2026-09-14

키시 케이코 - 위키백과, 岸惠子

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키시 케이코

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키시 케이코
1957년 모습
출생1932년 8월 11일
일본 가나가와현 요코하마시
사망2026년 8월 7일(93세)
직업배우, 작가
활동 기간1951년 ~ 2026년

키시 케이코(일본어: 岸 惠子 기시 게이코[*], 1932년 8월 11일 ~ 2026년 8월 7일)는 일본배우, 작가, 유엔 인구 기금 친선 대사이다.

출연 작품

외부 링크


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Keiko Kishi

From Wikipedia, the free encyclopedia
Keiko Kishi
岸 惠子
Kishi in 1957.
Born11 August 1932
Yokohama, Japan
Died7 August 2026 (aged 93)
Occupations
  • Actress
  • writer
Years active1951–2026
Spouse
(m. 1957; div. 1975)
Children1

Keiko Kishi (岸 惠子, Kishi Keiko; 11 August 1932 – 7 August 2026) was a Japanese actress, writer and UNFPA Goodwill Ambassador. She was a Japan Academy Film Prize winner, out of three total nominations.

Early life and career

Kishi was born in Yokohama on 11 August 1932, and studied ballet as a child. She aspired to be a novelist, as an admirer of Yasunari Kawabata.

She made her acting debut in 1951 in Noboru Nakamura's film Home Sweet Home.

Kishi co-founded the production company Ninjin Club, with Yoshiko Kuga and Ineko Arima in 1954.

In the 1950s, David Lean proposed her for the main role in The Wind Cannot Read, which is about a Japanese language instructor in India circa 1943 who falls in love with a British officer, but that idea fell through and Yoko Tani was eventually cast in the role.

From 1996 she was a Goodwill Ambassador for the United Nations Population Fund (UNFPA).

In 2002, she won the Japan Academy Prize for best actress for her role in the film Kah-chan.[1]

Personal life and death

Kishi married the French director Yves Ciampi in 1957, and commuted for a while between Paris and Japan to continue her acting career. In 1963 a daughter was born. She divorced her husband in 1975. Kishi had two grandchildren by her daughter.[2]

Kishi died on 7 August 2026, four days before her 94th birthday.[3][4]

Filmography (selected)

Film

Television

  • Vol 272, Miki
  • Taikōki (1965), Oichi
  • The Eldest Boy and His Three Elder Sisters (2003), Satoko Kashiwakura
  • Mango no Ki no Shita de (2019), Rinko

Honours

References

  1.  第 25 回日本アカデミー賞優秀作品 (in Japanese). Japan Academy Prize. Retrieved 16 December 2010.
  2.  "岸惠子と元夫イヴ・シャンピの結婚、離婚にいたるまで!娘の現在は? | 斜め上からこんにちは(芸能人、有名人の過去、今、未来を応援するブログ!)". anincline.com. 10 August 2020. Archived from the original on 26 May 2024. Retrieved 26 May 2024.
  3.  "Japanese Actor Keiko Kishi, Whose Career Expanded to France, Dies at 93". The Japan News. The Yomiuri Shimbun. 19 August 2026. Archived from the original on 19 August 2026. Retrieved 19 August 2026.
  4.  "Keiko Kishi, who starred in the 1953 hit 'Kimi no Na wa,' dies at 93". The Asahi Shimbun. 19 August 2026. Archived from the original on 19 August 2026. Retrieved 19 August 2026.
  5.  "式部物語". eiga.com (in Japanese). Retrieved 24 March 2026.
  6.  "田中絹代賞とは". Tanaka Kinuyo Memorial Association. Archived from the original on 10 December 2008. Retrieved 3 April 2021.
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岸惠子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
きし けいこ
岸 惠子
岸 惠子
『映画情報』1956年11月号より
本名岸 恵子
生年月日1932年8月11日
没年月日2026年8月7日(93歳没)
出生地日本の旗 日本神奈川県横浜市
死没地日本の旗 日本・神奈川県横浜市
身長161cm
血液型A型
職業女優文筆家
ジャンル映画・テレビドラマ・舞台
活動期間1951年 - 2026年
配偶者イヴ・シャンピ1957年 - 1975年
主な作品
テレビドラマ
沿線地図
夕暮れて
映画
君の名は[1]
女の園[1]
『約束』
雨のアムステルダム
黒い十人の女
怪談
細雪[1]
受賞
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岸 惠子(きし けいこ、1932年昭和7年〉8月11日[2][1] - 2026年令和8年〉8月7日[3])は、日本の女優文筆家岸 恵子の表記もある。身長161 cm舞プロモーション最終所属。映画の代表作は『君の名は』『雪国』『おとうと』『約束』『悪魔の手毬唄』『細雪』など。

生涯

生い立ち

神奈川県横浜市[2]神奈川区生まれ。父は国語教師から神奈川県庁職員になった岸操、母は千代子[4]。度々の転居で小学校をいくつか替わったのち、1945年4月、神奈川県立横浜第一高等女学校(現在の神奈川県立横浜平沼高等学校[1]へ入学[2]。5月の横浜大空襲で被災。横浜市南区庚台に、1955年頃まで家族と居住、その後、同市神奈川区妙蓮寺に転居。

高校在学中に小牧バレエ団に通う。神奈川県立横浜第一高等女学校卒業[1](48期[5])。 もともとは小説家志望で、川端康成を耽読した。高校時代に観た『美女と野獣』に魅せられ、映画に興味を持つようになった。

女優デビュー

田中敦子(小園蓉子)と松竹大船撮影所を見学するうちに、吉村公三郎にスカウトされ[6]、断ったが後に「本物の女学生が欲しい」と頼まれ、1950年に大船撮影所のニューフェイスとして合格[2]1951年3月、正式に松竹へ入社し[2]中村登の監督映画『我が家は楽し』でデビューする[2]。松竹からは新人女優きってのホープとして評価され[2]宮城千賀子嵐寛寿郎高田浩吉市川右太衛門長谷川一夫などといった大物俳優たちと共演した[2]

1952年5月、松竹の看板スター・鶴田浩二が独立して新生プロを創立[2]。その第1作として、マキノ正博の監督映画『弥太郎笠』の製作を発表、相手役に岸を指名するが、松竹は拒否[2]。かねてより松竹に不満のあった岸は辞表を提出し[2]、京都ロケに参加[2]。結局松竹が折れて、岸は映画に出演[2]。新生プロの第2作『ハワイの夜』でも鶴田の希望で共演し興行的にもヒット[2]、1953年3月に松竹に復帰し他社出演も認められ[2]、スターとしての商品価値を高めることとなった[2]。この頃、鶴田との恋愛関係が報道された[2]が、松竹に強引に別れさせられた。

「君の名は」3部作がヒット

1953年から1954年にかけて映画『君の名は』3部作が大ヒット。主人公・氏家真知子のストールの巻き方を「真知子巻き」と呼んでマネる女性が出るほどだった(ちなみに北海道のあまりの寒さに、私物のストールを使用した岸のアドリブである)。岸自身は、『君の名は』ばかりが長期間話題にされることを疎ましく感じ続けた。以降、松竹の看板女優となった。

1954年木下惠介の『女の園』の撮影中、岸と久我美子は「女だけのプロダクションをつくろう」と意気投合した。「でも二人だけじゃ寂しいわね」と久我が言うと、岸は「有馬稲子っていう威勢のいい人がいるじゃない」と提案した[7]。同年4月16日、ジャーナリストの若槻繁を代表取締役に、久我、有馬、岸の3人で「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立[2][8]。同月、松竹と他社出演の自由もある条件付きの専属契約を結ぶ[2]

『風は知らない』は主演変更に

1955年5月14日、シンガポールで第2回東南アジア映画祭(現・アジア太平洋映画祭)が開幕。日本からは、岸と佐田啓二が共演した『亡命記』[9]など5本の長編映画が出品された。5月19日、『亡命記』が上映。最終日の5月21日、岸は最優秀女優賞を受賞した[10][11][7]

その映画祭で『亡命記』を見たデヴィッド・リーンは次回作『風は知らない』に岸に出てもらうため、同年6月3日、原作者のリチャード・メイソンとともに来日。ふたりで横浜の岸の自宅を訪れた。同年6月18日、松竹、東和映画、にんじんくらぶの三者は話し合い、日英合作映画となる『風は知らない』の主演を岸に決定した[12]。同年12月31日、岸は英語をマスターするためロンドンへ発った[13]

レスターシャーの学校で英語の特訓を受けていた1956年1月、プロデューサーを予定していたアレクサンダー・コルダとリーンとのあいだで意見が合わなくなり、映画の制作は延期された[14][注 1]

『忘れえぬ慕情』

延期の通知が松竹に届いたちょうどその頃、松竹は来日中のフランスの映画監督イヴ・シャンピと日仏合作映画『Typhon sur Nagasaki(長崎の台風)』の製作の準備をしていた。ダニエル・ダリュージャン・マレーが出演することもすでに決まっていた。

リーンと同じく東南アジア映画祭で『亡命記』を見ていたシャンピは松竹を通じて出演依頼の電報を岸に送った。岸はシャンピの『悪の決算』が好きで二度も見ており、出演を快諾。同年1月16日、岸の起用が早々に内定した[15]。岸はそのままフランス語習得のためパリに移った[13]

『Typhon sur Nagasaki(長崎の台風)』は「長崎に台風は上陸しない」と松竹からクレームが入り[16]1956年9月、『忘れえぬ慕情』のタイトルで日本で公開された。

映画監督シャンピと結婚

1957年4月29日、日本を出国。同年5月、シャンピと結婚した[17][1][18][注 2]。挙式はフランスで、川端康成が立会人となった。以降はパリに居を構え、フランスと日本を往復しながら女優を続け、「空飛ぶマダム」と言われた[1]。この頃に、ジャン=ポール・サルトルシモーヌ・ド・ボーヴォワールアンドレ・マルロージャン・コクトーらと親交を持つ。

1958年11月下旬から12月にかけて、岸、久我、有馬の三人が共演する『風花』の撮影が長野市で行われた[19]。撮影はしばしば悪天候に見舞われ、待ち時間の間、駐日ドイツ大使館付き武官が書いたゾルゲ事件の本に読みふけった。岸の頭にひらめくものがあった。「リヒャルト・ゾルゲは、ファシズムと戦い、自分なりの思想と手法で世界を良くしようと夢想した革命児だったのではないか」。そこから関連資料をむさぼり読み、映画の企画をたてた[20]

1960年代

シャンピが監督し、岸が出演した『スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜』は1961年に公開された。

1963年5月23日、1人娘のデルフィーヌ=麻衣子・シャンピ (Delphine Ciampi) を出産した[21]。二人で週刊誌のグラビアを飾ったこともある[22]

1970年代

1972年には映画『約束』で萩原健一と共演[23]。萩原とは『雨のアムステルダム』(1975年)でも共演。同72年のテレビドラマで佐分利信らとパリ現地で共演した『化石』は、後の1975年に再編集され映画化された。

1975年、イヴ・シャンピと離婚[1][注 3]。娘の親権は岸が持った。同年、パリ在住の役でテレビドラマ『赤い疑惑』に特別出演。

1980 - 1990年代

1983年には「ペントハウス」誌の創刊号で、後ろ姿のセミヌードを披露した。

1996年国連人口基金親善大使に任命された。1998年、親善大使としてセネガル共和国を訪れている間に、日本で独り暮らしだった母を亡くす。

晩年

2000年、娘や2人の孫息子と暮らしたフランスを離れ日本に戻り、横浜の実家で一人暮らしを始めた。同年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の8位になった。2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本女優7位となっている[24]

2013年3月、自らの恋愛経験を基にオマージュした熟年男女の恋愛小説『わりなき恋』を発表。2014年、小説『わりなき恋』を原作とした一人舞台『わりなき恋』に主演。脚本も自ら書いた。

死去

2026年8月7日老衰のため、神奈川県横浜市の自宅で死去した[3][25]。93歳361日没。94歳の誕生日を迎える4日前だった。訃報は同月19日に所属事務所より発表された。

ギャラリー

人物

1957年、25歳のとき、フランス人映画監督医師でもある11歳年上のイヴ・シャンピと結婚し、パリへ移住した[27]

当時は、日本人の海外旅行自由化の7年前で、外貨流失防止のため個別の海外渡航審査も厳しかった時代なので、フランスへ移住する日本人は非常に珍しかった。夫・イヴの母が世界的なバイオリニストだった影響により、「女性は手を大事にしなければならない」という理由で夫から料理をするのを禁じられ、ノイローゼになってしまった。

1975年、41歳のとき離婚、娘は11歳だった[27]。以後、独身。自宅はパリの最高級住宅街として有名なサン・ルイ島にあった。築400年の家で一人暮らしをしていた。男の子の孫が2人おり、娘や孫たちとときどき会っている。

離婚後に日本に帰国を希望したが、1984年(昭和59年)5月25日の国籍法改正で父母両系血統主義になるまで日本国籍は父系優先血統主義であり、娘が日本国籍を取得できず娘の結婚までパリ在住を決意した。2018年には娘について戸籍の記述欄に記載することを申請したが出生直後に日本領事館に出生届を出さなかったことで不可能であった[28]

一人娘のデルフィーヌがパリ在住のオーストラリア人の作曲家ウォーレン・エリス英語版と結婚したことで[29]、岸は娘たちとは別居した。

従姉妹にフランス家庭料理専門家の西井郁子(精進料理の西井香春)。遠縁に前田美波里がいる(前田美波里の母のいとこが岸恵子の母方のいとこの妻の弟)[30]。また、冨士眞奈美も遠縁にあたる(冨士眞奈美の母方の叔母の夫が岸恵子の母方のいとこの妻の弟)[30]

エピソード

  • 岸はデヴィッド・リーン監督から何度か出演依頼を受けており、「もし人生に後悔があるとしたら、デヴィッド・リーン監督の名作映画『戦場にかける橋』に出演し損ねたこと」だと語り、断ったのは唯一の後悔だと振り返る。リーンは岸のために役を用意して、主演のウィリアム・ホールデンも岸に出演するよう、来日して説得に訪れたという[31]
  • 萩原健一と『約束』(1972年)と『雨のアムステルダム』(1975年)で共演した。一部メディアは恋愛関係にあると報じたが、萩原は自著で、「お姉さん」と呼んで慕っていた通り友人関係であると述べている[32]。萩原は岸の母も慕っていた。1980年代初頭までは萩原が岸の家に遊びに来ていたが、その後は1990年前後にロビーで偶然再会したぐらいだという。ただし岸の母が亡くなった2000年前後に、萩原健一は葬儀に駆け付けてくれたという。
  • 1961年の日仏映画『スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜』の企画を手掛け、1972年のテルアビブ空港乱射事件を題材にした映画制作にも取り掛かっていた(のちに中止)ことなど、元々ジャーナリスティックなテーマに興味があることを綴っている[33]
  • サルバドール・ダリ夫妻と親交があり、その印象を1995年放送のNHK教育テレビの番組「私の出会ったダリ」で語っている[34]

主な出演

日本映画

我が家は楽し』(1951年)
君の名は 第三部』(1954年)
ここに泉あり』(1955年)
風花』(1959年)
黒い十人の女』(1961年)

外国映画

テレビドラマ

情報番組

  • ウィークエンドパリ(NHK-BS、1987年) - 司会報道スペシャル
  • 報道スペシャル列島全中継 国鉄最後の夜(TBS、1987年) - パリ・リヨン駅から中継で出演。映画『約束』のロケ地となった北陸本線(撮影当時の路線名)を旅するVTRも併せて放送[注 8]
  • ニュースステーション(テレビ朝日) - パリからのキャスターとして出演
  • 関口宏のサンデーモーニング新春スペシャル(TBS、1991年1月1日)
  • 関口宏のサンデーモーニング新春スペシャル'95(TBS、1995年1月3日)
  • 岸恵子の時代気分(テレビ神奈川) - 司会
  • 世界・わが心の旅「ソビエト収容所大陸・岡田嘉子の失われた10年」(NHK-BS、1994年)
  • エーゲ海の風に吹かれて〜岸恵子輝きのギリシャ紀行〜(テレビ朝日、2004年)

CM

舞台

  • 濡れ衣の妻(1961年、ジャン・コクトー演出、アリアンス・フランセーズ劇場)
  • 情婦 -検察側の証人- (1980年、市川崑演出、PARCO劇場
  • 朗読劇『わりなき恋』(2015〜2016年、星田良子演出、明治座 他全国6ヶ所)
  • 岸惠子スペシャルトークショー 〜夢のあとさき〜(2017年、全国19ヶ所)
  • 岸惠子ひとり語り 輝ける夕暮れ(2019年、全国10ヶ所)

受章・受賞歴

著書

単著

  • 『巴里の空はあかね雲』(新潮社 1983年 のち新潮文庫文芸大賞エッセイ賞
    自らが朗読したカセットブックも発売された。録音後、「さすがに、自分のことを読むのは恥ずかしかったわ」と語っている
  • 『砂の界(くに)へ』(文藝春秋 1986年 のち文春文庫・朝日文庫)イラン、アフリカ紀行
  • ベラルーシの林檎』(朝日新聞社 1993年 のち朝日文芸文庫)日本エッセイストクラブ賞
    表紙のデザインは娘のデルフィーヌが担当した
  • 『30年の物語』(講談社 1999年 のち講談社文庫
  • 『風が見ていた』(新潮社 2003年 のち新潮文庫)各上下 小説 
    2009年5月7月「新日曜名作座」(NHKラジオ第1)で全8回にわたって放送。出演:西田敏行竹下景子
  • 『私の人生ア・ラ・カルト』(講談社 2005年 のち朝日文庫)
  • 『私のパリ 私のフランス』(講談社 2005年)フォトエッセイ集
  • 『わりなき恋』(幻冬舎 2013年 のち幻冬舎文庫)小説
  • 『女優 岸惠子』(キネマ旬報社 2014年)監修
    書き下ろしエッセイ、ロング・インタビュー、自身が選んだ自薦映画16作品、代表作グラビアを収録
  • 『愛のかたち』(文藝春秋 2017年 /文春文庫 2021年)小説
  • 『孤独という道づれ』(幻冬舎 2019年 / 幻冬舎文庫 2022年)
  • 『岸惠子自伝―卵を割らなければ、オムレツは食べられない』(岩波書店 2021年 /岩波現代文庫 2024年5月)
  • 『91歳5か月 いま想うあの人 あのこと』(幻冬舎 2024年5月 / 幻冬舎文庫 2026年5月)

共著

翻訳

  • スージー・モルゲンステルヌ、セルジュ・ブロック「パリのおばあさんの物語」(千倉書房 2008年)

関連書籍

脚注

注釈

  1.  『風は知らない』は結局、谷洋子を主演に据え1958年に制作された。
  2.  『歩いて行く二人』によれば、『忘れえぬ慕情』のヒットでどこへ行っても「ノリコ!」と呼ばれるのが嫌だったし、シャンピとも英語で話していたので一日8時間くらいフランス語の勉強をしたという。下層の人々からも学んでいて首相官邸に招かれた時にそのまま使って夫を赤面させたという。
  3.  『歩いて行く二人』では仕事をしすぎて不在が多かったことが原因だという。
  4.  『歩いて行く二人』の中で一番好きだった役は『おとうと』のげんだったと語っている。
  5.  共演はマリオ・アドルフ
  6.  共演はアラン・キュニーAlain Cuny
  7.  清原果耶とのリレー。
  8.  映画『約束』には固定式クロスシートの向かいの席に座った青年が駅弁釜飯)を食べるシーンがあるが、同シーンは当番組のVTR内でも流れた。岸は北陸本線を走行する特急列車の車内で越前かにめしを食べている(VTR内のテロップは「カニ弁当」と表記。岸はこのシーンで、隣に座った少女と会話している)。
  9.  1985年5月6日に放送した『ネイチャリングスペシャル 大河ナイル6700キロ 赤道直下の氷河を求めて』(テレビ朝日系列)でも娘と共演しているため、このCMが初の共演ではない(同番組は『月曜ワイド劇場』〈テレビ朝日系列〉の枠で放送した特別番組である)。

出典

  1.  別冊宝島2551『日本の女優 100人』p.14.
  2.  岸惠子”. KINENOTE. 2026年8月20日閲覧。
  3.  岸恵子さん死去、93歳 国際派俳優、「君の名は」:北海道新聞デジタル”. 北海道新聞デジタル (2026年8月19日). 2026年8月19日閲覧。
  4.  岸 惠子さん自伝を語る。「泥沼に突き落とされてもすぐに立ち上がる力のようなものがいつの間にかできていた」家庭画報、2021.07.08
  5.  岸惠子「かつて在りし我が師」神奈川県立横浜平沼高等学校創立百周年記念実行委員会・歴史編纂部会編『創立百周年記念誌 同窓会編 (真澄会編) 花たちばな―卒業生一世紀の証言』神奈川県立横浜平沼高等学校、2000年10月28日 発行、238~239頁。
  6.  『週刊AERA1994年10月10日号 P.55
  7.  岸惠子 2021, pp. 95–97.
  8.  岸惠子自伝―卵を割らなければ、オムレツは食べられない(特設サイト)”. 岩波書店. 2022年3月15日閲覧。
  9.  亡命記”. 松竹株式会社. 2025年11月9日閲覧。
  10.  『映連時報』1955年6月号、日本映画連合会事務局。
  11.  『朝日新聞』1955年5月22日付朝刊、11頁、「岸恵子に女優主演賞 東南アジア映画祭」。
  12.  『朝日新聞』1955年6月19日付朝刊、11頁、「岸恵子に白羽の矢 日英合作映画の主演女優 デヴィッドリーン監督『風は知らない』」。
  13.  岸惠子 2021, pp. 98–103.
  14.  BFI”. 2013年8月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月3日閲覧。
  15.  『朝日新聞』1956年1月17日付朝刊、7頁、「岸恵子の起用決る ダリュー、マレーと共演 日仏初の合作映画」。
  16.  岸惠子 2021, p. 108.
  17.  秦早穂子江藤文夫「岸惠子論」 『映画評論』1962年1月号、25-31頁。
  18.  岸惠子「ギャラをウクライナの難民に寄付したい」8月「私の最後の舞台になる」トークショー”. 日刊スポーツ (2022年5月18日). 2022年5月18日閲覧。
  19.  『映画情報』1959年2月号、国際情報社。
  20.  岸惠子 2021, pp. 162–167.
  21.  岸惠子さん特別取材「人生、凜として生きる」。5月にまつわる物語”. 家庭画報 (2022年5月27日). 2025年8月15日閲覧。
  22.  週刊平凡1979年8月23日号「岸恵子と愛娘」
  23.  https://www.allcinema.net/cinema/143925
  24.  オールタイム・ベスト10 日本映画男優・女優”. KINENOTE. キネマ旬報社 (2014年12月). 2016年9月23日閲覧。
  25.  俳優の岸恵子さん死去、93歳「君の名は」「おとうと」など出演」『朝日新聞朝日新聞社、2026年8月19日。2026年8月19日閲覧
  26.  『サンケイグラフ』1955年2月27日号、産業経済新聞社。
  27.  http://anincline.com/kishi-keiko/
  28.  岸惠子 2021.
  29.  “映画「裸足の季節」6月公開 ウォーレン・エリス(DIRTY THREE)が音楽を担当”. CDJournal ニュース. 2016年5月20日. 2019年9月2日閲覧.
  30.  『女性自身』1981年5月14日・21日合併号。
  31.  編集委員 小林明 (2021年5月28日). 岸惠子、後悔は「戦場にかける橋」 出演を断ったワケ(エンタメ! 裏読みWAVE)”. NIKKEI STYLE. 日本経済新聞社 / 日経BP. 2021年6月2日閲覧。
  32.  「ショーケン」p.53。著者・萩原健一。講談社。2008年
  33.  編集委員 小林明 (2021年6月4日). 岸惠子 勝新に対峙したショーケン、力道山との最後(エンタメ! 裏読みWAVE)”. NIKKEI STYLE. 日本経済新聞社 / 日経BP. 2022年4月28日閲覧。
  34.  日美50特別アンコール「私の出会ったダリ 岸恵子」 ”. 美術展ナビ. 読売新聞社. 2026年5月24日閲覧。
  35.  スパイ・ゾルゲ 真珠湾前夜
  36.  Du rififi à Tokyo
  37.  太陽が目にしみる
  38.  日仏合作ドラマ 真夜中の太陽 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
  39.  “NHK終戦の日関連ドラマに岸惠子、清原果耶、安藤サクラら出演”. ORICON NEWS. oricon ME. 2019年5月10日. 2019年7月22日閲覧.
  40.  日本のテレビCM史の流れを変えた異才 - 今村昭物語(12)”. 電通 (2016年11月13日). 2016年11月13日閲覧。
  41.  岸恵子のCM出演情報”. ORICON STYLE. 2016年11月27日閲覧。
  42.  毎日映画コンクール 第15回(1960年)”. 毎日新聞社. 2025年11月15日閲覧。
  43.  毎日映画コンクール 第45回(1990年)”. 毎日新聞社. 2025年11月15日閲覧。
  44.  第26回日本アカデミー賞 優秀賞”. 日本アカデミー賞公式サイト. 日本アカデミー賞協会. 2025年6月6日閲覧。
  45.  平成16年春の叙勲 旭日小綬章等受章者 神奈川県 (PDF). 内閣府. p. 1 (2004年4月29日). 2004年8月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月17日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク

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