2017-01-06

鶴見俊輔―『戦時期日本の精神史』を読む(03) - Rechtsphilosophie des als ob

鶴見俊輔―『戦時期日本の精神史』を読む(03) - Rechtsphilosophie des als ob
2015-10-08 | 日記
 鶴見俊輔『戦時期日本の精神史 1931~1945年』ノート
 第03回 鎖国

 はじめに
 鶴見さんの話を読んでいて、カナダの地図には、南側のアメリカとの国境線が明確に記載されているのに対して、北東部の国境線はあいまいで、はっきりしないということを初めて知りました。世界地図を広げて、カナダの地図を見ましたが、カナダは南側はアメリカと接していて、国境線が明確に引かれています。北西側もアメリカのアラスカ州との間に国境線が引かれています。カナダとアメリカの領土の区分けは、当たり前の話しですが、明確にされています。しかし、東北部は、デンマーク領のグリーンランドとの間に国境があるのは確かですが、明確ではありません。人が住んでいないためなのか、はっきりとした国境線がなくても、問題はないようです。

 カナダの南部と北西部において、アメリカとの国境が明確にされているのは、領土意識がはっきりしているからです。そこから外国の勢力が侵入し、襲いかかってくるかもしれないという、素朴で自然の領土意識があるからです。しかし、北東部はそうではありません。国境の向こうにあるのは、1721年以降オランダの植民地になったグリーンランドです。そこから侵入してくる者がいるとは考えにくいと思います。しかし、島国である日本の感覚からすれば、陸と海という空間的な境目がはっきりしているので、ここからここまでが日本の領土であると明確に意識され、地図の上では、国境線がはっきりと引かれています。近隣諸外国との間で、領有権が争われている島々の問題はありますが、日本政府と外務省の基本見解によれば、そこにおいても国境線は明確に引かれています。ただし、日本地図の上で国境線がはっきりと引かれているからといって、日本人がカナダ人と同じ様に外敵からの侵入に対して危機感を持っているわけではありません。実感としては、その反対ではないでしょうか。海に囲まれているために、簡単に外から攻めてこられないと意識されているのではないでしょうか。鶴見さんは、そのような意識を「鎖国性」というキーワードで捉えています。

(1)文化的な鎖国性について
 日本という国が全体として海によって囲まれた島国であることから、文化の面において、日本人が持っている意識について考えてみますと、鶴見さんによれば、それは「劣等感」という形で意識されるといいます。地理的な鎖国性が文化的な劣等感として現れるというのは、興味深いところです。

 日本以外にも、島国はたくさんあるので、島国だからといって鎖国性があるとは限りません。また、文化的な劣等感にさいなまれているわけではありません。日本は、様々な文化を中国やインドから取り入れてきました。中国やインドが、そのような文化をどのようにして形成したのかは、ここで詳しく説明しませんが、日本が文明や文化の発達した国から遠く隔たったところにあったという事実は、当時の日本人には、日本の文化は、高度で普遍的な文化よりも劣った特殊な文化であると感じられ、それが文化的な劣等感として意識されたのかもしれません。実際には、決してそうではなく、固有の文化で優れたものもありましたし、比類のない高度なものもありしたが、全体としての意識は、中心から隔たっている、普遍的な文化から離れている、進んだものから遅れている、といったものだったようです。そして、それが諸外国から新しい文化を取り入れて、吸収し、日本に応用するという好奇心や向学心を高めるきっかけにもなりました。

 このような地理的鎖国性に由来する文化的劣等感は、諸外国と日本との間において現れるだけではありません。「外国と日本」という関係を「横軸」として捉えると、日本の「中央政府と地方自治体」、「首都と地方都市」、「都会と田舎」、「県庁所在地と周辺市町村」という関係が、「横軸」として浮かび上がってきます。京都市に住んでいる人は、「京都に住んでいます」といいます。横浜市に住んでいる人は、「神奈川に住んでいます」とはいいません。大津市に住んでいる人はどうでしょうか。よく分かりませんが、中心と周辺の地理的・文化的な関係が、明確に意識されていると思います。鶴見さんは、それを太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)の対話によって展開される大道芸の世界から説明します。太夫と才蔵とは、平安時代から続いている歌と踊りの伝統芸能です。簡単にいえば、漫才のようなものです。2人は、正月に宮廷に招かれて、「今年一年はこんないい年になりますよ」と予言して、身分の高い人の前で滑稽な娯楽芸を披露します。それは、いつしか庶民の文化としても広がっていったそうです。いまでも漫才やコントを見ていて思うのですが、いわゆる「ボケとツッコミ」の掛け合いによって、話しが展開されていきます。その原型は、太夫と才蔵にあるように思います。話の展開としては、まず最初にボケ役が話題を切り出し、ツッコミ役がそれを受けて話を進めます。そこでボケ役がピンボケなことを言い、愉快な話へと発展していきます。大体の場合、ボケ役がベタな話しぶりで、ツッコミ役ははきはきと話します。漫才コンビの中には、ボケ役が不細工な表情をつくり、ツッコミ役がその分だけハンサムな印象を受けます。また、ボケ役がすこし頭の回転が遅くて、ツッコミ役が物事に対して機敏に反応し、指摘するような場面もあります。そこには、対称的的な2人の人間、対称的な2つの文化、対称的な2つの世界があります。しかも、そこには上下関係、優劣関係のようなものもあります。鶴見さんの説明によれば、太夫と才蔵の漫才の筋書きは、遠いところからやってきた身分の高い客人の神と、文化的洗礼を受けていないために、作法知らずの土地神との出会いのもとに繰り広げられます。両方とも神様ですが、違う場所で生まれ育ち、違う文化に親しんできたので、衝突と対立があります。最終的には、遠来の客人の神様が、土地神に対して優勢に終わるというストーリーです。ここには、縦軸の関係、中央と地方の対立関係と上下関係が暗示されています。また、先進的な首都の文化とそれより遅れた地方の文化の優劣関係、あかぬけた都会的なセンスとダサい田舎くささのコントラストのようなものも感じられます。

 中央の文化、先進的な都市の文化は、横軸でいうと、外国から取り寄せられた文化、「輸入文化」です。地方の文化は、土着の文化です。外国語を交えながら、ボキャブラリー豊富に話をするのは、輸入文化の代表者です。「シックなドレスのファッションショー」という感じです。口数少なく、論理不明、意味不明に話すのは、土着文化の代表者です。輸入文化は、宮廷風の正装をした端正な人物によって代表されます。シックなドレスは憧れの的です。土着の文化は、やぼったい衣装を着て、口を半分開けたままうなずく田舎者によって代表されます。輸入文化は、論理的であり、定型的に人を納得させます。その説得力は、学問に裏づけられた権威そのものです。土着の文化は、相手に理解してもらおうとするために、感情的であり、話しがあちこちに飛びます。鶴見さんは、この二分法が、日本の文化史と日本人の精神史において、千年以上にわたって生き続けてきたといいます。それは文明と文化、西洋的な合理主義と東洋的な非合理主義、科学的な法則による説明と神話的な言い伝えによる納得のように対立するものでもあります。私は、アメリカ人やイギリス人の合理主義的思考が、あまりにも割り切った、無機質な考え方であるように思えてしかたありません。この人たちには感情の迷いのようなものはないのだろうか疑いたくなることがあります。もしかすると、私の疑問の背景には、鶴見さんが説明したような文化的な劣等感があるかもしれません。その意味では、島国ではありませんが、ドイツ人の哲学の方が私の肌には合うようです。

(2)個人における文化的・精神的葛藤について
 日本の文化史と日本人の精神史におけるこの二分法は、優越する文明と学問を独占する少数者と劣等な文化と知恵に甘んずる多数者に人々を分断します。しかし、それだけではありません。優越する文明と学問に慣れ親しんだ1人の文学者や哲学者、思想家の内部において、葛藤や矛盾としても現れます。しかも、鶴見さんは、鎖国と文化的劣等感が転向へと結びついていくと分析しています。

 文化的劣等性と転向の関係、文化的な劣等感が転向という形で表れた実例として、鶴見さんが名前を挙げているのは、伊藤整という文学者です。伊藤整は、小林多喜二と同じ小樽の学校に通っていました。多喜二は、共産党員でした。1933年、治安維持法違反の疑いで特高警察に逮捕され、リンチと拷問によって虐殺されました。多喜二は、マルク主義による人間の解放の科学的・法則的必然性と洞察して、日本共産党の党員として、またプロレタリア文学を代表する作家として活動し、それゆえに死に追いやられました。伊藤は、共産党員ではありませんでした。マルクス主義やプロレタリア文学から慎重に距離をとりながら、また左翼の政治活動に関わらないようにしながら、西洋の心理学的文学の影響のもとに創作活動を続けていました。左翼政治に関わらなかったたとはいっても、彼が右翼的な思想の持ち主だったとことを意味しません。

 伊藤の文学的立場は、心理主義文学あるいは新・新心理主義というものです。それは、物理主義や唯物論とは本質的に異なります。世界とは、社会とは、人間とは、という大きな問題に対して、唯物論は、自然法則的・科学法則的な認識に基づいて、その運動と必然性を説き明かします。何に価値を見出すかという質問に対して、世界と社会の科学的な発展法則と必然的方向性を洞察し、それを実現することに価値を見出します。多喜二は、それゆえに歴史の法則を押しとどめようとする天皇制の打破のために戦い、天皇制警察の餌食になり、虐殺されたのです。伊藤の心理主義の立場からは、何に価値が見出されるのでしょうか。心理主義によれば、価値とは、個々人が求めること、すなわち「欲しいと思う気持ち」であると定義されます。その結果として、科学的・法則的によって実証されるような普遍的な価値というものは存在せず、ある人物において価値があるものは、多種多様で、かつ常に変化・発展するものになります。昨日まで価値あるものとして求められていたものでも、今日それが同じ様に価値あるものとして求められるとは限らないということです。このような心理主義を徹底すると、価値あるものが求められるというのではなく、求められるものが価値あるものだということになります。しかし、このような心理主義の立場であっても、求められてはならないものが目の前で起こっている場合、それを否定し、拒否し、求められてはならないものに対して、求められるべきもの、すなわち価値あるものを対置させることになります。多喜二のようにマルクス主義の科学的知見に基づいて、歴史の発展法則に確信を持ち、それを加速させる革命運動に身を投げ出すことに人生の価値を見出すことは、1930年代においては、天皇制に対抗することを意味しました。西洋の最先端の文明に基づいて、日本の遅れた土着の神話と伝統を否定することでした。それは命がけのことでした。それを考えると、伊藤が心理主義の立場に立ちながらも、あえて左翼政治に傾倒しないよう慎重な態度をとったことは、土着の神話的な文化からだけでなく、それを徹底的に批判する西洋の輸入文化からも距離を置き、可能な限り自由な立場を維持しようとしたものだと言えそうです。伊藤が心理主義的な文学を探求していたことは、何に対しても等距離であったというより、多喜二と同じ様に、現実政治のなかにある土着の文化・精神を退け、欧米の輸入文化と科学に軸足を置いていたと言うこともできます。

 しかしながら、1941年12月に真珠湾攻撃が行われ、対米英戦争が開始されると、伊藤の態度は一変します。伊藤は、「我が知識階級――この感動萎えざらんが為に」というエッセーと「戦争の文学」という評論をは発表します。そのなかに、伊藤の態度の変化が現れています。伊藤は、小樽商科大学を卒業した1927年頃までは、地元の中学校で英語の教師として働いていました。その時代にイギリス人とアメリカ人を模範として生活していましたが、それは憧れ気持ちと同時に、劣等感があったからです。伊藤は、1941年に開始された戦争は、この劣等感にはけ口を与え、それを追い出すチャンスであったと述べました。また、文学は人間をテーマにしてきたが、抽象的な人間、人間一般というものなど存在しない。存在するのは、日本人であり、アメリカ人であり、イギリス人である。文学は、このように人間の具体的で直接的な存在を描かねばならない。伊藤は、このように考えました。日本の文学が描かなければならないのは、日本人であり、それに合理も非合理もない。日本の伝統・文化が非合理なものであり、その非合理なものに育まれた日本人が非合であるならば、非合理なものとして描くべきである。進歩した文明の言葉ではなく、遅れた土着のことばで表現しなければ、表現できないのであれば、そのまま描かなければならない。伊藤は、ためらうことなく決意しました。伊藤は、アメリカ人やイギリス人を模範にしてきた自分を反省し、対米英戦争の開始をきっかけに、日本人としての誇りと自覚を取り戻した、あるいは取り戻そうとしたのかもしれません。

 しかし、戦争の開始によって心の中で沸き起こった興奮は、敗戦とともに、空虚なものになりました。興奮から空虚へと向かう精神の過程は、日本の文化史と精神史の歩みそのものです。西洋の文明と科学と文化は、日本の先を行く先進的なものであり、伊藤はそこから多くのことを学んできました。彼は文学者として、心理主義の方法に基づいて、現実の政治や様々な政治運動から、自己の精神的自立を守り、確保してきました。それは、自由主義の思想として、伊藤の中に深く根付いたといえます。しかし、それは劣等感の裏返しでしかなかったのです。劣等感は、我慢することができても、消せるものではありません。自分の体に染みついた土着の文化は、洗い流すことのできない自分自身でした。意味不明・論理不明な言葉でしか表現できないものこそ、アイデンティティーでした。中央政府から遠いところにいる実感、先進的な文化から隔たっている感覚は、偽りのない本音でした。対米英戦争の開始が、そのような本音をさらけだすことを可能にした。つまり、欧米の発展したものに別れを告げて、日本の土着的なものへと転向し、回帰するきっかけになったのです。

(3)転向の背景にある文化化的・精神的葛藤について
 このような文化的劣等感と鎖国性は、転向の問題に直結しています。日本の鎖国政策は、明治維新の前に解かれましたが、文化的・思想的な鎖国状態は、いぜんとして続きました。鶴見さんは、それを具体的な例をあげて説明しています。

 自由主義経済学者の小泉信三は、今の天皇が皇太子だったときの教育上の助言者としての仕事をし、皇室が戦後の民主主義の時代にふさわしいものになるためには、皇太子が民間人と結婚する必要があり、それによって日本の皇室を欧米の舞台に近づけることができると論じていました。日本の伝統的な皇室のあり方については、それ自体として維持しながら、その制度のあり方を、世界の動き、国際社会の動向に合わせて、変化・発展させていかなければならないと考えたようです。この小泉信三の発想は、その経済学者に相応しい国際的な視野と感覚の現れであったとい言われています。しかし、このように天皇制と国際社会との関係を論ずる小泉信三の国際感覚は、彼が戦争中のことについて書いた文章からは感じられません。彼は、太平洋戦争で、誰それが戦死した、山本五十六海軍大将が亡くなった、海軍士官がなくなった、多くの兵士がなくなったと戦死者をその階級によって区別して書いていますが、それだけです。日本は、他の国と戦争を行なっているわけです。一方の当事者である日本の兵士の戦死だけに関心が向けられているというのは、何故でしょうか。国際人である小泉は、敵国であっても他国の事情について書き表さなかったのでしょうか。日本と他国が対立し、衝突し、戦争しているとき、二つの文化が闘っているとき、日本人の国際感覚と想像力は、たとえ小泉信三のような国際人であっても、日本や日本人という境界線を越えることができなかったのです。国際的な視野で物事を考えることができなかったということです。これが文化的・思想的な鎖国状態の一つの典型です。

 その当時、国際感覚のある経済学者でさえ、戦争の問題を日本と外国との関係において捉えることができないでいます。日本の問題、日本人のことについては、他国との接点が見失われ、孤立的・鎖国的な視野に埋没しています。なぜなのでしょうか。自分のことを語るときに、常に他者を引き合いに出す必要はありませんが、それでも戦時中の出来事については、世界や他国との関わりを抜きにして、自国と自国民を語ることはできません。それを思うと、小泉の語り口調は、やはり奇異に感じます。これは、鎖国性に起因する閉鎖性、またそれによる自足性と自己完結性と言えるかもしれません。また、個人の単位で考え行動するというのではなく、集団の単位で決められたことを実現するためにまとまる行動様式としても理解できるのではないかと思います。例えば、加藤周一さんが、日本の鎖国性は日本文化の特質であり、それに由来する日本人の気質・症状に「忠臣蔵症候群」があると述べています。「忠臣蔵症候群」というのは、分かり易く言えば、日本人は集団で行動しますが、その集団の目標は最初の設定され、その確固とした目標を実現することが求められます。集団の知恵は、集団のまとまりを維持しながら、いかにしてこの目標を実現するかということに向けられます。ここで重要なことは、この集団は最初に設定された目標を作り変えようとは考えないということです。最初に設定した目標には長所もあれば、短所もあります。短所は正していくべきものです。しかし、ここには文化的・精神的な障壁があるため、そうは簡単にいきません。どういうことかというと、日本人の集団のなかでは、すでに存在するもの、受け継がれてきたもの、既存のものは、伝統も、文も、思考様式・行動様式も、尊重され維持されるということです。政治的な目標も、経済的な目標も、そのまま引き継がれるということです。それを是正したり、改革する動きは、組織の中からは生まれてきません。それは外からやってきます。つまり、集団の目標を変え、集団そのものを変えるという発想は、鎖国性と閉鎖性を解き放つ思想に基づかない限り、生まれては来ないということです。

 この鎖国性・閉鎖性という文化の特徴がもっとも深刻な形で現れるのが、戦前の東大新人会や共産主義者の転向です。彼らは、一方で明治維新以降の教育制度・学歴制度のなかで、国家の政治・経済の指導者として選抜され、将来を約束された人々でした。国家の政治・国家の経済を支えるのは一般国民であり、彼らはその国民を指導するリーダーでした。その限りにおいては、鎖国的で閉鎖的な世界のなかにいたわけです。しかし他方で、彼らは指導者としての能力を高めるために、積極的に西洋の科学と文化を吸収しました。文明と科学技術の発達した国の最先端の学問を学ぶために、ある者はアメリカに、またある者はヨーロッパに赴いて、異国の言葉で学問をしてきたわけです。その限りにおいては、鎖国状態から解放され、閉鎖的な自己を打ち破っています。つまり、東大新人会の若者は、文化的・精神的には日本と西洋の中間に位置し、考えるときは西洋的な学問にもとづいて考え、異国の言葉を使い、また行動するときは選抜された日本的な指導者として日本的に行動するといったように、折衷的であり二律背反的であったわけです。そんな彼らが転向するとき、どのような心理的な葛藤を経るのかと言うと、鶴見さんも指摘しているように、彼らは集団の人間関係、土着の日本文化と対面し、結果的にはそれを乗り越えることができないまま、日本的なものに包み込まれていったということです。

 例えば、治安維持法違反で逮捕された学生活動家を取調べ、転向を迫るのは、検察官です。1930年代の検察官の多くは、その数年前に東京大学法学部を卒業した人たちです。取調べられる学生もまた東京大学法学部の学生です。取調べる側は土着の日本思想であり、取調べられる側は西洋の社会主義思想であり、そこには文化的に大きな隔たりがあります。しかし、幼少頃からの生い立ち、学んだ校舎、通った図書館、読んだ本は共通しています。所属のゼミや研究室が同じであるという例もあったでしょう。考えるときの言葉、専門用語が同じで、同じ思考のプロセスを経てきた者同士です。当時の取調べである以上、厳しい追及や拷問もあったでしょうが、人格そのものを否定することはしない、正しい道に導いてやるという温情的な作法のようなものがあったのではないかと思います。西洋の科学と学問は、若い学生活動家に貴重なことを教えてくれました。日本にはない新しい知識と技術を伝えてくれました。また、それがあったからこそ、明治維新以降の日本は急速に近代化を遂げることができました。しかし、それが日本の土着の思想や伝統・文化を全面否定する理由になるのでしょうか。天皇制を廃止し、民主主義から社会主義へと日本を発展させることを正当化することができるのでしょうか。その問題に直面したとき、文化的・思想的な葛藤を避けて通ることはできません。日本的なものと対決し続けるのか、それとも飲み込まれるのか。その緊張関係は、中野重治の「村の家」に表されています。

(4)「村の家」に表された日本的封建制の「優位性」
 中野重治は作家であり、かつ共産主義運動家です。彼は、1930年代の前半に厳しく弾圧され、転向を表明し、共産主義運動から離れていきます。そのようななかで、1935年に書かれたのが「村の家」という作品です。この作品には、当時の中野の文化的・思想的葛藤が表されています。

 作品の主人公は、共産主義の文学運動に関わったことを理由に逮捕され、転向声明の書面に署名し、釈放された者です。もう二度と、共産主義の運動には関わりませんと約束したので、刑事裁判にかけられることなく釈放してもらえました。彼は、日本海沿いの農村にある父の家に帰ってきます。「村の家」です。父親は、息子に対して、お前は共産主義の理想を信じ、その実現のために闘い、敗北した。共産主義運動が敗北したのではなく、その信念を貫けなかったお前が敗北したのだ。自分で選んだ政治信念のために死ぬこともできなかった者は、これまで書いてきたのと同じ作品を書くことはできないはずである。また、異なる作品であっても、「書く」という作業をこれまでと同じようにはできないはずである。父親は、このように話します。しかし、それでも主人公は、「よくわかりますが、やはり書いていきたいと思います」と答えます。彼は、警察から拷問を受け、今後は政治活動をしないと宣言しましたが、組織の秘密を話したり、同志を売ったりするようなことはしませんでした。また、共産主義運動に関わらないと約束しただけで、自分の思想的立場そのものを放棄するようなことはしませんでした。それは、天皇制警察が自分を全面的に否定し、虐殺するかもしれないことに対する、ぎりぎりでの抵抗でもありました。転向は、その限りでの転向だったのです。だから主人公は、「やはり書いていきたいと思います」と述べたのです。主人公の主張には、一定の論理性と根拠があります。人を説得するだけの内容を持っています。しかし、主人公の父親は納得しません。論理だとか、根拠だとか、様々言われても、納得できないのです。西洋の合理主義思想を学んだ者であれば、主人公の言い分に納得するでしょう。しかし、日本的な土着の思考方法では、そのような理屈っぽい言い訳をされても、腹に落ちないわけです。説得力というものは、論理的である必要はないということです。主人公は、共産主義運動、プロレタリア文学運動の指導者として、多くの日本人に対して、社会変革の必然性と人民の解放の重要性を訴えたのです。その訴えに共感して、多くの人々が後をついてきたのです。そして、自分だけでなく、そのように善意の人を、共産主義運動に巻き込み、傷つけてしまったのです。天皇制警察に対して、形ばかりではあっても、転向を表明しながら、これまで通り、文学活動を続けることができるのか。自分の後をついてきた人に対する償いはどうするのか。それが、共産主義やマルクス主義から見て許されるとしても、「村の家」に住む父親には許されない。一農民である父親の立場から見て、まともな人間であれば、転向しておきながら、文学活動を続けることなどできないはずだというのです。父親は、このような素朴な心情を、科学的・合理的に説明しているわけではありません。説得力があるかというと、それも疑わしいものです。父親は、「自分はこう思う」と言っているだけです。しかし、そのような素朴な心情が、都会から遠く離れた農村の村の生活を保ってきた力なのです。貧しい農村の生活は、論理性や科学性によって維持されてきたのではなく、土着の感情によって支えられてきたということです。共産主義の理屈は、この素朴な心情の持ち主を説得できるでしょうか。それよりも深い感情に裏づけられているでしょうか。そうではないでしょう。父親の素朴な感情は、学問的でもなければ、文化的でもありません。土着の考えにすぎません。非合理的なものでしょう。しかし、主人公はこのような素朴な心情を乗り越えることができなかったのです。西洋の学問をいくら学んでも、この素朴な感情の前では無力だったのです。この感情を無視して、日本社会を変革するなどと主張してきたことが、非常に陳腐に思えてきたのです。そのようなことよりも、この感情に正面から向き合い、それに身を委ねることの方が、安らぐことに気づいたのではないでしょうか。それは、土着の文化の頂点にある天皇制への帰依と回帰につながっていきます。つまり、本当の転向に向かっていきます。

 中野は、「むらぎも」という作品のなかで、主人公の深層心理にある感情が、実はマルクス主義の科学思想よりも強いことを描いています。輸入された西洋科学の言葉は、理論的で説得力があります。しかし、それで人の心をつかむことができるのか、人を動かすことができるのか。人は言葉で動くのではない。それが日本の大地に根付いたとき、昔からある社会の伝統と文化に溶け込んだとき、はじめて安心して寄りかかれる思想として、信頼でき、人の心と体を動かすことができるのです。頭の中で理解できても、腹の底から納得できないままでは、そのような科学の言葉も陳腐なものでしかないと思います。

 学歴制度の難しい試験に合格し、政治や文学の指導者として将来が約束された若者の運命は、悲劇でした。より洗練された高度な西洋文明に興味を持ち、それに引き寄せられて学びながらも、日本の土着の文化に舞い戻らざるを得ない弱点のあること、そのように戻ることが運命づけられていたことが指摘されています。日本社会の限界が、同時に自分自身の限界でもありました。西洋科学の頭でっかちは、古い遅れた日本社会を笑い、馬鹿にしてきました。しかし、実は自分を笑い、馬鹿にしてきたことにようやく気が付いたのです。自分のなかに、日本的限界があることを知ったのです。そのとき、西洋の学問では変わることができない本当の自分の姿を発見したのです。それが醜くてもよい、それが滑稽でもよい。あかぬけた都会の言葉で語れなくてもよい。土着の言葉で、論理不明であってもよい。非合理だと罵られてもよい。ようやく真理に到達したと実感できたのです。

 戦前に形成された日本の精神史が、このような鎖国性に限界づけられたものであるとすれば、私たちは西洋の学問をいくら身に付けたところで、それを乗り越えることは容易ではなさそうです。どのようにすれば、新しい解決方法を発見できるのか。入口のところから考えていかなければならないようです。

 次回は、第4章「国体について」を検討します。

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