関東大震災朝鮮人虐殺事件 (かんとうだいしんさいちょうせんじんぎゃくさつじけん、朝: 관동대학살) とは、1923年(大正12年)の日本で発生した関東地震・関東大震災の混乱の中で「朝鮮人や共産主義者が井戸に毒を入れた」というデマが流れ、それを信じた官憲や自警団などが多数の朝鮮人や共産主義者を虐殺した事件である。正確な犠牲者数は不明であるが、論者の立場により、推定犠牲者数に数百名~約6000名と、非常に幅広い差がある[1]。
概要[編集]
震災時[編集]
震災前、加藤友三郎首相が病死したため、内閣が総辞職し、1923年(大正12年)8月28日、山本権兵衛に組閣命令が出されていた[2][3]。震災当日の9月1日夜半には臨時首相・内田康哉の下で閣議が開かれ、2日午前9時には、非常徴発令[注 1]、臨時震災救護事務局官制、戒厳に関する勅令[注 2]が発せられた[2][6]。
震災後、すでに1日から、朝鮮人暴動の流言が流布しており、2日正午までには東京全市・横浜全市に伝わった[7]。これは住民の口伝えだけではなく、官憲の措置によるところも大きく、例えば、法学博士の上杉慎吉は、同年10月、『国民新聞』で、9月2日から3日にわたり、震災地一帯に流言が伝播し、関東全体が動乱の情勢に至ったのは、警察の「大袈裟なる宣伝」によるものとし、警察が「無根の流言蜚語を流布して民心を騒がせ、震火災の惨禍を一層大ならしめたるに対して」責任を負うべきだと指摘・批判している[8]。
さらに、これを関東一円や他地域に伝播させたものとして、『横浜市史』は、例えば、当時、政府の通信文を全て打電していた海軍省船橋送信所が、9月3日午前8時、内務省警保局長より各地方長官に向けて次のように打電したことを挙げる[8][9]。
東京附近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加へ鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし。[8][9]
また、横浜では、9月2日午後8時、横鎮長官発、海軍大臣宛て電文で、「本日午前十一時横浜着警備艇の情況報告の要領左の如し。一、一日午前十一時五十八分激震防波堤税関を破壊し全市の家屋倒壊し、爆破所々に起り不逞鮮人の放火と相俟て全市火の海と化し……」と報告された[10]。
これらの政府当局者による打電や言明が、暴動をあたかも事実であるかのように信じさせ、朝鮮人に対する極度の憎悪を生み出す結果となった[2]。当時、半信半疑だったが、警察情報だから信じたという人が多いと『横浜市史』で大島美津子は言う[2]。
この内容は行政機関や新聞、民衆[要出典]を通して広まり、朝鮮人や、間違われた中国人、内地人であるところの日本人(ろう者、方言を話す地方出身者など)が殺傷される被害が発生した。
東京日日新聞(一六八六七号)に「火をのがれて生存に苦しむ牛込」「雨と火と朝鮮人との三方攻め」といふ題下にて、次の如き記事が載せてあつた。 「火に見舞れなかつた唯一つの地として残された牛込の二日夜は、不逞鮮人の放火及び井戸に毒薬投下を警戒する為め、青年団及び学生の有志達は警察、軍隊と協力して、徹宵し、横丁毎に縄を張つて万人を附し、通行人を誰何する等緊張し、各自棍棒、短刀、脇差を携帯する等殺気立ち、小中学生なども棍棒を携へて家の周囲を警戒し、宛然在外居留地に於ける義勇兵出動の感を呈した。市ヶ谷町は麹町六丁目から、平河町は風下の関係から(此所新聞紙破れて不詳)又三日朝二人連の鮮人が井戸に猫イラズを投入せんとする現場を警戒員が発見して直ちに逮捕した。」 下野新聞(九月六日)に「東京府下大島附近」「鮮人と主義者が掠奪強姦をなす」と云ふ題下にて次の如き記事が記載されていた。 「東京府下大島附近は、多数の鮮人と支那人とが空家に入り込み、夜間旺に掠奪強姦をなし、又社会主義者は、市郡に居る大多数の鮮人や支那人を煽動して内地人と争闘をなさしめ、そして官憲と地方人との乱闘内乱を起させ様と努めて居る許りでなく、多数罹災民の泣き叫ぶのを聞いて、彼等は革命歌を高唱して居るので、市民の激昂はその局に達して居る。」[11]
震災当初の新聞報道は下記等である。
竹槍や日本刀、銃などで武装した民間人が自警団を結成し、朝鮮人(と彼らに間違われた中国人)を殺害し始めた。朝鮮人と誤解されて中国人が犠牲となった事件、沖縄・秋田・三重出身者が犠牲となった検見川事件や秋田出身者が犠牲となった妻沼町事件[14]、香川出身の一家9名が犠牲となった福田村事件など、地方出身の日本内地人も殺された。
また、朝鮮人犠牲者以外にも、社会主義や無政府主義の指導者を殺害した動きがあり、無政府主義者の大杉栄、伊藤野枝、大杉の6歳の甥・橘宗一らが殺された甘粕事件、社会主義者10名が犠牲となった亀戸事件も起きた。
日本の治安当局の対応[編集]
自警団から朝鮮人・中国人数百名を守った大川常吉・神奈川警察署鶴見分署長のように、暴徒への取り締まりならびに死傷者を伴う暴徒との衝突や、横浜の朝鮮人226名を9月23日に横須賀の不入斗練兵場陸軍砲廠で保護収容し臨時治療所を開設する等の動きがあった [15] 。
9月7日に治安維持法の前身となる緊急勅令が発布されていた。
震災時の背景[編集]
韓国併合とその影響[編集]
1905年(明治38年)、乙巳保護条約(第二次日韓協約)から、日本による韓国の領有が始まった[16]。1910年(明治43年)8月29日、日本は「韓国併合に関する条約」を締結し、朝鮮の一切の統治権が「完全且永久」に日本へ「譲与」された(第一条)[16]。
併合後に本格化した「土地調査事業」により、朝鮮の農民は祖先伝来の土地を取り上げられ、農村での生活が困難になった多くの朝鮮人が、日本や満州に移り住むことになった[17]。
1919年(大正8年)に起きた三・一独立運動の影響をおそれた朝鮮総督府は、同年、「朝鮮人の旅行取締に関する件」を公布し、渡航を警察への届出許可制にした[18][19]。その後、日本の食糧不足を切り抜けるため、朝鮮総督府は、1920年(大正9年)から「産米増殖計画」を実施した[18]。この結果、日本による朝鮮での土地収奪が一層進行し、再び日本での朝鮮人人口は増加した[18]。
1922年(大正11年)、慢性的な不況下の日本において、資本家が安価な労働力を必要としたため、朝鮮人の渡航について、届出許可制から「自由渡航制」に切り替えられた[18][19]。これにより、日本へ移る朝鮮人は更に増えることとなった[18]。政府は、日本の失業問題悪化を懸念し、1923年(大正12年)に「朝鮮人労働者募集に関する件」、1924年(大正13年)に「朝鮮人に対する旅券証明書の件」、1925年(大正14年)には釜山港において「渡航阻止制」を実施した[20]。
当時の日本政府は、地震発生前に起きた朝鮮の三・一独立運動や台湾の大規模デモを流血鎮圧した経験から、これら統治領の独立運動を行う一部の民衆の抵抗に警戒感を抱いていた[21]。当時の朝鮮人への無理解と民族的な差別意識も背景として考えられる[22]。日本国内では大正デモクラシーによって労働運動・民権運動・女性運動など支配権力に対する社会主義者らの抵抗・権利拡大運動の活性化と、それに対抗する保守的勢力の急伸、首相暗殺や恐慌による政治経済への不安から社会体制が揺らいでいた[21]。また、国外でもイギリス・アメリカとの対立、シベリア出兵の大失敗などから国際的な孤立化を深めつつあり、関東大震災はいわば内憂外患の状態に追い打ちをかけるように起こった大災害だった[21]。
山本内閣は9月7日に治安維持令を公布した。この戒厳令が解除された11月15日までの東京・神奈川・埼玉・千葉の被災地1府3県民の市民的・政治的自由が停止した状態の中で、大震災発生直後の9月1日午後3時以降、東京や横浜などで「社会主義者及び鮮人の放火多し」「不逞鮮人暴動」といったデマが発生していったが、デマの中には警察や軍が流したものもあった[23]。これらの報道や伝聞による噂に接し不安を煽られた各地の民衆や有志によって自警団が結成されたが、中には地域の管轄警察の主導・指導で組織された自警団もあった。これら自警団の一部によって朝鮮人・日本人・中国人らが虐殺されていった[23]。
陸軍や警察はこの混乱を奇貨として社会主義者や労働運動家らの抹殺を画策し、10名が軍隊に虐殺された亀戸事件および無政府主義者が憲兵大尉らに殺害された甘粕事件が実行されたが、こうした「白色テロ」に対する責任追及や批判は低調だった。当時の社会にとっては治安維持と被災者救援活動の一環であり、軍や政府や警察が威信を取り戻したとして歓迎される状況になっていた[23]。
日本内地に居住していた朝鮮人の人口[編集]
警視庁官房特別高等課に設置されていた内鮮高等係によれば、震災当時に在京していた朝鮮人は、詳細に状況を知りうる者6500名、その他、5000〜6000名が認められ、合計1万人以上は全市及び接続郡部にいた[24]。そのうち学生は1500〜1600名だったが、その多くは夏期休暇のため帰省中だった[24]。[注 3]
大正9年(1920年)国勢調査によると、男性36,043名・女性4,712名の朝鮮人(東京男性2,304名女性181名、神奈川男性725名女性57名、千葉県男性36名女性4名、埼玉県64名女性14名、愛知県男性522名女性143名、京都男性823名女性245名、大阪男性5,445名女性845名、兵庫男性3,059名女性711名、福岡男性7,161名女性672名)が日本内地にて居住していた [26] 。
昭和5年(1930年)国勢調査によると、419,009名の朝鮮人(東京38,355名、神奈川13,181名、千葉県1,728名、埼玉県1,164名、愛知35,301名、大阪96,943名、京都27,785名、兵庫26,121名、福岡34,639名)が居住していた [27] 。
犠牲者数と弔慰金[編集]
正確な犠牲者数は不明だが、2008年3月の中央防災会議では、震災全体の犠牲者の1~数パーセントが殺害によるものと推定されている(すなわち、一千~数千人)[28]。 当時の官庁記録としては、司法庁報告書では民間で殺害し起訴された件数として朝鮮人233人、内地人58名、中国人3名[注 4][30]。戒厳業務詳報によれば軍によって殺害された人数は少なくとも朝鮮人39人、内地人27人、軍民共同の殺害による犠牲者として朝鮮人約215名(うち約200は中国人との説あり)である[31]。内務省は248名、朝鮮総督府東京出張員は見込み数として813名を挙げている。朝鮮人犠牲者には死亡原因が災害か虐殺か区別せず1人200円(日本内地人死者・行方不明者への御下賜金は1人16円)[注 5]の弔慰金が832名[32]へ支払われた [33]。
種別 | 司法省報告書掲載 | 戒厳業務詳報掲載 | 合計 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
起訴事件 | 警察による | 軍通牒の不明 | 軍隊による | 警察・民間人共同 | |||||
被害者 | 朝鮮人 | 内地人 | 中国人 | 内地人 | 朝鮮人 | 朝鮮人 | 内地人 | 朝鮮人 | |
東京 | 39 | 25 | 1 | 2 | 27 | 19 | 約215 | 約328 | |
神奈川 | 2 | 4 | 2 | 8 | |||||
千葉 | 74 | 20 | 1 | 12 | 8 | 115 | |||
埼玉 | 94 | 1 | 95 | ||||||
群馬 | 18 | 4 | 22 | ||||||
栃木 | 6 | 2 | 8 | ||||||
茨城 | 1 | 1 | |||||||
福島 | 1 | 1 | |||||||
合計 | 233 | 58 | 3 | 2 | 1 | 39 | 27 | 約215 | 約578 |
注:戒厳業務詳報掲載の警察民間人共同の被害者のうち約200 は中国人との説あり |
史学者の山田昭次は上海の大韓民国臨時政府機関紙「独立新聞(金承学社長)」1923年11月5日付で報道された朝鮮人調査団報告書の6661人説が不正確な数字である原因は官憲の被害隠蔽と指摘した [34] [35] [36] 。
「朝鮮人の犠牲者数は、在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班が官憲の協力を得られないまま調査を進めた……吉野に情報提供したと推定される上記慰問団の崔承万が戦後になって発表したものとがある。すべて場所と人数の記載で、合計は吉野原稿が2,613余名……崔氏のものが2,607余名又は3,459余名……崔氏によれば、慰問団はこの調査を踏まえて犠牲者数を5千名と推定したという。ここの調査の最終報告とされるものが、11月28日付で上海の大韓民国臨時政府機関誌『独立新聞』社長に送付され、12月5日に同紙に掲載された。これは合計6,661名(現在内訳を再計算すると6,644名であると山田昭次氏が指摘している)に達するが、うち神奈川県で遺体を発見できなかった1,795名と第一次調査を終了した11月25日に各県から報告が来たとする追加分2,256名は、府県名のみでそれ以下の地名は記されていない。山田昭次氏は、埼玉県に関する数値を検証して、この追加分を算入しない方が現在までに得ら れる他の情報と近いことを指摘し、「追加合計数の根拠を今日解明することはできない」としている。」
—[37]
2013年11月東京韓国大使館新築移転作業中、関東大震災韓国人犠牲者290名の名簿が初めて見つかった [38] 。日本震災時被殺者名簿286人を調査した結果28人の犠牲者を確認と2015年12月報じられ、第一次調査とあわせて韓国政府認定の関東大震災時虐殺犠牲者は合計40名となった [39]。
一、横浜方向 | |||
---|---|---|---|
1.神奈川県橋本町浅野造船所前広場 | 虐殺(現金五百円強奪) | 四十八 | 名 |
2.神奈川警察署内 | 巡査刺殺 | 三 | 名 |
3.程ヶ谷町 | 虐殺 | 三十一 | 名 |
4.井戸ヶ谷町 | 右同(現金二百円強奪) | 三十 | 余名 |
5.根岸町 | 右同 | 三十五 | 名 |
6.土方橋より八幡橋まで至る | 右同 | 百三 | 名 |
7.中村町 | 右同 | 二 | 名 |
8.山手町埋地 | 右同 | 一 | 名 |
9.御殿町付近 | 右同 | 四十 | 余名 |
10.山手本町警察署立野交番所前 | 右同 | 二 | 名 |
11.若屋別荘附近 | 右同 | 十 | 余名 |
12.新子安町 | 右同 | 十 | 名 |
13.子安町より神奈川駅に至る | 右同 | 百五十九 | 名 |
14.神奈川鉄橋 | 右同 | 五百 | 余名 |
15.東海道線茅ヶ崎駅前 | 右同 | 二 | 名 |
16.久良岐郡金沢村 | 右同 | 十二 | 名 |
17.鶴見町 | 右同 | 七 | 名 |
18.川崎 | 右同 | 四 | 名 |
19.久保町 | 右同 | 三十 | 余名 |
20.戸部 | 右同 | 三十 | 名 |
21.浅間町及浅間山 | 右同 | 四十 | 名 |
22.戸山、鴨山 | 右同 | 三十 | 名 |
以上屍体埋葬地及数 1.久保山火葬場 千余名(横浜附近被害者) 2.青木町三ツ沢共同墓地 二百名(神奈川附近被殺) 3.金沢村(不詳) 4.茅ヶ崎町旧東海道線路火葬 5.鶴見町、総持寺山内埋葬 6.川崎町当地埋葬又は持って帰国 | |||
二、埼玉県方面 | |||
1.川口 | 虐殺 | 三十三 | 名 |
2.赤羽荒川 | 右同 | 三百 | 名 |
3.大宮 | 右同 | 二名 | 名 |
4.熊谷 | 右同 | 六十一 | 名 |
5.本庄 | 右同 | 八十六[注 7] | 名 |
6.早稲田村 | 右同 | 十七 | 名 |
7.神保原 | 右同 | 二十四 | 名 |
8.寄居 | 右同 | 十四 | 名 |
9.長沢 | 右同 | 十四 | 名 |
三、群馬県 | |||
1.藤岡 | 虐殺 | 一八 | 名 |
四、千葉県 | |||
1.習志野軍営倉内 | 虐殺 | 十二 | 名 |
2.船橋 | 右同 | 三十八 | 名 |
3.法典村 | 右同 | 六十四 | 名 |
4.千葉市 | 右同 | 二 | 名 |
5.流山 | 右同 | 一 | 名 |
6.南行徳 | 右同 | 二 | 名 |
7.馬橋 | 右同 | 七 | 名 |
8.田中村 | 右同 | 一 | 名 |
9.佐原 | 右同 | 七 | 名 |
10.滑川 | 右同 | 二 | 名 |
11.成田 | 右同 | 二 | 名 |
12.我孫子 | 右同 | 三 | 名 |
五、長野県 | |||
1.軽井沢周辺 | 虐殺 | 二 | 名 |
六、茨城県 | |||
1.筑波本町 | 虐殺 | 四十三 | 名 |
2.土浦 | 右同 | 一 | 名 |
七、栃木県 | |||
1.宇都宮 | 虐殺 | 三 | 名 |
2.恵那須郡 | 右同 | 一 | 名 |
八、東京付近 | |||
1.月島 | 虐殺 | 三十三 | 名 |
2.亀戸署内 | 右同 | 八十七 | 名 |
3.小松町 | 右同 | 四十六 | 名 |
4.寺島請地 | 右同 | 二十二 | 名 |
5.寺島警察署内 | 右同 | 十三 | 名 |
6.向島 | 右同 | 三十五 | 名 |
7.寺島手井駅 | 右同 | 七 | 名 |
8.洲崎飛行場附近 | 右同 | 二十六 | 名 |
9.日本橋 | 右同 | 五 | 名 |
10.深川西町 | 右同 | 十一 | 名 |
11.押上 | 右同 | 五十 | 名 |
12.本所区一丁目 | 右同 | 四 | 名 |
13.大島七丁目 | 右同 | 四 | 名 |
14. 大島三丁目活動写真館内 | 右同 | 二十六 | 名 |
15.大島八丁目 | 右同 | 百五十 | 名 |
16.小松川新町 | 右同 | 七 | 名 |
17.浅草公園内 | 右同 | 三 | 名 |
18.亀戸駅前 | 右同 | 二 | 名 |
19.府中 | 右同 | 三 | 名 |
20.世田ヶ谷、三軒茶屋 | 右同 | 二 | 名 |
21.新宿駅内 | 右同 | 二 | 名 |
22.四谷見附 | 右同 | 二 | 名 |
23.吾妻橋 | 右同 | 八十 | 名 |
24.上野公園内 | 右同 | 十二 | 名 |
25.千住 | 右同 | 十一 | 名 |
26.王子 | 右同 | 八十一 | 名 |
右 合計 二千六百十三人 〔東大吉野文庫〕 |
各地域の状況[編集]
埼玉県[編集]
本庄事件[編集]
群馬県[編集]
群馬県では、1923年(大正12年)9月3日、佐波郡郡長から町村長宛ての通達で、「東京府下震火災に際し囚人多数脱出し、又不逞鮮人暴行有之たるやに聞き及び候処、警戒の厳重となるに随い、是等不逞の徒何時当地方へ入り込むやも測りがたく候条、この際警備隊を組織し、警戒を厳重ならしむるよう」(県行政文書)とし、この結果、県内で469の自警団が組織された[41]。
4日には、高崎駅で朝鮮人が自警団の検問にかかり、棍棒で殴られ、入院した[42]。同日、群馬県は、朝鮮人暴動などは事実無根であるとし、沈静化を図ったが、効果はなかった[42]。
藤岡事件[編集]
藤岡自警団は、朝鮮人を襲撃して17名を惨殺した[42]。
議会の動き[編集]
1923年(大正12年)12月、衆議院が開会した[43]。同月14日の田渕豊吉(無所属)、15日の永井柳太郎(憲政会)、23日の高柳覚太郎、南鼎三などが、朝鮮人虐殺について政府を問い質した[43]。
田渕議員は、「私は内閣諸公が最も悲しむべき所の大事件を一言半句も此点に付て述べられないは、非常なる憤慨と悲しみを有する者であります……千人以上の人が殺された大事件を不問に宜しいのであるか」と述べたが、山本権兵衛首相は答弁を保留した[44]。翌15日、永井議員は、前日の田渕の発言を政府が黙殺したことを問題とした[45]。また、この事件について、「全責任は、挙げて自警団に存するが如き観あることは、国民思想の向上発展の為に、本員は之を悲しまざるを得ないのであります」と述べた[45]。
同日、貴族院では、男爵・藤村議員は、政府や軍、在郷軍人団、青年団を称賛した[45]。貴族院では、朝鮮人虐殺事件は取り上げられなかった[45]。
また、永井議員は、朝鮮人暴動の流言について「当時の内務省の最高官から発せられましたので、其命令に接しました所の、各地に於ける地方長官は、又、其命令を管下の郡役所に伝へ、管下の郡役所は又、之を管下の町村に伝達することに努めました結果、彼の自警団の組織を見るに至った」と述べ、あわせて、朝鮮統治の責任を追及した[45]。
山本首相から陳謝の言葉は出ず、「目下取調進行中」との答弁で打ち切りを図った[46]。ただ、内相・後藤新平からは、「不幸にして犯罪人でなき者の害を被った者が絶対に無いと云ふことは勿論言ふ能はざることであります」と、虐殺の事実を認める発言があった[47]。
当時の証言など[編集]
- 黒澤明の自伝『蝦蟇の油——自伝のようなもの——』の中では、当時13歳だった黒澤の関東大震災時の体験が語られている[48]。その中に、黒澤の父親が長い髭を生やしているという理由で朝鮮人に間違われ暴徒に囲まれた話や、黒澤が井戸の外の塀に書いたラクガキを町の人々が「朝鮮人が井戸へ毒を入れた目印」だと誤解し騒ぎになるというエピソードがある[48][49]。
- 作家の芥川龍之介はこの自警団に参加し活動をしていたことが分かっているが、「或自警団員の言葉」(『文藝春秋』1923年10月号「侏儒の言葉」より)において、自警団の異常な殺戮行為に対して「自然は唯冷然と我我の苦痛を眺めている。我我は互に憐れまなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは――尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である」と批判をしている。また、芥川の「大震雑記」[50](『中央公論』1923年10月号)の五の章では、朝鮮人への虚偽の噂を信じる民衆を「善良なる市民」と揶揄する等、震災後の一連の殺害事件に対して批判的視点を持っていた事がわかっている[51]。
- 沖縄出身の歴史学者・比嘉春潮は、当時、淀橋(現・新宿区)に住んでいた[52]。震災後、数日経った夜、自警団が自宅を訪問し、「朝鮮人だろう」「ちがう」「ことばが少しちがうぞ」「僕は沖縄の者だから君たちの東京弁とはちがうはずじゃないか」と押し問答になった[53][54]。身の危険を感じ、淀橋署に奄美大島出身の巡査がいたことから、警察で白黒つけようと持ちかける[55]。しかし、連れて行かれたのは近所の交番で、ここでも同じやりとりを繰り返しているうちに、日本刀を持った自警団の一人が「ええ、面倒くさい。やっちまえ」と怒鳴った[56][54]。それでも何とか淀橋署に行くことになり、無事で済んだ[57][54]。また、行方が分からなくなっていた甥の春汀は、「朝鮮人だ」と叫ぶ自警団にこん棒で殴られ、頭に包帯を巻き、血糊をこびりつかせた状態で飯田橋署に留置されていた[58][54]。
新聞[編集]
- 1923年(大正12年)9月8日、秋田魁新報は、時評欄で「内地人のみ聖人君子であり鮮人は盗妬の末孫であるとし、その罪を一身に背負うはすこぶる迷惑千万なことと思われる。殊に彼らの中に不逞の企てをなせる者ありという理由のもとに鮮人とさえ見れば警察は鵜の目鷹の目で警戒して尚足らず一種の私刑を加ふるものすらあるは、朝鮮将来の統治上及政策上重大なる累を及ぼすものではなくして何であろうか」と指摘した[59]。
内閲[編集]
1924年、改造社から出された『大正大震火災誌』に、吉野作造の「労働運動者及社会主義者圧迫事件」が掲載されている[60]。この項の最後には、編者の「お断り」として、「法学博士吉野作造氏執筆「朝鮮人虐殺事件」及び内田魯庵氏氏〔ママ〕執筆「自警団と殺傷事件」の二篇は、何れも豊富なる資料と精細なる検討に依つて出来た鏤骨苦心の好文字であつたが、其筋の内閲を経たる結果遺憾ながら全部割愛せざるの已むなきに至つた」と記されている[60]。
その他[編集]
小池百合子・東京都知事の対応[編集]
毎年9月1日、都立横網町公園(墨田区)では、関東大震災の際に虐殺された朝鮮人を慰霊するための式典が市民団体の主催で行われており、東京都知事が追悼文を寄せることが恒例となっていた[62]。
東京都の小池百合子知事は、2017年8月、式典へ追悼文を送ることを止めた[62]。なお、2016年には送付していた[62]。
2017年3月の東京都議会で、自民党都議が、虐殺の犠牲者数について異論があるとし、「今後は追悼の辞の発信を再考すべきだと考える」と求めた[62]。これに対し、小池知事は「追悼文は毎年、慣例的に送付してきた。今後は私自身がよく目を通し、適切に判断する」と応じていた[62]。
2022年12月の都議会では、立憲民主党の中村洋都議が、虐殺事件に対する小池知事の認識について質問したのに対し、小池知事は「災害と様々な事情で亡くなられたすべての方々に哀悼の意を表している」と答弁した[63]。
岸田内閣・松野官房長官の発言[編集]
岸田文雄内閣の内閣官房長官・松野博一は、震災発生100年を2日後に控えた2023年8月30日、首相官邸での記者会見において、共同通信の記者から、関東大震災の記録について「当時、被災地ではデマが広がり、多くの朝鮮人が、軍、警察、自警団によって虐殺されたと伝えられています。政府として朝鮮人虐殺をどう受け止め、何を反省点としているのか」などの質問を受けた[64][65][66]。
これに対して、松野は「政府として調査した限り、政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらないところであります」などと述べた[64][65][66]。
しかし、これは誤りで、例えば、2009年、中央防災会議に設置された「災害教訓の継承に関する専門調査会」が取りまとめた関東大震災に関する報告書の中に、朝鮮人虐殺に関する記載がある[65][67][68]。
被災地では朝鮮人暴動の流言に基づいて民間の自警団による朝鮮人に対する暴行、虐殺など殺傷事件が起きていた。混乱の中、真偽を確かめられないまま、官憲も流言を事実と誤認し、行動した。このことが官憲自身の手による朝鮮人殺傷事件を引き起こし、また、自警団の暴走を助長する結果となった。[9]
題材とした作品[編集]
映画[編集]
- 『大虐殺』 - 1960年の日本映画。ギロチン社を題材とした作品だが、序盤で関東大震災の朝鮮人虐殺が描かれている。
- 『道〜白磁の人〜』 - 2012年の日本映画。植民地朝鮮にいる主人公の浅川巧が日本にいた妻の弟から関東大震災とその直後の朝鮮人虐殺事件について聞くシーンがある。
- 『金子文子と朴烈(パクヨル)』 - 2017年の韓国映画。主人公の朴烈と金子文子が遭遇した関東大震災とその直後の朝鮮人虐殺事件が描かれている。
- 『菊とギロチン』 - 2018年の日本映画。関東大震災後の大正時代末期が舞台。朝鮮人虐殺を生き延びた朝鮮出身の遊女が登場する。
- 『福田村事件』 - 2023年の日本映画。実際の福田村事件の被害者は日本人であるが、この映画では事件に至るまでの朝鮮人・社会主義者に対する流言が言及されており、別件の朝鮮人犠牲者も描写されている。
記録文学[編集]
- 江馬修『羊の怒る時 ─関東大震災の三日間』筑摩書房〈ちくま文庫(え-21-1)〉、2023年8月7日。ISBN 978-4-480-43904-8。
- 吉村昭『関東大震災』文藝春秋〈文春文庫〉、2004年8月10日。ISBN 978-4-16-716941-1。(電子版あり)
ノンフィクション[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 緊急勅令第396号[4]
- ^ 緊急勅令第399号[5]
- ^ 内鮮高等係について、『警察辞典』(1926年)は次のように説明している。「朝鮮併合せられてより、鮮人の内地渡航者年々増加し、次第に民族的自覚の途につける彼等は、或は自ら、或は他の煽動に動かされ、民族自決を叫んで過激手段に出づるものまた少なからず。此等に対しては其の思想を善導し、且つ保護するの要あるを以て、警視庁総監官房特別高等課内に一係を設け内鮮関係の高等警察事務を掌ることとなれるなり」[25](表記は新字体とした)
- ^ この233人という数字は起訴された事件の被害者数であり、当局に認知されていても起訴されていない事件については考慮されていない[29]。
- ^ この違いは資金の出所が違うからである。日本人への御下賜金は日本政府から(予算総額1000万円を分配したので一人当たりの額面が小さくなった)であり、朝鮮人への弔意金は朝鮮総督府からである。
- ^ 吉野作造は本郷教会の教会員。
- ^ 朝鮮罹災同胞慰問班の記述では八十(80)となっており、6人の差がそのまま吉野作造と朝鮮罹災同胞慰問班の数の違いになっていること、これ以外の数字は同じであること、などから、吉野作造が「80」を「86」と誤記した可能性が高い。
出典[編集]
- ^ 八島有佑 (2019年9月29日). “関東大震災の朝鮮人虐殺事件 小池都知事の追悼文不送付など問題となっている背景へ迫る”. コリアワールドタイムズ. 2020年6月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年6月28日閲覧。
- ^ a b c d 横浜市 1976, p. 81.
- ^ 横浜市 1976, p. 75.
- ^ 群馬県警察史編さん委員会 1978, p. 580.
- ^ 群馬県警察史編さん委員会 1978, p. 579.
- ^ 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会 2008 第2章第1節, p. 70.
- ^ 横浜市 1976, p. 79.
- ^ a b c 横浜市 1976, p. 80.
- ^ a b c 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会 2008 第2章第1節, p. 73.
- ^ 横浜市 1976, pp. 80–81.
- ^ 姜徳相・琴秉洞編『"朝鮮人虐殺事件 法学博士吉野作造"現代史資料(6)第三部強制収容と調査 人民による調査』みすず書房、1963年、358頁。
- ^ 辛基秀『映像が語る「日韓併合」史』労働経済社、1987年8月15日 初版発行、ISBN 4-947585-29-3、272頁。
- ^ 裵昭『関東大震災朝鮮人虐殺―写真報告』、1988年10月7日発行、影書房、64~65頁。
- ^ 秋田魁新報社 (2017年9月1日). “北斗星(9月1日付)”. 秋田魁新報. オリジナルの2017年9月4日時点におけるアーカイブ。 2017年9月1日閲覧。
- ^ 横須賀市震災誌刊行会 編『横須賀市震災誌 : 附・復興誌』横須賀市震災誌刊行会、1932年、133頁。
- ^ a b 広島県 1981, p. 569.
- ^ 広島県 1981, p. 570.
- ^ a b c d e 広島県 1981, p. 571.
- ^ a b 岩佐 1998, p. 109.
- ^ 広島県 1981, pp. 571–572.
- ^ a b c 木坂順一郎「関東大震災:歴史的背景」『日本大百科全書』小学館。
- ^ 中央防災会議 (2008年3月). “ 1923 関東大震災【第2編】第4章 第2節 殺傷事件の発生”. 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 (内閣府): 207.
- ^ a b c 木坂順一郎「関東大震災:政治的反動と朝鮮人・中国人の虐殺」『日本大百科全書』小学館。
- ^ a b 山本 1924, p. 73.
- ^ 富益義衛 編『警察辞典』清水書店、1926年5月24日、189頁。NDLJP:1019613。
- ^ 内閣統計局 (1920年). “国籍民籍別人口-府県,大正9年国勢調査”. 総務省統計局. 2017年9月1日閲覧。
- ^ 内閣統計局 (1930年). “民籍国籍別人口-府県,総務省統計局昭和5年国勢調査”. 総務省統計局. 2017年9月1日閲覧。
- ^ a b 中央防災会議 (2008年3月). “ 1923 関東大震災【第2編】第4章 第2節 殺傷事件の発生”. 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 (内閣府): 206.
- ^ 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会 2008 第4章第2節, p. 209.
- ^ 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会 2008 第4章第2節, pp. 206–208.
- ^ 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会 2008 第4章第2節, pp. 206–207.
- ^ 自警団に殺害された鮮人の数は混乱の際であり死体は一般の死体と共に火葬に附されたから死因も弁別せず従って的確なる数を得ること困難であるが朝鮮地方官憲で精細に調査した結果に依れば圧死者焼死者被殺者及行方不明となった鮮人は総体で832名である、鮮人の居住場所と焼死者の多かった事実に徴し自警団に殺害された者はその二三割を超過することはあるまいと推定せられるのである。|みすず書房刊 現代資料集(6)「関東大震災と朝鮮人」収録 【関東地方震災時に於ける朝鮮人問題 朝鮮総督官房外事課】 p.462
- ^ 中央防災会議 (2008年3月). “ 1923 関東大震災【第2編】第4章 第2節 殺傷事件の発生”. 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 (内閣府): 209.
- ^ 山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺―その国家責任と民衆責任』創史社、2003年、183頁。ISBN 4915970221。
- ^ 山田昭次 (2015年9月1日). “関東大震災・朝鮮人虐殺は「正当防衛」ではない 工藤美代子著『関東大震災――「朝鮮人虐殺」の真実』への批判”. 朝鮮人虐殺数を今日も明確にできない根本原因は、官憲が虐殺された朝鮮人の遺体の隠匿を行ったからである. 株式会社シノドス. 2017年9月1日閲覧。
- ^ 鈴木敏夫「関東大震災をめぐる教育現場の歴史修正主義」『大原社会問題研究所雑誌』No.668、法政大学大原社会問題研究所、2014年6月25日、26頁、ISSN 09129421、2017年9月1日閲覧。
- ^ 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会 (2008年3月). “ 1923 関東大震災【第2編】コラム8 殺傷事件の検証”. 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 (内閣府): 219.
- ^ “東京で発見 3・1運動と関東大震災の韓国人犠牲者名簿” (日本語). 聯合ニュース (ソウル特別市,大韓民国: Yonhap news agency). (2013年11月19日)
- ^ “関東大震災時の朝鮮人虐殺犠牲者 40人確認=韓国政府” (日本語). 聯合ニュース (ソウル特別市,大韓民国: Yonhap news agency). (2015年12月16日)
- ^ 姜徳相・琴秉洞編『"朝鮮人虐殺事件 法学博士吉野作造"現代史資料(6)第三部強制収容と調査 人民による調査』みすず書房、1963年、360頁。"次に朝鮮人の被害の程度を述べる。之れは朝鮮罹災同胞慰問班の一員から聞いたものであるが、此の調査は大正十二年十月末日までのものであって、其れ以降の分は含まれて居ないことを注意しなければならぬ。"。
- ^ 群馬県史編さん委員会 1991, pp. 592–593.
- ^ a b c 群馬県史編さん委員会 1991, p. 593.
- ^ a b 一倉 1984, p. 250.
- ^ 一倉 1984, pp. 250–251.
- ^ a b c d e 一倉 1984, p. 251.
- ^ 一倉 1984, p. 251-252.
- ^ 一倉 1984, p. 252.
- ^ a b 西崎 2018, pp. 123–125.
- ^ 黒澤明『蝦蟇の油——自伝のようなもの——』岩波書店。ISBN 978-4006020378。[要ページ番号]
- ^ 西崎 2018, pp. 64–65.
- ^ 児玉千尋「関東大震災と文豪 : 成蹊大学図書館の展示から」『成蹊国文』第47号、成蹊大学文学部日本文学科、2014年3月、86-56頁、hdl:10928/526。
- ^ 西崎 2018, p. 150.
- ^ 西崎 2018, pp. 145–146.
- ^ a b c d 「殺害、暴行、街頭で尋問… 沖縄出身者に差別の暴力 関東大震災100年 被害証言でたどる」『沖縄タイムス+プラス』、2023年8月29日。2023年9月10日閲覧。
- ^ 西崎 2018, pp. 146–147.
- ^ 西崎 2018, p. 147.
- ^ 西崎 2018, pp. 147–148.
- ^ 西崎 2018, p. 149.
- ^ 秋田県 編『秋田県史』 第六巻《大正・昭和編》、秋田県、1965年3月31日、24頁。NDLJP:3010785。(要登録)
- ^ a b 山本 1924, p. 13- 但し、これは「一 社会問題」のページ番号である
- ^ “「関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を読み解く」書評 絵から明かされる官民一体での行為”. 好書好日. 朝日新聞社 (2022年11月5日). 2023年9月5日閲覧。
- ^ a b c d e 「朝鮮人虐殺の追悼文 小池知事送付見送り」『読売新聞』、2017年8月24日、夕刊、10面。
- ^ 「都議会代表質問 太陽光設置「100万キロ・ワット発電」30年までに 義務化巡り都試算」『読売新聞オンライン』、2022年12月8日。2023年1月28日閲覧。
- ^ a b 「朝鮮人虐殺でコメントせず 松野官房長官「政府記録なし」」『47NEWS』、2023年8月30日。2023年8月30日閲覧。
- ^ a b c “朝鮮人虐殺「事実関係を把握できる記録ない」と松野官房長官が発言→誤り。防衛省も「文書保管」を認める国会答弁”. ハフポスト (2023年9月1日). 2023年9月1日閲覧。
- ^ a b “令和5年8月30日(水)午前 官房長官記者会見”. 首相官邸 (2023年8月30日). 2023年9月1日閲覧。
- ^ “「朝鮮人虐殺、政府内に記録が見当たらない」、松野官房長官の発言はやっぱり「ウソ」じゃないですか?”. 現代ビジネス. 講談社. 2023年9月1日閲覧。
- ^ “災害教訓の継承に関する専門調査会報告書(1923 関東大震災第2編)”. 防災情報のページ. 内閣府. 2023年9月1日閲覧。
参考文献[編集]
- 一倉喜好『近代群馬の行政と思想』 その1、一倉喜好(私家版)、1984年11月1日。NDLJP:9643334。(要登録)
- 岩佐和幸「世界都市大阪の歴史的形成 —戦間期における朝鮮人移民の流入過程を中心に—」『調査と研究』第16号、京都大学経済学会、1998年10月10日。NDLJP:2890652。(要登録)
- 群馬県警察史編さん委員会 編『群馬県警察史』 第一巻、群馬県警察本部、1978年1月31日。NDLJP:9770169。(要登録)
- 群馬県史編さん委員会 編『群馬県史』 通史編7《近代現代1》、群馬県、1991年2月28日。NDLJP:9644520。(要登録)
- 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会「第2章 国の対応 第1節 内閣の対応」『1923 関東大震災 報告書 【第2編】』2008年3月。
- 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会「第4章 混乱による被害の拡大 第1節 流言蜚語と都市」『1923 関東大震災 報告書 【第2編】』2008年3月。
- 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会「第4章 混乱による被害の拡大 第2節 殺傷事件の発生」『1923 関東大震災 報告書 【第2編】』2008年3月。
- 印刷局「職員録」大正12年、印刷局、1923年。
- 広島県 編『広島県史』《近代2 通史Ⅵ》広島県、1981年3月31日。NDLJP:9574957。(要登録)
- 大島美津子 著「第2章」、横浜市 編『横浜市史』 第5巻《下》、横浜市、1976年3月31日。NDLJP:3015057。(要登録)
- 西崎雅夫 編『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』筑摩書房〈ちくま文庫(に-19-1)〉、2018年8月10日。ISBN 978-4-480-43536-1。
- 加藤直樹『九月、東京の路上で ―1923年関東大震災 ジェノサイドの残響―』ころから、2014年。ISBN 978-4907239053。
- 加藤直樹『TRICK トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち』ころから、2019年。ISBN 978-4907239398。
- 山本美 編『大正大震火災誌』改造社、1924年6月5日。NDLJP:967928。(要登録)
- 山田, 昭次 (2004), 朝鮮人虐殺関連新聞報道史料1, 関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料Ⅴ, 緑蔭書房, ISBN 4-89774-258-7
- 山田, 昭次 (2004a), 朝鮮人虐殺関連新聞報道史料2, 関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料Ⅴ, 緑蔭書房, ISBN 4-89774-258-7
- 山田, 昭次 (2004b), 朝鮮人虐殺関連新聞報道史料3, 関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料Ⅴ, 緑蔭書房, ISBN 4-89774-258-7
- 山田, 昭次 (2004c), 朝鮮人虐殺関連新聞報道史料4, 関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料Ⅴ, 緑蔭書房, ISBN 4-89774-258-7
否定するもの[編集]
- 工藤美代子『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』産経新聞出版、2009年12月。ISBN 978-4819110839。
- 加藤康男『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(ワック、2014年8月、ISBN 4898317030)は工藤が文庫版にするにあたって夫名義に変えたもの。
関連文献[編集]
- 新井勝紘『関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を読み解く』新日本出版社、2022年8月10日。ISBN 978-4-406-06681-5。
- 『現代思想』2023年9月臨時増刊号 総特集=関東大震災100年、青土社、2023年8月8日。ISBN 978-4-7917-1450-6。
- 田原洋『関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する』岩波書店〈岩波現代文庫(社会272)〉、2014年8月20日。ISBN 978-4-00-603272-2。
関連項目[編集]
- 常泉寺 ‐ 犠牲者の個人名の彫られた墓や慰霊碑が現存
- 王希天
- 関東大震災犠牲同胞慰霊碑
- 関東大震災中国人虐殺事件
- 熊本地震 - 関東大震災において流布された「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」とのデマを模倣したツイートが行われ不安を煽った。21世紀の現在では釣瓶を用いる開放型井戸は存在しない。
- 瑞穂事件 - 1945年8月20日から8月23日にかけて南樺太の真岡郡清水村瑞穂で27人の朝鮮人が日本人により惨殺された事件。
- シボレス (文化) - 朝鮮語を母語とする者は「ガ行」の発音が不得意だったため「15円50銭」とうまく話せない者を朝鮮人と見做した。
- 解放令反対一揆
- ジェノサイド
- ホロコースト
- フェイクニュース
- リンチ
外部リンク[編集]
- 中央防災会議|災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成21年3月|1923 関東大震災【第2編】 - 防災情報のページ(内閣府)
- 『朝鮮人虐殺事件』 - コトバンク
- 関東大震災における朝鮮人虐殺――なぜ流言は広まり、虐殺に繋がっていったのか(加藤直樹×山田昭次×荻上チキ)(2014年11月10日) - SYNODOS
- 震災直後の首都圏で何が起きたのか?――国家・メディア・民衆(山田昭次)(2015年9月2日) - SYNODOS
관동대지진 조선인 학살 사건
칸토 대지진 조선인 학살 사건 (칸토우다이신사이쵸센진갓사츠지켄, 아침 : 관동대학살)이란, 1923년 ( 다이쇼 12년)의 일본 에서 발생한 관동 지진 · 관동 대지진의 혼란 속에서 ‘ 조선인 과 공산주의자 가 우물 에 독 을 넣었다’는 시위 가 흘러, 그것을 믿은 관헌 과 자경단 등이 다수의 조선인 과 공산주의자를 학살 한 사건이다. 정확한 희생자 수는 불분명하지만, 논자의 입장에 의해, 추정 희생자수에 수백명 내지 약 6000명과 매우 폭넓은 차이가 있다[1 ] .
개요 [ 편집 ]
지진 재해시 [ 편집 ]
지진 재해 전, 카토 토모 사부로 총리가 병사했기 때문에, 내각이 총사직 해, 1923년(다이쇼 12년) 8월 28일, 야마모토권 병위에 조각 명령이 내려져 있었다 [2] [3] . 지진 재해 당일의 9월 1일 밤반에는 임시 총리·우치다 야스야 아래에서 각의가 열리고 , 2 일 오전 9시에는, 비상징 발령[주 1] , 임시 지진 재해 구호 사무국 관제, 계엄에 관한 칙령 [주 2] 가 발행되었다 [2] [6] .
지진 재해 후, 이미 1일부터, 조선인 폭동의 유언이 유포하고 있어, 2일 정오까지는 도쿄 전시·요코하마 전시에 전해졌다 [7] . 이것은 주민의 구전뿐만 아니라 관헌 의 조치에 의한 것도 크다 . 유언이 전파되어 관동 전체가 동란의 정세에 이르렀던 것은 경찰의 '대추형 선전'에 의한 것으로 하고, 경찰이 '무근의 유언 蜚語을 유포하여 민심을 소란시키고, 진화재의 참상을 한층 크게 그렇다면 "책임을 져야한다"고 지적하고 비판하고있다 [8] .
게다가 이것을 관동 일엔이나 다른 지역에 전파시킨 것으로서, 「요코하마시사」는, 예를 들면, 당시, 정부의 통신문을 모두 타전하고 있던 해군성 후나바시 송신소가, 9월 3 일 오전 8시, 내무성 경보국장 으로부터 각 지방 장관을 향해 다음과 같이 타전한 것을 꼽는다 [8] [9] .
도쿄 부근의 지진 재해를 이용해, 조선인은 각지에 방화해, 불명의 목적을 수행하지 않게 하고, 현에 도쿄 시내에 있어서 폭탄을 소지해, 석유를 부어 방화하는 것 있어. 이미 도쿄부 아래에는 일부 계엄령을 시행했으나, 각지에 있어서 충분히 주밀한 시찰을 더해 선인의 행동에 대해서는 엄밀한 단속을 가했고. [8] [9]
또, 요코하마에서는, 9월 2일 오후 8시, 요코진 장관발, 해군 장관 앞으로 전문으로, “오늘 10시 요코하마 도착 경비정의 정황 보고의 요령 왼쪽과 같이.1, 1일 오전 10 한때 58 분 격진 방파제 세관을 파괴하고 전시의 가옥 도괴하고, 폭파소들에게 일어나 불신한 사람의 방화와 상하 전시 불의 바다로 되어 …
이들 정부 당국자에 의한 타전이나 언명이 폭동을 마치 사실인 것처럼 믿게 하고 조선인에 대한 극도의 증오를 낳는 결과가 되었다[2 ] . 당시 반신 반의였지만 경찰 정보이기 때문에 믿었다는 사람이 많다고 '요코하마시사'에서 오오시마 미츠코는 말한다[ 2] .
이 내용은 행정기관 이나 신문, 민중 [ 요출전 ] 을 통해 퍼져, 조선인 이나, 잘못된 중국인 , 내지인인 곳의 일본인 ( 납자 , 방언을 말하는 지방 출신자 등)이 살상된다 피해가 발생했다.
도쿄 일일신문(16867호)에 「불을 풀어 생존에 시달리는 우시고메」 「비와 불과 조선인과의 3방 공격」이라고 부르는 제목으로 다음과 같은 기사가 실려 아츠타. “불에 휩쓸리지 않은 유일한 땅으로 남겨진 우시고메의 이틀밤은 불신인의 방화 및 우물에 독약 투하를 경계하기 위해 청년단 및 학생의 유지들은 경찰, 군대와 협력해 , 철연하고, 요코쵸마다 줄을 치고 만명을 부과해, 통행인을 누구 하는 등 긴장해, 각 자동봉, 단도, 겨드랑이를 휴대하는 등 살기 시작, 초중학생등도 동봉을 들고 집의 주위를 경계해, 목적지 재외 거류지에 있어서의 용병 출동의 느낌을 나타냈다.이치가야초는 고지마치 롯쵸메로부터, 히라카와마치는 바람 아래의 관계로부터(이소 신문지 찢어져 불상) 또 삼일 아침 인련의 선인이 우물에 고양이 이라즈를 투입하지 못하는 현장을 경계원이 발견해 즉시 체포했다. 을 이루는 '라고 말하자면 아래와 같은 기사가 기재되어 있었다. “도쿄부 시모오시마 부근은 다수의 선인과 지나인이 빈집에 들어가, 야간 왕에게 탈탈 강간을 하고, 또 사회주의자는, 시군에 있는 대다수의 선인이나 지나인을 선동해 내지인 와 싸움을 이루고, 그리고 관헌과 지방인과의 난투 내란을 일으키도록 노력하고 있는 용서가 아니라 다수 이재민의 울음을 듣고, 그들은 혁명가를 고창해 있기 때문에 , 시민의 격상은 그 국에 이르고 있다.” [11]
지진 재해 당초의 신문 보도는 하기 등이다.
죽창 이나 일본도 , 총 등으로 무장한 민간인이 자경단을 결성해 조선인 (그리고 그들에게 잘못된 중국인)을 살해하기 시작했다. 조선인과 오해되어 중국인이 희생된 사건, 오키나와·아키타·미에 출신자가 희생된 검견천 사건이나 아키타 출신자가 희생된 츠마누마초 사건[14], 가가와 출신의 집 9 이름이 희생된 후쿠다무라 사건 등 지방 출신의 일본 내 지인도 살해당했다.
또 조선인 희생자 이외에도 사회주의 나 무정부주의 의 지도자를 살해한 움직임이 있어 무정부주의자의 오스기에이, 이토노에다, 오스기의 6세의 조카 · 타치바나 종이 등 이 죽였다甘粕 사건 , 사회주의자 10명이 희생된 카메이도 사건 도 일어났다.
일본의 치안 당국의 대응 [ 편집 ]
자경단으로부터 조선인·중국인 수백명을 지킨 오가와 조요시·가나가와 경찰서 쓰루미분 서장과 같이, 폭도에의 단속 및 사상자를 수반하는 폭도와의 충돌이나, 요코하마 의 조선인 226명을 9월 23 날에 요코스카 의 불입두련병장 육군포창에서 보호수용해 임시치료소를 개설하는 등의 움직임이 있었다 [15] .
9월 7일에 치안 유지법 의 전신이 되는 긴급 칙령이 발포되고 있었다.
지진 재해의 배경 [ 편집 ]
한국병합과 그 영향 [ 편집 ]
1905년 (메이지 38년), 을사보호조약 (제2차 한일협약)부터 일본에 의한 한국 의 영유가 시작되었다 [16] . 1910년 (메이지 43년) 8월 29일, 일본은 「한국 병합에 관한 조약」을 체결해, 조선의 일체의 통치권이 「완전 그리고 영구」에 일본에 「양여」되었다(제1조) [ 16] .
병합 이후 본격화된 ' 토지조사사업 '에 따라 조선농민은 조선전래의 토지를 다루어 농촌 생활이 어려워진 많은 조선인들이 일본과 만주로 이주하게 되었다[17 ] ] .
1919년 (다이쇼 8년)에 일어난 3·1독립운동 의 영향을 우려한 조선총독부 는 같은 해 '조선인의 여행 단속에 관한 건'을 공포해 , 도항을 경찰에 신고 허가제로 했다 [18] [19] . 그 후 일본의 식량 부족을 잘라내기 위해 조선총독부는 1920년 (다이쇼 9년)부터 ' 산미증식계획 '을 실시했다 [18] . 그 결과, 일본에 의한 조선에서의 토지 수탈이 한층 진행되고, 다시 일본에서의 조선 인구는 증가했다 [18] .
1922년 (다이쇼 11년), 만성적인 불황하의 일본에 있어서, 자본가가 저렴한 노동력을 필요로 했기 때문에, 조선인의 도항에 대해서, 신고 허가제로부터 「자유 도항제」로 전환되었다[18 ] [19] . 이에 따라 일본으로 옮기는 조선인은 더욱 늘어나게 되었다 [18] . 정부는 일본의 실업문제 악화를 우려하고, 1923년(다이쇼 12년)에 「조선인 노동자 모집에 관한 건」, 1924년(타이쇼 13년)에 「조선인에 대한 여권 증명서의 건 」 , 1925 년 (다이쇼 14년)에는 부산항 에서 「도항 저지제」를 실시했다 [20] .
당시 일본 정부는 지진 발생 전에 일어난 조선의 삼·일 독립운동이나 대만의 대규모 시위를 유혈진압한 경험으로 이들 통치령의 독립운동을 하는 일부 민중의 저항에 경계감 을 안고 있었다 [21] . 당시 조선인에 대한 무이해와 민족적인 차별의식도 배경으로 생각된다 [22] . 일본 국내에서는 다이쇼 데모 클래시 에 의해 노동운동 · 민권운동 ·여성운동 등 지배권력에 대한 사회주의자들의 저항·권리확대운동의 활성화와 거기에 대항하는 보수적 세력의 급신, 총리암살이나 공황에 의한 정치 경제 로 의 불안으로부터 사회 체제가 흔들리고 있었다 [21] . 또, 국외에서도 영국·미국과의 대립, 시베리아 출병의 대실패 등으로부터 국제적인 고립화를 깊게 하고 있어, 관동 대지진은 이른바 내우외환의 상태를 쫓아내도록(듯이) 일어난 대재해였다[ 21 ] .
야마모토 내각은 9월 7일 치안 유지령을 공포했다. 이 계엄령이 해제된 11월 15일까지의 도쿄·가나가와·사이타마·지바의 재해지 1부 3현민의 시민적·정치적 자유가 정지한 상태 중에서, 대지진 발생 직후의 9월 1일 오후 3시 이후, 도쿄나 요코하마 등에서 「사회주의자 및 선인의 방화 많음」 「불명선인 폭동」이라고 하는 시위가 발생해 갔지만, 시위 중에는 경찰이나 군이 흘린 것도 있다 [23 ] . 이들 보도나 전문에 의한 소문에 접해 불안을 부추긴 각지의 민중과 유지에 의해 자경단이 결성되었지만, 일부 지역의 관할경찰의 주도·지도로 조직된 자경단도 있었다. 이들 자경단의 일부에 의해 조선인·일본인·중국인들이 학살되어 갔다 [23] .
육군과 경찰은 이 혼란을 기화로 사회주의자나 노동운동가들의 말살을 획책하고, 10명이 군대에 학살된 카메이도 사건 및 무정부주의자가 헌병 대위들에게 살해된 감옥 사건 이 실행 되고 하지만 이런 ‘ 백색 테러 ’에 대한 책임 추궁과 비판은 저조했다. 당시의 사회에 있어서는 치안 유지와 피해자 구호 활동의 일환이며, 군이나 정부나 경찰이 위신을 되찾았다고 환영받는 상황이 되고 있었다[23 ] .
일본 내지에 거주하던 조선인의 인구 [ 편집 ]
경시청 관방 특별 고등과에 설치되어 있던 내선 고등계에 의하면, 지진 재해 당시에 재경하고 있던 조선인은, 상세하게 상황을 알 수 있는 사람 6500명, 그 외, 5000~6000명이 인정되어, 총 1만명 이상은 전시 및 접속군부에 있었다 [24] . 그 중 학생은 1500~1600명이었지만, 그 대부분은 여름 휴가 때문에 귀성 중이었다 [24] . [주 3]
다이쇼 9년(1920년) 국세조사 에 의하면, 남성 36,043명·여성 4,712명의 조선인(도쿄 남성 2,304명 여성 181명, 가나가와 남성 725명 여성 57명, 지바현 남성 36명 여성 4명, 사이타마현 64명 여성 14명, 아이치현 남성 522명 여성 143명, 교토 남성 823명 여성 245명, 오사카 남성 5,445명 여성 845명, 효고 남성 3,059명 여성 711명, 후쿠오카 남성 7,161명 여성 672명) 에 거주하고 있었다 [26] .
1930년 국세조사에 따르면 419,009명의 조선인(도쿄 38,355명, 가나가와 13,181명, 치바현 1,728명, 사이타마현 1,164명, 아이치 35,301명, 오사카 96,943명, 6명 병 27 이름, 후쿠오카 34,639명)이 거주하고 있었다 [27] .
희생자 수와 혜택 [ 편집 ]
정확한 희생자 수는 불분명하지만, 2008년 3월 중앙 방재회의 에서는 지진 전체의 희생자의 1~수퍼센트가 살해에 의한 것으로 추정되고 있다(즉, 1천~수천명 ) 28] . 당시 관청 기록으로는 사법청 보고서에서는 민간에서 살해하고 기소된 건수로 조선인 233명, 내지인 58명, 중국인 3명 [주 4 ] [ 30 ] . 계엄업무상보에 의하면 군에 의해 살해된 인원수는 적어도 조선인 39명, 내지인 27명, 군민공동의 살해에 의한 희생자로서 조선인 약 215명(중 약 200은 중국인과의 설 있음)으로 이다 [31] . 내무성은 248명, 조선총독부 도쿄 출장원은 전망수로 813명을 들고 있다. 조선인 희생자에게는 사망 원인이 재해인지 학살인지 구별하지 않고 1인 200 엔 [32] 에 지불되었다 [33] .
종류 | 사법성 보고서 게재 | 계엄업무상보 게재 | 합계 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
기소사건 | 경찰에 의한 | 군통패 불명 | 군대에 의한 | 경찰·민간인 공동 | |||||
피해자 | 조선인 | 내지인 | 중국인 | 내지인 | 조선인 | 조선인 | 내지인 | 조선인 | |
도쿄 | 39 | 25 | 1 | 2 | 27 | 19 | 약 215 | 약 328 | |
가나가와 | 2 | 4 | 2 | 8 | |||||
지바 | 74 | 20 | 1 | 12 | 8 | 115 | |||
사이타마 | 94 | 1 | 95 | ||||||
군마 | 18 | 4 | 22 | ||||||
도치기 | 6 | 2 | 8 | ||||||
이바라키 | 1 | 1 | |||||||
후쿠시마 | 1 | 1 | |||||||
합계 | 233 | 58 | 3 | 2 | 1 | 39 | 27 | 약 215 | 약 578 |
주: 계엄업무상보 게재 경찰 민간인 공동 피해자 중 약 200개는 중국인과의 설 있음 |
사학자 야마다 아키지는 상하이 대한민국 임시정부기관지 '독립신문( 김승학 사장)' 1923년 11월 5일자로 보도된 조선인조사단 보고서의 6661인설이 부정확한 숫자인 원인은 관헌의 피해은폐로 지적했다 [34] [35] [36] .
“조선인의 희생자수는 재일본 관동지방 이재 조선동포 위문반이 관헌의 협력을 얻지 못한 채 조사를 진행했다. 전후가 되어 발표한 것이 있다.모두 장소와 인원수의 기재로, 합계는 요시노 원고가 2,613여명……최씨의 것이 2,607여명 또는 3,459여명……최씨에 의하면, 위문 단은 이 조사에 근거해 희생자수를 5천명으로 추정했다고 한다.여기의 조사의 최종 보고로 되는 것이, 11월 28일자로 상하이의 대한민국 임시 정부 기관지 「독립 신문」 사장에게 송부 12월 5일에 동지에 게재되었다.이것은 합계 6,661명(현재 내역을 재계산하면 6,644명이라고 야마다 아키지 씨가 지적하고 있다)에 이르지만, 그 중 가나가와현에서 시신을 발견 할 수 없었던 1,795명과 제1차 조사를 종료한 11월 25일에 각 현으로부터 보고가 왔다고 하는 추가분 2,256명은, 부현명만으로 그 이하의 지명은 기재되어 있지 않다.야마다 쇼지씨는 , 사이타마현에 관한 수치를 검증해, 이 추가분을 산입하지 않는 쪽이 현재까지 얻을 수 있는 다른 정보와 가까운 것을 지적해, 「추가 합계수의 근거를 오늘 해명할 수 없다」라고 하고 있다. "
— [37]
2013년 11월 도쿄한국대사관 신축 이전 작업 중 관동대지진 한국인 희생자 290명의 명부가 처음 발견됐다 [38] . 일본 지진 재해시 피살자 명부 286명을 조사한 결과 28명의 희생자를 확인하고 2015년 12월 보도되어 제1차 조사와 함께 한국 정부 인정의 관동 대지진 시 학살 희생자는 총 40명 되었다 [39] .
하나, 요코하마 방향 | |||
---|---|---|---|
1. 가나가와현 하시모토초 아사노 조선소 앞 광장 | 학살(현금 500엔 강탈) | 48 | 이름 |
2. 가나가와 경찰서 내 | 순찰 자살 | 세 | 이름 |
3. 程ヶ谷町 | 학살 | 삼십일 | 이름 |
4. 우물가야초 | 우동(현금 2백엔 강탈) | 삼십 | 여명 |
5. 네기시초 | 오른쪽 | 삼십오 | 이름 |
6. 히지카타바시에서 하치만바시까지 | 오른쪽 | 백삼 | 이름 |
7. 나카무라초 | 오른쪽 | 두 | 이름 |
8. 야마테초 매지 | 오른쪽 | 하나 | 이름 |
9. 고텐마치 부근 | 오른쪽 | 40 | 여명 |
10. 야마테 혼마치 경찰 서립 노 교번소 앞 | 오른쪽 | 두 | 이름 |
11. 와카야 별장 부근 | 오른쪽 | 십 | 여명 |
12. 신코 야스마치 | 오른쪽 | 십 | 이름 |
13. 코안쵸에서 가나가와역까지 | 오른쪽 | 159 | 이름 |
14. 가나가와 철교 | 오른쪽 | 오백 | 여명 |
15. 도카이도선 지가사키역 앞 | 오른쪽 | 두 | 이름 |
16. 구라기군 가나자와무라 | 오른쪽 | 십이 | 이름 |
17. 쓰루미초 | 오른쪽 | 일곱 | 이름 |
18. 가와사키 | 오른쪽 | 네 | 이름 |
19. 쿠보초 | 오른쪽 | 삼십 | 여명 |
20. 도베 | 오른쪽 | 삼십 | 이름 |
21. 아사마초 오아사마산 | 오른쪽 | 40 | 이름 |
22. 도야마, 카모야마 | 오른쪽 | 삼십 | 이름 |
이상 시체 매장지급수 1. 쿠보산 화장터 천여명(요코하마 부근 피해자) 아오키초 미쓰자와 공동묘지 2백명(가나가와 부근 피살) 3. 가나자와촌(불상) 4. 지가사키초 구 도카이도 선로 화장 5. 쓰루미초, 소지데라 야마우치 매장 6. 가와사키초 당지 매장 또는 가지고 귀국 | |||
2, 사이타마현 방면 | |||
1. 가와구치 | 학살 | 삼십삼 | 이름 |
2. 아카바네 아라카와 | 오른쪽 | 삼백 | 이름 |
3. 오미야 | 오른쪽 | 두 명 | 이름 |
4. 쿠마가야 | 오른쪽 | 육십일 | 이름 |
5. 혼조 | 오른쪽 | 86 [주 7] | 이름 |
6. 와세다무라 | 오른쪽 | 17 | 이름 |
7. 진보하라 | 오른쪽 | 24 | 이름 |
8. 기거 | 오른쪽 | 십사 | 이름 |
9. 나가사와 | 오른쪽 | 십사 | 이름 |
세, 군마현 | |||
1. 후지오카 | 학살 | 18 | 이름 |
4, 지바현 | |||
1. 나라시노 군영 쿠라우치 | 학살 | 십이 | 이름 |
2. 후나바시 | 오른쪽 | 삼십팔 | 이름 |
3. 법전촌 | 오른쪽 | 육십사 | 이름 |
4. 지바시 | 오른쪽 | 두 | 이름 |
5. 유산 | 오른쪽 | 하나 | 이름 |
6. 남행덕 | 오른쪽 | 두 | 이름 |
7. 마바시 | 오른쪽 | 일곱 | 이름 |
8. 다나카무라 | 오른쪽 | 하나 | 이름 |
9. 사하라 | 오른쪽 | 일곱 | 이름 |
10. 활천 | 오른쪽 | 두 | 이름 |
11. 나리타 | 오른쪽 | 두 | 이름 |
12. 아손자 | 오른쪽 | 세 | 이름 |
오, 나가노현 | |||
1. 카루이자와 주변 | 학살 | 두 | 이름 |
6, 이바라키현 | |||
1. 쓰쿠바 혼마치 | 학살 | 사십삼 | 이름 |
2. 츠치우라 | 오른쪽 | 하나 | 이름 |
일곱, 도치기현 | |||
1. 우츠노미야 | 학살 | 세 | 이름 |
2. 에나스군 | 오른쪽 | 하나 | 이름 |
하치, 도쿄 부근 | |||
1. 츠키시마 | 학살 | 삼십삼 | 이름 |
2. 카메이도 서내 | 오른쪽 | 87 | 이름 |
3. 고마쓰초 | 오른쪽 | 46 | 이름 |
4. 테라시마 청지 | 오른쪽 | 22 | 이름 |
5. 테라시마 경찰서 내 | 오른쪽 | 십삼 | 이름 |
6. 무코지마 | 오른쪽 | 삼십오 | 이름 |
7. 테라지마 테이역 | 오른쪽 | 일곱 | 이름 |
8. 스자키 비행장 부근 | 오른쪽 | 26 | 이름 |
9. 니혼바시 | 오른쪽 | 5 | 이름 |
10. 후카가와니시마치 | 오른쪽 | 십일 | 이름 |
11. 오시가미 | 오른쪽 | 오십 | 이름 |
12. 혼쇼구 잇쵸메 | 오른쪽 | 네 | 이름 |
13. 오시마 시치쵸메 | 오른쪽 | 네 | 이름 |
14. 오시마 산쵸메 활동 사진관 내 | 오른쪽 | 26 | 이름 |
15. 오시마 핫초메 | 오른쪽 | 백오십 | 이름 |
16. 고마쓰카와 신마치 | 오른쪽 | 일곱 | 이름 |
17. 아사쿠사 공원 내 | 오른쪽 | 세 | 이름 |
18. 카메이도역 앞 | 오른쪽 | 두 | 이름 |
19. 후추 | 오른쪽 | 세 | 이름 |
20. 세타가야, 산겐자야 | 오른쪽 | 두 | 이름 |
21. 신주쿠역내 | 오른쪽 | 두 | 이름 |
22. 요 츠야 미츠케 | 오른쪽 | 두 | 이름 |
23. 아즈마 다리 | 오른쪽 | 팔십 | 이름 |
24. 우에노 공원 내 | 오른쪽 | 십이 | 이름 |
25. 센주 | 오른쪽 | 십일 | 이름 |
26. 왕자 | 오른쪽 | 팔십일 | 이름 |
오른쪽 합계 2천6백33인 〔히가시오요시노 분고〕 |
각 지역의 상황 [ 편집 ]
사이타마현 [ 편집 ]
혼조 사건 [ 편집 ]
군마현 [ 편집 ]
군마현 에서는, 1923년(다이쇼 12년) 9월 3일, 사나 고군 군장 으로부터 마을촌장으로 향하는 통달 로, 「도쿄부 하진 화재시에 죄수 다수 탈출, 또 불신선폭행 유유타루야 듣고 및 후처, 경계의 엄중이 됨에 따라, 시등 불명의 학생 몇시 당 지방에 들어가는 대로 측정하기 어려운 후조, 이때 경비대를 조직해, 경계를 엄중하게 할 수 있도록”(현 행정 문서) 그 결과, 현내에서 469의 자경단이 조직되었다 [41] .
4일에는 다카사키역 에서 조선인이 자경단의 검문에 걸려, 단봉으로 때려 입원했다 [42] . 이날 군마현은 조선인 폭동 등은 사실 무근이라고 하고 침묵화를 도모했지만 효과는 없었다[42 ] .
후지오카 사건 [ 편집 ]
후지오카 자경단은, 조선인을 습격해 17명을 참살했다 [42] .
의회의 움직임 [ 편집 ]
1923년(다이쇼 12년) 12월, 중의원 이 개회 했다 [43] . 같은 달 14일의 타부치 토요요시 ( 무소속 ), 15일의 나가이 야나기타로 ( 헌정회 ), 23일의 타카야나기 타로 , 미나미아키산 등이, 조선인 학살에 대해 정부를 물었다 [43] .
타부치 의원은 “나는 내각제공이 가장 슬퍼해야 할 곳의 대사건을 한마디 절도 붙여주지 못한다는 것은 매우 분개와 슬픔을 가진 자입니다… 되었다 대사건을 불문에 좋을까?”라고 말했지만, 야마모토권 병위 총리는 응답을 보류했다 [44] . 다음 15일, 나가이 의원은, 전날의 타부치의 발언을 정부가 묵살한 것을 문제로 했다 [45] . 또 이 사건에 대해 “전책임은 꼽고 자경단에 살고 있는 것처럼 보이는 것은 국민사상의 향상발전을 위해 본원은 유키를 슬퍼할 수밖에 없다”고 말했다 . 45] .
이날, 귀족원 에서는, 남작 ·후지무라 의원은, 정부나 군, 재향군 인단, 청년단을 칭찬했다 [45] . 귀족원에서는 조선인 학살 사건은 다루지 못했다 [45] .
또, 나가이 의원은, 조선인 폭동의 유언에 대해 “당시의 내무성의 최고관으로부터 발행되었으므로, 그 명령에 접했던 곳의, 각지에 있어서의 지방 장관은, 또, 그 명령을 관하 군 관청 에 전, 관하 군 관공서는 또한 유키를 관하 마을에 전달하기 위해 노력한 결과, 그의 자경단의 조직을 보는 데 이르렀다 "고 말하면서 조선 통치의 책임을 추궁했다 [45] .
야마모토 총리로부터 진사의 말은 나오지 않았고, 「목하 취조 진행중」이라고 답변으로 중단을 도모했다 [46] . 다만, 내상 · 고토 신헤이 로부터는, “불행하게 해서 범죄인으로 없는 자의 해를 입은 자가 절대로 없다고 말하는 것은 물론 말할 수 없는 것입니다”라고, 학살의 사실을 인정하는 발언이 있었다 [47] .
당시의 증언 등 [ 편집 ]
- 쿠로사와 아키라의 자전 『파단의 기름——자전과 같은 것——』 중에서는, 당시 13세였던 쿠로사와의 관동 대지진시의 체험이 말해지고 있다[48 ] . 그 가운데, 쿠로사와의 아버지가 긴 수염을 낳고 있다는 이유로 조선인에게 잘못되어 폭도에 둘러싸인 이야기나, 쿠로사와가 우물 밖의 담에 쓴 낙가키를 마을 사람들이 “조선인이 우물에 독을 넣은 표식"이라고 오해하고 소란이 된다는 에피소드가 있다 [48] [49] .
- 작가의 아쿠타가와 류노스케 는 이 자경단에 참가해 활동을 하고 있었던 것을 알고 있지만, 「혹은 자경단원의 말」(「문예 춘추」 단의 이상한 살육행위에 대해 “자연은 유냉연하게 우리의 고통을 바라보고 있다. 우리는 서로 자비해야 한다. 논의를 이기는 것보다도 간편하다”고 비판을 하고 있다. 또한, 아쿠타가와의 「대진 잡기」[50] (『중앙 공론』1923년 10월호)의 5장에서는, 조선인에게의 허위의 소문을 믿는 민중을 「선량한 시민」이라고 야기하는 등, 지진 재해 이후 일련의 살해 사건에 대해 비판적 시점을 가지고 있던 것을 알고 있다 [51] .
- 오키나와 출신의 역사학자 히카 하루시오 는 당시 요도바시 (현 신주쿠구 )에 살고 있었다 [52] . 지진 후 며칠이 지난 밤, 자경단이 자택을 방문해, 「조선인일까」 없는가」라고 밀어문답이 되었다 [53] [54] . 몸의 위험을 느끼고, 요도바시서에 아마미오시마 출신의 순사가 있었기 때문에, 경찰에서 흑백 붙이려고 들고 [55] . 그러나, 데려간 것은 이웃의 교번으로, 여기에서도 같은 교환을 반복하고 있는 사이에, 일본도를 가진 자경단의 한 사람이 「네 , 귀찮아 . 54] . 그래도 어떻게든 요도바시서에 가게 되어, 무사히 끝났다 [57] [54] . 또, 행방을 모르고 있던 조카의 봄뱃은, 「조선인이다」라고 외치는 자경단에 곤봉으로 때려져, 머리에 붕대를 감아, 혈풀을 넘어뜨린 상태로 이이다바시서에 유치되고 있었다[ 58 ] [54] .
신문 [ 편집 ]
- 1923년(다이쇼 12년) 9월 8일, 아키타 아키라 신보 는, 시평란에서 “내지인만 성인 군자이며 선인은 도망의 말손이라고 하고, 그 죄를 일신에 짊어지는 엄청난 성가신 천만 왜냐하면, 특히 그들 가운데 불멸의 계획을 이루는 사람이 있다는 이유로 선인들조차 보면 경찰은 가마의 눈매의 눈으로 경계하고 부족한 일종의 사형을 가후의 것조차 있는 것은 조선 장래의 통치상급 정책상 중대한 누를 미치는 것이 아니고 무엇일까”라고 지적했다[59 ] .
내열 [ 편집 ]
1924년 개조사가 내놓은 '다이쇼 대진 화재지'에 요시노 작조 의 '노동운동자급사회주의자 압박사건'이 게재되어 있다 [60] . 이 항의 마지막에는, 편자의 「거절」으로서, 「법학 박사 요시노 작조씨 집필 「조선인 학살 사건」 및 우치다 루안씨씨[엄마] 집필 「자경단과 살상 사건」의 두편 은 , 모두 풍부한 자료와 세세한 검토에 의하여 생긴 뼈뼈 고심의 호문자인데, 경근의 내열을 거친 결과 유감이면서 전부 할애할 수 없는 범람에 이르렀다"고 기록되어 있다 [60] .
기타 [ 편집 ]
고이케 유리코·도쿄도 지사의 대응 [ 편집 ]
매년 9월 1일, 도립 요코 미네마치 공원 ( 스미다구 )에서는, 관동 대지진 때에 학살된 조선인을 위령하기 위한 식전이 시민 단체의 주최로 행해지고 있어, 도쿄도 지사 가 추도문 을 전하는 것이 항례가 되고 있었다 [62] .
도쿄도의 고이케 유리코 지사는, 2017년 8월, 식전에 추도문을 보내는 것을 멈췄다 [62] . 또한, 2016년에는 송부하고 있었다 [62] .
2017년 3월 도쿄도 의회 에서 자민당 도의가 학살의 희생자 수에 대해 이론이 있다고 하여 "향후는 추도사의 발신을 재고해야 한다고 생각한다"고 요구했다[62 ] . 이에 대해 고이케 지사 는 “추도문은 매년 관례적으로 송부해 왔다 .
2022년 12월의 토의회에서는, 입헌 민주당 의 나카무라 요시토의가, 학살 사건에 대한 코이케 지사의 인식에 대해 질문한 것에 대해, 코이케 지사는 “재해와 다양한 사정으로 죽은 모든 분들에게 애도의 뜻 를 나타내고 있다”고 대답했다 [63] .
키시다 내각·마츠노 관방 장관의 발언 [ 편집 ]
키시다 후미오 내각 의 내각 관방장관 · 마츠노 히로이치 는, 지진 재해 발생 100년을 2일 후에 앞둔 2023년 8월 30일, 총리 관저에서의 기자 회견에 있어서, 공동 통신의 기자로부터, 관동 대지진 의 기록 에 대해서 “당시 피해지역에서는 루머가 퍼져 많은 조선인이 군, 경찰, 자경단에 의해 학살되었다고 전해지고 있습니다. 정부로서 조선인 학살을 어떻게 받아들이고 무엇을 반성점으로 하고 있는지” 등 질문을 받았다 [64] [65] [66] .
이에 대해 마츠노는 “정부로 조사한 한 정부 내에서 사실관계를 파악할 수 있는 기록이 보이지 않는 곳입니다” 등이라고 말했다[64][65] [ 66 ] .
그러나 이것은 실수로, 예를 들어 2009년 중앙방재회의에 설치된 ‘재해교훈의 계승에 관한 전문조사회’가 정리한 관동대지진에 관한 보고서 속에 조선인 학살에 관한 기재가 있다[ 65 ] [67] [68] .
재해지에서는 조선인 폭동의 유언에 따라 민간 자경단에 의한 조선인에 대한 폭행, 학살 등 살상 사건이 일어나고 있었다. 혼란 속 진위를 확인할 수 없는 채 관헌도 유언을 사실로 오인해 행동했다. 이것이 관헌 자신의 손에 의한 조선인 살상 사건을 일으켜, 또 자경단의 폭주를 조장하는 결과가 되었다. [9]
소재로 한 작품 [ 편집 ]
영화 [ 편집 ]
- ' 대학살 ' - 1960년 일본 영화. 기로틴사를 소재로 한 작품이지만 초반에 관동대지진의 조선인 학살이 그려져 있다.
- 『길~백자의 사람~』 - 2012년 일본 영화. 식민지 조선에 있는 주인공인 아사카와 타케시 가 일본에 있던 아내의 동생으로부터 관동대지진과 그 직후의 조선인 학살 사건에 대해 듣는 장면이 있다.
- ' 가네코 분코와 박열(박열) ' - 2017년 한국 영화. 주인공 박열 과 가네코 분코 가 만난 관동대지진과 그 직후의 조선인 학살 사건이 그려져 있다.
- ' 국화와 단두대 ' - 2018년 일본 영화. 관동 대지진 후의 다이쇼 시대 말기가 무대. 조선인 학살을 살아남은 조선 출신의 유녀가 등장한다.
- ' 후쿠다무라 사건 ' - 2023년 일본 영화. 실제의 후쿠다무라 사건 의 피해자는 일본인이지만, 이 영화에서는 사건에 이르기까지의 조선인·사회주의자에 대한 유언이 언급되고 있어, 별건의 조선인 희생자도 묘사되고 있다.
기록문학 [ 편집 ]
- 에마 슈「양이 화를 낼 때 ─ 간토 대지진의 3일간」쓰 쿠마 서방 < 치쿠마 문고 (에-21-1)>, 2023년 8월 7일. ISBN 978-4-480-43904-8 .
- 요시무라 아키라「간토 대지진」문예 춘추 < 분춘 문고 >, 2004년 8월 10일. ISBN 978-4-16-716941-1 . (전자판 있음)
논픽션 [ 편집 ]
각주 [ 편집 ]
주석 [ 편집 ]
- ↑ 긴급 칙령 제396호 [4]
- ↑ 긴급 칙령 제399호 [5]
- ^ 내선고등계에 대해서 『경찰사전』( 1926년 )은 다음과 같이 설명하고 있다. "조선 병합되어보다 선인의 내지 도항자 해마다 증가해 점차 민족적 자각의 길에 붙는 이들은 혹은 스스로, 혹은 다른 선동으로 움직여 민족자결을 외치고 과격수단으로 나가는 것 또한 적지 않아.이 등에 대해서는 그 사상을 선도하고, 또한 보호할 필요가 있기 때문에, 경시청 총감관방 특별 고등 과내에 일계를 마련 내선 관계의 고등 경찰 사무를 장악하는 것 [25] ( 표기 는 신자체로 했다)
- ^ 이 233명이라는 숫자는 기소된 사건의 피해자수이며, 당국에 인지되어도 기소되지 않은 사건에 대해서는 고려되지 않았다[29 ] .
- ^ 이 차이는 자금의 출처가 다르기 때문이다. 일본인에 대한 미하 은행은 일본 정부로부터(예산 총액 1000만엔을 분배했기 때문에 1인당의 액면이 작아졌다)이며, 조선인에의 조의금은 조선 총독부로부터 이다 .
- ^ 요시노 작조는 혼고 교회 의 교회 회원.
- ^ 조선이재동포 위문반의 기술로는 80(80)이 되고 있어 6명의 차이가 그대로 요시노 작조와 조선이재동포 위문반의 수의 차이가 되고 있는 것, 이 이외의 숫자는 같고 있는 것 등으로부터 요시노 작조가 「80」을 「86」이라고 오기했을 가능성이 높다.
출처 [ 편집 ]
- ^ 야시마 아리유키 (2019년 9월 29일). “ 관동 대지진의 조선인 학살 사건 코이케도 지사의 추도문 불송부 등 문제가 되고 있는 배경에 다가온다” . 코리아 월드 타임즈 . 2020년 6월 28일 시점의 오리지널 보다 아카이브. 2020년 6월 28일에 확인함.
- ↑ a b c d 요코하마시 1976 , p. 81.
- ↑ 요코하마시 1976 , p. 75.
- ↑ 군마현 경찰사편 위원회 1978 , p. 580.
- ↑ 군마현 경찰 사편 위원회 1978 , p. 579.
- ↑ 중앙 방재 회의 재해 교훈의 계승에 관한 전문 조사 회 2008 제 2 장 제 1 절 , p. 70.
- ↑ 요코하마시 1976 , p. 79.
- ↑ a b c 요코하마시 1976 , p. 80.
- ↑ a b c 중앙 방재 회의 재해 교훈의 계승에 관한 전문 조사 회 2008 제 2 장 제 1 절 , 73 페이지.
- ↑ 요코하마시 1976 , pp. 80-81.
- ^ 강덕상·금금동편 『"조선인 학살 사건 법학박사 요시노 작조" 현대사자료(6) 제3부 강제수용과 조사 인민에 의한 조사』 미스즈 서방, 1963년, 358쪽.
- ^ 신기수 『영상이 말하는 ‘한일병합’사’ 노동경제사, 1987년 8월 15일 초판 발행, ISBN 4-947585-29-3, 272 쪽 .
- ^ 이소 『관동 대지진 조선인 학살―사진 보고』, 1988년 10월 7일 발행, 그림자 서방, 64~65페이지.
- ^ 아키타 아키라 신보사(2017년 9월 1일). “호쿠토 세이(9월 1일자)” . 아키타 아키라 신보 . 오리지널 의 2017년 9월 4일 시점에 있어서의 아카이브. 2017년 9월 1일에 확인함.
- ↑ 요코스카시 지진 재해 잡지 간행회 편 「요코스카시 지진 재해 잡지 : 부·부흥지」 요코스카시 지진 재해 잡지 간행회, 1932년, 133페이지 .
- ↑ a b 히로시마 현 1981 , p. 569.
- ↑ 히로시마 현 1981 , p. 570.
- ^ a b c d e 히로시마 현 1981 , p. 571.
- ↑ a b 이와사 1998 , p. 109.
- ↑ 히로시마 현 1981 , pp. 571-572.
- ↑ a b c 기사카 준이치로 「관동대지진:역사적 배경」 「일본대백과전서」쇼가쿠칸 .
- ↑ 중앙방재회의(2008년 3월). “1923 관동대지진【제2편】제4장 제2절 살상사건의 발생” . 재해교훈 의 계승에 관한 전문조사회 보고서 (내각부): 207
- ↑ a b c 기사카 준이치로 “관동 대지진: 정치적 반동과 조선인·중국인의 학살” “일본 대백과 전서” 쇼가쿠칸.
- ^ a b 야마모토 1924 , p. 73.
- ↑ 부익의위 편『경찰사전』시미즈 서점, 1926년 5월 24일, 189쪽. NDLJP : 1019613 .
- ^ 내각 통계국 (1920년). “ 국적민적별 인구-부현, 다이쇼 9년 국세조사 ”. 총무성 통계국. 2017년 9월 1일 열람.
- ^ 내각 통계국 (1930년). “ 민적 국적별 인구-부현, 총무성 통계국 쇼와 5년 국세조사 ”. 총무성 통계국. 2017년 9월 1일 열람.
- ^ a b 중앙방재회의(2008년 3월). “ 1923 관동대지진 【제2편】제4장 제2절 살상 사건 발생 .
- ↑ 중앙 방재 회의 재해 교훈의 계승에 관한 전문 조사 회 2008 제 4 장 제 2 절 , p. 209.
- ↑ 중앙 방재 회의 재해 교훈의 계승에 관한 전문 조사회 2008 제 4 장 제 2 절 , pp. 206-208.
- ↑ 중앙 방재 회의 재해 교훈의 계승에 관한 전문 조사 회 2008 제 4 장 제 2 절 , pp. 206-207.
- ^ 자경단에 살해된 선인의 수는 혼란의 때이며 시체는 일반 시체와 함께 화장에 부속되었기 때문에 사인도 구별하지 않고 따라서 정확한 수를 얻는 것이 어렵지만 조선지방관헌으로 정밀하게 조사 그 결과에 의하면 압사자 소사자 피살자 미행이 된 선인은 총체로 832명이다. 23할을 초과하는 것은 일정하지 않은 것으로 추정된다. | 미스즈 서방 간 현대 자료집 (6) 「관동 대지진과 조선인」수록 【관동 지방 지진 재해시의 조선인 문제
- ↑ 중앙방재회의(2008년 3월). “1923 관동대지진【제2편】제4장 제2절 살상사건의 발생” . 재해교훈 의 계승에 관한 전문조사회 보고서 (내각부): 209
- ^ 야마다 쇼지 「관동 대지진시의 조선인 학살-그 국가 책임과 민중 책임」창사사, 2003년, 183쪽. ISBN 4915970221 .
- ↑ 야마다 쇼지(2015년 9월 1일). “관동 대지진·조선인 학살은 “정당 방위”가 아니다 쿠도 미요코 저 “관동 대지진--”조선인 학살”의 진실”에의 비판 ” . 수를 오늘도 명확하게 할 수 없는 근본 원인은 관헌이 학살된 조선인의 시신의 은닉을 실시했기 때문이다. 주식회사 시노도스. 2017년 9월 1 일 열람 .
- ↑ 스즈키 토시오 「칸토 대지진을 둘러싼 교육 현장의 역사 수정주의」 「오하라 사회 문제 연구소 잡지」No.668, 호세이 대학 오하라 사회 문제 연구소, 2014년 6월 25일, 26페이지, ISSN 09129421 , 2017 년 9월 1일 열람 .
- ↑ 중앙 방재 회의 재해 교훈의 계승에 관한 전문 조사회 (2008년 3월). “ 1923 관동 대지진【제2편】칼럼 8 살상 사건의 검증” .재해 교훈의 계승에 관한 전문 조사회 보고서 ( 내각부 ) : 219 .
- ↑ “도쿄에서 발견 3·1운동과 관동대지진의 한국인 희생자 명부” (일본어). 연합뉴스 (서울특별시, 대한민국: Yonhap news agency). (2013년 11월 19일)
- ↑ “관동대지진 시 조선인 학살 희생자 40명 확인=한국 정부” (일본어). 연합뉴스 (서울특별시, 대한민국: Yonhap news agency). (2015년 12월 16일)
- ^ 강덕상·금조동편 『"조선인 학살 사건 법학박사 요시노 작조" 현대사자료(6) 제3부 강제수용과 조사 인민에 의한 조사』 미스즈 서방, 1963년, 360쪽. "다음에 조선인의 피해의 정도를 말한다. 之れ은 조선이재동포 위문반의 일원으로부터 들은 것이지만, 이의 조사는 다이쇼 12년 10월 말일까지의 것이고, 이후 분은 포함되어 있지 않다는 것을 주의해야 한다.".
- ↑ 군마현 사편 위원회 1991 , pp. 592–593.
- ↑ a b c 군마현 사편 위원회 1991 , p. 593.
- ^ a b Ichikura 1984 , p. 250.
- ↑ Ichikura 1984 , pp. 250–251.
- ^ a b c d e 이치 쿠라 1984 , p. 251.
- ↑ Ichikura 1984 , p. 251-252.
- ↑ Ichikura 1984 , p. 252.
- ↑ a b 니시자키 2018 , pp. 123–125.
- ^ 구로사와 아키라 『파랑의 기름——자전과 같은 것——』이와나미 서점. ISBN 978-4006020378 . [ 요점 페이지 번호 ]
- ↑ 니시자키 2018 , pp. 64–65.
- ^ 고다마 치히로 「칸토 대지진과 문호 : 나리카타 대학 도서관의 전시로부터」 「나리키쿠나문」 제47호, 나리키타 대학 문학부 일본 문학과, 2014년 3월, 86-56페이지, hdl : 10928/526 .
- ↑ 니시 자키 2018 , p. 150.
- ↑ 니시자키 2018 , pp. 145–146.
- ^ a b c d 「 살해, 폭행, 거리에서 심문… 오키나와 출신자에게 차별 의 폭력 2023년 9월 10일에 확인함.
- ↑ 니시자키 2018 , pp. 146–147.
- ↑ 니시 자키 2018 , p. 147.
- ↑ 니시자키 2018 , pp. 147–148.
- ↑ 니시 자키 2018 , p. 149.
- ^ 아키타 현편 「아키타현사」 제6권《다이쇼・쇼와편》, 아키타현, 1965년 3월 31일, 24페이지. NDLJP : 3010785 . (필요 등록)
- ↑ a b 야마모토 1924 , p. 13- 단, 이것은 「일 사회 문제」의 페이지 번호이다
- ^ “ “관동 대지진 그려진 조선인 학살을 읽는다” 서평 그림에서 밝혀지는 관민 일체로의 행위”.호서 호일. 아사히 신문사(2022년 11월 5일). 2023 년 9 월 5 일 열람 .
- ↑ a b c d e “조선인 학살의 추도문 코이케 지사 송부 배송” “요미우리 신문”, 2017년 8월 24일, 석간, 10면.
- ↑ “ 도의회 대표 질문 태양광 설치 “100만 킬로·와트 발전” 30년까지 의무화 순회도 시산” “요미우리 신문 온라인”, 2022년 12월 8일 . 2023년 1월 28일에 확인함.
- ↑ a b 「조선인 학살로 코멘트하지 않고 마츠노 관방 장관 「정부 기록 없음」」「47NEWS」, 2023년 8월 30일. 2023년 8월 30일에 확인함.
- ↑ a b c “ 조선인 학살 “사실 관계를 파악할 수 있는 기록 없다”라고 마츠노 관방 장관이 발언→오류. 방위성도 「문서 보관」을 인정하는 국회답변 ”. 허프 포스트 ( 2023년 9월 1일 ) .
- ↑ a b “ 영화 5년 8월 30일(수) 오전 관방장관 기자 회견 ”. 총리 관저 (2023년 8월 30일). 2023년 9월 1일 열람.
- ^ “ “조선인 학살, 정부 내에 기록이 보이지 않는다”, 마츠노 관방장관의 발언은 역시 ‘거짓말’이 아닙니까? ”. 현대 비즈니스 . 코단샤 . 2023년 9월 1일 열람.
- ↑ “ 재해 교훈의 계승에 관한 전문 조사회 보고서(1923 관동 대지진 제2편) ”. 방재 정보의 페이지 . 내각부. 2023년 9월 1일 열람.
참고 문헌 [ 편집 ]
- 이치쿠라 기호 「근대 군마의 행정과 사상」 그 1, 이치쿠라 기호( 사가판 ), 1984년 11월 1일. NDLJP : 9643334 . (필요 등록)
- 이와사 카즈유키 “세계 도시 오사카의 역사적 형성 -전간기에서의 조선인 이민의 유입 과정을 중심으로-” “조사와 연구” 제16호, 교토대학 경제학회, 1998년 10월 10일. NDLJP : 2890652 . (필요 등록)
- 군마현 경찰사편 위원회 편 「군마현 경찰사」 제1권, 군마현 경찰 본부, 1978년 1월 31일. NDLJP : 9770169 . (필요 등록)
- 군마현사편 위원회 편 「군마현사」 통사편 7《근대 현대1》, 군마현, 1991년 2월 28일. NDLJP : 9644520 . (필요 등록)
- 중앙 방재 회의 재해 교훈의 계승에 관한 전문 조사회 “제 2장 나라의 대응 제1절 내각의 대응 ” “ 1923 관동 대지진 보고서[제2편] ”2008년 3월 .
- 중앙 방재 회의 재해 교훈의 계승에 관한 전문 조사회 “제 4장 혼란에 의한 피해의 확대 제1절 유언 풀어와 도시 ” “ 1923 관동 대지진 보고서[제2편]” 2008년 3월 .
- 중앙 방재 회의 재해 교훈의 계승에 관한 전문 조사회 “ 제4장 혼란에 의한 피해의 확대 제2절 살상 사건의 발생 ” “ 1923 관동 대지진 보고서[제2편]” 2008년 3월 .
- 인쇄국 「직원록」 다이쇼 12년, 인쇄국, 1923년.
- 히로시마현 편 「히로시마현사」《근대2 통사Ⅵ》히로시마현, 1981년 3월 31일. NDLJP : 9574957 . (필요 등록)
- 오오시마 미츠코 저 「제2장」, 요코하마시 편 「요코하마시사」 제5권《아래》, 요코하마시, 1976년 3월 31일. NDLJP : 3015057 . (필요 등록)
- 니시자키 마사오 편『증언집 간토 대지진 직후 조선인과 일본인』 쓰쿠마 서방〈치쿠마 문고(에-19-1)〉, 2018년 8월 10일. ISBN 978-4-480-43536-1 .
- 가토 나오키『9월, 도쿄의 거리에서 ―1923년 관동 대지진 제노사이드의 잔향―』무렵부터 2014년. ISBN 978-4907239053 .
- 카토 나오키 「TRICK 트릭 「조선인 학살」을 없었다고 하고 싶은 사람들」 무렵부터, 2019년. ISBN 978-4907239398 .
- 야마모토미 편 「다이쇼 대진 화재지」개조사 , 1924년 6월 5일. NDLJP : 967928 . (필요 등록)
- 야마다, 쇼지 (2004), 조선인 학살 관련 신문 보도사료1
- 야마다, 쇼지 (2004a), 조선인 학살 관련 신문 보도사료 2
- 야마다, 쇼지 (2004b), 조선인 학살 관련 신문 보도사료 3
- 야마다, 쇼지 (2004c), 조선인 학살 관련 신문 보도사료 4
부정하는 것 [ 편집 ]
- 쿠도 미요코「관동 대지진 「조선인 학살」의 진실」산케이 신문 출판 , 2009년 12월. ISBN 978-4819110839 .
- 가토 야스오「관동 대지진 「조선인 학살」은 없었다!」(왁, 2014년 8월, ISBN 4898317030 )는 쿠도가 문고판으로 하는 데 있어서 부명의로 바꾼 것.
관련 문헌 [ 편집 ]
- 아라이 카츠히로 「관동 대지진 그려진 조선인 학살을 읽는다」신일본 출판사 , 2022년 8월 10일. ISBN 978-4-406-06681-5 .
- 『현대사상』 2023년 9월 임시증간호 총특집=관동대지진 100년, 청도사 , 2023년 8월 8일. ISBN 978-4-7917-1450-6 .
- 타하라 요 「칸토 대지진과 중국인 왕희천 사건을 추적한다」 이와나미 서점 < 이와나미 현대 문고 (사회 272)>, 2014 년 8 월 20 일. ISBN 978-4-00-603272-2 .
관련 항목 [ 편집 ]
- Chosenji Temple - 희생자의 개인 이름이 새겨진 무덤과 위령비가 현존합니다.
- 왕희천
- 관동대지진 희생동포 위령비
- 간토 대지진 중국인 학살 사건
- 구마모토 지진 - 간토 대지진에서 유포된 '조선인이 우물에 독을 던졌다'라는 시위를 모방한 트윗이 열려 불안을 부추겼다. 21세기의 현재에는 낚시병을 이용한 개방형 우물은 존재하지 않는다.
- 미즈호 사건 - 1945년 8월 20일부터 8월 23일에 걸쳐 난바타의 마오카군 시미즈무라 미즈호 에서 27명의 조선인이 일본인에 의해 참살된 사건.
- 시보레스(문화) - 조선어를 모국어로 하는 자는 '가행'의 발음이 좋지 않았기 때문에 '15엔 50전'과 잘 말할 수 없는 자를 조선인으로 본다.
- 해방령 반대 일소
- 제노사이드
- 홀로코스트
- 가짜 뉴스
- 린치
외부 링크 [ 편집 ]
- 중앙 방재 회의|재해 교훈의 계승에 관한 전문 조사회 보고서
- ' 조선인 학살 사건 ' - 코트뱅크
- 관동 대지진에 있어서의 조선인 학살――왜 유언은 퍼져, 학살에 연결되어 갔는지(가토 나오키×야마다 아키지×오기 치키 )
- 지진 재해 직후의 수도권에서 무슨 일이 일어났는가? ――국가·미디어·민중(야마다 아키지) (2015년 9월 2일) - SYNODOS
No comments:
Post a Comment