2017-01-06

鶴見俊輔―『戦時期日本の精神史』を読む(07) - Rechtsphilosophie des als ob



鶴見俊輔との対話――『戦時期日本の精神史』を読む(07) - Rechtsphilosophie des als ob







鶴見俊輔との対話――『戦時期日本の精神史』を読む(07)
2015-10-27 | 日記
 鶴見俊輔『戦時期日本の精神史 1931~1945年』ノート
 第07回 日本の中の朝鮮

 はじめに
 鶴見さんによれば、幕末から明治維新にかけて、倒幕運動に関わった人たちの間には、仲間意識というか、同志的な関係が強かったようです。仲間同士、同志的な付き合いがあれば、おのずと謙虚になります。とくに開国の時代であれば、日本が中国や東南アジアの諸国のように、西洋諸国の植民地にされないように、みんなで協力して日本を守っていかなければならないことが意識され、それが後の指導者にも継承されたのではないかと思います。そのような時代状況は、明治初期の指導者に、勤勉で質実な性格を与えたのではないかと思います。

 その傾向は、日露戦争まで続いたようですが、その後は、同志意識や独立指向は消えていきました。何故なのでしょうか。日本の近代化の過程において、左右に意識の変化が起こったようですが、それは何によって引き起こされたのでしょうか。時代の時期区分には、様々な基準があります。天皇の即位、戦争の終結、政治・経済制度の変更など、様々な基準がありますが、国家制度の変化という点では、太平洋戦争、第2次世界大戦を基準とする考えが一般的であろうと思います。

 太平洋戦争、第2次世界大戦を基準にする場合、その最大の基準となるのは、現行憲法の制定だと思います。戦後の日本が平和国家として再スタートし、国際社会の復帰することが、そこでは宣言されています。それは、逆に言うと、それまでの日本は平和国家ではなく、国際社会と協力し合っていなかったことを意味します。日本だけでなく、ドイツやイタリアもそうなのですが、ヨーロッパ地域やアジア地域において、国際的に確立した国境を武力によって変更しようとしたこと、そのために他国を侵略し、多くの犠牲者を出しました。国際社会の側としては、国際的な関係を維持するために、欧米諸国が連合して、日本・ドイツ・イタリアと対抗関係をとったわkです。そして、1945年に、この3国が敗北したことによって、国際社会の在り方とルールが新たに確定されました。

 しかし、このように戦後の世界とそれ以前を単純に区分し、戦後は平和の主義、戦前は戦争の時代というように、1945年を境にして、戦争国家・日本が平和国家・日本に生まれ変わったと考えるならば、それは正しくないと思います。つまり、明治維新以降の日本の近代史が、あたかも戦争一色であったかのように認識されてしまい、実際の様相を正確に捉えることができなくなってしまいます。また、明治維新以降の近代化が、中途半端で、不徹底であったために、近代的な価値観が、社会全体に十分に定着しなかったのだ、だから他国を併合したり、戦争をしかけたりしたのだという歴史認識になってしまいます。

 鶴見さんによれば、明治維新後の日本の近代化の過程において、朝鮮との関係については、明治政府の設立当時、日本人の考えには朝鮮人に対して全く中立的な態度があったといいいます。そこには、日本の国家や日本人の好戦的な性格というものは、明確に確認できないと思います。そのような性格は、西洋文明への情熱が日本政府と国民に広がっていくなかで現れ、それに伴って次第に朝鮮半島に対する政策が確立されたと思います。「日本の中の朝鮮」というテーマで考えなければならないことは、その政策が、日本人の生活感情や感覚に、どのように影響を及ぼしたのか。それが、人種差別・民族差別の感情として根付いたのは何故なのか。その感情が除去されないまま残っているのは何故なのか。、そして、現代の社会状況や国際関係において、この問題は、どのように捉えられるべきなのか、ということです。というのも、日本の中の朝鮮は、1910年の併合条約から1945年の敗戦までの問題であるだけでなく、その後も複雑な国際関係が反映されて、今日においても引き続き検討されるべき課題として存在するからです。

(1)文明の悲劇としての朝鮮問題
 日本と朝鮮の関係あるいは「日本の中の朝鮮」の問題は、2国間の複雑な歴史の問題であり、今日的には韓国および北朝鮮との外交問題でもあるため、対象と領域は多岐にわたります。その全てを論ずることはできませんし、また単純化して論ずることもできません。ここでは鶴見さんの述べた事柄のなかから、いくつかピックアップして、それに言及したいと思います。

 日本と日本人は、19世紀の半ばの開国以来、欧米の科学や思想を学び、それを積極的に取り入れる努力をしてきました。当時、イギリスと中国との間でアヘン戦争(1849-42年)が行なわれ、中国全土で薬物依存者が増大し、中国は国家的な基盤さえ崩れかねないほど打撃を受けました。同じ様な状況に見舞われないためには、日本は、国家の経済力と軍事力を強化する必要がありました。そのためには少なくとも欧米の科学と技術を学び、それを取り入れることが必要でした。しかし、日本がそのような努力を積み重ね、その後、中国と朝鮮に目を向けた時、欧米の文明に最も近づいている国は、アジアで日本以外にはないという自負から、彼らも「文明のはじご」をのぼる必要があり、そのために日本がそれを「教えてあげる」という姿勢をとりました。明治維新から7年経った1875年、日本政府は、朝鮮に対して文明を押し付けようとしました。それは、主観的によかれと思って行なったことであっても、また客観的に中国や朝鮮に利益になることであっても、押し付けでしかありません。しかも、このような考え方は、当時の日本の右翼・左翼の両方によって共有されていました。つまり、政治家のほとんどは、「当たり前」という認識だったということです。

 1884年、自由民権運動の指導者であった板垣退助は、軍事クーデタを惹き起こして、朝鮮の伝統、つまり李氏王朝の支配をひっくり返し、そこの総理大臣になることを夢見ていたといいます。自由民権論者でさえ、このような文明の押し付けを考えていたのは、驚くべきことです。もちろん、全ての自由主義者・民権論者が同じことを考えていたわけではありません。石川啄木は、併合条約による大韓帝国の消滅を嘆き、文学者が私生活ばかりを記述し、このような他国の民族の問題に関心を向けないことを批判しました。しかし、明治政府が成立して数年後、朝鮮は日本と友好関係を築く相手ではなく、最終的には併合されてしまいました。なぜなのでしょうか。日本が欧米から取り入れた「文明」は、諸民族の友好と平和に役立ったなかったということです。文明は、人類の発展と幸福であり、究極の普遍的な目的・価値であったはずです。しかし、それは日本にとって欧米の先進資本主義国に仲間入りするための技術的な手段でしかありませんでした。近代化や資本主義化を促進するための道具、国家や社会を安定的に管理・統制する技術でしかなかったということです。封建制から資本制への移行過程において、人間が非合理な束縛から自己の解放を求め、自然の自由と権利を主張したのは、一方で普遍的な人間の在り方が阻害されていたからであると同時に、他方で社会の生産力に発展をも阻害していたからでした。人間は封建制度のもとで、身分の違いゆえに、相互の連帯を追求することができずに、自由を奪われ、不平等な状態に置かれたままでした。自由と平等な人間関係の確立は、社会経済の発展の原動力でした。また、それは社会の在り方、科学と思想の理念を規定する根本原理でもありました。思想と科学の総体である文明もまた、自由と平等という規範によって規定さて、方向づけられていました。文明が社会の発展を促進する理念であるならば、文明は生産力の発展を促進するだけの技術に終わらず、また国家や社会を管理・統制するだけの道具にとどまらなかったはずです。しかし、日本が欧米から文明を受け継いだのは、その技術的・管理方法的な側面だけであって、それを支える理念や精神ではなかったようです。それゆえに、文明を取り入れた日本は、「文明のハシゴ」を一段上から、中国や朝鮮に対して、それを押し付けるようになったのだと思います。日本の朝鮮半島政策は、「文明」が生み出した悲劇です。

(2)15年戦争・労働力不足・集団移住
 文明のはしごは、1910年の日韓併合に至りました。その当時の朝鮮半島は、経済的に困難をかかえた状態にありました。併合後は、一定の条件を満たせば、半島の人々も、日本本土に移住し、そこで仕事を見つけることができました。故郷を後にして、新しい土地で生活するのは、文化や言語、生活習慣などの違いから困難が予想されましたが、そこに行けば仕事がある以上、そのような不安は、移住を引きとめる要因にはならなかったようです。15年戦争が始まった1931年以降、日本政府は朝鮮半島、台湾だけでなく、中国の東北部に軍隊を駐留するために、多くの若者を兵士として動員しました。そのため、生産活動に携わる労働力が不足し、それを埋め合わせる必要がありました。そこで目が付けられたのが朝鮮半島の労働者でした。

 鶴見さんは、併合後の一つのエピソードとして田中英光という作家の話を紹介しています。彼は、1932年のロサンゼルス・オリンピックのボート種目に出場したアスリートで、共産主義運動にも関与した経験のある人ですが、15年戦争が進行するなかで、そこから離れて、「オリンポスの果実」という作品を書いて、新進気鋭の作家として注目を浴びました。彼は、大東亜文学会を組織するために、ソウルに住んでいました。田中は、日本が大東亜の文学運動の範囲を朝鮮半島にまで拡大し、それを日本主導で組織していることの意味を説き明かすために、「オリンポスの果実」を書きました。その主人公は、かつては共産主義運動にも関与したことのある人物です。それは田中自身でもあります。作品のなかで、文学仲間の朝鮮人作家が、主人公に対して、次のように言います。お前のような意気地のない奴は、この広場でクソの一つもできないだろう。このようにからかいます。そして、ソウルで一番人通りの多い広場の噴水台にあがって、そこでズボンを下ろしてクソをした後、尻を突き上げるようにしてペタペタとたたき、「おい日本人がここにいるぞ。日本人王、わが糞を喰らえ」と大声で叫びます。日本人王とは天皇のことですが、その名で日本人の主人公を呼ぶわけです。ここには、併合後も日本と朝鮮が1つになっていない、なりえないことを表しています。主人公は、かつては共産主義運動に参加し、天皇制の廃止を訴えた経験のある人物です。しかし、時代が戦争モードになるにつれて、そこから離れていき、今ではソウルにおいて大東亜文学会を組織する立場にあります。あのときの理想はどこに行ってしまったのでしょうか。中国への戦争に反対し、帝国主義から人民を解放し、社会主義を実現する理想はどこに消えてしまったのでしょうか。併合された朝鮮半島にまで来て、文学運動を組織化している自分は、一体何者なのでしょうか。朝鮮人作家の友人は、やはり自分を植民中宗主国の日本の側いいる人間だと見ています。日本政府の権力と権威をかさにきて、朝鮮で文学運動を指揮している末端の文学官僚としてさげすんでいます。だから、彼は尻をめくって、叩いて、クソ喰らえと叫んだのです。

 この姿は、かつて新羅に捕虜として捉えられた日本人兵士の姿でもあります。この日本の勇敢な兵士は、朝鮮と戦って、新羅に囚われました。そして、日本の軍事行動の秘密を話せと迫られましたが、クソ喰らえと叫んで、それをきっぱりと拒否し、それゆえに処刑されました。「クソ喰らえ」という言葉の持つ意味は、主人公の日本人にとって、敵国の捕虜となろうとも、その言いなりにならない決意を表す言葉です。秘密を明かせば、命だけは助けてあげる、と懐柔してくる権力者に対する抵抗の言葉、日本人の名誉と誇り譲り渡すことはできない武士の精神の叫びです。私たちが時おり耳にするこの「クソ喰らえ」という言葉も、田中が書いているように、権力や権威に対する抵抗の精神を表したものです。しかし、その言葉を使っているのは、朝鮮人作家であり、それが向けられているのは日本人のは主人公です。日本と大韓帝国の併合条約は、条約の法的形式としては、対等平等の関係において締結されましたが、経済的・軍事的な関係から言えば、圧倒的に日本が優位に立っていました。従って、実質的には対等ではなく、支配・従属関係にあったといえます。従って、主人公は宗主国の人間であり、友人は植民地国の人間であり、それは新羅の国王と捕虜である日本兵との関係に似ています。

 日本の英雄的な兵士が新羅に対して叫んだ「クソ喰らえ」という言葉は、今や自分に向けられています。それまで主人公は、「文明のハシゴ」の一段上にいたために、その言葉が自分に向けられる言葉になっていたことを知らずにいました。文明の押し付けは、良かれと思って行なった場合であっても、他の国の主権と尊厳を踏みにじるものでしかなかったのです。

(3)日本の中の少数派の精神
 高史明という作家がいます。1932年生まれです。日韓併合以降に生まれているので、形式的には日本人として生まれ、1945年以降、国籍が韓国か朝鮮に戻った人です。日本で生まれ、日本で育ち、日本で作家活動をしてきました。田中英光が書いた「アリンピアの果実」に出てくる朝鮮人作家を連想させる人です。

 私は、高史明の作品を読んだことがあります。『夜がときの歩みを闇を暗くするとき』という作品です。しかし、もう30年ほど前のことです。しかし、高史明について記憶していることは、彼の子どもの岡真史が1975年に自殺し、生前書き残していた詩が『ぼくは12歳』という1冊の詩集としてまとめられたことです。私と同じ年の少年が自殺したこと、彼がノートに詩を書いていたこと、それが後に両親の手によって出版されたこと、このことが興味深く、高校生になって買って読みました。しかし、詩は小説のようなストーリーの展開のある作品ではありません。感性豊かな人にしか理解できません。詩を創造力を働かして読むのは、私には困難で、岡真史という名前しか印象に残っていません。

 岡という苗字は、日本人の名字です。父親は高史明という名です。最初は、「たか・ふみあき」なのか、「たかふみ・あきら」なのか、「こう・しめい」なのか、よく分かりませんでした。人に聞いてみると、「こう・しめい」であることが分かりました。朝鮮の名前です。本名は、金天三(きん・てんざん、きむ・ちょむさん)です。朝鮮の人が本名を名乗らずに、ペンネームを使っていたのですが、そのペンネームが朝鮮名であることに少し奇妙な感じを受けましたが、それはともかく、父親が在日朝鮮人の作家であるということは、その子どもの岡真史も韓国か朝鮮の国籍ではないかと思います。母親の戸籍に入って、日本国籍かもしれませんが、血統の半分は父親であるので、朝鮮半島に出自があることを意識したに違いありません。在日朝鮮・韓国の血統をひく少年が自殺したということを改めて知り、その本に掲載されていた写真の顔を見つめながら、彼が書いた詩を繰り返し読んだ記憶があります。しかし、書かれた詩の世界には、彼が自殺した理由は明らかにはされていません。もっとも、私は岡真史の自殺の真相を知りたいとは思ってはいませんでした。むしろ、彼が小学校から中学校に上がる思春期の生活環境を知りたいと思いました。そのなかに、彼が自殺した原因があるのでしょうが、自殺の原因よりも、岡真史がどのような人物であったのか、彼がどのように毎日を過ごしていたのか、学校の勉強は得意だったのか、友人はいたのか、普通の子どもと同じ様に遊んでいたのか、ということを知りたかったのです。私は、そこに自分との共通性があることを期待していました。岡真史も自分たちと同じ普通の子どもであり、そのまま自殺していった。そういう普通の子どもが自殺したと、思いたかったのです。もし、岡と自分との間に違うもの、違う経験、違う生活、違う考え、違う感性があったならば、彼はそれゆえに自殺したことになります。また、自分はそれゆえに生きていることになります。岡真史の詩集と写真を見ながら、もしそうであれば、なんとなく耐えれないような気がしました。生きていることの意味が、分からなくなるような気がしました。

 岡と私たちの間に違うものがあったのか。おそらくあったと思います。私には、岡の書いた詩から、それをつかみ取る能力はありませんが、高史明の父親、すなわち岡真史の祖父の生活から、何かヒントのようなものがつかみとれるのではないかと思います。高史明の父親は、港湾労働者として荷物の積み下ろしの仕事をする沖仲仕(おこなかし)でした。肉体労働に携わる朝鮮半島出身者は、日本語を使いこなす必要もなければ、日本人と同じ生活スタイルをする必要もなかったようです。労働力不足を補うため、政府が移住政策を進めたがゆえに、また朝鮮半島における貧困、日本との経済格差があったがゆえに、彼ら在日の第一世代が日本にやってきたわけです。そこには、「主従関係」以前に、生活の必要性が全てを規定していたと思います。衣食住の全ての習慣は、朝鮮半島の時代のものでよかったのですが、生まれてきた子どもは、日本の学校に通いますので、服装、名前、食べ物などについては、非常に敏感です。子どもは、幼いがゆえに、違いの意味よりも、違いの事実を重視します。自分の髪が長いだの短いだの、服装が洋風であるだの和風であるだの、名前の発音が訓読みだの音読みだの、日々の生活の必要性の外側にある問題にこだわります。それが関心事なのです。しかし、父親はそうではありません。在日1世の親世代と2世の高史明の子どもの世代の間には、意識の格差があるように思います。この意識の格差は、朝鮮半島に帰属意識がある世代と日本で生まれ育った世代の間の格差であり、日本語を流ちょうに話して意思疎通できない「遅れた民族」と日本人と同じように読み書きができる文明化された朝鮮系日本人との格差ではないかと思います。朝鮮半島に生まれ、経済的困窮ゆえに日本海を渡らざるを得なかった過去を引きずる生活者と、差別はありながらも、努力次第で自分の生活を設計できるチャンスのある未来志向の生活者との違いであるように思います。先に生まれたことを不幸なこととは思わない頑なな態度と、遅れて生まれてきて正解であったと感じている余裕との間のギャップもあるだろうと思います。その格差とギャップが、在日朝鮮・韓国人のアイデンティティーにもつながっているような気がします。

 朝鮮半島出身の朝鮮人と日本で生まれ育った在日朝鮮人が、一つの家庭のなかで共存する限り、そこには対立と衝突が生ずるでしょうが、しかし後で生まれてきた者の出自は、先に生まれた者のところへと遡らざるをえないのです。高史明は、父親との間に生活習慣の違いを感じていましたが、それは全面否定することのできない過去の事実であり、その過去が現在において現前たる事実として目の前に常にあります。消えて無くならないのです。目を伏せて通り過ぎることもできないのです。父親の原体験がおそらく高史明のアイデンティティーであったに違いありません。宗主国と植民地との間に主従関係、上下関係、支配・従属関係がある限り、絶対的なアイデンティティーです。おそらく、朝鮮系アメリカ人や朝鮮系のヨーロッパ人には見られないものだろうと思います。

 岡真史は、このようなアイデンティティの系譜の上に12才まで生きました。一人の少年が自ら命を絶ったことは不幸以外の何ものでもありません。それはただ悲しむしかない出来事です。死は生の否定であり、生にとって意味はありません。しかし、自殺したことが、いかに死んだのかというのではなく、いかに生きたのかという問題である限り、死は最後の瞬間まで生であったので。その死が担っていた生の意味を明らかにするは必要だと思います。死は生きていた者の最後の行動だからです。岡の自殺にもそのような意味があると思います。それは、学問的に解釈し論評する対象ではないと思いますが、それを知ることで、鶴見さんが提起した「日本の中の朝鮮」というテーマに少しでも接近できるのではないかと思います。

 日本生まれの日本人という多数派には知りえないことがある。日本生まれの在日朝鮮・韓国人が否定しても否定できないアイデンティティーがあるような気がします。それは、血統や郷愁のような非合理でロマン的なものだと批判することもできるでしょう。科学と思想の本流からそれて、神話と伝統のなかに埋没させる麻薬のような作用があるのだと酷評することもできるでしょう。しかし、人間は合理主義と科学的批判精神に一路向かうのではありません。その方向に向かいながらも、それとは違う方向に同時に向かうのです。西に向かいながら、東に向かうというのでもありません。東から走ってきた路線が西の路線につながってくるのです。二つの路線があるかのように見えて、それは一本の路線であり、それが東から西へ、また西から東に走る感じです。科学的な思考、文明の発想は大切ですが、それは一定の定式化を経ているために、思考方法にステレオタイプを持ち込んでしまいます。ステレオタイプで物事を考えると、類型的な判断は可能になりますが、細部にまで目が届かなくなり、付随的な問題のように斥けられてしまい、主たる問題に大きく影響しないかのように判断される危険性があります。科学性と客観性、合理性と合目的性などの判断方法と判断基準は、思考の多数派主義になり、個体の細部を否定し全体へと目を向ける危険性があります。それが全体主義・ファシズムにつながる危険性です。それはドイツの戦後の哲学者などが繰り返し指摘してきたところです。その思考方法では、日本の中の朝鮮というナイーブな問題を捉える事ができないように思います。

(4)ヘイトスピーチ問題とアンチ・レイシスト運動
 昨今、ヘイトスピーチの問題が社会的に議論されています。それに対する法的規制の必要と実効力の対応が求められています。欧米でも規制の実例があるので、それを参考にして規制方法が考えられたいます。それを機に「日本の中の朝鮮」の問題を考えることができればと思います。ヘイトスピーチを行なっている団体に対してカウンターアクションとして、アンチ・レイシストの運動も展開されています。彼らの「仲良くしようぜ」というスローガンは、分かり易く、批判の余地のない固い思想を表しています。日本人も朝鮮人も「同じ人間」であり、平等です。その人間の友好関係を否定するのかどうかが、レイシズムであるか否かの試金石になっています。

 そのスローガンを受け入れることと、高史明の父親のような主張、生き方に対して共感できる感性を持つこととは、異なる問題のような気がしてなりません。そのスローガンは、さしあたりヘイトスピーチを止めさせるためのものなのかもしれませんが、その「さしあたり」の目標が終局的な政治目標になると、高史明の父親の生活実感にまでたどり着けなくなってしまうのではないかと危惧します。私は、この一個の在日朝鮮人の生活実感にたどりつくことが重要なことだと思います。従って、ヘイトスピーチのレイシズムに対して「仲良くしようぜ」という人間の普遍的平等を対置させるのではなく、高史明の父親のような個体的な生活実感をスローガンとして対置させることが必要だと考えています。「日本の中の朝鮮」は「私の中の朝鮮」の問題に発展させねばならないと思います。

 次回は、第8章「非スターリン化をめざして」を検討します。

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