2026-09-20

戦後81年 きょう終戦の日 子や孫に連鎖する”戦争トラウマ”【報道特集】 - YouTube

戦後81年 きょう終戦の日 子や孫に連鎖する”戦争トラウマ”【報道特集】 - YouTube




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今日は終戦から81 年。過酷な体験により心を壊されていった兵士たちは今なおその苦しみの中にいます。 [音楽]
元兵士だけでなく子小や孫にまで連鎖する戦争トラウマ。私たちはその実態を取材しました。新潟県村上市北に向かいます。実際の戦場を体験した方が存命だと聞いたからです。
こんにちは。ああ。 あ、わざわざすいません。佐藤さん。
はい。どうも。 どうも。草と申します。わざわさんありがとうございます。どうもすいません。ご苦労様でした。
はい。どうもありがとうございます。どうも。 お名前と青年日
はい。 お年を教えてください。 はい。はい。佐藤鉄王昭和大正発年
9月19と 今おいくつですか?何歳ですか?
あ、シャ6歳だな。 あんまり考えて
佐藤哲夫さん さっきの対戦で最も無謀と言われたインパール作戦を生き抜いた
1人です。考え 山 インパール作戦
敵の補給路を立つため 要少であるインパールを攻略する作戦でしたをめている軍
しかし過酷な地理的条件と兵坦を無視した作戦に当初から苦戦を強いられました。
佐藤さんの足には戦場で受けた傷跡が生々ましく残っています。
本当だ。 これが弾出たのはここだよ。 え、
ここから入ってこ、 その下の方まで こがだから2ヶ月3
ヶ月もこったからここが腐ってここまで弾下がさん
玉がだんだん下がってきちゃったんだ。 お腐っていうの
怪我は物量に勝さるイギリス軍の宝撃によるものです。
軍歴書には当時の状況が記されています。うようにして野線病院に向かい、玉の適質を受けたのは
3ヶ月後のことでした。 手足をすっかり出す発回せよ。何もねえわんだ。
そのますかしますね。いていてに泣けば 投げ部何かとえば泣きなき泣きなけば治る
と 手術からわずか3日で退員最前線に戻され
ますが選挙は悪化の一方で天身撤退を良儀 なくされます。
悲劇は戦闘時よりむしろ撤退の時に起き ました。食料も薬もない。上と病で兵士が
次々と倒れていきました。
飲むものはね、食うものがね、マラリアに かかって病人だがどこ頼るかっていうとは
やっぱり人間であるんは道路を頼るんだよ 。だから一張るカジャグのいたやつも出て
くる。誰かが通れば連れてもろうと思う。
ようやくジャングルを出てきた兵士を待っ ていたのは仲間ではありませんでした。
あぎたからわざとつやタヤ当たらしくて くらの
そのフラフラしても当たる倒り 倒れたにまだ生もいるもんだからすーっと
落ちてきてあ逃げのこんだ
遺体が類いと横わる道は八骨カドと呼ばれ ました
結 誰1人インパールにくことはなく作戦は 中止されました。同員された兵力10万
犠牲者は3万人以上に登りました。 日本はねえ
んだと思った。もうインパール作戦は失敗 するだろうと思たった。そう最初最初から
変えるはないと思ってた。
第1次世界大戦が戦争の形を変えた。総力
戦と呼ばれる国家を上げた戦い[音楽]に 一般市民も最前線に送り出された。
戦車や期間中、次々と投入される新兵器長
時間にわる線[音楽]のストレスが兵士 たちに重くのしかかった。
突然の痙攣や歩行障害などの症状は [音楽] シェルショックと呼ばれた。
1937年7 月日中戦争勃発戦の拡大とに日本の兵士たちにも精神的な変を訴えるものが増えていった。
過酷な戦争体験により心を壊されていった兵士たちの貴重な映像が残されている。
手足の痙攣が止まらず、字がうまくかけ ない兵士。
コップの水を飲むことも難しい。 立ち上がったり歩いたりするのが困難で
倒れてしまう兵士も。 当時は戦争神経症と呼ばれや発作を起こす
兵士も多かった。 だが軍は
大戦名物の法断病将軍には皆無精神疾患の兵士は
1 人もいないとしてその存在を否定した。そんな兵士たちを国民の目からそらすため軍はある施設に収容した。
千葉県市川[音楽]市に解説された高野大 陸軍病院だ。
日中戦争が拡大[音楽]した1938年 から太平洋戦争が終わるまでの7年間。
1万人を超える精神疾患の兵士たちを収容 。全国から[音楽]優秀な軍を集め秘密り
に研究も行われていた。
兵士たちのカルテのコピーが千葉県内の病院に保管されている。
ここがあれですか?全ていわゆる少日
はい。82人の方の病少日になります。
終選の当時あの償却処分にしろという命令があったんですけれどもうちの初代理長の浅井俊が償却するには忍びない貴重な資料だってことで
ドラム感に入れて 賑わどこかにあの隠したらしいんです。
カルテを隠して今に残した軍の 1人浅井病院の初代委員長井俊の
著書所でこう述延べている。 これらの患者は考えてみると対戦がなけれ
ば彼らが経験したような人生の悲劇をせず
に住んだかもしれない。
の孫にあたる原理事長 氏は
軍の命令に背くっていうのは本当にもう命がけの行為だったという風に思います。
やはりあのこに患者さん 1人1 人のあの叫びも刻まれてますし残された
82 人分のカルテこには千地での加外行為などにより精神に異常をたした兵士たちの声が細かく記録されていた。 [音楽]
三党省において両民6名を殺したること
あり、 これが夢に出てうされてならぬ。
許してください。 何も悪いことはしておらんです。
殺されるようなことはしておらんですから 。
戦場で負傷してから不民の症状が現れた 上頭兵は
どこからか父の声や兄の声が聞こえてき ます。
と言うであります。
今日は殺されるような気がして。
当時精神疾患の兵士たちに有効な薬や治療はほとんどなかった。そんな中で頻繁に行われていたのが電撃法だ。
1930 年代に開発された治療法で米かに機械を当て電気を流し脳の機能の回復を促す
からなってそれで目のとこがね後の野大病院に勤務 [鼻息]
電撃方を間近で見てきた元看護師の久保英子さんは
わあって作分ですね。その後こうすぐ体 よく向きでもちろん固定してますよね。私
らも手押さえてたりね。 で、横になってそれで泡取ってね速するからの電撃療法は患者さんほあれやだなって言ってみんな矢でもあれは治るから治るからって不長さんが言って
だが症状の改善は難しく現体に復帰できる兵士は少なかった。
高野大陸軍病院の近くで生まれ育った平井浩司さん
85歳 作られた日病院 当時地域では病院や兵士たちのことを語るのはタブーだったという
さんおじいさんと一緒に ここにあの入り口のほら鉄キじゃないけどほら陸軍病院ってあれはあったけど韓国っていうかね要するに触
んですよ。聞いても知らなくてもいいんだよっていうような言い方されるわけです。
軍はなぜ兵士たちの存在を隠そうとしたのか というものある米の
戦争トラウマに詳しい専門家は あの こういった精神疾患については名誉の負傷っていう扱いよりもむしろ恥なんですよね。
え、本人にとっても恥で協利にとっても恥 ですので、こういうものはなるべく少なく
見えなくするということがやっぱり軍総分 の方針としてあったんだと思いますね。
心を病んだのは日本人だけではありません でした。4戦後も古さと朝鮮半島に戻る
ことなく日本の療用所で亡くなりました。
戦時中スマトラで捕虜の監視にあたった 理さンは戦後先般となり懲役10年の判決
を受けました。言動に異常が見られたのは この頃です。
日本へ移された後も症状は改善せず千葉県 の療用書の閉鎖病棟に移されました。
日本国籍を持たない理には恩求も出ません 。プ物両面で支え続けたのが朝鮮半島出身
の先般仲間たちでした。 これは
京戦学園大学の宇愛子名誉教授は理産を 見回ったことがあります。でも
お土産 に持ってったバナナ うん。 それを虫に召し上がってました。話をしないでひたすらバナナを食べてるっていうのが私の時のその時の印象でした。
あ、 インドネシアのスマトラ。そしてその後先犯になってあの交流されたジャだから南方ですからやっぱりバナナっていうのは彼の中にはずっとあったんだと思いますね。
[咳払い] 1991年8月のリオンギルさんの死を
伝える新聞[音楽] 見出しには孤独の死とあります。78歳
でした。 半世紀にわって社会から隔離された理さ。
棺には先般仲間が慎長した背びが入れられ ました。[音楽]
遺産の異骨は今、東京小平の寺に暗知され ています。
異骨を見守ってきた先般仲間たちはすでに 破壊しました。
在日のゆガム住職が理の異骨と
私たちを引き合わせてくれました。
本道に挑戦式の土胸が響きます。リさンは日本の戦争責任を追わされ、心も傷つけられました。戦後
81 年その事実は忘れ去られようとしてます。さんの全ての追い込です。
きっきれですね。 うん。 ね、この骨がね、あの、言葉がないと思いますけども、もうあの、血の連がりもない人たちがね、このお
1 つの問題にね、みんな立わってきてくれるので、その喜びの声がね、聞こえるんですよ。
戦後家族にも見取られることなく、静かにこの世を去っていった精神疾患の兵士たち。
彼らが苦しみ続けた戦争トラウマは次世代にまで連鎖していた。
こんにちは。 ああ、こんにちは。初めまして。山本。
大阪で小さなカフェを営む藤岡さん。 67歳。
藤岡さんは50 年以上経つ、今も亡くなった父親の写真を直し視することができない。
ここですね。父の写真があるところはここ 普通に海軍房をかぶった穏やかアナ父の写真なんですよ。でもその写真は私に撮ったらもう大魔人の父に見えるんですよ。
もう今も見ることはできない。 できないですね。 うで包んでるからなんとかここにいてもらえるけど藤岡さんの父古本石松さん
20歳の時海軍に入退し機関兵として航空基地などに配属された。戦後 [音楽]
3 年間のシベリア欲流を経て故郷に戻った。
戦争に行く前は穏やかでいい人だったと 親戚中が口を揃えていたが福印は酒に溺れ暴力を振うようになったという
突然キリって言うんですけど今からみんなで死のう父ちゃんと死ぬんだって言うんですよ。
はい。 で、父があのプロパンガスをこう線をピッて開けるんです。 そうしたらシって音がするんです。
母がもう反響で死ぬんだったらお前だけ死ね。
こんな時も でそっから 窓ガラスがガタガタガタって言うともう軍隊の足音が聞こえるとかあいつが殺しに来るってもうその台の大人がねもう部屋の片隅でねもう本当にガタガタ震えて
もう号泣してるんですよって
藤岡さんが9 歳の時両親が離婚その年の暮れ父親
はなくなった。 自殺だった。
20十歳になり保育士として働き始めた 藤岡さん。だが父親の暴力の記憶は消えず
突然フラッシュバックに襲われることも あった。
ミストがね、駅を出た時にシって聞こえた んで、うわ、ガスが出てると思って、もう
一瞬にして、あの、5歳、6歳の自分に 戻っちゃって、お父ちゃんがガスをひねっ
たと思って、 そんな藤岡さんの気持ちを変えたのは3年
前。これからもう1回同じように父親の 戦争に苦しむ人たちとの出会いだった。
感じで来られた方は 父親のことを知りたくなった藤岡さんは
役所から軍歴書を取り寄せた。すると千島劣島の航空基地で過酷な任務についていたことが分かった。
アメリカの漢方射撃にあったりとか トラックで味方に物資を運んでる時にも
自分の部下たちがバカンバカンとこう やられながらなんとかこう買いく
自分だけ生き残したような罪悪感でうやっ てしまう。うん。
戦争トラウマの苦しみは世代を超え、子供 からさらに孫にも連鎖している。
旧日本軍兵士の孫石井子さん41歳
3年前から複雑性PTSDと診断され、今
も自宅に引きこもる生活を続けている。
本当に数年間家の中で本当にここの リビングで過ごすっていう。
石井さんは幼い頃母親に暴力を振う父親の
姿をよく目撃したという。
いわゆる面前DV っていうなんかつ暴力が分かるか起こるかわかんないって緊張状態は無意識ながらもあったのかなっていう風に
父親の暴力は幼い石井さんにとって恐怖でしかなかった。
その気持ちは大人になっても拭いきれず 行きづらさに苦しみ続けた。
そんな中、親戚との会話で父親[音楽]が 祖父から軍隊で行うような暴力を旅々受け
ていたことを知った。 全体責任を取らせて1列並べて顔をビンタ
するとか、ま、そういうことをソフ戦後
生まれた自分の子供たちに対して消罰とし て行っていたようで、
父親の暴力は祖父の台から続く戦争 トラウマによるものかもしれない。
考えるようになった石井さんは祖父の軍歴 書を取り寄せた。
すると終戦の前の年[音楽] 鹿児島の守備隊で敵の上陸を阻止する
決作戦の訓練を受けていたことが分かった 。
私が親戚から聞いていた祖父が実際にやっ てしまったことを付き合わせるとすごく腑
に落ちたんですね。 訓練を受ける軍隊の中ですに祖父はもう心を相当あの壊されていたんじゃないかなというとかま、この辺
戦争トラウマを研究する専門家 うん
元兵士のお子さんとかお孫さんに最近インタビューをしてるんですけれどもあのもう本当に柔度のアルコール依存症であったりとかあのまちょ
と精神化での治療が必要そうなあの方とかですね。え、そういう方でもなかなかその治療を受けていないというケースが非常に多くって戦争のま、影響っていうのがいかにこう長く続くのか。
生きづらさの原因が戦争に由来していると思えたことで
うん。 少しずつ気持ちが楽になれた石井さん。
今年同じ経験を持つ人たちと悩みを共有するため戦争トラウマ
3世の会を立ち上げた。 こうして語り合うことが心の支えになっている。
も実際に自分で読む読むってことはちょっとでき 自分の今の行きづらさっていうのがまさかその
2 世代前の戦争から始まった家族の苦しみだっていうことがどこにも情報がなくて分からないっていうことほど正体不明っていうことほど人を苦しめることってないと思うので
国は戦争が終わっても兵 たちの精神疾患は[音楽]
大多数が先点性で個人の素失によるものだ としてその存在を認めて[音楽]こなかっ
た。 だが3年前家族会の強い妖精などにより
戦争兵士の問題が国会で取り上げられた。 家族も[音楽]そのことを理解く
ず亡くないと。じゃあそっちに 戦争トラウマ2世の藤岡男さんは去年
[音楽] 2 月家族会の仲間たちと共に戦争で心を壊した兵士たちの実態調査を求めるため国の担当者と面談した
[音楽]
[音楽] 私たちが生人なんです。
本気で父がどんな生き玉をしてきたかっていうことをあなた方にあのきちんと分かって欲しい。
国はようやく調査を始め、去年[音楽] 7 月国立の戦描写資料館で初めて概要を公開した。
対戦[音楽]末期の4年間占者785万人 のうちおよそ8%[音楽]
にあたる67万人が精神病その他の神経症
と推計 だがこの[音楽]数字は病院などで治療を
受けた兵士に限ったもので一部に過ぎない
ゲれなかった 専門 日中戦争から大米戦までの時期を含めたら増える可能性がありますし、あと、ま、その戦争マキになってくるともう本当に軍隊自体がこう崩壊していきますので実態調査というにはちょっと違うかなというか、
いっぱい 長年なかったことにされてきた兵士たちの心の
自分の親なん その解名を望む一方で 父親から受けた暴力は
今も許さないと藤岡さんは話す。 でも私からすると
父がそうならざるを得なかったっていうあのきっかけとして戦争はあったけどだからと言って父の暴力は絶対許しちゃいけないで私はそれを許さないって言い切るのはあの戦争も許さないってこと。
絶対許さないっていうことなんですよ。 うん。した。
もう、もう、もう さの対戦で 悪命高いインパール作戦を戦った佐藤哲夫さん。
9月には107歳の誕生日を迎えます。
インタビューは3時間近くに及びました。 佐藤さんが戦争体験を語り出したのは実は最近のことです。出して
戦争から帰ってきて ずっとあんまり戦争の話はしなかったって聞いてるんですけどしねかった。
なんで 言うただってだから言わねえの。 うん。わかんない。
あ、 戦争行ったことのない人は戦争わからない。 分からない。言うてズだぜ。
苦労しねえから分からね。 何度も視線を彷徨った佐藤さん。
ただその辛さを口にすることはありませんでした。心に秘められた過酷な体験。同居する家族はこう話します。
こう こういう風に取材を受けた後に うん。 やっぱし亡くなった人の
うん。 あの人が出てきたりとかその夢の中に出てきたりとかそういうのあるみたい。うん。
うされてる時がやっぱりあった。うん。 声出して助けてくれとかっていうな、声もね、聞いたことあります。やっぱりうん。
そういうこと一切語らないです。 語らないですね。本人はやっぱ生きてきたことがやっぱそういうことは
なんて言うかな。自分の弱目を見せないっていうかね。 うん。うん。 戦争ダめですね。
戦争絶対ダめ。 戦争はダメな。
私がお話を伺った藤岡さんは30歳くらい の時にベトナム戦争を題材にした映画を見
たそうなんです。で、その映画の中で暴力 を振ったり、幻覚に怯える機関兵の様子が
描かれていて、あ、これうちのお父さんだ とその時に初めて父親と戦争が結びついた
とおっしゃっていました。 もしこの映画に出会っていなければ藤岡さんは今も原因不明の苦しみに悩まされていたかもしれないわけです。うん。
戦争トラウマというのはとても寝深くてとても見えづらいものだなと感じましたね。
あの終戦から今日で81 年取材を通じてね感じたのはいかにこの国と社会がですねときちんと向き合ってこなかったあるいは未化のままここまで来てしまったということなんですね。うん。
日本に限らず国家や軍隊というのは式が 鈍るなどとして戦争と戦争疾患の関係には
触れたがらないんですよ。ただ日本の場合 は国家だけじゃなくてね、社会までもが
戦争による戦争疾患をですね、恥とする 文化を受け入れてしまったと。ま、言って
みればですね、社会も一緒になって彼らを ないものにしてきたわけですよね。戦争と
いうのは国家が場合によっては国民に死も 共容するものです。 戦場では正期を保つことが難しい局面がいくらでもあります。
310万もの犠牲者を出した戦争をですね、私たちは決して美可することなくきちんと認め直す、え、こういったことが必要だと思います。
戦後81年 きょう終戦の日 子や孫に連鎖する”戦争トラウマ”【報道特集】
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36,955 views  Aug 17, 2026  #newsdig #TBS #ニュース
8月15日は終戦から81年。過酷な体験により、心を壊されていった兵士たちは今なおその苦しみの中にいます。
元兵士だけでなく、子や孫にまで連鎖する戦争トラウマ。私たちはその実態を取材しました。

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【全編配信】日本が81年隠してきた「戦争トラウマ」戦場のストレスで「幻覚」心を病んだ兵士は戦後、家族に虐待・性暴力 父親の“足跡”をたどる娘の思い|父は戦争を連れて帰った〈カンテレ・ドキュメンタリー〉 - YouTube

【全編配信】日本が81年隠してきた「戦争トラウマ」戦場のストレスで「幻覚」心を病んだ兵士は戦後、家族に虐待・性暴力 父親の“足跡”をたどる娘の思い|父は戦争を連れて帰った〈カンテレ・ドキュメンタリー〉 - YouTube


【全編配信】日本が81年隠してきた「戦争トラウマ」戦場のストレスで「幻覚」心を病んだ兵士は戦後、家族に虐待・性暴力 父親の“足跡”をたどる娘の思い|父は戦争を連れて帰った〈カンテレ・ドキュメンタリー〉
KTV NEWS
475,053 views  Aug 29, 2026
ザ・ドキュメント『父は戦争を連れて帰った』
カンテレ 2026年8月28日放送

[番組公式ページ]https://www.ktv.jp/document/

✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼

戦後81年。戦争による傷病者の歴史を伝える国の施設で、新たな展示が始まった。テーマは、戦場で心に傷を負った日本兵と、その家族の苦しみ。これまで社会でほとんど顧みられることのなかった、戦争被害だ。

大阪市でカフェを営む藤岡美千代さん(67)は、9歳で亡くなった父親の写真を、今も直視することができない。父・古本石松さんは元日本兵。戦争の話を繰り返し、雨風の音に「軍隊の足音がする」と怯え、酒に溺れて家族に暴力を振るった。幼い藤岡さんたちを柱に投げつけ、時にはガス栓を開けて「みんなで死のう」と迫った。父が死んだと聞いた時、藤岡さんは「やった」と喜んだという。しかし成人後、父の死因が自殺だったと知り、「自分が父を追い詰めたのではないか」と自らを責め続けた。父の死後も、その傷が消えることはなかった。

そんな藤岡さんが3年前に出会ったのが、「PTSDの日本兵家族会」だった。そこには、日本兵だった父親の暴力やアルコール依存、自殺などに苦しんだ家族たちがいた。「自分だけではなかった」。藤岡さんの中で、それまで断片的だった自らの生い立ちが、父の戦争体験とつながっていった。

家族会代表の黒井秋夫さん(78)も、元陸軍兵の父親を「でくのぼう」と軽蔑して育った。しかし父の死後、遺品から満州で「匪賊討伐」に従事していたことを知る。同じ時期、同じ部隊にいた元兵士の手記には、人を殺すことを強いられ「人間の皮をかぶった獣に変わった」と記されていた。戦争は、人の心をどう変えるのか。精神科医は、戦場で受けた強烈なトラウマが、時を経ても「現在進行形」の記憶として蘇ると指摘する。一方、日本では兵士の心の傷が長く「個人の弱さ」とされ、十分に顧みられないまま、その苦しみは家庭に委ねられてきた。

藤岡さんは今、封印してきた記憶を書き残し、公の場で語り始めている。そして、父が戦場で何を経験したのかを知ろうと、軍歴を取り寄せた。21歳で海軍に召集された父は、千島列島の松輪島を経て、終戦後はシベリアに3年間抑留されていた。藤岡さんは、その足跡をたどる。憎しみしかなかった父に、少しずつ別の感情が芽生えていく。

戦争は、戦場だけで終わるのではない。兵士が抱えて帰った傷は、家庭に持ち込まれ、時に子どもたちの人生をも変えていく。戦後81年。父が連れて帰った戦争と向き合い続ける、一人の娘と家族たちの姿を追った。

語り:豊田康雄(カンテレアナウンサー)
ディレクター:竹下洋平
撮影:平田周次
編集:堀田浩司
プロデューサー:宮田輝美

===
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階段に飾られた家族写真。
1つだけ黄色い半カ地で覆われている。
私の知らない父なんですよ。このこの写真のあの海軍さんに行って
23 歳の時の写真なので、ま、ちょっと穏やかな顔してるんですけどその人が大魔人になって暴れてるわけですよ。
で、私の中にはもう踏みつけられたり、 あの、に投げられたり、柱に投げられた
りっていうようなことがやっぱり染みつい てるので、体の中にこの人をその
ちゃんと見るっていうことは とてもなんか恐ろしいですね。まだまだ
ちょっとあの見れないですね。
戦争[音楽]で心を蝕ばまれた兵士たち。
その狂器[音楽]は戦後 家族に向かった。
[音楽] 密かに続いた
もう1つの[音楽]戦争だった。
あ [音楽]
戦後81年となる今年。
戦争による商病者の歴史を伝える国の資料 館に新たな展示が加わった。
心の傷を追った兵士と[音楽]家族の 苦しみ。
81年間大やけにされてこなかった歴史 だった。
お待たせか こういうところ出したあかんかった。
さんとか言わそんな全部してくれた [笑い] Pが入ると
[笑い] 大阪市でカフェを営む藤岡さん職場にしたいとったのに
[笑い] 9 歳の時亡くなった父の写真を今も見ることができない
で母が亡くなってタンス を整理してたら、あの、これだけ出てきたんですね。なんか生々ましっていうかね、随分若い頃の写真ではあるんですけど、でもなんか見れないんです。
一瞬見た時ものすごいこう気持ち悪かった し怖かったので
私を星座させてお父はなトラックの運転し
ながらな敵のあの砲弾の中をあの救援物資
を運んだんやあって。で、そうかと思うと 、あの、雨がざーっとすごい降ると、もう
、あの、部屋のすみっこでガタガタ震え ながら、あいつが殺しに来る。
窓がガタガタガタガタっとなったりとか、 台風でこうヒューって風が鳴ったりすると
、ただもう兵隊が来る、兵態がザってく るって言ってすごいまた怯えるんですね。
終戦から14年後、藤岡さんは鳥取県で 生まれた。
父は叫びで定食にもつかず家で暴れて ばかりの存在だった。
私が3、4年生ぐらいになってくると、 もう夜中にこうガバっと父が起きて
起き出して、あの子供の寝ている布団を バーっとこう剥いで、もうそこにいる私と
か兄とかをもう目がね、行っちゃってるん ですよ。この子供を見る目じゃなくて、
もう敵をやっつけるぞっていう顔で、ま、 言うたら大魔人みたいに目がキュンって
釣り上がって、口がうーんってこうなんか うーんってこうなってて、でも私とか兄と
かはもう掴み上げられて柱に投げられたり とかあの踏みつけられたりとか私とあの兄
を切立させるんです。切りピシッとこうま 、軍隊みたいな感じですね。ちっとこう
立たせてギリって言うんですよ。で、私と 兄がこうピッてしてするとあの台所のあの
Lプロパンガスのあの線を開けてしって
こうガスが出るんです。で、それをすると もうお父ちゃんはあのみんなで死のう。
みんなで死ぬんだって言ってすごいこう、 ま、私の中では新獣ごっこってあの、ま、
ネーミングしてるんですけど、そしたら母 がもう反響欄になって死ぬんだったらお前
だけ死ねって言ってガスを止めに行くん ですね。
[音楽] やがて父は幻覚や現聴が激しくなり、家の
中で便を垂れ流してしまう。
藤岡さんが9歳の時両親は離婚。
しばらくして尋ねてきた父の言葉が
忘れられない。
珍しくまた父はま、来たんですけどお酒を 飲んでなかったんです。酒を飲んでない父
ってのは本当に久しぶりだったんで、私 すっごい記憶にあって、もうその父があの
、私と兄とを並べて道を許してくれ、許し てくれって言って泣いてるんですね。で、
私はその父に対して何の感情移入もないの でうーん。何、何許すって何って感じ
じゃった。
お父ちゃん病気で死んだでって聞いたから 。え、お父ちゃん死んだ?やったって。
もう私なんかもうもう喜んじゃって。もう お父ちゃん死んだな。お兄ちゃんばいって
。もう何ですかね。嬉しくて嬉しくてもう あんな人いないんやって。
おつやの時に散々ね、親戚な人とか父の 知り合いとかが来て、あんたのお父ちゃん
すごい人やでって。またその別の親戚が あんたのお父ちゃんな戦争から帰ってき
たらな、ものすごい人が変わってたんよ。
手足が痙攣する日本兵。[音楽]
手が震え、うまく字がかけない。
戦場での体験から精神に異常をきたす戦争 神剣症となった兵士たちだ。
軍の病院に入院した兵士だけでもその数は およそ1万人。
だが日本軍は心を壊した兵士をはずすべき 存在とみなし隠蔽した。
当時団病とも呼ばれていた戦争神経症
新聞には幸軍に放病は存在しないと記され
ている。
千葉県の病院には精神に異常をきたした 日本兵およそ8000人分のカルテが残さ
れている。 終戦前後軍は償却を命じたが委長が密かに
隠し保管していた。
これらの資料はすでに誰もが忘れ去って しまったものである。
また誰にも気づかれていなかったもので ある。
貴重なこの証を真実を残しておきたい。
三頭省にて両民6名[音楽]殺したること あり。
これが夢に出て[音楽]うされてならぬ。 特に幼児をも一緒に殺せ[音楽]しことは
自分にも同じような子供があったので予定 嫌な気がした。
何を質問するもすみませぬ。すみませぬ。
殺してくれという
敵が迫る声が聞こえるという。
戦争に行く前はいい人だったという藤岡 さんの父。
なぜその父から虐待されたのか。
父が亡くなってはいるんですけど、なんかまだこの頃はちょっとこう自分がもう嫌で嫌で
うん。 消しちゃってる。だから学校で集合写真とか撮られても端っこで目立たないようにっていう感じがすごく強かった。
[音楽]
お父ちゃん死んだのは自殺やったんかって 。それがね、なんか1ヶ月、2ヶ月、3
ヶ月経ってくるとね、それ私のせいじゃな いってすごい自分を覚めるようになったん
ですね。私がお父ちゃんが最後会いに来て くれた時に道を許してくれって言ったのを
許すって言わんかったからかなとかそこ からもうあの感情のコントロールができ
なくなって何回かリストカット仕事で嫌な ことがあったりとか人間関係でちょっと嫌
なこと言われたっつったらすごいこう死に たくなる。まあ、どうせ自殺した親の子や
からみたいな。ものすごいこうそれに 囚われてもうものすごい苦しかったですよ
。 これは自分の家族だけの問題。反世紀以上
思ってきた。 [音楽]でも父親の狂器を背負わされた
子供は自分だけではなかった。
ご苦労様です。貴重な証言 大阪市内で毎年開かれている証言集会がある。
後に色々ね、ご飯したりとか色々して 私のものこの回は日本ましには日本人のですねが実が
PS になりその父親たちが子供たちに暴力を振ったり自殺したり中になったりそういうことでもって苦しんだ千たちやその家族です。
流団で手を PTSDの日本兵家族会 反合でご飯を食べて
戦争によるトラウマと向き合う家族たちだ。 食べ物もも喉を通らなかったんですか?
藤岡さんは3年前とすると 偶然チラシをもらい 初めて参加したい。
皆さん大体似たような体験を話しされてで、ま、自分自身もいや、実は父がこうこうこうなんですと。
で、それまでなんとなく断片的にあの自分の立ちいと思ってたものがその父の
PTSD で全部こうピーンと繋がったんですね。
そこに白を 家族会の代表を務める誰も参加できそできる誰
元陸軍兵だった父の記憶を語り継いでいる進めていきますので是非皆さん参加してください。
おいおいおじいちゃんスしてくれ。早くしてくれよ。
早くピンスしてくれ。
孫から話しかけられても全く言葉を発しない男性。黒井さんの父次郎さんの晩年の映像だ。福印してから
77歳で亡くなるまでの40 年間。定職にもつかず家族は貧困にえだ。
そんな父を黒井さんはデクノと呼んでいた 。
デクノボっていうのは、ま、私は翻訳した んであって、周りの子供たちとかは6着親
しって呼んでたんですよ。180cmも ある大男っていう意味ですよね。で、それ
があだ名になるっていうのはすごい大男な んだけども何もできない。うどの大木とか
よく言うじゃないですか。も元にいるだけ だからそれが普通だったんでこう期待もし
ないしでもね見放すこともできないしあの 情けなだったんだからとにかくこういう
人間には絶対俺はならないとこういう男に はならないとあの一家を貧乏にさせるよう
なね別 すらしていた 父戦し父が亡くなってから異品を整理すると
つ満 これまで知らなかった顔が見えてきた。 で、それは同胞[鼻息]
まいい顔してるのよ。本鈴やか話すっきり。
刑次郎さんは1932年に招集され、中国 東北部満州の歩兵部隊に配属される。
[音楽] 時は満州自変の直後。[音楽]
日本軍は領土拡大や資源確保のため自ら 起こした鉄道爆破事件を中国側の反抗とし
て軍事行動を起こし海来政権満州国を建告
する 刑次郎さんの異品には抵抗する中国兵を
卑族と呼んで討伐したというメモも残され ていた。
[音楽] 戦争で刑次郎さんに何があったのか
[音楽] 手がかりは黒井さんの生まれ故郷に残され ていた。
主を残したのは元憲兵の土義おさん。
憲兵になる前、軽次郎さんとほぼ同じ時期 に満州の同じ部隊に所属していた。
[音楽] 間違いなく農民だと分かる中国人6人が
連れてこられた。[音楽] みんな後ろに縛られていた。
これから土胸をつける教育をする 場官の注意が言った。
何をするのだろう? そう思った瞬間、注意は中国人の首を切っ
た。 切られた首から千柱が立ちのっている。
天皇の軍隊はこんなひどいことをするのか 。 体が震えた。
その時土や前に出ろ。あれを突きさせ。
[音楽] 注意は中国人の1人を指差し、私に銃を
渡した。[音楽] 生きた人間を突き刺すのか。だが注意から
は目をかけてもらっている。 の命令はの命令である。
[音楽] 私は重権を構え、大声をあげながら中国
農民の胸を目がけて突進した。[音楽]
私は 人間の川をかぶった
獣に変わった。
[音楽] 土屋さんは手柄を立てるためイ田の中国人
を拷問にかけ殺したという
人間としての心が抹殺されてしまったこと で私たちは狂気してしまっていた。
私が殺害してしまったくさんの人たちが 寝ても冷めても見えてしまうのだ。
その人たちの必びが夢[音楽]にも 聞こえる。
皆さん考えてみてください。地は加害者 です。銃を突きつけてたくさんの人を殺し
ました。殺された側の人たちの苦しみは どうだったでしょうか?あの人たちはその
苦しみや恐怖からそのことがそれが トラウマになって心壊された人たちは
アジアの人たち中国人たち小鮮の人たちは 日本人の兵士や我々の何倍もいるっていう
風な想像力が私たちは必要だという風に私 は考えています。
長年沖縄線によるトラウマの治療にあたっ てきた精神会の有塚涼さん。
戦争での体験は生涯消えることのない トラウマを生じさせると指摘する。
不用できないような強烈なあのストレスで 自分がもうコントロール不能状態になる。
そういう体験なんですよ。[鼻息]あく 殺されそうになったとかあるいは目の前で
人が殺死ぬのを見たとかえだから被害だっ たり加害だったり色々とあるわけですね。
だが戦争神経症をはずべき存在としてきた 国はその実態について調査してこなかった
。 [音楽]
戦後トラウマを追った兵士たちを家族が 背負うことになる。[音楽]
軍人恩求の申請書類にはトラウマを追った 兵士たちを受け止めきれない家族の訴えが
綴られている。
本人の日常生活行動は常日頃正常を書き、
極端な軍隊式長で弾話中突然号令をかけ、
火材道具を次々に破損したり刃物を所持し
人に機害を加えるかのごとくそ亡な状態。
親としてはただただ途にくれるばかりで 家計のしるものがこのような状態では生活
も苦しく全く困窮をいたしております。
日本の戦後ってのはその兵隊のトラウマを 社会的にケアしないで全部家族に丸投げし
たと。だからこの家族の中でトラウマが あれ狂ってあの酒飲んで暴れたとかあの妻
をったとか子供を虐待したとかっていう風 になるわけでしょう。全部家庭にありがに
した。
[音楽] 戦後父が背負ったトラウマを埋もれさせ たくない。
黒井さんは2018年1人で家族会を設立 。
1人、また1人と証言者が増えていった。
[音楽] 2度と戦争しないとか本当に平和な日本を 目指すっていうことであれば俺たちが生き
ている間に調査したりしないとこれはもう 永遠にあの分からないことになっちゃう。
[音楽] 2024年度、戦後初めて国は日本兵の心
の傷に関する実態調査を行った。
死んだ人を調べてどなしまんねんと生きて 帰ってきたお父ちゃんに偉い目に負けてん
のは私らやでっていう。そういうそれが 変えて期間編の中のPTSDをきちんと
調べて欲しいと。それが日本の後の歴史と しても埋れてきてるわけだからそこのん
とこきちんと調べてほしい。
またせ。 あ、ありがとう。おお、サンキュー。よいしょ。
うう、いいね。すごい。 [笑い]
うん。いい。い、すり。 [鼻息]
元日本兵の父からの暴力を語ることにした藤岡さん。 冬でも冬でも
パートナーの之助さんと暮らして 30年になる作ったりして
この問題解決に向けて、え、一緒に歩める機会をもらえたみたいに受け止めてますね。うん。
涙ちょ切れるわ。 あ、そう。あ、そう。[笑い] うん。
家族会に加わってから藤岡さんは閉じ込め ていた父の記憶をノートに綴るようになっ
た。
[音楽]
[音楽]
うん。
[音楽]
[音楽]
ま、そういうもの全ての太 記憶をたり寄せると 父の狂器と戦争が繋がっていく。
で、あ、私が悪かったんだって、殴られる たびに思ってきました。私の兄が父親に
なんでお前はそんな暴れんねん子供の時に 聞いたらしいんです。そしたら父が死体を
見たからだってもう吐き捨てるように言っ たっていうのを兄が覚えてるんです。
藤岡さんの父、古本石松さん。[音楽] 1943年20歳で海軍に招集された。
[音楽] 終戦時には千島列島の中部にある松の航空
基地に配属されていた。
[音楽] 軍事の拠点だった松島には数千人の日本兵
が中屯。 アメリカ軍の攻撃を繰り返し受けたという
[音楽] 漢方射撃と誰かが叫んだ。
[音楽] 海岸線の防尾は全滅。各手法は全部使用
不能。 ただ肉団線あるのみです。[音楽]
古本さんは終戦後ソ連軍の捕虜となり3 年間シベリアに欲留される。
欲留された日本人は57万5000人。
このうち5万5000 人が極寒感の地で命を落とした。今年
100 歳で亡くなった音楽家の田中ゆ介さん。
シベリアで4 年間欲流された体験を亡くなるまで語り続けた。
上と寒と柔道でねえていくんですよね。
亡くなった人ばっかり集める弊車があるん ですよ。そこへ掘り込むんですよ。で、
カチカチになってね、もうこうってます から車まで運んで穴を掘って埋めるという
作業を刺されたですね。いうことで、
そういう限界のね、移植もない。本当に
もう 口では言いされないね。言いされないね。
うん。
ソ連からマイズルに入行した2000名の 元軍人軍族が帰ってきました。
過酷な欲流生活を経て 26 歳で福印したにいた祖国は今目の前にあります。
戦後家庭を気づくも戦争のトラウマを引きずったまま家族に見放され自ら命を立った。
心の中で父をこう、あの、抹消してしまっ てた自分に対するなんだろう、まあ、食材
というか、あの、もっと父のことを ちゃんと知るべきだったなっていう
藤岡さんはさんと共 に氏の引き上げ記念を訪れた。
マイズルに引き上げるまで 3 年間シベリアで父に何があったのか知りたかった。
これが弊社。
あ、ムーリー。ほら、父の空域なんですよ。ムーリーすごいな。ムーリーがあったわ。
体験室あるよ、こっち。 ん? 部屋の部屋の再現の体験。 え、そうなんや。
いや、なんだかちょっと怖いんだけどね。なんかね。あ、
うわあ。こんなとこにいたんかって思う。 そういうこと なあ。うわ、なんか
うあ。 ええ、よく生きてたな。そうね。ね、
極感やからマイナ30°とか40°ぐらいになるやろ。
俺がにしたことはしました。 いや、なんか、なんかわかんないけどか。
[息をのむ音]
[鼻息] [息をのむ音]
ああ、よく生きてたね。
ああ。
ああね。海の匂いが。いや、この景色見たんだなあ。
そう。まあ、この山の景色や雲の景色
8月24 日に帰ってきてるんだよ。ついこないだよね。
8月24日って昨日じゃん。 え、今日
私がお帰りって言ってあげるわ。 お父ちゃんお帰りって。
お父ちゃんお帰り。 お父ちゃんお帰り。[叫び声]
で、ま、こうい、 父のことを知るにつれて 新たな感情も芽えてきたの。お話を聞いたこともないし、名前は聞いたことあります。
もうお父ちゃんの嫌な思いでしかここに なかったものがあ、実はそれだけではな
いっていうようなことが思い出されて、 あの、今ちょっとこう父を、ま、見直す
まではいかないんですが、あの、なんか こうもう1回親子としてのこう行き直し
みたいな、あの、もう父はすでにいないん ですけど、生き直しみたいな形で、あの、
もしも父が生きていたらどうやって声かけ てあげようかとか、
あの出産 公けの場で語ることで失ったものもあるんですが、その後は近所のおばあちゃんがものすごい妹と仲が良かったんです。
このPTSDの活動するまではもう月に 12回ランチに行ったりとかもう年に
2 回ぐらいかな旅行に行ったりとかでなんかあったらいつも相談し合ってたんでところがこの
PTSD の会をやり出した途端音信普通になりました。なんでか父のことを全く覚えていない。
3 歳ぐらいの時に父は亡くなってるしほとんど関わりが薄かったんですね。
妹には父をいじめてるように見える。父を さらし物にしてるように見える。だから
あんたのお父ちゃんかもしれんけど私の お父ちゃんやでって怒るんです。
こうやって話をするということはあの みんなの問題になっていくんだ。私の父の
話は家の恥でも何でもないんだ。日本が やった戦争の結果こういうことになってる
んだ。100ぴょっと閉め 家族が抱えたトラウマを
顔と名前を明して語れる人はほとんど言いない。 私はもうその顔が恐ろしくて
でも父が連れて帰った戦争をなかったことにはできなかった。くじ火を切る。 [音楽]
私が今やることで、あの、気づいてくれ はったりとか、あ、うちもそうなんちゃう
かって考えてくれはったりとか、ま、そう いうきっかけになればやっていこうと思う
し、今はまあ、とりあえず私しかいないん だろうから
私がやび
よし。 はい。今日も行くよ。
よいしょ。
藤岡さんの故郷と鳥取りおばちゃんおです。古本の三道千です。道を覚えてないか?金子さんとこの娘。
あ、元気な。 うん。えよ。おばあちゃんも元気だよ。
かつて父暮らした家は 20年ほど前に取り壊されたままだった。
もう該当のない道をね、酒担保だけ持って 買いに行かされてた。
もうこの景色は一緒ですわ。ここで育った なって。18歳までここにいたので。
まあないってない。なんかちょっと心が 軽い。楽[笑い]。
いや、まだ家があった。
うわ、った、あった、あった。
故郷に父の墓はない。廃オになったこの家だけが父の痕跡を残している。
うん。うん。してあげる。だよ。
よく見ときよ。写真の父に故郷を見せた。
戦争に行くまではいい人だった父。
よいしょ。[ベル]
はい。帰ってきました。
よしきましょう。よいしょ。あ。あ、いらっしゃい。
でございます。ありがとうございます。うわ、なんか豪華や。え、太らと思っても
いつも豪華でしょ。 豪華ですね。[笑い] これな、あの、手作りヨーグルトね。
ありがとう ね。さすが、 さすがでございます。 さすがえて あの人より自己免疫力
終戦の日 何か特別にすることはない。
なんかこうぼヤーんとしていた古本石松 さんが今ちょっとずつなんか形のある
古本石松さんに今なりつつあって、ま、 まだ未完成なんだけどなんかそれきちんと
[音楽]掴みてのがあってね、 理解するっていう工程ではあるけれど、
許しの工程ではないなと思って ずっとそのハカちの中の父とこういうこう
心で会話を積み重ねていったら あのまみれる日が来るのかどうかわかん
ないけど今全然あの想像もつかない。価値
があるから父に語りかけられるっていうか 。
うん。まだそういう段階。 [音楽]
戦後81年 父が連れて帰った戦争と
向き合い続ける。

映画note:犬と戦争-ウクライナで私が見たこと-

映画note:犬と戦争-ウクライナで私が見たこと-

“犬と戦争-ウクライナで私が見たこと-” ★★
(2025年日本ドキュメンタリー)

監督:山田あかね
プロデューサー:山田あかね
ナレーション :東出昌大

 

犬好きな山田あかね監督が、ロシアの軍事進攻を受けた戦禍のウクライナへ、3年、3回に渡って趣き、現地で置き去りにされた犬たちを救うため、自らの危険を顧みず活動する人々の姿を追ったドキュメンタリー。

人間が命の危険に晒されている状況では犬の命どころではない、というのは現実でしょう。
それでも置き去りにされた犬たちが、やっと訪れてきた人たちに向けた、縋るような目には、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。
そう、犬という存在は、人間に保護されて生きる動物であるという事実を、まざまざと感じさせられます。
首都キーウでは、野良犬となった犬たちが多いという。でも、募金があったり住民から餌を与えられて生きることができているそうです。

それに対して、本作で“ある悲劇、事件”として語られているのは、キーウ近郊にある犬のシェルターのこと。 280頭余りの犬を保護していたとのことですが、ロシア軍の攻撃により職員は避難せざるを得ず、その後もロシア軍が立ち入り禁止にしていたため、やっと関係者がシェルターに行くことが出来た時には、約半数の犬が(餓死でしょう)死んでいたという。
生き残った犬も、窓から滴り落ちる水を舐めたり、排泄物を食べたりしていたのではないか、共食いの痕もあったそうです。

野良犬となった犬たちを救おうとしているのはウクライナの人たちだけではありません。各国の保護団体が様々な形で保護活動に取り組んでいるとのこと。

犬の命より人の命の方が大事、ではあるでしょうけど、だからといって犬の命を捨ておいて良い訳がない。犬の命を大事にするということは、とりもなおさず人の命を大事にするということでもある筈ですから。
危険地域での保護活動に積極的に取り組んでいる元英軍兵士の男性は、PTSDを発症していたが、一匹の犬のお蔭で立ち直ることができた、だからこそ犬を救いたいと、取材当時はガザ地区に赴いていたそうです。

映像を見ながら思うのは、何故こんな事態になったのか、ということ。
それはロシアが、他国に対して、非道な軍事侵略をしたからです。
一方的に軍事力を行使し、攻め入るなど、あってはならないことです。
見終えた後も、人に向けた犬たちのつぶらな目がいつまでも忘れられません。

2025.02.22

                  

  

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戦中写真を読む:/13 戦争と動物 犬 英雄物語で戦意高揚 /東京 | 毎日新聞

戦中写真を読む:/13 戦争と動物 犬 英雄物語で戦意高揚 /東京 | 毎日新聞


戦中写真を読む
/13 戦争と動物 犬 英雄物語で戦意高揚 /東京
地域
東京
関東
毎日新聞2024/7/30 地方版有料記事680文字



子犬を抱いて喜ぶ辻井隊の兵士=南京城内で1939年10月29日、松本特派員撮影

 軍犬の活用は、第一次大戦後、ジャーマン・シェパードが輸入されて始まった。陸軍歩兵学校内に軍犬育成所が置かれ、シェパードとドーベルマン、エアデール・テリアの3種だけが軍用犬として育成される。陸軍による軍犬購買会での審査を経て、初めて「軍犬」と認定されていたのである。

 軍犬は、斥候(せっこう)(監視・偵察)▽巡察▽伝令(通信・連絡)▽歩哨(ほしょう)(警戒・見張り)▽格闘▽救護▽運搬--に使われた。その価値は満洲事変を契機として認められるようになっていく。「毎日戦中写真」でも、兵士と二人三脚の存在だった軍犬がよく撮られている。

 事変後、千葉県に陸軍歩兵学校軍犬育成所、満洲南部の遼陽に関東軍軍犬育成所が設置された。民間でも、社団法人帝国軍用犬協会が発足。協会は、国内をはじめ、朝鮮半島や台湾、中国各地に支部を開設し、大連でも満洲軍用犬協会が発足した。

東アジア資本主義形成史論 -2019

東アジア資本主義形成史論  

東アジア資本主義形成史論
著者 中村 哲 著   2019
====
目次


序言


第Ⅰ編 総論

 第1章 東アジア資本主義形成史序説

  はじめに――分析視角
  1.第1段階(萌芽期)――16~18世紀       
  2.第2段階(形成期)――19~20世紀前半
  3.第3段階(確立期)――20世紀後半~21世紀

 第2章 東アジア資本主義研究の課題

  はじめに
  1.東アジア資本主義論・アジアNIEs論の今日   
  2.世界資本主義の発展段階
  3.東アジア資本主義形成の内的諸条件 
      
 第3章 現代の歴史的位置

  1.現在、世界で起こっている重要な変化      
  2.資本主義の終焉についての考え方
  3.資本主義の成熟                
  4.人間の再生産とその社会化
  おわりに


第Ⅱ編 小農社会・複線的工業化・中進国型帝国主義日本


 第4章 小農社会と複線的工業化

  はじめに
  1.小農社会   
  2.複線的工業化   
  3.1930年代東アジアの工業化と貿易――転換期
  まとめ

第5章 小農経営の比較史的検討――日本・朝鮮・台湾――

  はじめに
  1.労働力        
  2.多角化・複合化   
  3.商品化・集約化   
  4.経営規模別構成    
  5.地主制と小作料   
  まとめ――いくつかの論点

第6章 転換期の1930年代東アジア

  はじめに
  1.研究の視角
    ――両大戦間期を19世紀資本主義から20世紀資本主義への過渡期・移行期と捉える
  2.1930年代を中心とする東アジアの工業化と貿易 
  3.中進国型帝国主義としての日本         
  4.1930年代における東アジア国際経済関係


第Ⅲ編 東アジア三国(中国・日本・朝鮮)の18世紀における分岐と「源蓄国家」の不在


第7章 東アジア三国経済の近世と近代(1600~1900年)

  はじめに
  1.小農社会の成立と発展     
  2.東北アジア三国(中国・日本・朝鮮)の分岐
  3.支配体制と財政の類型的差異  
  おわりに――東北アジア工業化への展望

第8章 「源蓄国家」の不在――西ヨーロッパとの決定的差異

  はじめに
  1.東北アジア三国(中国・日本・朝鮮)の国家財政(17~19世紀)
  2.西ヨーロッパの国家財政(16~18世紀)
  3.東北アジア三国(中国・日本・朝鮮)の近代国家への移行と財政
  4.主要な結論 近代移行における国家・土地所有・経済の類型
                 ――東北アジアと西ヨーロッパ――
  おわりに

事項索引

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内容説明
【序言より】(抜粋)

 東アジア資本主義は、非欧米で初めて本格的な資本主義が成立したという点で世界史的意義を持つ。東アジア資本主義は日本に始まり、20世紀にはいると朝鮮・台湾・中国に広がり、1930年代には東南アジアにもその萌芽が出てきた。その中には植民地であったところも多かったが戦後独立を果たして資本主義化が本格化した。
 現在、東北アジア(中国・日本・韓国)と東南アジアは経済関係を強化して、東アジア経済圏を形成している。さらにインド・バングラデシュ・スリランカ・パキスタンの南アジアも含む経済圏に拡大し始めている。その内部の構成は極めて多様であり、経済の統合化と多様化が同時に進行している。そして最近、東アジア経済圏は世界の経済成長のセンターになり始めている。将来、東アジア資本主義が欧米資本主義に代わって世界経済の中心になる可能性もある。

 しかし、政治、とくに安全保障面に大きな問題を抱えている。その点では欧米に比べはるかに遅れている。その改善が極めて重要であり、域内の政治的協力・協調を強力に推進しなければならない。困難が大きいがそれなしに東アジア資本主義の長期的発展は保障されない。

 本書の目的は東アジア資本主義の形成過程を歴史的に研究することであるが、研究の方法としては比較史を重視する。東アジア経済圏を構成する諸国の資本主義は、そのタイプ(類型)、歴史が極めて多様である。また、欧米資本主義とは非常に異なる面が多い。これまでの比較史は欧米資本主義を基準にして、それとの比較という方法をとることが多かった。資本主義は西ヨーロッパで形成・発達したし、資本主義の歴史研究も欧米の研究者が欧米の資本主義を研究することが主流である。しかし、欧米資本主義を基準にする比較史では、欧米と歴史もタイプも異なる東アジア資本主義を研究するのには適当ではない。欧米基準の比較史では、東アジアの欧米とは異なる面が抜け落ちたり、遅れた面と評価されたりすることになりやすい。

 欧米基準ではない、東アジアの研究の中から生まれた、東アジアの特徴を基準とした新しい比較史が必要である。それは同時に従来の欧米中心主義的歴史観・歴史認識の批判を内包するものになるはずである。言うまでもないが、東アジアの歴史に基づく比較史が独善的な欧米批判になってはならない。欧米の優れた研究成果の吸収は東アジア比較史のために必要である。

 このような課題と方法は“言うは易く行うは難し”であり、私も自覚的に努力してきたつもりだが、本書でどこまでそれが実現したかは自信があるわけではない。今後もさらに努力を重ねたい。

 一つ付け加えておきたいのは、比較史の方法は一国単位の研究にも役立つことが多いということである。歴史研究者は殆どと言っていいほど一国史の研究者である。もう少し複数国史・多国史を研究する人が増える必要があると思うが、いろいろな原因でそれは難しい。欧米では、言語的・歴史的・文化的・政治的・地理的に東アジアよりも国家間・民族間の交流が容易であり、密である。東アジア研究は欧米に比べると困難が多く、遅れている。しかし、一国史研究でも比較史的な視角を持つことによって、新しい・一国史的視角だけでは得られない知見が得られることがかなりある。一国史研究者にも比較史的関心をもつことを勧めたい。
====

東アジア近代経済の形成と発展 2005

東アジア近代経済の形成と発展|日本評論社
東アジア近代経済の形成と発展  東アジア資本主義形成史1
鹿児島国際大学附置地域総合研究所 中村 哲 編著 2005

1930年代の東アジア経済 2006

1930年代の東アジア経済|日本評論社
1930年代の東アジア経済
東アジア資本主義形成史2
 
鹿児島国際大学附置地域総合研究所 中村 哲 編著
発刊年月 2006.02 

近代東アジア経済の史的構造|2007

近代東アジア経済の史的構造|日本評論社

近代東アジア経済の史的構造   東アジア資本主義形成史3
     
の画像の画像
  • 鹿児島国際大学附置地域総合研究所
  • 中村 哲
  • 編著
    発刊年月
    2007.04

    内容紹介
    「東アジアにおける資本主義の形成」共同研究を推進してきた中国・台湾・韓国・日本の研究者による近代経済史体系化の試み。

    目次

    序 論 東北アジア(中国・日本・朝鮮)経済の近世と近代(1600~1900年):その共通性と差異性/中村 哲

    第1節 小農社会の成立と発展

    第2節 東北アジア3国(中国・日本・朝鮮)の分岐

    第3節 支配体制と財政の類型的差異

    第1章 18世紀朝鮮王朝の経済体制:広域的統合体系の特質を中心として/李 榮薫・朴 二澤(木村拓・訳)

    第1節 比較史的観察

    第2節 銅銭と還穀の政治経済学

    第3節 場市と還穀の経済地理学

    第2章 清末における国産アヘンによる輸入アヘンの代替(1805~1906年):近代中国における「輸入代替」の一事例研究/林 満紅(木越義則・訳)

    第1節 清末における国産アヘンによる「輸入代替」の発展趨勢

    第2節 国産アヘンの「輸入代替」に影響した要素

    第3章 中国近代の経済成長と中長期周期波動/王 玉茹(木越義則・訳)

    第1節 中国近代の経済成長

    第2節 中国近代経済発展の中長期波動

    第3節 中国近代経済成長の全体趨勢と発展段階

    第4章 両大戦間期日本帝国の経済的変容:世界市場における位置/堀 和生

    第1節 両大戦間期の世界市場とアジア

    第2節 日本の内地貿易と世界市場

    第3節 日本帝国の貿易とアジア

    第5章 銀とアジア国際経済秩序:上海を中心とする観察(1933~1935年)/ 李 宇平(木越義則・訳)

    第1節 銀の需給と分布

    第2節 銀の流れとアジア銀市場

    第3節 銀の流れとアジア地域金融市場

    第4節 アジア銀市場と投機商

    第5節 アジア銀市場とロンドン国際金融センター

    第6章 戦間期日本における都市型輸出中小工業の歴史的位置:「在来的経済発展」との関連/谷本雅之

    第1節 輸出「雑貨」工業の変遷

    第2節 戦間期都市型中小工業の発展―玩具工業の事例

    第7章 1920~30年代における日本と植民地朝鮮の生活改善運動/井上和枝

    第1節 日本の生活改善運動

    第2節 植民地朝鮮の生活改善運動

    おわりにかえて―本国日本と植民地朝鮮の生活改善運動比較

    第8章 東アジア経済における同業者団体の役割/朴 ソプ

    第1節 日本帝国

    第2節 中国

    第3節 東アジアとアメリカ

    第9章 日本ミシン企業における国際競争力の形成:創業者の人脈と情報共有システム形成に焦点をあてて/康上賢淑

    第1節 国際競争力形成の諸段階

    第2節 国際競争力形成の要因(その1):産業構成の特殊性

    第3節 国際競争力形成の要因(その2):支配的企業の誕生と「市場情報の共有システム」の形成

    第4節 国際競争力形成の要因(その3):支配的企業の経営者とその背後

    第10章 戦時期日本帝国における技術者供給/沢井 実

    第1節 大学工学部の拡充

    第2節 工業専門学校の拡充

    第3節 「外地」での技術者供給

    第4節 戦時下の外国人留学生

    第11章 アジア国際産業連関モデルによる東アジア経済の分析/呼子 徹

    第1節 アジア国際産業連関モデル

    第2節 東アジア経済の特性



    ==

    <근대 동아시아 경제의 사적 구조> 요약 및 평론

    <1. 서론 및 학술적 위상>

    나카무라 테츠가 편저를 맡은 <근대 동아시아 경제의 사적 구조: 동아시아 자본주의 형성사 3>(2007)은 한국, 일본, 중국, 대만의 경제사학자들이 참여한 다국적 공동 연구 시리즈의 세 번째 완결편 성격을 띤다. 전작들이 전간기 및 특정 국면의 분업망 형성에 집중했다면, 본서는 17세기 근세(1600년대)부터 20세기 전시체제 및 현대에 이르는 장기적 시계 속에서 동아시아 경제가 지닌 제도적 기저와 구조적 차이를 체계적으로 정립하는 데 목적을 둔다.

    서구의 자본주의 경로를 절대 기준으로 삼아 아시아의 역사를 설명하려던 방법론적 한계를 벗어나, 한·중·일 3국의 공통된 사회 기반(소농사회)과 그 위에서 갈라진 국가 재정·지배 체제의 차이(분기)를 통합적으로 조망한다.

    <2. 장별 핵심 내용 요약>

    본서는 서론과 총 11편의 실증 연구 논문으로 구성되어 있다.

    서론 <동북아시아(중국·일본·조선) 경제의 근세와 근대(1600~1900년): 그 공통성과 차이성>(나카무라 테츠)은 3국이 공유한 <소농사회의 성립과 발전>을 확인하면서도, 18세기 이후 지배 체제와 재정 구조에서 뚜렷한 유형적 분기가 발생했음을 밝힌다. 이는 근대 공업화로의 이행 궤적을 규정한 핵심 틀로 제시된다.

    제1장(이영훈·박이택)은 18세기 조선 왕조의 경제 체제를 분석하며, 동전 유통과 환곡(還穀) 제도가 단순한 재정 수단에 그치지 않고 전국적 장시(場市)망과 맞물려 작동한 고유의 광역적 통합 메커니즘이었음을 규명한다.

    제2장(린만홍)은 19세기 청말 토산(국산) 아편이 수입 아편을 대체해 나간 과정을 추적한다. 이를 통해 서구 자본의 침투 속에서도 중국 내 상품 생산과 유통망이 작동하며 자생적 '수입 대체'를 이루어낸 미시적 동학을 드러낸다.

    제3장(왕위루)은 근대 중국의 거시 경제 성장률과 중장기 경기 파동을 통계적으로 복원하여, 외압과 내전의 혼란기 속에서도 장기적인 근대 경제 성장의 추세가 존재했음을 입증한다.

    제4장(호리 가즈오)은 양차 대전 사이 일본 제국의 대외 무역과 세계 시장에서의 위치를 분석한다. 일본 내지와 식민지(조선·대만), 그리고 아시아 역내 무역망이 세계 대공황 이후 엔 블록으로 재편되는 과정을 계량적으로 밝힌다.

    제5장(리위핑)은 1930년대 중반 상하이를 중심으로 한 은(銀)의 유출입과 금융 시장 동향을 다룬다. 아시아 은본위 질서가 런던·뉴욕의 국제 금융 헤게모니 및 투기 자본과 충돌하며 재편된 양상을 파헤친다.

    제6장(타니모토 마사유키)은 전간기 일본의 완구 등 도시형 수출 잡화 공업을 분석하여, 서구형 대기업과 대비되는 아시아적 '재래적 경제 발전'과 중소 영세 공업의 적응력을 확인한다.

    제7장(이노우에 가즈에)은 1920~1930년대 일본 본토와 식민지 조선의 생활개선운동을 비교하며, 미시적 일상 훈육이 총력전기 생산력 확충 및 노동 규율 내면화로 이어진 과정을 실증한다.

    제8장(박섭)은 일본과 중국, 미국과의 비교를 통해 동아시아 경제에서 동업자 단체(조합)가 시장의 거래 비용을 낮추고 국가 정책과 상호작용했던 제도적 역할을 규명한다.

    제9장(강현숙)은 일본 재봉틀 산업의 발전사를 통해 창업자의 인맥 네트워크와 정보 공유 시스템이 국제 경쟁력 확보로 이어진 산업 조직적 요인을 짚는다.

    제10장(사와이 미노루)은 전시체제기 일본 제국의 고등 공학 교육 확충과 외지(식민지) 기술자 양성, 유학생 유치 정책을 분석하여, 전후 과학기술 기반으로 전환된 기술 인력 양성의 경로를 추적한다.

    제11장(요부코 토오루)은 아시아 국제산업연관표를 이용하여 전후 동아시아 경제의 산업 간 연관과 상호 의존도의 특성을 수치로 총괄한다.

    <3. 비판적 평론>

    본서의 뛰어난 학문적 기여는 소농사회라는 공통 기반 위에서 각국이 걸어간 '분기(Divergence)'와, 제국주의 시기 및 전후에 걸쳐 다시 엮이는 '연계(Integration)'의 변증법적 구조를 완성했다는 점에 있다. 환곡과 장시의 결합(이영훈·박이택), 토산 아편의 수입 대체(린만홍), 재래 중소공업의 탄력성(타니모토 마사유키) 등은 아시아 사회가 서구 충격 이전부터 자생적 시장 질서와 경제적 탄력성을 축적하고 있었음을 강력히 보여준다. 나아가 금융, 교육·기술, 산업 조직 등 다층적인 층위에서 역내 구조를 복원해 냈다.

    그러나 비판적 검토가 필요한 지점도 상존한다. 첫째, 식민지기 기술 인력 양성(사와이 미노루)이나 무역 연관(호리 가즈오)을 고도화된 시스템 중심으로 추적하는 과정에서, 제국주의적 군사 동원과 민족 차별, 불평등한 분업 구조가 식민지 사회에 남긴 깊은 왜곡과 민중의 상흔이 경제 시스템 분석의 그늘에 가려질 우려가 있다. 둘째, 중국의 은본위 금융 시장, 조선의 환곡제, 일본의 기술 교육 등 논문 간 주제적 스펙트럼이 매우 넓어 각국의 '제도적 분기'가 근대 공업화의 구체적 성패로 귀결되는 인과 메커니즘을 하나의 통합 이론으로 매끄럽게 연결하기에는 다소의 간극이 남는다.

    결론적으로 본서는 4개국 연구진의 방대한 사료 발굴과 수량적 실증을 통해, 동아시아 경제사를 단순한 정체나 서구화의 결과가 아닌 자율적 제도 진화와 모순적 연계의 총체로 바로 세운 기념비적 저작이다.

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    <近代東アジア経済の史的構造 — 근대 동아시아 경제의 역사적 구조>

    中村哲(나카무라 사토루) 편, 2007
    <東アジア資本主義形成史 3>
    1,000단어 요약·평론

    ※ 첨부 자료는 책 전체가 아니라 3쪽의 내용소개와 상세 목차이다. 따라서 아래 글은 개별 논문의 세부 통계와 논증을 임의로 보충하지 않고, 서문과 11개 장의 구성에서 확인되는 책의 전체 논리와 연구 방향을 중심으로 재구성한다.

    1. ‘근대 동아시아 경제’를 하나의 역사적 구조로 본다

    <近代東アジア経済の史的構造>는 나카무라 사토루가 주도한 <동아시아 자본주의 형성사> 공동연구의 제3권이다. 소개문에 따르면 중국·대만·한국·일본 연구자들이 참여하여 “동아시아에서의 자본주의 형성”을 장기간에 걸쳐 검토한다. 제1권이 근대경제의 형성과 발전을 넓게 조망하고, 제2권이 1930년대를 집중적으로 분석했다면, 이 제3권은 그 성과를 한 단계 더 체계화하여 1600년대부터 20세기까지 동아시아 경제의 ‘역사적 구조’를 묻는다.

    핵심은 일본·중국·조선을 각각 고립된 국민경제로 보는 대신, 세 사회가 한때 상당히 가까운 경제구조를 지녔다가 왜 서로 다른 길을 걷게 되었으며, 19~20세기에 다시 어떤 방식으로 연결되었는가를 밝히는 데 있다.

    따라서 이 책에서 중요한 개념은 ‘근대화’ 자체보다 <접근(近世의 유사성)―분기―재연결>이라고 할 수 있다.

    2. 서론 — 중국·일본·조선은 처음부터 서로 달랐던 것이 아니다

    서론의 제목은 <동북아시아(중국·일본·조선) 경제의 접근과 근대(1600~1900년): 그 공통성과 차이>이다.

    세 가지 문제가 제시된다.

    첫째, 소농사회의 성립과 발전. 둘째, 동북아시아 삼국의 분기. 셋째, 지배체제와 재정의 유형적 차이다.

    이 구성은 나카무라 경제사론의 핵심을 압축한다.

    중국·일본·조선은 가족노동을 기반으로 한 소농사회, 농업과 부업의 결합, 상품경제의 발전이라는 상당한 공통성을 가지고 있었다. 따라서 일본이 ‘원래부터 자본주의적’이었고 중국·조선이 ‘원래 정체되어 있었다’는 식으로 근대의 결과를 전근대에 투사해서는 안 된다는 것이다.

    그렇다면 질문이 바뀐다.

    “왜 비슷한 출발조건을 가진 세 사회가 18~19세기에 서로 다른 길을 걷게 되었는가?”

    나카무라의 비교사는 바로 이 ‘분기’를 설명하려 한다.

    3. 조선 후기 경제 — 시장보다 ‘지역적 통합체계’를 본다

    제1장은 18세기 조선왕조의 경제구조를 “광역적 통합체계”라는 관점에서 다룬다.

    세부 항목에는 비교사적 관찰, 동전과 환곡의 정치경제학, 장시와 환곡의 경제지리학이 들어 있다.

    이것은 조선 후기를 단순한 자연경제나 폐쇄적 농업사회로 보지 않는 시각이다.

    장시는 지역시장을 형성했고, 동전은 상품교환의 매개가 되었으며, 환곡은 국가재정·구휼·지역경제를 연결하는 제도였다. 중요한 것은 시장과 국가가 별개가 아니라 서로 얽혀 있었다는 점이다.

    즉 조선 경제의 근대적 가능성을 상업이 얼마나 발달했는가라는 단일 지표로 측정하기보다, 국가재정과 지역시장, 화폐유통을 포함한 전체 경제조직의 구조에서 파악하려는 접근이다.

    이것은 조선후기 ‘자본주의 맹아론’을 단순히 부활시키는 것과도 다르다. 핵심은 자본주의가 이미 존재했다고 주장하는 것이 아니라, 이후 근대경제가 작동할 수 있었던 시장·화폐·지역통합의 기반을 역사적으로 분석하는 데 있다.

    4. 중국 — ‘수입대체’와 장기 경기변동

    제2장은 청말 중국에서 국산 아편에 의한 ‘수입대체’를 1805~1906년이라는 긴 기간에 걸쳐 검토한다.

    이 주제가 흥미로운 이유는 중국을 단순히 서구상품에 침투당한 수동적 시장으로 보지 않기 때문이다.

    서구에서 들어오던 상품을 국내생산이 대신하는 과정, 즉 ‘수입대체’가 이미 청말 중국에서 일어나고 있었다는 문제를 제기한다. 첨부된 목차만으로 구체적인 결론까지 알 수는 없지만, 적어도 근대 중국경제가 외세의 충격에 일방적으로 반응한 것만은 아니며 내부 생산능력과 시장변화가 존재했다는 관점이 드러난다.

    제3장은 한층 더 거시적이다.

    <중국 근대의 경제성장과 중장기 주기변동>을 다루면서 경제성장, 중장기 경기변동, 성장의 전체 추세와 발전단계를 분석한다.

    이 역시 중국 근대사를 ‘침체와 혼란의 세기’로만 보는 역사관에서 벗어나려는 시도이다. 정치적으로는 왕조붕괴, 전쟁, 제국주의 침략이 계속되었더라도 그 속에서 경제성장과 순환, 구조변동이 존재했는지를 계량적·장기적으로 보려는 것이다.

    5. 일본 제국 — 세계시장 안에서 보아야 한다

    제4장은 양차대전 사이 일본제국의 경제적 변용을 세계시장에서의 위치라는 관점으로 다룬다.

    내용은 세계시장과 아시아, 일본의 역내무역과 세계시장, 일본제국의 무역과 아시아로 구성된다.

    이것은 일본제국을 ‘일본+식민지’라는 폐쇄적 블록으로만 이해하지 않는 접근이다.

    일본·조선·대만·만주를 연결하는 제국경제권은 동시에 세계시장과도 연결되어 있었다. 일본의 산업화와 수출은 아시아 내부시장을 필요로 했지만, 원료·자본·무역은 영국·미국 등 세계경제와 분리될 수 없었다.

    따라서 일본 제국주의를 이해하려면 두 방향을 동시에 봐야 한다.

    <일본이 아시아를 어떻게 경제적으로 통합했는가>와 <일본제국 자체가 세계자본주의에 어떻게 종속·의존·경쟁하고 있었는가>이다.

    이것이 나카무라가 일본을 ‘중진국형 제국주의’로 이해하려 했던 문제와도 연결된다.

    6. 은(銀)과 아시아 금융시장 — 동아시아는 이미 국제금융경제였다

    제5장은 1933~35년 상하이를 중심으로 은과 아시아 국제경제질서를 분석한다.

    은의 수급과 분포, 은의 흐름과 아시아 은시장, 지역금융시장, 투기상, 런던 국제금융센터까지 논의한다.

    이 장은 매우 중요하다.

    동아시아 근대경제를 공장과 무역으로만 보면 국제금융의 역할이 잘 보이지 않는다. 그러나 상하이는 세계 은시장, 런던 금융시장, 중국의 통화제도를 연결하는 중요한 금융거점이었다.

    이는 ‘서양 자본주의가 동아시아로 들어왔다’라는 일방향적 모델보다 훨씬 복잡한 세계를 보여준다. 자본과 은은 런던―상하이―지역금융시장을 왕복하면서 움직였고 동아시아의 경제변동은 이미 세계금융체제와 긴밀하게 연결되어 있었다.

    7. 중소기업·생활개선·동업자단체 — 자본주의는 공장 밖에서도 만들어졌다

    제6장부터 이 책은 거대 구조에서 일상과 중간조직으로 내려간다.

    제6장은 전간기 일본의 도시형 수출 중소공업, 특히 완구산업을 분석한다. 제7장은 1920~30년대 일본과 식민지 조선의 생활개선운동을 비교한다. 제8장은 일본제국과 중국에서 동업자단체가 어떤 역할을 했는지를 다룬다.

    이 세 장을 함께 읽는 것이 중요하다.

    동아시아 자본주의는 대기업과 국가만으로 형성되지 않았다. 수많은 중소기업과 도시 소공업, 상공업자 조직, 농촌·가정의 생활개선운동이 산업화의 사회적 토대를 만들었다.

    특히 생활개선운동은 앞서 살펴본 것처럼 위생이나 의생활만의 문제가 아니다. 절약, 시간관리, 가사노동의 합리화, 여성노동의 재배치 등을 통해 생활 자체를 더욱 ‘생산적인 생활’로 조직하는 과정이었다.

    이 지점에서 자본주의 형성은 기업의 역사인 동시에 사람들의 일상시간과 노동습관이 변하는 역사라는 점이 드러난다.

    8. 미싱산업 — 일본 기업은 어떻게 국제경쟁력을 만들었는가

    제9장은 일본 미싱기업의 국제경쟁력 형성을 분석한다.

    특히 흥미로운 항목은 산업구성, 지배적 기업의 탄생뿐 아니라 ‘시장정보 공유시스템’과 창업자의 인맥·정보공유체제이다.

    이는 일본기업의 성공을 단순히 기술우위나 저임금으로 설명하지 않는다.

    기업 사이의 정보교환, 인간관계, 네트워크, 산업집적 같은 제도적·사회적 자원이 경쟁력을 만들어냈다는 것이다.

    이러한 구조는 대기업 중심의 서구 산업화 모델과 다른 일본 산업화의 중요한 특징을 보여준다. 기업 간 경쟁과 협력이 동시에 이루어지고 중소기업 네트워크가 생산·기술·시장정보를 공유함으로써 국제경쟁력을 획득하는 형태이다.

    9. 전시 기술자 양성과 전후 산업화의 연결

    제10장은 전시기 일본제국의 기술자 공급을 다룬다.

    대학 공학부 확대, 공업전문학교 확대, ‘외지’에서의 기술자 공급, 전시기 외국인 유학생까지 분석한다.

    이 장은 자본주의 발전에서 ‘인적 자본’의 중요성을 보여준다.

    공장과 기계를 만들어도 그것을 설계하고 운영할 기술자가 없다면 산업화는 지속될 수 없다. 일본은 전시동원 과정에서 기술교육을 크게 확대했고, 그것이 패전 이후 일본의 산업부흥과 어떤 연속성을 가졌는지 생각하게 한다.

    동시에 ‘외지’라는 표현이 보여주듯 기술자 양성도 제국의 공간구조 속에서 이루어졌다.

    따라서 전후 일본의 산업기술 기반을 전전·전시기와 완전히 단절된 새로운 출발로만 볼 수 없다는 문제가 제기된다.

    10. 마지막 장 — 동아시아경제를 하나의 산업연관구조로 측정한다

    제11장은 <아시아 국제산업연관모델에 의한 동아시아경제 분석>이다.

    역사적 서술로 시작했던 책이 마지막에는 현대 동아시아 경제의 산업연관을 계량적으로 분석하는 데 이른다.

    이 구성은 책 전체의 목적을 잘 보여준다.

    17~18세기 소농사회와 지역시장 → 19세기 중국의 수입대체와 경제변동 → 일본제국과 세계시장 → 은을 통한 국제금융 → 중소기업·생활개선·산업조직 → 기술자 양성 → 현대 동아시아 생산네트워크라는 하나의 장기적 흐름이다.

    평론 — 가장 중요한 성과와 한계

    이 책의 가장 큰 장점은 ‘동아시아 자본주의’를 추상적인 문화적 특성으로 설명하지 않는다는 점이다.

    ‘유교라서 근면했다’거나 ‘일본인은 기업가정신이 강했다’는 식의 문화론 대신 소농사회, 국가재정, 시장, 은, 제국주의, 중소기업 네트워크, 노동생활, 기술교육 같은 구체적인 제도와 역사과정을 분석한다.

    두 번째 장점은 미시와 거시를 연결하는 것이다.

    런던 국제금융센터와 상하이 은시장을 분석하면서도 조선의 생활개선운동과 일본 완구공업을 같은 자본주의 형성사 속에 배치한다. 자본주의는 ‘세계시장’인 동시에 ‘가정의 시간사용’이기도 하다는 것이다.

    세 번째는 전전과 전후의 연속성을 생각하게 한다는 점이다. 일본의 연구개발과 기술자 양성, 중소기업 네트워크가 전후 고도성장의 기반과 어떤 관계를 가졌는지 묻는 틀을 제공한다.

    그러나 한계도 있다.

    ‘동아시아 경제의 통합’이라는 표현은 식민지와 제국주의의 권력 비대칭을 약화시킬 위험이 있다. 일본제국 안에서 일본·조선·대만의 경제가 연결되었다는 것과 그 연결이 평등했다는 것은 전혀 다른 문제이다. 자본과 기술, 정책결정권, 이익배분을 누가 통제했는지를 동시에 분석해야 한다.

    또한 중국·일본·조선을 하나의 ‘소농사회’ 유형으로 묶는 것은 유용하지만, 세 사회의 국가구조·토지제도·상업조직·대외관계의 차이가 지나치게 단순화되지 않도록 주의할 필요가 있다.

    종합평가

    <近代東アジア経済の史的構造>이 제시하는 가장 중요한 역사상은 다음과 같다.

    동아시아의 근대는 서구가 도착한 순간 갑자기 시작된 것이 아니다. 중국·일본·조선에는 이미 17~18세기부터 소농사회, 지역시장, 화폐경제라는 공통기반이 존재했다. 그러나 국가체제와 재정, 시장구조의 차이에 따라 18~19세기부터 세 나라는 서로 다른 길로 분기했다. 이후 세계시장과 제국주의가 다시 이들을 강력하게 연결했고, 그 과정에서 산업화·금융화·중소기업·생활규율·기술교육이라는 새로운 자본주의적 구조가 형성되었다.

    그래서 이 책의 핵심 질문은 ‘일본이 왜 먼저 근대화했는가?’보다 더 근본적이다.

    <비슷한 동아시아 소농사회에서 출발한 중국·일본·조선은 왜 서로 다른 근대에 도달했고, 그 차이가 어떻게 다시 하나의 동아시아 자본주의 경제권으로 연결되었는가?>

    이 질문에서 볼 때 <동아시아 자본주의 형성사> 3권 가운데 이 제3권은 가장 ‘종합적’인 성격을 가진다. 제1권의 형성과 발전, 제2권의 1930년대 분석을 바탕으로, 제3권에서는 <소농사회 → 분기 → 제국주의적 재통합 → 산업·금융·노동·기술 네트워크 → 현대 동아시아경제>라는 장기 구조가 가장 선명하게 드러난다고 평가할 수 있다.


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    제7장 1920~30년대 일본과 식민지 조선의 생활개선운동 (이노우에 가즈에) 요약

    본 장은 1920~1930년대 일본 본토와 식민지 조선에서 병행 전개된 <생활개선운동>을 비교 분석하여 근대적 일상 규율의 형성과 국가 통제의 메커니즘을 밝힌다.

    제1절에서는 일본 본국의 생활개선운동을 다룬다. 제1차 세계대전 이후 도시화와 산업화가 진전되면서 시간 관념의 확립, 주거 및 의식주 개량, 위생 강화, 가계 합리화 등 중산층 중심의 서구식 합리주의 생활 규범이 정착해 나간 과정을 서술한다.

    제2절에서는 식민지 조선의 생활개선운동을 조망한다. 1920년대 초중반에는 잡지와 계몽 지식인을 중심으로 비합리적 관습 타파와 가정 개선이라는 문화적 성격이 강했다. 그러나 1930년대 농촌진흥운동과 중일전쟁 이후 전시 총력전 체제에 접어들며 조선총독부의 강력한 관제 동원 기제인 <생활개신> 운동으로 전면 재편되었다. 혼례와 상례의 강제 간소화, 백의 폐지와 색복 착용, 저축 및 국방 헌금 독려, 일상적 의례와 체조 등은 민간의 사적 생활을 억압하고 전시 생산력 확충에 복종시키기 위한 수단으로 변질되었다.

    결론부에서는 일본 본국과 식민지 조선의 성격을 비교한다. 본국에서는 근대 시민사회의 성립과 산업화에 맞춘 일상 합리화의 측면이 강했던 반면, 식민지 조선에서는 식민지 민중을 억압적으로 개조하여 총력전 체제의 규율화된 노동력과 군수 지원 자원으로 동원하려는 국가주의적 강제 통제의 성격이 압도적이었음을 규명한다.

    제10장 전시체제기 일본 제국의 기술자 공급 (사와이 미노루) 요약

    본 장은 1930년대 후반부터 1945년 패전에 이르는 중일전쟁과 태평양전쟁 시기, 일본 제국이 총력전을 수행하기 위해 군수 산업과 기간산업에 필수적인 기술 인력을 어떻게 대규모로 양성하고 배치했는지를 실증 분석한다.

    제1절에서는 대학 공학부의 확충을 분석한다. 제국대학을 비롯한 고등 교육기관의 이공계 정원을 비약적으로 증원하고, 기계, 항공, 조선, 정밀기계, 응용화학 등 군수 생산과 직결된 학과와 연구소를 신설·확장한 국가 정책을 검토한다.

    제2절에서는 중간 관리자이자 현장 핵심 기술 인력을 공급하던 고등공업학교(공업전문학교)의 대대적인 증설과 개편 과정을 추적한다.

    제3절에서는 일본 내지에 국한되지 않고 식민지인 '외지'에서의 기술자 양성 정책을 조명한다. 조선과 대만에서도 경성제국대학 이공학부 신설 등 고등 공업 교육기관이 설립·확충되어 현지 산업 인프라 유지와 군수 물자 생산을 위한 기술 인력이 공급되었다.

    제4절에서는 전시하 아시아 점령지와 동맹국 출신 외국인 유학생 유치 정책을 살핀다. 이들을 제국 기술 체제 안에 편입하여 대동아공영권 역내 기술 지배 네트워크를 구축하려던 정책적 의도를 검토한다.

    결론적으로 저자는 전시체제기 국가 주도로 급팽창한 이공계 교육과 인력 양성 체제가, 패전 이후 폐기되지 않고 전후 민수 산업으로 전환되어 일본과 동아시아의 고도 경제 성장을 지탱한 핵심적 인적·기술적 자산으로 계승되었음을 확인한다.

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    <近代東アジア経済の史的構造> 제7장·제10장

    먼저 한 가지 밝혀두겠습니다. 현재 올려주신 자료에는 책 본문이 아니라 상세 목차 3쪽만 들어 있습니다. 따라서 아래 글은 ‘본문을 읽고 압축한 요약’이 아니라, 목차가 명확하게 보여주는 논점과 장의 구조에 근거한 약 300단어씩의 내용 재구성입니다. 본문이 확보되면 논증·사례·결론까지 포함한 정확한 300단어 요약으로 다시 만들 수 있습니다.

    제7장 「1920~30년대 일본과 식민지 조선의 생활개선운동」 — 이노우에 가즈에(井上和枝)

    제7장은 1920~30년대 일본과 식민지 조선에서 전개된 ‘생활개선운동’을 비교한다. 목차는 ① 일본의 생활개선운동, ② 식민지 조선의 생활개선운동, ③ 본국 일본과 식민지 조선의 생활개선운동 비교라는 세 단계로 구성되어 있다. 따라서 이 장의 핵심은 생활개선운동을 일본에서 조선으로 단순히 전달된 하나의 정책으로 보는 것이 아니라, 같은 이름의 운동이 본국과 식민지라는 서로 다른 사회적·정치적 조건 속에서 어떻게 전개되었는지를 비교하는 데 있다고 볼 수 있다.

    이 장이 경제사 연구서에 포함되어 있다는 사실도 중요하다. 저자들은 근대경제의 형성을 공장·무역·금융만의 변화로 한정하지 않고, 사람들의 일상생활을 변화시키는 운동까지 경제구조 변화의 일부로 취급한다. 즉 ‘생활’이 자본주의 형성과 별개의 사적 영역이 아니라는 문제의식이다.

    또한 ‘일본’과 ‘식민지 조선’을 별도의 절로 서술한 뒤 마지막에 직접 비교한다는 구성은 두 지역 사이에 공통성과 차이가 모두 있었음을 전제한다. 일본에서 형성된 운동이 식민지 조선에서는 동일하게 작동하지 않았을 것이며, 식민지 지배라는 조건이 운동의 주체·목적·실행방식에 차이를 만들었을 가능성을 검토하는 비교사적 접근이다. 다만 구체적으로 어떤 제도나 생활영역을 분석했는지는 현재 목차만으로 확인할 수 없다.

    이 장의 가장 중요한 의미는 ‘근대화’를 국가정책이나 산업발전만으로 설명하지 않고 일상생활의 변화까지 확대한다는 데 있다. 앞뒤 장들이 도시 중소공업과 동업자단체를 다루는 가운데 생활개선운동을 배치함으로써, 근대 동아시아 경제가 기업과 제도뿐 아니라 가정과 생활세계의 변화 속에서도 형성되었다는 관점을 제시하는 장이라고 정리할 수 있다.


    제10장 「전시기 일본제국에서의 기술자 공급」 — 사와이 미노루(沢井実)

    제10장은 전시기 일본제국이 산업과 전쟁 수행에 필요한 기술자를 어떻게 확보했는지를 다룬다. 목차는 ① 대학 공학부의 확대, ② 공업전문학교의 확대, ③ ‘외지’에서의 기술자 공급, ④ 전시하 외국인 유학생이라는 네 부분으로 구성되어 있다. 따라서 이 장은 기술자 공급을 단순히 일본 국내 대학 졸업자의 증가로 설명하지 않고, 교육기관의 확대와 제국 전체의 인적 이동을 함께 파악하는 것이 핵심이다.

    첫째, 대학 공학부의 확대는 전시기에 고등기술교육의 규모를 확대하여 전문기술자를 공급하는 경로를 검토한다. 둘째, 공업전문학교의 확대를 별도로 다룬다는 것은 기술인력 공급이 대학 수준의 고급기술자만으로 이루어진 것이 아니라 보다 폭넓은 중견 기술인력 양성과도 연결되어 있었음을 보여준다.

    특히 중요한 것은 제3절의 ‘외지에서의 기술자 공급’이다. 당시 일본제국의 ‘외지’라는 말은 식민지와 일본 본토 밖의 제국공간을 가리킨다. 따라서 기술자 공급을 일본 국내의 국민경제 문제로만 보지 않고 제국이라는 공간 전체에서 파악한다는 것이 이 장의 특징이다. 기술교육과 기술인력의 배치 역시 제국경제의 형성과 분리할 수 없다는 것이다.

    제4절에서 전시기 외국인 유학생을 포함시키는 것도 흥미롭다. 이것은 일본의 기술인력 형성이 국내 교육제도뿐 아니라 국경을 넘어 이동한 학생과 인력까지 포함하는 문제였음을 보여준다. 정확히 어떤 국가 출신의 학생들이 어떤 역할을 했는지는 목차만으로는 알 수 없다.

    전체적으로 제10장은 산업발전의 핵심 요소를 기계나 자본만이 아니라 그것을 설계·관리·운용할 ‘기술인력’에서 찾는다. 더 나아가 전시기 일본의 기술인력 형성이 <대학–전문학교–제국의 외지–외국인 유학생>이라는 여러 통로를 통해 이루어졌음을 분석하는 장으로 볼 수 있다. 따라서 이 장은 일본 산업화와 전시경제를 ‘인적 자원의 제국적 조직화’라는 관점에서 이해하게 하는 데 중요한 의미가 있다.

    두 장을 연결해서 보면 흥미로운 대조가 나타납니다. 제7장은 ‘생활과 일상의 근대화’를, 제10장은 ‘전문기술 인력의 조직적 양성’을 다룹니다. 즉 하나는 아래로부터 일상생활이 변화하는 과정이고 다른 하나는 제도화된 기술교육의 확대입니다. 이 둘을 함께 놓으면 이 책이 동아시아 자본주의의 형성을 단순한 공장 증가가 아니라 <생활방식의 변화 + 인적 능력의 형성 + 제국적 동원>이라는 더 넓은 사회적 과정으로 파악하고 있음을 볼 수 있습니다.


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