女工の歴史
では、具体的に『女工哀史』の記述を見ていくことにする。
細井和喜蔵は労働者の募集方法を基準にして、大きく時代を三期に分けている。
第一期は「無募集時代」。明治初期のことだ。工場労働の実態がわからなかったこともあって、工場に行くことに対する抵抗は薄く、農村においては新たな働き口として歓迎された。工場の数が少なかったため、募集をしなくても人が集まった長閑な時代である。
第二期は「自由競争時代」。工場が大規模になり、数も増え、労働の実態が知られるようになったため、労働力の確保が熾烈とになる。その結果、「年期制度」が導入されて、前借(ぜんしゃく)で女工を拘束し、情報が漏れないように、親族との連絡も断絶させられ、親を騙して契約書にサインさせたり、誘拐と言えるような方法まで駆使されるようになる(本当にこんなことが行われたのかどうか疑わないではないのだが、悪質な募集方法については別の資料にも出ていて、本シリーズでものちに紹介する)。
『女工哀史』で取りあげられているのは、もっぱらこの第二期以降の話だ。
第三期は「募集地保全時代」。無秩序な募集によって働き手を提供してきた農村が荒れ、場当たり的な手段では安定した労働力が確保できなくなったため、募集方法を制度化していく。詐欺や誘拐めいた手法が使えなくなったという意味では、いくらかは改善されたとも言える。
年期制度とは
ここで注目していただきたいのは第二期にある「年期(年季)制度」である。女工の場合、前借はあったりなかったりするわけだが、よくドラマや小説に出てくる丁稚も年期制度のひとつで、「奉公制度」とも呼ばれる。
丁稚の間は休みもなく、自分の時間はないに等しい。給料もなく、こづかいしかもらえない。布団さえ与えられず、土間に寝たり、物置に寝たり、納屋に寝たり。時には殴る蹴るの暴力もあった。
この場合は、将来、暖簾分けなどをして独立することや店を継ぐことが見返りとして与えられる。芸人や職人の徒弟制度もこれに近いが、こちらは修練のための期間で、見返りは技術の会得である。
娼妓や芸妓の年期制度は、将来の保証はなく、前借という借金で一定期間労働を提供させるものであり、近代的な産業においても、第二期以降は、人材確保のために、この制度が導入されていったわけだ。
しばしば遊廓はこの年期制度によって非難される。借金によって、契約期間、身体を拘束されて労働を強いられるのだから、今の時代から見れば人権侵害であることは明らかであり、このことから公娼は、「奴隷制度」として語られることがある。しかし、それで言うなら、女工もまったく同じであった。違いは女工の前借の方がはるかに安かったってことくらい。
奴隷は一生その身分から逃れることができない。対して、明治以降の娼妓は借金を返済すればいつでも遊廓から出られる。借金を返済しなくても、通常は六年で満期となって、借金が残っていても棒引きである。
前借金の多寡で年数は違ったことは「『吉原炎上』間違い探し」に書いた通り。一般に娼妓よりも女工の年期が三年程度と短かったのは前借が安かったためであり、前借の少なさのわりには女工の年期が長いのは、稼ぎ高が少ないためである。そういった違いはあるにせよ、両者は制度としては同じだ。
これを奴隷制度とするのは、本当の奴隷の意味を見失わせるし、年期制度は日本の多くの産業で見られたことでしかないのだから、かつての日本は奴隷制度が公然と行われていた国ということになり、ことさら遊廓だけが非難されるのはおかしい。非難するなら、それらの産業すべてを非難しなければならず、国の制度そのものを非難しなければならない。
遊廓は官許であったことを論点とする批判は理解できるのだが、年期制度を切り取って、遊廓だけを非難する人たちは、勉強不足か、売春がらみであればどんな詐術を使ってもいいと思っているか、どちらかだろう。
子どもが売買されていた時代
奴隷あるいは人身売買と、年期制度を峻別しておく必要があるのは、昭和に入ってさえも、この国ではさまざまな産業で人身売買がなされていて、無期限の奴隷制度が行われている業種もあったことを見失わせるためだ。
この辺のことは戦前の出版物を丁寧に読んでいくといくらでも拾うことができる。たとえば浅草ものの本を読んでいると、「バイコ」「バイコ屋」という商売が出てくる。これは子ども売りのことで、親から騙し取ったり、手に余って困っている親からもらったりした子を転売する。「バイコ」は「売子」ということだろう。
誰が買うのかというと、たとえば子どもを貸し出す商売の人たちであった。これを「タマゴ屋」と呼び、「タマゴあります」という看板まで出ていたという。これを乞食が借りる。
インドや東南アジアでは、こういう話を今も聞く。中国でも通訳に聞いた。「あれは借りてきた子なので同情しなくていいですよ」と。私はてっきり都市伝説の類だと思っていたのだが、昭和初期まで日本にもあったらしいのだ。
もっとも賃貸料が高いのは目が見えない子。同情されるので、稼ぎがいいのである。続いてよく泣く子、よくお辞儀をする子。
こういう子どもらが大きくなると、次はサーカスや門付、大道芸人に売られる。家々を回って芸を見せる子どもたち、路上で芸を見せる子どもたちは買い取られた子だったらしい。こういう商売では子どもの方が稼ぎがいいのだろう。
私が子どもの頃、つまり昭和三十年代から四十年代にかけてでも、子どもを叱る際に、「サーカスに売られるぞ」というフレーズをしばしば聞いたもので、「子どもを売り買いする」ということが行われていたことの名残である。
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