2017-01-06

鶴見俊輔-『戦時期日本の精神史』を読む(12) - Rechtsphilosophie des als ob



鶴見俊輔との対話――『戦時期日本の精神史』を読む(12) - Rechtsphilosophie des als ob

鶴見俊輔との対話――『戦時期日本の精神史』を読む(12)
2015-11-17 | 日記
 鶴見俊輔『戦時期日本の精神史 1931~1945年』ノート
 第12回 戦争の終わり

 はじめに
 1945年8月15日、15年に渡って続けられてきた戦争が終わりました。その風景は、テレビのニュース映像で見たことがある人もいるでしょう。今ではインターネットの動画サイトでも見ることができます。多くの国民が頭をたれて、いわゆる「玉音放送」から流れる天皇の声に耳を傾けているシーンが非常に印象的です。放送で話されている言葉は、日本としてポツダム宣言を全面的に認めて、降伏することを語っています。それは苦汁の決断でした。多くの国民は、天皇の肉声を始めて聞いたようです。戦争の経緯と降伏に至った理由などが複雑であるために、一度聞いただけでは理解することはできませんし、また降伏を受け入れた天皇と政治指導部の心境などの微妙なニュアンスを正確に掴み取ることも難しかったでしょう。そこで語られている言葉は、抑揚を欠いた単調なものでした。しかも、情緒に乏しい語り口調であったため、おそらくそれを正確に理解していなかっただろうと思います。しかし、彼らは天皇の言葉を聞きながら、涙を流していたのです。その限りでいえば、戦争が始まった理由、それが敗北に終わった理由がはっきりしないまま、戦後はスタートしたといるのかもしれません。そのことの意味を理解しなければなりません。私は、それはメディアの世論操作であるとは思いません。また、映像と音声を組み替えて、フィクションである史実をノンフィクションにしたとも思いません。多くの国民が玉音放送に聞き入りながら、涙を流したという事実、そして降伏宣言の意味を十分に理解しなかったけれども、放送に聞き、涙を流したという事実に注目すべきでしょう。戦争を闘い抜いた、しかし敗北した。そして、涙した。この一連のプロセスが重要です。日本国民は、米英に降伏するなら、自ら命を絶つことも辞さないと決意していました。少なくとも、そのように決意することが「顕教」の建前であると教えられてきました。涙は、その現れです。しかし、その国民が、天皇の「右向け右」の号令のように、全員が右に向き、そして占領軍のアメリカ人に対して、笑顔で接し始めたのです。そのときの笑顔の意味も正確に理解しなければなりません。

 坂口安吾という戦前から戦後にかけて活躍した文学者は、1945年8月から半年のうちに、世の中の流れと動きは変わったが、日本人だけはまったく変わっていないと皮肉な言い方をしました。日本人という存在は、他のものから影響を受けずに、常に軸足を固めて、動かない、動揺しない存在であるのか。いや、そうではない。周囲の動きや変化を察して、それに合わせて自分の位置関係を測定して、動くべき方向やその速さを瞬時にして理解できる存在である。坂口は、このように言うのです。悪く言えば、日本人は自分自信を持っていないということです。日本人である人は、考えなければなりません。坂口の指摘は、戦後直後の日本人像を批判したものではありません。今の私たちにも当てはまります。その意味では、私たちは、1945年8月の「戦争の終わり」のところにいるのです。「戦争の終わり」は、70年前の話ではなく、今の話しです。

(1)戦争前後のニッポンとオキナワ
 15年戦争では、300万人の日本人と1000万人の中国人が死亡し、さらには併合先の朝鮮半島、戦場になった東南アジア諸国において数多くの犠牲者を出しました。その最終局面において、日本人は、英米との最終決戦、本土決戦を覚悟していました。それが。日本人として最後まで戦う意思であり、姿勢でした。しかし、それを実践したのは、本土の首都の日本人ではなく、沖縄の人々でした。決戦は覚悟でしたが、実践ではありませんでした。本土でも米軍による一方的な爆撃が行なわれていましたが、沖縄では戦闘行為が展開され、大人も子どもも、男も女も戦闘員として駆り出されました。戦闘行為に参加した一般市民は、沖縄の人々だけでした。彼らこそ、最後の最後まで天皇の戦争を英雄的に戦いました。そして、戦後は日本政府によって棄民として扱われ、見捨てられました。

 1945年8月の敗戦から1951年のサンフランシスコ講和条約の締結までの約6年のあいだ、日本はアメリカを中心とした連合国の占領・管理下に置かれました。その状態が解消されるのは、1952年の講和条約の締結によってです。この条約が発効することによって、戦争状態・占領状態に終止符が打たれ、国家としての主権が回復しました。それは、日本は国際連合へ加盟し、1933年から20年ぶりに国際社会に復帰しました。しかし、沖縄では占領政策が継続され、米軍の駐留が続けられました。講和条約が結ばれたので、戦争は終わりましたが、沖縄では実質的に続いたのです。国家主権を回復した国であるにもかかわらず、そこに外国の軍隊が駐留し続けるという状態は、イラクやアフガニスタンなどでも見られます。そのために、終わったはずに戦争が再燃し、テロの標的にされています。それは今に始まったことではなく、日本においては60年前、70年前から見られ、現在においても続いています。鶴見さんは、このことが本土の人間に直接的に関係する問題であるにもかかわらず、本土にいる日本人には重くのしかかっていないと批判し、告発しています。それは、戦後の日本人の多くが、日本の中央政府と琉球王朝との関係、日本政府と沖縄県との関係、戦争が終わって再スタートした日本と戦争が継続したままの沖縄の関係のなかで、常に中央政府の側にいるからだと思います。ありとあらゆる歴史の切れ目において、日本人は、坂口安吾が指摘したように、状況に応じて態度を変えてきたのです。しかも、軍事や外交の専門家、評論家などは、それを「やむを得ない選択」であったと述べて、沖縄を犠牲にしてきたことを正当化しています。

 日本は、15年の戦争に敗北し、降伏しました。戦後は、アメリカの同盟国として生まれ変わり、それに追随奉仕する道を歩み始めました。なんという様変わりでしょうと、驚きたくなりますが、日本と日本人のそのような変化は、時代状況に合わせて自分を変化させ、そのために辺境の土地と住民を犠牲にすました。おそらく、その姿勢は一貫して変わっていないと思います。大きな力に頼って、力の弱いものを切り捨てるのが日本人の特性であるとは言いたくはありませんが、少なくとも現実に見聞きするのは、そのような日本人です。沖縄県民も「日本人」であるために、基地存続派の知事候補が敗北したとはいえ、少なからぬ票を獲得したんだと思います。

(2)戦後復興の始点としてのオキナワ
 鶴見さんは、そのような沖縄の過去と現在の状態に着目して、次のように述べています。沖縄は、戦前の日本がどういう状態であったかということを推定して、それを再設計するための手がかりを与えてくれる、そして未来の日本を設計するための手がかりも与えてくれる、そのような存在であると。明治維新以降の日本政府は、自国の領土を確定し、さらにその拡張を進めた過程において、「琉球」を編入しました。その後、日清戦争で台湾を領有し、日露戦争でカラフトの南半分を領有しました。その後は、竹島を編入し、朝鮮半島を併合しました。ただし、戦争の戦果として収めたのは、台湾や南カラフトだけです。それ以外は、戦争という手段を使って得たものではありません。この点については、はっきりとさせておく必要がありますが、第二次世界大戦の戦後処理の対象とされたのは、1931年以降の戦争の問題だけでなく、それ以前の戦争の問題、日韓併合の問題、日露戦争・日清戦争の問題も含まれます。

 戦争が終結するまで、沖縄は日本の領土の一部でした。戦争が終わって、連合国による占領政策が始まってからは、日本の領土の一部として占領されました。台湾、南カラフト、朝鮮半島のように、日本から独立することはありませんでした。サンフランシスコ講和条約が結ばれ、占領政策が終了してからは、連合国の占領権限は、アメリカに移行し、その施政権のもとで、沖縄の管理・統治が続けられました。その施政権が消滅するためには、1971年です。沖縄が本土へ全面復帰するまで待たなければなりませんでした。しかし、その後も変わらずアメリカ軍の駐留は続き、現在にまで至っています。

 講和条約によって、日清戦争によって得られた台湾を中華民国に返還し、日露戦争によって得られた南カラフトをソ連・ロシアに返還することになりました。これは、日清戦争・日露戦争の問題であり、それぞれの講和条約によって、一応は解決を見たはずだったのですが、第二次世界大戦・太平洋戦争の講和の問題として扱われました。法の論理ではなく、政治の論理だと思います。竹島の問題、日韓併合の問題は、一応は戦争とは無関係なのですが、これもまた第二次世界大戦・太平洋戦争の講和の問題として扱われました。

 総じて述べると、明治維新後、日本政府が、その領土を確定し拡張するために、沖縄を皮切りに、様々な国と地域を編入したことの歴史の全てが、サンフランシスコ講和条約の対象になったということです。それは狭い意味での15年戦争、太平洋戦争だけの問題ではないとして扱われています。従って、この問題を考えるときには、真珠湾攻撃から始まった戦争だけではなく、明治維新以降の領土拡張政策、そのための対外的な軍事的進出の全体を念頭に置かなければならないでしょう。その意味において、過去の日本がどのようなことを行なったのかを知る手がかりを、沖縄が与えてくれるというのは、その通りだと思います。

 この手がかりは、過去の日本の歴史を正確に調べ、それを未来へとつなげる意味を持っています。現在の日本は、とくに沖縄は、鶴見さんによれば、アメリカの対アジア戦略の拠点、軍事的拠点として位置づけられています。そのような軍事的拠点があるために、ロシア、中国、北朝鮮との間に緊張関係が生じています。かつてのソ連・中国は、軍事的・イデオロギー的にアメリカと緊張関係にありました。1960年代、70年代は、日本はアメリカの同盟国として、それらの国々と敵対関係にありました。また、実際にもベトナムで行なわれた戦争にアメリカに協力しました。ベトナムは、戦後直後は統一国家でしたが、1946年から南北に分断され、1962にはアメリカは南ベトナムに軍事的協力をして、北ベトナムに侵略戦争を戦争をしかけました。それがベトナム戦争です。その戦争は、日本は自衛隊の活動範囲に入っていなかったため、それには直接的に派兵することは、憲法上の制約があったためできませんでしたが、沖縄の米軍基地にある戦闘機がベトナムに向けて飛び立っていましたので、間接的に協力していたことになります。また、ベトナム戦争に直接的に関わり、また協力した国々の戦争責任などが、十分とられていないことを考えなければなりません。日本だけでなく世界各国が関与したベトナム戦争は、第二次世界大戦後に行なわれた現代型の侵略戦争でした。強大な国家連合が小さな北ベトナムの人びとに対して行なった「人道に対する罪」でした。その責任は、まだ完全に明らかにされていません。

 それは、戦争責任の問題ですが、日本としては、さしあたりアジア諸国との関係を構築する課題として位置づけ直して考える必要があります。鶴見さんは、1980年代の時点において、この問題を1960年代以後の日本の経済的膨張政策をやめて、アジアの隣人たちに権利を実現する課題として見ています。つまり、日本は経済大国アメリカの同盟国として歩調を合わすことによって、戦後の経済復興を遂げてきました。アメリカと敵対していては、経済的に再生することは不可能だったので、日本の資本家はアメリカと歩調を合わすことによって、その範囲内で自己の経済的権益を追求することを選んだわけです。従って、日本の資本家は、アメリカの資本家とその政府に対して基本的には敵対しない、それに従属することによって、自己の権益を追求することを決めたわけです。ですから、彼らの利益を代弁する日本政府もまた、アメリカの資本家と政府の路線を基本的に承認するわけです。また、そのおかげで日本の国家行政を管理する地位にいられるわけです。その結果、東アジア、東南アジアの諸国の経済に対して、どのような影響を与えているかを考えると、日本が対米従属国家としての経済政策のもとで、アジア諸国とその国民の経済生活を圧迫しているという現実に直面せざるをえません。この圧迫は、日本の対外的な経済膨張政策の表れです。従って、この経済的膨張政策とその背景にある対米従属政策、さらには沖縄などに配備されたアメリカの対アジアの前線基地政策を批判していかなければならない。鶴見さんは、このように主張しています。

 鶴見さんの主張は、たんなる政策の提言にとどまりません。鶴見さん自身が、1960年代からベトナム反戦運動に深く関わり、そのリーダーとして活躍したことにも現れているように、一個人として、できることを行なってきました。それは、「ベトナムに平和を!市民連合」という名前の運動であり、決して組織にこだわらずに、政党組織から自由に行なわれた運動として、日本の市民運動の歴史に名前を残しています。

(3)戦後日本における実存主義の思想傾向
 毎年8月6日には、広島で、8月9日には、長崎で、自治体によって原爆の被害を追悼し、記憶する集会が主催されてきました。政府の関係者が出席し、過去の戦争を振り返りながら、平和な未来を約束してきました。そのために、日本社会の現在の位置関係を測定する作業が繰り返しおこなわれてきました。8月15日には、政府主催で「戦没者」を慰霊する集会が開催されてきました。15年戦争で尊い命を落とした人びとのために、そして現在にまで続く社会のために、平和への祈りが捧げられてきました。このような集会は、様々な意見や批判にさらされながらも、今日まで続けられてきました。そこにあるのは、「戦争の犠牲」という意識です。

 戦争によって多くの人々が犠牲になったのは確かであり、その戦争の原因を明らかにしなければなりません。それは、おそらく二項対立の単純な構造で説明できないと思います。原爆のような大量破壊兵器を用いたアメリカの主張、その被害を受けた日本の主張をも含めて、その原因と責任を明らかにしていかなければなりません。ただし、この戦時期に形成された日本の精神史という観点からは、この戦争の全過程は複雑で、その分析も容易ではなさそうです。鶴見さんは、戦争が終わってから、その時期を「大人」として生きた日本人が、敗戦、降伏、アメリカ軍による占領に対して、どのような態度をとったかという点について、彼らの態度を「転向」という言葉で批判しています。それは、1930年代の共産主義者が天皇制に屈服し、それに迎合していったときの態度を表すときの言葉です。しかし、そこには大きな違いがあります。

 戦時期の大人たちは、戦争中にどのような態度をとっていたか、そして戦後どのような態度をとったか。戦時期には、この戦争は正義の戦争である、そのために命を捧げるのが国民の使命であると、子どもたちに教えてました。小学校から大学までの教師、政治家、官僚、など国家の指導者、厳しい選抜試験をくぐり抜けエリートがそうです。しかし、彼らは、戦後、突如として態度を翻したのです。「あの戦争には勝ち目はなかった」とか、「私は、実は戦争に対して反対であった」とか、「言論統制があまりにも激しかったために、自由なことが言えなかった」とか、「戦争を批判すると、共産主義者のように命の危険があった」とか、その言い分は様々ですが、異なる発言をし始めました。また、「私たちは何も知らされていなかったので、戦争の本当の目的や状況を知るすべがなかった」とか、「ジャーナリズムや新聞は本当のことを報道しなかったため、世論が誘導され、戦争政策の都合のいいように形成されてしまった」とか、様々なことが言われました。それは、そうかもしれません。彼らが嘘を言っているとは言いません。そのような状況がなかったとはいえません。しかし、そうだとしたら、今度こそは、自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の責任において行動しなければなりません。戦時期の大人は、以前とは正反対の態度、戦争から平和へ、戦争遂行から戦争反対へ、米英を敵視する視線から米英を友人と見つめる視線へと変化させましたが、これは、自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の責任において行動した結果なのでしょうか。おそらく違うでしょう。状況に合わせて、態度を変えただけでしょう。鶴見さんは、これを「転向」とよんでいるのです。中身のない態度変更、軽薄な意見の変更、無責任な立場の表明、信用しがたい人間性の露呈。戦後の大人の「転向」は、このように批判されてしかるべきものです。

 1931年から15年のあいだ初等教育を受けて、成長の過程にあった若者は、どうでしょうか。おおよそ1920年から1930年ころに生まれ、終戦当時、15才から25才くらいの若者たちは、どのような態度をとったのでしょう。彼らの心境は、一言でいうと、「不信の観念」です。大人たちについてもう少し説明しておくと、彼らは日本のエリートとして、選抜試験に合格し、一種の身分を与えられて、西洋の科学と思想、学問と知識を身に付ける機会を与えられた人びとです。日本の歴史と社会、文化と伝統を、ヨーロッパの学問の立場から眺めて、相対化し、批評することができた知性の持ち主です。民主主義であるとか、共和主義であるとか、普通選挙制度であるとか、様々な社会制度について学んだことがある人々です。つまり、平和や民主主義の意味を一度は学んだことのある人々です。そのような「知性」の持ち主ですから、戦後にそのような考えが社会に普及されたときに、自己の方向指示器を、その方向に変え、転向することは、いとも簡単に行なえたのです。彼らの知性は、激変する時代に適応する能力として威力を発揮したといえます。それに対して、子どもたちは、一度たりとも、日本の歴史と社会、文化と伝統をヨーロッパから眺めて、相対化するようなことをしていません。民主主義、共和主義などの社会制度について学んだこともありません。彼らが教えられ、信じてきたのは、天皇は現人神であること、この戦争は正しい戦争、正義の戦争であること、命を賭けてその勝利に尽くさなければならないことだけです。従って、平和や民主主義の意味を学んだことはありませんし、戦後に適応するための知性も持っていません。彼らは、戦後、先へ先へと進んで「転向」する大人たちの背中を見ていました。そこに見えたのは、孤立感と人間不信、社会不信だけです。

 彼らの心境は、現代人にも、また今の若者にも共通してあると思います。鶴見さんは、それを『現代日本の思想』(岩波新書)のなかで、「戦後の実存主義」として検討しています。非常に興味深いです。

(4)国家と体制の精神史と個人と現場の精神史
 鶴見さんが、『戦時期日本の精神史』のなかで触れていたことに、「大前提の問題」と「小前提の問題」という発想のレベルがあります。これは対立関係にはないので、分けて考える必要があります。

 「大前提の問題」というのは、国家や社会の編成原理・構成原則から演繹して、あるべき国家や社会の編成・構成の方向性を探り、それを実践するという課題です。これに対して、「小前提の問題」というのは、国家や社会に編成・構成という大きな枠組みに収まらない(かのように見える)些細な事柄を国家・社会の枠組みのなかに再編成する課題です。これは、1920年代の共産主義運動において影響力を広めた「福本イズム」が、共産主義・社会主義の原理原則から論理的に演繹して、日本資本主義の変革の方法と方向を「唯物論」的に解き明かし、その変革の途上において天皇制の問題を軽視した(軽く見た)ことに対する反発に起因しています。私自身は、1920年代ドイツの法哲学の理論動向が、自然科学的・実証科学的な発想方法を批判し、また存在と当為の二元主義をも乗り越えるために、主客融合の存在論、当為による存在の弁証法へと展開していったことを学ぶ中で、鶴見さんと同じような問題意識を持ったことがあります。科学や思想の原理・原則は、「大前提の問題」の考察を容易にしてくれますが、それに収まらない「小前提の問題」を軽視する傾向があります。しかも、「大前提の問題」は、原理・原則という鉄の法則から導き出されるため、批判を受け付けないという硬直性と唯我独尊的な性格があります。従って、「小前提の問題」は、国家や社会の基本的な枠組には影響を及ぼさないものとして退けられる傾向がります。科学と思想、理論と知識に基づいている原理・原則には、「大前提の問題」を中心に考察する全体中心の傾向へと陥っていき、小さな問題を切り捨てていく、マイノリティーを抑圧していく(小数点以下は切り捨てる)危険性を内在させているわけです。従って、その「大前提の問題」を重視する傾向、すなわち全体主義的な理論傾向に対抗していくためには、「小前提の問題」を「全体」のなかに位置づける新しい方法を考える必要があります。「小前提の問題」を「大前提の問題」に解消させず、そこに埋没させない方法論、小前提の問題の非同一性を確保し続けるような方法論が必要です。しかし、その方法論の構築は、まだ十分には行なわれていないように思います。

 鶴見さんは、そのような問題として、国家・体制の精神に対して、個人と現場の精神を対置させ、国家やシステムに絡め取られない強い個人の精神、個人が今いるところから吸い上げられて、全体のなかに吸収されずに、ずっと今いるところに居つづける個人の精神を発見し、強化していかなければならないと主張しています。しかも、実践しています。それが、原爆反対の署名運動であり、1960年の安保闘争のときの学生運動であり、1960年代後半の「ベ平連」の運動です。おそらく、その後行なわれた消費者運動や公害反対運動なども、これらの運動の延長線上に位置づけられることでしょう。現代で言えば、脱原発、秘密保護法廃止、安保法制廃止、などの自由な運動もそれに含まれるでしょう。これらの運動は、ある程度は政党組織と共通する方向で進んでいますが、運動の担い手は、政党を後方支援するという意識はなさそうです。政治の全体状況に巻き込まれることに警戒しながら、政治の全体状況から見ると、小さな問題に過ぎないテーマであっても、それを主題にして取り組んでいます。このような運動が「市民運動」というものでしょう。その主題のなかには、政治の全体状況が根本的あるいは部分的に変わらなければ、実現できないものもあるでしょう。また、それとは無関係に実現できるものもあるでしょう。しかし、このような政治との関わりを意識しながら、市民運動に取り組むことが重要なのだと思います。政治は経済状況や国際関係によって左右されることがありますが、そのような力に左右されない運動に地道に取り組み始めた人がいるのです。かつての鶴見さんも、その1人です。そのような人が、あえて戦時期日本の精神史を論ずるというところに意味があると思います。個人の精神、思考は、残念なことに、過去の歴史においては、政治の全体状況に巻き込まれてきました。そのため、多くの人々が戦争に協力したり、少数者を差別・抑圧する側に立ってきました。そうならないようにするためには、どうすればよいか。平和や民主主義を唱えているだけで十分でしょうか。鶴見さんは、そのようにならないために、政治の全体に吸収されない個人の精神のあり方を問題にしていると思います。この点については、多くの思想家が考察してきたことでもあるので、引き続き考えたいと思います。

 第13回・14回・第15回は、番外編としまして、50年前に公刊された宮川透『日本精神史への序論』(紀伊国屋新書・1966年)を解説したいと思います。

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