鶴見俊輔との対話――『戦時期日本の精神史』を読む(08) - Rechtsphilosophie des als ob
鶴見俊輔との対話――『戦時期日本の精神史』を読む(08)
2015-10-30 | 日記
鶴見俊輔『戦時期日本の精神史 1931~1945年』ノート
第08回 非スターリン化をめざして
はじめに
1917年、ロシアにおいて、社会主義を目指す革命が最初に始まりました。それまで、社会主義は、政治の理念であり、またそれを目指す労働者の運動の方向性を示す指針でしかありませんでした。しかし、それが国家・社会のレベルにおいて実現され始めたのです。そのことは、当時の日本の知識人にとって衝撃的でした。日本は、イギリス、フランス、アメリカなどの先進国から科学・思想を学び、国家の諸制度の整備にあたって、ドイツから多くを学び、「文明のハシゴ」を一段一段上り続けてきましたが、それらはいずれも資本主義国家の科学と技術でした。それを超えるものとして社会主義の思想が現れ、今や現実の政治と経済を動かす力を発揮し始めました。
東大では新人会が設立されました。国際共産主義の運動組織であるコミンテルンの日本支部として、日本共産党が設立されたのも、この時期です。明治から大正にかけて、日本では様々な社会主義理論が現れました。それに関わった人たちは、その生活体験を踏まえて、また獲得した知識に基づいて、社会主義を目指し、コミンテルンの日本支部の設立に関わりました。しかし、日本の政治風土の限界もあって、解党を余儀なくされました。その後、党の再建に関わった人々は、ドイツやロシアなど社会主義を目指す西洋諸国から理論と思想を直接的に取り入れて、活動を再開しました。そして、それ以前の社会主義理論は、折衷的・非マルクス主義的であるとして斥けました。その代わりに取り入れられたのは、社会主義・共産主義の理論の教条主義的な理解ではなかったかと思います。鶴見さんによると、再建された日本共産党の若い活動家の特徴は、鶴見さんによると、共産主義の一般理論から現状を変革する結論を演繹的に導き出す方法に依拠していたと言います。それは、日本の経済体制・制度の分析して、資本主義的一般性と日本的特殊性などの諸側面を取り出し、その変革の道すじと展望を構想するというのとは異なり、かの国において、かの国の実践を経て形成された理論の体系を所与のものとして位置付け、それに基づいて日本の経済体制・制度を分析するという手法です。それによって、日本社会の大きな特徴を捉えることができ、「大きな物語」を展開することはできますが、小さな特徴を無視しがちになります。鶴見さんは、この小さな特徴として、多くの日本国民が天皇制を信奉している事実を念頭に置いています。それは、明治維新以降の学校教育制度において、上から作りあげられたものであっても、事実として存在するものです。その小さな特徴をどのように取り扱うのかという問題は、実は「大きな物語」の展開にとって非常に重要な意味を持っていると、鶴見さんは言います。
(1)正しい方針の確立、正しい方針の忠実な実践、そして犠牲
1922年、日本共産党が設立された当初、その指導的地位には、山川均という社会主義者がいました。その後、党は解党されました。彼は、後に再建された時には復帰しませんでした。
その後、共産党は再建され、その指導的地位には、福本和夫という理論家がつきました。この時期には、社会主義・共産主義を目指す国際的な運動の中心には、ソビエト・ロシアの共産党があると見られていました。再建は、ソビエト・ロシアの強い要請があったからです。今では考えられませんが、1917年のロシア革命は、それほど日本の共産主義者、知識人・文化人にとって大きく影響していたので、その要請を無視することはできなかったのです。
山川らは、1922年に共産党を設立しましたが、その後、厳しい弾圧を受けて、解党しました。日本において、共産党を名乗るのは早すぎると考え、ソビエト・ロシアの共産党、また世界の共産党の連合体であるコミンテルンの了承をとらずに、日本共産党を解党しました。人民主権であるとか、共和主義、社会主義という思想は、日本にも伝わり、文化人・知識人の理解を得ていましたが、日本の国体と天皇制にそぐわないために、弾圧を余儀なくされました。しかし、ロシアにおける社会主義革命の勝利は、共産主義の理論と運動こそが、社会の発展を促進する原動力であって、その終局的な目標は社会主義・共産主義社会の実現であり、その法則的な見通しを持った運動団体の存在は不可欠であると考えられ、コミンテルンが解党された党組織を再建するよう強く働き掛けたのす。再建された党組織は、その代表の福本が主張する理論、いわゆる「分離結合論に基づいて、組織の編成しました。強固で大衆的な共産党組織を作ろうと思うならば、共産主義者は、他の異なる主義・流派の人々を共産党組織から分離し、強固な共産党組織を建設し、その後に広範な大衆と結合することで、大きな組織と団結を作りあげることができる。このように主張しました。しかし、それは結果的には共産党組織を国民大衆から孤立させることにしかなりませんでした。
山川は、共産党の設立当初から、日本の左翼知識人は、労働者の生活圏に入り、そこから理論的な課題を得るよう努力しなければならないと主張していました。福本とは、基本的に異なるスタンスです。鶴見さんは、この山川の主張が実践されていたならば、再建された共産党も自律的な運動を構築できたのではないかと考えているようです。というのも、福本の「分離結合論」が斥けられた後、日本共産党は、コミンテルンが考案した1927年テーゼにもとづいて、活動を再開したからです。そこでは、日本の現状について次のように規定しています。日本の経済構造は、一方では明治維新以降に急速に発達した独占資本主義があり、それによって多くの労働者を搾取・収奪する体制が築きあげられているが、他方では農村部などでに地主・小作関係が残され、資本主義以前の半封建的で身分的な関係が残っている。そして、独占資本と半封建的地主が、自らの支配を強固なものにするために、天皇制を基盤にしている。1927年テーゼでは、共産主義運動は、終局的には社会主義・共産主義を目指すものであっても、その前提として一定の市民的自由主義と民主主義の発達が不可欠であるが、天皇制と封建的地主制度を残したまま、市民的自由や民主主義制度を実現することはできない。このような封建制の残存物を廃絶することが、まず必要である。従って、日本では、天皇制と封建的地主制を廃絶する民主主義革命を達成することが当面の課題であると規定していました。このような認識は、その後の1932年テーゼにも引き継がれていきます。
鶴見さんは、モスクワにおいて起草された方針が、日本の革命運動の方針になったという点に着目し、それを批判的に捉えています。コミンテルンが、日本の人民を解放するための社会主義運動の方針を作り、それに日本の共産周主義者が従ったという意味では、自主性・独立性に問題があったと言わなければなりませんが、鶴見さんは、日本共産党の組織が、1935年頃まに壊滅的な状況に追い込まれた原因は、コミンテルンの天皇制の廃止というスローガンを忠実に実践したことにあり、そのために多くの若い優秀な活動家が命を落とすことになったが、その背景には組織論における自主性の欠如と同時に、理論における天皇制の評価の誤りがあったとみているようです。つまり、コミンテルンが天皇制廃絶のスローガンを掲げ、民主主義革命の達成を求めた。日本の共産主義者はその方針のもとに活動した。そのために、天皇制警察のリンチと拷問の犠牲になった。これら一連の経過は、天皇制廃止のスローガンを掲げたときから予想できたことでした。天皇は、政治権力と精神的権威の両方を兼ね備えた絶対的な存在であり、その存在を支える制度を廃絶することは、日本の民主主義にとって必要なことであり、理論的に正しいことです。しかし、その廃絶のスローガンを掲げ、そのために多くの若い革命家が天皇制警察が残虐なリンチのなかで絶命したことをも、理論的に正しい方針の実践であると言い切れるのか。このことを鶴見さんは問いかけているようです。
山川は、日本の左翼知識人は、労働者の生活圏に入り、そこから理論的な課題を得るよう努力しなければならないと主張していましたが、山川が意図していたのは、天皇制を民主主義革命の観点から観念的に捉え、その廃絶を機械的に叫ぶのではなく、日本人の多くが天皇を信奉している事実をリアルに捉え、その廃絶の道すじを、天皇を信奉している彼らと一緒になって考えていくことだったのではないでしょうか。鶴見さんは、この山川の主張の可能性を重視しているのだと思います。
(2)天皇制による犠牲と天皇制への転向の狭間
ある論者によれば、1927年テーゼ、1932年テーゼで掲げられた天皇制廃止のスローガンは、理論的には正しくても、実践的には困難なスローガンであり、その実践困難なスローガンを掲げたのは、天皇制警察の残虐性を軽視したからであり、そこに理論的な誤りがあったと批判されています。
マルクス主義の理論によれば、社会の発展は封建制から資本制を経て社会主義へと法則的に発展すると認識されているので、社会主義へ移行するためには、資本主義における様々な社会的・政治的制度が条件となります。社会のなかに封建的な身分関係が残り、それゆえに自由で平等な商取引ができないようでは、資本主義それ自体としても生産力を発展させる上で限界がありますし、また自由な人格を前提とした社会主義に移行することはできません。従って、マルクス主義の一般原理によれば、社会主義は、封建制を克服した高度な資本主義を経て成立します。従って、日本社会に地主小作関係などの封建的な身分関係が残され、天皇制という君主制の一種が残されている限り、民主主義国家だとはいえなないので、その克服が社会主義に移行するための前提になります。
27年と32年のテーゼにある天皇制廃止のスローガンは、このような一般原理からの演繹として導かれたものです。従って、このスローガンに疑問を持ち、天皇制を前提とした社会主義を構想した佐野学などの「転向」は、原理原則からの逸脱として批判されます。実践が困難なスローガンであっても、理論的に正しい以上、それを実践するのが共産主義なのです。しかし、鶴見さんは、コミンテルンの指導と天皇制廃止のスローガンゆえに、少なくない人々が日本共産党から離れていき、「転向者」として批判されていることを疑問視しています。佐野学は確かに天皇制を前提に社会主義を構想しましたが、それは日本共産党がコミンテルンの指導を絶対視し、それに無条件に従うという姿勢をとってきたことへの反発でもあったのではないでしょうか。自主性の欠如に対する反発であり、また山川均のような労働者階級との結びつきを重視する発想の重視でもあります。日本人の多くは、学校教育の現場で天皇を現人神として信奉するよう徹底的に教育されてきました。天皇制廃止のスローガンが、そのような人たちの心をつかみ、その考えを変えることができるのであれば、問題はないでしょう。しかし、それは可能なのかと、山川も、佐野も、また鶴見さんも疑問を持っているのです。理論的に正しくても、それをストレートに主張することが実践ではない。「大前提の問題」としての一般理論の解明だけでなく、それを現実のものにするための様々な「小前提の問題」を重視しなければ、実践は不可能です。それなしに「大前提の問題」を繰り返しても実現できない。鶴見さんは、このように問題提起しています。
埴谷雄高(はにや ゆたか)は、1931年に共産党に入り、その後逮捕・投獄された後、転向し、1945年まで様々な職をへて作家活動を続けました。埴谷は、警察の取調べにおいて、政府公認の日本史と共産党が定式化した日本史との間にすきまがあり、そこに自分が落ち込んでいると実感したといいます。政府公認の歴史観と自説の溝は深く、その両方に目配せをしたり、重なる部分に軸足を乗せるといったことはできません。彼は、天皇制警察の前で転向しましたが、それでも政府公認の日本史と天皇制を信奉することはありませんでした。それと同時に、日本共産党が定式化した日本人民の解放史と、その中心にいると自負する絶対的な日本共産党をも冷ややかに見てました。戦前の日本社会において、天皇は、絶対的な存在であり、神を超える正しい存在でした。それに対抗し、その廃絶を訴える理論もまた絶対的で、権威的で、正当なものでした。というより、対抗関係と緊張関係を維持しようと思うならば、自分が依拠している立場が絶対的に正当であると考えなければならなかったとのです。一方の極にある絶対的なものに対して、他方にある絶対的なものが、正面から対決するのが、理論的・精神的な基本構造であったと思います。少なくとも主観的には、力強い力士の大相撲のように取り組みあっているような様子です。
敗戦後、一方の極にあった絶対的な天皇制が崩壊し、「象徴天皇制」に変わりました。その精神的権威は残されつつも、政治的権力を失いました。他方の極にあった共産主義は活動を再開します。とくに転向を拒否し続けた獄中の共産党幹部が次々と釈放され、彼らは自らの信念を貫いた政治的・道徳的に正しい指導者として歓迎されました。その不屈の精神ゆえに、貫かれた理論と思想も理論的に正しいものとして受け止められました。釈放された共産党幹部が実践したのは、1932年テーゼです。それは、当時のソ連共産党とコミンテルンの指導のもとに作成されたものです。それは、山川が、労働者の生活実感からかけ離れていると批判し、佐野が、自主性の欠如と批判したものですが、その理論と思想の「正しさ」が、非転向の不屈の精神によって検証されたと見なされたため、戦後においても、ソ連共産党やスターリンの指導のもとに活動するのは当然であるという雰囲気がありました。それは、1927年、32年のテーゼのときと何ら変わっていません。
1950年代の初頭、スターリンの死後、ソ連で「スターリン批判」が起こりました。ロシア革命後のソ連の社会主義建設を進めてきたスターリンの指導の誤りが暴露され、その批判が始まりました。それに追随してきた日本共産党の問題も浮き彫りにしました。戦後初期の共産党は、やはりソ連共産党とスターリンの指導下にあったからです。そのような自主性のなさに批判が向かうのは当然のことです。共産党組織のなかには、戦前は戦争に協力し、戦後はその問題を自戒して、反戦の立場を貫いた共産党の運動に関わった人が大勢います。しかし、その共産党の組織もまた、スターリンに追随してきたことを知り、自主性と独立性の欠如に失望しました。それでもなお、左翼として生き、日本の変革に携わろうとする人々にとって、埴谷の共産党批判は共感をもって読まれたそうです。
鶴見さんは、他の著書においても、この時代の日本人の心情について書いています。それによると、戦後直後に日本社会に蔓延した心情は、「実存主義」であるといいます。戦前まで、日本人は、天皇のために、お国のために忠誠を誓って、戦ってきましたが、その天皇と国体が否定され、拠り所をなくしました。そこに生じたのは、精神的な虚脱状態です。精神の抜けた空っぽな日本人が数多くいました。コミンテルンと日本共産党の方針を信じて活動していた人々は、スターリン批判後、同じ様な虚脱感のなかで、共産主義の理論から遠ざかって、孤独になっていきました。天皇と国体をなくした日本人、共産主義運動の司令塔を持たない共産主義者は、なにを指針にして生きていけばいいのでしょうか。おそらく、拠り所を失った自分が、指針になるほかありません。存在するのは、自分という存在、自分の身体だけである。もはや国体も理論も信用できない。信用できるのは、ただ自分の存在、身体だけである。このような失望感、実存的心情を受け止めたのが埴谷の文学作品であったということです。正しい組織の一員となって正しい理論を実践するという風潮は、今の世の中にもありますが、それがどのような歴史を作りあげたかを知るならば、転向はしたけれども、屈服したわけではないという埴谷のような立場は、私は当時の日本人の苦悩を考える上で非常に意義深いと思います。
(3)シベリア抑留日本兵のこと
戦前のコミンテルンは、各国の共産主義運動に大きな影響を与えました。各国の共産党は、その名前にドイツ、ハンガリー、ブルガリアなど国名がついていますが、基本的にコミンテルンの各国の支部でしかありません。支部であるということは、その上に司令部があり、支部はその司令部の指示に従う関係にあることを意味します。戦後は、このようなコミンテルンの組織はなくなりました。各国の共産主義運動は、各国で自立的に行なうことができるし、また行なわなければならないということになりました。鶴見さんは、日本共産党の活動の自主性に関して、とりわけソ連共産党のスターリンの影響力の排除という点に関心を向け、それを非スターリン化という言葉で表しています。関心が向けられている時期も限定されているので、それを一般化することはできません。しかし、それでもなおも1980年代の時点でそれを論じようとしたことに、少なからぬ意味があったように思います。そのあたりを考えながら、鶴見さんの考えを検討してみましょう。
戦争が終わった時点で、ソ連のシベリアには、60万人の日本人が残されていました。朝鮮半島や中国、アメリカ・イギリス・オランダが支配・占領していた地域にいた日本人は、1947年までに帰国しましたが、ソ連からは帰ってきませんでした。それが、ソ連に対するマイナスイメージを日本人に植え付けたことは容易に想像できます。日本は、ソ連に対して、彼らを日本に返すよう要請しました。当然のことです。では、日本共産党はどうであったかというと、はっきりしないのですが、共産党の書記長・徳田球一は、ソ連に対して、シベリアに抑留されている日本兵は、彼らが共産主義者になるまで日本に返さないでほしいと「要望」したと噂されていました。もし、これが本当であれば、日本の国民の利益を顧みない重大な行為ですし、ソ連に対して、はっきりとものを言えない組織であることを自ら暴露したことになります。その「メッセージ」を通訳したのは、菅季治(かん すえはる)という人でした。彼は、1950年、参議院の公聴会に参考人として呼ばれ、徳田のメッセージはどのような内容のものだったのか、それをロシア語でどのように伝えたのか、と質問され、話題になりました。菅の記憶によれば、徳田のメッセージは、次のように通訳されたそうです。
「いつ諸君が帰れるか、それは諸君自身にかかっている。諸君はここで良心的に労働し、真正の民主主義者となるときに帰れるのである。日本共産党書記長徳田は、諸君が反動分子としてではなく、よく準備された民主主義者として帰国することを期待している」。
管は、このように証言しました。菅がこのように通訳したことが真実であるならば、徳田は捕虜がソ連の管理下において民主主義者になることを「期待」しただけになります。徳田の責任は、さほど大きくはありません。しかし、「要請」していたならば、その責任は重大です。保守系の政治家たちは、徳田が実は「要請」し、菅もまた「要請」と通訳したにもかかわらず、参議院の公聴会では「期待」しただけだと述べて、責任を逃れようとしているのではないかと疑ったようです。また、反共・右翼の活動家も、菅に対して脅迫状を送るなどして、その責任を追及したようです。菅が共産党員であるために、徳田を守っているのではないかとの疑いは、徐々に広がっていきました。かりに、徳田は「期待」しただけなのに、菅が「要請」と誤って通訳したために、60万人の日本人がシベリアに抑留されてしまったのであれば、それは悲劇です。
「要請」なのか、「期待」なのかをめぐって争われていた最中に、菅は自殺します。戦争終結後も、ソ連が、日本人捕虜にとり続けた態度は、日本人の不満を拡大させ、社会主義に対する否定的なイメージを増幅させました。そのような状況に対して、日本共産党がどのような対応をとったのかは、調べなければなりませんが、ソ連共産党が世界の共産主義運動の司令塔ではもはやなくなった新しい時代です。日本の共産主義者は、日本の国民の利益を実現するために、まずは無条件に捕虜を返すことを要請すべきであったと思います。民主主義者にならなくても、まずは帰国を要請すべきであったと思います。
高杉一郎『極光のかげに』という本があります。1950年代の初頭に書かれました。今でも岩波文庫で読むことができます。高杉さん自身も、シベリアで抑留された経験を持ってますので、その中で抑留生活の実態を書かれています。高杉さんが、『極光のかげに』を書いた1950年代初頭に日本共産党の幹部から、「あまりソ連のことを悪く書かないでほしい」と言われたことがあるそうです。今から20年以上前に、ある学術研究のために、私がモスクワに滞在していたときに、高杉さんの長女の夫にあたる方から、そのように聞きました。その滞在中に、高杉さんと一緒になる機会があり、そのことを尋ねようかと思いましたが、やめました。というのも、高杉さんが、ソ連・ロシアの研究者に対して、シベリア抑留の問題がまだ解決されていないことを厳しく主張したからです。高杉さんは、その問題の解決は、抑留者の人権の問題であると同時に、ソ連・ロシアの政治の問題、名誉の問題であると主張していました。少し複雑なのですが、高杉さんの主張の通り、ソ連がシベリアにおいて多数の日本人捕虜を抑留し、それを日本政府との外交の取引材料にしていたというのは事実だと思います。それに対して、高杉さんが批判したのは、正しいことです。しかし、高杉さんは批判すると同時に、ソ連の共産主義者のなかに、人間的な可能性をも見出していたようです。ソ連がスターリンの誤りを認めたことは、ソ連がまともな社会主義へと発展していく可能性を示している。その発展の過程において、シベリア抑留の問題を解決する能力をソ連の関係者は持っている。高杉さんは、そのような期待を持っていたようです。私は、高杉さんがソ連の研究者との対話の中で、そのように発言しているのを聞いて、高杉さんは、ソ連の関係者の人間的な可能性を信じていたのを知り、ソ連を否定的に書くのはけしからんと述べた日本共産党の幹部との間に深い溝があることを実感しました。
(4)非スターリン化の課題
石原吉郎(よしろう)という詩人がいました。1939年、24才のときに召集され、翌年に大阪歩兵連隊の陸軍ロシア語教育隊に派遣されます。敗戦の年に、密告の罪でソ連によりシベリアに抑留されます。その後、1953年に特赦によって釈放され、日本に帰ってきます。彼が密告の罪を着せられたのは、彼がロシア語が話せるというのが理由でした。おそらく、日本はソ連の参戦を見込んで、ロシア語が話せる日本兵を大陸に送り、情報収集にあたっていたと疑ったのでしょう。ソ連の裁判では、無期懲役を言い渡されたようです。おそらく、証拠に基づくまともな裁判は行なわれなかったのではないかと思います。
石原は、スターリンの死去以降、釈放されました。しかし、彼が日本に帰ってきて、迎えてくれたのは、疑い深い日本人であり、親類でした。家族や友人は、お前が共産主義者であるならば、この家には入れないというのです。戦争をし、それに負けた後に、なおもシベリアに8年も抑留されたのです。ソ連んのひどい措置に対して怒りを示してくれるだろうと、石原は思っていましたが、その期待はみごとに破られました。スターリンは、日本人捕虜を共産主義化することをもくろんでいるという観念を多くの日本人は持っていたからです。シベリア抑留者の補償問題は、今でも重要な政治課題の一つです。完全に解決されてはいません。その意味ではスターリンが残した問題は、いまなお残っています。この問題を解決しないままでは、非スターリン化の問題を語ることはできないように思います。
最近のロシア情勢を見ていますと、クリミア半島の併合の問題があり、ウクライナ東部に対する新ロシア派勢力に対する武器供与・軍事的支援などもあり、ヨーロッパ全体の緊張が高まっています。では、アジアにおいては、どうでしょうか。日本とロシアの関係はどうでしょうか。戦後、日本はアメリカとのあいだで1951年に講和条約を結びました。講和条約の締結は、戦争の終結と国交の樹立を意味します。ソ連との間では、少し遅れて1956年に日ソ共同宣言を結び、国交は回復されましたが、領土問題や国境線の問題は先送りされました。日本政府は、長年、ソ連・ロシアとの間において、いわゆる北方領土問題を解決するために交渉を積み重ねてきましたが、まだ解決には至っていません。ロシアのプーチン大統領が来日するのではないかと噂されていますが、その具体的な日程は明らかではありません。ロシアがクリミア半島を併合したとき、日本は非難声明を出しましたが、プーチンはそれに対して、日本は何を言っているんだと、北方領土交渉が困難になるように暗に匂わせました。すべてを取引材料に使う姿勢は、ロシア政治の常套手段のようです。ロシアのクリミア政策の目的については、よく分かりませんが、ヨーロッパ全域を敵に回してでも、領土問題は重要なのでしょう。エネルギー政策などロシアとヨーロッパがつながっており、またアメリカも強硬な姿勢をとれないので、今がチャンスだと考えているのかもしれません。日本との関係では、何としてもロシア経済の発展のために日本の技術を活用したいと考えているようです。
しかし、ロシアが日本の技術を活用して、経済発展を遂げるためには、日本とロシアの真の友好関係が必要です。目先の経済の問題を優先させて、領土問題を取引材料に使っても、それは問題の正しい解決方法ではありません。スターリンが残した問題の正しい解決、すなわち問題の非スターリン化には役立ちません。領土が帰ってきたから、すべてよし、とするのではなく、日本とロシアの間にある過去の問題を含めて、シベリア抑留問題も含めて、外交交渉のテーブルに乗せられているかに注目したいと思います。
アメリカとソ連の間に激しい対立があった冷戦の時代は、経済体制・軍事同盟・イデオロギーのいずれをとっても、アメリカをはじめとする西側陣営につくのか、それともソ連をはじめとする東側陣営につくのか、というような二者択一で問題が立てられることが少なからずありました。そのいずれにも頼らない道を模索する政治勢力もありました。いわゆる冷戦構造が崩壊した現代においては、地域ごとに一定のまとまりをもった経済圏が出現し、そこがブロックを形成して、経済権益と安全保障の問題を考える軸になっているように思います。EUがその典型であると思います。では、アジアはどうかというと、アセアンは一定の連携をしながら協力関係にあると思いますが、北東アジアは非常に複雑な状況にあります。安全保障問題を抜きにして経済協力を語ることは困難な状況にあります。そこにアメリカとロシアも関係してくるわけですから、困難はより複雑化しているます。そのような状況が続く限り、全体を一気に変えることはできません。ロシアと日本の懸案の事項は何か、問題を個別的にピックアップして、考える必要があるでしょう。シベリア抑留問題、領土問題などは、鶴見さんのいう「非スターリン化」の課題として捉えて考えてみることこともできると思います。
次回は、第9章「玉砕の思想」を検討します。
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