2023-08-15

近代中国における異文化の位相 ――清末知識人の日本体験と漢字文化

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近代中国における異文化の位相(蝦名良亮)

近代中国における異文化の位相
――清末知識人の日本体験と漢字文化

蝦名良亮
はじめに
一八七○年代、清朝中国と明治日本との間の外交関係が樹立されるに前後して、日中の知識人は筆談、漢詩の唱酬、書画の揮毫などを通じた友好的な相互交流を始めていった。つまり相互交流は双方で「同文」の国と捉え、その「同文」性を通じて始められたのである。
現在、「同文」と言えば、「一衣帯水」「同文同種」という形で、日本と中国の文化的一体性を強調し、両国の友好関係の構築を訴える際に用いられることは周知の通りだろう。とはいえ、表面的な「同文」認識が相互の異文化性を理解する妨げとなる懸念が表明されることもある。(1)総じていえば、現在の「同文」は主として言語に関わる日常的な行為のなかで「同じ漢字や漢語を用いる」という意味として受けとめられるようである。少なくとも現在では、実際に漢詩や漢文を作ることまでは含意されてはいないと言えよう。
しかし、少くとも日清戦争以前、清末の中国知識人が考える「同文」はそうではない。明治初の日本人との交流に際して、「同文」と言うとき、「文」とは古典的文章語としての「漢文」であり、「漢文」が日本においても中国と同様に規範的な文章語であるということを意味していたのである。また一方で「同文」とは、儒教古典に由来する「同文同軌」およびその「天子による統一」という意味を想起させる表現であった。その点では、清末における「同文」とは、単に言語に関わる文化要素の共有という事実の言明にとどまらず、「一統を大ぶ」王朝支配体制下での異文化認識を表明していたのではないかと思われる。
― 1 ―
本稿の主な目的は、この「同文同軌」的な発想に裏打ちされた、「漢文」をもって同一とする「同文」認識が、清末知識人の思想の営みにとって、時代状況を捉える実践的な意義を失った背景にある条件について考えることである。(2)以下一八七〇年代から二〇世紀初にかけて、日本との交渉を持った清末中国知識人、兪樾(一八二一―一九〇六)、黄遵憲(一八四八―一九〇五)、梁啓超(一八七三―一九二九)らの日本とのかかわりを検証しつつ論を進めたい。
一 問題視角
ここでは「同文同軌」観念を背景とする「同文」認識という問題視角を採用するに至った経緯を説明したい。
筆者は前稿「宋平子新字の位置づけをめぐって――江南知識人の日本趣味について」において、清末の変法派知識人、宋恕(一八六二―一九一〇)の草稿「宋平子新字」(一九〇九年)の再評価を試みた。(3)宋恕は、若くして官途の望みを絶ち「布衣」として生涯を送った人物だが、清末考証学史の最後を飾る孫詒譲(一八四八―一九〇八)、および兪樾から学識を認められ、自身も「乾嘉の学」の後継者を任じていた。(4)早くから日本漢学の水準を高く評価した宋恕は、「宋平子新字」において、伝統的音韻学の素養をもとに日本語の五十音図を素材として温州方言音の音節総表作成を目指したのである。
これを本稿での関心から言えば、宋恕は「同文」認識から、日本/日本語体験を経て、漢学、日本語、漢語方言音を結びつけることによって、漢語のあり方に再検討を試みたと言える。ただし、宋恕の言語観を裏付ける資料の不足のため、「同文」認識―日本/日本語体験―漢語の再検討という流れを彼自身の思想的営為の中で裏付けることは困難である。(5)
しかし、清末中国知識人が日本体験/日本語体験を通じて「同文」から非「同文」という限りでの「異文」へと認識を改めた事例に注目する研究もある。例えば、黄遵憲を中心に清国外交官の日本語にまつわる体験の分析を軸に据えた閻立氏の論文と、『東語正規』を始めとする日本語教科書の内容分析を軸に据えた南勇氏の論文である。(6)閻立氏は話し言葉への対応の遅れが通訳不足をもたらし、公使館内での学校(「東文学堂」)の設立へと向かったことを指摘した。また公使官員の著作などに示された日本語認識を紹介し、なかでも黄遵憲『日本国志』における仮名/五十音紹介を高く評価した。一方、南勇氏は日清戦争後「漢文の否定・批判」が、「日本語の口語」の選択に向かい、「常に中国語への反省、思考と連動する」とする。その主な論点は以下の四点にまとめられるであろう。
1.庶民・女性に及ぶ日本の識字層の階層的拡がりをもたらした仮名の社会的役割への注目、2.「表意文字」漢字よりも進化した「表音文字」仮名という社会進化論を背景とした文字観の変化、3.日本語の口語の学習に触発された中国語会話における「標準語志向」へと向かう言語観上の反省、4.漢文書き下し調の「明治普通文」から言文一致体への文体の変化に照応した学習対象の変化、である。
以上から、日本を「同文」とみなす認識は、日本における漢文以外の文章語の文体および話し言葉としての日本語を軽視ないしは無視する態度に結びつくものだったと言えるだろう。ただし、「同文」認識の問題を二国間の問題と捉える場合、日本語認識の精緻化という方向が過度に強調されるのではないか。
そこで、多言語的な状況の中で「同文」認識の捉え返しを試みる余地が生ずるであろう。閻立氏は前掲論文を含む著作において、清朝の多言語的な支配体制の中で、清末外交の基調が朝貢から条約へと移行する際の条約の「正文」をどの言語にするかという問題視角を提示した。(7)清朝は満文と満語を「国語」としたが、一方で以前に明朝が統治した地域ではひきつづき漢文を使用した。さらに明代の旧朝貢国も漢文使用圏とした。しかし理藩院が管轄する藩部には、各民族固有の「文字」と「語言」の使用を認めたのである。
また清朝を取り巻く対外関係の把握の仕方について、茂木敏夫氏は「個別の一対一の関係の束」に全体性を与える「王朝の語り」と捉える視点を提起している。(8)すると、日本が「同文」であるという認識も「王朝の語り」ということになろう。
以上を踏まえて本稿では、「同文同軌」観念を背景とする「同文」認識の問題という視点を取りたい。
「同文同軌」の典拠は『礼記』中庸篇「今天下車同軌、書同文、行同倫」である。その前後に「非天子、不議礼不制度不考文。……雖有其位苟無其徳、不敢作礼楽焉。雖有其徳苟無其位、不敢作礼楽焉。」とあり、車輪の幅、文字または文章語、社会の道徳的秩序の三者を「同じくする」ことは、「徳」と「位」を備えた「天子」が行うべきこととされ、さらに新注では「三者皆同言天下一統也」
(『中庸章句』第二十八章)と述べられる。
つまり「同文」とは、有徳の「天子」による教化、「一統」を連想させる表現となるのである。清代の文章では、例えば『四庫全書』の「提要」に「一統同文之盛治洵亘古独隆矣」(『蒙古源流』「提要」)という用例がある。(9)この場合の「同文」は、「一統」とともに、最大版図を獲得し『四庫全書』に代表される文化政策上の偉業を進めた乾隆帝の「盛治」を賛美する常套的な表現であった。しかし、清朝の対外関係、朝貢体制が動揺する時期に日本との条約締結問題が浮上し、「同文」という関係が改めて確認されたのである。
そこで、本稿では、兪樾において「同文同軌」的な価値意識が見られ、そして日本文化の「同文」状況把握に影響を与えたことを二節に渡って検証したい。そのうえで日本の「同文」状況の体験を通じ「同文同軌」的な価値意識が黄遵憲において動揺をみせ、梁啓超の議論の中で新たな価値意識のなかで、「同文」認識が限定的なものとして表明される過程を素描したい。
二 漢字文化圏の自覚と西洋の影
同治年間の一八七〇前後、日本知識人との交流を始める以前、兪樾にはベトナム・琉球・朝鮮・日本などの漢字を使用する周辺諸国を緩やかな形ではあるが、一つの文化圏と捉える発想がみられる。ここでは一八世紀末、乾隆年間と嘉慶年間の境目にあたる頃の趙翼(一七二七―一八一四)の文章とに見られる、ベトナム・琉球・朝鮮・日本など漢字を使用する周辺国に対するイメージを比較しつつ紹介したい。
趙翼は『二十二史剳記』において、マテオ・リッチの『万国全図』に拠って五つの大陸を挙げ、大抵ヨーロッパ諸国は「天主教」を奉じると紹介し、それが中国に伝来した経緯を紹介する。そして、四つの「天下大教」すなわち「孔教・仏教・回回教・天主教」は皆アジアの大陸に起源があるとして、海洋・島嶼部を含めたアジア諸国・諸民族への普及の様態を述べた。
孔教はわずかに中国の地、南はベトナム、東は琉球・日本・朝鮮だけだ。つまり仏教の普及する範囲が最も広く、天主教がそれに次ぎ、孔教・回回教はさらにそれに次ぐのである。孔子は集めて大成し、人極を立て、およそ三綱五常の道にはすべてが備わっている。しかしその教えは反って仏教・天主教の普及する広さには及ばない。思うに精密な形では、ただ中原の清くおだやかな地域であって始めて行われ(原文、「精者惟中州清淑之区始能行習」)、粗略な形では、風俗気性が異なるものもすべて囲み込むことができる(原文、「粗者則殊俗異性皆得而範囲之」)。ゆえに教えのおおう対象はとりわけ遠くにまで届くのである。(10)
趙翼が「天主教」を論題としながら、最終的にアジア大陸と島嶼部における宗教の分布へと議論を運んで、事実上は乾隆帝治世下で獲得された最大版図に関わる問題を論じているのである。儒教の普及の範囲は中国と、ベトナム・琉球・朝鮮・日本である。儒者としての趙翼は儒教の教説の優越性に対する信念を表明しながらも、それが仏教・天主教よりも狭いと認める。(11)
そこで趙翼が語る「中州清淑之区」はそもそも漢民族文化の中心地域の「中原」を指す詩語である。修辞という点からみて中国を含むことは確かだが、ベトナム・琉球・朝鮮・日本の諸国までも含むかどうかは判然としない。これらの諸国は儒教の国という性質において抽象された定量的な広さの表象にすぎないとも言えるのである。
同書の別の箇所において、西洋諸国も含めた「海外諸番」が朝貢の際に「内地人」を傭うことが多かったとする記事がある。(12)ここからすると、趙翼の周辺諸国への関心はどのように中国と接触したかという点に置かれており、接触の結果成立した拡がりに積極的な意義を求めてはいないようである。
次は、兪樾の随筆『湖楼筆談』からの文章である。
孔子は「道が行われなければ、いかだに乗って海に浮かぼう」と言い、さらに「九夷」に住もうともした。このように聖人はそのとき海外に対してどれほどねんごろであったか。現状を観ると、「東洋」諸国、例えば日本・琉球・朝鮮などは、みな儒書を服習し聖教に涵濡している。そしてヨーロッパの諸国は中国と交わってから、やはりみな経書を翻訳し、その地に伝えている。さらに数百年後、きっと「東洋」諸国と同じく中華文明の影響(「華風」)に染まり、孔子の教えはますます行われますます拡がるだろう。子思子曰く、「こういうわけで声名は中国にあふれ、施しは蠻貊に及ぶ。舟車が至る所、人力が通じる所、天が覆う所、地が載せる所、日月の照らす所、霜露が結ぶ所、すべて血気有る者は尊親しないものはない」と。ああ、この言葉は実に信がおけるではないか。(13)
孔子の逸話はいずれも『論語』公冶長第五、子罕第九に見える。通例は漢人社会への孔子の失望を表すものとされるが、兪樾は孔子が海外や「夷狄」の地に高い関心を寄せていたと解する。そして兪樾は、すでに翻訳された「経書」があるために数百年後には「東洋」諸国同様にヨーロッパ諸国が中華文明の影響に染まるはずだという確信を語る。
兪樾が言う「東洋」諸国とは日本・琉球・朝鮮である。ベトナムにこそ言及していないが、儒教の普及範囲に関しては趙翼と同じ主旨の見解と言ってよいだろう。
兪樾の「華風」に染まった「東洋」諸国というイメージは趙翼に比べて明瞭である。「経書」とはもちろん儒者の著作(「儒書」)に論拠を与え、聖人の教説(「聖教」)を伝える書物である。とすると、「東洋」諸国で「儒書」「聖教」が普及した要因も、「経書」が伝えられたからだということになる。
兪樾のこの文章では、「翻訳」を解して「経書」を理解する言わば「異文」のヨーロッパ諸国の存在が逆に「東洋」諸国の「同文」性を暗示しているのである。
一八五七年、兪樾は河南学政在職時に筆禍事件に巻き込まれた。彼が課した科挙の論題が時の権力者を批判したものだとする讒言によるものである。それを機に、兪樾は官界から身を引き、学者・教育者として現実政治とは距離を置いていた。
しかし、文教行政への関心は薄れていなかった。『皇朝経世文篇続集』巻五十二所収の「文廟祀典私議」は儒教を今に伝えた功績によって許慎(五八?―一四七)と鄭玄(一二七―二〇〇)を祀る儀式をするべきだと説いた河南学政時代の上奏文だが、一八八二年、兪樾は採録に際して新たに施した序で、今でも同じ考えであると言う。「伏して念んみますと、我が朝同文の治世は前代をしのいでおります」と。(14)
そして、兪樾は一八六六年に荻生徂徠『論語徴』を読んだことを始めに、日本の儒学に対して関心を寄せていた。また、兪樾の著作『群経平議』(一八六七刊)と『諸子平議』(一八七〇刊)は出版後まもなく日本に伝えられて高い評価を受けたが、一八七〇年には日本商人が兪樾のもとへ両書を直接買い付けに来たという。(15)
また、兪樾の人脈には、洋務派官僚が多いことが指摘されている。兪樾は曾国藩(一八一一―一八七二)による抜擢を受け、李鴻章(一八二三―一九〇一)と同年に進士(科挙合格者)となった。(16)こうした交友関係を通じて、「西洋」諸国の動静に無関心ではいられなかったであろう。兪樾は「今日の天下は、一大戦国時代である」という考えを持っていたのである。(17)
そして兪樾は、「西洋」の圧力によって触発された、儒教に対する護教意識を底流に、漢字を使用する周辺諸国を、漠然とした形ではあったが、一つの文化圏として把握していったのである。
三 同文の国の異文化
明代の倭寇や豊臣秀吉の朝鮮侵略とは異なり、徳川政権は清朝に対して政治的には没交渉であった。また清朝知識人にとっても、日本に関する文物や情報に触れる機会が限られていた。清商人を通じて輸入された工芸品や書物、正史や筆記小説の記録、徐福伝説や欧陽脩「日本刀之歌」等の日本に題材をとった数少ない文芸作品などからは、異国情緒といささかの文化的洗練を感じさせる国という日本像が形成された。
一方で、一般に江戸中期から明治中期にかけて、日本の知識人の漢字運用能力、あるいは漢詩文の創作・読解能力は日本の文化史上を通じても極めて高い水準にあったとされる。事実、日本との典籍交流や「開国」以来、江戸/明治知識人と清末知識人の間でかわされた漢詩の唱酬や筆談記録は多い。清末中国知識人からすれば、日本の文章語は中国の漢字文化の圏内にある、すなわち「同文」であると言うことになる。
兪樾によれば竹添井井(一八四二―一九一七)は最初に親交を結んだ日本人である。竹添が兪樾に始めて面会したのは一八七七年のことであった。『春在堂随筆』巻七において、兪樾は「日本人竹添光鴻、字は漸卿は日本にいたとき、私の評判を聞いてた」とし、竹添が面会に至るまでの経緯と中国紀行文『桟雲峡雨日記』への序文を求めるという来訪の目的を簡単に紹介した。そして兪樾は彼との筆談は日本の「国事」に及んだとして、明治維新以前の日本から語り出す竹添の発言を記した。
十年前は封建制でした(「封建為治」)。各藩(「列国」)にはいずれも藩校(「学宮」)があり、各藩の武士(「諸国之士」)は皆世襲の爵位により禄を食んでいました(「世爵禄者」)。皆幼いころから藩校に入って学び、その学問の成績によって役職が決まりました(「列之位」)。そのため漢学(「文学」)がとても盛んだったのです。封建制が廃止されてから、大名は領地を失い(「諸侯失国」)、武士も禄を失いました。各地の学校(「列国学宮」)も多くは「西学」を用い、出世の近道としています。「孔孟之道」はほぼ一掃され、一時は漢学廃絶(「焚書」)の議論までありました。近頃は世間が冷たくなり(「風俗偸薄」)、政府も非常に後悔し、多少は聖人の道をわきまえるようになりました。しかし西洋諸国が次々とやってくるので、外交の常道として、西洋事情に通じていなければ、連中に侮られてしまいます。そのため聖人の学と西洋の学を一つに混ぜ合わせてしまい、とうとうかつての盛んさを取り戻せなくなりました。(18)
竹添が、中国の文化的伝統の枠内で理解しうる表現を選んでいることに注目したい。武士は「諸国之士」であり、科挙の代わりに「学宮」での競争、業績主義的登用の制度が「封建」日本に存在したというのである。
そして、今回の西湖への旅行に際して、西湖への旅行客は多いが妻を帯同したものは自分だけだ、それを故郷の友人たちに対して誇りとするという竹添に、兪樾は問うた。
兪樾:尊夫人も詩はできますか。
竹添:ただ本国の歌謡にすぎません。中国の文字は解しません。
兪樾:貴国と中国は本来「同文の国」なのに、やはり違いがあるのですか。竹添:他に俗字があり、「普通字」と言います。「中国」の文字となると、
「読書人」だけが識っているもので、皆が解するわけではありません。(19)
兪樾は竹添夫人の作詩に関心を寄せたが、それは武人の作詩とならんで、中国の漢字文化の伝統の圏外にあることだったからである。
その後、兪樾が岸田吟香(一八三三―一九〇五)と北方心泉(一八五〇―一九〇五)からの依頼で編んだ日本漢詩の詞華集『東瀛詩選』四十四巻は、兪樾が日本漢詩の非中国的な伝統に高い関心を寄せたことを表している。
蔡毅氏は『東瀛詩選』と江村北海の『日本詩選』『日本詩史』の編纂を比較して、『東瀛詩選』の「日本的味わいの重視」「学問・道徳の重視」を上げた。氏は、「日本的味わいの重視」について次のように述べる。
『東瀛詩選』は、中国大陸と遥かに異なっている理由で、富士山や海の風景を描いた作品をいとわずに収録しているが、その最も親しみをもっているのは、日本の「国花」である桜を詠んだ詩であり、全部で四十二種も収められている。桜のりりしい姿に対しては、兪樾は思うだけに甘んぜず、自らの目でそれを見ようと思って、北方心泉に送ってもらおうと頼んだことがある。……兪樾のこのような浸りぶりとちょうど対照を成しているのは、江村北海『日本詩選』の中には桜を題とする作が一種も見当たらないことである。……『日本詩選』に収められている作品を見渡すと、それはほとんど中国詩歌の伝統である風景描写と叙情、及び送別唱酬の作のやり
 
とりである。それはつまり、江村が目をつけているのは中国の詩との「同一」であるのに対し、兪樾が注目しているのは中国の詩との「相異」なのである。
しかし、日本文化に対する兪樾の理解は畢竟浅いものであって、その興じていたものは往々にして奇異をあさるものに限られ、異国趣味の外見と表象にとどまっており、本当の日本文化の神髄を表わしている作品に対しては認識不足である。(20)
また「学問・道徳の重視」に関して、蔡毅氏は兪樾が「あたかも旧道徳の擁護者をもって自任しているようである」のに対し、「ところが、江村北海の『日本詩選』を見ると、それはまるで異なっている。江村の選には上述のような旧道徳を擁護する詩の後がすこしもないばかりでなくかえって時々になまめかしい風がある」と指摘した。(21)
兪樾は日本の「士」以外の作詩者に大きな関心を寄せた。『東瀛詩選』は「方外」(僧侶)の詩に巻三十六から巻三十九までを当て、「閨秀」(女性詩人)の詩は巻四十の一巻を当てた。兪樾は「閨秀」巻を単独で百部ほど印刷し、友人に配った。同時に、編集作業のさなかに亡くなった次女の繍孫の詩集『慧福楼詩草』百部を北方心泉に送り、日本で詩名をあげさせてやりたいと望んだのであった。(22)
また兪樾存命中にその評伝を書いた小柳司気太は「佐久間象山、橋本左内、松本奎堂、川路利良諸氏の如き政治家」の詩もあると指摘した。(23)とりわけ初代警視総監川路利良(一八三四―一八七九)の詩が選に入ったことは日本の漢詩壇に不満をもたらした。兪樾が採択したのは、もちろん非中国的な、武人の詩だからである。(24)
兪樾は日本漢詩文を通じて、一方ではこのように中国の漢字文化とは異なる側面を読み取ろうとし、他方では教師として振る舞ったということができよう。一八八四年に岡千仞(一八三三―一九一四)に対して兪樾は「文章は一道であり、もちろん中日の区別はないが、学を論じるにはまず入り口を見極める必要がある。ここに注意しなければ、努力も無駄になろう。以前貴国の詩を選んだ。まだ貴国の長所を十分に尽くせてはいないが、十分に短所を除くようにと願う。
このまま行けばきっと大きな失敗はなかろう」と。(25)
兪樾は日本で自身の文名が揚がることを率直に喜んだ。井上(楢原)陳政(一八六二―一九〇〇)が一八八四年に入門したときのことをこう述べる。
私の同年の科挙合格者孫琴西太僕には、海外の客人が学問を学びに来たことがあった。思うに琴西は以前に琉球官学教習をつとめていたからである。私は虚名が海外に広まっており、甲申の年、日本東京大蔵省官費留学生井上陳政、字は子徳という者がやってきた。(26)
孫琴西(孫衣言を指す)には琉球から、自身には日本から、それぞれ文名を慕う学生がやってきたと語るとき、兪樾が中国と「同文」の諸国との関係をどう考えていたかが伺えよう。『春在堂随筆』の記事はほぼ時代順に掲載されているが、この直前には朝鮮人宋相琦『玉吾集』についての記事がある。兪樾は読後感を「詩文はいずれも観る価値がある」としながら、該書では明朝滅亡後の「順治」年間であるのに明代の「崇禎」の年号が用いられ、さらには拔文が「乾隆」年間中葉に書かれているにも関わらず、さらに干支を三巡させて「三崇禎」の年号を用いていたことを非難している。(27)
また郭頴氏の指摘によれば、『東瀛詩選』において兪樾は菅茶山(一七四八〜一八二七)「開元琴歌西山先生宅同諸子文賦席上器玩余得此」の採録に当たって「維吾皇統垂無極 国無異姓仕世官」(維れ吾が皇統無極に垂れ 国に異姓無く仕へて官を世よにす)という箇所を削除した。(28)兪樾にとって、たとえ日本の「天皇」であっても、「皇」字の使用は秩序を犯す行為と捉えられているのである。
兪樾は「同文」の治世によってもたらされた漢字文化圏に、日本や朝鮮の儒者、漢学者との「同文」関わりを通じて儒教文化圏としての内実を与えようとしたが、かりに周辺諸国の異文化性に関心を寄せたとしても、一方で周辺諸国側からの清朝皇帝を中心とする政治的/文化的な秩序に対する侵犯を認めることはできなかったのである。
― 11 ―
兪樾にとっての所謂「王朝の語り」は、自身の清王朝への忠誠心に根ざしていると言うことができよう。
四「王朝の語り」の動揺と言語の問題
アロー号戦争による、清英・清仏二つの天津条約では、清朝側は恩恵として相手国の英文・仏文のみを正文とすることを認めた。しかし、その後次第にその不平等性が自覚されてくると、清朝側は相手国との間で条約の正文をどちらの文とするかにこだわるようになった。(29)
天津条約の後、礼部から各国総理事務衙門へと対「西洋」外交の管轄が移る。清朝は「西洋」の会話と文章に通じた専門家の養成に迫られ、「京師同文館」(一八六二年設立)、「上海広方言館」(一八六三年設立)、「広東同文館」(一八六四設立)などの洋務学堂が相継いで設立された。(30)高暁芳氏は「同文館」という名称の由来には諸説あるとしながらも、「コミュニケーションに役立つ共通の言葉を教える組織」という解釈を紹介している。(31)とすると、「同文」は異なる「文」の間での通訳・翻訳という事態を指す用法である。しかも、「語言」
(会話)と「文字」(文章)を含めて「同文」とするのである。
一方、一八七一年、日本と締結した日清修好条規第六条について閻立氏はその「必ず漢文を付すか、或いは漢文のみを用いるか」という規定には、「漢文を正文にする」という意味が含まれているだろうとの見解を示している。(32)
明治日本からの国交開始を求める要求を承けて、清朝側ではまずそもそも日本は朝貢国すなわち藩属国であるか否かを巡る論争がおこった。さらに条約締結にむけて、日本側が要求した日本語文を正文に加えることを斥け、条約の正文を古典漢文すなわち「同文」とする立場を堅持したのである。この点に関しては、閻氏の著作に詳しい。(33)
上述の事態は一見すると、七〇年代以降、「同文」というシンボル使用上に混乱が生じたとも思えるが、漢字文化圏の内と外という外交の局面に応じて柔軟に解されていたとみなせばよいであろう。
一八七〇年代半、明治日本の対外政策は、朝鮮での江華島事件、琉球帰属問題、台湾出兵などに観られるように、中国を中心とする東アジアの華夷秩序へ
 
の挑戦という方向を取り始める。そうしたなかでの一八七七年、初代日本公使何如璋一行の来日を以て開設された日本公使館は多くの清朝知識人に日本を体験する機会を提供する契機となった。
黄遵憲や王韜(一八二八―一八九七)ら初期の日本体験者はまず日本は他の周辺諸国とは異なる存在ではないのかという問題を提起した。徳川日本の「鎖国」政策はいわば華夷秩序における孤立であった。しかし、大方の清朝知識人にとってはそれが孤立であったことすらも意識されていなかった。明治日本との国交開始を機に、それほど予備知識もないまま突然日本社会に触れた清朝中国知識人王韜と黄遵憲は、対日関係をどのように捉えるかについていささか動揺を示している。
王韜は香港でジャーナリストとして論陣をはっていた折に日本人との交流を始め、一八七九年に日本を遊覧した。王韜は『弢園文録外編』「日本非中国藩属弁」(一八八三年刊)において「我が史は漢以来、皆日本を朝貢の国とし、藩属国とする。『大清一統志』も同様だ」と述べ、日本の歴史書にみる古代史を概括的に示した後に、「これによると日本は自らを我が朝の藩属ではなく、聘問往来しただけだとみなす。その説はもしかすると信をおくべきかもしれない」と締めくくった。(34)勅命によって編纂された地理書『大清一統志』を典拠にしつつも、日本が朝貢国ないしは藩属国ではないという見方を控えめに伝えたのである。(35)
一方、黄遵憲は清国駐日公使館に書記官として来日した。その主著『日本国志』は中国人による初めての本格的な日本研究書として知られている。『日本国志』「凡例」冒頭は叙述に際しての方針を述べたものである。歴史叙述に際して歴史家の道徳的評価を反映させる中国の伝統に触れた後、次のように述べた。
そもそも歴史家の記述とはつとめて(原資料の)実際の記録に従うべきものであり、特別な理由もなく昔の人や他国の君主を取り上げて呼び方を変えるというのは、道理を外れてしまうにちがいない。まして『大清会典』の記載は(日本を)朝貢国に加えていないし、(日清修好条規の発効以来)国書が往来し、隣交の礼でもてなしているのだからなおさらである。この編の記述は歴史書から採り、皇といい、あるいは帝といい、概ね原資料通りの呼び方に従った。(36)
黄遵憲は歴史叙述が価値中立的であるべきだと主張しているが、ここでは清国の総合法令集に当たる『大清会典』に日本を朝貢国とする記載がないという指摘が注目されるのである。歴史的事実を踏まえて、中国に対する日本の非従属的な地位を立論する点では王韜と同様である。彼らの立論の慎重さはもとより王朝への忠誠に根ざすものであろうが、先に見た兪樾は周辺諸国の側から中華皇帝の優位性を侵犯する態度を非難した行為とは結果として大きく異なっていることは確かである。(37)
こうしてまず日本は他の「同文」諸国との比較の上で異質な歴史的背景を帯びた国として立ち現れる。しかもすべての明治知識人が高い漢字運用能力を備えていたわけではないことは日本を実地に観察すればわかることであった。この条件のもとで日本語体験は、「同文」性から、異文化性あるいは異なる言語状況の把握へという清朝知識人の関心の推移を促したのである。
日本の知識人との交流、日本の学問状況の観察から、漢字文化の伝統の違いを読み取ることは、むしろ容易でさえあったと言えよう。王韜は『扶桑遊記』十四において言う、「日本は文士が多いが経生は少ない。実に優れた志をもって超然とした人びとだ」と。(38)あるいは『日本国志』を準備していた黄遵憲にとっては、正史における「志」(記録書)にあたる漢文史料の不在という切実な問題となったのである。(39)彼らの発見は漢文が通用するという「同文」認識から中国と同型の文化があるという見込みが外れたということを意味するのである。
実地の日本語体験を昇華し、短期日の滞在でもかなりの観察ができることを示す例として、一八八〇年頃、李筱圃による『日本雑記』から二つの文章を紹介しておこう。李筱圃は四〇日ほど日本に滞在した。
日本全体で人民は三千六百余万。国中に学校が甚だ多い。兵・農・礼・法・格知・算数・技芸に分類されて設けられ、さらに女学校もある。故に船頭・門番・車夫・婦人・女子は字を識らないものはない。その書籍及び日用の字は皆中国の書き方(「書法」)である。しかし文ごとにいくつかの仮名文字と語順の顛倒(「倭音数字文義顛倒」)を雑え、その書いてあることを「解読」できないことが多く、ただその意味を「領会」することができるのみだ。中国人と筆談したり詩文を作る場合、「倭字」をさし夾んで書くことはしないが、(それは)ただ中国の書を多読し文法(「文理」)に通じた者ができるだけで、誰もができることではないのだ。(40)
日本での文章語として漢文の通用が限定的なものである反面、それ以外の漢字仮名交じり文は、仮名という夾雑物と語順の顛倒という非正規的な操作が施された文と捉えられているのである。ここでの判断の基準を与えているのは中国の漢字文化内の知識のみである。
日本の書物にさしはさまれる「俄字」はただ四十七字だけだ。四十七字の音(「四十七音」)は長期滞在する我が中国の人でもそのおおよそが分かるにすぎない。漢字(「漢書」)を用いずにもっぱら「俄字」を用いる婦女はみな知っているそうだ。私はいろはうたと漢字を交えて書いたもの(「其四十七字対其夾雑漢字之書」)を読んだが結局理解できなかった。専心して習うのでなければうまくいかないのだ。(41)
先ほどの夾雑物としての仮名はここでは「俄字」として漢字との関わりで捉えられ、さらに「字」は「音」という側面でなにがしかの機能を持つことに注目されている。
仮名は漢文から観ると夾雑物である。しかし語順の顛倒の問題と関連する何かがあるのではないかという予想がここには述べられているのである。「同文」認識から話し言葉を含めての固有の文法を備えた言語としての日本語認識への萌芽が見られるといえよう。しかし、文面からもうかがえるように短期日の中では、結局漢字を基準としてはその解明は果たせなかったようである。
黄遵憲も含めて日清戦争以前に訪日した清末知識人は漢語に関して「文字」(ここでは文章語すなわち漢文)を優位として「語言」(ここでは話し言葉)を捉えた。漢文による「同文」の認識がある場合、文章語の共通性は話し言葉の違いを解消するという本国での習慣の延長として捉えられる。つまり、日本の
「語言」は、「土語」「方言」である。
黄遵憲は『日本国志』学術志文字二において注釈者「外史氏」としての立場から「文字は言語の由来するものである」と言う。(42)そして「私が天下万国をみるに文字(漢文)と言語(日本の話し言葉。原文のまま)の不一致ということでは日本が一番だ」として、仮名の役割を両者の媒介物として捉えた。
私はこう聞いたことがある。ローマは昔、ラテン語だけを用いたため、各国では「語言」が様々に異なるので、ラテン語を用いるのに苦労した。フランスがフランス「音」に改め、イギリスがイギリス「音」に改めてから、フランスイギリス諸国の学問が盛んになりだした。キリスト教が盛んになったのも、『旧約』『新約』を各国の言葉に本に訳してためにますます普及したそうである。思うに「語言」と「文字」が離れると、文に通じる者が少なく、「語言」と「文字」が合うと文に通じるものが多くなるのは、勢いそのとおりであろう。すると日本の仮名は東方の文教に役立つことが多い。廃止することはできないのである。(43)
まず黄遵憲が西洋のモデルによって、非「同文」的な性質をもつ「仮名」を捉えようとしていることが注目されよう。「ラテン語―諸国語」と「漢文―仮名― 和の語言」という図式が対置されているのである。西洋と漢字文化圏の歴史と政治の状況からみれば、「ラテン語」即「漢文」である。ここでの議論で述べられた文章語と話し言葉の関係が中国の言語状況に適用されるのは時間の問題であるという方向で捉えることもできよう。しかし、漢文が依然として、日本の文章語とみなされている点は、看過できないのである。
五「漢文・漢語」と「和文・和語」―結びにかえて
漢字を共有しつつも固有の表音文字を持つ周辺諸国・諸民族の言語のなかで、日本語への関心は日清戦争後にとりわけ大きなものとなった。
官僚から庶民に至るまで、それまで関心の外にあった日本への注目が高まり、逆説的ではあるが、敗戦後の十年間は中国における対日感情が最も良好であった時期とも言われている。同時に日清戦争は伝統的な価値観・文明観を動揺させる契機となった。
「北京同文学堂」と「広東同文学堂」に「東文学堂」が設置され、「東文」と
「東語」という名称と構成で日本語教育が始まったのは、一八九七年であった。
康有為や梁啓超ら立憲変法論者は、いちはやく西洋化を遂げた明治日本の経験を学ぶことによって清朝中国の西洋化を促進しようとした。言わば、西洋の文物を伝える媒質として日本を捉えようとしたことになる。
戊戌変法の挫折後、日本亡命中の一八九九年、梁啓超は「論学日本文之益」において「日本文を学べば数日で小成し、数ヶ月で大成する」、「日本文には漢字が七八割あり、専ら仮名を用いて漢字を用いないのは、ただ脈絡詞と助詞などだけだ。文法は実字を句首に置き、虚字を句末に置く。その例に通じて転倒して読む。常用の脈絡詞や助詞に印を付けて抜き出し、見慣れて覚えておけば、書物を読んで詰まることはなかろう」と言った。(44)いわゆる「和文漢読法」である。語順の顛倒には若干の規則性があり、仮名は字形として同定さえできれば、本来あるべきであった漢文を復元できるはずだというのである。
梁啓超は、亡命前の一八九七年「読日本書目志書後」において日本の変法すなわち明治維新に学ぶべきことを述べ、「そのうえ日本の文字はちょうど吾が文字と同じである。ただいささか空海の伊呂波文を三割交えるに過ぎない」と夾雑物としての仮名観を表明していた。(45)これをみると、先に紹介した『日本雑記』の筆者が言う、「いくつかの仮名文字と語順の顛倒を雑え、多くはその書を『解読』できない」漢字仮名交じり文に対する「解読」法を提示したものといえる。
むしろここで注目するのはこの文章の末尾の箇所である。梁啓超は「日本と我らは唇歯兄弟の国」とし、白色人種と黄色人種の競争として当時の世界情勢を捉えていた。いずれ支那日本両国は合邦の局面を迎えるだろう。そして言語が通じ合うことは連合の第一義である。ゆえに日本の志士は漢文漢語を学ぶことを第一義とすべきであり、支那の志士も同様に和文和語を学ぶことを第一義とすべきである。(46)
結局「支那の志士」にとって、「和文漢読法」はほんの入り口に過ぎず、その先に「和文和語」の学習という課題が提示されるのである。この「和語」とは先の黄遵憲の「語言」または「言語」にあたることはいうまでもない。しかし黄遵憲は『日本国志』では「和訓」とはいうものの「和語」という表現をしなかったのである。
一方、「日本の志士」に「漢文漢語」の学習が求められるとき、「合邦」とまでいかなくとも相互理解の条件という点では、現代人の感覚に近いように思われるし、さして問題のない常套表現のように思われるだろう。
しかし、この見解の成立に日本体験に促されて成立した「同文」認識の変化という契機の介在をみるならば、漢文を日本の文章とみなし、話し言葉の違いを解消できるとみなした「同文」認識とは大きくへだたっているのである。
梁啓超が「合邦」を想定して「日本の志士」の努力を求めたのは、直近の日本の漢字文化への不満の表明として考えることもできる。先の文章と同じく一八九九年発表の「東籍月旦」において、梁啓超は日本書の書評・紹介を行ったが、「一流の漢学者」重野安繹による「全用漢文」の史書『万国史項目』への不満も述べられている。
著者は文学博士、大学教授、日本漢学者の第一流である。この書は全て漢文を用い、用いられている人名地名も『瀛寰志略』等の旧書が常用したものに依っている。思うに専ら中国人のために書かれたものだろう。その体例は朱子の『資治通鑑項目』にならい、編年体を用い、……中国人の思考習慣に適っている。……重野氏は漢学で有名だが、新学の学力では後輩にはるかに及ばないのかもしれない。学ぶ者がもし日本文を読めるなら、精力を尽くす必要はない。(中略)まだ日本文に通じていないものはこれを入手すれば、岡本監輔の『万国史記』に勝るし、市中の通俗的な訳本に勝るのだ。(47)
「中国人の思考習慣」とは、ここでは編年体などの歴史叙述のスタイルを言う。日本の漢学者が「同文」性を通じて、「中国人の思考習慣」を模倣することはもはや求められてはいないのである。
その後、梁啓超は「新民体」という新たな文体創出と中国史学の再検討に乗り出した。
「和文・和語」と「漢文・漢語」との間が等価として認識されたということは、日中知識人の交流に新たな局面が到来したことを告げているのではないだろうか。そして「同文の国」である日本体験が「語言」としての「漢語」へのまなざしをもたらしたと言えるのである。(了)
(1) 例えば、王敏氏『日本と中国―相互誤解の構造』(中央公論新社、二〇〇八年、九頁)でもそうした懸念が表明されている。
(2) 本稿は「同文同軌」から「同文同種」へという変遷を辿ることを課題とするものではないが、本稿で言う「同文同軌」的な「同文」認識が退く一方で、「同種」という表現とともに「同文」が語られ始める。例えば、変法派知識人、張謇(一八五三―一九二六)による一九〇一年の文章に「即為同種同文之便、亦宜訳東書」(「変法平議」『張謇全集』第一巻、江蘇古籍出版社、一九九四年、六四頁)とある。「同種」という表現は、少なくとも「人種」論が流行した日清戦争以後でなければ、中国知識人の間で訴求力をもちえない類の表現ではないかと思われる。
(3) 「宋平子新字の位置づけをめぐって――江南知識人の日本趣味について」高柳信夫氏編著『中国における「近代知」の生成』、東方書店、二〇〇七年。
(4) 孫詒譲は宋恕の岳父であった。後出する孫衣言(一八一五―一八九四)は孫詒譲の父であり、李鴻章(一八二三―一九〇一)とともに兪樾の「同年」道光三十年(一八五〇年)の科挙合格者であった。兪樾は宋恕の師とされるが、
 
ただし、それは関係の深い孫家との関わりを通じて、後見人として宋恕を李鴻章に幕僚とするよう推薦したことがきっかけであった。
(5) 宋恕の思想を日本との関わりを軸に思想史的な観点から論じた研究に、楊際開氏の『清末変法与日本―以宋恕政治思想為中心』(上海古籍出版社、二〇一〇年)がある。
(6) 閻立氏『清末中国の対日政策と日本語認識』、東方書店、二〇〇九年。とりわけ第五章。
南勇氏「近代中国の言語意識と「日本語」――中国留学生が編纂した初期日本語教科書をめぐって――」『成城文藝』一九八号、二〇〇七年。そのほか清末中国人の日本語学習の歴史という主題からの研究も含まれよう。
(7) 閻立氏前掲書、第四章を参照。
(8) 茂木敏夫氏「中華的世界像の変容と再編」『シリーズ20世紀中国史1 中華世界と近代』、東京大学出版会、二〇〇九年、三八〜四七頁。
(9) 『四庫全書総目』(影印)、中華書局、一九六四年、四六七頁。
引用箇所は『蒙古源流』に施された「提要」の一部である。『四庫全書』所収の書物には、すべてその概要を紹介する「提要」が施された。ちなみに引用文を訳出すれば「一統同文の盛んな治世は実に古来まれなほどの高みにあります」となる。
(10) 「天主教」王樹明校証『二十二史剳記校証』下、中華書局、一九八四年、七九二頁。
(11) この論点は、平野聡氏の『清帝国とチベット問題―他民族統合の成立と瓦解』第二章(名古屋大学出版会、二〇〇四年、一〇九〜一一〇頁)における説を参考にした。
(12) 例えば『廿二史剳記』巻三十四「海外の諸番は多くは内地人を通訳にする」
(前掲書、下、七八七〜七八八)を参照せよ。
(13) 『湖楼筆談』『九九消夏録』(中華書局、二〇一〇年)所収、二六九頁
(14) 饒玉成篇『皇朝経世文篇続集』巻五十五、礼政三、大典下、一八八二年、
『近代史資料叢刊』(七九一、一三六九頁)所収。兪樾はこの書物に自らも序文を寄せた。
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(15) 『春在堂随筆』江蘇古籍出版社、二〇〇〇年、四〜七頁などを参照。
(16) 兪樾の交友関係を論じたものとして、島力崗氏「兪樾と李鴻章―『東瀛詩選』成立をめぐって―」『大谷大学大学院研究紀要』第二三号、二〇〇六年、一二月。
(17) 兪樾『王子荘「中外和戦議」序』『春在堂雑文五編』所収。
(18) 前掲『春在堂随筆』、九四頁。
(19) 同上。
(20) 「兪樾と『東瀛詩選』」、島根大学文学部言語文化学科編『島大言語文化島根大学文学部紀要』第一号、一〇〜一一頁。
(21) 蔡毅氏、前掲論文、一四頁。
(22) 蔡毅氏、前掲論文、七頁。
(23) 小柳司気太「兪曲園に就いて」『東洋思想の研究』森北書店、一九三二年、七八頁。
(24) 『東瀛詩選』が日本の漢詩壇において全面的に支持されたわけではないことは多くの論者が指摘する。王宝平氏は『清代日中学術交流の研究』(汲古書院、二〇〇五年)の第二章第二節(とりわけ、九九〜一一八頁)において、『東瀛詩選』の日本における評価とその不評の理由について詳細に論じているが、最後に久保天随(一八七五―一九三四)の発言を「公平な評価かもしれない」として紹介し、次のように要約した。「遺漏もあるものの、「便利な本」で、「各人に関する評論の如きも、往々にして、取るべきものがある」という評価」である。
(25) 岡千仞「観光紀遊」六、『小方壺齋輿地叢鈔』第五帙、広文書局(影印)、四八二一頁。なお、以下『小方壺齋輿地叢鈔』からの引用に際して、頁番号は広文書局版のものを掲げる。
(26) 前掲『春在堂随筆』、一二八頁。
(27) 同上、一二八頁。
(28) 「東瀛詩選に見られる兪樾の修改―菅茶山の『黄葉夕陽村舎詩』との比較を通して―」、『中国中世文学研究』五一、二〇〇七年、一一〇〜一一一頁。なお、引用箇所の書き下し文は郭頴氏による。
(29) 閻立氏、前掲書、序文および第一章第三節を参照。
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(30) 設立年度については、高暁芳氏『晩清洋務学堂的外語研究』(商務院書館、二〇〇七年)第三章および第四章を参考にした。
(31) 同上、六九頁。
(32) 閻立氏、前掲書、第四章、一八〇頁。
(33) 閻立氏、前掲書、第四章。
(34) 「日本非中国藩属弁」『弢園文録外編』、上海書店出版社、二〇〇二年、一一八頁。
ちなみに『大清一統志』では、日本人漂流民が皇帝に引見された三例をもって日本の朝貢としている。
(35) しかし、王韜自身は対日強硬論をとり、日本政府が琉球・台湾を奪うことに警鐘をならした。
王立群氏『中国早期口岸知識分子形成的文化特徴』(北京大学出版社、二〇〇九年)は第四章を「王韜的日本観:従 “同文同種” 到 “狡焉思逞” 」とし、王韜の日本観が訪日体験の前後で「同文同種」から「狡猾で図太い」に代わったという見解を示すが、管見の限りでは同書中の王韜からの引用文に「同文同種」という表現はない。
(36) 『日本国志』「凡例」『黄遵憲全集』下、中華書局、二〇〇五年、八二〇頁。
(37) この引用箇所について閻氏は前掲書(二〇七頁)に「日本を対等国としてみなし公平に扱う態度」と評している。しかし、皇や帝の呼称を変えることによって、日本の身分制や職官制度の呼称全般の見直しも必要となる点を考慮に入れると、そうとは言い切れないのではないか。
(38) 前掲『小方壺齋輿地叢鈔』第十帙、八〇八三頁。
(39) 徳田武氏『近世日中文人交流史の研究』(研文出版、二〇〇四年)、十一「黄遵憲の『日本国志』と『治財法・刑法解釈』」一「『国志』執筆の準備」(四〇五
〜四〇八頁)は、その間の事情を紹介している。
(40) 前掲『小方壺齋輿地叢鈔』第十帙、八一四一頁。なお、『小方壺齋輿地叢鈔』では『日本雑記』の著者を「闕名」とするが、ここで李筱圃とする点については、汪婉氏(『清末中国対日教育視察の研究』汲古書院、一九九八年、四八頁)の説に従った。ちなみに同書での李筱圃の紹介を以下に引用する。「李筱
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圃はもと江西で官職についていたが、のちに上海に隠居した。彼は日本滞在中、上海の商社数社と書信のやりとりをしていたことから、商界との関連のある人物と推測される」(汪婉、前掲書、四七〜四八頁)。
(41) 前掲『小方壺齋輿地叢鈔』第十帙、八一四八頁。
(42) 前掲『黄遵憲全集』、一四一九頁。
(43) 同上。
(44) 『飲氷室文集之四』、八一頁。
なお、『和文漢読法』については、古田島洋介「梁啓超『和文漢読法』(盧本)簡注:復文を説いた日本語速習書」(『明星大学研究紀要.日本文化学部・言語文化学科』16、二〇〇八年、二九〜六四頁)が、便利である。
(45) 『飲氷室文集之二』、五四頁。
(46) 『飲氷室文集之四』、八二頁。
(47) 『飲氷室文集之四』、九三〜九四頁。
(附記)
本稿は学習院大学外国語教育研究センター 2009 年度研究プロジェクト「近代中国における「新学」の輸入と「日本」的要素の意味」による研究成果の一部である。
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关于近代中国对于异文化的看法
――晚清知识分子的日本体验与汉字文化――
虾名良亮
现在日中两国的人听到同文一词,可能会想起同文同种的说法。意为日中两国共同使用汉字并属于同一人种。可是,至少甲午战争以前,晚清中国知识分子并非如此。那时,同文的意思主要是指日中两国共同使用的汉语古文(汉文),或指日本的文言文就是汉文。而且会使人想起同文同轨的典故。
这篇论文的主要目的,是对同文同轨的同文观的形成、及其如何失去了其成立条件的考察。晚清的同文观应该从两个方面来研究。一个方面是有关大一统思想,另一个方面是有关日中知识分子间的文化交流。
清朝统治体制可以说是用多种语言进行统治的体制。清朝虽然把满文和满语
定为国语,可是在以前明朝统治的地域继续使用汉文。并且对明代的旧朝贡诸国,例如朝鲜琉球安南日本等,也继续使用汉文。但是在理藩院管辖的藩部上,允许各个民族使用固有的文字和语言。
一般来说,清朝知识分子对日本并没有特别的关心。同时由于日本德川政权实施所谓锁国政策,因而他们关于日本的知识是非常狭隘的。加之,一部分明治日本知识分子的使用汉文的水平也很高,他们能用汉文写作、笔谈乃至吟诗唱酬。其结果,晚清中国开始与明治日本进行交流的时候,中国知识分子以为日本是同文之国,没能注意或是忽视了日本独自的语言、文字和文化。
这篇论文,主要论及三个知识分子—俞樾,黄遵宪,梁启超—的同文观。
总之,同文同轨的同文观的退潮,是与不以文字为主而以语言为主的语言观的兴起有着密切关系。
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