2024-10-05

曽野綾子 - Wikipedia 소노 아야코

曽野綾子 - Wikipedia

曽野綾子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曽野その 綾子あやこ
1956年頃撮影
誕生町田 知壽子
1931年9月17日(93歳)
日本の旗 日本東京府南葛飾郡本田町
職業作家
言語日本語
国籍日本の旗 日本
教育学士(文学)
最終学歴聖心女子大学文学部英文科卒業
活動期間1951年 -
ジャンル小説随筆童話翻訳
文学活動第三の新人
代表作『遠来の客たち』(1954年)
『砂糖菓子の壊れるとき』(1965年)
『太郎物語 高校編』(1973年)
『虚構の家』(1974年)
『神の汚れた手』(1979年)
天上の青』(1990年)
主な受賞歴日本芸術院賞恩賜賞(1993年)
吉川英治文化賞(1997年)
菊池寛賞(2012年)
デビュー作『裾野』(1951年)
配偶者三浦朱門
子供三浦太郎(長男
親族三浦逸雄(義父)
三浦暁子(嫁)
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曽野 綾子(その あやこ、1931年(昭和6年)9月17日 - )は、日本小説家日本財団会長、日本郵政取締役を務めた[1]日本芸術院会員。文化功労者

曾野 綾子」とも表記される。本名は三浦 知壽子(旧姓:町田)。夫は三浦朱門カトリック教徒で、洗礼名はマリア・エリザベト。

聖心女子大学文学部英文科卒業。『遠来の客たち』が芥川賞候補に挙げられ、出世作となった。以後、宗教、社会問題などをテーマに幅広く執筆活動を展開。エッセイ『誰のために愛するか』はじめベストセラーは数多い。近年は生き方や老い方をテーマとしたエッセイが多く、人気を集めている。保守的論者としても知られる。

来歴・人物

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東京府南葛飾郡本田町(現・葛飾区立石)に父・町田英治郎、母・キワの二女として生まれる[2][3]。幽里香という姉がいたが、曽野が生まれる8年前に亡くなっており、一人娘として成長[4]。 1934年、大森区田園調布に移る(以後、三浦朱門と結婚後も同所に居住)。 母親の希望により幼稚園から大学まで聖心女子学院に通う。敗戦前後の10ヶ月ほど金沢に疎開し、金沢第二高等女学校(現・石川県立金沢桜丘高等学校[5][6]に転校。勤労動員令が下り、平野化学工場に配属される。1946年3月、東京に戻り聖心に復学する[7]。一人娘ゆえ、小学校より親の知人の次男が婿養子に決まっており、一流大学出の秀才であったが、中学の頃に破談となっている[注 1]。曽野本人の意に沿わぬ相手だったのが理由だが、父親が病気治療で退社し、家勢が衰えたことも大きな要因だった。戦後、父親は姻戚(義弟・山口堅吉)を頼り、米軍に接収された箱根宮ノ下の富士屋ホテルの支配人となる(妻子を田園調布に置いての単身赴任だった。山口は最後のオーナー経営者)。芥川賞候補作「遠来の客たち」の舞台となる米軍接収の箱根山ホテルはここをモデルとしており、実際に曽野は1948年の夏、ここに滞在してアルバイトまがいの手伝いをしていた[8]。同年9月26日、洗礼をうける。

中河与一主宰の同人誌『ラマンチャ』(1951年5月)に載った「裾野」が臼井吉見の目にとまり、臼井の紹介で現在の夫・三浦朱門阪田寛夫らの第十五次『新思潮』に加わる。朝日放送に入社した阪田の伝手もあり、同人誌発行資金獲得のため同社にコントを投稿し数編採用される。「鰊漁場の図」(新思潮5号)、「田崎と鶴代」(新思潮6号)、「片隅の戦士」(世界8・9月合併号)と発表し、22歳で文学的アドバイザーでもあった三浦と結婚。山川方夫の紹介で『三田文学』に書いた「遠来の客たち」が芥川賞候補となり23歳で文壇デビュー。以後、次々に作品を発表。30代で不眠症に苦しむが、『弥勒』『無名碑』など新しい方向性にチャレンジするうち克服した[9]

大学の後輩である上皇后美智子とは親交が深く、三浦の生前から夫婦ぐるみで親しかった。上皇后(天皇)夫妻が葉山で静養する折、夫妻で三浦半島の曽野の別荘を訪問することも多い[10][11][12][13]

文化人類学者の三浦太郎は長男で、彼をモデルにして『太郎物語』を執筆した。太郎の妻はエッセイストの三浦暁子[14]

1995年から2005年まで日本財団会長職を務め[15]、2009年10月からは日本郵政社外取締役に就任[1]。2000年、元ペルー大統領のアルベルト・フジモリ(1992年のアウトゴルペで失脚)が日本に長期滞在した折、自宅に私人として受け入れた[16]

今日に至るまで多数のベストセラーを著しており、代表的なものに『誰のために愛するか』(1970年、278万部)[17]、『戒老録』(1972年、85万部)[18]、『太郎物語 高校編』(1973年、117万部)、『同 大学編』(85万部)[19]、『虚構の家』(1974年、約50万部)[20]、『幸福という名の不幸』(1975年、60万部)[21]、『「いい人」を止めると楽になる』(1999年、70万部)[22]、『老いの才覚』(2010年、100万部)[23]、『人間にとって成熟とは何か』(2013年、80万部)[24]、『人間の分際』(2015年、30万部)[25]、『夫の後始末』(2017年、20万部)[26]などがある。

家族

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  • 父・英治郎(1892年(明治25年)10月25日生)
    町田治右衛門の次男に生まれる[2]。1919年(大正8年)慶應義塾大学部理財科を卒業後、大和護謨製作所に入社。1921年(大正10年)同社支配人、1926年(大正15年)取締役を経て、後専務に就任[2]。1949年(昭和24年)富士屋ホテル総務部長に就任[27]
  • 母・キワ(1899年(明治32年)10月2日生)
    大和護謨製作所創業者・大和真太郎の妹[2]共立女子学園[2]

活動・主張

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沖縄戦の歴史問題について

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  • 沖縄戦における集団自決強要の渡嘉敷島での真偽を調査したノンフィクションある神話の背景』や小中高校生への奉仕活動を打ち出した「日本人へ」(教育改革国民会議第一分科会報告書)などでは論争を巻き起こした。特に『ある神話の背景』では、集団自決の軍命があったとする『鉄の暴風』や大江健三郎の『沖縄ノート』等が現地取材もせず間違った記述が多いと主張(軍命をしたとされてきた本人は曽野の原稿の雑誌連載の数年前ほどから命令説を否定し出していた)した。この著書を一つの証拠資料として、2005年8月に軍命をしたとされてきた梅澤裕と赤松大尉の遺族が、大江健三郎と岩波書店に名誉毀損と賠償・出版差し止めを求める裁判(「集団自決」訴訟)を起こした[28]2007年の教科書検定で文部科学省は、高校歴史教科書の検定において、これまで事実とされてきたことが裁判係争中であることを理由の一つとして、日本軍の強制記述を削除する検定意見を付けて削除させた。2007年9月これを受けて「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が沖縄県宜野湾海浜公園で開かれ、11万人が参加。同年12月文部科学相の諮問機関「教科用図書検定調査審議会」は、訂正申請をした教科書会社に対し「軍の関与」などの表現で、日本軍が住民の集団自決にかかわっていたとする記述の復活を認めた。裁判は、2008年3月第一審は「集団自決に日本軍が深く関わった」と判断して大江・岩波側の勝訴した(曽野の著作は「客観的な根拠を示して赤松大尉命令説を覆すものとも、渡嘉敷島の集団自決に関して軍の関与を否定するものともいえない」と判示された)。その後二審も原告側控訴を棄却。2011年、最高裁は原告側の上告を退け大江・岩波側の勝訴が確定した。
  • 著作『ある神話の背景』を巡る議論
    • 『ある神話の背景』については1985年に『鉄の暴風』の著者太田良博より反論があった。太田の主な主張は、曽野は自決命令があったことを自身の手記に書いている金城重明に取材していない、責任者と見られる赤松の主張に不自然な点が多々ありながらそれらを問題にしていない、朝鮮人徴用工の扱いについて曽野がこれを書けば大変なことになると言うのを太田が聞いた(つまり、それが実際に書かれていない以上、曽野は不都合なことは伏せていると思われる)といったものであった[29]。曽野は、太田に対して「こういう(『鉄の暴風』のような)書き方は歴史ではない。神話でないというなら、講談である」「太田氏という人は分裂症なのだろうか」と返した。
    • 上記太田良博の『鉄の暴風』では赤松が住民自決の要を主張したとされる"地下壕"における夜の会議について、曽野の『ある神話の背景』では赤松らの壕濠りについて延々と書いた後で「しかし、鉄の暴風はその夜のことを決してそのように伝えていない。それどころか、全く別の光景が描かれている」[30]と紹介し、さしたる根拠も示さず、壕濠りしていた以上会議はなかった筈と印象付けるかのような書き方になっている。また続けて、上記会議で『鉄の暴風』では赤松の島民自決の主張を聞いて悲憤したとされる赤松副官の知念元少尉に会った時の話として、地下壕の存在について知念に質問し、当時地下壕はなかったという回答を得て、肝腎の赤松の自決主張の有無については知念に質問したのかどうかは完全にうやむやに、「地下壕はなかった。だから、『鉄の暴風』の内容はそのまま信じられない。当の知念元少尉自身が承認しない」と、通常ならば壕を地下壕と書いてしまったかどうかであろうという問題を、さながら、壕が地下壕でなければ自決論自体がありえないかのような話にすり替えている[30]
    • 山崎行太郎は、(1) 『SAPIO2007年11月28日号の曽野の対談や『ある神話の背景』を見て、曽野が大江健三郎の『沖縄ノート』に記された、軍の責任なり、起こった事態の罪深さとしての「罪の巨塊」(物・概念)[注 2] を「罪の巨魁」(人)と誤読しているとし、(2) 曽野が沖縄での取材で富山真順への取材が自分に不利なこととわかると、家永教科書裁判の法廷で「そういう人物は知らない」と嘘の証言までして、富山真順との接触を否定したとし、(3) 曽野の依拠する『陣中日誌』が渡嘉敷島にいた軍関係者の手によって一種の政治的な意図をもってまとめ直され1970年に発表された二次資料に過ぎないとし、(4) 『鉄の暴風』が新聞社の企画した「集団自決」の生き残りや目撃者達との座談会に出席した上で、彼等の体験談や目撃談を元に書き上げたもので、伝聞情報だけを元に記者たちが勝手に想像して書き上げものではない、などと自身のブログで主張した。しかし上記 (1) については、『SAPIO』2007年11月28日号にて曽野の対談相手であった上武大学大学院教授池田信夫は、彼女は「キョカイ」と発音しており、それを「巨魁」と誤記したのは編集部なだけである、と曽野が誤読などしていないと主張し、「山崎行太郎という著書といえば自費出版しかないような自称評論家は対談もしたことがないのだろうか」と批判している[31]。これに対し、山崎は、1984年以降に出された曽野の『ある神話の背景』においては全て「罪の巨魂」と表記されていることを示して、「池田信夫君、逃げないでね(笑)。君の日本語は大丈夫か?」と反論している。すなわち、『ある神話の背景』の初版では「罪の巨塊」と正しく記されている[32]にもかかわらず、1984年の読売新聞社版以降の版[33]では全て「罪の巨魂」と記されていることから、「曽野綾子は、初版本の段階から、というより沖縄集団自決問題に関心を持ち現地取材を開始する時点から、大江健三郎も指摘しているように、明らかに『巨塊』を『巨魁』と誤読し、誤解していたと思われる」と述べている[注 3]。実際に、上記『SAPIO』2007年11月28日号では曽野は「人を罪のキョカイだと思ったことはない。罪のキョカイという人がいるのなら絶対見に行かなきゃいけないと思った」と述べており、また、この当時の産経新聞のオピニオン欄でも曽野は、私はこれまで罪のキョカイだと思える人物に会ったことがなかった、それほど悪い人がいるなら会っておきたいと思った、たとえは悪いが、サーカスの呼び込み屋が人魚がいるよと言うのを聞いて人魚を見に行くようなもの、と述べており[34]、少なくともこの時点ではキョカイを(字としては、巨塊であろうが巨魂であろうが)明らかに巨魁という意味で曽野は使っていたと思われる。曽野の引用の元となった大江の文章は、別段、大江が個人そのものを罪の巨魁扱いしているわけではない事が理解できるような内容のものであったが、この記述も理由の一つとして、いわゆる保守派の後押しを受けた原告らによって大江と岩波書店は名誉棄損訴訟を起こされ、それに関連して曽野が2007年にこれらのインタビューや寄稿依頼を受けることになったものである。そのため、当時未だに曽野が内容を事実上巨魁として思い込んでいたらしき事に、曽野は問題が出てきても文章を読み返さなかったのだろうかと驚く声は多かった。
  • 「沖縄は閉鎖社会」と発言。「学校教育の場では「日の丸」を掲揚し、「君が代」をきちんと歌わせる」べしと主張した(沖縄タイムス1985年4月8日 - 4月18日)。
  • 慶良間列島の島々の名前を覚えにくいという人のためと「慶良間ケラケラ、阿嘉んべ、座間味やがれ、ま渡嘉敷」という戯れ歌を作った(諸君!1971年10月)。これは『ある神話の背景』の冒頭近くにそのまま載せられており、週刊新潮や地元マスコミの記事から赤松と一部地元住民の意見対立、先行の石田郁夫の渡嘉敷島訪問時のルポから住民間にも当時の評価について意見の違いがあること[35]等を知った曽野が、大江健三郎、太田良博へのアンチテーゼとして作品をまとめるつもりで、初めから取材の方向性を決めていたのではないかと疑う声は強い。太田良博は、当時島にいた朝鮮人徴用工の扱いについて、これを書いたら大変なことになる(←赤松部隊から彼らが虐待と言えるような扱いを受けたことか?)と曽野が言うのを聞いたとしており[36]、事実であれば、曽野は自身の書きたい結論にそぐわないことは無視して取りあげていないことになる。
  • 家永教科書裁判三次訴訟では被告(国側)側の証人として証言し、沖縄戦の渡嘉敷島での「集団自決」についての見方を示した。証言は以下「彼ら(赤松隊)は好むと好まざるとに関わらず島を死守することになったが、それとても決して島民のためではなかった。村民はおそらく『小の虫』であって、日本の命運を守るために犠牲となる場合もある、と考えられていたに違いない」(出典:沖縄戦と教科書、安仁屋政昭他、2000年)
  • 2016年11月 - 沖縄県の米軍北部訓練場のヘリコプター離着陸帯(ヘリパッド)移設工事反対派に対し、大阪府警の機動隊員が「土人」と発言したことについて、産経新聞において、[37]「私は父のことを『東京土人』とか、『東京原住民』とかよく書いている。私を含めてすべての人は、どこかの土人、原住民なのだが、それでどこが悪いのだろう。『沖縄の土人』というのは、蔑称だと思う蓮舫氏の方こそ、差別感の持ち主だと思われる」と書き、物議を醸す。

学校教育に関して

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  • 中学教科書において必修とされていた二次方程式の解の公式を、作家である自分が「二次方程式を解かなくても生きてこられた」「二次方程式などは社会へ出て何の役にも立たないので、このようなものは追放すべきだ」と発言したことを夫・三浦朱門が紹介している(この後、三浦朱門教育課程審議会で削除を主張し、現行中学課程で「二次方程式の解の公式」は必修の事項ではなくなった)。数学者の岡部恒治は、西村和雄編『学力低下が国を滅ぼす』中でこれに異議を唱えている。また自身もゆとり教育の導入を決定した、中曽根政権における臨時教育審議会(臨教審)のメンバーを務めた。[38]
  • 2013年第二次安倍内閣における教育再生実行会議の第一次有識者メンバーに選任された。[39]産経新聞の連載コラムに、「(体罰教師と橋下徹市長には)人を変えられるという思い込み」があると持論を展開したことで橋下徹市長の怒りを買い、twitterで「教育再生会議のメンバーを辞めるべきだ」「とっとと教育の場から去って欲しいね」「教育の現場では、その思い込みがないとやってられない。僕は教育者でないので人を変える役割ではない。しかし教育者にはその思い込みを持ってもらわなきゃ困る」などと反論された。[40][41]

災害・事故に関して

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  • 大型台風被害について、「一晩くらいの事で何でそんなに避難者を甘やかすのか。避難したら新聞紙を床に敷いて、何枚も重ね着をして眠るのが当然。弁当なども配る必要はない。天気予報があるのだから、健常者は食糧寝具くらい持って早めに避難所に来るのが普通」とコラムで述べる[42]
  • 新潟県中越地震について、「避難所で救援物資を当てにして待っている避難者は甘え過ぎだ。避難する時に寝具を担いで逃げるのは当たり前。自分ならガス漏れの心配のない所ですぐに火を熾して米を炊く。必要なものが手元にないのなら、その辺で調達してくる才覚も必要だ」とコラムで述べた[43]
  • 2011年渡部昇一との対談で福島第一原子力発電所事故に言及し、東京電力に責任はなかったとしつつ、「放射線の強いところだって、じいさんばあさんを行かせればいいんですよ。何も若者を危険にさらすことはない。私も行きますよ。もう運転免許は失効していますが、あそこは私有地だから無免許でも構わないでしょう(笑)」、「かえって元気になるかもしれません(笑)」と発言した[44]。ただしその後、曽野が福島第一原子力発電所を訪問した事実はない。曽野はまた2014年に「被災者や高齢者といった"弱者"と呼ばれる人々の甘え、そしてその甘えを当然の権利と認めてしまう社会に不安を覚えます」とも発言した[45]

アパルトヘイトと人種問題について

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産経新聞コラム「透明な歳月の光」の2015年2月11日付けで、移民の人種を基準として居住区を分離した方が好ましいと発言して問題となった。曽野はこのコラムで、「労働力不足と移民「適度な距離」保ち受け入れを」と題し、「南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」[注 4]「人間は事業も建築も研究も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」と主張した[46]。さらに、「高齢者の面倒を見るのに、ある程度の日本語ができなければならないとか、衛生上の知識がなければならないとかいうことは全くない」「『おばあちゃん、これ食べるか?』という程度の日本語なら、語学の訓練など全く受けていない外国人の娘さんでも、2、3日で覚えられる。日本に出稼ぎに来たい、という近隣国の若い女性たちに来てもらって、介護の分野の困難を緩和することだ」などと発言した[47]

曽野のコラムに対し、モハウ・ペコ南アフリカ駐日大使およびNPO法人アフリカ日本協議会は、アパルトヘイト政策を容認する内容だとして、曽野および産経新聞社常務取締役へ抗議文を送った[48][49]。さらに、日本国内のアフリカ研究者の学会である日本アフリカ学会の歴代会長ら約80人も、コラムの撤回や関係者への謝罪などを求め、連名の要望書を同紙に送った[50]。「ロイター」や「ウォール・ストリート・ジャーナル」も批判的に報じた[51][52][53][54]

しかし、こうした抗議に対し曽野は「差別ではなく区別」「撤回するつもりない」という姿勢を見せた[55][注 5]。また、介護の現場が3K低賃金な労働環境であるのに、人手不足経済連携協定技能実習制度といった外国人労働者で埋めようとする考え方、日本がこれから先も出稼ぎ先として魅力的な国であるという認識、介護職は2、3日で覚えられる語学力で問題ないとする認識(実際には技能実習制度見直しに関する法務省・厚生労働省合同有識者懇談会外国人介護人材受入れの在り方に関する検討会の報告書で、日本語能力試験で入国時点でN4、実習2年目に移る際に課す試験でN3程度を目指すとされた)、専門知識の無い低熟練状態でも問題ないとする認識の低さについての指摘もされた[56][57]

その後の言説としては、ブログで「もし記事に誤りがあるなら、私はそれを正します。私も人間ですから、過ちを犯します。しかしこの記事について、誤りがあるとは私は思いません」と書いたことがウォール・ストリート・ジャーナルで報じられた[52][54][58]。『新潮45』連載「人間関係愚痴話」2015年4月号の第47回「『たかが』の精神」で、たかが一作家の自分の考えに対して「肩書一つ正確には書けなかった新聞や通信社が、こうやってヘイト・スピーチを繰り返し、そこに覆面のツイッターが群衆として加わって圧力をかけ、どれだけの人数か知らないが、無記名という卑怯さを利用して、自分たちは人道主義者、曽野綾子は人種差別主義者、というレッテルを貼ることに無駄な時間を費やしている、その仕組みを今度初めて見せてもらって大変ためになった。私は覆面でものを言う人とは無関係でいるくらいの自由はあるだろう。」と述べている[59]。 ただしウォールストリートジャーナルの記事は"Yuka Hayashi"[54]、ロイターの記事は"Elaine Lies"による署名記事である[60]

日本財団会長として

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  • 日本財団の会長時代に、ペルーでの小学校建設や不妊手術を伴う家族計画の保健所整備等の援助[61]を通してアルベルト・フジモリ元大統領と交流を持つようになり、2000年の日本亡命時には宿を提供した[62]
  • 1972年から2012年まで海外邦人宣教者活動援助後援会 (JOMAS) の代表として海外の聖職者たちのボランティア活動にも協力(『神さま、それをお望みですか―或る民間援助組織の25年』[要ページ番号]に詳しい)。

批判された発言

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  • 2013年8月 - 週刊現代への寄稿文『「私の違和感」 何でも会社のせいにする甘ったれた女子』が物議を醸す[63]
  • 2015年7月 - 岩手県矢巾町の13歳の男子中学生がいじめを苦に自殺した問題で、「自殺した被害者は、同級生に暗い記憶を残したという点で、彼自身がいじめる側にも立ってしまった」(『週刊ポスト』9月18日号)と持論を展開して問題となった。
  • 2016年2月 - 90代の病人がドクターヘリによる救助を要請した話を発端として、「高齢者は『適当な時に死ぬ義務』を忘れてしまっていませんか?」(『週刊ポスト』など一連の記事で「生きる機会や権利は若者に譲って当然だ」「ある年になったら人間は死ぬのだ、という教育を、日本では改めてすべき」などと主張した。

その他

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受賞・栄典

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選考委員として

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著書

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三浦朱門との結婚式で(1953年)
夫・三浦朱門とともに(1955年)

長編小説

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  • 『黎明』大日本雄弁会講談社 1957 のちPHP文庫、徳間文庫
  • 『春の飛行』筑摩書房 1958 のち文春文庫
  • 『死者の海』筑摩書房 1958
  • 『わが恋の墓標』新潮社 1959 のち文庫
  • 『夜と風の結婚』文藝春秋新社 1959 のち文庫
  • 『キャンパス110番』文藝春秋新社 1959
  • 『たまゆら』講談社 1959 のち新潮文庫(男女の無為な日常を綴った)
  • 『塗りこめた声』集英社 1961
  • 『途上』東都書房 1961
  • 『女神出奔』中央公論社 1961 のち文庫
  • 『諦めない女』中央公論社 1961 のち文庫
  • 『リオ・グランデ』文藝春秋新社 1962 のち集英社文庫
  • 『午後の微笑』毎日新聞社 1962 のち文春文庫
  • 『火山列島』朝日新聞社 1962 のち角川文庫、朝日文庫
  • 『海抜0米』集英社 1963 のち文庫
  • 二十一歳の父』新潮社 1963 のち文庫(NHKでドラマ化)
  • 『青春の構図』桃源社 1964 のち文春文庫
  • 『ぜったい多数』講談社 1965 のち角川文庫、文春文庫
  • 『砂糖菓子が壊れるとき』講談社 1966 のち新潮文庫(マリリン・モンローをモデルに書かれ、若尾文子主演で映画化もされた)
  • 『弥勒』河出書房新社 1966
  • 『娘たちはいま 満天の星』講談社 1967
  • 『続・娘たちはいま 樹々の語らい』講談社 1968
  • 『無名碑』講談社 1969 のち文庫(田子倉ダムやアジア・ハイウェーの建設現場で働く技術者たちの人生を描く)
  • 『傷ついた葦』中央公論社 1970 のち文庫 (鬱屈した神父の生活を描いた)
  • 『生命ある限り』正続、読売新聞社 1970-72 のち新潮文庫、角川文庫
  • 『冬の螢』集英社(コンパクト・ブックス) 1970
  • 曽野綾子選集』全7巻 読売新聞社 1971
  • 『切りとられた時間』中央公論社 1971 のち文庫
  • 『遠ざかる足音』光文社 1972 のち文春文庫
  • 『幸福という名の不幸』講談社 1972 のち文庫
  • 『人間の罠』サンケイ新聞社 1972 のち文春文庫
  • 『奇蹟』毎日新聞社 1973 のち文春文庫
  • 『太郎物語 高校編』新潮社 1973 のち文庫(息子、太郎をモデルにした青春小説)
  • 曽野綾子作品選集』全12巻 桃源社 1974-75 のち光風社より復刊
  • 『仮の宿』毎日新聞社 1974 のち角川文庫、PHP文庫
  • 『片隅の二人』集英社 1974 のち文庫
  • 『円型水槽』中央公論社 1974 のち文庫
  • 『虚構の家』読売新聞社 1974 のち文春文庫(家庭内暴力を描いてベストセラーになった)
  • 『いま日は海に』講談社 1975 のち文庫
  • 『至福 現代小人伝』毎日新聞社 1975 のち中公文庫、徳間文庫
  • 『地を潤すもの』毎日新聞社 1976 のち講談社文庫
  • 『希望』中央公論社 1976 のち文庫
  • 『木枯しの庭』新潮社 1976 のち文庫 (自分を呪縛する母親から自立できない学者の苦悩と精神的荒廃)
  • 『太郎物語 青春編』講談社 1976 「大学編」新潮文庫
  • 『紅梅白梅』光文社 1977 のち講談社文庫
  • 『残照に立つ』主婦と生活社 1977 のち文春文庫
  • 『遥かなる歳月』毎日新聞社 1977 「慈悲海岸」角川文庫、集英社文庫
  • 『勝者もなく敗者もなく』文藝春秋 1978 のち文庫
  • 『不在の部屋』文藝春秋 1979 のち文庫
  • 『夫婦の情景』新潮社 1979 のち文庫
  • 『神の汚れた手』朝日新聞社 1979-80 のち文庫、文春文庫(産婦人科医を主人公に堕胎と生命の尊厳をテーマにした代表作)
  • 『テニス・コート』角川書店 1980 のち文庫、文春文庫
  • 『ボクは猫よ』文藝春秋 1982 のち文庫
  • 曽野綾子選集 II』全8巻 読売新聞社 1984-85
  • 『時の止まった赤ん坊』毎日新聞社 1984 のち新潮文庫
  • 『湖水誕生』中央公論社 1985 のち文庫(高瀬ダム
  • 『この悲しみの世に』主婦と生活社 1986 のち講談社文庫
  • 天上の青』毎日新聞社 1990 のち新潮文庫(大久保清の連続婦女暴行殺人事件を下敷きにして極限の愛を描いた犯罪小説)
  • 『一枚の写真』光文社 1990 のち文庫
  • 『讃美する旅人』新潮社 1991 のち文庫
  • 『夢に殉ず』朝日新聞社 1994 のち文庫、新潮文庫
  • 『飼猫ボタ子の生活と意見』河出書房新社 1994 のち文庫
  • 『極北の光』新潮社 1995 のち文庫
  • ブリューゲルの家族 幸せをさがす二十五の手紙』光文社 1995 のち文庫
  • 『燃えさかる薪 ある復讐の物語』中央公論社 1995 のち文庫
  • 『寂しさの極みの地』中央公論社 1999 のち文庫
  • 『陸影を見ず』文藝春秋 2000 のち文庫(核燃料輸送船の航海60日に及ぶ人間の苦悩を描く)
  • 『狂王ヘロデ』集英社 2001 のち文庫(ベツレヘムの幼子虐殺で知られるユダヤの王ヘロデの半生を「穴」と呼ばれる唖者の視点で描き出した)
  • 『哀歌』毎日新聞社 2005 のち新潮文庫(ルワンダのツチ族虐殺に遭遇した修道女の体験を描く)
  • 『観月観世 或る世紀末の物語』集英社 2008 のち文庫

短編集

[編集]
  • 『遠来の客たち』筑摩書房、1955 のち角川文庫
  • 『望郷の歌』筑摩書房 1955
  • 『バビロンの処女市』河出新書 1955
  • 『旅愁』筑摩書房 1956
  • 『男狩り』角川小説新書 1957
  • 『婚約式』東京創元社 1957 のち新潮文庫
  • 『雲の白い日に』大日本雄弁会講談社(ロマン・ブックス)1957
  • 『プリムラの森』東都書房 1958
  • 『能面の家』中央公論社 1960
  • 『新鋭文学叢書 曽野綾子集』筑摩書房 1960
  • 『海の見える芝生で』新潮社 1961
  • 『華やかな手』文藝春秋新社 1961 のち新潮文庫
  • 『佳人薄命』東都書房 1962
  • 『遊動円木 曽野綾子自選集』冬樹社 1965
  • 『永遠の牧歌』三笠書房 1970
  • 『一条の光』新潮社 1970 のち文庫
  • 『蒼ざめた日曜日 恐怖小説集』桃源社 1971
  • 『星と魚の恋物語』新潮社 1972 のち文庫
  • 『落葉の声 自選短編集』読売新聞社 1976
  • 『愛』文春文庫 1976
  • 『話し相手』読売新聞社(昭和世代女流短編集) 1981
  • 『遠来の客たち』成瀬書房、1982
  • 『雪に埋もれていた物語』講談社文庫 1983
  • 『無名詩人』講談社文庫 1983
  • 『詩心』新潮文庫 1983
  • 『七色の海』講談社文庫 1984
  • 『夢を売る商人』講談社文庫 1984
  • 『花束と抱擁』新潮文庫 1984
  • 『消えない航跡』新潮文庫 1985
  • 『アレキサンドリア』文藝春秋 1997 のち文庫
  • 『二十三階の夜』河出書房新社 1999 のち文庫
  • 『父よ、岡の上の星よ』河出書房新社 1999 のち文庫
  • 『雪あかり 初期作品集』講談社文芸文庫 2005
  • 『二月三十日』新潮社 2008 のち文庫
  • 『椅子の中』扶桑社文庫 2009
  • 恐怖小説の名作としてしばしばアンソロジーに収録される『長い暗い冬』
  • コルベ神父の最期を記した『落葉の声』
  • 戦争に引き裂かれた夫婦の愛の謳う『只見川』などがある。

児童向け

[編集]
  • 『ちいさなケイとのっぽのケン』(絵本)集英社 1962
  • 『イエスにおべんとうをあげたこども』聖文舎 1975
  • 『かみのははマリヤ』聖文舎 1975

随筆

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  • 『かまとと追放』集英社 1961
  • 『貘とハイエナ 社会論・人生論』未央書房 1967
  • 『誰のために愛するか すべてを賭けて生きる才覚』青春出版社 1970 200万部以上のベストセラーとなった のち角川文庫、文春文庫
  • 『ひたむきに生きる 心のともしび』(対談集)日本テレビ放送網 1971
  • 『続 誰のために愛するか(いつも心の底に必要な決心)』青春出版社 1971 のち角川文庫
  • 『戒老録 自らの救いのために』祥伝社 1972 (老後の心構えを説く)
  • 『私の中の聖書』青春出版社 1975 のち集英社文庫
  • 『絶望からの出発 私の実感的教育論』講談社 1975 のち文庫、PHP研究所
  • 『人びとの中の私 流されぬ生き方をするために』いんなあとりっぷ社 1977 のち集英社文庫
  • 『曽野綾子の好奇心対談』サンケイ出版 1978
  • 『私を変えた聖書の言葉』講談社 1978 のち文庫
  • 『贈られた眼の記録』朝日新聞社 1982 のち文庫
  • 『辛うじて「私」である日々』サンケイ出版 1983 のち集英社文庫
  • 『あとは野となれ』(現代のエッセイ) 朝日新聞社 1984 のち文庫
  • 『夫婦、この不思議な関係』PHP研究所 1985 のち文庫
  • 『愛と許しを知る人びと』海竜社 1985 のち新潮文庫
  • 『永遠の前の一瞬』南想社 1986 のち新潮文庫
  • 『ほんとうの話』新潮社 1986 のち文庫
  • 『心に迫るパウロの言葉』聖母の騎士社 1986 のち新潮文庫
  • 『失敗という人生はない 真実についての528の断章』海竜社 1988 のち新潮文庫
  • 『バァバちゃんの土地』毎日新聞社 1988 のち新潮文庫
  • 『都会の幸福』PHP研究所 1989 のち文庫
  • 『聖書の中の友情論』読売新聞社 1990 のち新潮文庫
  • 夜明けの新聞の匂い』新潮社 1990 のち文庫
    • 『狸の幸福 夜明けの新聞の匂い』新潮社 1993 のち文庫
    • 『近ごろ好きな言葉』新潮社 1996 のち文庫
    • 『部族虐殺 夜明けの新聞の匂い』新潮社 1999 のち文庫
    • 『最高に笑える人生 夜明けの新聞の匂い』新潮社 2001 のち文庫
    • 『沈船検死 夜明けの新聞の匂い』新潮社 2003 のち文庫
    • 『戦争を知っていてよかった 夜明けの新聞の匂い』新潮社 2006 のち文庫
    • 『貧困の光景』新潮社 2007 のち文庫
  • 『大説でなくて小説』PHP研究所 1992
  • 『悲しくて明るい場所』光文社 1992 のち文庫
  • 『二十一世紀への手紙 私の実感的教育論』集英社 1992 のち文庫
  • 『悪と不純の楽しさ』PHP研究所 1994 のち文庫
  • 『昼寝するお化け』小学館 1994 のち文庫
    • 第2集『流行としての世紀末』小学館 1996
    • 第3集『ほくそ笑む人々』1998
    • 第4集『正義は胡乱』2000
    • 第5集『生きるための闘い』2002
    • 第6集『人はなぜ戦いに行くのか』2004
    • 第7集『すぐばれるようなやり方で変節してしまう人々』2006
  • 『完本戒老録』祥伝社 1996 のち文庫
  • 『運命をたのしむ 幸福の鍵478』海竜社 1997 のち祥伝社黄金文庫
  • 『地球の片隅の物語』PHP研究所 1997
『七歳のパイロット 地球の片隅の物語 2』PHP研究所 1998
  • 『自分の顔、相手の顔 自分流を貫く生き方のすすめ』講談社 1998
  • 『「いい人」をやめると楽になる 敬友録』祥伝社 1999 のち文庫
  • 『私日記』海竜社
1 運命は均される 1999
2 現し世の深い音 2002
3 人生の雑事すべて取り揃え 2004
4 海は広く、船は小さい 2006
5 私の愛する妻 2007
6 食べても食べても減らない菜っ葉 2009
7 飛んで行く時間は幸福の印 2012
8 人生はすべてを使いきる 悪い運もいい運も 2014
  • 『中年以後』光文社 1999 のち知恵の森文庫、光文社文庫
  • 『今日をありがとう 人生にひるまない365日の言葉』徳間書店 2000 のち文庫
  • 『それぞれの山頂物語 今こそ主体性のある生き方をしたい』講談社 2000 のち文庫
  • 『「ほどほど」の効用 安心録』祥伝社 2000 のち文庫
  • 『自分をまげない勇気と信念のことば』PHP研究所 2000 のち文庫、ワック文庫
  • 『哀しさ優しさ香しさ』海竜社 2001
  • 『安逸と危険の魅力』講談社 2001 のち文庫
  • 『人は星、人生は夜空』PHP研究所 2001
  • 『現代に生きる聖書』日本放送出版協会 2001 のち祥伝社黄金文庫
  • 『至福の境地 自分の顔、相手の顔』講談社 2002 のち文庫
  • 『緑の指 ガーデニングの愉しみ』PHPエル新書 2002 のち文庫
  • 『原点を見つめて それでも人は生きる』祥伝社 2002 のち文庫
  • 『必ず柔らかな明日は来る』徳間書店 2003 のち文庫
  • 『アラブの格言』新潮新書 2003
  • 『ないものを数えず、あるものを数えて生きていく 幸福録』祥伝社 2003 のち文庫
  • 『魂の自由人』光文社 2003 のち文庫
  • 『なぜ人は恐ろしいことをするのか』講談社 2003 のち文庫
  • 『生活のただ中の神』海竜社 2004
  • 『ただ一人の個性を創るために』PHP研究所 2004 のち文庫
  • 『人生は最期の日でさえやり直せる』PHP文庫 2004
  • 『幸福不感症』小学館文庫 2004
  • 『アメリカの論理イラクの論理』ワック 2004
  • 『透明な歳月の光』講談社 2005 のち文庫
  • 『日本財団9年半の日々』徳間書店 2005。ISBN 4-19-862032-6
  • 『社長の顔が見たい』河出書房新社 2005
  • 『「受ける」より「与える」ほうが幸いである』大和書房 2005 「なぜ子供のままの大人が増えたのか」文庫
  • 『日本人が知らない世界の歩き方』PHP新書 2006
  • 『魂を養う教育悪から学ぶ教育 私の体験的教育論215の提言』海竜社 2006
  • 『善人は、なぜまわりの人を不幸にするのか 救心録』祥伝社 2006 のち黄金文庫
  • 『孤独でも生きられる。』イースト・プレス 2006
  • 『晩年の美学を求めて』朝日新聞社 2006 のち文庫
  • 『鍋釜と愛国心』河出書房新社 2007
  • 『アバノの再会』朝日新聞社 2007 のち文庫
  • 『人生の後半をひとりで生きる言葉』イースト・プレス 2007
  • 『平和とは非凡な幸運』講談社 2007
  • 『うつを見つめる言葉』イースト・プレス 2007
  • 『言い残された言葉』光文社 2008 のち文庫
  • 『引退しない人生』海竜社 2008 のちPHP文庫
  • 『老いの身辺をさわやかに生きるための言葉』イースト・プレス 2008
  • 『本物の「大人」になるヒント 知っておきたい「良識ある人間」の考え方』海竜社 2008
  • 『人にしばられず自分を縛らない生き方』扶桑社 2008
  • 『非常識家族』徳間書店 2008 のち文庫
  • 『言い残された言葉』光文社 2008
  • 『生きて、生きて、生きて 愛の極みまで 16人の宣教師』木村博美記録 海竜社 2008
  • 『弱者が強者を駆逐する時代』WAC Bunko 2009
  • 『貧困の僻地』新潮社 2009 のち文庫
  • 『三秒の感謝』海竜社 2010
  • 『安心したがる人々』小学館 2010
  • 『老いの才覚』ベスト新書 2010
  • 『自分の始末』扶桑社 2010
  • 『聖書とは愚かな人々の記録である 神から与えられた37の知恵の言葉』青萠堂 2010
    • 改題『聖書を読むという快楽 「私」に与えられた思索のことば』青萠堂 2014
  • 『人間の記録 曽野綾子 天駈けるほどの軽やかな魂の自由』外尾登志美編 日本図書センター 2010
  • 『疲れない人間関係のヒント』イースト・プレス 2010
  • 『幸せの才能』海竜社 2011 のち朝日文庫
  • 『自分の始末』扶桑社新書 2011 のち文庫
  • 『人生の収穫』河出書房新社 2011 のち文庫
  • 『人生の旅路』河出書房新社 2011
  • 『人生の第四楽章としての死』徳間書店 2011 「誰にも死ぬという任務がある」文庫
  • 『図解いま聖書を学ぶ』ワック 2011
  • 『生活の中の愛国心』河出書房新社 2011
  • 『魂を養う教育悪から学ぶ教育』PHP研究所 2011
  • 『地球の片隅の物語』PHP研究所 2011
  • 『年をとる楽しさ』イースト・プレス 2011
  • 『人にしばられず自分を縛らない生き方』扶桑社新書 2011
  • 『揺れる大地に立って 東日本大震災の個人的記録』扶桑社 2011
  • 『朝はアフリカの歓び』文藝春秋 2012 のち文庫
  • 『ある成功者の老後』河出書房新社 2012
  • 『国家の徳』産経新聞出版 2012
  • 『この世に恋して 曽野綾子自伝』ワック 2012
  • 『幸せは弱さにある いまを生きる「聖書の話」』イースト・プレス 2012
  • 『自分の財産』産経新聞出版 2012
  • 『堕落と文学 作家の日常、私の仕事場』新潮社 2012 「立ち止まる才能 創造と想像の世界」文庫
  • 『人間の基本』新潮新書 2012
  • 『働きたくない者は、食べてはならない』ワック 2012
  • 『老年になる技術 曽野綾子の快老録』海竜社 2012
  • 『叔母さん応援団』河出書房新社 2012
  • 『生きる姿勢』河出書房新社 2013
  • 『うつを見つめる言葉 心がらくになる処方箋』イースト・プレス 2013
  • 『思い通りにいかないから人生は面白い』三笠書房 2013
  • 『親の計らい』扶桑社新書 2013
  • 『幸せは弱さにある』イースト新書 2013
  • 『人生の原則』河出書房新社 2013
  • 『想定外の老年 納得できる人生とは』ワック 2013
  • 『曽野綾子の人生相談』いきいき出版局 2013
  • 『人間関係』新潮新書 2013
  • 『人間にとって成熟とは何か』幻冬舎新書 2013
  • 『不幸は人生の財産』小学館 2013
  • 『安心と平和の常識 「安心して暮らせる生活」など、もともとこの世にない』ワック文庫 2014
  • 『風通しのいい生き方』新潮新書 2014
  • 『辛口・幸福論 生きるすべてを「真剣な遊び」に』新講社 ワイド新書、2014
  • 『自分の財産』扶桑社新書 2014
  • 『酔狂に生きる』河出書房新社 2014
  • 『人間になるための時間』小学館新書 2014
  • 『老いの冒険 人生でもっとも自由な時間の過ごし方』興陽館 2015
  • 『苦しみあってこそ人生 曽野綾子の箴言集』海竜社 2015
  • 『旅は私の人生 時に臆病に時に独りよがりに』青萠堂 2015
  • 『端正な生き方』扶桑社 2015
  • 『人間の愚かさについて』新潮新書 2015
  • 『私の漂流記』河出書房新書 2017.12
  • 『人間の義務』新潮新書 2020.6(『波』・『新潮45』掲載を書籍化、全21話収録)
  • 『コロナという「非日常」を生きる』ワック 2020.10
  • 『自分の価値』扶桑社新書 2021.11
  • 『人生を整える距離感の作法』マガジンハウス新書 2022.5
  • 『人生の疲れについて』扶桑社新書 2022.5
  • 『人生は、日々の当たり前の積み重ね』中公新書ラクレ 2022.12

ノンフィクション ・レポート

[編集]
  • 『生贄の島 沖縄女生徒の記録』講談社 1970 のち角川文庫、文春文庫
  • 『ひめゆり隊の記録』偕成社(ノンフィクション物語) 1973
  • 『ある神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』文藝春秋 1973 のち角川文庫、PHP文庫 「沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実 日本軍の住民自決命令はなかった!」ワック文庫
  • 『アラブのこころ』サンケイ新聞社出版局 1976 のち集英社文庫
  • 『コルベ神父物語』聖母の騎士社 1982
  • 『砂漠・この神の土地 サハラ縦断記』朝日新聞社 1985 のち文庫
  • 『失われた世界、そして追憶 マヤ・アステカ私的紀行』PHP研究所 1990 のち文庫
  • 『神さま、それをお望みですか 或る民間援助組織の二十五年間』文藝春秋 1996 のち文庫

共編著

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  • 『新編人生の本』全12巻 江藤淳共編 文藝春秋 1971-72
  • 『愛のあけぼの』三浦朱門,遠藤周作 読売新聞社 1976
  • 『何のための教育か』村井資長 講談社 1978
  • 『聖パウロの世界をゆく』(編著)講談社 1982
  • 『別れの日まで 東京バチカン往復書簡』尻枝正行 講談社 1983 のち新潮文庫
  • 『生と死を考える』アルフォンス・デーケン共編 春秋社 1984
  • 『旅立ちの朝に 愛と死を語る往復書簡』デーケン 角川書店 1985 のち新潮文庫
  • 『ギリシアの神々』田名部昭 講談社 1986 のち文庫
  • 『ギリシアの英雄たち』田名部昭 講談社 1990 のち文庫
  • 『雪原に朝陽さして 函館トラピスト修道院神父との往復書簡』高橋重幸 小学館 1991 - のちライブラリー
  • 『大声小声』上坂冬子 講談社 1992
  • 『親子、別あり』三浦太郎 PHP研究所 1993 のち文庫
  • 『大声小声もう一声』上坂冬子 講談社 1993
  • 『ギリシア人の愛と死』田名部昭 講談社 1995 のち文庫
  • 『湯布院の月』坂谷豊光 毎日新聞社 1998
  • 『人はみな「愛」を語る 結婚のかたち、人生のかたち、幸せのかたち』三浦朱門 青春出版社 1999
  • 『聖書の土地と人びと』三浦朱門,河谷龍彦 新潮文庫 2001
  • 『なぜ日本人は成熟できないのか』クライン孝子 海竜社 2003
  • 『愛のために死ねますか』結城了悟 中経出版 2008
  • 『老い楽対談』上坂冬子 海竜社 2009 「冬子と綾子の老い楽人生」朝日文庫
  • 『いまを生きる覚悟』クライン孝子共著 致知出版社 2012
  • 『愛に気づく生き方』三浦朱門共著 青春新書PLAY BOOKS 2013
  • 『この世の偽善 人生の基本を忘れた日本人』金美齢共著 PHP研究所 2013
  • 『人間の目利き アラブから学ぶ「人生の読み手」になる方法』吉村作治共著 講談社 2014
  • 『野垂れ死にの覚悟』近藤誠共著 ベストセラーズ 2014
  • 『響き合う対話 文学と宗教、そして生きること』岡井隆共著 佼成出版社 2014
  • 『夫婦のルール』三浦朱門共著 講談社 2014

翻訳

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  • 天国は配当を払わない リヒアルト・カウフマン 三浦朱門共訳 大日本雄弁会講談社 1956 (ミリオン・ブックス)
  • オズのまほうつかい ライマン・フランク・バーム 講談社 1963 (世界名作童話全集
  • 小公女 バーネット 講談社 1964 (少年少女新世界文学全集 のち青い鳥文庫 1985
  • アンデルセン名作選 1-6 フレーベル館 1965-69 (トッパンのステレオえほん)
  • 赤毛のアン モンゴメリー 少年少女世界の文学 河出書房 1966
  • グリム名作選 1-6 フレーベル館 1967-68 (トッパンのステレオえほん)
  • しろいやぎビケット フランソワーズ 講談社 1971 (世界の絵本 アメリカ)
  • あしながおじさん ウェブスター 講談社 1972 のち青い鳥文庫
  • おうじょとあかちゃん ジャニス・クラマー 聖文舎 1974
  • にわでのやくそく ロナルド・シュレーゲル 聖文舎 1974
  • さかなにたべられたヨナ M.M.ブレム 聖文舎 1975
  • たねなしパンのおはなし メアリーウォーレン 聖文舎 1975
  • ひとびとのいのちをすくったおうひ キャロル・グリーン 聖文舎 1975
  • 未亡人 リン・ケイン 鶴羽伸子共訳 文藝春秋 1975 のち文庫
  • かみのつくったせかい 創世記1-2章 Alyce Bergey 聖文舎 1975
  • ノアのはこぶね ルカ2章1-20 Jane Latourette 聖文舎 1975
  • ダビデと三ぼんのや サムエル記上18-20章 Alyce Bergey 聖文舎 1976
  • サムソンのちからのひみつ 士師記13章-16章 Loyal Kolbrek,Chris Larson 聖文舎 1976
  • しずみかけたボート マタイによる福音書14章22-33マルコによる福音書6章45-51 Mary Warren 聖文舎 1976
  • てんごくのたしざん ルカによる福音書21章1-4 Walter Wangerin Jr. 聖文舎 1976
  • てんしがうたうよる ルカによる福音書2章8-20 Allan Ross 聖文舎 1976
  • スポック博士の家庭教育 ベンジャミン・スポック 鶴羽伸子共訳 紀伊国屋書店 1977
  • いえをとびだしたむすこ ルカによる福音書15章11-32 Irene Elmer 聖文舎 1977
  • しんせつなサマリヤのひと ルカによる福音書10章25-37 Janice Kramer 聖文舎 1977
  • 聖書物語 フィリップ・ターナー 三浦朱門共訳 小学館 1981
  • クリスマスものがたり ブライアン・ワイルドスミス 太平社 1990
  • ジャックせんせいのおどろ木 ブライアン&レベッカ・ワイルドスミス 太平社 1994
  • 希望の扉を開く ヨハネ・パウロII世 三浦朱門共訳 同朋舎出版 1996 のち新潮文庫
  • 幸福の王子 オスカー・ワイルド バジリコ 2006

外国語訳

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  • Watcher from the Shore. 「神の汚れた手」 Edward Putzar 1990
  • No Reason for Murder. 「天上の青」Edward Putzar 2003
  • Sineva nebes ロシア語

2015年現在の連載状況

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  • 「透明な歳月の光」(産経新聞他、北国新聞など地方紙にも掲載)
  • 「私日記」(Voice
  • 「人間関係愚痴話」(新潮45
  • 「昼寝するお化け」(週刊ポストで隔週)
  • 「小説家の身勝手」(WiLL
  • 「イエスの実像に迫る」(隔月刊『みるとす』)

曽野作品に関する批評・研究

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評伝
  • 『神の木偶 曽野綾子の魂の世界』鶴羽伸子(主婦の友社) - 鶴羽と曽野は1981年から20年間絶縁関係にあったが、2001年、末期癌に侵された鶴羽から再び曽野に連絡が入り、鶴羽が翌2002年12月に死亡するまで交際が続いた。『Voice』連載の「私日記」26回(2002年2月発行)参照。

テレビ出演

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脚注

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注釈

[編集]
  1. ^ この婚約破談エピソードが自伝的小説とされる『黎明』のストーリーを形成する[要出典]
  2. ^ 文脈的には英語のcorpus delicti、法廷用語としての罪体(犯罪が行われた物体)である
  3. ^ さらに山崎はワック出版(2006)版ではこの文言を含む大江の文章の引用部分では「罪の巨」と誤植されていることも指摘している。
  4. ^ これは日本人街中華街コリア・タウンなどの自然形成された在留外国人コミュニティーとは全く異なる思考。
  5. ^ 産経新聞執行役員東京編集局長の小林毅は「当該記事は曽野綾子氏の常設コラムで、曽野氏ご本人の意見として掲載しました。コラムについてさまざまなご意見があるのは当然のことと考えております。産経新聞は、一貫してアパルトヘイトはもとより、人種差別などあらゆる差別は許されるものではないとの考えです」とコメントした[53]

出典

[編集]
  1. a b 役員異動のお知らせ』(PDF)(プレスリリース)日本郵政株式会社、2009年10月28日。2019年3月7日閲覧
  2. a b c d e 人事興信録. 第15版 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp2022年11月8日閲覧。
  3. ^ 大和眞太郞 (第8版) - 『人事興信録』データベース”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp2022年11月8日閲覧。
  4. ^ 鶴羽伸子『神の木偶曽野綾子魂の世界』主婦の友社、1979年、30頁。
  5. ^ 石川四高記念館/現代作家・受け継がれる石川の文学
  6. ^ 旧制中等教育学校の一覧_(石川県)
  7. ^ 鶴羽伸子編、曾野綾子年譜、昭和54年4月作成[要文献特定詳細情報][要検証]
  8. ^ 三浦朱門『朱に交われば 青春交遊録』[要ページ番号]、山口由美『消えた宿泊名簿』[要ページ番号]
  9. ^ 鶴羽伸子編 曾野綾子年譜 昭和54年4月作成[要文献特定詳細情報][要検証]、曾野綾子『この世に恋して』[要ページ番号]
  10. ^ INC, SANKEI DIGITAL (2018年10月20日). “曽野綾子さん「どんな人生も豊かに受け取れる方」 皇后さま84歳”. 産経ニュース2021年2月21日閲覧。
  11. ^ 悲しみ寄り添う存在に 皇室批判や葛藤乗り越え : まとめ読み : ニュース”. 読売新聞オンライン (2018年10月23日). 2021年2月21日閲覧。
  12. ^ 永井貴子 (20190429T070000+0900). “皇后さまの夢「本屋の立ち読み」 曽野綾子がかなえて差し上げた日 〈週刊朝日〉”. AERA dot. (アエラドット)2021年2月21日閲覧。
  13. ^ 代替わりへ:両陛下とわたし/1 どんな話も、大切に 作家・曽野綾子さん(87)”. 毎日新聞2021年2月21日閲覧。
  14. ^ 太郎家族のボルネオ日記 ISBN 978-4879990365[要ページ番号]
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関連項目

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外部リンク

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출처: 무료 백과사전 '위키피디아(Wikipedia)'

소노 아야코
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1956년경 촬영
탄생 마치다 토치호코 1931년 9월 17일 (93세) 일본 · 도쿄부 미나미 카츠시카군 혼다 초

일본의 국기
직업 작가
언어 일본어
국적 일본의 국기 일본
교육 학사(문학)
최종 학력 성심 여자 대학 문학부 영문과 졸업
활동기간 1951년 -
장르 소설 · 수필 · 동화 · 번역
문학 활동 세 번째 신인
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대표작 『원래의 손님들』(1954년)
『설탕과자의 망가질 때』(1965년) 『
타로 이야기 고교편』(1973년)
『허구의 집』(1974년)
『하나님의 더러운 손』(1979) 년)
『천상의 청』(1990년)
주요 수상 경력 일본 예술원상 · 은사상 (1993년)
요시카와 에이지 문화상 (1997년)
기쿠치 히로시상 (2012년)
데뷔작 「옷자락」(1951년)
배우자 미우라 주몬
어린이 미우라 타로 ( 장남 )
친족 미우라 이치오 ( 시부 )
미우라 아츠코 (며느리)
 위키 포털 문학
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소노 아야코 (그 아야코, 1931년 (쇼와 6년) 9월 17일 -)는 일본 의 소설가 . 일본재단 회장, 일본우정 이사를 맡았다 [ 1 ] . 일본 예술원 회원. 문화 공로자 .

「아야노 아야코」라고도 표기된다. 본명은 미우라 토치코(구성:마치다). 남편은 미우라 주몬 . 카톨릭교 도로 세례명 은 마리아 엘리자벳.

성심 여대 문학부 영문과 졸업 . 『원래의 손님들』이 아쿠타가와상 후보 로 꼽혀 출세작이 되었다. 이후 종교, 사회 문제 등을 테마로 폭넓게 집필 활동을 전개. 에세이 '누구를 위해 사랑할까' 처음 베스트셀러는 많다. 최근에는 삶과 노인을 테마로 한 에세이가 많아 인기를 모으고 있다. 보수적 논자로도 알려져 있다.

내력·인물
도쿄부 미나미카츠시카군 혼다마치 (현· 카츠시카구 다테이시 )에 아버지·마치다 에이지로, 어머니·키와의 두녀로서 태어난다 [ 2 ] [ 3 ] . 유리카라는 언니가 있었지만, 소노가 태어나기 8년 전에 사망하고 있어, 혼자 딸로서 성장 [ 4 ] . 1934년, 오모리구 시골 조 후로 옮긴다(이후, 미우라 주몬과 결혼 후에도 이곳에 거주). 어머니의 희망에 따라 유치원에서 대학까지 성심 여자학원 에 다닌다. 패전 전후의 10개월 정도 가나자와에 소개해 , 가나자와 제2 고등여학교(현· 이시카와 현립 가나자와 사쿠라오카 고등학교 ) [ 5 ] [ 6 ] 에 전교. 근로동원령이 내려 평야화학공장에 배속된다. 1946년 3월, 도쿄로 돌아가 성심으로 복학한다 [ 7 ] . 혼자 딸 때문에 초등학교보다 부모의 지인의 차남이 사위양자로 정해져 일류대학출의 수재였지만, 중학교 때에 파담이 되고 있다 [ 주1 ] . 소노 본인의 뜻에 맞지 않는 상대였던 것이 이유이지만, 아버지가 병치료로 퇴사해, 가세가 쇠퇴한 것도 큰 요인이었다. 전후, 아버지는 인사(의제·야마구치 켄요시)를 의지해, 미군에 접수된 하코네 미야노시타의 후지야 호텔 의 지배인이 된다(처녀를 전원 조후에 두고의 단신 부임이었다.야마구치는 마지막 오너 경영자 ). 아쿠타가와상 후보작 「원래의 손님들」의 무대가 되는 미군 접수의 하코네야마 호텔은 여기를 모델로 하고 있어 실제로 소노는 1948년의 여름, 여기에 체재해 아르바이트 마가이를 돕고 있었다 [ 8 ] . 같은 해 9월 26일 세례를 받는다.

나카가와 요이치 주재 의 동인지 '라만차'(1951년 5월)에 실린 '아시노'가 우스이 요시미 의 눈 에 띈다 . 『신사시오』에 합류한다. 아사히 방송 에 입사한 한다의 전수도 있어, 동인지 발행 자금 획득을 위해 동사에 콘트를 투고해 수편 채용된다. ‘어장 어장의 그림’(신사시오 5호), ‘다사키와 쓰루시로’(신사시오 6호), ‘한쪽 모퉁이의 전사’(세계 8·9월 합병호)로 발표, 22세에 문학 어드바이저에서도 있던 미우라와 결혼. 야마가 와 방남의 소개로 「미타 문학」에 쓴 「원래의 손님들」이 아쿠타가와상 후보가 되어 23세로 문단 데뷔. 이후, 잇달아 작품을 발표. 30대에 불면증 에 시달리지만 '미륵' '무명비' 등 새로운 방향성에 도전하는 가운데 극복했다 [ 9 ] .

대학의 후배인 카미고후 미치코 와 는 친교가 깊었고, 미우라의 생전부터 부부 인형으로 친했다. 상황후(天皇) 부부가 하야마에서 정양하는 때, 부부로 미우라 반도의 소노의 별장을 방문하는 경우도 많다 [ 10 ] [ 11 ] [ 12 ] [ 13 ] .

문화인류학자 미우라 타로 는 장남으로 그를 모델로 하여 '타로 이야기'를 집필했다. 타로의 아내는 에세이스트의 미우라 아츠코 [ 14 ] .

1995년부터 2005년까지 일본재단 회장직을 맡고 [ 15 ] , 2009년 10월부터는 일본우정 사외이사에 취임 [ 1 ] . 2000년, 전 페루 대통령의 알베르토 후지모리 (1992년의 아웃 고르페 에서 실각)가 일본에 장기 체재했을 때, 집에 사인으로서 받아들였다 [ 16 ] .

오늘에 이르기까지 다수의 베스트셀러를 저술하고 있으며, 대표적인 것에 

  • '누구를 위해 사랑할까'(1970년, 278만부) [ 17 ] , 
  • '계로록'(1972년, 85만부 ) [ 18 ] , 
  • 「타로 이야기 고교편」(1973년, 117만부), 
  • 「동 대학편」 (85만부) [ 19 ] , 
  • 「허구의 집」 (1974년, 약 50만부) [ 20 ] , 「
  • 행복이라는 이름의 불행」(1975년, 60만부) [ 21 ] , 
  • 「「좋은 사람」 을 멈 추면 편해진다」(1999년, 70 만부 ) 2010년, 100만부) [ 23 ] , 
  • '인간에게 있어서 성숙이란 무엇인가'(2013년, 80만부) [ 24 ] , 
  • '인간의 분간'(2015년, 30만부) [ 25 ] , 
  • '남편의 후시말'(2017년, 20만부) [ 26 ] 등이 있다.
===
가족
아버지·에지로(1892년(메이지 25년) 10월 25일생)
마치다지 우에몬의 차남으로 태어난 [ 2 ] . 1919년(다이쇼 8년) 게이오 요시카쿠대학 부리재과 를 졸업 후, 야마토 호모 제작소에 입사. 1921년(다이쇼 10년) 동사 지배인, 1926년(타이쇼 15년) 이사를 거쳐 후 전무로 취임 [ 2 ] . 1949년(쇼와 24년) 후지야 호텔 총무부장으로 취임 [ 27 ] .
어머니·키와(1899년(메이지 32년) 10월 2일생)
야마토 호모 제작소 창업자 야마토 마타로의 여동생 [ 2 ] . 공립여자학원 졸 [ 2 ] .
활동·주장
이 절에 잡다한 내용이 나열되어 있습니다 . 사항을 글머리 기호로 열거했을 뿐의 절은, 본문으로서 짜넣거나, 정리·제거할 필요가 있습니다 . ( 2009년 8월 )
오키나와전의 역사 문제에 대해서
오키나와전에 있어서의 집단 자결 강요의 도카시키지마에서의 진위를 조사한 논픽션「어느 신화의 배경」이나 초중고교생에의 봉사 활동을 내세운 「일본인에게」( 교육 개혁 국민회의 제1분과회 보고 서) 등에서는 논쟁을 일으켰다. 특히 '한 신화의 배경'에서는 집단 자결의 군명이 있었다고 하는 '철의 폭풍'이나 오에 켄사부로 의 '오키나와 노트' 등이 현지 취재도 하지 않고 잘못된 설명이 많다고 주장(군명을 했다고 되어 온 본인은 소노의 원고의 잡지 연재의 수년 전 정도부터 명령설을 부정해 내고 있었다) 했다. 이 저서를 하나의 증거 자료로, 2005년 8월에 군명을 했다고 여겨져 온 우메자와 유와 아카마츠 대위의 유족이 오에 켄사부로와 이와나미 서점 에 명예훼손과 배상·출판 금지를 요구하는 재판( 「집단 자결 '소송 )을 일으켰다 [ 28 ] . 2007년 교과서 검정에서 문부과학성은 고등학교 역사교과서 검정에서 지금까지 사실이었던 것이 재판계쟁 중임을 이유 중 하나로 일본군의 강제기술을 삭제하는 검정의견 를 붙여 삭제시켰다. 2007년 9월 이것을 받아 「교과서 검정 의견 철회를 요구하는 현민 대회」가 오키나와현 기노완 해변 공원에서 열려 11만명이 참가. 같은 해 12월 문부과학상의 자문기관 ‘교과용 도서 검정 조사 심의회’는 정정 신청을 한 교과서 회사에 대해 ‘군의 관여’ 등의 표현으로 일본군이 주민 집단 자결과 관련되어 있었다고 한다. 설명의 부활을 인정했다. 재판은, 2008년 3월 제1심은 「집단 자결에 일본군이 깊게 관련되었다」라고 판단해 오에·이와나미측의 승소했다(소노의 저작은 “객관적인 근거를 나타내며 아카마츠 대위 명령설 을 뒤집는 것도, 도카시키지마의 집단 자결에 관해서 군의 관여를 부정하는 것이라고도 말할 수 없다”라고 판시되었다). 그 후 2심도 원고측 항소를 기각. 2011년 대법원은 원고측 상고를 물리치고 오강·이와나미측 승소가 확정됐다.
저작 「어느 신화의 배경」을 둘러싼 논의
『한 신화의 배경』에 대해서는 1985년에 『철의 폭풍』의 저자 오타 료히로보다 반론이 있었다. 오오타의 주된 주장은, 소노는 자결 명령이 있었다는 것을 자신의 수기에 쓰고 있는 김성 시게아키에 취재하지 않은, 책임자로 보이는 아카마츠의 주장에 부자연스러운 점이 많이 있으면서 그들을 문제가 없는 조선인 징용공의 취급에 대해 소노가 이것을 쓰면 힘들게 된다고 말하는 것을 오타가 들었다(즉, 그것이 실제로 쓰여지지 않은 이상, 소노는 불편한 것은 하고 있다고 생각된다)라고 하는 것이었다 [ 29 ] . 소노는 오타에 대해 "이런 ("철의 폭풍"과 같은) 쓰는 법은 역사가 아니다. 신화가 아니라면, 강담이다" "오타씨라는 사람은 분열증일까"라고 답했다 .
상기 오오타 요시히로의 「철의 폭풍」에서는 아카마츠가 주민 자결의 요점을 주장했다고 ​​하는 "지하호"에 있어서의 밤의 회의에 대해서, 소노의 「어느 신화의 배경」에서는 아카마츠등의 호리에 대해 연장 쓴 뒤 "그러나 철의 폭풍은 그날 밤을 결코 그렇게 전하지 않았다. 오히려 완전히 다른 광경이 그려져 있다" [ 30 ] 라고 소개하고, 그런 근거도 나타내지 않고, 붐비고 있던 이상 회의는 없었을 듯 인상하는 것 같은 글쓰기로 되어 있다. 또 계속해서, 상기 회의에서 「철의 폭풍」에서는 아카마츠의 섬민 자결의 주장을 듣고 비분했다고 하는 아카마츠 부관의 지념 원소위를 만났을 때의 이야기로서, 지하호의 존재에 대해 지념에 질문해 , 당시 지하호는 없었다는 응답을 얻어 간신의 아카마츠의 자결 주장의 유무에 대해서는 지념에 질문했는지 여부는 완전히 어쩔 수 없이, 「지하호는 없었다.그러니까, 『철의 폭풍 그 내용은 그대로 믿을 수 없다. 자결론 자체가 있을 수 없는 것 같은 이야기로 바꾸고 있다 [ 30 ] .
야마자키 유타로 는, (1) 「SAPIO」2007년 11월 28일호의 소노의 대담이나 「어느 신화의 배경」을 보고, 소노가 오에 켄사부로의 「오키나와 노트」에 기록된, 군의 책임 , 일어난 사태의 죄 깊이로서의 「죄의 거괴 」 ( 물・개념) 에서 도야마 마사오키 에의 취재가 자신에게 불리하다는 것을 알면, 이에나가 교과서 재판의 법정에서 「그런 인물은 모른다」라고 거짓말의 증언까지 해, 토야마 마사오키와의 접촉을 부정했다고 해, ( 3) 소노의 의거하는 『진나카 일지』가 도카시키지마에 있던 군 관계자의 손에 의해 일종의 정치적인 의도로 정리되어 1970년 에 발표된 2차 자료 에 지나지 않는다고 해, (4) 『철 의 폭풍」이 신문사가 기획한 「집단 자결」의 생존이나 목격자들과의 좌담회에 참석한 후, 그 등의 체험담이나 목격담을 바탕으로 쓴 것으로, 전문 정보만을 원 에 기자들이 마음대로 상상해 쓴 것이 아니라, 등과 자신의 블로그에서 주장했다. 그러나 상기 (1)에 대해서는, 「SAPIO」2007년 11월 28일호에서 소노의 대담 상대였던 카미케 대학 대학원 교수 의 이케다 노부오 는, 그녀는 「쿄카이」라고 발음하고 있어 그것을 「거귀」라고 오기한 것은 편집부일 뿐이라고, 소노가 오독 등하고 있지 않다고 주장하고, 「야마자키 유타로라는 저서라고 하면 자비 출판밖에 없는 자칭 평론가는 대담도 한 적이 없다 " 라고 비판 하고 있다 [ 31 ] . 이에 대해, 야마자키는, 1984년 이후에 나온 소노의 「어느 신화의 배경」에 있어서는 모두 「죄의 거혼」이라고 표기되고 있는 것을 나타내고, 「이케다 노부오군, 도망치지 말아라 (웃음). 너의 일본어는 괜찮을까?”라고 반론하고 있다. 즉, "한 신화의 배경"의 초판에서는 "죄의 거괴"라고 올바르게 기록되어있다 [ 32 ] 에도 불구하고, 1984 년의 요미우리 신문 사판 이후의 판 [ 33 ] 에서는 모두 "죄의 거 「영혼」이라고 적혀 있기 때문에, 「소노 아야코는, 초판본의 단계부터, 라고 하는 것보다 오키나와 집단 자결 문제에 관심을 가져 현지 취재를 개시하는 시점부터, 오에 켄사부로도 지적하고 있는 것처럼, 분명 에 『거괴』를 『거귀』라고 오독해 오해하고 있었다고 생각된다」라고 말하고 있다 [ 주 3 ] . 실제로, 상기 『SAPIO』 2007년 11월 28일호에서는 소노는 「사람을 죄의 쿄카이라고 생각한 적은 없다. 죄의 쿄카이라고 하는 사람이 있다면 절대 보러 가야 한다고 생각했다」 라고 말하고 있어, 또, 이 당시의 산케이 신문의 오피니언란에서도 소노는, 나는 지금까지 죄의 쿄카이라고 생각하는 인물을 만난 적이 없었다, 그만큼 나쁜 사람이 있다면 만나고 싶다고 생각해 비록 나쁘지만, 서커스의 불러 가게가 인어가 있다고 하는 것을 듣고 인어를 보러 가는 것, 라고 말하고 있어 [ 34 ] 거괴이든 거영이든) 분명히 거귀라는 의미로 소노는 사용하고 있었다고 생각된다. 소노의 인용의 원이 된 오에의 문장은, 별도로, 오에가 개인 그 자체를 죄의 거처 취급하고 있는 것은 아닌 것을 이해할 수 있는 내용의 것이었지만, 이 기술도 이유의 하나 이로써 이른바 보수파의 뒷받침을 받은 원고들에 의해 오에와 이와나미 서점은 명예손 소송을 일으켜, 그와 관련하여 소노가 2007년에 이러한 인터뷰나 기고 의뢰를 받게 된 것이다 . 그 때문에, 당시 아직도 소노가 내용을 사실상 거귀로서 떠올리던 것에 대해, 소노는 문제가 나와도 문장을 읽지 않았을까 놀라는 목소리는 많았다.
「오키나와는 폐쇄 사회」라고 발언. “학교 교육의 장소에서는 “히노마루”를 게양해, “너가 대”를 제대로 노래하게 한다”베시라고 주장했다(오키나와 타임스 1985년 4월 8일 - 4월 18일).
게라마 열도 의 섬들의 이름을 기억하기 어려운 사람을 위해서와 '게라마 케라케라, 아카베, 자마미야레레, 마도카시키'라는 희곡을 만들었다( 제군! 1971년 10월). 이것은 "어느 신화의 배경"의 시작 부분 근처에 그대로 실려 있으며, 주간 신조와 현지 언론의 기사에서 아카마츠와 일부 현지 주민의 의견 대립, 선행 이시다 이쿠오의 도카시키 섬 방문시 루포에서 주민간 에도 당시의 평가에 대해 의견의 차이가 있는 것 [ 35 ] 등을 알게 된 소노가, 오에 켄사부로, 오타 료히로에의 안티테제로서 작품을 정리할 생각으로, 처음부터 취재의 방향성을 결정하고 있던 것은 아니다 라고 의심하는 목소리는 강하다. 오오타 요시히로는, 당시 섬에 있던 조선인 징용공의 취급에 대해, 이것을 쓰면 힘들게 된다(←아카마츠 부대로부터 그들이 학대라고 말할 수 있는 취급을 받은 것인가?)라고 소노가 말하는거야 을 들었다고 하고 [ 36 ] , 사실이라면, 소노는 자신이 쓰고 싶은 결론에 맞지 않는 것은 무시하고 다루지 않게 된다.
이에나가 교과서 재판 3차 소송에서는 피고(국측)측의 증인으로서 증언해, 오키나와전의 도카시키지마 에서의 「집단 자결」에 대한 견해를 나타냈다. 증언은 이하 「그들(아카마츠대)는 좋아한다고 싫어함에 관계없이 섬을 사수하게 되었지만, 그렇게 결코 섬민을 위해서는 아니었다. 촌민은 아마 『소의 벌레』이며, 일본의 명운을 지키기 위해 희생이 되는 경우도 있다고 여겨지고 있었음에 틀림없다”
2016년 11월 - 오키나와현의 미군 북부 훈련장의 헬리콥터 이착륙대(헬리패드) 이설 공사 반대파에 대해, 오사카부경의 기동대원이 「토인」이라고 발언한 것에 대해, 산케이 신문에서, [ 37 ] "나는 아버지를 "도쿄 토인"이라든가, "도쿄 원주민"이라든지 잘 쓰고 있다. 나를 포함한 모든 사람은, 어딘가의 토인, 원주민이지만, 그래서 어디가 나쁘다 '오키나와의 토인'이라는 것은 칭칭이라고 생각하는 연꽃 씨가 차별감의 소유자라고 생각된다.
학교교육에 관하여
중학교과서에서 필수로 되어 있던 2차 방정식의 해의 공식 을, 작가인 자신이 「2차 방정식을 풀지 않아도 살아왔다」 「2차 방정식 등은 사회에 나와 무엇의 역할에 또한 서 있지 않기 때문에, 이러한 것은 추방해야 한다”고 발언한 것을 남편 미우라 주몬 이 소개하고 있다(이후, 미우라 주몬 이 교육 과정 심의회 에서 삭제를 주장해, 현행 중학 과정에서 '2차 방정식의 해의 공식'은 필수 사항이 아니게 되었다). 수학자인 오카베 항 지는 니시무라 카즈오 편 '학력 저하가 나라를 멸한다' 속에서 이에 이의를 제기하고 있다. 또 자신도 여유교육 의 도입을 결정한 나카소네 정권에 있어서의 임시교육심의회(임교심) 의 멤버를 맡았다. [ 38 ]
2013년 제2차 아베 내각에서 교육 재생실행회의 의 1차유식자 멤버로 선임됐다. [ 39 ] 산케이 신문의 연재 칼럼에, 「(체벌 교사와 하시 시타 토오루 시장에는) 사람을 바꿀 수 있다는 추억」이 있다고 지론을 전개한 것으로 하시 시타 토오리 시장의 분노를 사, 트위터에서 「교육 재생 회의의 멤버를 그만두어야 한다」 「쭉 교육의 장소로부터 떠나 주었으면 좋겠다」 「교육의 현장에서는, 그 추억이 없으면 할 수 없다. 나는 교육자가 아니기 때문에 사람을 바꾸는 역할은 아니다.그러나 교육 사람에게는 그 추억을 가져주지 않으면 곤란하다”라고 반박되었다. [ 40 ] [ 41 ]
재해·사고에 관하여
대형 태풍 피해에 대해 “하룻밤 정도의 일로 왜 그렇게 피난자를 애지하느냐? 날씨 예보가 있기 때문에 건강한 사람은 식량 침구 정도 가지고 빨리 피난소에 오는 것이 보통”이라고 칼럼에서 말한다 [ 42 ] .
니가타현 나카고시 지진 에 대해서, “피난소에서 구호 물자를 맞추고 기다리고 있는 피난자는 너무 과장하다. 피난할 때 침구를 맡아 도망치는 것은 당연. 불을 치고 쌀을 짓는다. 필요한 것이 수중에 없다면 그 근처에서 조달해 오는 재능도 필요하다”고 칼럼에서 말했다 [ 43 ] .
2011년 , 와타나베 승이치 와의 대담으로 후쿠시마 제일 원자력 발전소 사고를 언급해, 도쿄 전력 에 책임은 없었다고 하면서, 「방사선의 강한 곳이라도, 할아버지 할아버지를 가게 하면 됩니다.아무것도 젊은이를 위험에 처하지 않는다. 나도 갈거야. 이제 운전면허는 실효하고 있습니다만, 저기는 사유지이기 때문에 무면허이라도 상관하지 않을 것입니다(웃음), 「오히려 건강해질지도 모릅니다(웃음) )”라고 발언했다 [ 44 ] . 다만 그 후 소노가 후쿠시마 제일 원자력발전소를 방문한 사실은 없다. 소노는 또 2014년에 「재해자나 고령자라고 하는 「약자」라고 불리는 사람들의 응석, 그리고 그 응석을 당연한 권리라고 인정해 버리는 사회에 불안을 기억합니다」라고도 발언했다 [ 45 ] .
아파르트 헤이트와 인종 문제에 대해
산케이신문 칼럼 '투명한 세월의 빛'의 2015년 2월 11일자로 이민 인종을 기준으로 거주구를 분리하는 것이 바람직하다고 발언해 문제가 되었다. 소노는 이 칼럼에서, 「노동력 부족과 이민 「적당한 거리」 유지 받아들이기를」이라고 제목을 붙이고, 「남아프리카 의 실정을 알고 이래, 나는, 거주구만은, 백인, 아시아인, 흑인이라고 하는 식 나누어 사는 것이 좋다고 생각하게 되었다” [ 주 4 ] “인간은 사업도 건축도 연구도 아무것도 함께 할 수 있다. 그러나 거주만은 따로 하는 것이 좋다”고 주장했다 [ 46 ] . 게다가, 「고령자의 귀찮음을 보는데, 어느 정도의 일본어를 할 수 있어야 한다든가, 위생상의 지식이 있어야 한다고 하는 것은 전혀 없다」 「『할머니, 이것 먹을까?』라고 하는 정도의 일본 단어라면 어학훈련 등 전혀 받지 않은 외국인 딸이라도 2~3일 만에 기억할 수 있다. 을 완화하는 것이다” 등이라고 발언했다 [ 47 ] .

소노의 칼럼에 대해, 모하우·페코 남아프리카 주일 대사 및 NPO법인 아프리카 일본 협의회 는, 아파르트헤이트 정책을 용인하는 내용이라고 하고, 소노 및 산케이 신문사 상무 이사에게 항의문을 보냈다 [ 48 ] [ 49 ] . 게다가 일본 국내 아프리카 연구자 학회인 일본 아프리카 학회 역대 회장 등 약 80명도 칼럼 철회나 관계자 사과 등을 요구하여 연명 요청서를 동지 에 보냈다 . 「로이터」나 「월 스트리트 저널 」도 비판적 으로 보도했다 [ 51 ] [ 52 ] [ 53 ] [ 54 ] .

그러나 이러한 항의에 대해 소노는 '차별이 아니라 구별' '철회할 생각이 없다'는 자세를 보였다 [ 55 ] [ 주5 ] . 또, 개호의 현장이 3K 로 저임금 인 노동 환경인데, 인수 부족을 경제 연계 협정 이나 기술 실습 제도 라고 하는 외국인 노동자 로 메우려고 하는 사고방식, 일본이 앞으로도 벌금처로서 매력적 한 나라라는 인식 , 개호직은 2 , 3일에 기억할 수 있는 어학력으로 문제 없다고 하는 인식 에 관한 검토회 의 보고서로, 일본어 능력 시험 으로 입국 시점에서 N4, 실습 2년째에 옮길 때에 부과하는 시험으로 N3 정도를 목표로 했다고 한다), 전문 지식이 없는 저숙련 상태에서도 문제 없다고 한다 인식의 낮음에 대한 지적도 있었다 [ 56 ] [ 57 ] .

그 후의 언설로서는, 블로그에서 「기사에 잘못이 있다면, 나는 그것을 옳습니다. 나도 인간이기 때문에, 잘못을 저지르겠습니다. 하지만 이 기사에 대해서, 잘못이 있다고는 나는 생각하지 않습니다 "라고 쓴 것이 월 스트리트 저널에서 보도 되었다 [ 52 ] [ 54 ] [ 58 ] . 『신시오 45』 연재 「인간관계 암캐 이야기」 그리고 통신사가 이렇게 헤이트 스피치를 반복하고 거기에 복면의 트위터가 군중으로서 가해 압력을 가해 얼마나 많은 인원인지 모르지만 무기명이라는 비겁함을 이용하여 자신들은 인도 주의자, 소노 아야코는 인종차별주의자, 라고 하는 레텔을 붙이는데 쓸데없는 시간을 보내고 있는, 그 구조를 이번에 처음으로 보여 주어 대단히 때문에가 되었다. 무관 한 정도의 자유 는 있을 것이다. ” 라고 말하고 있다 . 다만 월스트리트 저널의 기사는 "Yuka Hayashi" [ 54 ] , 로이터의 기사는 "Elaine Lies"에 의한 서명 기사이다 [ 60 ] .

일본재단 회장으로
일본 재단의 회장 시대에 페루 에서의 초등학교 건설이나 불임 수술을 수반하는 가족 계획의 보건소 정비 등의 원조 [ 61 ]를 통해 알베르토 후지모리 전 대통령과 교류를 갖게 되어, 2000년 의 일본 망명시에는 숙소를 제공했다 [ 62 ] .
1972년부터 2012년까지 해외 일본인 선교자 활동 원조 후원회(JOMAS)의 대표로서 해외 성직자들의 자원봉사 활동에도 협력 』[ 요 페이지 번호 ] 에 상세).
비판받은 발언
2013년 8월 - 주간 현대 에 대한 기고문 ''나의 위화감' 뭐든지 회사 탓으로 하는 달콤한 여자'가 물의를 자아낸다 [ 63 ] .
2015년 7월 - 이와테현 야건초의 13세 남자 중학생이 괴롭힘을 앓고 자살한 문제로, “자살한 피해자는 동급생에게 어두운 기억을 남겼다는 점에서 그 자신이 괴롭히는 쪽에도 서 버렸다」(『주간 포스트』9월 18일호)와 지론을 전개해 문제가 되었다.
2016년 2월 - 90대의 병인이 닥터헬기에 의한 구조를 요청한 이야기를 발단으로, 「고령자는 「적당한 때에 죽을 의무」를 잊어버리고 있지 않습니까?」(「주간 포스트」 등 일련 기사에서 “사는 기회나 권리는 젊은이들에게 양보해 당연하다” “한 해가 되면 인간은 죽는다는 교육을 일본에서는 다시 해야 한다”고 주장했다.
기타
칠레 쿠데타 때 살바도르 아옌데는 좌익 밖에 봉사 하지 않는 정치가라고 하여 아우구스트 피노체트 장군 을 수반으로 하는 독재 군사 정권을 옹호했다 [ 64 ] .
학생운동의 평가를 둘러싸고 우에노 치즈코 와 논쟁(1989년).
그리스도인 의 입장에서 야스쿠니 신사를 대신하는 국립추도시설 건설에 찬성하고 있다. 개인으로서는 야스쿠니신사 에 참배하고 있어, 2007년 6월에 이등휘가 야스쿠니신사에 참배했을 때, 남편· 미우라 주몬 과 함께 동행했다 [ 65 ] .
정부의 교육개혁 국민회 의 위원으로서 "가상 현실은 어느 면에서는 악이라고 분명히 말한다" "만 18세로 국민을 봉사역 으로 동원하는 것"을 주장 [ 66 ] . 특히 전자는 정부의 공식 사이트에서 "가상 리얼리티는 악하다는 것을 분명히 말한다"고 요약되었기 때문에 화제가 되었지만, "어느 면"이란 무엇을 가리키는지, 당인도 명언 하지 않았다 [ 67 ] .
기독교인 ( 가톨릭 )의 입장에서 인공임신 낙태 에는 반대의 입장을 취하고 있다. ‘말 남겨진 말’에서 [ 요점 페이지 번호 ] 아기 포스트 를 “아무래도 아기를 키울 수 없는 어머니가 아이를 안전하게 버리기 위한 제도이며 장치이다”라고 지지하고 있다.
수상·영전
1979년 바티칸 유공 십자 훈장 [ 68 ]
1980년『신의 더러운 손』에서 제19회 여류문학상 으로 선정되지만 사퇴
1987년「호수 탄생」에서 쇼와 61년도 토목 학회 저작상 [ 69 ]
1988년 제3회 정론대상 [ 70 ]
1993년 제49회 일본예술원상 · 은사상 [ 71 ] , 일본예술원 회원
1995년 제46회 NHK방송문화상 [ 72 ]
1997년 제31회 요시카와 에이지 문화상 [ 73 ] , 제4회 요미우리 국제협력상
2003년 남편 미우라 주몬에 이어 문화공로자 [ 74 ] 선출
2012년 제60회 기쿠치 히로시상 [ 75 ]
전형위원으로
1971년 , 제38회 올섬 신인상 전형 위원을 맡는다 [ 76 ] .
일본 재단이 자금 원조한 일본 해사 홍보 협회가 주최하는 해양 문학 대상 (심사원: 북방 켄조 , 반도 카즈리 , 스즈키 미츠 지 외)의 전형 위원장을 1번(제6회, 2002년 ) [ 77 ] , 실행위원장 3도(제7-9회, 2003년 -2005 년 )를 맡는다. [ 78 ] [ 79 ] [ 80 ]
저서

미우라 주몬과의 결혼식에서(1953년)

남편·미우라 주몬과 함께(1955년)
장편 소설
『여명』대 일본 유변회 코단샤 1957 이후 PHP 문고, 도쿠마 문고
『봄의 비행』 쓰쿠마 서방
『죽은 자의 바다』 쓰쿠마 서방 1958
“우리 사랑의 묘표” 신시오샤 1959 이후 문고
「밤과 바람의 결혼」문예춘추신사 1959 이후 문고
「캠퍼스 110번」분예춘추 신사 1959
『다마유라』 코단샤 1959 이후 신시오 문고(남녀의 무위한 일상을 철자)
「칠한 목소리」슈에이샤 1961
『도상』동도서방 1961
『여신출분』 중앙공론사 1961 이후 문고
『포기할 수 없는 여자』 중앙공론사 1961 이후 문고
"리오 그란데"분예 춘추 신사 1962 이후 슈에이샤 문고
『오후의 미소』 매일 신문사 1962 이후 분춘문고
화산열도 아사히신문사
『해발 0미』슈에이샤 1963 이후 문고
『21세의 아버지』 신시오샤 1963 이후 문고(NHK로 드라마화)
『청춘의 구도』 모모겐사 1964의 후문춘문고
『대단히 다수』 코단샤 1965 나카가타가와 문고, 분춘 문고
『설탕과자가 망가졌을 때』 코단샤 1966 이후 신 시오 분고
"미륵"카와데 서방 신사 1966
『딸들은 지금 만천의 별』 코단샤 1967
『계속・딸들은 지금 나무들의 말이다』 코단샤 1968
“무명비” 코단샤 1969 이후 문고(다코쿠라 댐이나 아시아·하이웨이의 건설 현장에서 일하는 기술자들의 인생을 그린다)
「상처 입은 갈대」중앙 공론사 1970 이후 문고(울굴한 신부의 생활을 그렸다)
「생명 있는 한」정속, 요미우리 신문사 1970-72 이후 신시오 분고, 카도카와 분고
'겨울의 추' 슈에이샤 (컴팩트 북스) 1970
「소노 아야코 선집」전 7권 요미우리 신문사 1971
『자른 시간』 중앙공론사 1971 이후 문고
『멀어지는 발소리』 광분사 1972년 후문춘문고
“행복이라는 이름의 불행” 코단샤 1972 이후 문고
『인간의 함정』 선케이 신문사 1972 이후 문춘 문고
『기적』 매일 신문사 1973년 후문춘문고
「타로 이야기 고교편」신시오샤 1973 이후 문고(아들, 타로를 모델로 한 청춘 소설)
『소노 아야코 작품 선집』전 12권 모모겐사
『가시의 숙소』 매일 신문사 1974년 후카츠카와 분고
「한쪽 구석의 두 사람」슈에이샤 1974 이후 문고
『원형 수조』 중앙공론사 1974 이후 문고
『허구의 집』 요미우리 신문사 1974 이후 분춘문고(가정내 폭력을 그려 베스트셀러가 되었다)
“지금 날은 바다에” 코단샤 1975 이후 문고
『지복 현대 소인전』 매일 신문사 1975 이후 중공 문고, 도쿠마 문고
『땅을 촉촉한 것』 매일 신문사 1976 이후 코단샤 문고
『희망』 중앙공론사 1976 이후 문고
『목시의 정원』신쵸샤 1976 이후 문고
「타로 이야기 청춘편」코단샤 1976 「대학편」신시오 분고
『홍매화 백매』 광분사 1977 이후 코단샤 문고
'잔조에 서다' 주부와 생활사 1977 이후 분춘문고
『하루나루 세월』 매일 신문사 1977 「자비해안」 카도카와 문고, 슈에이샤 문고
『승자도 없고 패자도 없어』 문예춘추 1978 이후 문고
『 부재의 방』 문예춘추 1979 이후 문고
『부부의 정경』 신시오샤 1979 이후 문고
『신의 더러운 손』 아사히 신문사 1979-80 이후 문고, 분춘문고(산부인과의를 주인공으로 낙태와 생명의 존엄을 테마로 한 대표작)
"테니스 코트"카도카와 서점 1980 이후 문고, 분춘 문고
「나는 고양이야」문예춘추 1982 이후 문고
「소노 아야코 선집 II」전 8권 요미우리 신문사 1984-85
"시간이 멈춘 아기"매일 신문사 1984 이후 신시오 분고
『호수 탄생』 중앙 공론사 1985 이후 문고( 타카세 댐 )
『이 슬픔의 세상에』 주부와 생활사 1986 이후 코단샤 문고
『 천상 의 파랑』 매일 신문사 1990 이후 신시오 분고
「한 장의 사진」광분샤 1990 이후 문고
"찬양하는 여행자"신시오샤 1991 이후 문고
「꿈에 순종」 아사히 신문사 1994 이후 문고, 신시오 문고
『기고양이 보타코의 생활과 의견』 가와데 서방 신사 1994 이후 문고
"극북의 빛"신시오샤 1995 이후 문고
『브루겔 의 가족 행복을 찾는 25개의 편지』 광분사 1995 이후
『불타는 장작 있는 복수의 이야기』 중앙공론사 1995 이후 문고
「외로움의 극한의 땅」중앙공론사 1999 이후 문고
「육영을 보지 않고」문예춘추 2000 이후 문고(핵연료 수송선의 항해 60일에 이르는 인간의 고뇌를 그린다)
『광왕 헤롯 』슈에이샤 2001 이후 문고
『 애가』 매일 신문사 2005 이후 신시오 분고
『세키즈키 관세 어느 세기말의 이야기』슈에이샤 2008 이후 문고
짧은 편집
「원래의 손님들」
『망향의 노래』 쓰쿠마 서방 1955
「바빌론의 처녀시」가와데 신서 1955
『여행』 치쿠마 서방 1956
「남자 사냥」카도카와 소설 신서 1957
「약혼식」도쿄 창원사 1957 이후 신시오 분고
『구름의 하얀 날에』 다이니혼 유벤카 코단샤(로만・북스) 1957
「프리무라의 숲」동도 서방 1958
『노면의 집』 중앙공론사 1960
『신예문학총서 소노 아야코집』 치쿠마 서방 1960
"바다가 보이는 잔디에서"신시오샤 1961
"화려한 손"문예 춘추 신사 1961 이후 신시오 분고
『가인 박명』 동도서방 1962
"유동 원목 소노 아야코 자선집"후유키 사 1965
『영원의 목가』 미카사 서방 1970
『이치조의 빛』 신시오샤 1970 이후 문고
『창창한 일요일 공포 소설집』 모모겐사 1971
"별과 물고기의 사랑 이야기"신시오샤 1972 이후 문고
「낙엽의 목소리 자선 단편 편집」요미우리 신문사 1976
『사랑』문춘문고 1976
『말하기 상대』 요미우리 신문사(쇼와 세대 여류 단편집) 1981
『원래의 손님들』 나리세 서방, 1982
『눈에 묻혀 있던 이야기』 코단샤 문고 1983
『무명 시인』 코단샤 문고 1983
『시심』신시오 분고 1983
『칠색의 바다』 코단샤 문고 1984
「꿈을 파는 상인」 코단샤 문고 1984
"꽃다발과 포옹"신시오 분고 1984
『사라지지 않는 항적』 신시오 분고 1985
"알렉산드리아"문예 춘추 1997 이후 문고
「23층의 밤」카와데 서방 신사 1999 이후 문고
『아버지, 오카노우에의 별』 카와데 서방 신사 1999 이후 문고
「유키 아카리 초기 작품집」코단샤 문예 문고 2005
『2월 30일』 신시오샤 2008 이후 문고
“의자 안” 후소샤 문고 2009
공포 소설의 명작으로서 자주 앤솔로지에 수록되는 「긴 어두운 겨울」
코르베 신부 의 최후를 기록한 「낙엽의 목소리」
전쟁으로 찢어진 부부의 사랑의 캐치 '타다미강' 등이 있다.
아동용
"작은 케이와 떡의 켄"(그림책) 슈에이샤 1962
'예수님께 오줌을 준 아이' 성문사 1975
「카미노하하 마리아」성문사 1975
수필
『카마토 추방』슈에이샤 1961
『貘とハイエナ 사회론・인생론』 미오 서방 1967
『누구를 위해 사랑할 것인가 모든 것을 베팅하고 사는 재각』
「히타무키에 사는 마음의 토모시비」(대담집) 일본 TV 방송망 1971
『계속 누구를 위해 사랑할까(언제나 마음 밑에 필요한 결심)』 청춘출판사
『계로록 스스로의 구원을 위해』 쇼덴샤 1972
"내 안의 성경"청춘 출판사 1975 이후 슈에이샤 문고
「절망으로부터의 출발 나의 실감적 교육론」 코단샤 1975 이후 문고, PHP 연구소
『사람들 안의 사 흐르지 않는 삶의 방식을 하기 위해』
『소노 아야코의 호기심 대담』 선케이 출판 1978
『나를 바꾼 성경의 말』 코단샤 1978 이후 문고
「선물한 눈의 기록」 아사히 신문사 1982 이후 문고
『겨우 ‘나’인 나날’ 선케이 출판 1983 이후 슈에이샤 문고
『다음에는 야생화』(현대의 에세이) 아사히 신문사 1984 이후 문고
『부부, 이 이상한 관계』PHP 연구소 1985 이후 문고
『사랑과 용서를 아는 사람들』 해룡사 1985 이후 신시오 분고
『영원 앞의 한순간』 남상사 1986 이후 신시오 분고
『진짜 이야기』 신시오샤 1986 이후 문고
『마음에 다가오는 바울 의 말』 성모의 기사 1986 이후 신시오 문고
「실패라는 삶은 없다 진실에 관한 528의 단장」
「바바바의 토지」매일 신문사 1988 이후 신시오 분고
「도시의 행복」PHP 연구소 1989 이후 문고
『성경 속의 우정론』 요미우리 신문사 1990 이후 신시오 문고
「새벽의 신문의 냄새」신시오샤 1990 이후 문고
『너구리의 행복 새벽 신문의 냄새』 신시오샤 1993 이후 문고
"가까이 좋아하는 단어"신시오샤 1996 이후 문고
『부족학살 새벽 신문의 냄새』 신쵸샤 1999 이후 문고
'최고로 웃을 수 있는 인생 새벽 신문의 냄새' 신시오샤 2001 이후 문고
"침선 검사 새벽 신문의 냄새"신시오샤 2003 이후 문고
『전쟁을 알고 있어서 좋았다 새벽 신문의 냄새』 신시오샤 2006 이후 문고
「빈곤의 광경」신시오샤 2007 이후 문고
「대설이 아니고 소설」PHP 연구소 1992
『슬프고 밝은 장소』 광분사 1992 이후 문고
『21세기에 대한 편지 나의 실감적 교육론』슈에이샤 1992 이후 문고
「악과 불순의 즐거움」PHP 연구소 1994 이후 문고
『낮잠을 자는 유령』 쇼가쿠칸 1994 이후 문고
제2집 “유행으로서의 세기 말” 쇼가쿠칸 1996
제3집 『호쿠소 웃는 사람들』 1998
제4집 『정의는 후란』 2000
제5집 『살기 위한 싸움』 2002
제6집 “사람은 왜 싸움에 가는가” 2004
제7집 『곧바로 되는 방식으로 변절해 버리는 사람들』 2006
『완본계로록』 쇼덴샤 1996 이후 문고
『운명을 즐긴다 행복의 열쇠 478』해룡사
지구의 한 모서리의 이야기 PHP 연구소 1997
『7세의 파일럿 지구의 한 구석의 이야기 2』PHP 연구소 1998
『자신의 얼굴, 상대의 얼굴
「「좋은 사람」을 그만두면 편해지는 경우록」쇼덴샤 1999 이후 문고
『내 일기』해룡사
1 운명은 균등하다 1999
2 현세의 깊은 소리 2002
3 인생의 잡사 모두 가지런히 2004
4 바다는 넓고 배는 작다 2006
5 내 사랑하는 아내 2007
6 먹어도 먹어도 줄이지 않는 나뭇잎 2009
7 날아가는 시간은 행복의 표시 2012
8 인생은 모든 것을 사용한다 나쁜 운도 좋은 운도 2014
『중년 이후』 코분샤 1999 이후 지혜의 모리분고, 코분샤문고
『오늘 감사합니다 인생에 걸리지 않는 365일의 말』 도쿠마 서점 2000 이후 문고
「각각의 산정 이야기
『「정도」의 효용 안심록』상전사 2000 이후 문고
『자신을 참을 수 없는 용기와 신념의 말씀』 PHP 연구소 2000 이후 문고, 왁 문고
『애애함 상냥함 향기』해룡사 2001
「안일과 위험의 매력」 코단샤 2001 이후 문고
"사람은 별, 인생은 밤하늘"PHP 연구소 2001
『현대에 사는 성경』 일본 방송 출판 협회
『지복의 경지 자신의 얼굴, 상대의 얼굴』 코단샤 2002 이후 문고
"녹색 손가락 원예의 즐거움"PHP 엘 신서 2002 이후 문고
『원점을 응시해 그래도 사람은 살다』 쇼덴샤 2002 이후 문고
『반드시 부드러운 내일은 온다』 도쿠마 서점 2003 이후 문고
『아랍의 격언』신시오 신서 2003
『없는 것을 세지 않고 어떤 것을 세어 살아가는 행복록』 쇼덴샤 2003 이후 문고
『혼의 자유인』 코분샤 2003 이후 문고
「왜 사람은 무서운 일을 하는가」 코단샤 2003 이후 문고
『생활의 단지 속의 신』 해룡사 2004
"단 하나의 개성을 만들기 위해"PHP 연구소 2004 이후 문고
"인생은 마지막 날조차 다시 할 수있다"PHP 문고 2004
"행복 불감증"쇼가쿠칸 문고 2004
미국의 논리 이라크의 논리 왁 2004
「투명한 세월의 빛」 코단샤 2005 이후 문고
『일본재단 9년 반의 날들』 도쿠마 서점 2005. ISBN  4-19-862032-6 .
「사장의 얼굴을 보고 싶다」카와데 서방 신사 2005
『「받는다」보다 「주는」 쪽이 다행이다」야마토 서방 2005 
「왜 아이 그대로의 어른이 늘어났는가」문고
「일본인이 모르는 세계의 걷는 방법」PHP 신서 2006
『영혼을 기르는 교육악으로부터 배우는 교육 나의 체험적 교육론 215의 제언』 해룡사 2006
"선인은 왜 주위의 사람을 불행하게 만드는가? 구심록"상전사 2006 이후 황금문고
『외로라도 살 수 있다. East Press 2006
「만년의 미학을 요구해」아사히 신문사 2006 이후 문고
'냄비솥과 애국심' 가와데서방신사 2007
아바노의 재회 아사히 신문사 2007 이후 문고
『인생의 후반을 혼자 사는 말』 이스트 프레스 2007
『평화란 비범한 행운』 코단샤 2007
『우울을 바라보는 말』 이스트 프레스 2007
『말 남겨진 말』 광분사 2008 이후 문고
'은퇴하지 않는 삶' 해룡사 2008 이후 PHP 문고
『노인의 신변을 상쾌하게 살기 위한 말』 이스트 프레스 2008
「진짜 「어른」이 되는 힌트 알아 두고 싶은 「양식 있는 인간」의 생각」
『사람에게 끊임없이 자신을 묶지 않는 삶의 방식』 후소샤 2008
『비상식 가족』 도쿠마 서점 2008 이후 문고
『말 남겨진 말』 광분사 2008
『살아, 살아, 살아 사랑의 극한까지 16명의 선교사』 기무라 히로미 기록 카이류샤 2008
「약자가 강자를 구축하는 시대」WAC Bunko 2009
'빈곤의 참배지' 신시오샤 2009 이후 문고
「3초의 감사」해룡사 2010
「안심하고 싶은 사람들」쇼가쿠칸 2010
『노인의 재능』 베스트 신서 2010
『자신의 시말』 후소샤 2010
『성경이란 어리석은 사람들의 기록이다 하나님께서 주신 37개의 지혜의 말』 아오모도 2010
개제 「성경을 읽는 쾌락 「나」에게 주어진 사색의 말」아오모도 2014
「인간의 기록 소노 아야코 천막할 정도의 경쾌한 영혼의 자유」
『피곤하지 않은 인간관계의 힌트』 이스트 프레스 2010
'행복의 재능' 해룡사 2011 이후 아사히 문고
『자신의 시말』 후소샤 신서 2011 이후 문고
「인생의 수확」카와데 서방 신사 2011 이후 문고
「인생의 여로」가와데 서방 신사 2011
『인생의 제4악장으로서의 죽음』 도쿠마 서점 2011 「누구에게도 죽는다는 임무가 있다」 문고
「도해 지금 성경을 배우다」와크 2011
『생활 속의 애국심』 가와데 서방 신사 2011
"영혼을 기르는 교육 악에서 배우는 교육"PHP 연구소 2011
"지구의 한 모서리 이야기"PHP 연구소 2011
"나이를 먹는 재미"이스트 프레스 2011
『사람에게 끊임없이 자신을 묶지 않는 삶의 방식』 후소샤 신서 2011
“흔들리는 대지에 서서 동일본 대지진의 개인적 기록” 후소샤 2011
"아침은 아프리카의 기쁨"문예 춘추 2012 이후 문고
「한 성공자의 노후」가와데 서방 신사 2012
「국가의 덕」산케이 신문 출판 2012
『이 세상에 사랑하고 소노 아야코 자전』 왁 2012
'행복은 약점에 있다 지금을 사는 '성경의 이야기'' 이스트 프레스
「자신의 재산」산케이 신문 출판 2012
「타락과 문학
「인간의 기본」신시오 신서 2012
『일하고 싶지 않은 사람은 먹지 말아라』 왁 2012
「노년이 되는 기술 소노 아야코의 쾌로록」카이류샤 2012
『이모씨 응원단』 가와데 서방 신사 2012
「사는 자세」카와데 서방 신사 2013
『우울을 바라보는 말
"정말로 갈 수 없기 때문에 인생은 재미있다"미카사 서방 2013
『부모의 계측』 후소샤 신서 2013
"행복은 약점에있다"이스트 신서 2013
「인생의 원칙」카와데 서방 신사 2013
「상정외의 노년 납득할 수 있는 인생이란」 와크 2013
『소노 아야코의 인생 상담』이키이키 출판국 2013
"인간 관계"신시오 신서 2013
『인간에게 있어서 성숙이란 무엇인가』 환동사 신서 2013
「불행은 인생의 재산」쇼가쿠칸 2013
「안심과 평화의 상식 「안심하고 살 수 있는 생활」 등, 원래 이 세상에 없다」 왁 문고 2014
「풍통이 좋은 삶의 방법」신시오 신서 2014
『 매운 맛 · 행복 론 살아있는 모든 것을 ' 진지한 놀이 ' 에 ' 신강사 와이드 신서 , 2014
“자신의 재산” 후소샤 신서 2014
「취미에 사는」카와데 서방 신사 2014
「인간이 되기 위한 시간」쇼가쿠칸 신서 2014
『노인의 모험 인생에서 가장 자유로운 시간을 보내는 방법』흥양관 2015
『고통이야말로 인생 소노 아야코의 잠언집』 ​​해룡사 2015
"여행은 내 인생 때 겁쟁이에 때로 혼자 좋다"아오모도 2015
『단정한 삶 방법』 후소샤 2015
「인간의 어리석음에 대해」신시오 신서 2015
"내 표류기"카와데 서방 신서 2017.12
『인간의 의무』신시오 신서 2020.6(『파』・『신시오 45』게재를 서적화, 전 21화 수록)
'코로나라는 '비일상'을 살아라' 왁 2020.10
『자신의 가치』후소샤 신서 2021.11
『인생을 정돈하는 거리감의 작법』매거진 하우스 신서 2022.5
『인생의 피로에 대해서』 후쿠사 신서 2022.5
『인생은, 매일의 당연의 쌓아』중공 신서 라크레 2022.12
논픽션 보고서
『제물의 섬 오키나와 여학생의 기록』 코단샤 1970의 후카가타가와 문고, 분춘 문고
『히메 유리대의 기록』 효성사(논픽션 이야기) 1973
"어느 신화의 배경 오키나와 도카시키 섬의 집단 자결"분예 춘추 1973 이후 카도카와 문고, PHP 문고
『아랍의 마음』 산케이 신문사 출판국 1976 이후 슈에이샤 문고
"코르베 신부 이야기"성모의 기사 1982
『사막·이 신의 땅 사하라 종단기』 아사히 신문사 1985 이후 문고
"잃어버린 세계, 그리고 추억 마야 아즈텍 사적 기행"PHP 연구소 1990 이후 문고
『신님, 그것을 원하십니까? 어떤 민간 원조 조직의 25년간』 문예춘추 1996 이후 문고
공편 저
『신편 인생의 책』전 12권 에토 준공편
『사랑의 아케보노』 미우라 주몬, 엔도 주작 요미우리 신문사 1976
「무엇을 위한 교육인가」 무라이 자장 코단샤 1978
「성 바울의 세계를 간다」(편저) 코단샤 1982
『이별의 날까지 도쿄 바티칸 왕복 서간』지지 마사유키 코단샤 1983 이후 신시오 분고
「생과 죽음을 생각한다」알폰스 데켄 공편 춘추사 1984
『여행의 아침에 사랑과 죽음을 말하는 왕복 서간』 데켄 카도카와 서점 1985 이후 신조 문고
「그리스의 신들」타나베 쇼고단샤 1986 이후 문고
「그리스의 영웅들」타나베 아키 코단샤 1990 이후 문고
"유키하라에 아침 양해 하코다테 트라피스트 수도원 신부와의 왕복 서간" 타카하시 시게유키 쇼가쿠칸 1991 - 나중에 도서관
「큰 소리 소성」우에사카 후 유코 코단샤 1992
『부모와 자식, 별도 있음』 미우라 타로 PHP 연구소 1993 이후 문고
「큰 소리 소성 또 한 소리」우에사카 후유코 코단샤 1993
「그리스인의 사랑과 죽음」타나베 아키 코단샤 1995 이후 문고
『유후인의 달』사카타니 토요코 매일 신문사 1998
「사람은 모두 「사랑」을 말한다 결혼의 형태, 인생의 형태, 행복의 형태」미우라 주몬
『성경의 토지와 사람들』 미우라 주몬, 카와야 류코 신조 문고 2001
「왜 일본인은 성숙할 수 없는 것인가」클라인 타카코 카이류샤 2003
『사랑을 위해 죽을까요』유키 료오 나카 케이 출판 2008
『노인 락 대담』 우에사카 후유코 카이류샤 2009 「후유코와 아야코의 늙은 악인생」 아사히 문고
『지금을 사는 각오』 클라인 타카코 공저 치치 출판사 2012
「사랑을 알아차리는 삶의 방식」미우라 주몬 공저 청춘 신서 PLAY BOOKS 2013
『이 세상의 위선 인생의 기본을 잊은 일본인』김미령 공저 PHP 연구소 2013
「인간의 눈길 아랍으로부터 배우는 「인생의 독자」가 되는 방법」요시무라 작치 공저 코단샤 2014
「야수 죽음의 각오」콘도 마코토 저 베스트셀러 2014
「울려 퍼지는 대화 문학과 종교, 그리고 살기」오카이 타카시 작가
「부부의 룰」미우라 주몬 공저 코단샤 2014
번역
천국은 배당을 지불하지 않는다 리히알토 카우프만 미우라 주몬 공역
오즈의 마호츠카이 라이맨 프랭크 밤 코단샤 1963 (세계 명작 동화 전집
소공녀 버넷 코단샤 1964 (소년 소녀 신세계 문학 전집 후 푸른 새 문고 1985
안데르센 명작선 1-6 프레이베르관 1965-69 (토판의 스테레오 에혼)
빨간 머리 암몬 고메리 소년 소녀 세계 문학 가와데 서방 1966
그림 명작선 1-6 프레이베르관 1967-68 (토판의 스테레오 에혼)
시로이야기 비켓 프랑소워즈 코단샤 1971 (세계의 그림책 미국)
아시나가 아저씨 웹스터 코단샤 1972 후 푸른 새 문고
우조와 아카 짱 쟈니스 클래머 성문사 1974
니와의 야간 로널드 슈레겔 성문사 1974
사카나에 먹힌 요나 MM 블렘 성문사 1975
반찬 빵의 이야기 메리 워렌 성문사 1975
히토비의 생명을 푹 빠뜨린 오우히 캐롤 그린 성문사 1975
과부 린 케인 츠루바 노부코 공역 문예 춘추 1975 이후 문고
카미노가 만든 세카이 창세기 1-2장 Alyce Bergey 성문사 1975
노아의 하코부네 누가복음 2:1-20 Jane Latourette 성문사 1975
다윗과 미혼노야 사무엘 18-20장 Alyce Bergey 성문사 1976
삼성 이후의 비밀 사사기 13장-16장 Loyal Kolbrek,Chris Larson 성문사 1976
보물 마태복음 14:22-33 마가 복음 6:45-51 Mary Warren 성문사 1976
천사의 시잔 누가복음 21장 1-4 Walter Wangerin Jr. 성문사 1976
텐시가 노래하는 누가복음 2:8-20 Allan Ross 성문사 1976
스포크 박사의 가정 교육 벤자민 스포크 츠루바 노부코 공역 기이쿠니야 서점 1977
15:11-32 Irene Elmer 성문사 1977
신세츠나 사마리아의 누가복음 10장 25-37 Janice Kramer 성문사 1977
성서 이야기 필립 터너 미우라 주몬 공역 쇼가쿠칸 1981
크리스마스 물건 브라이언 와일드 스미스 태평사 1990
잭 센세이의 오도로키 브라이언 & 레베카 와일드 스미스 태평사 1994
희망의 문을 여는 요한 바울 II 세 미우라 주몬 공역
행복의 왕자 오스카 와일드 바질 리코 2006
외국어 번역
Watcher from the Shore. "하느님의 더러운 손" Edward Putzar 1990
No Reason for Murder. "천상의 파랑" Edward Putzar 2003
Sineva nebes 러시아어
2015년 현재 연재 상황
「투명한 세월의 빛」( 산케이 신문 외, 북국 신문 등 지방지에도 게재)
"내 일기"( Voice )
「인간 관계 암캐 이야기」( 신조 45 )
「낮잠을 자는 유령」( 주간 포스트 에서 격주)
「소설가의 제멋대로」( WiLL )
「예수의 실상에 다가온다」(격월간『미루토스』)
소노 작품에 관한 비평·연구
평판
『신의 목우 소노 아야코의 영혼의 세계』 츠루바 노부코 ( 주부 의 친구 ) , 츠루바가 다음 2002년 12월에 사망할 때까지 교제가 계속되었다. 「Voice」연재의 「사일기」 26회(2002년 2월 발행) 참조.
TV 출연
생명의 히비키 ( 1999년 8월 15일, TBS )
각주
주석
↑ 이 약혼 파담 에피소드가 자전적 소설로 여겨지는 『여명』의 스토리를 형성한다 [ 요출전 ]
↑ 문맥 적으로는 영어의 corpus delicti, 법정 용어로서의 죄체(범죄가 행해진 물체)이다
↑ 야마자키는 왁 출판(2006)판에서는 이 문언을 포함한 오에의 문장의 인용 부분에서는 「죄의 거혼」이라고 오식되고 있는 것도 지적하고 있다.
^ 이것은 일본인 거리 나 중화가 , 코리아·타운 등 의 자연 형성된 재류 외국인 커뮤니티와는 완전히 다른 사고.
^ 산케이 신문 집행 임원 도쿄 편집 국장의 고바야시 히로시는 “당사 기사는 소노 아야코씨의 상설 칼럼으로, 소노씨 본인의 의견으로서 게재했습니다.칼럼에 대해서 다양한 의견이 있는 것은 당연한 일이라고 생각 산케이신문은 일관되게 아파르트 헤이트 는 물론 인종차별 등 모든 차별이 허용 되지 않는다는 생각입니다”라고 덧붙였다 .
출처
↑ a b 『임원 이동의 소식』(PDF)(보도 자료) 일본 우정 주식회사, 2009년 10월 28일 . 2019년 3월 7일에 확인함 .
↑ a b c d e “ 인사 흥신록. 제15판 아래 - 국립 국회 도서관 디지털 컬렉션 ”. dl.ndl.go.jp . 2022년 11월 8일 열람.
^ “ 야마토 마이타우 키 (제8 판 ) - 『인사흥신록』데이터베이스」. jahis.law.nagoya-u.ac.jp
^ 쓰루바 노부코 『신의 나무 우소노 아야코 영혼의 세계』 주부의 우사, 1979년, 30페이지.
↑ 이시카와 요코타카 기념관/현대 작가·계승되는 이시카와의 문학
^ 구제 중등 교육 학교의 일람_(이시카와현)
^ 쓰루바 노부코편, 나노 노 아야코 연보, 쇼와 54년 4월 작성 [ 요 문헌 특정 상세 정보 ]
^ 미우라 주몬 "주와 섞이면 청춘 교유록"[ 요점 페이지 번호 ] , 야마구치 유미 "사라진 숙박 명부"[요점 번호 ] 외
^ 쓰루 바 노부코 편曾野綾子年譜 쇼와 54 년 4 월 작성 [ 요 문헌 특정 상세 정보 ]
↑ INC, SANKEI DIGITAL (2018년 10월 20일). “ 소노 아야코씨 “어떤 인생도 풍부하게 받을 수 있는 분” 황후님 84세 ”. 산케이 뉴스 . 2021년 2월 21일 열람.
^ “ 슬픔이 다가가는 존재에 황실 비판과 갈등 극복 : 정리 읽기 : 뉴스 ”. 요미우리 신문 온라인 (2018년 10월 23일). 2021년 2월 21일 열람.
^ 나가이 타카코 (20190429T070000+0900). “ 황후님의 꿈 “ 책방의 서독” 소노 아야코가 이어서 드린 날 <주간 아사히> ”. AERA dot. (아에라닷) . 2021년 2월 21일
^ “ 대체에: 양 폐하와 나/1 어떤 이야기도, 소중히 작가·소노 아야코씨(87) ”. 매일 신문 . 2021년 2월 21일 열람.
↑ 타로 가족의 보르네오 일기 ISBN 978-4879990365 [ 요점 페이지 번호 ]
↑ 『일본재단 9년 반의 날들』「회장 취임의 사전 1995년 12월 12일」(p.34), 「…재단과의 논의로 이사의 임기가 끊어지는 것을 계기로 퇴임하게 하기로 했습니다.”(p.30)
^ 문제 제기 후지모리씨를 둘러싸고 묻는 국가의 원칙 , 사쿠라이 요시코 . 「정론」 게재의 전문.
↑ “베스트 셀러 책 랭킹 80 일본 역대에서 가장 팔린 인기 서적은 어느?? | DreamArk | 꿈의 방주 ”. yume-hakobune.com .
↑ “ 완본 계로록 스스로의 구원을 위해 / 소노 아야코/저 ”. 온라인 서점 e-hon . 2021년 2월 26일 열람.
^ INC, SANKEI DIGITAL ( 2020 년 2 월 29 일) .
↑ 요미우리 신문 발전사(1987년, 요미우리 신문사) 213페이지
↑ 『이야기 코단샤의 100년 확대』(2010년, 코단샤) 244페이지
^ 오가타 슌오 ''좋은 사람'을 멈추는 7가지 방법'(주부의 친구, 2017년)
^ “ 『늙은의 재능』(소노 아야코, 베스트 신서:2010, 9, 20 제 1쇄·2011, 3, 25 제19쇄) | (ytv 아나운서) “도우라 TIME” ”. 2021년 2월 21일에 확인 함.
^ “ 소노 아야코 저 『인간에게 있어서 성숙 이란 무엇 인가』
^ 엠티아이. “ “프랑스인은 10벌 밖에 옷을 가지지 않는다”가 자기 계발 부문에서 선두 획득, 해외 저자 작품 6년 만의 쾌거 - music.jp 뉴스 ”. music.jp . 2021년 2월 26 일 .
↑ “ 뉴스·연예· 스포츠 | 코단샤 의 일
↑ “ 인사 흥신록. 제24판 아래 - 국립 국회 도서관 디지털 컬렉션 ”. dl.ndl.go.jp . 2022년 11월 8일 열람.
↑ 2011년 4월 원고 전면 패소로 확정
^ 오오타 요시히로 『오타 요시히로 저작집』 3권, 테두리 잉크.
^ a b 소노 아야코 「어느 신화의 배경」문예 춘추, 1973년 5월 10일, 109-112, 112-114페이지.
↑ 공기읽기 이케다 노부오 blog2007년 11월 15일
↑ 『어느 신화의 배경』 문예춘추(1973) 판
↑ PHP 문고(1992) 버전 포함
↑ 산케이 신문 . (2007년 10월 23일)
↑ 이시다 이쿠오 (11 1967). “오키나와의 단층”. 전망 .
^ 오오타 요시히로 「오타 요시히로 저작집」 3권, 보더 잉크, 2005년 7월 1일.
↑ https://www.sankei.com/article/20161117-76ED4ICV5ZPXRH3ERFCWSUF2H4/
↑ 참의원 회의록 정보 제102회 국회 의원 운영 위원회 제1호 [1]
↑ 교육 재생 실행 회의 위원에 소노 아야코 씨 등 내 정산 경 신문 2013.1.8 19:43
↑ twitter 하시시타 토오루 [2]
↑ 「교육 재생 회의 멤버 그만두라」 하시시타 시장이 소노 아야코 씨에게 분노의 트윗 [3] J-CAST 뉴스
^ 자이단 모양 투명한 세월의 빛 131 태풍 교육의 기회 이용을 2004년 10월 22일 산케이 신문
^ 자이단 모양 투명한 세월의 빛 132 지진으로 생각한다 재해시의 지혜 훈련 필요 2004년 10월 29일 산케이 신문
^ 월간『WiLL』2011년 6월호 「승일 선생님의 미녀 대담 불행으로부터의 선물이 일본인을 단련한다」
↑ 「주간 포스트」2014년 3월 21일호
↑ 산케이 신문 2015년 2월 11일 조간 7면
↑ https://www.huffingtonpost.jp/2015/02/10/sankei_n_6657606.html
↑ “ 산케이 신문 소노 아야코씨의 칼럼에의 항의문 ”. www.ajf.gr.jp . 2020년 2월 25일 열람.
^ 산케이 신문 : 소노 씨 칼럼, 미나미 아 대사도 항의문 인종 격리 허용 매일 신문
^ 소노씨 칼럼:일본 아프리카 학회의 역대 회장들이 철회 요구한다 “아파르트헤이트 옹호의 견해 국제 사회로부터의 비난의 대상””, 매일 신문, 2015년 2월 18일
↑ 아프리카 일본 협의회 (2015년 2월 13일). “ 산케이 신문 소노 아야코씨의 칼럼에의 항의문 ”. 2015년 4월 열람.
^ a b “소노 아야코씨 칼럼에 “아파르트헤이트를 찬양해, 총리에 부끄러워 한다”해외 미디어 보도한다” . (2015년 2월 13일)
^ a b “소노씨 칼럼에서 남아 주일 대사가 본지에 항의” . 산케이 신문 . (2015년 2월 14일)
^ a b c “Author Causes Row With Remarks on Immigration, Segregation”. THE WALL STREET JOURNAL . (2015년 2월 13일)
^ 소노 아야코씨, 비판에 라디오에서 반론 「차별이 아니고 구별」 「철회할 생각이 없다」 하 핀톤 포스트 일본어판 2015년 02월 19일
^ 이민이 개호하면 좋다는 소노 아야코적 착각 :: INSIGHT NOW!
↑ 「인손 부족」과 외국인(7) 「소노 발언」에의 위화감:일본은 「꿈의 나라」가 아니다 | 기사 | 신시오샤 Foresight
↑ “Japan PM ex-adviser praises apartheid in embarrassment for Abe” . Reuter . (2015년 2월 13일)
↑ 『신시오 45』2015년 4월호 pp.12-26
^ https://www.reuters.com/article/2015/02/13/us-japan-apartheid-idUSKBN0LH0M420150213/
↑ 페루 원주민이 강제 한 불임수술의 실태 르몽드 디프로마티크 2004 년 5월호
^ 자이단 무늬 시대의 바람 후지모리씨에게의 숙소 제공? 나는 운명에 따른 만큼 2000년 12월 3일 매일 신문
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↑ 제2회 의사록 2000년 6월 15일 교육 개혁 국민회의 제1 분과회
^ 2. 어른이나 행정이 주체가 되어 가정, 학교, 지역에서 임해야 할 것 교육 개혁 국민 회의 자료 일람
^ “ 나라를 겨냥하지 않고 저축은 “의무” 소노 아야코씨 ”. 일본 경제 신문 . 2022년 11월 7일 열람.
↑ 저작 상(쇼와 58년도~헤세이 2년도) 수상 작품 일람
↑ 정론 대상의 역사
↑ 일본예술원상 수상자 일람
↑ 일본방송협회 방송문화상
↑ 요시카와 에이지 문화상
↑ “ 헤세이 15년도 문화 공로자 및 문화 훈장 수장자(이십음순) ” (PDF). 문부 과학성 (2003년 11월 3일). 2011년 3월 24일 시점의 오리지널 보다 아카이브. 2023년 6월 2일에 확인함.
↑ 기쿠치 상 수상자 일람|공익재단법인 일본문학진흥회 - 문예춘추
↑ 제38회 올사람 신인상
↑ 제6회 해양 문학 대상의 모집과 전형에 대해
↑ 제7회 해양 문학 대상 작품 모집 요항
↑ 제8회 해양 문학 대상 작품 모집 요항
↑ 제9회 해양문학대상 모집 포스터
관련 항목
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외부 링크
소노 아야코 -신시오샤
미우라 시치코(아야노 아야코) - 일본예술원
해외 일본인 선교자 활동 원조 후원회(jomas)
일본 재단 HP에서 읽을 수 있는 소노 아야코의 칼럼
소노 아야코 작품의 영화화
소노 아야코 작품의 드라마화
소노 아야코 특별 신작 에세이·「P+D BOOKS」2주년 기념
현대 일 다양한 어른들

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소노 아야코

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소노 아야코
曽野 綾子
작가 정보
출생명마치다 치즈코(町田 知壽子)
출생1931년 9월 17일(93세)
일본의 기 일본 도쿄도 구 미나미가쓰시카군 혼다초
국적일본의 기 일본
언어일본어
직업작가
학력세이신 여자대학 영어영문학과
종교로마 가톨릭교회 (세례명: 마리아 엘리자베스)
활동기간1951년 ~ 현재
장르소설·수필·동화·번역
사조제삼의 신인
수상일본예술원상온시상 (1993년)
요시카와 에이지 문화상 (1997년)
키쿠치 칸상 (2012년)
주요 작품
《멀리서 온 손님들》 (1954년)
《木枯しの庭》 (1976년)
《神の汚れた手》 (1980년)
고등학교 시절(1949년)

소노 아야코(일본어曽野 綾子1931년 9월 17일 ~ )는 일본의 작가이다. 일본 보수론자 중 하나이다.

개요

[편집]

로마 가톨릭교회 신자로 세례명은 마리아 엘리자베스이다. 세이신 여자대학 문학부의 영문학과 출신.

도쿄 생으로 아버지 마치다 에이지로(町田英治郎)와 어머니 키와 사이의 둘째딸로 태어났다. 언니 이름은 유리카(幽里香)였으나 8살에 죽어서 외동딸에 가깝게 살아왔다. 아버지는 야마토 고무제작소(大和護謨製作所)의 전무이사[1][2])였다. 1934년 구 오모리 구(大森区)에 정착해 결혼 이후에도 계속 지낸다. 어머니의 희망으로 유치원부터 대학까지 세이신 여자대학에서 마쳤다. 태평양전쟁 시기에 가나자와시에서 보내면서 근로동원령에 따라 히라노 화학공장(平野化学工場)에서 일하기도 했다. 어릴적부터 부모의 뜻에 따라 정해진 데릴사위감이 있었는데 중학교 즈음 얘기가 깨져 없던 일이 되었다. 아버지 건강 악화로 가세가 기운 것도 원인이었다. 이후 아버지는 미군에 접수되었던 하코네의 후지야 호텔 지배인으로 일을 했고 이 시기는 소노의 작품 멀리서 온 손님들「遠来の客たち」의 무대가 되었다. 소노는 호텔에서 아르바이트를 하기도 했다.[3]

나카카와 요이치(中河与一)가 이끌던 동인지 라만차『ラマンチャ』(1951년 5월)에 실린 「裾野」가 우스이 요시미(臼井吉見)의 눈에 들어 그의 소개로 동인지 신사조『新思潮』에 가담했다. 신사조에서 남편 미우라 슈몬(三浦朱門)도 만났다. 동인지 발행자금 모금을 위해 아사히 방송에 콩트 등을 몇편 투고했다. 22세때 문학적으로 조언을 주던 미우라 슈몬과 결혼했다. 23세에 멀리서 온 손님들「遠来の客たち」로 아쿠타가와 류노스케상 후보가 되며 문단에 알려졌다. 30대엔 불면증에 시달리며 여러 창작활동을 했다.[4].

우스이는 소노와 아리요시 사와코(有吉佐和子)의 활약을 두고 재능있는 여인들의 시대(才女時代)라고 평가했다. 문학사적으로는 엔도 슈사쿠, 야스오카 쇼타로, 요시유키 준노스케, 코지마 노부오, 쇼오노 준조오, 콘도우 케이타 로우, 아가와 히로유키, 미우라, 오누마탄, 시마오 토시오 등과 함께 제삼의 신인세대「第三の新人」에 속한다. 동시대 여성 기독교인 작가 미우라 아야코와 함께 W 아야코라 불리기도 했다.

장남인 미우라 타로(三浦太郎)는 문화인류학자로, 타로이야기『太郎物語』는 그를 소재로 한 작품이다. 며느리는 에세이스트 미우라 아키코(三浦暁子). 1995년부터 2005년까지 일본재단 회장이었고 2009년 10월부터는 일본우정의 사외이사가 되었다. 2000년에는 페루 대통령이던 알베르토 후지모리의 일본 체류를 돕기도 했다.[5]

논란

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  • 오키나와 전투 중 집단 자결 강요 오키나와 전투 중 집단 자결 강요의 진상을 다룬 논픽션 『어떤 신화의 배경』『ある神話の背景』과 초중고생들의 봉사활동을 질타한 일본인에게「日本人へ」로 사회적 논쟁을 불러일으켰다. 전쟁기록인 철의 폭풍鉄の暴風이나 오에 겐자부로의 오키나와 노트『沖縄ノート』등이 현지 취재도 부족하고 잘못된 내용이 많다로 비난했으며 자결군명을 내렸던 우메자와 유우(梅澤裕)와 아카마츠 대위(赤松大尉)의 유족이 소송을 내게 만드는 계기가 되었다.[6] 2007년 일본 문부과학성은 논란이 있다는 이유로 교과서에서 오키나와 집단 자결 강요 부분을 빼버렸다. 소노 아야코는 오키나와 전투의 집단 자결은 오키나와 민중의 자발적 선택이었다는 주장을 하는 것이다.[7]
  • 이차방정식 퇴출 중학 교과서에서 필수적으로 가르치던 이차 방정식의 근의 공식에 대해 "이차방정식을 못풀어도 사는데 지장이 없었다. 사회에서 전혀 쓸모가 없으므로 이런 것은 추방해야 한다." 등의 발언을 했으며 이를 남편인 미우라 슈몬이 소개한 적 있다. 이에 대해 수학자 오카베 츠네지(岡部恒治)는 학력저하가 나라를 망하게 한다『学力低下が国を滅ぼす』라는 책에서 반론한 바 있다. 유토리 교육 도입시 나카소네 정권에서 그녀는 교육심의회 회원이었다.[8] 또 2013년 제2차 아베 신조 내각의 교육 재생 실행회 멤버가 되었다.[9] 산케이 신문의 칼럼에서 체벌교사와 하시모토 도루 시장을 한꺼번에 비난하여 논란을 만든 바 있다.[10][11]
  • 재해 피해자들에 대한 막말 대형 태풍의 피해자들에게 "하룻밤 정도의 일로 왜 그렇게 피난자의 어리광을 받아주는 것인가. 피난은 신문지를 바닥에 깔고 옷을 여러장 껴입은 뒤 자는게 당연하지 않은가. 도시락 등도 돌릴 필요없다. 일기 예보가 있으니 아픈 곳 없는 사람이라면 식량과 침구를 챙겨 얼른 피난소로 가는 것이 보통이다"라고 칼럼에서 썼다.[12].
  • 니가타 현 주에쓰 지진때 "피난소에서 구호 물자를 기다리는 피난자라니 어리광이 심하다. 피난할 때에 침구를 메고 뛰는 것이 당연하다. 나라면 가스 누출 없을 곳에서 얼른 미음을 쑬 것이다. 필요한 것이 부족하면 근처에서 조달하는 감각도 필요하다"라고 썼다.[13]
  • 2011년, 와타나베 쇼이치 (언어학자)와의 대담에서 후쿠시마 제1 원자력 발전소 사고에 도쿄전력을 책임이 없다며 "방사선이 강한 곳에 노인들이 가면 좋지 않은가. 나도 가겠다. 오히려 건강해져서 돌아올지도 모르잖아. (웃음)" 등의 발언을 했다.[14] 그 뒤 소노가 후쿠시마 제일 원자력 발전소를 방문한 사실은 없다. 소노는 또 2014년에 "이재민이나 고령자 등"약자"로 불리는 사람들의 어리광을 당연한 것처럼 봐주는 사회는 불안하다"고 말했다.[15].
  • 인종차별 논란 노인 돌볼 사람이 없으니 외국인 노동자의 유입을 허용하되 거주지를 분리하는게 좋다는 주장을 하며 남아공의 혼란을 예로 들어 거센 항의를 받았다.[16]
  • 1973년 칠레 쿠데타때, 살바도르 아옌데는 좌익 정치인이라며 아우구스토 피노체트와 군부 독재를 옹호[17].
  • 기독교인 입장으로 야스쿠니 신사의 대체 추도시설 설립을 찬성한다. 개인적으로 야스쿠니 신사를 참배했고 2007년 6월엔 리덩후이의 참배시에도 남편과 동반 참배했다.[18]
  • 정부의 교육 개혁 국민 회의 위원으로 "가상현실은 악이다"라는 주장을 했다.[19][20]
  • 로마 가톨릭교회 신자라 낙태를 반대한다. 베이비박스는 지지한다.

한국어로 번역된 저서 목록

[편집]
소설
  • 천상의 푸른 빛 『天上の青』毎日新聞社 1990
에세이
  • 사랑을 읽어주는 여자 / 누구를 위해 사랑하는가 『誰のために愛するか すべてを賭けて生きる才覚』青春出版社 1970
  • 나는 이렇게 나이들고 싶다 『戒老録 自らの救いのために』祥伝社 1972
  • 어떤 신화의 배경(논픽션, 한국어 미출간)『ある神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』文藝春秋 1973
  • 남들처럼 결혼하지 않습니다 / 부부 그 신비한 관계 『夫婦、この不思議な関係』PHP研究所 1985
  • 성바오로와의 만남 『心に迫るパウロの言葉』聖母の騎士社 1986
  • 사람으로부터 편안해지는 법 『「いい人」をやめると楽になる 敬友録』祥伝社 1999
  • 행복하게 나이드는 비결 / 중년이후 『中年以後』光文社 1999
  • 오늘 하루도 감사합니다『今日をありがとう 人生にひるまない365日の言葉』徳間書店 2000
  • 녹색의 가르침 『緑の指 ガーデニングの愉しみ』PHPエル新書 2002
  • 빈곤의 광경 『貧困の光景』新潮社 2007
  • 나이듦의 미학을 위하여 『年をとる楽しさ』イースト・プレス 2011
  • 인간의 기본 『人間の基本』新潮新書 2012
  • 약간의 거리를 둔다 人間の分際 2015
  • 노인이 되지 않는 법 2021 (김욱 역, 리수)[21]

각주

[편집]
  1.  現在のヤマト化学工業
  2.  “ヤマト化学工業ホームページ(会社概要・沿革)”. 2017년 10월 24일에 원본 문서에서 보존된 문서. 2017년 10월 23일에 확인함.
  3.  三浦朱門『朱に交われば 青春交遊録』、山口由美『消えた宿泊名簿』他
  4.  鶴羽伸子編 曾野綾子年譜 昭和54年4月作成、曾野綾子『この世に恋して』
  5.  問題提起・フジモリ氏をめぐって問われる国家の原則 、櫻井よしこ。『正論』掲載の全文。
  6.  2011年4月、原告全面敗訴で確定
  7.  소노 아야코(曾野綾子)는 집단자결에서 죽음을 향했던 사람들이 어디까지나 주체적으로 죽음을 선택했다고 하면서 거기에 윤리적인 가치를 설정한다. 이 주장이 멈춰 서 있는 산 자와 죽은 자를 윤리적으로 회수하려는 시도임은 너무나도 명백하다. 하지만 반대로 소노의 주장을 반박하면서 집단자결로 나간 사람들의 죽음을 황민화 교육의 결과라고만 단정지어 버릴 경우, 결과적으로 그들이 멈춰 서 있는 순간의 시점을 놓쳐 버리게 된다. 그들은 결코 '죽을 수 있는 신민'으로서 전쟁 동원에 참가했던 게 아니다. 그럼에도 불구하고 그 참가는 군율의 확대를 촉진함으로써 그들에게 죽음을 요구했다. 그때 과연 그들은 무엇을 보았을까? 소노 아야코의 시도와 대결하려면 이런 지평을 확보하지 않으면 안된다. --도미야마 이치로, 전장의 기억(이산)
  8.  参議院会議録情報 第102回国会 議院運営委員会 第1号[1][깨진 링크(과거 내용 찾기)]
  9.  教育再生実行会議委員に曽野綾子氏ら内 Archived 2017년 10월 9일 - 웨이백 머신産経新聞2013.1.8 19:43
  10.  twitter橋下徹[2]
  11.  「教育再生会議メンバー辞めろ」 橋下市長が曽野綾子氏に怒りのツイート[3]J-CASTニュース2013/1/24 19:10
  12.  ざいだん模様 透明な歳月の光 131 台風 教育のチャンス 利用を 2004年10月22日 産経新聞
  13.  ざいだん模様 透明な歳月の光 132 地震に思う 災害時の知恵 訓練必要 2004年10月29日 産経新聞
  14.  月刊『WiLL』2011年6月号「昇一先生の美女対談 不幸からの贈り物が日本人を鍛える」
  15.  「週刊ポスト」2014年3月21日号
  16.  “보관된 사본”. 2017년 10월 24일에 원본 문서에서 보존된 문서. 2017년 10월 24일에 확인함.
  17.  http://nippon.zaidan.info/kinenkan/moyo/0000541/moyo_item.html 政権?外部の人だから言えること 大阪新聞社 1998年12月08日
  18.  李・前総統が靖国神社参拝 YOMIURI ONLINE 2007年6月7日
  19.  第2回議事録 2000年6月15日 教育改革国民会議第1分科会
  20.  2.大人や行政が主体となって家庭、学校、地域で取り組むべきこと 教育改革国民会議 資料一覧
  21.  아야코, 소노. 《노인이 되지 않는 법 YES24》.

외부 링크

[편집]
  •  위키미디어 공용에 소노 아야코 관련 미디어 분류가 있습니다.
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Ayako Sono

From Wikipedia, the free encyclopedia

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Ayako Sono
Ayako Sono in 1956
Ayako Sono in 1956
Born Chizuko Machida
September 17, 1931 (age 93)
Katsushika, Tokyo, Japan
Education University of the Sacred Heart
Notable works Tamayura (たまゆら)
Enrai no kyaku tachi (遠来の客たち)
Spouse Shumon Miura
​(m. 1953; died 2017)​
Ayako Sono (曽野 綾子, Sono Ayako, born September 17, 1931) is a Japanese writer.

Sono is considered to be a conservative. She was considered to be an advisor to Prime Minister Shinzo Abe. She has drawn controversy for advocating for a system similar to South Africa's apartheid for Japan's immigrants.[1][2][3] She has also advocated for women to quit their jobs after becoming pregnant.[4]

Biography
Part of a series on
Conservatism in Japan

Ideologies
Principles
History
Intellectuals
EtōFukudaHasudaHirataHyakutaKanokogiKobayashiMasakiMayuzumiMinobeMizushimaMishimaMiyakeNishibeŌenOhŌkawaOshikawaSakuraiShigaSonoSugiyamaTadayukiWatsuji
Literature
Politicians
Parties
Organisations
Media
Movements
Related topics
 Conservatism portal
flag Japan portal
vte
Sono was born in 1931.[5] She went to the Catholic Sacred Heart School in Tokyo after elementary school.[5]

During World War II, she evacuated to Kanazawa. After writing for the fanzines La Mancha and Shin-Shicho (新思潮: "New Thought"),[6] she was recommended by Masao Yamakawa, an established critic at the time, to Mita Bungaku, for which she wrote Enrai No Kyaku Tachi (遠来の客たち: "Visitors from Afar"), one of the shortlisted stories for the Akutagawa Prize in 1954.[5] In 1953, she married Shumon Miura, one of the members of Shin-Shicho.[5]

The naming of The Bas Bleu Era (才女時代: Saijo-Jidai) by the writer and critic Yoshimi Usui described the prosperous activities of female writers including Sono and Sawako Ariyoshi—one of her contemporaries who had published many reputable books that are still being read.

In the history of Japanese literature, Sono belongs to the category of "the Third Generation" together with Shūsaku Endō, Shōtarō Yasuoka, Junnosuke Yoshiyuki, Nobuo Kojima, Junzo Shono, Keitaro Kondo, Hiroyuki Agawa, Shumon Miura, Tan Onuma, and Toshio Shimao.

She was awarded the Pro Ecclesia et Pontifice in 1979.[7] She founded an NGO named “Kaigai-senkyosha-katsudo-enjo-koenkai” (JOMAS: Japan Overseas Missionaries Assistance Society) to help Japanese missionaries devoting their lifetime in foreign countries.[8]

In 2000, she welcomed Alberto Fujimori, ex-President of Peru from 1990 to 2000, to stay at her house after his exile.

She has been selected as a Person of Cultural Merits in 2003, following her husband's honor in 1999.

After the death of Ryoichi Sasakawa, one of the biggest rightist leaders, Sono took over his position as the head of the Nippon Foundation, whose funds come from 3 percent of the profits of the boat races all over Japan. As the chairperson, she had focused on welfare and assistance of undeveloped countries, until 30 June 2005, when her term of office finally expired after nine and a half years. The position of the foundation chairman was taken over by Yohei Sasakawa.

She was nominated as director of the Japan Post Holding Co.'s board by Shizuka Kamei, minister in charge of postal reform, in October 2009.

She was appointed to one of 15 members of an education reform panel in January 2013, a position from which she resigned in October of that year.[1][9]

Sono drew criticism for a column she wrote in the Japanese far-right Sankei Shimbun newspaper in February 2015, in which she held South Africa's apartheid as an example of how Japan should handle immigration.[1][2][3] She stated that while she was "supportive" of the "need to bring in immigrants to ease the shortage of workers to care for Japan's ballooning elderly population", she also advocated non-Asian immigrants such as whites and blacks to Japan be separated from the general population and made to live in special zones amongst themselves.[10][11]

Works
Novels
Her major novels include

Tamayura (たまゆら: Transience), which portrays the nihilistic daily life of man and woman
Satōgashi ga Kowareru Toki (砂糖菓子が壊れるとき: When a Sweetmeat Breaks), modeled on Marilyn Monroe and made into a film starring Ayako Wakao[12]
Mumeihi (無名碑: A Nameless Monument), featuring the construction sites of the Tagokura Dam and the Asian Highway
Kizu-tsuita-ashi (傷ついた葦: Bruised Reed), which describes in a most dry style a life of a Catholic father
Kyokō-no-ie (虚構の家: The House of Fiction), a bestseller depicting domestic violence
Tarō-Monogatari (太郎物語: Taro Story), which features her son Taro as the protagonist
Kami-No-Yogoreta-Te (神の汚れた手: The Soiled Hands of the god, translated into English as The Watcher from the Shore (ISBN 0-87011-938-9)), on the theme abortion and dignity of life problems, with a gynecologist as the protagonist
Tenjō-no-ao (天上の青: Heavenly Blue, translated into English as No Reason for Murder (ISBN 4-925080-63-6), a crime novel based on real serial murder and rape cases by a man named Kiyoshi Ōkubo, which tries to describe the extremity of love
Kyō-ō-Herode (狂王ヘロデ: Herod the Mad), which portrays the half life of Herod the Great, who is notorious for the Massacre of the Innocents, through the eye of a mute lute player called "Ana" (hole).
Aika (哀歌: Lamentations), a record of the dramatic experience of a nun Haruna, who encountered the Rwanda Genocide.
Kiseki (奇蹟: Miracles, translated into English as Miracles: A Novel (ISBN 1-93738-588-4)), a work of travel fiction set in Poland and Italy in pursuit of the miracles ascribed to St. Maximilian Kolbe

Sono on her wedding day, October 1953
Short stories
Nagai-kurai-fuyu (長い暗い冬: Long, Dark Winter), which is known as a masterpiece and anthologized often
Rakuyō-no-koe (落葉の声: The Voice of Falling Leaves), which describes the end of Father Maximilian Kolbe
Tadami-gawa (只見川: The River Tadami), which sings of a love torn apart by World War II
Essays
The two million bestseller Dare-no-tame-ni-aisuruka? (誰のために愛するか: For Whom Do You Love?)
Kairō-roku (戒老録: A note of Admonition to the Old) on the way how we behave in old age
II-hito-o-yameruto-raku-ni-naru (「いい人」をやめると楽になる: Stop Being ”Nice”, and You'll Be Liberated), a collection of epigrams
"Ningen no Bunzai." A collection of writings.
References
 Johnston, Eric (February 12, 2015). "Author Sono calls for racial segregation in op-ed piece". The Japan Times. Archived from the original on 16 April 2021. Retrieved 12 February 2015.
 [1] Archived 2015-02-12 at the Wayback Machine(Japanese)
 "Author Sono calls for racial segregation in op-ed piece". The Japan Times. 12 February 2015. Archived from the original on 16 April 2021. Retrieved 21 February 2015.
 "Matahara: turning the clock back on women's rights – The Japan Times". The Japan Times. 23 September 2013. Archived from the original on 7 March 2015. Retrieved 21 February 2015.
 Schierbeck, Sachiko Shibata; Edelstein, Marlene R. (1994). Japanese women novelists in the 20th century: 104 biographies, 1900-1993. Museum Tusculanum Press. p. 132. ISBN 87-7289-268-4.
 Mulhern, Chieko Irie (1994). Japanese women writers: a bio-critical sourcebook. Greenwood Publishing Group. p. 369. ISBN 0-313-25486-9.
 曾野綾子プロフィール. Prime Minister's Official Residence (Japan) (in Japanese). Archived from the original on 4 March 2016. Retrieved 21 August 2015.
 "創立者 曽野綾子からのご挨拶 - jomas公式ホームページ". www.jomas.jp. Archived from the original on 2014-12-17.
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 Yuka Hayashi (13 February 2015). "Author Causes Row With Remarks on Immigration, Segregation". WSJ. Archived from the original on 21 October 2018. Retrieved 21 February 2015.
 Umekawa, Elaine Lies (13 February 2015). "Japan PM ex-adviser praises apartheid in embarrassment for Abe". Reuters. Archived from the original on 3 January 2016. Retrieved 21 February 2015.
 "Satogashi ga kowareru toki (1967) - IMDb". IMDb. 10 June 1967. Archived from the original on 15 August 2015. Retrieved 21 February 2015.
External links
J'Lit | Authors : Ayako Sono | Books from Japan
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요즘 잘 팔리는 소노 아야코, 이런 줄 몰랐다
<약간의 거리를 둔다> 등 가볍게 읽기 좋은 책으로 알려졌지만...

by 은경
Jan 24. 2018

https://brunch.co.kr/@dadane/49





가능한 많이 소개하고 싶었다. 이 좋은 글을. 어디 기대고 싶은 데 기댈 데가 없을 때, "괜찮다"라고 토닥임을 받고 싶을 때 옆에 없는 그 누군가를 찾기보다 이 책 한 권이면 족하다 싶었다. 소노 아야코의 에세이 <약간의 거리를 둔다> 이야기다.

한 후배는 '인생 좀 살아본 태도로(?) 하나마나한 말' 같은 이런 에세이류를 별로 좋아하지 않는다지만, 내 생각은 좀 다르다. 그 하나마나한 말들을 내가 필요할 때, 내 앞에서 해주는 사람이 늘 있는 건 아니잖나. 내가 이런 류의 에세이책을 곁에 두고 틈날 때마다 읽는 이유다.

상암동 북바이북에서 우연히 집어 들게 된 책. 소노 아야코라는 다소 낯선 에세이스트. 그의 짤막짤막한 글에 내 마음 한 켠을 덜컥 내줬다. 책 뒤표지에 적힌 '거리라는 것이 얼마나 위대한 의미를 갖는지 사람들은 잘 모른다. 떨어져 있을 때 우리는 상처받지 않는다. 이것은 엄청난 마법이며 동시에 훌륭한 해결책이다'라는 문구부터 취향저격이었다. 늘 관계에 고민하고 휘둘리는 나에게는 그야말로 맞춤형 책이었던 것.




1부 나답게가 중요해, 2부 고통은 뒤집어볼 일, 3부 타인의 오해, 4부 보통의 행복으로 구성된 이 책은 화려한 미문은 없지만 경험에서 나오는 담백한 어투로 읽은 이의 마음을 어른다. 가령 이런 표현들.



"오기를 부려서라도 나보다 뛰어난 타인의 장점을 깎아내리려는 심리가 있다. 자기만의 토대를 갖추지 못했기 때문이다." - 일에서 맛 본 기쁨, 중에서.
"남과의 비교를 중단하면 자유로워진다. 자연스레 막힘없는 나의 생활을 키워나가는 힘이 생긴다. 나만의 특기가 발견되는 것이다." - 자유로워진다, 중에서.
"흘러가는 대로 내버려 두는 것, 그것이 내 삶의 미의식이다. 왜냐하면 인간은 죽기 전까지 막연히 흘러가는 게 전부이기 때문이다." - 애쓰지 않는다, 중에서.

그런데 말이다. 그의 또다른 에세이 <타인은 나를 모른다>를 사들고 지하철을 타던 날, 이런 트윗을 보게 될 줄은 몰랐다. '소노 아야코 에세이가 그렇게 잘 팔리는 줄은 몰랐는데 놀랍군... 평소에 무슨 말을 하고 다니는 사람인지 우리나라에 잘 안 알려져서 그런가' 이런 내용이었다.




가볍게 들고 보기 좋은 에세이 작가, 일본에서는...

뭐지? 평소 그가 무슨 말을 하고 다니기에, 놀랍다는 건지 궁금했다. 그래서 일본 언론보도를 중심으로 그가 한 말들을 알아보기로 했다. 결과는 놀라웠다. 아래는 <오마이뉴스>에 국제뉴스를 쓰는 윤현 시민기자가 정리해준 내용이다(최근 순으로 정리했다).



1. <산케이신문> 기고문 (2015년 2월 11일)일본은 고령화로 인한 노동력 부족에 대비해 외국인 노동자를 데려올 필요가 있다. 하지만 그 외국인들은 일본인과 분리되어 살아야 한다고 주장함.

"나는 남아공의 경우를 볼 때 백인, 아시아인, 흑인이 따로 살아야 한다고 생각했다. 흑인은 기본적으로 대가족의 개념을 갖고 있다. 그들은 아파트에 입주하면 모든 가족 구성원을 데려와 한 가구에 20~30명이 살기도 한다. 그러나 백인이나 아시아인은 소가족의 개념을 갖고 있다. 만약 그렇게 되면 백인이나 아시아인이 아파트를 떠나야 하는 상황이 온다."

당시 기고문 보도 후 국내는 물론 해외에서도 비판이 쏟아짐. 특히 주일 남아공 대사가 <산케이신문>에 항의 서한을 보내 "소노 아야코의 칼럼은 아파르트헤이트(인종 분리정책)'를 옹호하는 것과 다름없다. 수치스럽고 터무니없는 제안이며, 아파르트헤이트는 인류에 대한 범죄로써 절대 정당화될 수 없다"라고 주장함.

이에 대해 <산케이신문>은 "소노 아야코의 칼럼은 개인적 경험에 바탕한 의견을 담은 것이며 신문사의 입장을 반영한 것이 아니다. 우리는 아파르트헤이트를 비롯한 모든 차별을 반대한다"라고 해명함.

소노 아야코는 "생활 관습이 서로 다른 사람들이 함께 사는 것은 어렵다는 개인의 경험을 쓴 것"이라고 밝힘.

2. <주간 현대> 인터뷰 (2013년 8월)
여성이 출산 후에도 직장을 다니는 것은 잘못된 것이며, 자녀를 보육시설에 맡기지 말고 가정에서 직접 양육하는 것이 옳다고 주장함. 당시 소노 아야코는 아베 정권의 교육 개혁위원회를 역임하고 있었으며, 당시 일본 정부가 2020년까지 여성의 내각 비율을 30%까지 늘리겠다고 공약한 직후 나오면서 큰 논란이 일었음.

3. <산케이신문> 인터뷰 (2004년)
당시 태풍으로 인한 피난민들이 정부의 처우에 불만을 나타내자 "피난 왔으면 바닥에 신문지 깔고 자는 것이 당연. 식사도 제공할 필요 없다. 피난하면서 침구도 챙기지 않고 구호물자에 의존하는 것은 격식이 떨어진다"고 주장함.

4. 알베르토 후지모리 환영 논란 (2000년)
일본 출신의 페루 대통령 알베르토 후지모리가 각종 부정부패와 헌법유린, 선거조작 등으로 탄핵당한 후 일본으로 도피하자 소노 아야코가 숙식을 제공해 비판을 받음. 당시 소노 아야코는 "나는 기독교인으로서 사정이 어려운 사람을 돕는 것은 당연하다"고 주장함. 알베르토 후지모리는 다시 페루로 돌아갔다가 체포되어 2010년에 징역 25년형 선고받음.




이쯤되면 소노 아야코가 누군지 원점에서부터 궁금해진다. <약간의 거리를 둔다> 책에는 이렇게 나온다.

"소노 아야코는 소설가. <멀리서 온 손님>이 아쿠타가와상 후보에 오르면서 문단에 데뷔했다. 폭력적인 아버지 때문에 바람 잘 날 없던 어린시절을 보냈다... 게다가 선천적인 고도근시를 앓았기에 작품을 통해 표현된 어린시절은 늘 어둡고 폐쇄적이다. 아이러니하게도 이러한 부조리는 소설가로서 성장하는 데에 밑거름이 되어주었다. 소설가에 대한 편견이 심하던 시대였으나 반골 기질인 소노 아야코는 망설임 없이 소설가의 길을 선택하였다. 한편 평생 독신을 꿈꾸었지만 같은 문학 동인지 멤버였던 미우라 슈몬을 만나 22세의 나이에 결혼하여 지금까지 평온한 가정을 꾸리고 있다. 그러나 소노 아야코는 50대에 이르러 작가로서 또 인간으로서 위기를 맞는다. 좋지 않은 눈 상태에 중심성망막염이 더해져 거의 앞을 볼 수 없는 절망을 경험한 것이다. 가능성이 희박한 수술이 성공적으로 끝나면서 태어나 처음으로 안경 없이도 또렷하게 세상을 볼 수 있는 행운을 맛본다..."

윤현 기자가 알려준 저자 정보는 위와 조금 다른 내용이었다. '1931년 9월 17일 태어난 소노 아야코는 성심여자대학(미션스쿨)을 나와 2013년 아베 정권의 교육 패널을 역임했고, 자민당의 오랜 자문 활동을 했다. 자민당에 오랫동안 조언을 해온 일본의 대표적인 우익보수 작가. 남편과 함께 정기적으로 야스쿠니 신사를 참배하고 있다'는 거다. 작가로서 전념하고 싶다는 이유로 자민당 자문역을 자진하차했단다.

"정치 성향에서 대해서는 비판할 부분들은 있지만..."

야스쿠니 신사 참배라니. 일본 총리와 일본 관리들의 (제2차 세계 대전 당시 책임이 가장 큰 A급 전범 14명을 모신) 야스쿠니 신사 참배가 논란이 되는 이유는 하나다. 그 자체가 일본이 전쟁에 대한 책임을 부정하는 것이기 때문이다. 또 신사 참배를 함으로써 일본이 전쟁의 피해자라는 것을 내세우고 있어 국제적으로도 논란이 되는 사안이다. 책을 낸 도서출판 리수에 확인하고 싶었다. 김현정 대표와 26일 전화통화와 이메일로 이야기를 나눴다.

- 소노 아야코가 일본에서 한 발언에 대한 이야기가 있더라. 궁금해 그 내용을 찾아봤다. 다소 놀라운 내용이었다. 리수에서는 소노 아야코 책을 언제부터, 어떤 계기로, 어떤 책들을 내게 됐는지 궁금하다.

"소노 아야코를 처음 접한 것은 2001년부터입니다. 그 후로 이 작가의 에세이 작업을 해오고 있는데, 주로 '나이듦의 지혜'를 다루는 내용의 책들이었습니다. 우리나라에는 실버 출판이라는 분야가 생소했던 시절이라 그러한 내용들이 신선하게 다가왔습니다."

- 소노 아야코의 보수적인 발언 그리고 신사 참배 사실 등에 대해 알고 있었지만, 한국에서 출판을 해도 크게 문제가 될 건 없다고 생각한 건가. 일본 내에서 그런 말은 할 수 있겠지만, 그런 인물의 책을 한국 독자에게 소개한다는 것은 또 다른 문제일 텐데.

"보수적인 발언을 처음 접한 것은 소노 아야코 선생님 책을 낸 뒤 10여 년 후였습니다. 이분이 맞나 싶었는데... 일본의 보수 성향을 지닌 작가임을 알게 되었습니다. 신사 참배 사실은 몰랐는데, 인터뷰 문항을 받은 후 내용을 확인해보니 가톨릭신자로서 (전범과 일반 전몰자를 분리하는) 야스쿠니 신사의 대체추도시설에 대해 찬성하는 입장임을 확인하였습니다. 전범을 뺀 야스쿠니신사의 대체추도시설은 노무현 대통령이 일본에 제안한 내용이었으나, 일본의 고이즈미 준이치로 수상이 무시한 사항입니다(대체추도시설 찬성 입장과 별개로 소노 아야코는 남편과 함께 야스쿠니 신사참배를 해왔다 - 기자말)."




- 이런 논란에도 불구하고 소코 아야코 글의 매력 같은 게 있다면(독자들이 생각해줬으면 하는 부분에 대해).

"보수적인 성향은 맞지만, 우리가 펴내는 에세이에서는 부각되어 있지는 않습니다. 이 저자의 에세이는 삶에 대한 통찰에서 비롯된 것이고, 일상적인 예와 함께 촌철살인 예리한 언어로 표현된다는 점이 특이한 점이라 생각합니다."

정치적인 성향보다는 그분의 종교적인 부분, 삶을 대하는 태도 등을 장점으로 봤다는 건가.

"네. 정치 성향에서 대해 비판할 부분들은 있는 것 같습니다. 우리나라 측면에서 볼 때는. 그렇다고 너무 보수우익으로 치부하는 식의 여론몰이는 염려되는 측면이 있습니다."

소노 아야코는 '결점을 보여주면 편안해진다' 대목에서 이렇게 썼다.

"결점을 보여주면 보여줄수록 이상하게도 친구들이 늘어난다. 사람들은 나의 장점에만 호감을 드러내는 것이 아니다. 결점에도 큰 관심을 보인다.(중략) 인간관계에서 비롯되는 가장 큰 체력소모는 결점을 감추는 데 소비된다. 타인에게 나의 결점을 감추느라 거짓말을 하게 되고 나중에 이것이 탄로나 서로 곤혹스러워진다. 차라리 과감하게 드러냄으로써 불필요한 에너지 낭비를 사전에 절약할 수 있다면 각자의 장점을 통해 더 큰 매력을 드러낼 수 있는 기운이 생기는 것이다."

글과는 또다른 작가의 새로운 면이 알려져 더 많은 한국 팬들이 생길지는 잘 모르겠다. 그러나 적어도 나는 아니다.

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