2017-01-06

宮川透との対話――『日本精神史への序論』を読む(01) - Rechtsphilosophie des als ob

宮川透との対話――『日本精神史への序論』を読む(01) - Rechtsphilosophie des als ob


 第01回 宮川透『日本精神史への序論』(紀伊国屋新書・1966年)(その1)

 はじめに
 今回から3回に分けて、宮川透(みやかわ・とおる)さんが執筆した『日本精神史への序論』を解説し、検討したいと思います。宮川さんは、この本のなかで、明治維新以降の精神史におけ「西洋への傾斜」と「日本への回帰」の振れ幅と、その近因・遠因を明らかにしようとしています。それを批判的に検討できるかどうかは、あまり自信はありませんが、チャレンジの意味で挑んでいきたいと思います。

 宮川透さんの人と学問
 まずは、宮川透さんについて紹介します。宮川透さんは、インターネットのウィキペディアによりますと、1927年9月21日に京都府で生まれ、1999年4月6日、72才で亡くなられました。東京大学文学部で学び、その後、東大の東洋文化研究所の研究員を経て、東京外国語大学で研究・教育に従事し、定年退職後はの1990年からは富山国際大学教授として教育と後継者の指導にあたってこられました。最後の最後まで研究と教育のために生きてこられた哲学者です。

 私は、日本の哲学者の書物を様々に読んできましたが、宮川さんの世代の哲学者の書いたものは、非常に関心があります。宮川さんは、1927年の生まれです。中学・高校において軍国主義的な教育を受けた後、日本と世界は大きく変わっていました。戦争から平和へ、全体主義から民主主義へと。そのようなかで、何が正しくて、何が間違っているのか、人は以下に行動すべきであるのか、いかに生きるべきであるのか。そのような人生上の問題に直面したのではないかと思います。宮川さんの同窓生のなかには、同じ様に哲学研究の道を歩んだ人が数多くいます。その人たちの書いた物を読んでも、そのような問題関心が感じられます。当時の若者、研究を志した意気込みが伝わってきます。

 しかし、その人たちのものと読み比べると――比べるのは容易でないことを承知のうえで言っているのですが――、宮川さんの書いたものは、一種の「孤独感」が漂っているような印象を受けます。孤独とは、「主流」ではないということです。流行りの「論争」には、関わっていないということです。そのような現代の流行の端っこの方に、やや離れたところいるような感じを受けます。端的にいえば、「マイナー」な研究ということです。商業雑誌や出版物で、宮川の名前を見ることは多くはありません。私にはそう思えました。

 法律学や経済学、社会学などを研究している者は、社会が目まぐるしく変化しているので、そのようななかから問題を抽出して、説き明かさなければなりません。世界全体が不安定で、構造的に変わりつつあるなかで、自分の位置関係と立場をはっきりさせ、発言していかなければなりません。しかし、先行き不透明な現代において、自分は今どこにいるのだろうかと理論的・思想的に不安になると、なかなかそうもいきません。その不安を解消するために、社会、国家、世界の全体を網羅する普遍的な知識の体系――しかも安定した信頼できる体系――を求めようとします。それが「哲学」です。哲学とは、個別の学問分野の研究に従事している者には、手が届かないほど遠くの世界の知識の体系であって、諸学問の1領域などでは決してありません。非常に難解です。ですから、哲学について書かれた書物のうち、素人でも読めそうなものを持ってきて、ワラをもすがるような気持ちで読んだりします。しかも、関心のある言葉が書かれている目次や索引の該当のページをめくって、その前後の文章を手がかりにして、読んだりします。のどが渇いた人が、少しの水でいいから、喉の渇きをうるおすために飲むように、その前後のページを読み、少しずつ全体に目を広げていきます。そして――私の経験では――解ったような気になります。断片的な知識しかないので、本当は何も解っていないのですが。

 私も(というより、少なくとも私は)、そのような研究者のひとりです。自分の理解に限界があり、哲学の体系を十分に分かっていないことを承知しています。だから、断片的な知識を体系化するために、哲学や思想に関する通説や通史を書いた書物があれば、どれほど助かるかと願っていました。様々に読んでいくうちに、1つの書物に出会いました。それが、宮川さんの『日本精神史への序論』でした。この本において、著者は、自分が明らかにしたい課題と問題を掲げ、それに正面から挑んでいます。その学問的な姿勢は、凛としたものです。それ以外のことは、書かれていません。世間でもてはやされている「激しい論争」にコミットしていません。ただ、理論的・思想的な課題を抱えた自己と正面から向き合って、ひたすら歴史との対話を続けています。その学問的な姿勢は、執念に似たものを感じさせます。商業主義的なビジネス感覚から考えると、売れそうな本かというと――今の時代では――疑問です。しかし、本書が出版された当時は、「画期的」な哲学書として紹介されていたようです。宮川の学問的姿勢に共感した人も多かったのではないかと思います。ひたすら「何か」に向かって、思考を続ける姿勢は、その人の学問が謙虚で信頼できることの証明でもあります。私は、宮川さんのこの姿勢に魅了されたひとりです。だから、宮川さんの思考過程に、自分の疑問を重ねて、位置付けたいと思いました。そして、その疑問に宮川が何と応えるかを考えました。空想であっても、彼とのあいだで、そのような議論をしてみようと思いました。

 3回にわたって宮川さんの書いた精神史を検討したいと考えたのは、彼が考察した成果を明らかにし、それと関わらせて、自分の疑問と課題を整理するためです。『日本精神史への序論』は、今でも、そして今後とも、多くの哲学者と読者によって読まれるべき本だと思います。以下では、宮川さんの学問的成果の一端を客観的・批判的に評価するために、敬称を省略し、宮川と呼ぶことをお断りしておきます。

 一 宮川透『日本精神史への序論』の構成
 宮川透の『日本史精神史への序論』は、3部構成になっています。第1部は「啓蒙主義からロマン主義へ」、第2部は「大正文化の二様相」、第3部は「日本への回帰」です。そして結語として、「解雇と展望――戦後啓蒙主義と第三の『回帰』をめぐって」が加えられています。まずは、この叙述方法の特徴をおおまかに概観しておきたいと思います。

 近代日本の思想史や精神史の発展過程は、一般に明治維新による鎖国政策の解除と開国による国際社会への参加によって始まったと解されています。それまで「他者」の存在を前提としない「無自覚な自己」から、「他者」の存在を目の当たりにして、「自己の自覚」を痛感した大きな流れにおいて説明することができます。つまり、中国やインドなどの大陸の外国文化は、過去の長い歴史のなかで日本へ伝播し、それが時間をかけて日本固有の文化として定着しました。その限りでいえば、日本には「他者」と向き合う自意識がありましたが、しかし思想や文化が日本的なものとして定着してからは、そのような自意識は無自覚なものになっていったように思います。従って、徳川時代の鎖国政策ゆえに、日本はあらたな「無自覚な自己」となり、その間に急速に発展した欧米諸国の科学文明や学問・思想とは無縁な存在になってしまいました。世界は、そのような文明と科学を軸にしながら、欧米諸国、とくにスペイン、ポルトガル、イギリス、フランス、オランダなどの西ヨーロッパの諸国を中心にして形成されていました。日本は、科学と文明の中心地であるヨーロッパから地理的にも思想的にも非常に離れたところにいました。

 世界の中心はヨーロッパであったし、今もそうである、という歴史認識と時代認識は、そんなに変わっていないと思います。日本は、明治維新による鎖国政策の解除と開国によって、そのようにして今日まで形成されてきた西洋中心の国際社会に参加していきました。それまでの日本は自己完結的で閉鎖的な社会であったために、「他者」の存在を意識し、「自己」を自覚する必要性に迫られることはありませんでした。しかし、圧倒的に優位に立つ西洋の科学と文明を目の当たりにして、遅れ劣っている日本を自覚せざるを得なくなりました。他者の存在、しかも時代を先取りし、リードする他者の存在は、立ち止まっている自己の限界を目覚めさせ、国際関係のなかで、日本はいかにあるべきかを考えさせるきっかけになりました。西洋諸国を意識すればするほど、日本を自覚せざるをえなくなる。西洋の科学と文明の優位性を認識すればするほど、日本の伝統と文化が立ち遅れたものに思えてくる。そのような劣等感ともいえる自己認識をバネにして、西洋の科学と文明を受容しました。その優位性は、日本的なもの、アジア的なものが不要に思えるほど素晴らしかったようです。そして、日本の近代化は、脱アジア化=西洋化という意識のもとに進められていきます。しかし、それに伴って、自己意識に目覚めたはずの「日本」が徐々に忘れ去られました。インターナショナリズムの名のもとに、ナショナリズムが失われていく現象は、一般的にありがちですが、ナショナリズムのない国が国際社会に参加しても、インターナショナリズム(国家間において相互の立場を尊重し、対立・緊張と友好・宥和を維持する関係)を築き上げることはできません。少なくとも、ナショナルな意識のない日本を対等平等な相手として扱う国はないでしょう。そうすると、その反動として、より強いラディカルなナショナリズムが台頭するのは当然のことです。

 宮川は、そのようなナショナリズムの台頭を「日本への回帰」と名付け、明治維新後の1880年代と1930年代の2度に渡って、「日本への回帰」が起こった過程を検証し、その目的・本質を詳細に説き明かそうとしています。そして、本書が描かれた1960年――今から50年前――、3度目の「日本への回帰」が起こりつつあることを冷静に見極めようとしています。1960年代の「日本への回帰」の現象については、後に検討しますが、その後、数度の「回帰」を経て、現在は日米同盟のもとで、一方で対米従属の関係を深化させ、政治・経済の諸分野において国家主権を自ら制限しながら、他方で「誇りある日本を取り戻す」ための思想運動、日本国憲法を廃止し、独立国に相応しい憲法の制定を求める政治運動が起こりつつあります。これもまた「日本への回帰」のひとつの現れであるといえるでしょう。

二 啓蒙主義からロマン主義へ――第1回目の「日本への回帰」
 日本は、明治維新以降、開国によって、西洋諸国へと目を向け始め、「文明開化」の運動を開始しました。そこには、西洋諸国の科学と文明があり、進歩した歴史がありました。そして何より目を向けざるを得なかったのは、迷信と古い文化に呪縛された日本、進歩した歴史の流れから、遠く取り残された日本でした。このような時期の「文明開化」の運動について、宮川は、次のように記しています。

 世界文明史上、19世紀にいたるまで極東の位置にあった日本は、世紀の後半における西欧の「挑戦」に対して、西欧文明を技術文明として限定しようとする基本的な姿勢をしめしつつ、国を開くことによって「対応」した。近代日本精神史上、啓蒙主義運動として規定される「文明開化」運動はこの方向に展開されたものである。その目標は近代西欧精神の所産である19世紀の新文明の受容をつうじて、自己を技術的制度的に補強しつつ、独立的な近代国家日本を創出することにおかれた。「殖産興業富国強兵」は、こうしてその旗印となった。この啓蒙の事業は明治新政府と不即不離の関係にたっていた「明六社」の知的エリートによって推進されたのである(12頁)。

 当代の知的エリートによってこのような史観(歴史を支えるのは人民である。人民の智力が発揮されれば、歴史は進歩する。人間の歴史においても自然科学的な法則認識が可能であり、妥当する――引用者による注)が積極的に採用されることによって、わが国の啓蒙主義運動が自覚的に展開されたという歴史的な認識が必要である。ここに構築されたあるべき近代文明の姿は、啓蒙主義思想に共通する抽象性とオプティミズムを脱却しないものではあったけれども、そこには「開かれた」普遍史への、もしくは普遍的な世界への展望があった。そしてその構想は世界観・人生観としては、彼等が抱懐した「宇宙論哲学」に対応するものであったのである(13頁)。

 宮川は、明治維新による開国以降、「近代西欧精神の所産である19世紀の新文明」が受け継がれ、「独立的な近代国家日本」を創出することが目指されたと指摘しています。そして、このような文明開化を近代日本における啓蒙主義運動として特徴づけています。その啓蒙主義運動は、一方では18世紀以来のイギリスやフランスにおける近代市民革命を促し、それを定着させた近代西洋の進歩的社会思想、また宗教的世界観から解放され、国家・社会を自然史の1過程として認識・管理する自然科学主義、さらに国家・社会、そして世界を客観的(自然科学的)に認識し、それを合理的に変革・運営できると楽天的な世界観と国家観を内容としていました。そして、同時に他方で、19世紀に起こった産業革命によって露見した資本主義の諸矛盾を、ある時には「解決」し、またある時には「隠蔽」することによって、国家・社会を管理・運営し、人民の統治・支配する「上から」の改良主義をも内容としていました。このふたつは、18世紀の革命思想と19世紀の改良思想という思想的には相反するものであり、そのために最終的には啓蒙主義運動内部における分裂の契機になるものでしたが、運動内部に様々な限界が内在していようとも、まずは西洋諸国の進歩思想と歴史観・国家観は、どの時代の、どの国にも適用可能な理論として理解されていたため、普遍的という意味で抽象的であり、その可能性は肯定的に捉えられていました。このような楽観的な認識に基づいて、近代国家日本を「開かれた」普遍的な歴史あるいは普遍的な世界へと発展・統合していくことが展望されたのです。

 西洋諸国は、現在の目から見れば――その影響力は非常に強かったのですが――、それらを中心に形成された世界は、「一地域」の政治・経済・文化圏でしかなく、また「世界史」と呼ばれる歴史も「一地域」のヒストリー(キリストの物語、ヒズ・ストーリー)でしかありませんでした。しかし、その進歩した科学と文明は、日本の若いエリートにとっては、西洋だけに妥当する個別的なものではなく、他の文明・文化の国々においても広く妥当し、普及されるべき普遍的な性格を持っていると実感させるに十分でした。開かれた普遍的な世界と歴史が、海の向こうのヨーロッパにありました。まだ見ぬ彼の地に広がるのは、まさに無限に広がる「宇宙」のようでした。そこには、西洋も東洋も、すべてを包摂しうるような包容力のある世界が広がっていました。今風にいえば、国境もなければ、宗教もない、人種・民族の対立も紛争もない、人智によって争いをなくし、平和のうちに生きていける世界が広がっていたかのようです。欧米諸国から開国を迫られた経緯、押しつけられた様々な不平等条約などの問題がありながらも、総じて西洋諸国の科学と文明に対して強い憧れが抱かれたのは事実です。福沢諭吉、田口卯吉、津田真道、西周(にし・あまね)、中江兆民など多くの若い知的エリートは、その「宇宙」へと向かって身も心も投げ出し、精神運動としての啓蒙主義運動を牽引しました。それに対応して、政治運動としての自由民権運動が起こりました。

 しかし、西洋諸国からの外的な作用と衝撃と受ければ、日本社会と精神において内的な反作用と反応が起こるのは、それこそ自然の法則です。宮川は、その反作用と反応を、啓蒙主義に対して「ロマン主義」という言葉で表現しています。開国によって、西洋諸国という「他者」に遭遇し、その存在を意識した日本の「自己」あるいは「自我」が、「他者」の進歩した科学と文明を受容することによって、西洋化(他者化)し、そこに埋没することによって、「自己」を喪失する危険性を感じたのは、ある意味で自然な反応であったといえます。宮川のいう「ロマン主義」は、「他者」の存在を肯定し、そこから様々なものを受容しながらも、「自己」を自覚する精神の動きを表しています。宮川は、そのような思想的傾向を「日本への回帰」と呼んでいます(最近の言葉で言うと、「日本を取り戻す」です」)。鎖国政策を解いた日本が、西洋諸国中心の「普遍的」世界へ参加するにあたって、どのような関わり方をすればよいか。遅れた日本を進んだ西洋諸国と同じレベルに引き上げるために、西洋諸国から国家・社会の管理の合理的技法を受容しながら、独立国家日本のアイデンティティーを自覚・維持するにはどうすればよいか。日本の「普遍的」な世界と歴史への編入は、このことを十分に整理しないまま、進められたのです。それは急速で、かつ無条件な編入であったために、あまりにも無防備であったといえます。それゆえ、それへの反発として、普遍的な世界ではなく、「民族的・個別的な世界」と「特殊的・内面的な感情」が重視され、自覚され始めたのは必然的なことでした。宮川のいうロマン主義とは、このような傾向を指しています。

 啓蒙主義運動は、「明六社」という組織を中心に進められましたが、その運動が依拠していたのは、先にも指摘したように、進歩的な歴史観・国家観でした。歴史を支えるのは人民であるとか、人民の智力が発揮されれば、歴史は進歩するであるとか、人間の歴史においても自然科学的な法則認識が可能・妥当するといった思想でした。それは、18世紀的な英仏の進歩的な社会思想、革命思想を源流としたものでした。しかし、このような思想は明治維新政府にとって必ずしも好ましいものではなく、それを基に進められた自由民権運動も、政府の政策に抵触する限り、規制と弾圧の対象にならざるをえませんでした。政府の政策の枠内で「民権」を主張し、実践するのか、それともその限界を超え、明治政府そのものを変革するのか。啓蒙主義運動の内部で争いがあったことは容易に想像できます。啓蒙主義に導かれた自由民権運動の内部において、19世紀的なブルジョア的な社会改良主義が現れ、政府の政策の枠内に運動を抑えようとする動きが出てきたのは、このような事情があったからです。その結果、この社会改良主義の思想が、自由民権運動に代わる政治運動を指導し、あるいは自由民権運動を変質させていきます。それに連動して、運動を支える哲学・思想として、世界性と普遍性を斥け、民族性と特殊性の自覚の上にたった社会思想を生み出していきます。ひとことで言い表すならば、イギリス・フランス的な実証主義・経験主義に替えて、ドイツ的な形而上学・理想主義への変転です。その後の日本の政治運動や思想運動は、このブルジョア改良主義思想とドイツ的な形而上学・理想主義(西南ドイツ学派の新カント主義的価値哲学)によって方向づけられていきます。

 西洋諸国の多くは、19世紀の半ばから後半にかけて産業革命を経験した結果、資本主義の諸矛盾を抱えこむことになり、失業、犯罪、退廃が社会に蔓延しましたが、それを解決するために、社会の基本構造にメスを入れる必要がありましたが、その体勢は、大掛かりな対策を講ずるのではなく、改良主義的な傾向へと流れていきました。18世紀に近代市民革命を経た国でもそれは例外ではありませんでした。そのような思想が日本の啓蒙主義運動と自由民権運動に影響を与えたのです。それは、近代化政策を推進する明治政府による国民への「上から」の行政管理的な支配と統治に役立つ理論でした。しかし、自由民権運動の内部では、それへの反発から、急進的な動きが出てきました。いわゆる自由民権運動の左派は、19世紀後半のブルジョア改良主義を拒絶し、それに1世紀先立つ18世紀の英仏のブルジョア民主主義革命の理論に基づいて、改良主義の限界を突破しようとしました。それは、君主制を残したイギリス的近代主義だけでなく、君主制を廃止したフランス的なラディカルな近代性主義をも念頭に置いていました。そのため、体制の支配・統治を脅かす近代化の行き過ぎ傾向として弾圧の対象とされました。

 初めて遭遇した「他者」は、「宇宙」のようで、憧れの存在でした。そのなかに入っていきたいという衝動に駆られました。しかし、その運動を担った一部の人々は無残にも弾圧され、それ以外の人々は政府の政策の枠内でしか、「宇宙」を追い求めれないことを知りました。このような追い込まれた状況において、人々はどのように考え、行動したのでしょうか。宮川さんは、それを次のように整理しています。

 近代日本精神史上、「日本への回帰」運動は総じて政治的な反動に伴って生起する。啓蒙主義からロマン主義への転化の方向においてたち現れた「日本への回帰」運動は、自由民権運動に対する政治的な反動に伴われた。民権運動の左派は、産業革命後の19世紀西欧のブルジョア的な改良主義理論を支柱とする「上から」の「明六社」による啓蒙運動に対して、西欧思想史を一世紀溯源し、18世紀英仏のブルジョア民主主義革命の理論に典拠を見出すことによって、その限界を突破しようとした。そのようなものとしてそれは、明らかに「文明開化」運動の鬼子としてたち現れ、日本における西欧(=英仏)近代性の、最初のラディカルな形態となったのである。19世紀西欧のブルジョア的な改良主義思想を拠り所として、「上から」漸進的に近代化を推進しつつあった創立期の体制内部に、18世紀西欧の市民革命期の思想を理論的な支柱とする急進主義がたち現れたということは、体制の主導権を脅かす近代化の行き過ぎとして受け取られた。このような体制側の憂慮は、「漢学」の復活と並行して、「政府ハ即チ王室ノ政府」である「独乙学」を積極的に導入することによって、18世紀英仏学の「直往無前ノ勢」を制し、日本にたち現れた英仏近代性を思想的に克服しようとする機運を生んだ。みずからのうちに否定の契機を見出すにいたった体制は、こうしてナショナルなシンボルを強化するという形で、体制としての自覚を深めていくことになる(16頁以下)。

 この方向に、啓蒙主義における普遍史への構想に対する反動として、現代史の起点としての「明治維新」の最初の歴史的自覚にたつ民族的個別的な世界の論理が、そしてまた啓蒙主義の「宇宙論哲学」に背を向ける形で、特殊的内面的な感情の論理が形成されることになるのである。そしてこれを西欧哲学思想の受容史に照準していえば、この方向に英仏の実証主義的な経験論に代わって、ドイツの、いわゆる「純正哲学」の受容が行われることになるのである(18頁)。

 西洋の普遍的な世界と歴史への編入の構想は、自由民権運動の弾圧とその変容により挫折を余儀なくされました。その運動の思想的原点であった18世紀のイギリス・フランスの近代思想は、明治維新政府の支配と統治を脅かすものとして斥けられ、19世紀のドイツ的な体制内的・改良主義的な思想にとって替えられました。もはや啓蒙主義運動や自由民権運動において、普遍的な歴史と世界、「宇宙」を構想・展望することができなくなった人々は、それへの反動から、日本民族の個別的な勢力圏に目を向けるしかありませんでした。普遍的な外的世界の構造を構想してきた人々もまた、特殊的な内面的な感情の論理へと埋没していきました。外的な自然と社会、世界を対象として見据え、その生成・展開・変化の過程を科学的・論理的に解明し、その法則的な発展方向を明らかにする自然科学的で合理的な社会思想は、西洋において妥当するだけで、少なくとも日本においては別の思想とコースをたどらなければならないことが自覚されました。そして、彼の国に模範を求めるのではなく、今の「日本」に内在する価値と意義を確認する観念の作業に重きが置かれるようになりました。ドイツの「純正哲学」とは、現実の政治と社会から逃避し、観念や理念の世界へ逃げ込もうとする思想家にとって魅力的に映りました。それが、大正時代の社会に対して、どのような影響を及ぼしたのかについては、第2回で検討したいと思います。

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