2017-01-06

鶴見俊輔―『戦時期日本の精神史』を読む(06) - Rechtsphilosophie des als ob



鶴見俊輔との対話――『戦時期日本の精神史』を読む(06) - Rechtsphilosophie des als ob




鶴見俊輔との対話――『戦時期日本の精神史』を読む(06)
2015-10-25 | 日記
 鶴見俊輔『戦時期日本の精神史 1931~1945年』ノート
 第06回 非転向の形

 はじめに
 「非転向の形」という言葉は、私には非常に不可解なものです。「~~の形」の「形」は、「かたち」ではなく、「かた」と読むのではないかと思いますが、いずれにでよ、「~~の形」は、本来的には形態や形式として表現できないものを、あえて比喩的に表すときに使う言葉です。「これがオレ流の生き方だ」とか言って、無茶なことを行なったり、「これがボクの愛の形です」というようなことを言って、受け入れがたい行動と取られたり、「形」というのは様々です。しかし、「非転向」という思想的・精神的な抵抗は、時の政府による暴力的な弾圧と抑圧に対して対抗的な形態をとるので、それをあえて「形」と表現するまでもないように思います。しかし、そのように理解しているだけだと、「非転向の形」を理解することはできないようです。

 とはいえ、どんなものであれ、モノや身体的動作によって、「形」によって表されていれば、その意味が分かり、評価することができます。人の頭の中、観念の世界にあるものが、何であるのかは、実は本人にしか分からないのですが、「形」によって表現されることによって、他者にもそれが何であるのかが実在的に分かるのです。哲学的に説明するとかなり難解になるはずですが、日常的にはありふれたことです。従って、「形」は非常に重要だといえます。人間の認識を根拠づけるのは、「形」だとで言っても過言ではありません。「形」は、事柄の意味を理解する重要な手掛かりなので、私たちは「形」を重視すべきです。「形」主義者、形式主義者にならなければなりません。

 しかし、「形」というのは、それだけで成り立つものではありません。重要なのは、内容・本質です。形式と内容、形態と本質は、切っても切れない関係にありますが、論理的には内容と本質が形式や形態に先行して成立し、存在します。たとえ、観念的なものであっても、先行するのは内容と本質の方が先です。その内容と本質が、一定の内容を持った存在であるために、それに相応しい形式をとって存在するのです。それは、内容を表現する唯一無二の形式であり、オリジナルなものです。2020年の東京オリンピック・パラリンピックのエンブレムが、ベルギーの有名な劇場のロゴマークに似ていることが問題になり、考案者が辞退することになり、そのために新たなエンブレムが募集されることになったそうです。2020年開催予定の東京オリンピック・パラリンピックは、一回限りです。それは唯一のものです。その内容を象徴的に表現する形式は、唯一のものであるはずです。他の何かに使われている形式は、相応しくないというだけでなく、本来的な意味における形式の本質を欠いているも思います。没になったエンブレムを考案したのは、有名なデザイナーだったそうです。「デザイン」とは、日本語で「意匠すること」、つまり一定の意味を形式化することです。エンブレムは、意味が形式化されたものです。形式化される意味が重要です。その意味をどれだけ深く考え、理解し、表現しようとしたのか。同じ様な形のロゴマークがあったことを知らなかったのでしょうが、似た形式で表現していたことを指摘されたとき、デザイナーの表情に「恥」が窺われなかったこと、オリジナルなものだと固執した態度に、「意匠」、デザインという言葉が、もはや「無意味の形式」でしかなくいなっていることを窺わせます。それでも形式主義の一種といえるかどうかは、疑問がありますが、内容のない、意味のない形式は「形式」の名に値しません。

 このような事態を踏まえると、「非転向の形」というのは、不可解なものですが、それを理解することができるように思います。「非転向」とは、「一定の政治的・思想的な信念を表明する態度」です。しかも、それを抑圧する物理的・心理的な強制力に対抗し、今ここに存在する者が自分であって、他の者ではないことの証(あかし)です。端的にいうと、1920年代の後半以降に強められた天皇制警察の弾圧に対する共産主義者の抵抗です。思想と思想との対抗関係のなかで、小林多喜二が虐殺され、野呂栄太郎が警察署の留置場をたらいまわしされた揚句の果てに殺されました。彼らは、なぜ死に至ったかというと、「非転向」を貫いたからです。「非転向」という自己の証の表現形式は、「転向声明」に署名するのを拒み続け、死を覚悟することでした。天皇制警察の残虐なリンチを前に非転向を貫くことによって、天皇制が支配・統治する国体を超越したのです。国家が、しかも全知全能の支配者の国家が、自分の影響力が及ばないところに一国民がいることを知った、天皇制と国体は、思想闘争において敗北したことが明らかになりました。「非転向」の思想は、その当時、「死の覚悟」という形をとらざるを得なかったのです。その形式によってしか、転向を拒み、共産主義者であり続けることができなかったのです。ここには思想が、オリジナルで必然的な形式で表現されています。

 もう少し「内容の形式」という問題を考えます。日常の風景に目を移したいと思います。
 「あなたの宗教は何教ですか」という質問を想定しましょう。この質問に対して、信仰心をもって「~~教です」と答える人は、日本の総人口の何パーセントぐらいいるでしょうか。「あまり意識したことはないが、どちらかといえば仏教です」と答える人が大半ではないでしょうか。キリスト教のように、食事の前に祈りをささげるようなことをしているわけではありませんし、またアラーの神に祈りをささげて、ラマダンの月には断食をしているわけでもありません。自分がキリスト教徒やイスラム教徒でないことだけは、明確に意識しています。従って、世界の三大宗教で、あと残っているのは仏教だけなので、「しいていえば仏教です」とか、「どちらかといえば仏教です」というような答えになってしまうのかもしれません。信仰とは、唯一の正しい教えを信ずることなので、「どちらかとえいば、仏教です」というような答えは成り立ちませんし、消去法で残ったものが自分の信仰であるはずもないのですが、このようなあいまいな形で日常生活のなかに宗教が位置づいているところに、日本人の宗教観の特徴があるように思います。

 この「あいまいな信仰」という内容は、どのような形式で表現されるのでしょうか。多くの人が素朴に信仰しているのが仏教であるとしても、それと神道との関係については、それほど意識はしていないと思います。お正月には初詣に行く人が多いと思いますが、例えば八坂神社に大勢の人が参拝に行きますが、神道をどれほど意識しているでしょうか。私は、自分が神道を信仰している人間ではないことを意識しながら、家の近所の神社に家族と初詣にでかけます。それは信者の方から見れば、おかしなことなのですが、私としては矛盾は感じていません。これが日本人の正月の過ごし方なのであると、子どもにも教えてあげているだけで、宗教教育のつもりはありません。そのようなところに出向いて、さい銭を投げ入れて、手を合わせて祈願するのも、正月くらいは今年の抱負と夢をしっかりと意識し、よいスタートをきるために大切なことだと思っています。年の初めの生活の「儀式」というか、そのような形式と「作法」に従って、家族のことや自分のことを考え、健康でいようとか、今年は頑張ろうと思うのです。それに重要性を感じているわけです。他の形式でも構わないわけですが、社会や日常生活に定着している形式のほうが安心感のようなものがあります。それが終われば、家に帰って、酒を飲みながらバラエティー番組を見て、本を読んだりして過ごします。あいまいな信仰心は、ここでもそれに相応しい形式をとっています。私流の信仰の仕方は、今のところ、この形式以外に相応しい形はありません。

(1)キリストの教えを求める人間像
 日本では、西洋風の分類方法によれば、明確に区別される神道と仏教が一体となって一つの宗教を形成していますす。従って、どちらかとえいば仏教を信仰していると思っている人のなかには、神棚をまつりながら、仏壇も置いていることに違和感を感じません。キリスト教の宗派、イスラム教の宗派は、神の教えの解釈をめぐって対立と抗争が続いています。そこには他の教えや解釈と共存できるような空間はありません。しかし、日本では長いあいだ神仏習合(しんぶつしゅうごう)が行われてきたために、明治維新以降に神仏分離がなされたにもかかわらず、その食えつがあいまいなままで、神道を国家の宗教として位置付けたものの、神道と仏教の境界線はあいまいな関係が続いているのだと思います。従って、神道と仏教という2つの宗教が日本に存在していると考えるのではなく、神道が仏教を飲み込んで渾然一体となったと捉えることができるのではないかと思います。

 このように神道と仏教の神仏習合が支配するもとでは、神道に帰依するために、仏教徒であることを止めるッ必要はありませんが、他の宗教、例えばキリスト教についていえば、それは深刻な問題を生じさせます。1549年にフランシスコ・ザビエルがキリスト教を布教して以降、日本でもキリスト教の信者が増え始めます。しかし、江戸幕府がキリスト教を禁止し、鎖国政策をとったために、1854年に鎖国が解かれるまでの約200年のあいだ、日本のキリスト教徒の立場から言えば、ヨーロッパの教会の中心地から引き離されたままにされてしまいました。1873年にキリスト教禁止令が解かれて、改宗を拒否したたために囚人とされていた人々は自由の身になりましたが、明治政府による宗教迫害のもとで新たな困難に遭遇せざるをえませんでした。

 鎖国政策のあいだ、キリスト教徒は、どのようにして信仰を守り続けてきたのでしょうか。また、明治維新以降の迫害に対して、どのようにして信仰を守ったのでしょうか。鶴見さんは、田北耕也さんの書いた『昭和時代の潜伏キリシタン』という書物を引きながら、キリスト教徒が迫害されている自分にキリストを重ね合わせて、生きて抵抗している自分自身にキリストを実感したことを紹介しています。キリスト教徒が、島原の乱が終わってから、江戸幕府の役人たちに迫害され、追いかけられ、いつ磔御免(はりつけごめん)にされ、殺されるか分からない不安の歴史が、ここに感じられます。宗教は、一般に現世の苦しみや悲しみ、自分の力ではどうにもできない宿命から解脱することによって、精神的安堵を得る心のよりどころです。例えば、仏教には四苦八苦(しくはっく)という言葉がありますが、この苦しみから逃れるために、信仰を重ねていくことを是とするのです。「四苦」とは、生きること、老いること、病にかかること、そして死ぬことです。人間は、この世に生まれた以上、この4つの苦しみから逃れることはできません。金持ちであれ、貧乏人であれ、現世でこれほどまでに平等に与えられているものは、他にはありません。「八苦」(はっく)とは、愛別離苦(あいべつりく)、 愛する人と別離すること、怨憎会苦(おんぞうえく)、怨み憎んでいる者に会うこと、求不得苦(ぐふとくく、求める物が得られないこと、五蘊盛苦(ごうんじょうく)、五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないことをいいます。

 死ぬ運命にあるのは自分だけではありません。家族や子ども、最愛の人も同じです。そのような人との別れる日が必ずやってきます。また、生きていると、恨まれたり恨んだりすることがあり、その相手と会って話をしたり、仕事をしたりしなければならないこともあります。欲しいものが手に入らない、物欲が満たされないだけでなく、好きな人と一緒にいることができないというような苦しさ、悲しさにも耐えていかなければなりません。また、頭の中で考えていることが行動に移せない、この肉体が精神のコントロールから離れて、楽な方へと行きがちになります。そんな自分を嫌悪することも多々あります。このような世俗の苦しみから逃れ、精神的安堵を求める人が仏教を信仰するのだと思います。しかし、日本のキリスト教徒の場合、そのような安堵感を得るために、キリストの教えを守り続けているたのかというと、少し違うようです。彼らからは、安堵を求めたというよりも、むしろ切実な不安、迫害の切迫感に向き合っていました。それは、正しいものを信じ抜く姿、「非転向の形」といえます。明治以降にヨーロッパに留学し、そこでキリスト教を学び、福音書の翻訳を作った人々の場合も、その教えを必要としているのですが、切迫感が違います。

 明治の知識人は、国家のエリート、指導者として留学し、そこで学べる限りのものを学んできました。そのなかにキリスト教の教義が入っていました。迫害されながら、語り継いできた秘教としてのキリスト教とは違い、豊富な知識と言語で格段に高いレベルで翻訳され、理解しやすいものになっています。しかし、それを読んでも、キリストを迫害されている自分自身に重ね合わすことはできないでしょう。非想観もなければ、切迫感もないからです。切実ではありません。戦後の日本においても、市民生活の欧米化のなかでも、キリスト教が普及されましたが、明治時代の知識人以上に、もっとのんびりとした、牧歌的なものだったと思います。四苦八苦している世俗から何とかして逃れるために教えを求める切迫感や、それに導かれていくと安堵感のようなものは、なかったのではないでしょうか。鎖国時代以降の長い迫害の歴史のなかで、キリスト教徒が信仰を貫けた理由には、私のように世俗の人間には知りえない人間の生に対する真摯さがあるように思います。キリスト教徒である自分が自分であることを貫いた「非転向の形」がここにあります。

(2)宗教の公然性と隠然性――仏教の場合
 日本国憲法では、信教の自由が保障されているので、宗教を信ずるのも、信じないのも自由、何教を信じるのも自由です。宗教活動の一環として布教活動をするのも自由ですし、教会に入会したり、脱会するのも自由です。日本国憲法は、このように公然たる信教の自由を保障しています。なぜ公然活動を保障しているのかというと、それこそ信教の自由の本質に関わる問題です。この問題は、公然活動の自由を保障しないと、信教の自由を保障したことにならないというふうに論じてはなりません。公然活動の自由を保障された宗教が、キリスト教徒や異端派の信者をいかに迫害し、非公然な場へと追いやったのか。公然活動を保障された宗教が、1931年から15年間続いた戦争に対して、どのような態度を示したのかというふうに論ずるべきものだと思います。

 仏教の中にも、「かくれキリシタン」ならぬ、「かくれ仏教」というものがあったそうです。それは、岩手県にある和賀という村に伝えられた黒仏(くろぼとけ)という流派です。この黒仏の信仰は、18世紀の終わり頃、政府公認の仏教の宗派によって迫害を受けて、潜伏状態に入った流派から起こったもので、山の中に共同体をつくって生活していました。そこに逃げ込んできたお坊さんを助けて、信仰の共同体が出来上がったそうです。共同生活と相互の助け合いが、信仰の基礎にありました。黒仏の人たちは、自分の信仰を役人に対しては、絶対に話さなかったようです。明治以降の政府に対してもそうでした。日清戦争と日露戦争のために、信者のなかからも、多くの若者が兵士として駆り出され、戦死しました。そのため、家族や子どもだけが残されてしまいました。黒仏の人々は、そのように国が起こした戦争のために犠牲になった女性や子どもを支援しました。戦争は、黒仏の人々にとって悪以外の何ものでもなく、それを進めた政府に対して不信が募り、飢餓や災難よりもひどいものとして言い伝えられました。信仰する仏教の教えの中に、戦争反対の理念が深く根付いていったというわけです。これに対して、政府公認の都会の仏教はどうであったかというと、戦争を賛美し、政府への協力が推奨されていました。同じ仏教でも、理念が同じでも、行動は全く反対でした。黒仏の人々の信仰の底には、現存の政治秩序と政治上の権威に対する不信の念がありました。

 徳川時代以降、公認の仏教は、キリスト教を迫害するために用いられ、明治以降は、共産主義と自由主義を迫害するために、神道とともに用いられました。キリスト教の大きな団体を作った人々は、迫害を逃れるために、15年戦争に協力しましたが、ここには政府が進める政策、戦争政策に対してとった態度が、その宗教の真価を明らかにする試金石になっているように思います。平時において、平和と友好を求めるのは簡単なことです。しかし、戦争の雰囲気が強まり始めたとき、さらには戦争が始まったときに、それに反対して、平和と友好を求めることができるかどうかが肝心です。戦争が始まる前に反対をいうのはいいけれど、始まった以上は反対をいうべきではないというような主張は、昔も今も見られます。そのような情緒的なムードに毅然とした態度をとったかどうか、それはありとあらゆる分野の試金石であると思います。

(3)灯台社運動におけるキリスト教徒の苦難と挫折
 キリスト教は、戦争の時代において、最終的には政府に順応な姿勢をとりました。しかし、そのなかでも、現存の政治秩序と権威に対して徹底して批判の姿勢をとった宗派もありました。灯台社がそうです。いわゆる「エホバの証人」です。鶴見さんは、その日本における活動を明石順三を通して見ています。

 明石順三は、1889年に滋賀県息長村(おさながむら)に生まれました。14才のとき中学高を退学して、アメリカに渡ることを計画し、18才のときにアメリカで働きながら、勉強を始めました。大学には行かず、図書館を利用して勉強したそうです。その後、新聞記者として働いている時に日本人女性と結婚し、その女性が灯台社の信者であったことから、明石もこの運動に参加するようになりました。

 1926年にアメリカの灯台社は、日本において灯台社の支部を作るために明石を日本に派遣しました。そのとき、彼は3人の子どもを連れて日本に来ました。その当時の日本のキリスト教徒は、教会組織を持たずに活動し、キリストの再臨と戦争反対を訴えていましたが、1931年に満州事変が始まると、雰囲気は一変し、灯台社に対する警察の干渉も強まってきました。明石の長男の真人は、徴兵されるとただちに、自分は人殺しはできないと主張し、上官に銃を返しました。その当時の日本では良心的兵役拒否という制度はなかったために、彼は軍法会議にかけられ、1939年に禁錮3年の刑を受けました。その後、灯台社に対する一斉捜索が行なわれ、明石順三は、再婚したばかりの妻、2人の子どもともども検挙されました。明石は獄中で可能な限り読書し、神道と仏教の書物を通じて、彼が探し求めていた真理が聖書のなかにだけあるのではないということに気づきました。「転向」したということです。彼は陸軍の監獄にいる長男の真人に会うことは許されませんでしたが、真人の方には人づてに父親の順三が神道と仏教の教えに従って、真理は聖書にあるだけではないことを悟ったことを知りました。父親の生き方が自分の生き方の手本であった真人にとって、父親が聖書から離れ、神道や仏教に近付いていることは、衝撃的でした。彼は、銃を担うことを拒否したことを撤回し、1941年には転向しました。「非転向」から「転向」したということです。

 彼は転向のなかで、『古事記』や『日本書紀』を読んで、日本が偉大なのは、万世一系の天皇が日本民族のために、日本国民のすべてのために、献身的な努力を続けてきたこと、日本の国体はその天皇をいただいていること、その存在なしには存立しえないという結論に到達しました。彼は、灯台社の教えから離れ、皇国の軍人として、天皇のために命を投げ打つ覚悟で努力することを宣言しました。2人の弟たちには、軍に入るよう説得しました。次男は陸軍の軍人として南方で戦死しました。三男だけは、信仰を守り続け、警察の監視のもとで戦争の時代を過ごしました。

 灯台社の教え、父親の元々の生きざまが、子どもたちに受け継がれ、日本において灯台社の活動が粘り強く続けられていたならば、その当時の日本の社会も違った方向に展開していけた可能性もあったのではないかと思います。しかし、現実は過酷でした。灯台社が一斉捜索を受け、明石順三が逮捕・投獄され、「非転向」の姿勢を貫いていましたが、最終的には「転向」しました。この問題は、共産主義者の「非転向」から「転向」への精神過程とも共通します。転向とは、共産主義者や明石順三の場合、自己の信念を曲げて、天皇制政府の政策を支持し、またそれを支えている神道・仏教に帰依することです。すでに自己の内部において確立している信念があります。それは絶対的な信念であり、絶対的な価値基準です。それがあるから、困難な状況を乗り越えることができるのです。しかし、その絶対的な基準が他の基準によって相対化されると、どうなるでしょうか。共産党幹部の佐野学も獄中で仏教書を読む中で、コミンテルン型の共産主義運動に疑問を持ち、天皇制を頂点とする社会主義を構想し始めました。共産主義から転向することはありませんでしたが、天皇制に対して帰依した点では転向です。明石の場合も同じです。彼が聖書のなかから発見した真理は、仏教書のなかにもあったのです。絶対だと思っていたことが、そうではなかった。しかも、キリスト以前に、すでに真理が説かれていた。この事実は彼らにとって衝撃的であったはずです。絶対的な価値基準を崩壊させるほどの威力を持っていたはずです。転向を組織に対する政治的な「裏切り」の脈絡で考えるならば、それは組織への忠実性、自己に対する倫理性の問題にすり替えられてしまします。そうではなく、「真理の発見」の脈絡で考えるならば、信ずるものに導かれてきた延長線上の問題として捉えることができます。それは真理に忠実であるという意味では倫理的であり、倫理的である以上、転向こそが真理に忠実な姿勢であるという見方もできます。

 「非転向」を貫いて守り抜ろうとした信念の内容は、共産主義者と明石とで異なりますが、その「形」、表現の形式は共通していますし、また「非転向」から何へ「転向」したのかという内容も共通していますし、その「形」も共通しています。獄中で仏教思想に触れ、深い感動を覚え、共産主義や灯台社から「転向」し、より真なる理、天皇制と国体の思想へと向かっていった「形」も共通しています。「非転向の内容」は異なりますが、「非転向の形」は同じでした。この「非転向の形」は、「同じものへと転向する形」でもありました。

(4)「非転向の形」と「転向の形」
 転向の問題について、吉本隆明は、意味深なことを述べています。戦前に多くの共産主義者が天皇制の弾圧によって転向したが、直接には肉体的・物理的な弾圧に耐えかねたからであるが、同時に当時の精神的・心理状況と接点を持っていたがゆえに、最終的に転向したのであるというのです。逆に言うと、転向しなかった共産主義者は、肉体的・物理的な弾圧に耐えたが、当時の精神的・心理状況と接点を持っていなかったから、転向しなかったというのです。吉本は、何が言いたいのかというと、転向を拒否したことによって検証されるのは、肉体的・物理的な痛みに耐えて、自分が「正しい」と信ずる共産主義の原理を確認しただけであるということです。非転向を貫いた信念の「正しさ」は、「非転向の形」によって検証されないということを、彼は言おうとしているのです。主観的な信念を貫いたことと、それが正当であることとは、別次元の問題であるというのです。

 戦後、十数人の共産党の幹部たちが、GHQの司令によって、占領獄中から解放されました。多くの国民が、彼らを熱烈に歓迎しました。そのなかで、彼らは政治活動を再開したました。彼らが、天皇制警察の激しい拷問に抵抗して、非転向の立場を貫いたことは事実です。それゆえに、彼らは治安維持法違反で裁判にかけられ、入獄を余儀なくされたのです。非転向によって示された不屈性は確かです。しかし、非転向によって貫かれた共産主義の理論・原理、それに基づく具体的な革命の戦略方針が妥当であったか、正しかったかという問題は、別に議論しなければならないと批判したのです。共産主義者のなかには、転向した者と転向した者がおり、転向した者は打倒すべき天皇制に屈服したが、転向しなかった者はそれに抵抗し続けた。前者は、組織の運動方針に反した行動をとったが、後者はその運動方針を堅持した。前者は組織の裏切り者であり、後者は組織に対して忠実な者であった。このように言うことはできます。しかし、「だから、転向者の理論的認識と実践は間違いであり、後者のそれが正しかった。歴史はそれを実証したのだ」と言えるのでしょうか。吉本は、そこを指摘しているのです。転向と非転向の事実が証明しているのは、転向者が社会状況・時代状況との接点を持っていたこと、非転向者がそれを持っていなかったことだけであって、非転向の事実をもって、理論的認識の正しさ、運動方針の正しさを実証することはできないのです。戦前・戦中の社会状況との接点がなかったがゆえに、転向を拒否することができた共産主義者の思想は、戦後の新しい社会状況に無条件に対応できるとはいえません。吉本は、倫理性・不屈性・組織性は人的な信頼性の保証になっても、理論性・科学性・真理性の保障になるのかと疑問を投げかけています。

 鶴見さんは、吉本の議論に賛同していませんが、獄中から解放された共産主義者が戦後に発表した声明や見解が、1920年代の左翼知識人の言葉によって書かれていたことに注目しています。それは、彼らの思想が戦後の日本人の世俗的な感情から離れていただけでなく、共産主義の原理を繰り返していることしか証明していない、戦後の新しい時代状況に対応する能力という点で、決定的な問題を抱えていたと指摘しています。共産主義者が監獄から解放されたのは、共産主義の理念が正しく、その理念に支えられた運動ゆえにでしょうか。それとも、欧米の帝国主義国が日本帝国主義を敗北に追い込んだ結果でしょうか。戦前の日本共産党の理論的認識としては、日本帝国主義は、国内における資本主義的生産と利潤追求が限界に達し、さらにそれを推し進めるために、朝鮮半島・中国へと経済的な進出を始めた。軍事力を背景にして、他国の経済主権が及んでいる地域に進出した。これが侵略戦争の本質である。しかし、そのような侵略は、自国の労働者・農民の抵抗運動を加速させ、また彼の地の民族自決運動を覚せいし、必ずや敗北に終わるであろう。帝国主義者による他国の植民地化と侵略が敗北に終わることは、理論的に明らかである。おおよそこのように主張していたのです。そうすると、天皇制警察によって獄中にある共産党の幹部は、自国の労農運動と彼の地の民族解放運動の国際的な協力・協同の力によって解放されるはずです。しかし、実際にはそうではありませんでした。済鶴見さんが紹介している「ぬやま ひろし」の言葉は、それを考えると、非常に意味深長です。共産主義者は連合国によって解放されたのであって、日本とアジア諸国の人民の解放闘争によってではないということです。天皇制廃止と侵略戦争反対の政治スローガンを掲げたがゆえに、治安維持法違反で投獄された共産主義者がそこから解放されたのは、そのスローガンを実践し、それによって日本帝国主義を打倒した結果ではなかったということです。

 村本一生(かずお)は、灯台社の信者として、戦争中に転向を拒否して、陸軍刑務所に拘束されていました。エホバの証人であるがゆえに、それを信ずるがゆえに、戦争を拒否し、銃を持たない態度をとり続けました。それゆえに、刑務所に収容されていたわけです。彼は戦後も明石順三とともに活動を続けましたが、戦時中のことについては語りあうことはなかったそうです。つまり、明石の転向について問いただすことはしなかったということです。彼は非転向を貫いたが、転向した明石を問い詰めることはしなかった。その心情はどのようなものだったのでしょうか。社会状況と接点がなかったから、教えを貫いた、転向しなかったと感じていたのではないでしょうか。

 村本は、戦後30年たって、いまならば皇居まで行って天皇陛下万歳を唱えられそうな気がすると述べたそうです。戦時中に人殺しに反対して、銃を返上したのは、戦争に反対したからです。天皇のために死ぬこと、殺すことができなかったからです。しかし、30年たって、その天皇(戦争を指導した昭和天皇)のために万歳ができるというのは、矛盾しています。これが矛盾なら、村本は戦後30年たって転向したことになります。灯台社の信念と矛盾する以上、それもまた非難されるべきです。しかし、これは矛盾でしょうか。非難されるべきことでしょうか。これが鶴見さんの問いかけです。

 鶴見さんは、最後に書いています。「そのように同時代の状況をしっかりととらえて判断し行動するということは、海外の思想を輸入してそれを大前提としてそこから論理だけによって同時代の状況についての判断を導き出すという考え方の流儀とは、ちがうものです」。戦時中に共産主義者が転向を拒否したのは、また拒否しえたのは、マルクス主義という「海外の思想」を高校や大学で学び、同時代の状況と接点を持たないまま、その思想を大前提として、そこから論理だけによって同時代の状況についての判断を導き出したからです。同時代の状況と接点を持ち、それをしっかりととらえて判断したならば、また別の判断もありえたはずです。村本は、戦後30年間、時代状況と接点を持ち、それを捉えて判断したがゆえに、天皇に対して万歳をいえる心境に至ったのです。それは批判されるべき転向なのでしょうか。鶴見さんは、「非転向の形」を論ずることによって、村本の転向が非難されるべき形ではないことを論じたかったのではないでしょうか。「非転向の形」は、「同じものへと転向する形」でもあったのではないでしょうか。

 次回は、第7章「日本の中の朝鮮」を検討します。

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