2017-01-06

鶴見俊輔―『戦時期日本の精神史』を読む(10) - Rechtsphilosophie des als ob



鶴見俊輔との対話――『戦時期日本の精神史』を読む(10) - Rechtsphilosophie des als ob




鶴見俊輔との対話――『戦時期日本の精神史』を読む(10)
2015-11-13 | 日記
 鶴見俊輔『戦時期日本の精神史 1931~1945年』ノート
 第10回 戦時下の日常生活

 はじめに
 日常と非日常の区別は、何によって線引きされるのでしょうか。地震や津波、洪水などの自然災害に見舞われ、避難所で生活を余儀なくされている人の話をニュースなどで見たり、聞いたりすると、被災しなかった自分が、これまで通りの日常生活を送れていることをありがたく思います。日常の生活は、普段は当たり前であって、その意味を知ることはありませんが、それがいかに充実し、有意義なものであるかは、非日常的な事態に直面して初めて実感できます。非日常的な事態に遭遇することによって、それまでの日常的な生活が一変し、日常の生活リズムが激変します。しかし、たとえ非日常的な状況に遭遇しても、それに左右されることなく続けられる日常生活があります。それは「非日常性における日常性」です。

 平和と戦争の区別は、何によって区別されるのでしょうか。戦後70年間、日本は他国と直接的な戦争を行なわないできました。平和であることが日常であるとすれば、戦争に向かうことは非日常です。戦争に突入すると、日常生活は激変しますが、それでも続けられる日常生活があります。非日常性と日常性とが、一個人の生活において、各々独立して存在し、同時的・並列的しているのですが、そのような非日常的な状況と併存している日常性は、非日常性から切り離されて、ニュートラルに送られているわけではありません。災害に見舞われ、非常事態、非日常的な事態のなかでも、平常心を保っている人は、言葉を選びながら、取り乱さずに話しに努めていることがわかります。それだけに、芯の強い人間の言葉として重く受け止められます。

 「戦時下の日常生活」という項目を通じて、このような非日常性における日常性のなかにある人々の精神を確認することができます。戦争は、人々の日常生活を激変させ、人々を非日常性の渦に投げ込みます。その渦のなかで、人々は非日常的な戦争の意味を(肯定するか、否定するかにかかわらず)理解しようとします。伊藤整が、「この感動、萎えざらんがために」と自らを鼓舞させたように、非日常的な事態を肯定的に受け入れる思想を生みだします。また、非日常の戦争に抵抗し、日常を取り戻そうとする思想をも生みだします。いずれも非日常に対応する思想であり、行動です。しかし、このような状況のなかでも、維持・継続する日常というのもまた、非日常への対応のように思えて仕方ありません。

(1)戦時下のヤミ市と女性の役割
 戦争は、日常性を破壊する最も深刻な非日常ですが、戦争中であっても、日常生活は続けられます。それは、どのようなものだったのでしょうか。戦争からイメージされるのは、物資と食糧の不足です。イギリスは、第二次世界大戦のある時期までは、敗北に近い状況に追い込まれていました。ナチス・ドイツが、フランスやオランダに攻め入った時点では、ドイツが優位に戦争を展開していたからです。イギリスは、日本と同様に工業国でしたが、多くの国民を支えるのに必要な食糧を生産できずに、日常的な食糧不足に悩まされていたようです。しかし、イギリスと日本とでは、戦時下の食糧事情は異なっていたようです。

 イギリスでは、食糧省の価格統制により、戦時中の食糧の価格高騰を抑えることができたそうです。第一次世界大戦では、食糧の値段が130パーセント高騰したそうですが、第二次世界大戦では上がったのは20パーセントだけでした。とくに興味深いのは、主婦の意識です。第二次世界大戦がはじまった1939年の時点では、タンパク質とカロリーの違いについて知らない人が多かったにもかかわらず、戦争末期には家族の健康の維持・管理に必要な食品の種類について知識が豊富になり、食糧省に対して要請を出すほどになっていたそうです。これは、平時においては、健康というものは、あまり気にしなくても、当たり前のことだと考えられていたが、戦時には、健康について意識的に考えるようになったというエピソードです。平時における健康と戦時における健康は、健康という点では同じですが、その意味の重さが全く違っています。戦争という非日常における健康維持は、意識・自覚された日常性の象徴です。

 日本においては、配給制度がとられていました。列に並んで、食糧を受け取る風景を映画やドラマでよく見ます。配給制度では、主食であるコメ、塩や砂糖などの調味料の取引を自由市場に委ねると、売り惜しみや価格高騰の危険が出るので、政府の管理下に置いて、その流通を統制するのが通例です。1941年の時点では、配給される主食は、一日あたり2400カロリーでしたが、1942年には2000カロリーになり、1945年には1793カロリーに引き下げられました。健康を害する人の数も多くなり、結核による死亡者数が、1930年までは年間14万人であったところが、1942年には16万人、1943年には17万人へと増加したようです。このような戦争という非日常性のなかにおいても、維持・管理されるのが健康であり、それは非日常的な戦争によって失われたはずの平和な日常によって支えられました。日常性のなかでは健康であった人が、戦争ゆえに不健康になったとすれば、戦争は日常的な健康を破壊する非日常的な病理の最たるものです。日常の健康を回復し維持するためには、非日常的な病理である戦争に対抗して、日常を取り返すほかありません。戦争と平和が共存できないように、理念的には病理と健康も共存できません。しかし、非日常的な戦争の病理のなかでも、それに対抗する日常的な健康は、現実的には維持されたのです。

 非日常的な戦争・病理に決して同一化されない日常の平和・健康は、何によって可能であっかのでしょうか。それは「ヤミ市」です。ヤミ市は、昼間の明るい市場ではなく、夜の暗い市場です。昼間の市場が正規の合法的な経済であるなら、夜の市場は非正規の非合法の経済、地下経済、ブラックマーケットということになります。正規の市場で取り引きするのが原則ですが、例外的に非正規のヤミ市で取り引きされることもあります。この非日常的なヤミ市が、戦時下においては、日常的な生活と健康を支える基盤であったというのは、逆説的ですが、興味深いことです。しかも、配給制度という正規の食糧管理のメイン・システムの不備を補うサブ・システムとして機能していたという点も重要です。

 鶴見さんは、ヤミ市という言葉を二つの意味で用いています。日本は、明治維新前は、農業中心の国でしたが、明治維新以降、近代化・工業化し、産業国家になりました。工業と商業に従事する人は、地方から都会に出てきましたが、もとは農業を営んでいた人たちです。都会に住むようになっても、人間関係は農村にあります。そこから季節のものが送られてきたり、また足りないものがあれば、買いに行ったりできます。都会で手に入る物を地方に持っていき、それと交換することもできます。資本主義の市場経済システムの観点からみれば、都会と農村の間の物々交換は、正規の市場システムではありません。それは、私的な関係のなかで成立している非正規のシステムです。しかし、正規のシステムでは足りないものを補う相互扶助の慣習にもとづくシステムでした。これが「ヤミ市」の第1の意味です。さらに、言葉の通常の意味での「ヤミ市」というものもありました。それは、経済に敏感というか、目ざとい人間が通常の価格で仕入れたものを、物資や食糧が不足している状況をいいことに、人の足元を見て、通常よりも高値で販売するやり方です。それは、なかば公然と行われている取引であり、私的な関係を超えています。しかも、正規の市場システムと相互補完的な関係にはありません。しかし、正規の市場システムでは手に入らないものがあるならば、このヤミ市もまた必要とされます。そこには、正規の日常的な市場システムが機能不全に陥り、非正規の非日常的なシステムによって替えられる関係があります。合法と非合法の倒錯関係ともいえます。これが第2のヤミ市の意味です。

 非日常の時代に日常生活を支えたのが女性です。男は軍隊にとられ、生活の一切を女性が仕切ります。子供だけでなく、家族全員の命を支える役割を担ったわけです。そのことは、女性にこれまでにない権威を与えました。非正規のヤミ市の経済システム(とくに第1の意味におけるヤミ市)が、女性の権威の向上に役立ったというも、逆説的です。

(2)非日常性における日常性保持の力強さ
 戦争という非日常的な空間においては、女性だけでなく、男性も老人も、ヤミ市をはじめとする非合法的な手段を使って、日常的な秩序を回復し維持しました。物々交換という非日常的な手段は、違法ではありませんが、正規の市場ルートを通さない手法を使って、相互に助け合いました。戦時下であったため、政府の政策や国家の秩序に対して正面から対決するというようなものではありませんでしたが、その不足を補うために、実情に即した生活を貫きました。戦時における日常的な物々交換は、非日常性における日常性の力強さというか、非日常性に対抗する日常性の強さというか、派手なものではありませんが、そのような力強さを感じさせます。

 京都の東山五条に藤原陶芸という清水焼のお店があるそうです。それからも、同じ様な静か抵抗を感じます。戦争中は物資が不足していました。金属類は、すべて供出しなければなりませんでした。自転車はもちろん、なべ、かまなどを、政府と軍に提供しなければなりませんでした。軍事優先のため、金属が不足し、それ以外のもので武器や兵器を作らざるを得ないといった状況でした。戦時中のエピソードとして有名なのが、「一輪ざしの手榴弾」です。「一輪ざし」は、瀬戸物です。紙コップぐらいの大きさです。軍部は、この清水焼の一輪ざしに注目しました。手榴弾として代用するためです。

 藤原陶芸は、軍の司令を受けて、「一輪ざし」に火薬を詰める空間を開け、手榴弾としての機能を持たせ、日本の伝統工芸が戦争のために動員したのです。伝統工芸は、日常の静かな生活において楽しむものです。戦時のような非日常性は、芸術とは無縁なものです。しかし、この芸術と芸術家が戦争に動員されたのです。芸術家は、命令に背くことはできませんでした。しかし、命令に従って戦争に進んで協力したわけではありません。一輪ざしは「手榴弾」として利用されましたが、芸術家が作ったのは、最後の最後まで、「一輪ざし」でした。「手榴弾」として利用されるので、爆発して無くなってしまいます。しかし、その「手榴弾」の見栄えは、美しく、芸術性の高いものでした。どこから見ても、「一輪ざし」でした。きれいな花を最後まで美しく見せる気品を感じさせます。戦争という非日常性に対して最も抵抗したのは、一輪ざしという芸術の日常性であったということができます。ここにも派手ではありませんが、静かで力強い抵抗力を感じます。

 戦時下においても日常生活に必要なものを手に入れが、あえて非合法・非正規のヤミ市に頼らざるを得なかったというのは、歴史リアリズムであったといえます。また、芸術性の高い一輪ざしを作って、戦争へ協力したというのも、歴史のパラドックスであったといえます。

(3)戦時下における思想の日常性と非日常性
 生活面から見た場合、戦時下における日常性と非日常性は、非常に興味深いものです。それが思想面や精神面にも影響を及ぼしていることは、想像に難くありません。それは、例えば鶴見さんが分析している「隣組」です。

 日本が中国に対して戦争を始めたとき、やがて資源や物資、食料が不足して、配給制度が必要になるだろうと思い、その制度を円滑に行えるようにするために、徳川時代にあった近所付き合いの五人組の制度を復活させて、「隣組」という制度が実施されました。当初は、戦時対応の組織であると同時に、相互扶助の性格も持っていたようです。5軒から10軒の世帯を一つのグループにして、戦争での住民の動員や物資の供出、統制物の配給、空襲での防空活動などを行なっていました。思想統制や相互監視の役目も担っていました。また、政府や自治体の政策を民衆のところまで伝達する上からの組織として使われ、また民衆の意見や要望をまとめるための下からの制度としても使われました。1940年代には、政党や結社が自ら解散して、大政翼賛会に合流するようになると、この隣組の制度もその運動に吸収されて、軍部を本体とする全体の毛細血管のような役割を担いました。

 困っている人を助ける相互扶助の機能と役割が、隣組によって担われていた限りでは、それは隣近所にとって有益な組織であったと思います。しかし、危険思想の持ち主が、たとえ困っていても、扶助の対象にはならなかったようです。それは、魔女狩りというか、あぶり出しのようなことを平気で行う狂気の集団にもなりえたということです。鶴見さんは、九津見房子(くつみ・ふさこ)について紹介しています。九津見房子は、日本で最初の社会主義の女性団体「関蘭会」(せきらんかい)の中心的な活動家でした。1928年に日本共産党が弾圧を受けた時、女性で最初に治安維持法が適用されたのが九津見です。札幌刑務所に収容された経歴を持っています。ゾルゲ事件でも逮捕され、終戦の間際まで刑務所に収容されていました。しかし、戦後、日本共産党に再び戻ることなく、三田村四郎と結婚し、三田村の妻として献身的に尽くしました。

 九津見を正確に理解するためには、三田村という人物の経歴が重要です。三田村と九津見は、1922に結婚し、日本共産党に入り、治安維持法違反で逮捕、投獄されます。戦後、共産党は、九津見に党に復帰するよう誘いましたが、九津見は、復党を拒みました。しかし、共産党は、三田村には復党を要請しませんでした。三田村の転向は、党幹部の佐野学のような思想転向であり、それは天皇制への屈服でした。三田村としても、戦後は党に関わらず、反共主義者として生きていきます。おそらく、共産党が九津見に復党を要請したのは、その転向が思想転向ではなかったからだと思います。もし、九津見が共産党の要請を受けて、復党したなら、夫・三田村との関係は破たんしたでしょう。九津見は、夫との関係を破たんさせたくなかったのだと思います。しかし、夫と同じように思想転向したかというと、そうではなく、夫と同じような天皇主義者、反共産主義者にはなりませんでした。党の復帰するかしないか、復帰するなら共産主義・共和主義、復帰しないなら反共主義・天皇主義、というような二者択一ではなかったのです。三田村は、1964年になくなり、九津見は静かな余生を送り、1980年に89才の生涯を終えました。敗戦後の行動については、語らなかったようです。鶴見さんは、この九津見の生き様に、日本人の転向史のなかでは珍しい一人の独立した女性を見出しています。そして、日本の男性知識人には見出すことのない「弾力性」があるといいます。

 戦時における九津見の思想の変遷を、日常性と非日常性という観点から考えてみたいと思います。平時では、戦争は非日常的な事態ですが、戦時では、それは逆になり日常となります。もちろん、そのなかでも生活や健康など平時の日常性は維持されますが、全体としては、戦争が日常化します。逆に、平和が非日常的な事態になります。戦時における日常と非日常、戦争と平和、戦争への抵抗とそれへの弾圧は、コインの裏表のような関係にあります。九津見は、そのような時代に平和と抵抗の非日常の側に立ちました。そして、戦後を迎え、彼女が待望した平和の時代が訪れ、求められていた非日常の平和が日常化しました。この時代に、九津見は、天皇主義・反共主義者の妻として過ごしました。それは何故でしょうか。彼女が、反天皇の共和主義者・共産主義者として精力的に活動した時代は、戦争の時代であり、平和を求める運動に対して激しい弾圧が加えられた時代でした。戦後は、平和憲法が制定されました。軍国主義の復活の動きは予断を許さない状況にありましたので、依然として戦争の動きはありました。従って、憲法の平和主義を徹底する立場は、平和を求める運動を強化します。反対に、戦争の動きを加速する立場は、再軍備を求める世論を強化します。世論は大きく二つに分かれました。対立関係は明白でした。

 九津見は、この時代に、平和の側に立って運動を再開しませんでした。それは何故でしょうか。それは、平和でなければ絶対だめ、戦争は無条件に拒否しなければならないと考えてはいなかったからではないでしょうか。憲法の下で、国民的な自由な議論が行われ、そこから一定の結論が出されれば、どのような結論であっても、それでかまわないと考えたからではないでしょうか。重要なことは、「正しい結論」を導くことではなく、結論を「正しく導く」ために、議論することであると考えたからではないでしょうか。国民が主人公であり、その主人公が自由に議論をするならば、その上から議論を指導することは必要ないのです。「正しさ」の押し付けは、やってはだめだなのです。戦前における彼女の活動は、彼女の理念から見れば、日常においてあってはならない戦争という事態において、日常においてあるべき平和と国民生活を取り戻す闘いでした。国民は、隣組などによって相互監視の関係にあったので、自由な議論や運動は望めませんでした。彼女は、自由な議論が保障される社会を作るために、共産主義活動に入っていったのだと思います。戦後も、戦前とは違った意味において、平和と国民生活を取り戻す活動を強化することが求められていました。戦前と違うのは、国民のあいだで自由な議論をして、自分達の道を選択する自由が保障されたことです。国民は、もはや隣組による相互監視の状態にはありません。自由という権利によって結びつけられています。この自由を十二分に行使するならば、出された結論は、国民の結論です。そのような議論を通じて出された結論が「正しい」のです。どこかに「正しい結論」があって、それを認識している人が、国民の上に立って、国民の議論をリードするようなことは必要ではないのです。「正しい結論」を出すことが重要なのではなく、結論を「正しく出すこと」が重要なのです。九津見は、そう考えたのではないでしょうか。それは、今から考えれば非常にナイーブで、国民の自由な議論に対する過信があったように思いますが、戦後直後に九津見がそのような心境になったというのは理解できます。夫の三田村の活動に対しても、自分の立場とは違いますが、自由に選択した思想と運動である以上、尊重するという懐の深さがあったと思います。鶴見さんは、この点を捉えているようです。

(4)戦時下から戦後直後の日常生活
 戦時下の日常生活の風景は、その実生活の面においても、また思想の面においても、一般の庶民が非日常である戦争のなかで、日常の平穏な生活を取り戻すための自覚的な生活であったということができます。それは、戦争への協力といった非日常における日常性とは異なり、庶民の生活と思想が多様であったことをうかがわせます。しかも、女性や主婦が家族の生活や健康を守るために、実生活においてヤミ市や隣組を利用したこと、戦時下の日常生活の実情を具体的に伝えています。それは、戦争が終わった後でも同じです。鶴見さんは、「戦時下の日常生活」というように、考察の対象の時期を限定していますが、それは戦争直後においても同じだと思います。

 それは、朝日新聞社『おんな――立ち止まらない女性たち』(2010年)という写真集から窺えます。戦争という非日常的な出来事が、1945年に終わりました。政府は、この戦争を、正しい戦争、大義のある戦争、欧米の帝国主義からアジアを解放する戦争であると宣伝し、男たちを兵士として動員し、その多くの命を奪いました。戦争から戻ってきた者は、鶴見さんによれな、「実存主義」という精神状況のなかで自分自身と自分の身体を見つめていたといいます。戦後直後の状況のなかで、どの方向に向かって一歩踏み出すかを決定するために、多くの人々は、立ち止まって静かに考えたのではないかと思います。しかし、それは男性の姿です。女性の姿は違います。この写真集は、戦争直後の日本の女性の日常生活を伝えています。いくつか見ていきましょう。

 1945年8月9日に長崎で被爆をした女性とその赤ん坊の写真です。これは、その翌日の10日に撮影されたものです。沖縄での地上戦、東京や大阪など都市への空襲、そして広島への最初の原爆投下という戦況のなかで、長崎にも原爆が落とされたことは、戦争が最後に近付いていることを確証させました。そのなかでも、母親は子どもの治療のために診療所で順番を待ちながら、お乳を飲ませています。戦争の終結を伝える玉音放送を聞きながら、女性たちが涙を流している8月15日の写真があります。勝つことだけを信じて戦ってきた戦争に負けたことを知らされた衝撃は想像を超えるほど大きかったはずです。泣き崩れ、地面を拳で叩き、体で絶望と悲しみを表現したい衝動にかられた人もいたと思いますが、ぐっとこらえ、じっと耐ている表情はその衝動をおさえる女性の精神の太さを感じさせます。しかも、彼女たちは、敗戦の衝撃を受けて、泣きながら立ち止まってはいません。泣きながら歩きはじめます。どこに向かうかは、分かりませんが、歩き始めます。戦争に負けそうだからといって、立ち止まってはいられない。生きることへの躍動感が感じられます。

 戦争が終わって4年後にようやく日本に変えることができたシベリア抑留兵の写真に写っています。女性看護師の写真には、敗戦の涙はありません。新しい時代に向かって走り出している笑顔が映っています。シベリアから帰国した夫の手をとって、引っ張る女性の服装も、新しい時代に生きていることを感じさせます。夫はシベリア抑留兵です。国防色の軍服に、軍用のリュックサックを担いでいます。女性は花柄のワンピースを着て、右手にはハンドバッグを持っています。髪型もロングヘアになっています。戦後直後のコントラストな模様がはっきりと描かれています。

 戦争によって失われたものは、計りしれません。経済は軍事経済でした。必要なモノを作って売って、もうけるという生産的な経済ではありません。兵器を作って使って、破壊するという不生産的な経済でした。戦後直後は、経済的な貧困と混乱からスタートします。そのようななかで女性たちは、生活のためにの闘いに立ちあがります。1946年のメーデーの「米よこせデモ」では、25万人の参加者が「食糧を我々の手に」と叫んで、デモ行進しました。その先頭にいたのは、女性の姿です。彼女たちは、「赤ん坊にミルクを」、「生きるだけ喰わせろ」、「反動政府反対」と叫んで、新政府の政策に反対しています。1951年のデパートの従業員のストライキの写真は、女性労働組合員が腕を組んで、スクラムを組んで、労働争議に参加している姿を映しています。「オトウチャンの首返せ」と書かれたプラカードを掲げて、女性組合員が口に手を当てて、自分たちの要求を大きな声び、手を握り締めて、真剣なまなざしで見つめています。労働争議の緊迫した雰囲気が伝わっています。プラカードには、一輪の花が描かれ、厳しさのなかに女性特有の落ち着きが感じられます。男中心の労働組合ではないことの証明です。平均年齢17才という滋賀県の製糸工場の組合員は、1954年に106日間にわたってストライキ闘争を闘ったそうです。また、石川県の内灘では、米軍の試射場として接収された砂浜で座り込みデモが1953年に行なわれました。小さな子どもを抱き抱えながら、デモに参加する女性の姿は、保育所の充実を訴える現代の女性のデモ抗議の姿と重なります。子どもを産み、育てる女性の力強さを感じます。都市部では、企業の合理化・不当解雇に対して闘わなければなりません。農村部では、農作業の担い手として野良仕事に携わらなければなりません。そのなかで子育てもしなければなりません。子どもは、そのような母親を見ながら、大きくなります。戦争法廃止のために活動する「ママの会」という団体がありますが、普通の若い女性が平和のために闘っています。戦後直後の変化と同じ様な変化が、今の日本で起こっています。

 時代の変化は、流行やファッションにも大きく影響します。東京の浅草の松竹演劇団の踊り子の1949年の写真がこれです。1955年の喫茶店のウェイトレスが歌舞伎町の靖国通りで出前している写真は、信号もなければ、横断歩道もありません。幅の広い道路を小走りに横切っています。この写真は、額縁ショーといいまして、ストリップの一種です。1947年の写真です。ストリップ型のファッションショーもの写真は1952年のものですが、通常は男性客が見るものですが、今回は女性を招待した特別企画のようです。踊り子さんは、楽屋で扇風機にあたっています。農作業用の新作のファッションショーもあります。1955年の写真です。JALのキャビンアテンダントさんの集合写真です。1951年の一期生の皆さんです。女子プロレス、女性国会議員候補など、写真を全部説明していたら時間がなくなってしまうほどです。

 鶴見さんは、このような目線で戦時下の日常生活を女性の視点から見つめました。隣組、ヤミ市で生活のために必死に働く女性、戦前の政治体制に反対して活動する女性、戦争が終わり、日常生活が急激に変化するなかでも、立ち止まらずに一歩ずつ確実に歩いている女性。社会の動き、人間の生活の動き、何気ない動きのなかから、人間の力強さをつかみ取る目線を持つことができるならば、一喜一憂することなく、前を向いて生きていけるように思います。

 次回は、第11章「原爆の被害者として」を検討します。

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