメリカと戦争を始めると、彼は「我が知識階級 ―― この感動萎えざらんが為に」というエッセーを発表しました。伊藤は、戦争が本格化するまでは、心理主義文学の方法に依拠して作家活動を行なっていましたが、日本の軍国主義化を賛美し、中国への軍事的な進出を肯定するような態度はとっていませんでした。日本政府の政策に対して距離を置き、自分の精神的・心理的な自由を維持しようとしました。ただし、アメリカとの戦争が始まると、この態度は一変します。伊藤の態度変化は、1個人の思想的変化であるだけでなく、戦時期の日本の精神史のドラスティックな展開でした。
伊藤の文学的立場である心理主義は、分かり易く言えば、価値とは自分自身が価値あると考えたものが価値あるものであると論ずる立場です。それは、一種の観念論、主意主義であり、プロレタリア文学運動の基礎に据えていた共産主義の哲学である唯物論や客観主義とは異なります。それが伊藤を左翼政治運動から距離をとらせた原因なのですが、たとえ心理主義の立場であっても、15年戦争に価値を見出せない限り、伊藤は日本政府の戦争政策に対して、批判的な意見を持たざるをえなかったと思います。伊藤が、社会主義・共産主義に理想を見出したことを理解できなかったからといって、彼がその対極にある戦争と侵略に与せず、それを拒否しえたのは、ヨーロッパの文学や思想などの進歩的な科学を学び、そこから価値あるものを摂取してきたからです。しかし、彼はアメリカとの戦争が開始されると、その態度に変化が出てきました。鶴見俊輔は、この態度変化を惹き起こしたのは、日本の国家的孤立性と文化的鎖国性であった、伊藤の態度のなかにその日本的な性格が現れていると指摘しています。
伊藤は、エッセーにおいて、彼が英語の教師をしていた時代、彼はイギリス人やアメリカ人の真似して半生を費やしてきましたが、その間に積もり積もった劣等感のはけ口を与えたのが戦争でした。アジアの小国・日本が西洋の大国・アメリカに宣戦布告したことによって、ようやく自分のなかにある劣等感を追い出すことができるようになった。そう述べました。欧米の文学は、それまで人間とは何か、人生とはいかに生きるべきかと問い、それに答えを与えてきたが、普遍的で抽象的な人間など存在しない、存在するのは、常に民族、人種、文化、言語、思考様式を備えた具体的な存在であり、文化と伝統、そして歴史的な宿命を背負った固有の存在だけであり、戦争の時代には、この固有の民族性を備えた日本人はいかに生きるべきかを問い、その姿を描かなければならないと、エッセーを発表した翌年に「戦争の文学」を書きました。鶴見俊輔は、伊藤整の心理主義的立場が自由主義から権威主義へと転向したのは、彼の思想的な脆弱性にあるのではなく、日本の国家的孤立と文化的鎖国性にあると指摘しましたが、その点を詳しく見ていきたいと思います。
日本の国家的孤立とは、明治維新までの鎖国政策によって、日本に欧米の先進的で優位性のある科学と思想が取り入れられず、いわば遅れた、劣った状態にあったということです。それは同時に日本の科学、思想、文化が鎖国状態にあったことを意味します。ただし、孤立、鎖国とはいっても、それは鎖国政策が続けられていた時代には認識されることはありませんでした。というのも、国家的孤立と文化的鎖国の時代には、自己を映し出す鏡がなかったために、国家や文化が孤立していることは知っていても、そのことの重大性には気づき得なかったからです。自分の国が、世界において、いかに孤立しているか、その文化がいかに遅れた劣等な文化であるかを自覚的に認識することはありませんでした。しかし、日本文化の持っている鎖国性は、例えば1918年に結成された新人会が海外から輸入した言葉と思想によって日本を改造しようと試みたときに対面せざるをえなかった手強い相手であったと、鶴見俊輔は指摘しています。そして、文化的な鎖国性の意味を、中野重治の文学作品に探っています。
中野重治が1935年に発表した『村の家』、中野自身の思想的な転向が何を意味したのかについての生々しい告白であり、かつその記録です。主人公は中野自身です。東京帝国大学で西洋の哲学と文学を学び、その進歩的・批判的知性を身に付けたがゆえに、1930年代の初頭に日本共産党の党員として、プロレタリア文学運動に関わり、その指導的な立場にありました。中野の文学運動と作品は、多くの若い文学徒を魅了し、若き文学者を彼が指導するプロレタリア文学運動へと引き寄せました。しかし、多くの人々に影響を与えた主人公は、治安維持法違反の嫌疑で逮捕・投獄され、獄中で転向声明に署名します。そして、仮釈放され、日本海沿いの父親のもと帰ってきます。鶴見は、そこで行なわれた父親と主人公の対話のなかに、日本の文化的鎖国性が転向の思想的原因になったことを見抜いています。
父親は農民であり、主人公のように大学で西洋の科学を学んだことはありません。知性のない無学な人間です。それが文明の中心から離れたところに位置する日本として描かれています。その父親は、共産主義運動に身を投じ、そして転向し挫折した息子を、渋い顔をして迎え入れます。そして次のように話しかけます。わしはもう、お前は死んだものと思っていた。お前のことはすっかり諦めていた。それでもお前は帰ってきた。父親としては、息子が生きて帰ってきたことを嬉しく思わないわけではないが、自ら選んだ共産主義の理念のために闘い、死ぬこともできなかったのだから、もう文学作品を書くべきではないと諭します。これに対して主人公は、「よくわかりますが、やはり書いてゆきたいと思います」と返します。主人公は、警察署で拷問を受け、禁錮刑を言い渡され、監獄に収容されましが、同志や仲間を裏切るような卑劣な態度はとっていません。そこまで堕落して、権力に屈服したわけではありません。共産主義運動には関わらないと転向声明に署名しただけで、自身の思想的立場の撤回まで誓約したわけではありません。だから、「書いてゆきたい」と述べたのです。その理由には、一応の論理があり、説得力もあります。しかし、父親としては、そのような息子の論理的で整合的な理由には納得できないのです。
主人公は、東京帝国大学で西洋の哲学と文学を学んだ、知性のある博学な人間です。それが文明の中心に位置する西洋として描かれています。彼は、プロレタリア文学運動の指導者として数多くの文学徒に運動への参加を呼びかけました。その呼びかけに応えて、文学運動に関わり、ある者はつまずき、悩み、またある者は絶望し、なかには死んでいった者もいました。主人公には、そのようにさせた責任があります。自らの文学運動の方針を堅持せずに、転向声明に署名した以上、自らの過ちを認め、多くの者に対して償う必要があります。父親は、そのように伝えたかったのです。それが、一農民である父親の立場から見て、まともな人間が行なうべきことであると言いました。知性がなくても、学問がなくても、それだけは確かなことだと息子に伝えようとしたのです。その言葉には、主人公が文学を続けたいと述べたときに述べた論理的で整合的な説明とは違い、断片的で感覚的、情緒的なものでした。しかし、この感覚と情緒が、農村の生活を保ってきた力なのです。古く、遅れたものであっても、日本の文化と伝統を守り抜いてきた智恵なのです。
確かに感覚や情緒だけでは、深刻化する軍国主義と戦争の危機に対して、どのように対抗すべきかという政治綱領を定式化することはできません。正面から闘うことが困難な政治状況において、今は一歩後退して、抵抗戦を築こうとしている息子の政治的計算の意味を理解することもできないでしょう。しかし、主人公には、このあまりにも素朴な父親の語り口調が、何よりも内容と説得力のある言葉として聞こえたのです。西洋科学と思想によって磨かれた知性でさえも、越えれない壁として力強く立ちはだかったのです。西洋の知性を身に付けることで、遠の前にすでに乗り越えていたと思っていた日本が、いま自分の目の前にある。これが現実である以上、自らの知性は空虚でしかない。無意味な空虚にすがるのではなく、意味ある現実に帰依する。転向は、西洋の知性を身に付けた日本人が日本を超えれなかった結果であり、そのような日本人が自ら日本人であることを自覚しことのあかしです。日本の若い革命家は、日本の限界を超えるためにロシアの共産主義を移入しましたが、それによって本質的に日本を超えれないことを悟った後、古き良き日本へと回帰したのです。それは、中野だけでなく、1933年に獄中で転向声明を出した佐野や鍋山などにも見られる思想現象だったといえます。
日本はヨーロッパから遠く離れたところにあります。中心はヨーロッパにあり、日本は辺境の土地でしかありません。ヨーロッパの歴史は「世界史」であり、日本の歴史は地域史でしかありません。文明、科学、思想はヨーロッパから発信されて、世界を包み込む、日本は西洋化されるしかありませんでした。孤立と鎖国を続けてきた日本と日本人の精神は、惨めで、憐れで、劣ったものでした。中野は、西洋の知性で、この遅れた日本を乗り越えたつもりでした。しかし、西洋の知性では、乗り越えれない土着のものが日本にはあったのです。父親の純朴な語り口調、感覚的で情緒的な話し方、深層心理の奥深いところで響く情感は、西洋の科学よりも、より説得力のある、安心して寄りかかれる教えであることを、中野は初めて知ったのです。
直輸入された科学の用語は、人々のエリート意識をかきたてることはできても、心の底から動かすだけの力を持ってはいません。それらの言葉が人々を突き動かす力を持ち得るのは、日本社会に昔からある伝統や文化、土着のものに移され、そこで育っていくことを通して、新しく生まれ変わったときだけです。中野が実感した西洋文明、科学、思想の限界、それが日本に土着化できないことの苛立ちは、伊藤の場合、心理主義的文学から離反させ、戦時期に日本人の文学を書くよう知識人に呼びかけさせた日本的な情念であり、躍動する日本的な何かであったのではないかと思います。
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