精神としての身体 (講談社学術文庫) (Japanese) Paperback Bunko – April 6, 1992
近代の哲学は、身体の問題を奇妙に無視してきた。しかし、人間の現実存在は、身体をはなれてはありえない。身体であるということが、人間が単に考えうる可能的存在ではなく、現実的存在であるゆえんをなしているからである。本書では、こうした観点から、身体をポジティヴなものとしてとらえ、人間的現実を、心身合一においてはたらく具体的身体の基底から、一貫して理解することをめざしている。
内容(「BOOK」データベースより)
近代の哲学は、身体の問題を奇妙に無視してきた。しかし、人間の現実存在は、身体をはなれてはありえない。身体であるということが、人間が単に考えうる可能的存在ではなく、現実的存在であるゆえんをなしているからである。本書では、こうした観点から、身体をポジティブなものとしてとらえ、人間的現実を、心身合一においてはたらく具体的身体の基底から、一貫して理解することをめざしている。
著者について
1931年京都生まれ。京都大学文学部卒業。東京大学大学院比較文化課程修了。現在、明治大学教授。専攻は哲学。身体論の先駆的研究で知られ、著書に『〈身〉の構造』『現代芸術の地平』『〈私さがし〉と〈世界さがし〉』『〈中間者〉の哲学』『〈知〉と〈技〉のフィールド・ワーク』(編著)、学術文庫に『ベルクソン』がある。
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Product details
文庫: 338 pages
Publisher: 講談社 (April 6, 1992)
5.0 out of 5 stars素晴らしい内容です。
Reviewed in Japan on April 2, 2020
30年前に読み、あらためて読み返しました。素晴らしい内容です。
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hto
3.0 out of 5 stars現象学や心理学の術語を用い難解ではあるが、主張は表題のとおり。
Reviewed in Japan on July 21, 2011
現象学や心理学の術語を用い難解ではあるが、主張は表題のとおり。
こころに残った箇所を以下に抜粋する。
誤解をおそれずいうなら、身体が精神である。〜中略〜「精神」と「身体」は人間的現実の具体的な活動のある局面を抽象し、固定化することによってあたえられた名前である。(p196)
言語や用具がわれわれの外にあり、われわれから相対的に独立した中性的な性格をもっていることは、それらがわれわれの生成的構造に内存しているかぎり、不可能であった能力をわれわれにあたえる。それと同時に、言語や用具は、われわれの外に独立して存在することによって、われわれの生のために作りだされたものでありながら、逆にわれわれの生を支配し、われわれの生そのものをおびやかす存在ともなりうるのである。(=疎外)(p198)
〈脱中心化〉は無中心化ではないから、具体的な個々の知覚や行動は、いぜんとして〈いま・ここ・私〉に中心化されているが、同時にいまは別の時でもありうること、〈ここ〉は〈よそ〉でもありうること、私は別の私あるいは他者でもありうることが了解されるようになる。いいかえれば私のパースペクティヴはつねに別のパースペクティヴでもありうることが把握される。このようなパースペクティヴの交換、すなわち仮設的に別の立場に立ってみることが、「理解する」ということにほかならない。「他人の身になってみる」とか、「俺の身にもなってくれ」という表現は、この事情をよくあらわしている。それはまた自他の視点の交換可能性を自覚することによって、癒着的な自己中心性(ピアジェ)を脱却し、真の自己を確立する過程でもある。そして自己性の把握は、他性の把握と相関的であるから、自己の確立は、自己から独立した存在としての他者と物の認識が基本的に確立されることを意味する。脱中心化が、一方では〈自己〉の、他方では〈物〉の認識を同時に可能にするのである。(p178)
情動は知覚や行動とむすびついて、知覚的現実を情感的に価値づけ、行動を側面から支持するという、実践的に有効な弱い自己作用性をもつのみならず、私自身のあり方を変えることによって、世界の意味を変え、世界を象徴的に変形するという、魔術的な自己作用性をもつようになる。したがって自己刺激によって内的現実を創造する想像力と、自己作用によって内的現実を変形する情動が、密接にかかわるようになるのは不思議ではない。情動は想像力をかきたて、想像は情動を刺激するのである。(p298)
もし現代においてなお進歩主義がありうるとすれば、それは生産力の無限の増大を暗黙の前提とし、欲望の無限の膨張を暗に容認する直線的・生産力主義的な進歩主義ではなく、自己抑制の論理を内面化した質的な進歩主義であろう。それは、未来からの視点なしには人間の文化は破綻する、と考える点において、またわれわれが過去から学ぶのと同じくらい、あるいはそれ以上に未来から学ばなければならない、と考える点において未来主義であり、近代文明の原動力であった生産力主義と人間中心主義をこえる文明への質的な転換が可能である、と信ずる点において進歩主義である。それはまた、消極的には、われわれのとりうる道が、単なる「自然に帰れ」や実感への固執ではありえない、と考える点においても進歩主義である。(p311)
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amazonカスタマー
5.0 out of 5 stars 素晴らしい内容です。
Reviewed in Japan on April 2, 2020
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30年前に読み、あらためて読み返しました。素晴らしい内容です。
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capricen
5.0 out of 5 stars 難解な文章だが、しかし非常に秀逸な内容
Reviewed in Japan on April 3, 2018
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身体が思考を支え、志向、思考が身体に影響する。
この関係性について論考したもの。
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5.0 out of 5 stars 良かった
Reviewed in Japan on May 6, 2020
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Amazon カスタマー
5.0 out of 5 stars ありがとうございました。
Reviewed in Japan on December 2, 2014
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書棚の奥にしまっていた本に再度出会えました。懐かしく読みました。
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hto
3.0 out of 5 stars 現象学や心理学の術語を用い難解ではあるが、主張は表題のとおり。
Reviewed in Japan on July 21, 2011
現象学や心理学の術語を用い難解ではあるが、主張は表題のとおり。
こころに残った箇所を以下に抜粋する。
誤解をおそれずいうなら、身体が精神である。〜中略〜「精神」と「身体」は人間的現実の具体的な活動のある局面を抽象し、固定化することによってあたえられた名前である。(p196)
言語や用具がわれわれの外にあり、われわれから相対的に独立した中性的な性格をもっていることは、それらがわれわれの生成的構造に内存しているかぎり、不可能であった能力をわれわれにあたえる。それと同時に、言語や用具は、われわれの外に独立して存在することによって、われわれの生のために作りだされたものでありながら、逆にわれわれの生を支配し、われわれの生そのものをおびやかす存在ともなりうるのである。(=疎外)(p198)
〈脱中心化〉は無中心化ではないから、具体的な個々の知覚や行動は、いぜんとして〈いま・ここ・私〉に中心化されているが、同時にいまは別の時でもありうること、〈ここ〉は〈よそ〉でもありうること、私は別の私あるいは他者でもありうることが了解されるようになる。いいかえれば私のパースペクティヴはつねに別のパースペクティヴでもありうることが把握される。このようなパースペクティヴの交換、すなわち仮設的に別の立場に立ってみることが、「理解する」ということにほかならない。「他人の身になってみる」とか、「俺の身にもなってくれ」という表現は、この事情をよくあらわしている。それはまた自他の視点の交換可能性を自覚することによって、癒着的な自己中心性(ピアジェ)を脱却し、真の自己を確立する過程でもある。そして自己性の把握は、他性の把握と相関的であるから、自己の確立は、自己から独立した存在としての他者と物の認識が基本的に確立されることを意味する。脱中心化が、一方では〈自己〉の、他方では〈物〉の認識を同時に可能にするのである。(p178)
情動は知覚や行動とむすびついて、知覚的現実を情感的に価値づけ、行動を側面から支持するという、実践的に有効な弱い自己作用性をもつのみならず、私自身のあり方を変えることによって、世界の意味を変え、世界を象徴的に変形するという、魔術的な自己作用性をもつようになる。したがって自己刺激によって内的現実を創造する想像力と、自己作用によって内的現実を変形する情動が、密接にかかわるようになるのは不思議ではない。情動は想像力をかきたて、想像は情動を刺激するのである。(p298)
もし現代においてなお進歩主義がありうるとすれば、それは生産力の無限の増大を暗黙の前提とし、欲望の無限の膨張を暗に容認する直線的・生産力主義的な進歩主義ではなく、自己抑制の論理を内面化した質的な進歩主義であろう。それは、未来からの視点なしには人間の文化は破綻する、と考える点において、またわれわれが過去から学ぶのと同じくらい、あるいはそれ以上に未来から学ばなければならない、と考える点において未来主義であり、近代文明の原動力であった生産力主義と人間中心主義をこえる文明への質的な転換が可能である、と信ずる点において進歩主義である。それはまた、消極的には、われわれのとりうる道が、単なる「自然に帰れ」や実感への固執ではありえない、と考える点においても進歩主義である。(p311)
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剣持文庫
4.0 out of 5 stars ポール・ヴァレリーの身体論
Reviewed in Japan on May 11, 2017
身体の現象学
第一章 現象としての身体
第二章 構造としての身体
第三章 行動の構造
この構成からしたら、メルロ・ポンティやベルグソンを中心に議論が展開している気がする。
意外でありかつ興味深いのはポール・ヴァレリーの小文からもっとも引いている処。
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ビン・ラーディン
2.0 out of 5 stars 出世作が必ずしも初めに読むべき作ではない。
Reviewed in Japan on May 17, 2009
某所での会合で同著者の『<身>の構造』が指定テキストになったのを機会に、まずは出世作(?)の本書から読むことにした。
ん〜(_ _;)、やはりこれはついて行けない。言葉使いのレベルが違うというか、単に知識不足が原因ではないと思われる難解さである。読み始めの序章あたりでは難解な箇所に付箋を貼っていったが、きりが無いので途中で止めた。読書も途中で何度も中断しようかと、迷いながらも取りあえず、理解できようとできまいと、取りあえず最後まで目を通してみる事にした。
前半はデカルト、ヴァレリー、サルトルらの主としてフランス哲学の身体論からの引用が延々と続き、後半はデティアー&ステラーという聞いたことも無い著者の動物行動学の著作からの引用が続き、とてもこんなのが哲学とは思えなかった。
以下、意味不明の表現の例。
「我々は生きている限り多かれ少なかれ自己に中心化しているわけですが、その自己中心化と、他者の側に身をおいてみる脱中心化、そして脱中心化を経由した再中心化という形で自己意識と他者意識が次第に深まってゆく。」
「社会による基礎的承認なしに自己を選び、確認するというのは、なかなかの重荷ですね。」
「身体の疎外が感覚の疎外をひきおこし、それによって世界が疎隔される。」
「そのような身体は、自然的存在であると同時に歴史化された自然の一部として、社会的関係のなかで労働する社会的・歴史的存在でもある。」
続けて今読んでいる『<身>の構造』の方はずっと理解しやすいので、市川浩をはじめて読む人はそちらを先に読んだ方が良いでしょう。
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ビン・ラーディン9 years agoIn reply toan earlier postReport abuse
実に誠実なコメント感謝いたします。
一方、このようなコメントを要する言説とは一体何なのか、
ということにも思いを馳せる機縁となりました。(^^;)
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yuzu-hiro9 years agoReport abuse
読んではいませんが、きになったので少し。
「我々は生きている限り多かれ少なかれ自己に中心化しているわけですが、その自己中心化と、他者の側に身をおいてみる脱中心化、そして脱中心化を経由した再中心化という形で自己意識と他者意識が次第に深まってゆく。」
初めは世界に自分しかないと思っている、幼い子供なんかそうですよね。徹底して自分を中心に世界が回っていると思っている。
そこから、他者という存在を意識するようになる。自分の思い通りにならない人間。
自己中心の世界観から、他者への意識を迂回して、改めて他者とは違うという自分を意識する。そのような自分に気づく。
ということではないでしょうか。
「社会による基礎的承認なしに自己を選び、確認するというのは、なかなかの重荷ですね。」
社会から自分という存在を、基本的な形で(仕事などを通じて?)認められないまま、「これが自分だ」と言えるようなものを自ら選びとり、定義し、そのような自分を感じて自覚するのは、なかなか難しく負担のいることだ
「身体の疎外が感覚の疎外をひきおこし、それによって世界が疎隔される。」
現代社会は精神から切り離して、身体を物質ととらえ、均質化し、合理の枠内に閉じ込めてしまった。それを身体の阻害といってるのではないでしょうか?
「そのような身体は、自然的存在であると同時に歴史化された自然の一部として、社会的関係のなかで労働する社会的・歴史的存在でもある。」
自然的存在は、他の動物と同じようにこの世界の中で生きる存在
歴史的存在というのは、自己の背後にたって、自らの存在を支えるという意味での歴史、自分という存在が今日、ここに生まれてくるまでの全てのことに支えられているということ
社会的存在に関しては文字通りと思われます
本を読んでいないので、なんとも言えませんが;
勝手な老婆心というか、思わずコメントしてしまいました。
文脈を度外視したものですので、あまり信頼なさらないでくださいね、しないと思いますがw
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