2026-08-07

시라스 지로 - 위키백과 白洲次郎

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시라스 지로(일본어: 白洲 次郎, 1902년 2월 17일 - 1985년 11월 28일)는 일본실업가이다. 효고현 아시야시 출신, 제2차 세계대전 직후 GHQ 지배하의 일본에서 요시다 시게루의 측근으로 활약했으며, 무역청(貿易庁, 현 통상산업성) 초대청장, 요시다 정권 붕괴 후 도호쿠 전력의 회장 직을 역임하는등, 많은 일본 기업의 임원을 역임하였다. 부인은 작가 및 수필가인 시라스 마사코(白洲正子, 백작 가바야마 아이스케[1]의 딸)이다.
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白洲次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
しらす じろう
白洲 次郎
『週刊朝日』1953年1月11日号
生誕1902年2月17日
日本の旗 日本兵庫県武庫郡精道村
(現・兵庫県芦屋市
死没1985年11月28日(83歳没)
日本の旗 日本東京都港区赤坂前田外科病院[1]
職業貿易庁長官、東北電力会長等
配偶者白洲正子(妻)
子供牧山桂子(長女)
家族白洲退蔵(祖父)
白洲文平(父)
白洲信哉(孫)
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白洲 次郎(しらす じろう、1902年明治35年〉2月17日 - 1985年昭和60年〉11月28日)は、日本実業家[2]。初代貿易庁長官[2]連合国軍占領下の日本吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局経済安定本部の次長を経て、商工省外局として新設された貿易庁の初代長官に就任後、通商産業省(現・経済産業省)を創設した[2][3]。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業役員を歴任した[2]

生涯

生い立ち

白洲次郎は1902年明治35年)2月17日、貿易商白洲文平・芳子夫妻の二男として生まれた。祖父に役人、実業家、神戸女学院の創設者の一人である白洲退蔵がいる。白洲家は元三田藩士族の出である。

転居と初等・中等教育

次郎の出生地は東京としている本もあれば兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)としている本もあるが[注 1]、いずれにせよ白洲家は兵庫県川辺郡伊丹町[5](現:伊丹市)に転居し、次郎は精道尋常小学校に通うようになった。御影師範学校附属小学校高等科卒業後、1914年大正3年)兵庫県立第一神戸中学校に入学し[6]、サッカー部に所属した。当時、アメリカ車ペイジ・オートモビルPaige Automobile )のグレンブルックを父親から買い与えられており、級友等を同乗させている写真が残っている。このペイジ・グレンブルックは、同型車が東京都町田市にある旧居武相荘(後述)で展示されている。神戸一中時代には宝塚少女歌劇養成会(現・宝塚音楽学校)の生徒と恋仲になった。同級生の友人には後に作家で文化庁長官となった今日出海、他に中国古典学の大家として、文化功労者になった吉川幸次郎がいる。祖父の白洲退蔵がキリスト教伝道系学校神戸女学院の創立に関わったことから白洲家には外国人女性教師が寄宿しており、彼女たちから直接英語を学んだ[7]

イギリス留学

ケンブリッジ大学クレア・カレッジ
クレア・カレッジ 図書館内 SHIRASU COLLECTION書棚
次郎が所有していたベントレー・3リットル(ワク井ミュージアム収蔵品)

1919年大正8年)神戸一中を卒業し、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに留学[8]。史学科の聴講生として西洋中世史、人類学などを学ぶ。莫大な仕送りを受けつつ、のちに7代目ストラフォード伯爵となるロバート・セシル・ビング(ロビン)と親交し、イギリス貴族のライフスタイルを知る[7]

自動車は、ブガッティ・タイプ35ベントレー・3リットル(1924年)を所有。ロビンと終生の友となり、1925年冬ベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行(グランドツアー)を実行している。カメラはライカを所有していた[9]。次郎が所有していたベントレー・3リットルは、現在は埼玉県加須市にあるワク井ミュージアムに展示されている(なお白洲次郎のベントレーが現存している、とワク井ミュージアム館長に教えたのは、自動車評論家の小林彰太郎であり、小林の助言により館長は当時の所有者であった英国人と交渉を行い、この車が日本で保存されることになった[10])。またクレア・カレッジ内にある図書館には、SHIRASU COLLECTIONと称した白洲次郎を記念としたセクションがあり、日本関連書籍が並んでいる[11]

帰国

1928年(昭和3年)、神戸市神戸区(のちの中央区)で父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、留学を断念し、日本への帰国を余儀なくされた[12]

1929年(昭和4年)、英字新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となった。伯爵樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子と知り合って結婚に至り、京都ホテルで華燭の典を挙げた。婚姻届は兵庫県川辺郡伊丹町役場に提出されている。

結婚祝いに父から贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出かけた[13]。英字新聞記者を経て1931年からセール・フレーザー商会に勤務し取締役となり、1937年(昭和12年)日本食糧工業(後の日本水産)取締役となった。セール・フレーザー商会は明治初期より横浜で貿易商をしていたセール商会とフレーザー商会が明治30年に合併し、機関車や兵器などの輸入と銀行業務を行なっていた会社で、社長のジョージ・セールは白洲のケンブリッジ留学時代の学友だった[7][14]

この間、商談などで海外に赴くことが多く駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得[12]、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになった。またこの頃、牛場友彦尾崎秀実とともに近衛文麿ブレーンとして行動する。近衛とは個人的な親交も深く、奔放な息子・文隆の目付役をしていたこともあった。

戦時下

白洲夫妻が住居にしていた武相荘

第二次世界大戦勃発の翌年の1940年(昭和15年)、東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(のち東京都町田市能ヶ谷)の古い農家を購入し、鶴川村が武蔵国と相模国にまたがる場所にあったことから武相荘(ぶあいそう)と名付け、政治や実業の一線から離れて農業に励む日々を送った。

1943年(昭和18年)、疎開先の白洲のもとに召集令状が届くも、英国時代に関係を深めていた東部軍参謀長・辰巳栄一に嘆願して握り潰してもらう。戦後白洲と同じ吉田茂の側近となった辰巳であったが、2009年の米公文書記録管理局の機密解除の結果、辰巳はCIA協力者として日本の軍事機密をアメリカ側に漏洩していたことが判明した[15][16][17]

終戦連絡中央事務局

1945年(昭和20年)、東久邇宮内閣外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。GHQの要求に対して白洲はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた[18]

昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたというエピソードが「マッカーサーを叱った男」として伝記等で流布されている[19]。しかし占領期のGHQ関連文書を保管するマッカーサー記念館の調査結果によると、1945年12月から1946年12月にかけての執務記録、面会予定表、ゲストブック、いずれにも白洲の名は無かったため、このエピソードの信憑性には疑義が呈されている[20]

憲法改正

同年には憲法改正問題で、佐々木惣一京都帝国大学教授に憲法改正の進捗を督促する。1946年(昭和21年)2月13日松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQの拒否にあった際に、GHQ草案(マッカーサー案)を提示されている。GHQ草案の翻訳と日本政府案の作成に当たった白洲は2月15日にGHQ草案の検討には時間を要するとコートニー・ホイットニーに宛てて書簡[注 2]を出し時間を得ようとするが、これはGHQから不必要な遅滞は許されないと言明された。

同年3月に終連次長に就任[22]。8月、経済安定本部次長に就任。1947年(昭和22年)6月18日、終連次長を退任した[22]

貿易庁長官

1945年(昭和20年)12月15日商工省の外局として設立された貿易庁の長官[22]1949年(昭和24年)12月1日に就任する。汚職根絶などに辣腕を振るい、商工省を改組し通商産業省(のち経済産業省)を設立した。その辣腕ぶりから「白洲三百人力」と言われる。

日本航空(1951年)

同年、日本最大・最新鋭の日本製鐵広畑製鉄所(のち新日鐵日本製鉄広畑製鐵所を経て現・日本製鉄瀬戸内製鉄所)が、日本側に返還されることになった。白洲は外貨獲得のためにイギリス企業に売却を主唱するも、永野重雄の反対によって頓挫した。永野は「(広畑製鐵所を)取れなかったら腹を切る。将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか」と啖呵を切ったとされる。

白洲は「俺はボランティアではない」が口癖で、イギリス留学時代の人脈をフルに活用し、主としてイギリス企業とアメリカ企業の日本進出時に代理人を務め、ロンドンに設けた個人口座に成功報酬ベースでコミッションを振り込ませていた。

サンフランシスコ講和会議全権団顧問

1950年(昭和25年)4月から5月にかけて、連合国との講和問題で首相特使に任命され池田勇人蔵相や宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米[23]ジョン・フォスター・ダレスらと会談、平和条約締結の準備を開始した。

吉田茂首相 (右)と、機内にて(1951年)

1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行した。外務省の説明によると、首席全権であった吉田茂は当初、英語で演説を行うつもりだったが、日本の「ディグニティ(尊厳)」のために、当日になって、急遽日本語で演説することとした[24]という。白洲によれば、この時受諾演説の原稿を外務省の役人がGHQの了解を得た上でGHQに対する美辞麗句を並べかつ英語で書いたことに白洲が激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、急遽日本語に書き直した。

原稿は随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30m、直径10cmにも及ぶ巻物となり、内容には奄美群島沖縄並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれた[25]。しかし、サンフランシスコ条約会議に、事務の元締めとして参加した西村熊雄条約局長は、受諾演説文は、日英両国語で作っていたこと、および、吉田は英語で演説するつもりだったが、シーボルド大使が西村熊雄に日本語で演説することを勧めたため、同僚や白州顧問等と相談したところ、皆、賛成であり、吉田にその旨伝えた、としている[26]

1952年(昭和27年)11月19日から1954年(昭和29年)12月9日まで外務省顧問を務めた。吉田退陣後は政界入りを一部から望む声もあったが政治から縁を切り、実業界に戻った。

実業界へ復帰

吉田側近であったころからすでに公社民営化を推進しており、1949年(昭和24年)には日本専売公社が発足している。そして1951年(昭和26年)5月には、日本発送電の9分割によって誕生した9つの電力会社のうちの1つ、東北電力会長に就任した。また、九電力体制を作った「電力王・電力の鬼」松永安左エ門の私的シンクタンク産業計画会議の委員に就任した。

就任の同年福島県只見川流域が只見特定地域総合開発計画に指定されたことから1959年(昭和34年)に退任するまで、只見川流域の電源開発事業に精力的に動き奥只見ダムなどの建設を推進した。

また当時東北地方で開発可能な水力の4分の3を有していた只見川[27]水利権を巡って、古くからの権利を主張して徹底抗戦してきた東京電力に対し、当時の野田卯一建設大臣を説得して、水利権を東北電力に切り替えるという超法規的措置を引き出した。これによって、東北電力繁栄の基礎が築かれた。

東北電力退任後は荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(現マルハニチロ)、日本テレビ、英国ウォーバーグ証券(S. G. Warburg & Co.)の役員や顧問を歴任した。

晩年

次郎が所有していたものとほぼ同じ外観のポルシェ・911

軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長を務めゴルフに興じたほか、80歳までエンジンを2400ccに改造した1968年ポルシェ911Sに乗り、三宅一生のショーにモデルとして出演もした。また、初代ソアラ(Z10型)のオーナーであり、その改善点を伝える形で没後の1986年1月に発売が開始されることとなった2代目トヨタ・ソアラのアドバイスなども行なっており、その際に上記のポルシェをトヨタに寄贈し参考にせよともしている。

死去

兵庫県三田市心月院にある白洲次郎夫妻の墓。右が次郎、左が正子の墓

しかし1985年(昭和60年)11月に、妻の正子と伊賀京都を旅行後、体調を崩し胃潰瘍と内臓疾患で入院、同年11月28日に急性肺炎のため東京都港区赤坂前田外科病院で死去した、83歳没[1]。墓所は兵庫県三田市心月院である。

妻の正子と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。実はこの遺言書のフレーズは、白洲の父親が死去した際に残した遺言の内容とまったく同じであった。そして白洲の墓碑は正子の発案による、不動明王種字「カーン」を刻んだだけの五輪塔板碑で、戒名は記されていない[28][注 3]

なお、1987年11月に自動車雑誌「NAVI」で、白洲の生涯を扱った「日本国憲法とベントレー」(その後「白洲次郎の日本国憲法―隠された昭和史の巨人」として刊行)が連載されたこともあり、没後2年を経てにわかに白洲の生涯とその功績が注目されることとなった。

人物像

白洲次郎に関する一次資料は、ほとんど現存しておらず、実像としての次郎は謎が多い人物である[注 4][30]。華麗な経歴と端正な相貌、彼特有の美学・信条(彼自身はそれを「プリンシプル」と呼んだ)やライフスタイルに、毀誉褒貶の逸話に包まれた謎の多い人物像も相まって、その存在は彼の死後ある種の伝説的なものとなった。関連書籍や特集記事は多数出版されており、その多くは容姿や振る舞い、行動力に至るまで「外国人(白人)に勝るとも劣らない日本人」として描写されている[31]

身体的特徴

親交のあったフランス文学者の朝吹登水子は、白洲の外見について「白洲次郎さんはとても背が高く、がっしりした体格で、波打つ長髪と彫りの深い日本人ばなれのした容貌で、 4、5 歳の私は『あんな美男子はいないなあ』とびっくりして彼をながめたものである」と述べている[32]

身長について、孫の白洲信哉は「次郎はいまのぼくと同じくらいでしたから、175cmほどでしょう。不思議なことに新しい伝記が書かれるたびに、どんどん背が伸びているんです。とうとう185cmまで伸びました。身内の間では、そのうち2mを越すんじゃないかって冗談を言っています」と述べている[33](尚、白洲自身がGHQに提出した身上書には身長:1m75cm、体重:65kgとある[34])。

白洲信哉によれば、次郎は吃音があり、本人に言わせると、むしろ日本語より英語(キングス・イングリッシュ)のほうが喋りやすかった[33]。妻の正子も「白洲(次郎)は英語のほうがうまかったぐらいの人だったの」と述べている[35]

性格

自らの信念に基づき行動する「直情一徹の士(さむらい)」と妻の正子からは評され[8]、忖度のない言動や喧嘩っ早さ、癇癪持ちで知られた[36]。親交のあった今日出海は「育ちのいい野蛮人」、青柳恵介は「風の男」、相馬和胤は、いや「風の男」どころか「台風男」だったとのちに語っている[37]。妻の正子も同じく「乱世に生き甲斐を感じるような野人」「しょせん平和な世の中に通用する人間ではなかった」と述べており[8]、だからこそ「実はさまざまな場面で、日本の社会からは孤立することも多かっただろう」とも長女の牧山桂子は述べている[38]。一方で周囲の人々の証言からは、英国流のユーモアがあり、気が優しくて照れ屋な一面も持ち合わせていたことがうかがえ、小林秀雄は「あんなに単純で、大ざっぱなくせに、ひどく繊細な神経の持ち主」と評し、あんなに気が利く男はいないという評判もあった[37]

趣味嗜好

欧米文化に素養があったハイカラな大富豪の父・文平のもとで生まれ育ったことに加え、英国留学でストラフォード伯爵家のロビンと交遊した影響などから、英国貴族流のライフスタイルやダンディズムを好んだ[39]。その一方で、自身が武士の家系であることを自覚し、日本人としての誇りも強く持っていた[40]。また、芸術家としての一面を持っていた妻の正子とともに、身なりから趣味や行動規範に至るまで、「一流」や「本物」であることを求め、そしてそれを見抜く眼(審美眼・鑑識眼)も重視していた[41][42]

ファッション
残された写真や私物などから、ファッションセンスに富んでいたことがうかがえる[39]。テトリー&バトラー(Tetley & Butler)、ヘンリー・プール、ターンブル&アッサー(Turnbull & Asser)といった老舗テーラーの顧客名簿に白洲の名が見られるほか[43]、白洲が愛用していたというルイ・ヴィトンのトランクやリュック、エルメスのアタッシェケース、ダンヒルのライター、ジェームスロック(James Lock & Co.)の帽子、ジャガー・ルクルトの懐中時計、ロレックスの腕時計[注 5]が現存するなど、日常的にヨーロッパの高級ブランドを身に纏っていたとされる一方で、作業着であるジーンズを日本で初めてファッションに取り入れた男とも言われている[39]。日本のブランドではイッセイ・ミヤケを好んだ[45]。三宅とは正子が古くから付き合いがあり、次郎ともその後親しくなった[46]。そういった縁から、田中一光監修によるイッセイ・ミヤケ最初の作品集『East Meets West』(1978年)において、夫婦でファッションモデルを務めた[46]
自動車
趣味の一つは、自動車[47]。妻の正子は、次郎について「彼は死ぬまでオイリー・ボーイ[注 6]であった」と述べている[47]。その生涯で乗り継いできた車は、判明しているもので、ペイジ(Paige automobile)・グレンブルック、ブガッティ・タイプ35ベントレー・3リットル(実車現存)、ランチア・ラムダ(実車現存)、初代ポルシェ・911ランドローバー・シリーズ1(実車現存)、初代トヨタ・ソアラメルセデス・ベンツ・W116[48] 、初代ホンダ・シビック[48]三菱・ミラージュ[49]スバル4WD[49]など。なかでもトヨタ・ソアラのフルモデルチェンジにおける次郎の貢献は大きく、2代目ソアラを目にすることなく亡くなった次郎に対して、その完成を報告するために、当時の豊田章一郎社長と長男の章男は、正子とともに2代目ソアラに乗り、次郎の墓参りに行っている[50]
大工
手先が器用で日曜大工も趣味の1つ[47]しゃもじや小物入れ、キャスターテーブルなど日用品をよく作っていた。これらは現在も武相荘に展示されている。2009年にマッカーサー記念館の倉庫から、白洲が設計しダグラス・マッカーサーに贈答された椅子と書簡が見つかった。書簡には直訳すると「Your most obedient servant. Jiro Shirasu.(あなたの最も従順な下僕 白洲次郎)」と署名されていたが、これは当時の公式文書で最も丁寧な文面で使われる文言であり、家来を表す言葉ではない。当時では「 敬具 白洲次郎」にあたる[51]
スポーツ
大のゴルフ好きで、英国留学時代に覚えたとも[47]、本格的に始めたのは帰国後の28歳ごろとも言われている[52]。晩年には長野県軽井沢町にある名門ゴルフ場「軽井沢ゴルフ倶楽部」で理事長を務め、ゴルフ場近くには夏の別荘があった(#軽井沢で詳述)。春や秋には神奈川県茅ヶ崎市にあるゴルフ場「スリーハンドレッドクラブ」でもプレイしていたという[45]。白洲曰くゴルフに上手い下手は求めておらず、「如何にその夜の酒の味をよくするか」ということでやっていたが[53]、ハンディキャップは一桁の4という、かなりの腕前であった[36]。冬にはスキーを好んでいたとされ、当初は長野県の志賀高原にある木戸池スキー場にスキーシーズンに使用するための別荘があったが、東北電力会長になったことで山形県蔵王温泉スキー場へ訪れるようになると、前述の別荘を手放し、同地の上の台ゲレンデ近くに別荘「ヒュッテ・ヤレン」を新たに建てている[54][55]。この別荘は現存しており、保存・活用の会が発足している[56]。「ヒュッテ・ヤレン」の名称は、上手にスキーができない、”ひゅーっとやれん”という、ユーモア、ジョークである[57]。また野球も好み、大洋漁業の社外重役だったこともあったからか、プロ野球では大洋ホエールズを贔屓としており、同球団のキャップをドライブなどではよく被っていた[36]
野菜嫌いであった次郎が、家庭で日常的に食していたのがカレーライス[58]。義理の息子・牧山圭男によれば、元々は妻の実家・樺山家で食されていたレシピで、次郎はカレーを西洋食の延長として捉え、スプーンではなくフォークを使って食べていたという(スプーンはあくまでスープに使われるものという理由から[注 7][58]もまた白洲の大好物で、銀座の名店「きよ田」を贔屓にしていたことはよく知られている[60]。甘いもの好きで、どら焼きも好物のひとつだった[61]。酒はウイスキーを好んだ[62]。学友のストラフォード伯爵から、毎年のようにイギリスから樽でウイスキーを送ってもらっており、それを嗜んでいたという[63]。市販のウイスキーでは、マッカランを好んでいたとされる[62]。皇族や政財界人が集まる私的なワイン会にも足を運んでいた[64]コーヒーはイタリアン・ローストで細かく挽いたものを好み、青山の紀ノ国屋でよく購入していた。顔なじみだったコーヒー売り場の店員は、白洲の訃報を伝える新聞記事で初めて素性を知り驚愕するとともに、「冗談好きで素敵なおじいさんだった」と後に取材に答えている[65]
音楽
妻の正子がクラシック音楽に造詣が深かったことは彼女の随筆から窺うことができるものの、次郎がどのような類の音楽を好んでいたのかは不明瞭である。ただし、コメディアンのなべおさみによれば、1953年に銀座ジャズ喫茶「テネシー」で白洲と偶然同席してジャズ談義をしたと語っており、そのなかで白洲はデビュー前の秋吉敏子の演奏を見て「彼女は本物だ」と語るなど、少なくともジャズには精通していた可能性を示唆させるエピソードが残っている[66]
田舎好き
白洲は「カントリー・ジェントルマン」(田舎貴族[注 8])の生活を好んでいた[47]。「田舎に本拠地のカントリー・ハウスマナー・ハウス)を置き、都会にタウン・ハウスを持つ」というこの英国貴族のライフスタイルは、北イングランドのハイグリーン(High Green)に豪壮な城館を構え、ロンドンにタウン・ハウスを営んでいたストラフォード伯爵家のロビンから大きな影響を受けたとされる[68]。1940年に東京の郊外鶴川村に自宅「武相荘」を構えたのは、このような「カントリーライフ」を営むためであった。1960年代には東京の赤坂にタウン・ハウスとして小さなビル一棟を建て、長男・次男家族と階を分けて生活した[69]
女性好き
白洲は美しい女性に目がなかったようで、孫の白洲信哉によれば、家の暖炉焼却炉の火を見るのが好きだった次郎に、ある晩妻の正子が「火が好きな人は助平なんだって」と言うと返す刀で、「助平でない男がいるものか」と言ったという[70]。神戸一中時代に宝塚少女歌劇養成会(現・宝塚歌劇団)の生徒と恋仲となったことは、若い頃の逸話として知られている。ファッションモデルの松本弘子軽井沢の別荘を訪れると、テラスで彼女の横に座りデレデレして、それはもうご機嫌だったと、犬丸一郎の長男・徹郎は述べている[71]。三宅一生によれば、しょっちゅう「一生さん、いる?」と白洲が気軽に会社に来てくれたが、それは三宅が目的だったのではなく、近くにいる女性などと「ご飯を食べにいこう」ということが目的だったようだ、という[46]。なお、生涯連れ添った妻・正子との婚約時代には、互いに自身のポートレイトに文章を添えて贈り合っていたが、次郎は「You are the fountain of my inspirations and the climax of my ideals」(ぼくの発想の泉であり、理想この上ない君に)、正子は「To my beloved you. from Masako」(最愛の人へ)と記している[72]

生活

孫の白洲信哉によれば、よく次郎は夫婦円満の秘訣を尋ねられると「一緒にいないことだ」と煙に巻いていたが、実際にそれは冗談ではなく、晩年は今風に言えば熟年別居のようだったと述懐している[69]。信哉にとって武相荘は祖母正子の住まいという感覚で、祖父次郎は赤坂と夏の軽井沢を行き来して(正子は次郎と時期をずらして秋に軽井沢に行っていたという[73])、2人が一緒になることはあまりなかった[69]。武相荘に時折次郎が戻っても、朝早い次郎はコーヒーを自ら沸かし朝食を済ませ、大工仕事等に精を出す[69]。対照的に正子の朝は遅く、朝食も通いのお手伝いさんがという具合であった[69]。すれ違いは人付き合いにも及び、正子が友人と晩酌していても、次郎は「ではお先に」と早々に退散し混ざることはなかったという[69]。子どもへの接し方も対照的で、次郎は孫たちに「ほっぺにプーして」と西洋風の挨拶を強要、会えば必ず小遣いとそれなりだったが、正子は挨拶もそこそこに書斎に籠る時間が長く、信哉によればお年玉などの記憶もないという[69]

軽井沢

白洲夫妻が戦前から戦後、そして最晩年に至るまで一貫して通い続けた場所が、長野県にある避暑地軽井沢であった[74][75]。軽井沢は、ヨーロッパに似た高原風景が広がり、明治時代に西洋人や上流階級のために避暑地として開拓された場所で、「日本の中の西洋」と目されていたが[76]、次郎が軽井沢を訪れるようになったのは、妻の実家・樺山家が旧軽井沢万平ホテルの近くに別荘を持っていたためであった[32]。結婚後、夫妻は旧軽井沢の別の場所に別荘を借り(ハウスナンバー903番)、そこで夏の生活を送るようになる[32][71]。戦後の1956年、軽井沢ゴルフ倶楽部近くの南ヶ丘に新たに別荘を建て、以後そこに毎夏訪れ、晩年まで使用した[71]

白洲は軽井沢で国内外の著名人らと、東京にいるときと同様に交流を持った。別荘(旧軽井沢)の隣に住んでいた河上徹太郎夫妻の知遇を得、親交を結んだほか[77]細川侯爵家、三井家、朝吹家、麻生家などの一族と家族ぐるみの付き合いを送り[71]帝国ホテル元社長の犬丸一郎は白洲に勧められて軽井沢に別荘を建てた[71]。母校ケンブリッジ大学ラグビーチームが来日した際には、軽井沢に彼らを招待している[78]。一方で、軽井沢での白洲の様子を知る長女夫妻によれば、白洲夫妻は、華やかなパーティーに行くのがあまり好きなタイプではなかったとも指摘している[71]。孫の白洲信哉によれば、夕方になると次郎はドライマティーニジン・トニックなどの食前酒をつくり、それを飲みながら暖炉に薪をくべるのが、軽井沢での日課だったという[70]。なお、軽井沢の旧白洲家別荘はすでに現存せず(2021年の時点では現存していたようである[73][71]、現在はジュエリーブランド「AHKAH」の創業者で美術家の福王寺朱美が跡地に別荘を建てている[注 9][79]。ただし、白洲の長女である牧山桂子や孫の白洲信哉はそれぞれ軽井沢に別荘を所有しており[71][73]、白洲家と軽井沢の関係は現在まで続いている。

軽井沢ゴルフ倶楽部では、次郎は名物理事長として知られた[80]。東京からポルシェランドローバーを飛ばしてクラブハウスに乗りつけると、プレーに来る会員たちのマナーに遠慮なく注意したという[81]。白洲本人も、「軽井沢では私がうるさいと評判をとっている」と述べている[53]。なかでも当時首相であった田中角栄とゴルフにまつわる”攻防”が繰り広げられたことは有名である。詳細は軽井沢ゴルフ倶楽部#エピソードを参照。

次郎が最後に軽井沢を訪れたのは、亡くなる直前の1985年秋であり、晩年になってからはそれまでほとんどなかった、正子とのふたり旅であった[77]

因みに、長女の桂子と夫の牧山圭男(政治家・牧山耕蔵の孫)が初めて出会ったのは、お互いに家族で避暑に来ていた夏の軽井沢である[71]

発言集

  • 「吾々(われわれ)の時代にこの馬鹿な戦争をして、元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか。日本の経済は根本的な立て直しを要求しているのだと思う」[82]
  • 「憲法にしろ色々の法規は、米国でさえ成立不可能な様なものをどしどし成立させ益々得意を増していった。一寸夢遊病者の様なもので正気かどうかも見当もつかなかったし、善意か悪意かの判断なんてもっての外で、ただはじめて化学の実験をした子供が、試験管に色々の薬品を入れて面白がっていたと思えばまあ大した間違いはなかろう」[83]
  • 「自分は必要以上にやっているんだ。占領軍の言いなりになったのではない、ということを国民に見せるために、あえて極端に行動しているんだ。為政者があれだけ抵抗したということが残らないと、あとで国民から疑問が出て、必ず批判を受けることになる」(日本国憲法制定を巡ってのGHQとの攻防の折、宮澤喜一に対して)
  • 「この憲法は占領軍によって強制されたものであると明示すべきであった。歴史上の事実を都合よくごまかしたところで何になる。後年そのごまかしが事実と信じられるような時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大な罪悪であると考える」[84]
  • プリンシプルとは何と訳したらよいか知らない。原則とでもいうのか。日本も、ますます国際社会の一員となり、我々もますます外国人との接触が多くなる。西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたき込まれたものらしい。」[85]
  • 「新憲法のプリンシプルは立派なものである。主権のない天皇が象徴とかいう形で残って、法律的には何というのか知らないが政治の機構としては何か中心がアイマイな、前代未聞の憲法ができ上ったが、これも憲法などにはズブの素人の米国の法律家が集ってデッチ上げたものだから無理もない。しかし、そのプリンシプルは実に立派である。マッカーサーが考えたのか幣原総理が発明したのかは別として、戦争放棄の条項などその圧巻である。押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」[84]
  • 「私は、“戦後”というものは一寸やそっとで消失するものだとは思わない。我々が現在声高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。それが本当に心の底から自分のものになった時において、はじめて“戦後”は終わったと自己満足してもよかろう」[84]
  • 「占領下の日本で、GHQに抵抗らしい抵抗をした日本人がいたとすれば、ただ二人――一人は吉田茂であり、もう一人はこのぼくだ。吉田さんは、そのことが国民の人気を得るところとなりずっと表街道を歩いたが、もう一人のぼくは別に国民から認められることもなく、こうして安穏な生活を送っている。けれども一人くらいはこういう人間がいてもいいとおもい、別にそのことで不平不満を感じたこともないし、いまさら感ずる年でもないと思っている」[86]
  • 「税金がふえて、我々の生活が今よりぐっと苦しくなっても、なお外国の軍隊を国内に駐留させるよりもいいというのが国民の総意ならば、安保など解消すべし」[85]
  • 「今の政治家は交通巡査だ。目の前に来た車をさばいているだけだ。それだけで警視総監にはなりたがる。政治家も財界のお偉方も志がない。立場で手に入れただけの権力を自分の能力だと勘違いしている奴が多い」[87]
  • 「吉田茂の犯した最大の間違いは自分も同行していったサンフランシスコの日本の独立がみとめられた講和条約の国際会議でアメリカ制の憲法の破棄を宣言しなかったことだ」[88]

第三者による白洲次郎評

ここでは第三者による批判的な白洲次郎評を挙げる。

家系

白洲家

白洲家は、摂津国三田藩(現・兵庫県三田市を中心とした地域)の儒学者の家柄。曽祖父は白洲文五郎、曽祖母播磨国小野藩(現・兵庫県小野市一柳氏家老黒石氏の娘・里子[95]。祖父は三田藩儒の白洲退蔵文政12年7月15日(1828年8月15日[95])、現在の兵庫県三田市屋敷町にて出生)。退蔵は明治維新後は鉄道敷設などの事業を興し、一時横浜正金銀行頭取も務めた[95]。また現在の元町三宮といった神戸港周辺の神戸市の都市開発や神戸ホーム(神戸女学院大学の前身)の創立にも尽力した。

父・白洲文平ハーバード大学卒業後、三井銀行、鐘淵紡績(カネボウ、現・クラシエ)を経て綿貿易で巨万の富を築き、豪放磊落な人柄で「白洲将軍」と呼ばれた。日本各地に邸宅を築き、なかでも文平が兵庫県川辺郡伊丹町に建てた大豪邸は「白洲屋敷」と呼ばれ、町のランドマーク的存在であったと伝えられている。

子孫

略年譜

  • 1902年(明治35年) - 2月17日、現在の兵庫県芦屋市にて誕生。
  • 1914年(大正3年) - 神戸一中入学。
  • 1919年(大正8年) - 神戸一中卒業後、イギリスに渡航。
  • 1924年(大正13年) - ケンブリッジ大学に聴講生として留学。
  • 1928年(昭和3年) - 白洲商店倒産。この頃、帰国。
  • 1929年(昭和4年) - ジャパン・アドバタイザー入社。11月19日、正子と結婚。この頃、正子の父を通じて吉田茂と知り合う。
  • 1931年(昭和6年) - 2月5日、長男春正誕生。セール・フレイザー商会入社、取締役となる。この頃から頻繁に渡欧。
  • 1937年(昭和12年) - 日本食糧工業(後の日本水産)取締役就任。やがて取締役外地部長となる。この頃、近衛文麿と知り合う。
  • 1938年(昭和13年) - 1月3日、次男兼正誕生。
  • 1940年(昭和15年) - 6月3日、長女桂子誕生。
  • 1942年(昭和17年) - この頃、日本水産を退職し帝国水産理事就任。この頃、南多摩郡鶴川村(現在の町田市)にて農家を購入。
  • 1943年(昭和18年) - この頃、鶴川村へ転居(=武相荘)。
  • 1945年(昭和20年) - 終戦連絡事務局参与に就任。
  • 1946年(昭和21年) - 2月、日本国憲法制定作業に参加。3月1日、終戦連絡事務局次長に就任、高等官一等となる。12月、経済安定本部次長に就任。この頃、読売争議に介入。
  • 1947年(昭和22年) - 終戦連絡事務局次長を退任。
  • 1948年(昭和23年) - 12月、貿易庁長官に就任。
  • 1949年(昭和24年) - 5月24日、貿易庁長官退任。翌25日、通商産業省設立。この頃、日本製鐵広畑製鉄所の外資売却問題騒動。
  • 1950年(昭和25年) - 4月25日、吉田茂首相の特使として訪米。この頃、アメリカ大使就任の話が出るが頓挫。この頃、旧日本軍播磨造兵廠払い下げ問題。この頃、日本輸出入銀行設立に奔走。
  • 1951年(昭和26年) - 5月1日、東北電力会長就任。9月8日、サンフランシスコ講和条約調印に立ち会う。この頃、「日本のラスプーチン」など白洲バッシング多数。
  • 1952年(昭和27年) - 軽井沢ゴルフ倶楽部常任理事就任。11月19日、外務省顧問に就任。吉田首相の特使として欧米視察。
  • 1953年(昭和28年) - 2月、吉田首相の特使としてヨーロッパ視察。吉田の命を受けてチャーチルに面会しようとしたが果たせず。
  • 1955年(昭和30年) - 旧日本軍四日市燃料廠払い下げ問題。
  • 1959年(昭和34年) - 4月10日、東北電力会長退任。
  • 1966年(昭和41年) - 東京赤坂に転居。
  • 1982年(昭和57年) - 2月、軽井沢ゴルフ倶楽部理事長に就任。
  • 1985年(昭和60年) - 11月28日、死去。

白洲次郎を取り上げた作品

テレビドラマ
映画
  • 夜の蝶』(1957年7月公開) 山村聰が演じる白沢一郎という男を巡り銀座のママ同士が争い、この男は白洲次郎がモデルとされている[96][97]。モデルとなった銀座のバーは「エスポワール」と「おそめ」の2店である。石井妙子著『おそめ 伝説の銀座マダムの数奇にして華麗な半生』(洋泉社、2006年)によると、白洲は「エスポワール」のママ・川辺るみ子と愛人関係にあったとされる。
  • 日本独立』(2020年12月公開)白洲役は浅野忠信
宝塚歌劇

宝塚歌劇団宙組(そらぐみ)は、2008年に「黎明の風」という題名で白洲の波乱の生涯を扱った。2月、宝塚大劇場で初演。同大劇場は宝塚歌劇団の本拠地であり、兵庫県宝塚市は白洲家の出身地である三田市の隣町でもある。2 - 3月は宝塚大劇場で[98]、4 - 5月は東京宝塚劇場で上演。5月にDVDやCDも発売。

白洲を演じたのは同歌劇団理事で専科の轟悠。マッカーサー(大和悠河)や吉田茂(専科の汝鳥伶)をタカラジェンヌが演じ話題となった。白洲は東宝に大きな影響を持ち(本人はフィルム納入等で直接関係を持ち義兄・樺山丑二は東宝取締役、長男・春正は元東宝東和社長)、また前述のとおり白洲が神戸一中時代にタカラジェンヌと知り合いガールフレンドとしたことなど宝塚歌劇団に対する様々なエピソードを持ち、劇中でも触れられている部分がある。

その他の作品

脚注

注釈

  1.  古い書籍では自身でプロフィールを東京生まれとしている[4]
  2.  いわゆる「ジープウェイ・レター」。ホイットニーからの返事が国立国会図書館に保存されている[21]
  3.  正子の墓碑も戒名がない同形の五輪塔形板碑で、種字は十一面観音の「キャ」が刻んである[28]
  4.  次郎は死の数年前、何日かにわたって古いかばんを持ち出し、中の書類を次々に火にくべており、長女の桂子が「何を燃やしているの?」と尋ねるとそれには答えず、「こういうものは、墓場まで持っていくもんなのさ」と言って、焼却炉から立ち上る煙をじっと見上げていた、という逸話が残っている[29]
  5.  白洲はこのロレックスを香港カジノで英国人実業家からポーカーで勝って手に入れたという[44]ジャズ喫茶で白洲と偶然出会ったというコメディアンのなべおさみによれば、そのときはパテック・フィリップを着用していて、「これは世界中の時計が目指している本物中の本物だ」と述べたという[42]
  6.  正子によれば、英語圏では熱烈な自動車マニアを「Oily Boy」と呼んでいたという(毎日のように油まみれになってクルマをいじっている男という意味) [47]
  7.  実際にイギリスをはじめとするヨーロッパ諸国では、この理由からカレーをフォークで食べる文化が確認されている[59]
  8.  直訳すると「田舎紳士」あるいは「田舎貴族」となるが、「田舎紳士」という用語は日本語で一般的に「紳士ぶっているが、どこか洗練されていないところのある男」[67]という意味で使われるため、どちらかと言えば「田舎貴族」の方が近い訳となる。
  9.  縁あって白洲家の土地を譲り受けた福王寺は、白洲次郎が見ていた景色を残すことに注力して建物を設計したという[79]

出典

  1.  史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月26日閲覧。
  2.  白洲次郎, 出典: 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(講談社)および『デジタル大辞泉』(小学館), コトバンク.
  3.  白洲次郎の魂 戦後復興かけた思い”. 神戸新聞 (2007年11月4日). 2025年10月31日閲覧。
  4.  安藤良雄『昭和経済史への証言(下)』毎日新聞社、1966年、411頁。
  5.  白洲ほか 2004, p. 不明[要ページ番号].
  6.  白洲ほか 1999, p. 24.
  7.  2011年度インターゼミ多摩学グループ「中里介山・白洲次郎にみる新中間層の成り上がりと多摩地域の関係」(PDF)『多摩学電子新書』第9号、多摩大学、2012年1月。
  8.  白洲次郎”. 旧白洲邸 武相荘 Buaiso. 2019年6月21日閲覧。
  9.  白洲ほか 1999, p. 36.
  10.  003 Bentley/涌井清春 ロールス・ロイスの光、ベントレーの風に魅せられて”目の眼コラム
  11.  岡部芳彦. ケンブリッジで白洲次郎に'出会う' (PDF). 2019年6月21日閲覧。
  12.  白洲ほか 1999, p. 42.
  13.  白洲ほか 1999, p. 40.
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  18.  北 2008a, p. 不明[要ページ番号].
  19.  河上徹太郎「メトロのライオン 白洲次郎」 『文藝別冊 総特集 白洲次郎』、(河出書房新社 2002年)に再録。他に青柳恵介『風の男 白洲次郎』(新潮文庫)など
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  40.  神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~⑧白洲次郎後編, KOBECCO(2020年12月号).
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  56.  保存・活用に向けて旧白洲次郎山荘(ヒュッテ・ヤレン)保存・活用の会
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  76.  趣味こそ人生。正統の華麗なる「軽井沢ライフ(田園生活)」を訪ねて, 家庭画報(2022年7月19日)
  77.  白洲次郎と白州正子の年譜”旧白洲邸 武相荘
  78.  牧山桂子, 青柳恵介, 須藤孝光『白洲次郎と白洲正子: 乱世に生きた二人』(新潮社、2008年)41頁
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  80.  PGA REPORT 121, 日本プロゴルフ協会, 2017/1.
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参考文献

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  • 白洲正子ほか『白洲次郎』平凡社〈コロナ・ブックス〉、1999年。ISBN 4-582-63364-1
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  • 北康利 『レジェンド伝説の男 白洲次郎』 朝日新聞出版、2009年/朝日文庫、2012年
  • 鶴見紘 『白洲次郎の日本国憲法ゆまに書房、1989年/光文社知恵の森文庫、2007年。最初に刊行された評伝
  • 徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』新潮社、2007年5月。ISBN 9784103048312新潮文庫、2009年11月
    • 続編『1945日本占領 フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略』 新潮社、2011年2月
  • 須藤孝光 『1946 白洲次郎と日本国憲法』 新潮社 2010年4月。※ドキュメント・ノベル
  • 須藤孝光 『白洲次郎 日本を復興させた男』 新潮社 2011年8月。同上
  • 白洲信哉 『白洲次郎の青春』 幻冬舎、2007年※主に写真集
  • 白洲信哉 『白洲家の流儀 祖父母から学んだ「人生のプリンシプル」』 小学館101新書、2009年
  • 牧山桂子 『次郎と正子 娘が語る素顔の白洲家』 新潮社、2007年4月/新潮文庫、2009年12月
  • 牧山桂子 『武相荘のひとりごと 白洲次郎・正子の娘が語る』 世界文化社、2012年
  • 牧山桂子・青柳恵介・須藤孝光 『白洲次郎と白洲正子 乱世に生きた二人』 新潮社、2008年9月
  • 牧山圭男 『白洲家の日々 娘婿が見た次郎と正子』 新潮社、2012年4月/新潮文庫、2015年
  • 牧山桂子・写真野中昭夫 『白洲次郎・正子の食卓』、『―の夕餉』 新潮社、2007-2008年
  • 『白洲次郎という生き方』 宝島社「別冊宝島」、2015年8月/宝島社文庫、2017年1月
  • 石井妙子 『おそめ 伝説の銀座マダム』 新潮社、2006年1月/新潮文庫、2009年4月、※白洲はバー「おそめ」の常連。
  • 犬丸一郎 『軽井沢伝説 避暑地・軽井沢に集った名士たちとの半世紀』 講談社、2011年7月
    • ※「第3章 白洲次郎の息吹が聞こえる―軽井沢ゴルフ倶楽部」
  • 馬場啓一 『白洲次郎の生き方』 講談社、1999年、講談社文庫、2002年
    • 改訂版 『白洲次郎のダンディズム なぜ男らしくありえたのか』 ぶんか社文庫、2008年
  • 清水将大編著 『白洲次郎 男の語録 プリンシプルに生きよ』 シーエイチシー 2010年
    • 他に、白洲次郎「語録」は宝島社、笠倉出版社、英和出版社で出版。各・2015年
  • 勢古浩爾 『白洲次郎的』 洋泉社新書y、2004年
  • 青木高夫 『白洲次郎に学ぶビジネスの教科書』講談社、2015年6月
  • 『白洲次郎 一流の条件』 牧山圭男監修、宝島社、2016年10月

関連文献

  • 「西行」白洲正子 1988/10 新潮社
  • 「古伊万里 見る・買う・使う」白洲正子・中島誠之助・他 1993/05 講談社
  • 「白洲正子自伝」白洲正子 1994/12 新潮社
  • 「白洲正子 私の骨董」白洲正子 1995/05 求龍堂
  • 「白洲正子を読む」多田富雄・他 1996/01 求龍堂
  • 「白洲正子の世界」白洲正子 1997/04 平凡社
  • 「風の男 白洲次郎」青柳恵介1997/11 新潮社
  • 「器つれづれ」白洲正子 /藤森武・撮影 1999/07 世界文化社
  • 「白洲次郎」 白洲正子・他 1999/08 平凡社
  • 「白洲正子"ほんもの"の生活」白洲正子 2001/10 新潮社
  • 「白洲次郎 日本で一番カッコイイ男」河出書房新社 2002/04
  • 「白洲正子 美の種まく人」白洲正子 2002/08 新潮社
  • 「祖母・白洲正子 魂の居場所」白洲 信哉 2002/09 世界文化社
  • 「白洲正子のきもの」白洲正子 2002/09 新潮社
  • 「白洲正子と楽しむ旅」白洲正子 2003/08 新潮社
  • 「白洲次郎の流儀」白洲次郎・涌井清春・他
  • 「白洲次郎 占領を背負った男」北康利 2005/08 講談社
  • 「白洲正子の宿題」「日本の神」とは何か 白洲信哉 /野中昭夫 2007/10 世界文化社
  • 「白洲正子と歩く京都」 白洲正子 2008/03 新潮社
  • 「かたじけなさに涙こぼるる 祈り白洲正子が見た日本人の信心」白洲信哉 2010/10 世界文化社

関連項目

外部リンク

先代
加納久朗
終戦連絡中央事務局次長
松嶋鹿夫
寺崎太郎
山形清と共同
1946年 -1947年
次代
吉沢清次郎
先代
永井幸太郎
貿易庁長官
1948年 - 1949年
次代
(廃止)
==

시라스 지로

출처 : 무료 백과 사전 "Wikipedia (Wikipedia)"
시라스 지로
시라스 지로
『주간 아사히』 1953년 1월 11일호
탄생1902년 2월 17일 일본 · 효고현 고군 정도촌 (현·효고현 아시야시 )
일본의 국기
사망1985년 11월 28일 (83세몰) 일본 · 도쿄도 미나토구 아카사카 ( 마에다 외과 병원 ) [ 1 ]
일본의 국기
직업무역 청장관, 동북전력 회장 등
배우자시라스 마사코 (아내)
어린이마키야마 카츠코 (장녀)
가족시라스 퇴장 (할아버지)
시라스 분헤이 (아버지)
시라스 신야 (손)
템플릿 보기

시라스 지로 (시라스 지로, 1902년 < 메이지 35년> 2월 17일 - 1985년 < 쇼와 60년> 11월 28일 )는 일본사업가 [ 2 ] . 초대 무역 청장관 [ 2 ] . 연합국군 점령하의 일본 에서 요시다 시게루 의 측근으로서 활약해, 종전 연락 중앙 사무국 이나 경제 안정 본부차장을 거쳐, 상공성의 외국 으로서 신설된 무역청의 초대 장관에 취임 후, 통상 산업성(현· 경제 산업성 )을 창설했다 [ 2 ] [ 3 ] . 요시다 정권 붕괴 후에는, 사업가로서 동북전력 의 회장을 맡는 등 많은 기업 임원을 역임했다 [ 2 ] .

평생

살아남다

시라스 지로는 1902년 ( 메이지 35년) 2월 17일 무역상 시라스 분헤이 ·요시코 부부의 두 남자 로 태어났다. 할아버지에게 장교, 사업가, 고베 여학원 의 창설자 중 한 명인 시라스 퇴장 이 있다. 시라스가는 전 미타번의 사족출발이다.

이사와 초등·중등 교육

지로의 출생지는 도쿄 로 하고 있는 책도 있으면 효고현 무고군 정도촌 (현·아시야시)으로 하고 있는 책도 있지만 [ 주 1 ] , 어쨌든 시라스가는 효고현 가와 나베군 이타미 [ 5 ] (현: 이타미시 )에 이사, 지로는 정도 심상 초등학교미카게 사범학교 부속 초등학교 고등과 졸업 후, 1914년 ( 다이쇼 3년) 효고현립 제일 고베 중학교 에 입학해 [ 6 ] , 축구부에 소속했다. 당시 미국 자동차 페이지 오토모빌 ( Paige Automobile )의 글렌브룩을 아버지로부터 사 주어져 급우 등을 동승시키고 있는 사진이 남아 있다. 이 페이지 글렌브룩은 동형차가 도쿄도 마치다시 에 있는 구거 무상장 (후술)에서 전시되어 있다. 고베 제일 중시대에는 다카라즈카 소녀 가극 양성회(현· 다카라즈카 음악학교 )의 학생과 연중이 되었다. 동급생의 친구에게는 나중에 작가로 문화청 장관이 된 오늘 출해 , 그 밖에 중국 고전학의 대가로서 문화공로자가 된 요시카와 코지로 가 있다. 할아버지의 시라스 퇴장이 기독교 전도계 학교고베 여 학원 의 창립에 관여한 것으로부터 시라스가에는 외국인 여성 교사가 기숙하고 있어, 그녀들로부터 직접 영어를 배웠다 [ 7 ] .

영국 유학

캠브리지 대학 클레어 칼리지
클레어 컬리지 도서관 내 SHIRASU COLLECTION 책장
지로가 소유하고 있던 벤틀리・3리터(와쿠이 뮤지엄 수장품)

1919년 ( 타이쇼 8년) 고베 제일중을 졸업하고, 케임브리지 대학 클레어 칼리지 에 유학 [ 8 ] . 사학과의 청강생으로서 서양 중세사, 인류학 등을 배운다. 막대한 공급을 받으면서, 나중에 7대째 스트라포드 백작이 되는 로버트 세실 빙(로빈)과 친교해, 영국 귀족 의 라이프 스타일을 아는 [ 7 ] .

자동차는 부가티 타입 35벤틀리 3리터 (1924년)를 소유. 로빈과 종생의 친구가 되어, 1925년 겨울 벤틀리를 달려 지브롤터 까지의 유럽 대륙 여행( 그랜드 투어 )을 실행하고 있다. 카메라는 Leica 를 소유했다 [ 9 ] . 지로가 소유하고 있던 벤틀리 3 리터는 현재 사이타마 현 카스시에있는 와쿠이 박물관 에 전시되어있다. -지엄 관장에게 가르친 것은, 자동차 평론가의 고바야시 아키타 로이며, 고바야시의 조언에 의해 관장은 당시의 소유자였던 영국인과 협상을 실시해, 이 차가 일본에서 보존되게 되었다 [ 10 ] ). 또 클레어 칼리지 내에 있는 도서관에는, 시라수 콜렉션이라고 칭한 시라스 지로를 기념으로 한 섹션이 있어, 일본 관련 서적이 늘어서 있다 [ 11 ] .

귀국

1928년 (쇼와 3년), 고베시 고베구 (나중의 중앙구 )에서 아버지의 경영하고 있던 시라스 상점이 쇼와 금융 공황 의 부채를 받아 도산했기 때문에, 유학을 단념해, 일본에의 귀국을 강요당했다 [ 12 ] .

1929년 (쇼와 4년), 영자신문 의 ' 재팬·어드버타이저 '에 취직해 기자가 되었다. 백작 · 사카야마 아이스케 의 장남· 중지 의 소개로 그 여동생· 마사코 와 알게 되어 결혼에 이르고, 교토 호텔 에서 화촛의 전을 꼽았다. 혼인신고는 효고현 가와나베군 이타미초 동사무소에 제출되고 있다.

결혼 축하에 아버지로부터 받은 란치아 람다 에서 신혼여행에 나갔다 [ 13 ] . 영자신문 기자를 거쳐 1931년부터 세일·프레이저 상회 에 근무해 이사가 되어, 1937년 (쇼와 12년) 일본 식량 공업(후의 일본 수산 ) 이사가 되었다. 세일 프레이저 상회는 메이지 초기부터 요코하마에서 무역상을 하고 있던 세일 상회와 프레이저 상회가 메이지 30년에 합병해 기관차나 무기 등의 수입과 은행 업무를 행하고 있던 회사로, 사장의 조지 세일은 시라즈의 케임브리지 유학 시절 학우 였다 [ 7 ] .

그동안 상담 등으로 해외로 가는 것이 많아 주 영국 특명 전권대사 였던 요시다 시게루 면식 을 얻고 영국 대사관 을 모두 정숙으로 하기까지 했다. 또 이 무렵, 우시바 토모히코오자키 히데미와 함께 긴에 문면브레인 으로서 행동한다. 근위와는 개인적인 친교도 깊고, 분방한 아들· 문류 의 눈부역을 하고 있던 적도 있었다.

전시하

시라즈 부부가 거주하고 있던 무상장

제2차 세계대전 발발의 다음해인 1940년 (쇼와 15년), 도쿄부 미나미타마군 쓰루가와 무라 노가야(후 도쿄도 마치 다시 노가야 )의 낡은 농가를 구입해, 쓰루가와 마을이 무사시국과 사가미국에 걸치는 장소에 있었기 때문에 무상소 라고 명명해, 정치나 실업의 일선으로부터 떨어져 농업에 힘쓰는 나날을 보냈다.

1943년 (쇼와 18년), 소개처의 백주 아래에 소집 영장이 도착했지만, 영국 시대에 관계를 깊게 하고 있던 동부군 참모장· 다츠미 에이치 에게 탄원하고 붙잡아 달라고 한다. 전후 시라즈와 같은 요시다 시게루의 측근이 된 타츠미였지만, 2009년 미 공문서 기록관리국 의 기밀 해제의 결과, 타츠미는 CIA 협력자로서 일본의 군사 기밀을 미국측에 누설하고 있는 것이 판명되었다 [ 15 ] [ 16 ] [ 17 ]

종전 연락 중앙 사무국

1945년 (쇼와 20년), 히가시 쿠나미야 내각외무 대신 에 취임한 요시다의 간청으로 종전 연락 중앙 사무국 (종련)의 참여에 취임한다. GHQ 의 요구에 대해 시라즈는 영국의 영어 로 주장해야 하는 곳은 완강히 주장하고, GHQ 요인을 하고 “순종하지 않을 유일한 일본인”이라고 말했다 [ 18 ] .

와 천황 으로부터 더글라스 맥아더 에 대한 크리스마스 선물을 전달했을 때 「그 근처에도 놓아주세요」라고 선물이 굉장히 다루어졌기 때문에 격노해 「가령 천황 폐하 인가? 등의 선물을 그 근처에 놓는 것은 무엇인가!」라고 노명하고, 가지고 돌아가려고 맥아더를 당황하게 했다는 에피소드가 「맥아더를 꾸짖은 남자」로서 전기 등으로 유포되고 있다 19 ] . 그러나 점령기의 GHQ 관련 문서를 보관하는 맥아더 기념관의 조사 결과에 따르면 1945년 12월부터 1946년 12월에 걸친 집무기록, 면회예정표, 게스트북, 모두 백주의 이름은 없었기 때문에 이 에피소드의 신빙성에는 의의가 제기되고 있다 [ 20 ] .

헌법 개정

같은 해에는 헌법 개정 문제로 사사키 소이치 교토 제국 대학 교수에게 헌법 개정의 진척을 독촉한다. 1946년 (쇼와 21년) 2월 13일 , 마츠모토 요지 국무대신이 중심으로 기초한 헌법 개정안(마츠모토 안)이 GHQ의 거부에 있었을 때에, GHQ 초안(맥아더안)을 제시되고 있다. GHQ 초안의 번역과 일본 정부안의 작성에 해당한 시라즈는 2월 15일 에 GHQ 초안의 검토에는 시간이 걸리면 코트니 휘트니 에게 서서 [ 주 2 ] 를 내고 시간을 얻으려고 하는데, 이는 GHQ로부터 불필요한 지체는 허용되지 않는다고 밝혔다.

같은 해 3월에 종련 차장으로 취임 [ 22 ] . 8월 경제안정본부 차장으로 취임. 1947년 (쇼와 22년) 6월 18일 , 종련 차장을 퇴임했다 [ 22 ] .

무역청장관

1945년 (쇼와 20년) 12월 15일 , 상공성의 외국으로서 설립된 무역청의 장관 [ 22 ]1949년 (쇼와 24년) 12월 1일에 취임한다. 오직 근절 등에 질팔을 흔들며 상공성을 개조하여 통상산업성 (이후 경제산업성)을 설립했다. 그 질 팔만으로 「시라스 삼백인력」이라고 한다.

일본항공 (1951년)

같은 해, 일본 ​​최대·최신예의 일본 제철 히로하타 제철소(나중 신일 철일본제철 히로하타 제철소를 거쳐 현· 일본제철 세토우치 제철소 )가, 일본측에 반환되게 되었다. 시라즈는 외화 획득을 위해 영국 기업에 매각을 주창하는 것도 나가노 시게오 의 반대로 좌절했다. 나가노는 “(히로하타 제철소를) 잡지 못하면 배고프다. 장래의 일본경제 때문에 제철업을 외국자본에 맡길 수 있을까”라며 애도를 끊었다고 한다.

시라즈는 “나는 자원봉사가 아니다”가 입버릇으로, 영국 유학 시대의 인맥을 풀로 활용해, 주로 영국 기업과 미국 기업의 일본 진출시에 대리인을 맡고, 런던에 마련한 개인 계좌에 성공 보상 베이스로 커미션을 송금하고 있었다.

샌프란시스코 강의회의 전권단 고문

1950년 (쇼와 25년) 4월부터 5월에 걸쳐 연합국과의 강화 문제로 총리 특사로 임명되어 이케다 용인 인상과 미야자와 키이치 조 상비서관과 함께 도미 [ 23 ] , 존 포스터 덜레스 등과 회담, 평화조약 체결 준비를 시작했다.

요시다 시게루 총리(오른쪽)와 기내에서(1951년)

1951년 (쇼와 26년) 9월, 샌프란시스코 강화회의 에 전권단 고문으로서 수행했다. 외무성의 설명에 따르면, 수석 전권이었던 요시다 시게루 는 당초 영어로 연설을 할 생각이었지만, 일본의 「디그니티(존엄)」를 위해, 당일이 되어, 갑자기 일본어로 연설하기로 했다 [ 24 ] 라고 한다. 시라즈에 의하면, 이때 수락 연설의 원고를 외무성의 장교가 GHQ의 양해를 얻은 다음에 GHQ에 대한 미사려구를 나란히 그리고 영어로 쓴 것에 시라스가 격노, 「강화 회의라고 하는 것은, 전승국의 대표와 동등한 자격으로 참석할 수 있을 .

원고는 수행원이 나누어 일본 종이에 모필로 쓴 것을 연결한 길이 30m, 직경 10cm에 이르는 두루마리가 되어, 내용에는 아마 미군도 , 오키나와오가사와라 제도 등의 시정권 반환이 포함되었다 [ 25 ] . 그러나, 샌프란시스코 조약 회의에, 사무의 전 조임으로서 참가한 니시무라 쿠마오 조약 국장은, 수락 연설문은, 일영 양국어로 만들고 있었던 것, 및, 요시다는 영어로 연설한다 모리였지만, 시볼드 대사가 니시무라 쿠마오에게 일본어로 연설하는 것을 추천했기 때문에, 동료나 백주 고문등과 상담했는데, 모두, 찬성이며, 요시다에게 그 취지 전했다, 하고 있다 [ 26 ] .

1952년 (쇼와 27년) 11월 19일 부터 1954년 (쇼와 29년) 12월 9일 까지 외무성 고문을 맡았다. 요시다 퇴진 후에는 정치권을 일부에서 바라는 소리도 있었지만 정치에서 인연을 끊고 실업계로 돌아왔다.

실업계로 복귀

요시다 측근이었을 무렵부터 이미 공사 민영화 를 추진하고 있으며, 1949년 (쇼와 24년)에는 일본 전매 공사 가 발족하고 있다. 그리고 1951년(쇼와 26년) 5월에는, 일본 발송전 의 9분할에 의해 탄생한 9개의 전력회사 중의 하나, 도호쿠 전력 회장에 취임했다. 또 9전력 체제를 만든 ‘전력왕·전력의 악마’ 마츠나가안 좌 에문의 사적 싱크탱크 · 산업계획회의 위원으로 취임했다.

취임의 같은 해 후쿠시마현타다 미가와 유역이 타다미 특정 지역 종합 개발 계획 으로 지정된 것으로부터 1959년 (쇼와 34년)에 퇴임할 때까지, 타다미강 유역의 전원 개발 사업에 정력적으로 움직이는 오타미 댐 등의 건설을 추진했다.

또 당시 도호쿠 지방에서 개발 가능한 수력의 4분의 3을 갖고 있던 타다미가와 [ 27 ]수리권을 둘러싸고, 옛부터의 권리를 주장해 철저히 항전해 온 도쿄전력 에 대해, 당시의 노다 우이치 건설 대신을 설득해, 수리권을 토호쿠 전력으로 전환한다는 초법규적 조치를 이에 따라 동북전력 번영의 기초가 만들어졌다.

도호쿠 전력 퇴임 후 아라카와 수력 전기 회장, 오사와 상회 회장, 대양 어업(현 마르하니치로 ), 일본 TV , 영국 워버그 증권( SG Warburg & Co. )의 임원과 고문을 역임했다.

만년

지로가 소유하고 있던 것과 거의 같은 외관의 포르쉐 911

가루이자와 골프 클럽 의 이사장을 맡아 골프에 흥미를 넘어 80세까지 엔진을 2400cc로 개조한 1968 년형 포르쉐 911S 를 타고 미야케 일생 의 쇼에 모델로 출연하기도 했다. 또, 초대 소아라(Z10형)의 오너이며, 그 개선점을 전하는 형태로 몰후의 1986년 1월에 발매가 개시되게 된 2대째 도요타·소아라 의 어드바이스 등도 행하고 있어, 그 때에 상기의 포르쉐를 도요타에 기증해 참고로 하고 있다.

죽음

효고현 미타시 심월원에 있는 시라스지로 부부의 무덤. 오른쪽이 지로, 왼쪽이 마사코의 무덤

그러나 1985년(쇼와 60년) 11월에 아내 마사코와 이가 교토 여행 후 컨디션을 무너뜨리고 위궤양 과 내장 질환으로 입원, 같은 해 11월 28일에 급성 폐렴 때문에 도쿄도 미나토 아카사카 마에다 외과병원 에서 사망한 83세몰 [ 1 ] . 묘소는 효고현 미타시심월원 이다.

아내 마사코와 자식에 남긴 유언서에는 ' 장례 무용 계명 불용'이라고 적었다. 실은 이 유언서의 문구는 시라스의 아버지가 사망했을 때 남긴 유언의 내용과 완전히 같았다. 그리고 시라즈의 묘비는 마사코의 발안에 의한 부동명왕종자 '칸'을 새긴 만큼의 올림픽 탑형 판비 로, 계명은 적혀 있지 않다 [ 28 ] [ 주3 ] .

덧붙여 1987년 11월에 자동차 잡지 「NAVI」에서, 백주의 ​​생애를 취급한 「일본국 헌법과 벤틀리」(그 후 「시라스 지로의 일본국 헌법―숨겨진 쇼와사의 거인」으로서 간행)이 연재된 적도 있어, 몰후 2년을 거쳐 나름대로 백수.

인물상

시라스 지로에 관한 일차 자료는 거의 현존하지 않고, 실상으로서의 지로는 수수께끼가 많은 인물이다 [ 주 4 ] [ 30 ] . 화려한 경력과 단정한 상모, 그 특유의 미학·신조(그 자신은 그것을 「프린시플」이라고 부른다)나 라이프 스타일에, 훼손의 일화에 싸인 수수께끼가 많은 인물상도 섞여, 그 존재는 그의 사후 어떤 종류의 전설적인 것이었다. 관련 서적과 특집기사는 다수 출판되고 있으며, 그 대부분은 외모나 행동, 행동력에 이르기까지 '외국인( 백인 )을 능가하지 못하는 일본인 '으로 묘사되고 있다 [ 31 ] .

신체적 특징

친교가 있던 프랑스 문학자의 아사부키 등수 자는, 시라스의 외모에 대해 “시라스 지로씨는 매우 키가 크고, 탄탄한 체격으로, 물결치는 긴 머리와 조각이 깊은 일본인 찢어진 외모로, 4,5세의 나는 “그런 미남 은 없어라고 32 ] .

신장 에 대해 손자의 시라스 노부야 는 "지로는 지금과 같이했기 때문에 175cm 정도입니다. 신기하게 새로운 전기가 쓰일 때마다 점점 키가 늘어나고 있습니다. 마침내 185cm까지 늘었습니다 . 33 ] (또, 시라스 자신이 GHQ에 제출한 신상서에는 신장: 1m75cm, 체중: 65kg이다 [ 34 ] ).

시라스 노부야에 의하면, 지로는 말소리 가 있어, 본인에게 말하게 하면, 오히려 일본어보다 영어( 킹스·잉글리쉬 ) 쪽이 말하기 쉬웠다 [ 33 ] . 아내 마사코도 「시라스(지로)는 영어 쪽이 좋았던 정도의 사람이었던 것」이라고 말하고 있다 [ 35 ] .

성격

스스로의 신념에 근거하여 행동하는 「직정일철의 사(사무라이)」라고 아내의 정자로부터는 평가받고 [ 8 ] , 어리석은 언동이나 싸움, 혼란으로 유명했다 [ 36 ] . 친교가 있던 오늘 출해 는 '성장이 좋은 야만인', 아오야나기 케이스케 는 '바람의 남자', 소마 카즈카 는 아니 '바람의 남자'는 오히려 '태풍남'이었다고 나중에 말하고 있다 [ 37 ] . 아내 마사코도 마찬가지로 '난세에 살고 보람을 느끼는 야인', '신세계 평화로운 세상에 통용하는 인간이 아니었다'고 말하고 있어 [ 8 ] , 그러므로 “실은 다양한 장면에서 일본 사회에서는 고립되는 일도 많았을 것”이라고도 장녀의 마키 야마 가쓰코한편 주위 사람들의 증언으로는 영국류 유머가 있어 상냥하고 빛나는 일면도 갖고 있던 것을 알고, 고바야시 히데오 는 "그렇게 단순하고, 스케치 하게 , 심하게 섬세한 신경의 소유자 " 라고 평가해, 그렇게 기분이 좋은 남자는 없다는 평판도 있다 .

취미 취향

구미 문화에 소양이 있던 하이카 라인 대부호의 아버지· 문평 아래에서 태어나 자란 것에 더해, 영국 유학에서 스트라포드 백작가 의 로빈과 교유한 영향 등으로부터, 영국 귀족 류의 라이프 스타일이나 댄디즘을 좋아했다 [ 39 ] . 한편, 자신이 무사 의 가계임을 자각하고, 일본인 으로서의 자부심도 강하게 가지고 있었다 [ 40 ] . 또 예술가로서의 일면을 갖고 있던 아내의 정자와 함께 옷차림에서 취미나 행동규범에 이르기까지 '일류'나 '진짜'임을 요구하고, 그것을 보는 눈(심미안·감식안)도 중시하고 있었다 [ 41 ] [ 42 ] .

패션
남겨진 사진이나 사물 등으로부터 패션 센스가 풍부한 것을 알 수 있다 [ 39 ] . 테틀리 앤 버틀러 (Tetley & Butler), 헨리 풀 , 턴블 앤 어서 (Turnbull & Asser ) 같은 전통적인 재단사고객 명단 에 백주의 이름 있으며 , Lock & Co. )의 모자, 재규어 르쿨트르 의 회중 시계, 롤렉스 의 시계 [ 주 5 ] 가 현존하는 등, 일상적으로 유럽의 고급 브랜드를 몸에 감고 있었다고 하는 한편으로, 작업복인 청바지 를 일본에서 처음으로 패션에 도입한 남자라고도 알려져 있다 [ 39 ] . 일본의 브랜드에서는 이세이 미야케 를 좋아했다 [ 45 ] . 미야케와는 마사코가 옛부터 교제가 있어, 지로와도 그 후 친해졌다 [ 46 ] . 그런 인연에서 다나카 잇코 감수에 의한 이세이 미야케 최초의 작품집 'East Meets West'(1978년)에서 부부로 패션 모델 을 맡았다 [ 46 ] .
자동차
취미 중 하나는 자동차 [ 47 ] . 아내 마사코는 지로에 대해 "그는 죽을 때까지 오일리 보이 [ 주 6 ] 이었다"고 말했다 [ 47 ] . 그 생애로 환승해 온 차는, 판명되고 있는 것으로, 페이지( Paige automobile )·그렌브룩, 부가티·타입 35 , 벤틀리·3 리터 (실차 현존), 란치아·람다 (실차 현존), 초대 포르쉐·911 , 랜드로버 시리즈 1 (실차 현존), 초대 도요타 소아라 , 메르세데스 벤츠 W116 [ 48 ] , 초대 혼다 시빅 [ 48 ] , 미쓰비시 미라지 [ 49 ] , 스바루 4WD [ 49 ] 등. 그 중에서도 도요타·소아라의 풀 모델 체인지에 있어서의 지로의 공헌은 크고, 2대째 소아라를 보지 않고 사망한 지로에 대해서, 그 완성을 보고하기 위해, 당시의 도요타 쇼이치로 사장과 장남의 장남 은, 마사코 함께 2대째 소아라 를 타고, 지로의 묘참에 가고 있다 .
목수
손끝이 기용으로 일요일 목수 도 취미의 하나 [ 47 ] . 샤모 지나 소품 넣어, 캐스터 테이블 등 일용품을 잘 만들고 있었다. 이들은 현재도 무상장 에 전시되어 있다. 2009년 에 맥아더 기념관의 창고에서 시라즈가 설계해 더글라스 맥아더 에게 선물받은 의자와 서한이 발견되었다. 서한에는 직역하면 "Your most obedient servant. Jiro Shirasu.(당신의 가장 순종하는 하인 시라스 지로)"라고 서명되어 있었지만, 이것은 당시의 공식 문서에서 가장 정중한 문면에서 사용되는 문언이며, 가래를 나타내는 말이 아니다. 당시에는 「경구 시라스 지로」에 해당한다 [ 51 ] .
스포츠
골프를 좋아하고, 영국 유학 시절에 기억했다고도 [ 47 ] , 본격적으로 시작한 것은 귀국 후 28세경이라고도 한다 [ 52 ] . 만년에는 나가노현가루이자와초 에 있는 명문 골프장 「가루이자와 골프 클럽」에서 이사장을 맡았고, 골프장 근처에는 여름의 별장이 있었다( #가루이자와 에서 상세히 설명). 봄이나 가을에는 가나가와현지가사키시 에 있는 골프장 「쓰리 핸드 레드 클럽」에서도 플레이하고 있었다고 한다 [ 45 ] . 백주 골프에 능숙한 서투른 것은 요구하지 않고, 「어떻게 그 밤의 술의 맛을 잘 하는가」라고 하는 것으로 하고 있었지만 [ 53 ] , 핸디캡은 한자리수의 4라고 하는, 상당한 솜씨였다 [ 36 ] . 겨울에는 스키 를 선호했다고 하며, 당초에는 나가노현의 시가 고원 에 있는 키토이케 스키장 에 스키 시즌에 사용하기 위한 별장이 있었지만, 토호쿠 전력 회장이 되었다 야마가타현 의 자오 온천 스키장 에 방문하게 되면 , 전술한 별장을 놓고, 동지 위의 대 게렌데 근처에 별장 「휴테 야렌」을 새롭게 세우고 있다 54 ] [ 55 ] . 이 별장은 현존하고 있어 보존·활용의 모임이 발족하고 있다 [ 56 ] . 「퓌테 야렌」의 명칭은, 능숙하게 스키를 할 수 없는, 「흠토렌」이라고 하는, 유머, 농담이다 [ 57 ] . 또 야구 도 좋아해, 대양어업 의 사외 중역이었던 적도 있었기 때문인지, 프로야구 에서는 대양 고래 를 희망하고 있어, 동구단의 캡을 드라이브 등에서는 잘 입고 있었다 [ 36 ] .
먹다
야채 싫었던 지로가, 가정에서 일상적으로 먹고 있던 것이 카레라이스 [ 58 ] . 의리의 아들 마키야마 케이오 에 의하면, 원래는 아내의 친가·자야마가에서 먹고 있던 레시피로, 지로는 카레를 서양식의 연장으로서 파악해, 스푼이 아니라 포크를 사용해 먹고 있었다고 한다(스푼은 어디까지나 스프에 사용되는 것이라고 하는 이유 로부터 [7 ] ) [ . 스시 도 또 시라스의 대호물로, 긴자 의 명점 「키요다」를 희망하고 있던 것은 잘 알려져 있다 [ 60 ] . 달콤한 것을 좋아하고, 도라야키 도 좋아하는 것의 하나였다 [ 61 ] . 술은 위스키 를 좋아했다 [ 62 ] . 학우의 스트라포드 백작으로부터, 매년과 같이 영국으로부터 통으로 위스키를 보내 주고 있어, 그것을 엎고 있었다고 한다 [ 63 ] . 시판되는 위스키에서는 맥카란 을 좋아했다고 여겨진다 [ 62 ] . 황족과 정재계인이 모이는 사적인 와인 회에도 발길을 옮겼다 [ 64 ] . 커피 는 이탈리안 로스트로 세세하게 갈아서 끓인 것을 좋아해, 아오야마의 키노 쿠니야 에서 잘 구입하고 있었다. 얼굴 친숙했던 커피 매장의 점원은, 백주의 ​​사보를 전하는 신문 기사로 처음으로 소성을 알고 경악하는 것과 동시에, 「농담 좋아하고 멋진 할아버지였다」라고 뒤에 취재에 대답하고 있다 [ 65 ] .
음악
아내 마사코가 클래식 음악 에 조예가 깊었던 것은 그녀의 수필에서 엿볼 수 있지만 지로가 어떤 종류의 음악을 좋아했는지는 불분명하다. 그러나 코미디언의 나베오사미 에 의하면, 1953년에 긴자재즈 카페「테네시」에서 시라즈와 우연히 동석해 재즈 담의를 했다고 말하고 있어, 그 가운데 시라스는 데뷔전의 아키요시 토시코 의 연주를 보고 「그녀는 진짜다」라고 말하는 , 적어도 재즈에게는 정통하다 ] .
시골 좋아
시라즈는 "컨트리 젠틀맨"(시골 귀족 [ 주 8 ] )의 생활을 좋아했다 [ 47 ] . "시골에 본거지의 컨트리 하우스 ( 매너 하우스 )를 두고 도시에 타운 하우스를 가진다"는 이 영국 귀족의 라이프 스타일은 북 잉글랜드 의 하이 그린( High Green )에 호화 로운 성관을 짓고, 런던 타운 하우스를 운영하고 있던 스트라포드 백작가의 로빈으로부터 큰 영향 을 준다 . 1940년에 도쿄의 교외 쓰루카와무라 에 자택 「무상장」을 세운 것은, 이러한 「컨트리 라이프」를 경영하기 위해서였다. 1960년대에는 도쿄의 아카사카 에 타운 하우스로서 작은 빌딩 일동을 지어 장남·차남 가족과 층을 나누어 생활했다 [ 69 ] .
여성 좋아
시라스는 아름다운 여성에게 눈이 없었던 것 같고, 손자의 시라스 신야에 따르면, 집의 벽난로소각로 의 불을 보는 것을 좋아했던 지로에게, 어느 만남의 마사코가 「불을 좋아하는 사람은 조평 이야」라고 말하면 돌려주는 칼로, 조평이 아닌 남자가 있는 것인가」라고 했다 . 고베 제일 중시대에 다카라즈카 소녀 가극 양성회(현· 다카라즈카 가극단 )의 학생과 연중이 된 것은, 어린 시절의 일화로 알려져 있다. 패션 모델 마츠모토 히로코카루이자와 의 별장을 방문하면 테라스에서 그녀의 옆에 앉아 데레데레하고, 그것은 이미 기분이 좋았다고, 이누마루 이치로 의 장남 테루로는 말했다 [ 71 ] . 미야케 일생에 의하면, 쇼츄 「일생씨, 있어?」라고 시라스가 부담없이 회사에 와 주었지만, 그것은 미야케가 목적이었던 것이 아니라, 근처에 있는 여성등과 「밥을 먹으러 가자」라고 하는 것이 목적이었던 것 같다고 한다 [ 46 ] . 또한, 평생 동반 한 아내 마사코와의 약혼 시대에는 서로 자신의 포틀릿에 문장을 더해 주고 있었지만, 지로는 「You are the fountain of my inspirations and the climax of my ideals 72 ] .

생활

손자의 시라스 신야에 의하면, 자주 지로는 부부 원만의 비결을 묻자 「 함께 없는 일이다」라고 연기에 감고 있었다 . 신야에 있어서 무상장은 할머니 마사코의 거주라는 감각으로, 할아버지 지로는 아카사카와 여름의 카루이자와를 오가고(마사코는 지로와 시기를 어긋나고 가을에 카루이자와에 갔다고 한다 [ 73 ] ), 두 사람이 함께 되는 것은 별로 없었다 [ 69 ] . 무상장에 때때로 지로가 돌아가도 아침 이른 지로는 커피를 스스로 끓여 아침 식사를 끝내고 목수 일 등에 정을 낸다 [ 69 ] . 대조적으로 마사코의 아침은 늦었고, 아침 식사도 다니는 도우미가라는 상태였다 [ 69 ] . 엇갈림은 사람 사귀기에도, 마사코가 친구와 만황하고 있어도, 지로는 「그럼 앞으로」라고 일찍 퇴산해 섞이지 않았다고 한다 [ 69 ] . 아이에의 접하는 방법도 대조적으로, 지로는 손자들에게 「뺨에 푸고」라고 서양풍의 인사를 강요, 만나면 반드시 용돈으로 그 나름대로였지만, 마사코는 인사도 거기서 서재에 농담하는 시간이 길고, 신야 따르면 9

카루이자와

시라스 부부가 전전부터 전후, 그리고 최저년에 이르기까지 일관되게 다녔던 장소가 나가노현 에 있는 피서지 · 가루이자와 였다 [ 74 ] [ 75 ] . 가루이자와는 유럽과 비슷한 고원 풍경이 펼쳐져 메이지 시대 에 서양인이나 상류계급을 위해 피서지로 개척된 곳으로 '일본 속의 서양'으로 보이지만 [ 76 ] , 지로가 카루이자와를 방문하게 된 것은, 아내의 친가 사카 야마가구 카루이자와만평 호텔 근처에 별장을 가지고 있었기 때문이었다 [ 32 ] . 결혼 후, 부부는 구가루이자와의 다른 장소에 별장을 빌려(하우스 넘버 903번), 거기서 여름의 생활을 보내게 된다 [ 32 ] [ 71 ] . 전후의 1956년, 카루이자와 골프 클럽 근처의 미나미가오카에 새롭게 별장을 세워, 이후 거기에 매여름 방문해, 만년까지 사용했다 [ 71 ] .

시라즈는 가루이자와에서 국내외의 유명인들과 도쿄에 있을 때와 마찬가지로 교류를 가졌다. 별장(구 가루이자와) 옆에 살고 있던 가와카미 테츠로 부부의 지우를 얻고, 친교를 맺은 것 외에 [ 77 ] , 호소카와 후 작가, 미쓰이 가, 아사부키 가, 아소 가 등의 일족과 가족 구루미의 교제를 보내 [ 71 ] , 제국 호텔 전 사장인 이누마루 이치로는 시라스에게 추천되어 카루이자와에 별장을 세웠다 [ 71 ] . 모교 캠브리지 대학러그 비치 돔이 일본에 왔을 때, 카루이자와에 그들을 초대하고있다 [ 78 ] . 한편, 카루이자와에서의 시라스의 모습을 아는 장녀 부부에 의하면, 시라스 부부는, 화려한 파티 에 가는 것이 그다지 좋아하는 타입이 아니었다고도 지적하고 있다 [ 71 ] . 손자의 시라스 신야에 따르면, 저녁이 되면 지로는 드라이 마티니진 토닉 등의 식전주를 만들고, 그것을 마시면서 벽난로에 장작을 먹는 것이 가루이자와에서의 일과였다고 한다 [ 70 ] . 또한, 카루이자와의 구 시라즈가 별장은 이미 현존하지 않고(2021년 시점에서는 현존하고 있던 것 같다 [ 73 ] ) [ 71 ] , 현재 는 쥬얼리 브랜드 「AHKAH」의 창업자로 미술가의 후쿠오지 주미가 유적지 에 별장 을 세우고 있다 [ 7 ] 다만, 시라스의 장녀인 마키야마 가쓰코 와 손자의 시라스 신야는 각각 가루이자와에 별장을 소유하고 있고 [ 71 ] [ 73 ] , 시라스가와 가루이자와의 관계는 현재까지 계속되고 있다.

가루이자와 골프 클럽에서 지로는 명물리 사장으로 알려져 있었다 [ 80 ] . 도쿄에서 포르쉐랜드로버 를 날려 클럽하우스에 탑승하면, 플레이에 오는 회원들의 매너에 주저없이 주의했다고 한다 [ 81 ] . 시라스 본인도, 「가루이자와에서는 내가 시끄럽다고 평판을 취하고 있다」라고 말하고 있다 [ 53 ] . 그 중에서도 당시 총리 였던 다나카 카쿠 에이와 골프와 관련된 “공방”이 펼쳐진 것은 유명하다. 자세한 것은 카루이자와 골프 클럽 #에피소드 를 참조.

지로가 마지막으로 카루이자와를 방문한 것은, 죽기 직전의 1985년 가을이며, 만년이 되고 나서는 그때까지 거의 없었던, 마사코와의 두 사람 여행이었다 [ 77 ] .

덧붙여서, 장녀의 가쓰라코와 남편의 마키야마 케이오(정치가· 마키야마 경장 의 손자)가 처음 만난 것은, 서로 가족으로 피서에 온 여름의 카루이자와이다 [ 71 ] .

발언집

  • “우리들의 시대에 이 바보 같은 전쟁을 하고, 원래도 아이도 없게 한 책임을 더 통렬하게 느끼는 것 같지 않을까. 일본의 경제는 근본적인 재건을 요구하고 있다고 생각한다” [ 82 ]
  • "헌법에 이르러 다양한 법규는 미국에서도 성립 불가능한 것들을 가만히 성립시켜 점점 특기를 늘려갔다. 하고, 선의인지 악의인지 판단 따위 밖에서, 단지 처음으로 화학 실험을 한 아이가, 시험관에 여러가지 약품을 넣어 재미있었다고 생각하면 뭐 큰 실수는 없을 것이다」[ 83 ]
  • “자신은 필요 이상으로 하고 있는 거야. 점령군의 말이 되어버린 것이 아니라는 것을 국민에게 보여주기 위해 굳이 극단적으로 행동하고 있어. 위정자가 그만큼 저항했다는 것이 남지 않으면 나중에 국민으로부터 의문이 나와 반드시 비판을 받게 된다”
  • “이 헌법은 점령군에 의해 강제된 것임을 명시 해야 했다. 역사상의 사실 을 편리하게 속인 곳에서 무엇이 된다 .
  • 프린시플 이란 무엇이라고 번역하면 좋을지 모른다. 원칙이라고도 할까. 일본도, 점점 국제사회의 일원이 되어, 우리도 점점 외국인과의 접촉이 많아진다. 서양인과 교류하기 위해서는, 모든 언동에 푸딩 시플이 뚜렷한 것은 절대로 필요하다. [ 85 ]
  • “신헌법의 프린시플은 훌륭한 것이다. 주권이 없는 천황이 상징이라고 하는 형태로 남아, 법률적으로는 무엇이라고 하는지 모르지만 정치의 기구로서는 무엇인가 중심이 아이마이인, 전대 미문의 헌법이 완성되었지만, 이것도 헌법 등에는 즈브의 아마추어의 미국의 그러니까 무리도 없다. 하지만 그 프린시플은 실로 훌륭 하다 . [ 84 ]
  • “나는, “전후”라고 하는 것은 치수나 부드럽게 소실하는 것이라고는 생각하지 않는다.우리가 현재 목소리 높게 주창하고 있는 신헌법도 데모 클래시도, 우리의 진정한 자신의 것이 되어 있다고는 생각 하지 않는다 .
  • 「점령하의 일본에서, GHQ에 저항인 저항을 한 일본인이 있었다고 하면, 단지 2명――한 명은 요시다 시게루이고, 다른 한명은 이 나라다. 요시다씨는, 그것이 국민의 인기를 얻는 곳이 되어 계속 표가도를 걸었지만, 또 한명의 나는 별로 국민으로부터 인정받는 일도 없고, 이렇게 안락한 생활을 보내고 있다. [ 86 ]
  • “세금이 넘어 우리의 생활이 지금보다 훨씬 괴로워져도 여전히 외국 군대를 국내에 주둔시키는 것보다 좋다는 것이 국민의 총의라면 안보 등 해소해야 한다” [ 85 ]
  • “지금의 정치가는 교통 순사다. 눈앞에 온 차를 헤매고 있을 뿐이다. 그것만으로 경시 총감이 되고 싶다. 정치가도 재계의 위쪽도 뜻이 없다. 입장에서 손에 넣은 만큼의 권력을 자신의 능력이라고 착각하고 있는 녀석이 많다” [ 87 ]
  • “요시다 시게루가 저지른 최대의 실수는 자신도 동행해 갔던 샌프란시스코의 일본의 독립이 보인 강화조약의 국제회의에서 미국제의 헌법의 파기를 선언하지 않았던 것이다” [ 88 ]

제3자에 의한 시라스지로 평

여기에서는 제3자에 의한 비판적인 시라스지로 평을 꼽는다.

가계

시라스가

시라스가는, 섭진국 미타번 (현·효고현 미타시를 중심으로 한 지역)의 유학자 의 가문. 소조부는 시라스 후미고로, 소조 모는 하리마 오노번 (현·효고현 오노시 ) 이치야나기씨가로 쿠로이시씨의 딸·사토코 [ 95 ] . 할아버지는 미타 번 유의 시라스 퇴장 ( 분정 12년 7월 15일 ( 1828년 8월 15일 [ 95 ] ), 현재의 효고현 미타시 저택초에서 출생). 퇴장은 메이지 유신 후에는 철도 부설 등의 사업을 흥행하고, 일시 요코하마 정금은행두취 도 맡았다 [ 95 ] . 또 현재의 모토마치 , 산노미야고베항 주변의 고베시 의 도시 개발이나 고베 홈( 고베 여학원 대학 의 전신)의 창립에도 노력했다.

아버지· 시라스 분헤이하버드 대학 졸업 후, 미쓰이 은행 , 종연 방적(카네보, 현· 클라시에 )을 거쳐 무역으로 거만의 부를 구축해, 호방기락인 인품으로 「시라스 장군」이라고 불렸다. 일본 각지에 저택을 세우고, 그 중에서도 분헤이가 효고현 카와 나베군 이타미쵸 에 세운 대호저는 「시라스 저택」이라고 불리며, 마을의 랜드마크적 존재였다고 전해지고 있다.

후손

약년보

  • 1902년(메이지 35년) - 2월 17일, 현재의 효고현 아시야시에서 탄생.
  • 1914년(타이쇼 3년) - 고베 1중 입학.
  • 1919년(타이쇼 8년) - 고베 1중 졸업 후, 영국에 도항.
  • 1924년(타이쇼 13년) - 케임브리지 대학에 청강생으로 유학.
  • 1928년(쇼와 3년) - 시라스 상점 도산. 요즘 귀국.
  • 1929년(쇼와 4년) - 재팬 어드버타이저 입사. 11월 19일, 마사코와 결혼. 요즘 마사코의 아버지를 통해 요시다 시게루와 알게 된다.
  • 1931년(쇼와 6년) - 2월 5일, 장남 춘정 탄생. 세일·프레이저 상회 입사, 이사가 된다. 요즘부터 자주 유럽.
  • 1937년(쇼와 12년) - 일본 식량 공업(후의 일본 수산) 이사 취임. 이윽고 이사 외지부장이 된다. 요즘 근위 문면과 알게 된다.
  • 1938년(쇼와 13년) - 1월 3일, 차남 겸 탄생.
  • 1940년(쇼와 15년) - 6월 3일, 장녀 가쓰코 탄생.
  • 1942년(쇼와 17년) - 이 무렵, 일본 수산을 퇴직해 제국 수산 이사 취임. 이 무렵, 미나미타마군 쓰루카와무라(현재의 마치다시 )에서 농가를 구입.
  • 1943년(쇼와 18년) - 이 무렵, 쓰루가와무라로 이사(= 무상장 ).
  • 1945년(쇼와 20년) - 종전 연락 사무국 참여에 취임.
  • 1946년(쇼와 21년) - 2월, 일본국 헌법 제정 작업에 참가. 3월 1일, 종전 연락 사무국 차장에 취임, 고등관 일등이 된다. 12월 경제안정본부 차장으로 취임. 요즘 요미우리 쟁의 에 개입.
  • 1947년(쇼와 22년) - 종전 연락 사무국 차장을 퇴임.
  • 1948년(쇼와 23년) - 12월 무역청 장관으로 취임.
  • 1949년(쇼와 24년) - 5월 24일 무역청 장관 퇴임. 다음 25일, 통상산업성 설립. 요즘 일본 제철 히로하타 제철소의 외자 매각 문제 소동.
  • 1950년(쇼와 25년) - 4월 25일, 요시다 시게루 총리의 특사로서 방미. 이 무렵, 미국 대사 취임의 이야기가 나오지만 통좌. 이 무렵, 구 일본군 하리마 조병 폐불 문제. 이 무렵, 일본 수출입 은행 설립에 분주.
  • 1951년(쇼와 26년) - 5월 1일, 도호쿠 전력 회장 취임. 9월 8일, 샌프란시스코 강화 조약 조인에 입회한다. 이 무렵, 「일본의 라스푸틴」등 시라즈 배싱 다수.
  • 1952년(쇼와 27년) - 카루이자와 골프 클럽 상임 이사 취임. 11월 19일, 외무성 고문에 취임. 요시다 총리의 특사로서 구미 시찰.
  • 1953년(쇼와 28년) - 2월, 요시다 총리의 특사로서 유럽 시찰. 요시다의 목숨을 받고 처칠 에 면회하려고 했지만 완수하지 않고.
  • 1955년(쇼와 30년) - 구 일본군 욧카이치 연료 환불 문제.
  • 1959년(쇼와 34년) - 4월 10일, 도호쿠 전력 회장 퇴임.
  • 1966년(쇼와 41년) - 도쿄 아카사카에 이사.
  • 1982년(쇼와 57년) - 2월, 카루이자와 골프 클럽 이사장으로 취임.
  • 1985년(쇼와 60년) - 11월 28일, 사망.

시라스 지로를 다룬 작품

TV드라마
영화
  • 밤의 나비』(1957년 7월 공개) 야마무라 사토시 가 연기하는 시라사와 이치로라는 남자를 둘러싸고 긴자의 엄마 끼리가 싸워, 이 남자는 시라스 지로가 모델로 되어 있다 [ 96 ] [ 97 ] . 모델이 된 긴자의 바는 '에스포와르'와 ' 오소메 '의 2곳이다. 이시이 묘코 의 '아마메 전설의 긴자 마담의 수기로 화려한 반생'(요센사, 2006년)에 따르면, 시라스는 '에스포아르'의 엄마·카와나베 루미코와 애인 관계에 있었다고 한다.
  • 일본 독립』(2020년 12월 공개) 시라스 역은 아사노 타다노부 .
다카라즈카 가극

다카라즈카 가극단 · 주조 (소라구미)는, 2008년에 「여명의 바람」이라는 제목으로 시라즈의 파란의 생애를 다뤘다. 2월, 다카라즈카 대극장 에서 초연. 이 대극장은 다카라즈카 가극단의 본거지이며, 효고현 다카라즈카시 는 시라스가의 출신지인 미타시의 옆마을이기도 하다. 2-3월은 다카라즈카 대극장에서 [ 98 ] , 4-5월은 도쿄 다카라즈카 극장 에서 상연. 5월에 DVD나 CD도 발매.

시라즈를 연기한 것은 이 가극단 이사로 전과의 굉유 . 맥아더( 야마토 유하 )나 요시다 시게루(전과의 여의도 )를 타카라젠느 가 연기 화제가 되었다. 시라즈는 도호에 큰 영향을 갖고(본인은 필름 납입 등으로 직접 관계를 지니고 있는 형·자카야마 쵸지는 도호 이사, 장남·춘정은 전 토호 히가시 와 사장), 또 전술한 바와 같이 시라스 가 고베 제일 중시대에 타카라젠느와 아는 여자친구로 한 것 등 다카라즈카 가극단에 대한 다양한 에피소드를 가지고, 극중에서도 접해지고 있는 부분이 있다.

기타 작품

각주

주석

  1.  낡은 책에서는 스스로 프로필을 도쿄 태어나고 있다 [ 4 ] .
  2.  이른바 "지프웨이 레터". 휘트니의 대답은 국립 국회 도서관 에 저장되어있다 [ 21 ] .
  3.  마사코의 묘비도 계명이 없는 동형의 올림픽탑형판비로, 종자는 십일면 관음 의 「캐」가 새겨져 있다 [ 28 ] .
  4.  지로는 죽기 몇 년 전, 며칠에 걸쳐 낡은 가방을 꺼내, 안의 서류를 차례차례로 불에 빠져 있어, 장녀의 카츠코가 「무엇을 태우고 있는 거야? 29 ] .
  5.  시라즈는 이 롤렉스를 홍콩 카지노 에서 영국인 사업가로부터 포커 로 이기고 손에 넣었다고 한다 [ 44 ] . 재즈 카페 에서 시라즈와 우연히 만났다는 코미디언의 나베오사미 에 의하면, 그 때는 파텍크 필립 을 착용하고 있어, “이것은 전세계의 시계가 목표로 하고 있는 진짜 중의 진짜다”라고 말했다고 한다 [ 42 ] .
  6.  마사코에 따르면 영어권에서는 열렬한 자동차 매니아를 'Oily Boy'라고 부르고 있었다고 한다(매일처럼 기름 투성이가 되어 자동차를 괴롭히는 남자라는 의미) [ 47 ] .
  7.  실제로 영국을 비롯한 유럽 국가에서는 이러한 이유로 카레를 포크로 먹는 문화가 확인되고 있다 [ 59 ] .
  8.  직역하면 '시골 신사' 혹은 '시골 귀족'이 되지만, '시골 신사'라는 용어는 일본어로 일반적으로 '신사를 쓰고 있지만 어딘가 세련되지 않은 곳이 있는 남자' [ 67 ] 라는 의미로 사용되기 때문에 어느 쪽이라도 '시골 귀족'이 더 가깝다.
  9.  인연이 있어 시라스가의 땅을 양도한 후쿠오지는 시라스 지로가 보고 있던 경치를 남기는 것에 주력해 건물을 설계했다고 한다 [ 79 ] .

출처

  1.  사상 최초의 대조사 저명인 100명이 마지막에 의지한 병원 당신의 병원 선택은 틀리지 않습니까 ”. 현대 비즈니스 (2011년 8월 17일). 2019년 12월 26일 열람.
  2.  시라즈지로 , 출처: 『디지털판 일본인명대사전+Plus』(고단샤) 및 『디지털대사천』(쇼가쿠칸), 코토뱅크.
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관련 문헌

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  • 「시라스 마사코 자전」시라스 마사코 1994/12 신시오샤
  • "시라즈 마사코 나의 골동품"시라스 마사코 1995/05 구룡당
  • 「시라스 마사코를 읽는다」타다 토미오・다른 1996/01 구룡당
  • "시라즈 마사코의 세계"시라스 마사코 1997/04 히라 범사
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  • "시라즈 마사코와 즐기는 여행"시라스 마사코 2003/08 신시오샤
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  • "시라즈 마사코와 걷는 교토"시라스 마사코 2008/03 신시오샤
  • 「지연함에 눈물을 흘리는 기도 시라스 마사코가 본 일본인의 신심」시라스 노부야

관련 항목

외부 링크

선대
카나 쿠로
종전 연락 중앙 사무국 차나가
마츠시마 카오 테라
사키 타로
야마가타 키요 와 공동
1946년~1947년
차대
요시자와 세이지로
선대
나가이 코타로
무역청장관
1948년 - 1949년
차대
(폐지)
==

Jirō Shirasu

From Wikipedia, the free encyclopedia
Jirō Shirasu
白洲 次郎
Jirō Shirasu (From Shūkan Asahi, 1953)
Born17 February 1902
Died28 November 1985 (aged 83)
SpouseMasako Shirasu
ChildrenKatsurako Makiyama

Jirō Shirasu (白洲 次郎, Shirasu Jirō; 17 February 1902 – 28 November 1985) was a Japanese businessman and official. He was a confidant of Prime Minister Shigeru Yoshida and served as a liaison between Japanese cabinet and the Supreme Commander for the Allied Powers during the American occupation of Japan.

Early life and education (1902–1928)

Jirō Shirasu was born in Ashiya in Hyogo Prefecture, on 17 February 1902, the second son of Bunpei Shirasu, a wealthy businessman. Jirō's paternal grandfather Taizō was a prominent samurai of the Sanda Domain who had supported the Meiji Restoration, later becoming a businessman and briefly president of the Yokohama Specie Bank. Taizō had been involved in the founding of the precursor of Kobe College. American teachers at the school often boarded with the Shirasu household, and Jirō Shirasu learnt English from them at a young age.[1][2]

Shirasu attended Hyogo Prefectural Kobe High School and graduated in 1921. Afterwards he went to England to further his studies at Cambridge University at the urging of his father. By his own account, Shirasu was a troublemaker in his youth and him studying abroad had been arranged by his father as a form of "exile."[1][2]

Shirasu enrolled in Clare College at Cambridge University in April 1923 and read medieval history. His best friend at Cambridge was Robert Cecil Byng, nephew of Edmund Byng, 6th Earl of Strafford, and later the 7th Earl. Shirasu adopted the style and manners of an English gentleman. He also cultivated a passion for cars, acquiring both a Bentley 3 Litre and a Bugatti Type 35. During winter break in 1925 he made a tour of the European continent together with Byng in his Bentley, driving down to Gibraltar and back.[1][2]

Shirasu got his degree in 1926 and enrolled in graduate school, intending to become a scholar, but the Showa financial crisis caused his father’s company to go bankrupt, forcing Shirasu to return to Japan in 1928.[1][2]

Business career and war years (1928–1945)

The main house of Buaisō

On his return to Japan, Shirasu began working for the English-language newspaper, the Japan Advertiser. The following year he married Masako Kabayama, daughter of Count Aisuke Kabayama. Shirasu switched from journalism to business in 1931, first working for a trading company, and later becoming a director of a fishery company in 1937.[2]

His position required him to make frequent business trips to London. Shirasu struck up a friendship with the Japanese Ambassador at the time, Shigeru Yoshida. They were already acquainted because their respective fathers-in-law, Aisuke Kabayama and Nobuaki Makino, were good friends.[2]

After the Pacific War broke out Shirasu predicted there would be food shortages in Tokyo. He therefore bought a farm in Tsurakawa Village on the outskirts of Tokyo. The residence was dubbed Buaisō. In 1943, Shirasu withdrew from business and devoted himself to farming for the rest of the war.[2]

Public service (1945–1954)

After the surrender, Japan came under American occupation. In December 1945, Shirasu was recruited by his friend Shigeru Yoshida, who had become foreign minister, to the Central Liaison Office. Shirasu would be liaison between the Supreme Commander for the Allied Powers and the Japanese cabinet.[2] He is particularly remembered in Japan for an incident in Christmas 1945 where he delivered a present from Hirohito, Emperor of Japan to General Douglas MacArthur. When MacArthur told him to place it on the floor, Shirasu demanded a table to show respect.[3] At that time, he is said to have said, "Although we were defeated in war, we didn’t become slaves."[4][5][6]

He was promoted to deputy chief of the Central Liaison Office in March 1946. After Yoshida had become prime minister, Shirasu was concurrently appointed deputy director-general of the Economic Stabilization Board in December 1946. He left all public positions when Yoshida Cabinet ended in May 1947. After Yoshida returned to the premiership, he appointed Shirasu became director-general of the Board of Trade in December 1948. He advocated the merger of the Board with the Ministry of Commerce and Industry, forming the Ministry of International Trade and Industry in May 1949. He thereby relinquished his position.[2][7]

Shirasu was chosen as the first chairman of the Tohoku Electric Power Company in May 1951.[7]

Later life (1954–1985)

Shirasu served as chairman of the Tohoku Electric Power Company until 1959. He was afterward involved in a number of other business activities while continuing to live at Buaisō.

Jirō Shirasu died on 28 November 1985, at the age of 83.

In the post-war era, his wife Masako Shirasu had become a collector and expert of fine Japanese art, on which she published a number of books. She died in 1998 and three years later their house Buaisō became a museum.

Shirasu was the subject of an NHK drama in 2009.

References

Citations

  1.  Tokumoto 2015, p. 503.
  2.  Sudo, Takamitsu. "年譜". Buaiso. 株式会社こうげい. Retrieved 10 June 2024.
  3.  Corkill, Edan (6 March 2009). "Redefining defiance for a modern Japan - The Japan Times". The Japan Times.
  4.  白洲次郎の生涯をかけたメッセージ
  5.  プリンシプルのない日本 白洲次郎
  6.  「敗戦最露出の憲法。今に見ていろ、ひそかに涙す」改正草案に白洲次郎の無念 - 産経新聞
  7.  Johnson 1982, pp. 189–193.

Sources

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