〈身〉の構造 身体論を超えて (講談社学術文庫)
by市川 浩
5.0 out of 5 stars全体性回復の時代、市川浩の<身>の構造とその生成モデル。
Reviewed in Japan on June 24, 2019
身体と精神からいきなりコスモスに広がってしまう類書とは違って、
身体、精神、風土、他者、共同体、ローカルとグローバル、コスモス、これらが順序正しく
身体内存在として浮かび上がり、個別具体的な<身体モデル>に欠けているのは残念ですが、
著者自身の臨床的な語りや、メルロ・ポンティに欠けていた風土性や共同体への視点まで織り込んで、
「ゲシュタルト」という言葉が改めて腑に落ちる、地に足のついた「身体と世界の解説書」の発見です!
以下↓考え抜かれた本文から、少々。
P90
・・・<中心化>というのは、身が自己組織化することによって自己中心にして世界とかかわることです。
そのような中心化に応じて自然というものが差異化され、意味を持ったものとして分節化されてくる。
それはまた時間のなかでの関係化ですから、同時に歴史化でもあります。
身はすでに分節化された、意味をもった文化的世界のなかに生まれ、それを受け入れながら、
同時にまた文化的分節を集合的に再分節化することによって自己組織化します。・・・
中心化というのは関係化の否定ではなくて、まさに関係化の一面であり、他との関係において行われます。
そのような他なるものに現実的に(場所なんかの場合は現実的に移動できるわけですが)、
あるいは仮設的に中心を移すことによって、狭い意味での<脱中心化>が行われます。・・・
<いま・ここ>に癒着した視点を仮設的に変換することによって、
別な時、別な場所も<いま・ここ>になりうる交換可能性が把握されてくる。・・・
それは「人の身になる」という操作でもあるわけです。・・・
それによって、最初にあった自他未分化の共生化を脱し、
他者と自己自身とのかかわりのなかで自己形成を行ってゆく。
だから脱中心化は無中心化ではなく、より広い関わりのなかで再中心化を行うことです。・・・
この脱中心化は比較的知的なレヴェルでの自他の視点の交換可能性を身をもって生きることです。
しかし、同時にわれわれは自己と他者が分かれない共生状態に最初にあり、
またたえずそういう集合的な共生状態のなかへと自己を溶解させようとする傾向をもつ。
・・・・
p93
前意識的なレヴェルでの風景は、反射的な反応を引き起こさせる物理的な刺激だけではなく、
歴史のなかで集合的に形成され、環境のうちに沈殿した神話的・歴史的な風景でもある。
そのような風景によってわれわれの身はひそかに分節化されており、そこに風土論が成立する根拠もある。
・・・
p94
いまとりあげましたのは、個の身の統合のはたらきとしての中心化と脱中心化です。
これにたいして、
他者の身の統合との関係において起こる一種の感応ないし共振を<同調>と呼びたいと思います。
これは他者の身のはたらきとの間に起こる感応的な同一化であり、
実質的に他者に同一化してしまうことではありません。
当然そういうことはありえないので、
個々の身のはたらきの図式が構造的にアナロジカルになり、構造的に同一化することです。
これは他者理解の基本であり「人の身になる。」というのはこれです。
・・・
p142
そこにたとえば風景論が成り立つ根拠がある。
つまりそれぞれの個人なり、民族なりがさまざまの仕方風景を<見分け>し、
また風景によって身を<見分け>されている。
それからまた社会的風景ともいうべきもの、つまり他者との関係があります。
他者との関係のなかで自分の身が<見分け>される。
そういう<見分け>の1つのケースとして、空間をとらえてみたいと思うわけです。
・・・
p184
身体というものにこだわるようになったきっかけはいろいろありますが、
どちらかというと私は精神主義者でした。
つまり精神と身体をはっきりと分離し、極端に精神の側にたっていた。
その結果、身体を自己から疎外し、だんだん袋小路に入っていったのです。
われわれは、実際は身体を通して世界とかかわっていますから、身体を疎外するということは、
結局、世界を自己自身から疎遠なものにしてしまうことになります。・・
そういう実感があって、そこから回復する過程で身体が問題になったわけです。
・・・・
p201
個人のライフ・ストーリーは、ある特定の歴史の、ある特定の社会の中で、
つまり特定の文化複合体の中で形成されますから、ひとりの人間の身のうちにも、
特定のパースペクティヴからにしろ、文化の全歴史が凝縮されているともいえます。
そういう拡がりを持ったものとして錯綜体という概念を考えてみたいと思います。
・・・・
p218
われわれはみずから<錯綜体>であるからこそ、複雑で多義的な芸術作品をも直感的に理解するのである。
個別具体的な1つの<錯綜モデル>として『吾輩は子猫である・総集編/友情と物語で解く複雑系の科学』は、
百聞は一見に如かず、お役に立てるかもしれません。
日本人冥利に尽きます。
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M4RNGR
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2.0 out of 5 stars大したことは述べていない
Reviewed in Japan on September 1, 2019
オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』を読みながら身体と精神の問題について深く知りたい気持ちになり、本書を手にとった。
本書は様々な場所で発表された原稿、講演、インタビューを基にして構成されており、多義的な身体存在のあり方としての<身>をキーワードとして身体存在のあり方について考察している。構成の由来からもわかるように、本書中では同じことが別の言葉何度も繰り返し語られるため、少々わかりにくい箇所でも意味が掴みやすくなっている(特にIVは非常にわかりにくいが、先にI〜IIIを読んでいるので意味は大体わかる)。逆に言えば、著者の主張を理解しやすいだけに、実は大したこともない内容を小難しく述べているだけというのが透けて見えてもくる。硬い言葉で語られると内容も高尚なものであるような気がしてくるが、これをもし英文に翻訳すると、他のレビュアーが指摘するような「底の浅さ」が露呈してしまうだろう。単なる言葉遊びにしか思われないところや(<身>の構造を述べたIIの1前半部分等)、大袈裟に書かれているだけというところも多い。例えば、「機械に支配された・組み込まれた」という表現。言いたいことはわかるが、実際には人間が機械に支配されているのではなく、「支配」という言葉をどうしても使いたいのならば、機械を扱う労働者を支配しているのは機械の所有者である。IIの2「身の生成モデル」も、他分野の考え方を身体論に応用しただけで所詮は借り物の考え方のような印象が強く、<身>や「錯綜体」といったキーコンセプトもオリジナリティがあるのは否定しないが、「で、だから何なんだ?」とツッコミたくなってくる。結局、本書を読んでも『ルバイヤート』を読んで湧き上がった知的欲求は満たされることがなかった。
とはいえ、現代の情報化社会を予見しながら、そのような社会で生まれる体験とschizophreniaの精神病理の類似性の指摘はなかなか鋭いものがある(p72「真偽不定の情報経験によって構成される現実、受容能力を超える過剰な情報刺激、間接経験による疎隔された世界体験、これらがいずれも精神病理学的な症候とどこか似ているのは不気味なことです」)。
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ドラゴンファイト
5.0 out of 5 stars 全体性回復の時代、市川浩の<身>の構造とその生成モデル。
Reviewed in Japan on June 24, 2019
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身体と精神からいきなりコスモスに広がってしまう類書とは違って、
身体、精神、風土、他者、共同体、ローカルとグローバル、コスモス、これらが順序正しく
身体内存在として浮かび上がり、個別具体的な<身体モデル>に欠けているのは残念ですが、
著者自身の臨床的な語りや、メルロ・ポンティに欠けていた風土性や共同体への視点まで織り込んで、
「ゲシュタルト」という言葉が改めて腑に落ちる、地に足のついた「身体と世界の解説書」の発見です!
以下↓考え抜かれた本文から、少々。
P90
・・・<中心化>というのは、身が自己組織化することによって自己中心にして世界とかかわることです。
そのような中心化に応じて自然というものが差異化され、意味を持ったものとして分節化されてくる。
それはまた時間のなかでの関係化ですから、同時に歴史化でもあります。
身はすでに分節化された、意味をもった文化的世界のなかに生まれ、それを受け入れながら、
同時にまた文化的分節を集合的に再分節化することによって自己組織化します。・・・
中心化というのは関係化の否定ではなくて、まさに関係化の一面であり、他との関係において行われます。
そのような他なるものに現実的に(場所なんかの場合は現実的に移動できるわけですが)、
あるいは仮設的に中心を移すことによって、狭い意味での<脱中心化>が行われます。・・・
<いま・ここ>に癒着した視点を仮設的に変換することによって、
別な時、別な場所も<いま・ここ>になりうる交換可能性が把握されてくる。・・・
それは「人の身になる」という操作でもあるわけです。・・・
それによって、最初にあった自他未分化の共生化を脱し、
他者と自己自身とのかかわりのなかで自己形成を行ってゆく。
だから脱中心化は無中心化ではなく、より広い関わりのなかで再中心化を行うことです。・・・
この脱中心化は比較的知的なレヴェルでの自他の視点の交換可能性を身をもって生きることです。
しかし、同時にわれわれは自己と他者が分かれない共生状態に最初にあり、
またたえずそういう集合的な共生状態のなかへと自己を溶解させようとする傾向をもつ。
・・・・
p93
前意識的なレヴェルでの風景は、反射的な反応を引き起こさせる物理的な刺激だけではなく、
歴史のなかで集合的に形成され、環境のうちに沈殿した神話的・歴史的な風景でもある。
そのような風景によってわれわれの身はひそかに分節化されており、そこに風土論が成立する根拠もある。
・・・
p94
いまとりあげましたのは、個の身の統合のはたらきとしての中心化と脱中心化です。
これにたいして、
他者の身の統合との関係において起こる一種の感応ないし共振を<同調>と呼びたいと思います。
これは他者の身のはたらきとの間に起こる感応的な同一化であり、
実質的に他者に同一化してしまうことではありません。
当然そういうことはありえないので、
個々の身のはたらきの図式が構造的にアナロジカルになり、構造的に同一化することです。
これは他者理解の基本であり「人の身になる。」というのはこれです。
・・・
p142
そこにたとえば風景論が成り立つ根拠がある。
つまりそれぞれの個人なり、民族なりがさまざまの仕方風景を<見分け>し、
また風景によって身を<見分け>されている。
それからまた社会的風景ともいうべきもの、つまり他者との関係があります。
他者との関係のなかで自分の身が<見分け>される。
そういう<見分け>の1つのケースとして、空間をとらえてみたいと思うわけです。
・・・
p184
身体というものにこだわるようになったきっかけはいろいろありますが、
どちらかというと私は精神主義者でした。
つまり精神と身体をはっきりと分離し、極端に精神の側にたっていた。
その結果、身体を自己から疎外し、だんだん袋小路に入っていったのです。
われわれは、実際は身体を通して世界とかかわっていますから、身体を疎外するということは、
結局、世界を自己自身から疎遠なものにしてしまうことになります。・・
そういう実感があって、そこから回復する過程で身体が問題になったわけです。
・・・・
p201
個人のライフ・ストーリーは、ある特定の歴史の、ある特定の社会の中で、
つまり特定の文化複合体の中で形成されますから、ひとりの人間の身のうちにも、
特定のパースペクティヴからにしろ、文化の全歴史が凝縮されているともいえます。
そういう拡がりを持ったものとして錯綜体という概念を考えてみたいと思います。
・・・・
p218
われわれはみずから<錯綜体>であるからこそ、複雑で多義的な芸術作品をも直感的に理解するのである。
個別具体的な1つの<錯綜モデル>として『吾輩は子猫である・総集編/友情と物語で解く複雑系の科学』は、
百聞は一見に如かず、お役に立てるかもしれません。
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M4RNGR
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2.0 out of 5 stars 大したことは述べていない
Reviewed in Japan on September 1, 2019
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オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』を読みながら身体と精神の問題について深く知りたい気持ちになり、本書を手にとった。
本書は様々な場所で発表された原稿、講演、インタビューを基にして構成されており、多義的な身体存在のあり方としての<身>をキーワードとして身体存在のあり方について考察している。構成の由来からもわかるように、本書中では同じことが別の言葉何度も繰り返し語られるため、少々わかりにくい箇所でも意味が掴みやすくなっている(特にIVは非常にわかりにくいが、先にI〜IIIを読んでいるので意味は大体わかる)。逆に言えば、著者の主張を理解しやすいだけに、実は大したこともない内容を小難しく述べているだけというのが透けて見えてもくる。硬い言葉で語られると内容も高尚なものであるような気がしてくるが、これをもし英文に翻訳すると、他のレビュアーが指摘するような「底の浅さ」が露呈してしまうだろう。単なる言葉遊びにしか思われないところや(<身>の構造を述べたIIの1前半部分等)、大袈裟に書かれているだけというところも多い。例えば、「機械に支配された・組み込まれた」という表現。言いたいことはわかるが、実際には人間が機械に支配されているのではなく、「支配」という言葉をどうしても使いたいのならば、機械を扱う労働者を支配しているのは機械の所有者である。IIの2「身の生成モデル」も、他分野の考え方を身体論に応用しただけで所詮は借り物の考え方のような印象が強く、<身>や「錯綜体」といったキーコンセプトもオリジナリティがあるのは否定しないが、「で、だから何なんだ?」とツッコミたくなってくる。結局、本書を読んでも『ルバイヤート』を読んで湧き上がった知的欲求は満たされることがなかった。
とはいえ、現代の情報化社会を予見しながら、そのような社会で生まれる体験とschizophreniaの精神病理の類似性の指摘はなかなか鋭いものがある(p72「真偽不定の情報経験によって構成される現実、受容能力を超える過剰な情報刺激、間接経験による疎隔された世界体験、これらがいずれも精神病理学的な症候とどこか似ているのは不気味なことです」)。
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宮崎要輔
5.0 out of 5 stars 身体論の最初の一冊
Reviewed in Japan on December 15, 2017
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身体文化論、身体論といえばの一冊。スポーツ科学という名ばかりのトレーニングが多くのアスリートの成長を妨げている中でこうした本からいかに学んでいけるかが日本のスポーツの鍵となるかと思います。
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Amazon カスタマー
5.0 out of 5 stars オススメ学術書
Reviewed in Japan on July 28, 2019
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少し難しいがココロとカラダは別々に捉えるべきではないということが改めてわかる本でした
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Amazon カスタマー
5.0 out of 5 stars ありがとうございました
Reviewed in Japan on December 2, 2014
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書棚の奥にしまっていた本に再度出会えました。もう一度やり直せそうです。
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うちのネコさん
5.0 out of 5 stars 「われわれは他者を把握する深さに応じて自己をとらえ、自己をとらえる深さに応じて他者を把握するといえるでしょう。」(P.20)
Reviewed in Japan on July 12, 2019
市川浩の本を久しぶりに読みました。26年ぶりくらいになるようです。以前に最後に読んだのも、たぶん本書で、読了日が「1993年4月29日」になっていますので。その後、同じ講談社学術文庫の市川浩著『ベルグソン』や岩波現代文庫の『身体論集成』(市川浩著、中村雄二郎編集)を購入していますが、まだ読んでいません。
そもそも市川浩を読み始めたのは、平凡社の大百科事典の「現象学」の項目に市川浩の著書『精神としての身体』の紹介があったからです。その「現象学」の項目は、木田元が書いていますが、最後にこう書かれています。
「現象学研究に関しては、日本もフランスやアメリカより長い歴史をもち、その影響下に九鬼周造≪“いき”の構造≫(1930)、≪偶然性の問題≫(1935)、三宅剛一≪学の形成と自然的世界≫(1940)、市川浩≪精神としての身体≫(1975)のようなすぐれた成果を生んでいる。」(木田元、平凡社「大百科事典」第5巻、P.104)(1984年11月2日初版発行、1985年印刷)
九鬼周造の『“いき”の構造』は、岩波文庫で、だいぶ昔に読んだ記憶がありますが、憶えていることは、「縦縞が「粋」で、横縞が「無粋」だ」ということくらいです、これも本当にそのように書かれていたかどうか、不確かですが(その時、ヤクザさんが良く縦縞の背広を着ていたように思っていましたので、「ヤクザは「粋」なのだ」と「納得」したように記憶しています)。上記の記述に触発されて市川浩著『精神としての身体』を読みました。これが大変面白かったので、その後、80年代から90年代にかけて、市川浩の本は結構よく読みました。この『<身>の構造』もたぶん単行本でも買って読んでいると思います(単行本はどこに行ったか分かりません)が、その後再度読みたくなって文庫本を買ったのだと思います(これも不確かですが)。
傍点、傍線、まるぼしは、≪ ≫で代替します。引用文全体は、【 】で囲みます。引用文中の引用は、< >で囲みます。Amazonの本書のwebページに目次がありますので、目次の紹介は省略します。では、引用を中心に本書を紹介していきたいと思います。
以下で引用する「第1章 <身>の風景」は面白く、引用したい文章がたくさんありすぎて、全て引用していたら、切りがありませんので、短く一か所だけの引用とします。後はご自分で読んでください、けっこう「目から鱗」の文章がたくさんあります。
【 「 Ⅰ <身>の風景
・・・・・
3 手をみつめる
・・・・・
この<他>の発見が<自己>の発見のはじまりです。身が身に折りかえす身の二重化だけでは、まだそれは自己の把握とはいえません。さきにのべたように、自己の把握は、自分に対する自己と同時に、他者に対する自己がとらえられたときに、初めて確立します。自己把握と他者把握はほとんど同時的な出来事であって、この二つは分けることができません。他者を把握することによって自己を把握する。また、自己を把握することによって他者を把握する。そしてその自己を自己自身がとらえる(反省)という二重の関係をとおして自己が形成され、自覚されてゆきます。」(P.29) 】
下記では、<身>の言葉の用法をいろいろ詮索していますが、それがけっこう面白いですので、そこを引用します。
【 「 Ⅱ <身>の構造とその生成モデル
・・・・・
1 <身>の構造
□ 身体と<身>
・・・・・
まず大和言葉の「み」の用法からみていきたいと思いますが、これは「身の構造」(講座・現代の哲学 第二巻『人称的世界』 弘文堂 1978年)という小論で詳しく例をあげましたので、ここでは二、三の例をあげるにとどめます。
まず第一に果実の「実(み)」、これも「身」と同根であろうといわれているわけです。そうしますと、「木の実」とか、「おつゆの実」とか、中身の詰まった自然的存在や内容を意味する。
第二には生命のない肉を意味する。「魚の切身(きりみ)」とか、「酢で魚の身をしめる」。そういう用法ですね。
第三に、当然生命のある肉体を意味する。「お臀(しり)の肉(み)」とか、「身節(みぶし)が痛む」。
それから「肉」というよりはもう少し「生き身」という感じで、第四に生きているからだ全体を意味する。「身もちになって、その結果二つになる」という使い方ですね。
第五には、生き身はさまざまなあり方をしているわけですから、からだのあり方を意味する。「半身(はんみ)にかまえる」とか、「身もだえする」。「身様(みざま)」をあらわしているわけです。
また人間は裸でいるわけではなくて、さまざまなものを身につけていますから、身につけているものを意味する。それが第六。「身丈(みたけ)」とか「身ごろ」とか、「身ぐるみ」という場合の身は、着物やその他身につけているものをさします。「身ぐるみ置いてゆけ」といっても、裸の身の方はいらない。
そういう身は当然生命をもっていますから、第七に生命を意味する。「見あってのこと」というのは、命あっての物種(ものだね)、「身(み)の代金(しろきん)」というのはなによりも命の代金です。
生命存在は、具体的には社会のなかで生きていますから、第八に社会的生活存在の意味になります。「身すぎ世すぎ」とか「身売り」という場合は、生活存在・労働存在としての身です。
そういった社会的に生活している存在はまさに自分ですから、第九に「身つから(自ら)」を意味する。「身がまま」というのは自分の思いのままとか、勝手気ままということですし、「身のため、人のため」は、自分のため、人のためということです。
こうした自分は具体的にはいろいろな人称をもっているわけです。そこで十番めに身はさまざまな人称的位置をとる。つまり身は多重人称的な自己を意味する。「身ども」は私、われという自称ですし、「身が等」というとわれらのこと、また「お身」はなんじという対称になります。「身身」は各人おのおの、そういった意味で身は多重人称的な構造をもっている。
その自己は当然社会化していきます。そこで十一番めに社会化した自己を意味する。たとえば「身内」というのはふつうは血縁ですけれども、もう少し拡がって地縁を意味する場合もあるし、疑似血縁としてのやくざなども、やはり身内という言葉を使う。もっと広くとりますと、同県人であるとか、同国人であるとか、選民同士であるとか、あるいはいちばん広くとれば、人類というものも「身の内(味方)」にあるものとしてとらえた場合には、一種の身内ということになります。血縁ではないけれども、身内同然のものを「外身内」などといったりします。
十二番めに、社会化した自己は当然、社会的地位とか、役割とか、立場とか、分際・分限においてある。そこで「身のほど」というのは、そういった分際を意味する。「身をたてる」というと、社会的地位を確立するということです。
こうして具体的に生きている人間は、当然心をもっております。これが第十三。「身」という言葉はほとんど心と同じ意味に使われる。「身にしみる」は、心にしみるといってもいいし、「身をこがす」は心をこがすことである。「身をあわす」といえば心をあわせることである。ところが、「身にしみる」と「心にしみる」では、どこかニュアンスがちがうわけですね。やはり「身にしみる」といったほうが、「心にしみる」より、意識レヴェルだけでなく無意識レヴェルも含めて、あるいはさらに身体レヴェルまで含めて切実に感ずるという意味がでてくるし、「身をあわす」の場合には、心をあわせるだけでなくて、全身全霊において一体となるというニュアンスが強い。
全身全霊というふうに考えてみますと、身というのは、十四番めに全体存在を意味する、「身をもって知る」というのは、ただ心をもって知るだけでなく全身全霊をもって知る。「身をもって示す」は、全身全霊をかけて示す。場合によっては生命の危険をかけても示すという場合に使います。」(P.80 ~ P.83) 】
最後に、「第三章 生きられる空間」(P.137 ~ P.181)からけっこう長く引用します。いろいろな具体的な例示がきわめて適切で、その説明文もけっこう面白く感じられます。
【 「 Ⅲ 生きられる空間
・・・・・
2 <身>の方向性と質的空間
・・・・・
<前>は、行動する方向ですから、意識的な空間です。それは明るい空間であり、広がった開かれた空間です。<前>については、比較的われわれは安心していられる。それに対して後ろ空間は無意識的な空間です。だから俳優は背中で演技ができなければいけないといわれる。後ろ空間は、何か暗い、拡がりがない閉ざされた空間です。「後ろ暗い」なんていうことばがありますけれども、やはり後ろは暗く、ネガティヴな価値とむすびついている。そこで後ろを振り向くことはしばしばタブーとされます。こういった対立が空間そのものに転用されて表 - 裏という対立を生むと、栗本先生のおっしゃった「都市の光と闇」とも結びついてゆきます。
また<前>は前進する方向ですから、それは時間的には未来です。だから<前>は希望が拡がる不確定な、自由な空間という性格を帯びます。それに対して<後ろ>は、過去です。過去は決定している。だからこの世界をすべて決定されたものとして見る宿命論とか決定論はすべて、回顧的なものの見方です。振り返ってみれば、すべてはすでに起こってしまっているわけですから、完全に確定していて、変更のしようがない。しかし後ろ向きでは行動できないのです。
右 - 左というのは大変おもしろいものです。右 - 左を人間の身を離れて定義しようと思っても、まずできないでしょう。辞書を引いても、「北を向いたとき、東の側にあるのが右である」とか、奇妙な定義が出てきます。要するに身に両側があり、そして両側が完全にシンメトリー(対称)をなしていないことからくるのでしょう。例えば利き手(ききて)というものがあり、多くの人は右利きです。これは文化の強制があって、左利きは小さいときに直されるからだ、といういい方もできますが、それではなぜ文化の強制が起ったかということを考えれば、やはり右利きがより多いということが基本にあるわけでしょう。利き手がなければ、右を区別することは困難です。実際左利きの子供が左右をよくまちがえるのは、利き手が左だからでしょう。
そして右・左は、おそらく利き手とむすびついて、空間的価値を生みます。英語の「右」 right は「正しい」という意味ですね。アイヌ語でも「正しい」だそうです。それにたいして left は、 weak 「弱い」を意味する。あるいは「悪い」というような意味です。アイヌ語でも、右の反対側(左)は「中途はんぱ」とか、「余り」というような、ネガティヴは価値をもっている。中国もやはり、右が上で、左が下ですから、「右に立つ」というのはいいことであり、「左遷(させん)」とか「左前(ひだりまえ)になる」というのは悪いことですね。日本語も、中国の右を尊ぶ思想の影響を強く受けています。一般に右は「正しい」とか「光の側」とか、「聖なる側」とか、あるいは「男」であるとか、「正常」であるとかいわれます。それに対して左は、「闇」であるとか、「俗」であるとか、「女性」とか、「穢れ」とか、そういうイメージとむすびつけられることが多い。
しかし、全部そうなのかといえば、必ずしもそうではない。たとえば日本は、必ずしも右優位ではない。左大臣は右大臣より上ですね。1つの説として、左というのは「日出り」、日がでる方向からきていて、太陽は、日本では天照大神(あまてらすおおみかみ)に象徴されるように価値がありますから、日の出る方向はいい方向である。だから左は価値が高い。そういうことからくるのだというのがあります。
それからタイのヤオ族の話があとでちょっと出てきますが、ヤオ族も左のほうが価値が高いという。たとえば、左手は自分の手である。それから左は神である。主である。男である。大きい。それに対して右は、敵の手である。神に対して人間である。主に対して客である。女である。小さい。こういうふうに、左右が逆転しているケースもあるわけです。価値の対立があればかまわないわけですから、当然逆転することもあり得る。
日本の場合は、日本の古層の考え方と、中国の考え方がミックスされているので、ある場合には、左が優位になり、ある場合には右が優位になるということが起るのでしょう。
方向性のうち、一番特権的な方向性をもっているのが、上と下です。これは左 - 右、前 - 後ろとちがって、非常に強い特権性をもっています。つまり、シンメトリックでない。その理由はいろいろ考えられますけれども、一つは、右 - 左は、私からいうと、こっちが右ですけれども、皆さんからいうと、こっちが右です。つまり、向きが反対になれば反対になるわけですから、私がこちらを向けば、右空間 - 左空間は逆になってしまいます。つまり、右 - 左の価値の対立は中和されるということです。前 - 後ろもそうですね。こちらは私の前ですけれども、皆さんからいえば、私の前の壁は後ろの壁ということになります。私がまわれ右をすれば、逆転しますから、これも中和される。
ただ、この方向のとり方というのは、文化によってちがいます。たとえば、われわれは普通「机の前に坐る」とか、「机の前に立つ」というふうにいいます。ところが守野庸男さんによれば、バンツー語では、「机の後ろに坐る」とか、「机の後ろに立つ」というのだそうです。われわれは「自動車のハンドルの前に坐る」といいますが、バンツー語では「ハンドルの後ろに坐る」という。つまり、机もハンドルも私の向いている方向と同じ方向を向いている。 flower の複数は flowers であるという場合も、「 flower の後ろに S をつける」とわれわれはいいますけれども、バンツー語では「flower の前に S をつける」という。つまり書いてゆく進行方向の次に来る字は、前にあるわけです。そういうふうに身の方向性を外の空間に転位する場合の考え方がちがいますけれども、ともかく前、後ろも中和化されやすい。
それに対して上 - 下を逆転することは、逆立(さかだ)ちのときはそうですが、日常的にやるわけではない。上下の移動も、人間はあまりできない。そういう点で、上 ― 下とは、かなり固定した特権性があります。
もう一つ、下は地球上では重力の方向ですから、これをひっくり返すことは難しい。もしわれわれが無重力の状態で生きていれば、上 - 下も容易に逆転できるでしょうが、その代わり方向性がはっきりしなくなってしまいます。
こうした重力の方向も価値と結びついています。重力の方向で考えますと、われわれは重力に抗するか、従うかです。重力に抗することを価値としているのが、ヨーロッパではないでしょうか。
それというのも、ヨーロッパ人はたいへん噴水が好きです。いい噴水がたくさんある。日本の公園にも噴水はありますが、いい噴水は少ない。日本人が公園をつくる場合、たいへんうまい処理をするのは滝なんです。滝というのは重力に従うわけですね。これは「自然に抗する」と「自然に従う」という考え方のちがいと関係があるのではないでしょうか。
その点でおもしろいのは、イサム・ノグチという人が万博でつくった噴水滝です。これは上から下に水が落ちるのですが、滝のように自然落下ではなく、下へ向かって噴き出すのです。この滝はいかにもヨーロッパ的な考え方と、日本的な考え方を巧みに結合していて、イサム・ノグチの境位をよくあらわしていると思いました。
もう一つ、これは重要なことではないかと思うのですが、たいていの左右対称の体系をもった生物は、身体軸の方向が行動の方向です。哺乳類もそうですね。つまり、前 - 後ろが身体軸の方向であり、前は行動の方向ですから、実用的価値の方向です、ところが、人間は立行をはじめます。立ちますと、身体軸の方向は、行動の方向ではなくなる。前は行動の方向ですから、実用的・行動的な価値の方向となります。操作の方向も前です。ところが、上 - 下という身体軸の方向はもう行動の方向ではありませんから、行動的価値はなくなる。こうして行動的価値から分離することによって、上 - 下は、非実用的価値・非行動的価値、つまり精神的な価値の方向という性格を強く帯びるようになったのではないかと思います。
その中でも、上が特権的な価値をもつようになります。それは多くの植物が上へ成長し、衰退すると下へ崩れ落ちて枯死すること、感覚器官や言語器官のある頭が上にあること、主体的なものがもっとも意識的に表現される顔が上にあることなどと無関係ではないでしょう。それに対して足は、最近でこそ露わにしますが、昔は見せなかったものです。これは大地に接触するという意味で、非常にエネルギッシュなものであるけれども、闇につらなる部分であり、マイナスの価値である。また下の方向は排泄の方向でもある。おもしろいのは、チンパンジーは多少そういう傾向があるようで、人間だけが排泄物をきたながるということも、上下の関係づけと関係があるのではないでしょうか。
そういうわけで、<上>は、神・天・天国というイメージであり、<下>は、悪魔(堕天使)・地獄・黄泉の国というイメージになります。しかし上下はたいへん特権的な価値の方向ですから、下は必ずしもマイナスとはいえない。マイナスといっても、一種の聖なる性質をもつわけです。つまり、反聖性という意味での聖なる性質をもつ。だから大地は両義性をもっています。たとえば大地母神(グランドマザー)とか、母なる大地(マザー・アース)とかいういい方がありますけれども、そういう場合、大地は、産むという意味でプラスの価値であると同時に、飲み込み、破壊するものでもある。生産と破壊という両面をもっている。インドの女神カーリー神は腰の周りにどくろをいっぱいつけていますね。そういう両義牲をもっている。
こうして生きられる空間は場所的にも、方向的にも均質ではない。ニュートン的な空間はどこをとっても均質であるはずですが、われわれが生きている空間は、決して均質ではない。きょうは、ほぼ満席ですから目立ちませんが、それでも最前列は比較的すいています。教室などになりますと、前があいているのに後ろに坐って、オペラグラスで黒板を写したりする(笑)。やはり前の方というのは何となく危険を感じるのでしょうか(笑)。レストランでもまずコーナーから詰まってゆきます。人間は食べるときが一番無防備ですから、どんな動物でもコーナーへ行く。すいているのにレストランのまん中に坐るという人はまずいない。これはゴキブリも全く同じです(笑)。人間が生きている空間と、ゴキブリが生きている空間は、その点ではほとんどかわらない。
つまり、生きられる空間には、意識的空間と無意識的空間、明るい空間と暗い空間、開かれた空間と閉ざされた空間、それから、くつろげる、アットホームな空間と、くつろげない不安な空間といった価値の対立があります、また「山のあなた」のようにあこがれる空間と「底なし」の恐怖の空間。地底とか海の底というのは何か恐怖の空間です。さらに清浄な空間と穢れた空間。聖なる空間と俗なる空間。いま言いましたように上空間はだいたい聖なる空間であり、下の方向にある地上は俗なる空間であり、さらに地底になると、今度は反聖性という意味での聖性がまた戻ってきます。一般に遠いところは聖であり、近いところは俗だということです。だから山の彼方(あなた)とか、沖とか、彼岸は、反聖性を含めて聖なる空間を構成します。」(P.145 ~ P.153) 】
バンツー語における「前後」はおもしろいですね、「文化」によって、かくも方向感覚等が違うとは。やはり、日本は、古代神道(アニミズムの進化系?)と中国系「宗教」(儒教・道教等々)の混交なのですね(左大臣と右大臣の上下関係や、右と左の優越関係等)。「雑種文化」ではなく、摩擦も生じない事象・思想の単なる雑居です。今も一緒です、何でもありです。
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ビン・ラーディン
3.0 out of 5 stars 『精神としての身体』よりずっと読みやすい
Reviewed in Japan on May 20, 2009
某所での会合の為、先に同著者の出世作『精神としての身体』(講談社学術文庫)を先に読んだのだが、こちらの方が数段読みやすかった。それもその筈、本書は著者があちこちのメディアに単発や連載で書いたコラム、講演、シンポジウムでの発表をまとめたもので、その発表媒体も東京銀行協会、読売新聞、『創造の世界』、『現代詩手帖』、『地下演劇』、『教育音楽』など、まさに多様(雑多?)な分野にまたがっている。
にもかかわらず著者はあとがきで「本書の第1章「<身>の風景」は、エッセイのような表題がついているが、じっさいは体系的に組み立てられている。そのつもりで読んでほしい。」と書いているし、各所の著者の紹介でも本書は代表作の一つとして挙げられている。
市川浩という著者に関心があるなら、まず本書から当たるのが良いのではなかろうか。しかし、前著より読みやすくはあるものの、彼の哲学自体は(大森荘蔵などに比べて)底の浅いもののように思われた。中村雄二郎や丸山圭三郎らと同類のフランス系現代思想の域を出ないのでは?ただ市川の場合<身(み)>という大和言葉を使っての考察があるので、オリジナリティがあるとみなされるのであろう。
たとえば、本書を英訳して海外に紹介しても、その価値が認められることはまず無理なのではないだろうか?国語の大学入試問題や高校「現代文」の教科書には使われているらしい。
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