2016-03-17

ニッポンリポート・従軍慰安婦の体験談メモ・2

従軍慰安婦の体験談等メモ・2


〔その51〕大沼保昭ら編『慰安婦問題という問い』けいそう書房、2007年発行。2004年から翌年にかけて、「『慰安婦』問題を通して人間と歴史を考える」東大ゼミで行われた講演と質疑応答の記録。その講師の一人に、石原信雄元官房副長官がいる。河野談話の取りまとめに副長官として深くかかわる。その裏話の一節。
(その51・1)
「(強制性について)彼女たちの証言内容から、決してためにする発言ではない、自分の体験として、強制によってその意に反して『慰安婦』にされたことが疑いようのない人が何人か出てきたわけです」「それを裏付ける通達とか指令とかいうような文書はどうしても出てきませんでした。そういうたぐいのものを文書に残すこともなかったでしょうから、消えちゃったんじゃなくて、もともと口頭指示でなされたんじゃないかとわれわれは推察している」(192~193ページ)「当時の軍の関係者のヒアリングもしたのですが、その人たちもそんなことを文書で書くはずはないじゃないか、と(いうことでした)。将来問題になる可能性があるわけですから、もっともな話なんですけどね」(203ページ)
「(ゼミ生の質問)強制性の立証については公の文書を調べ、そして最終的には本人の聞き取り調査を行うことになったということですが、おもに業者を通じた『慰安婦』たちの徴集が行われていたわけですね」「業者からの聞き取りという選択肢はなかったのでしょうか」「(石原の答え)もちろん、業者がかかわったことは間違いない。ただ最終的な強制性認定のときに、業者の証言が役に立つかどうか、どこまで信頼できるかということをわれわれは危惧しておったんです。というのは、業者というのは社会的な信頼の高い人じゃないんですよ。この人たちが人間の尊厳にかかわるような問題のヒアリングの対象としてふさわしいかという問題があったわけです。業者の中にも聖人君子はいるかもしれないけれども、多くは社会的に信頼できないたぐいの人がああいう仕事をしておった。これはまぎれもない事実です。それに現実問題として、業者で証言してもよいと言っている人がいるという情報もなかった」(207~208ページ)

〔その52〕大林清著『玉の井挽歌』青蛙房、1983年発行。東京の私娼の街・玉の井を著者の懐旧、聞き書きなどをもとに歩いてみる。
(その52・1)
「(玉の井の銘酒屋の)女たちは泥水家業が骨の髄まで沁み、ほかの世界で生きる気のなくなっているごく一部を除いて、年季明けのために苦役に甘んじているのが大多数なのである。しかしそれもはかない幻想で、病気のために使いものにならなくなると、スクラップのように周旋屋に払い下げられ、上海や香港、はては南洋へまで売り飛ばされて行く。それはもう生きながら墓場へ葬られると同じだった」「公娼に比べて救いは一つある。そのころ公娼は張り店でなくって、妓楼の玄関に掲げられた娼妓の写真を見て、客は投楼したものだが、私娼は(客と)顔をつき合わせて談合しての選択だった。選択の権利が女にもあるのが公娼とちがっていた」(25~26ページ)
「昭和12年11月、第二次上海事変で上海が陥落して間もない或る日、玉の井銘酒屋組合長国井茂宛に1通の電報が舞い込んだ。『キタル20ヒゴゼン10ジリクグンシヨウマデシユツトウセラレタシ』。実際には陸軍省何局とか何部何課とか指定があったにちがいないが、筆者(大林)にその話をした時の国井さんは80歳を越える老齢だったので、そこまで細部を記憶していなかった」「戦時下で接客業は一般に不景気になって来ているのに、玉の井銘酒屋街はいつ赤紙が来るか分からない連中や、産業戦士と呼ばれる工場労働者で、むしろ空前の賑わいを呈していた」「何しろ弱い商売である。もともと法網をくぐる密淫売で、月に1回業者の誰かが、29日間の拘留を食う慣行で、警察との馴れ合いとはいうものの、辛うじて営業を続けているくらいだから、お上の一言でたちまち明日からでも営業停止を食う心配がある」「昭和6年満洲事変がはじまってこの方、業者も相当神経を使って来ていた。出征兵士があれば、酌婦を督励して愛国婦人会の襷をかけさせて歓送させ、慰問袋を作っては陸軍ジュツ兵部へ寄贈させもし、国策遂行へ協力してきた」「時局柄怪しからぬと睨まれたら、500軒の玉の井特飲街の銘酒屋は壊滅し、1000人を越える酌婦に投下した資本は回収がつかなくなる。文字通り死活の問題だった」
「指定された11月20日」「(国井は)市ヶ谷台の陸軍省へ出かけていった」「意外な鄭重さで1室へ通された。しかも赤い絨毯を敷きつめた立派な応接室風の部屋」「『よう、あんたもか』。肘掛け椅子から首をめぐらして声をあげたのは、亀戸銘酒屋組合の組合長森脇幸三郎だった。ほかにもどうやら同業者らしい連中が4,5人、いずれも落ち着かない様子で椅子にかけていた」「靴音が廊下から入って来た」「先に立ったのは参謀肩章を吊った金筋4本に星一つ、少佐である。そのあとに副官らしい少尉と下士官が従っていた」「『本日はお忙しいところを皆さんご苦労でした。お集まり願った趣旨をこれから簡単に説明しますが、その前に出席者を一応確認させてもらいます』。少佐がそういうと、下士官が手にした卦紙を開いて、一人一人の氏名を読み上げはじめた。それも呼び捨てではなくて、『さん』付けだった」「それが終わってから、少佐はテーブルへ体を乗り出した。『大陸における現下の戦局がどういうものかは、新聞やラジオの報道で皆さんよくご存じと思うが、いくさはこれからいよいよ拡大の一途をたどるものと思います。敵も徹底抗戦を呼号しておるから、最後の勝利をおさめるまでは、こちらも相当な覚悟を持って臨まなければならんでしょう。ところで……』『戦線の将兵ですが、いくさが長引けばいろいろと不自由なことが出て来る。特に若い血気の兵隊にとっては、性欲のハケ口をどうするかということが大きな問題です。これは適当に処置しないと士気にも影響して来る。こういうことは専門家の皆さんの方がよく知っておられるが……』『そこで皆さんにお願いだが、軍の慰安のために接待婦を至急集めて戦地へ渡ってもらいたい。つまり軍に代わって慰安施設を開いてもらいたいということです。何ぶん戦線は広汎にわたるので、内地はもとより台湾・朝鮮からも自主的に或いは軍の要請で、すでに多くの娘子軍が大陸へ渡っているが、本日お集まり願った玉の井・亀戸地区の皆さんにも、是非ご協力を願いたい。派遣地域はとりあえず上海を起点とする中支方面、住居は軍が準備するし、食事の給与その他移動に関しては、すべて軍要員に準じてこれを行います。細かい点については当方の担当者と相談の上でやっていただくが、要するに業者の皆さんが自主的にこれを経営するという形を取りたいのです。まさか軍が女郎屋を経営する訳にはいかんのでね。はっはっは』。少佐は参謀肩章を揺すって笑った。誰が計画を立案し、研究したか知らないが、軍では慰安所開設について、たとえば娼婦の料金をいくらにし、それを雇主とどう分配するかまで、業者顔負けの案が出来ていた。少佐は軍が女郎屋を経営する訳にはいかないといったが、それが軍の1機関であったのは、慰安所要員に正規の兵隊が派遣されて来ていたのでも分かる」(194~198ページ)
「国井が陸軍省へ協力を申し入れると、50人の女をつれて行くようにと割り当てられた」「玉の井の娼婦の供給源は、主として東北地方だが、周旋屋はそれぞれのルートへ手を回して、その方面からボツボツ女が集まって来た。女でありさえすればタマの善悪は問わないと国井はいったが、クサモチ屋などで商売していたのが多いのは当然で、それも札付きのスレッカラシが大部分だった」「昭和13年が明けた」(201ページ)「矢の督促を受けていた国井が、(5人ぐらいの玉の井の酌婦を含め)53人の女をようやく揃えられたのはその頃(13年1月)だった」「国井は陸軍省へ再三出向いての打ち合わせで、こまごまとした指示を受けていた。曰く、現地上海では53人を3班に編成し、市街周辺地区三か所で営業すること。現地到着までの途中はなるべくケバケバしい服装を避けて、いかがわしい女と見られないよう言動を慎むこと等々」「軍が直轄同様にして娼婦部隊を戦場に送った例は、世界戦史上例を見ないのではあるまいか」(209~210ページ)
(その52・2)昭和13年ごろ、上海。
「(上海に着くと)上海派遣軍司令部から差し回された3台のトラックに分乗して、上海地区周辺のウースン、南翔、南市へそれぞれむかって、埠頭を出発した」「(南市の場合では)洋館の内部は工兵隊の手ですっかり改装され、廊下の片側に真新しい青畳の小部屋が15並んでいた。夜具や荷物を納める押入れまで作りつけられている」「畳も建具も慰安所開設のために、あらかじめ内地から輸送船で運んだものだった」「(朝9時から営業開始して)12時から1時までが食事休店、それからまた5時まで営業、そのあと2時間が入浴と夕食、夜の9時までが将校用」「2日3日と日を重ねるにつれ、女たちはだんだん要領をおぼえ、20人、30人の客を取っても、最小限の疲労で食いとめられるようになって行った」「1人の女が1日平均15人の客を取るとすると」「(国井には)1か月どう安く見積もっても1万4~5000円の利益」「女たちはどうかというと、1か月から3か月ぐらいで借金が抜け、あとは稼ぎ放題という計算。いきおい稼ぐのにも気合いが入った」(218~221ページ)「三度三度の食事は軍のお仕着せ、客をさばくのは係りの兵隊がやってくれる。国井は四畳半ほどの自分の部屋に、朝から晩まですわっていても事足りる。それで金庫代用のボール箱が、見る見る軍票の山になるという結構な身分だった」(230ページ)「(半年もすると)現地除隊の兵隊と世帯を持つ者や、もっと荒稼ぎが出来るという前線の慰安所へ転出する者が現われ(てきた)」「(玉の井の酌婦出身の2人の女は)昭和15年の春まで南市の慰安所で稼ぎ続け、国井が店をたたむのと一緒に内地へ引き揚げた」(236~239ページ)
(その52・3)シンガポール。
「これは筆者(大林)の従軍体験からの余談になるが、少なくとも太平洋戦争がはじまってからは、内地の業者で戦地へ渡った者は九州地区が最も多く、台湾がそれに次ぎ、朝鮮からは強制的に非娼婦の婦女子を拉致して投入したケースのあるようである」「筆者が陸軍報道班員として太平洋戦争初期の数ヶ月を駐在したシンガポールには、南方総軍報道部のある高層ビルの裏側住宅地一帯をヨシワラと称して、兵用・下士官用・下級将校用の慰安所が軒を並べ、その高地を下ると、前庭のある高級住宅を接収した佐官以上用の料亭が、夜毎その前庭に佐官の黄色い旗を立てた乗用車を駐車させていた。更にその先のスコット・ロードという住宅街は、海軍士官用料亭街と化していて、それらの料亭の中には柳橋の待合業者の経営する店もあった」(199ページ)

〔その53〕福田利子著『吉原はこんな所でございましたー廓の女たちの昭和』ちくま文庫、2010年発行(単行本、主婦と生活社、1986年発行)。吉原の引手茶屋「松葉屋」経営者・福田の思い出話。
(その53・1)
「昔から軍隊と遊郭とは、切っても切れない縁があったといわれていますが、昭和13年ごろから吉原には、休日になるのを待ちかねたように登楼する兵隊さんの姿がみられるようになりました」(133ページ)「吉原遊郭に兵隊さんの出入りが多くなったころ、組合事務所の一室が憲兵隊の詰所になりました。吉原遊郭の中で暴れる兵隊さんがいると、軍の名誉にかかわるので、その監視をすることが目的なのと、もう一つは、兵隊さんの逃亡を警戒してのことだったようです」「憲兵隊詰所に詰めている憲兵隊員とは別に、塚本誠さんという憲兵の将校さんが松葉屋をよく利用してくださいました」「昭和16年に、歌舞音曲禁止というお達しがでたとき、吉原だけは塚本さんのお力でつづけてもいいことになったんです。吉原は江戸の文化を伝承する特殊なところで、その吉原が沈滞していたのでは日本は戦争に負けてしまう、そういって当局に働きかけてくださったのでした。吉原では大感激」「昭和17年1月付で、塚本さんに感謝状をさしあげたのでした」(137~138ページ)
「昭和16年ころだったでしょうか、吉原の花魁のうちの何人かが、従軍慰安婦として前線におもむきました。いろんな方におききしても、正確な人数はわからなかったのですが、16年ごろ、吉原から従軍慰安婦を出すようにという軍命令が、貸座敷組合に来たのだそうでございます。貸座敷組合からそれぞれの見世に通知がいき、前線行きを希望する花魁が集められ、内地勤務と外地行きに分かれ、任地と称する場所に出かけて行きました」「花魁の中には、従軍慰安婦になると、年季がご破算になるので、それで応募した人もいれば、兵隊さんと行動をともにしたくて、前線行きを希望した人もいました」「新島にも日本の軍隊が駐屯していて、そこにも慰安所がありました。アメリカ軍が日本本土に攻めてきたとき、これを新島で迎え撃とうというわけですね。吉原の花魁の何人かが新島にまわされましたので、貸座敷のご主人たちが船の出るところまで送って行き、戦争に負けて戻るときには、三業組合の事務長をしていた山田勝雄さんが新島まで迎えに行ったということでした」(139~141ページ)

〔その54〕大江志乃夫著『日本植民地探訪』新潮選書、1998年発行。著者は日本近現代史の研究者。戦後50年、日本の旧植民地の傷跡を探る旅の報告集。
(その54・1)
「(1995年、「ピースボート南太平洋の船旅に参加し)6月6日午後、ミュージック・サロンでシンポジウム『慰安婦問題から見た戦後補償』があったので参加した。討論の最後に私もかねてからの持論を述べた。発言内容を当日の日記から引用しておこう。『従軍慰安婦という言葉は使ってほしくない。なぜなら、彼女たちは戦時国際法であるハーグ陸戦法規に規定する従軍者でなく、したがってジュネーヴ条約で交戦者に準じる待遇を定めた条文の適用を認められないからだ。彼女たちは輸送船に乗せるにも軍需品として物品扱いされたし、人格なき奴隷としてしか待遇されなかった。人格なき犬や鳩にたいして従軍ではなく軍用という名称があたえられていたが[軍馬も正式には軍用馬匹である]、まさしくその意味からすれば彼女たちの扱いは軍用性奴隷にほかならなかった。第二に、現在問題になっている強制連行慰安婦問題を、男女の性差別一般の問題や売春問題とおなじ次元の問題として議論するのは避けていただきたい。この問題はたんなる社会問題でも差別問題でもなく、国家の軍事制度の問題である。このことを認識していただきたい」(124~125ページ)
「古代以来、世界中の軍隊の遠征に売春婦の随行が付きものであった。しかし、なぜ、今次の大戦で、広汎な地域の戦場にほとんどくまなく、強制連行慰安婦による[特殊慰安所]なる前代未聞の軍事施設が、日本軍にだけ開設されたのであろうか。日本でも日露戦争の公的記録・軍医の報告・将兵の日記や手紙に、戦地に進出し、軍が直接にその営業と性病予防衛生を管理した売春業の話がしばしば出てくる。しかし、それは、戦地に進出してきた売春業を軍紀風紀と軍衛生の維持・占領地軍政の立場から管理したのであり、売春業の軍事施設化ではなかった。兵士たちの手紙や日記を見ると、戦地売春の値段が高すぎて一般兵士の多くが自分たちと無縁の存在と見ていたようである」「すべての国が強制徴兵制を採用して大兵力を戦線に送り、対峙して互に譲らない長期戦となったのが第一次大戦であった。戦線は膠着し、兵士たちは塹壕生活に倦み、無意味な死傷を忌避し、厭戦気分がひろがった。各国の前線部隊に反乱が起こったが、わけても1916年のフランス軍に起こった反乱は危うくフランス軍の全戦線の崩壊を招きかねなかった。驚くほど多数の兵士が軍法会議にかけられ、これら兵士にたいする大量処刑が行われたが、事態は解決しなかった。兵士たちの不満を解消することが先決とされた。こうして第一線勤務の兵士たちに対する交代勤務による休暇制度か取り入れられた。この制度は、第二次大戦におけるアメリカ軍や朝鮮戦争・ヴェトナム戦争におけるアメリカ軍にも引き継がれた」「しかし、この制度を導入しなかったのが日本の軍隊であった」「第一線勤務が長期にわたり、休暇制度もない日本の兵士たちは」「精神的緊張からの束の間の解放の休暇さえ与えられなかった。兵士たちの気持は荒み、衝動的で陵辱的な強姦事件が多発した」「多発する強姦事件に頭を痛めた陸軍首脳が考えついたのが、兵士たちに交代で休暇を与えて前線の兵力を減少させ戦力を低下させることを避けるため、軍が組織的に売春婦を戦場に送り込んで前線兵士たちの欲求不満を解消するという、戦力的なロスも小さく、より安上がりな方策だった。こうして、世界に独特の軍事施設としての[特殊慰安所]が軍によって計画され、開設された。軍事施設ともなれば権力による強制が可能となる。内地の青年男子に強制徴兵制による兵役の義務がある以上、植民地の若年女子に慰安婦勤務の義務が課せられても当然という、権力の論理がその背後にちらついている。なぜ、植民地の若年女子なのか。将来、内地出身の兵士たちの妻となり、未来の兵士の母となるべき内地の若年女子多数を慰安婦とすることは、直接に兵士たちの士気を落とす結果となる。さればといって、職業的売春婦だけをもって慰安所を開設することは、人数も不足し、軍隊の戦力に影響するところが大きい性病問題をひろく軍隊内に持ち込む危険を伴う。だから、植民地の若年女子の慰安婦が必要だったのだ」(125~127ページ)
(その54・2)トラック島。
「作家の窪田精に『トラック島日誌』という作品がある。小説家である著者はこれを『小説』として書いたが、おなじ体験を作品化したのちの『流人島にて』にくらべると、はるかにフィクションの部分が少なく、著者自身が戦争中の政治犯の受刑者の1人として経験した事実を書きつづった作品である。このなかにおなじ船でトラック島に送られる朝鮮人慰安婦の投身自殺の話が出てくる。トラック島の慰安所南風寮の将校専用の日本人慰安婦とともに逃亡した受刑者の話もあり、受刑者は捕らえられたが、日本人慰安婦は自殺した。日本人慰安婦たちだって、好き好んで慰安婦になったわけではなかった」「受刑者たちが南方に送られて基地設営や飛行場建設などの強制労働に従事させられた事実はあまり知られていないが、トラック島は、これらの囚人部隊と強制連行された軍用慰安婦たちとが、おなじ島で日本海軍最大の前方基地の将兵たちに奉仕するための役務を強制された、ただ一つの島であった」(127~129ページ)

〔その55〕林えいだい著『妻たちの強制連行』風媒社、1994年発行。日本による植民地支配・15年戦争下の朝鮮民族受難史を朝鮮人女性の証言でつづるルポ。第9章は従軍慰安婦。
(その55・1)
「(韓国・晋州で女性・Sさんの話)Sさんの兄が台湾の高雄で軍隊の慰安所を経営して、朝鮮人の娘約20人置いていた。そこは軍が直接管理するものではなく、料理屋風にして、酒も飲ませる民間の慰安所だった。Sさんが台湾に渡ったのは、ちょうど太平洋戦争が始まった年だった。そこは将校専用の慰安所で、梅毒の検査には高雄の陸軍病院に行った。慰安婦がいなくなると、夫が朝鮮に帰って、親に金を渡して娘を連れてきた」「敗戦の1年前、アメリカ軍の潜水艦攻撃で、高雄に寄港する船団が少なくなった。お客がガタ落ちして困っていたところ、中国大陸の前線基地に慰問に行けと、台湾軍司令部から命令された。Sさんは、慰安婦たち20人を連れて膨湖島に行き、そこから船で中国大陸に渡った。慰問団は、約200人にふくれ上がっていた。行き先を教えられないまま、トラックに乗せられて、1週間目に前線に着いた。野戦病院に行くと、慰安婦たちは入院中の負傷兵に花束を贈った。それで帰れると思っていたところ、前線へ慰問に行けという命令が出た。さらにトラックで2日行くと、ある田舎で降ろされた。バラック建ての長屋があって、その個室に慰安婦たちは入れられた。日本人と朝鮮人が半数、Sさんは受付で、やってくる兵隊の伝票を受け取った。大砲の音が1日中響いて、近くに砲弾が落ちることもあった。それでも兵隊たちは、部屋の前に並んで順番を待った。慰安婦たちは、慰問団のつもりできているので、まさか危険な戦場で兵隊の相手をさせられるとは思いもしなかった。不平が出て台湾に帰してくれと抗議して、1か月後に帰ることになった」「8月15日、解放になると、高雄港から駆逐艦に乗せられて、釜山港へ帰り着いた。Sさんは、トランクいっぱい紙幣を持って帰ったが、釜山の桟橋で一人最高千円だといわれると、残りを全部慰安婦たちに渡してしまった」(235~236ページ)

〔その56〕桑島節郎著『華北戦記』朝日文庫、1997年発行(単行本、図書出版社、1978年発行)。著者は、1921年茨城県生まれ。1942年2月より満4年間にわたり一兵士として中国。華北戦線に従事した。そのときの体験。
(その56・1)中国・華北。
「招遠駐屯当時は、第一中隊の兵站基地ともいうべき港町龍口との交流が深く、トラックによる龍口連絡の任務がよくあった。兵隊たちは警乗兵として龍口に行ったさいに、ピー屋(中国の売春宿)に足を向けた。龍口についてから帰りの出発までは、たいてい2,3時間の余裕があるので武装したままピー屋へ行く。私も2年兵になってから、一度戦友に誘われてのぞきにいったことがある。ピー屋は全部で10軒ほどあった。厚化粧した若い中国人の女が、裾の割れた中国服をわざとまくって白い脚をちらつかせ、『兵隊さん、上んなさい』と、かたことの日本語で誘いをかけてきた。しかし部屋全体が不潔で、とても上がる気はおきなかった。女たちはたいてい性病にかかっており、たとえサックをやっても恐ろしかった」「兵隊の性欲処理のために部隊によっては慰安婦をかかえ、慰安所を設け、性に飢えた兵隊たちの欲望を満たしていた。慰安婦は朝鮮人と中国人が多かった。しかし、19大隊は高度分散配置についていたので、慰安所は設けられず、チーフーや威海衛、龍口に所用の任務で行ったさいに中国人のピー屋ですましていた」「そのころ19大隊では、大隊長が若い日本人の女をかこっていた」「大隊長クラス以上になると公然と女をかこい、下士官や兵は陰でこそこそやる。全部とはいわないが、外地にいた将校の品行が悪いことは言をまつまでもない。彼らはなにかというと『軍紀』や『風紀』をもちだしてやかましくいって、兵隊たちを頭からおさえつけようとしていたが」「上がこういう状態では、下の軍紀がみだれるのは当然で、強姦などのいまわしい犯罪が多発したのも、ひとつには、女をかこったり金銭をごまかしたりする悪徳将校に対する兵隊たちの無言の抵抗だったのである」(247~250ページ)

〔その57〕千田夏光著『従軍慰安婦ー〝声なき女〟8万人の告発』双葉社、1973年発行。著者は、昭和39年に毎日新聞社が発行した写真集『日本の戦歴』の中で朝鮮人従軍慰安婦の姿を見つけ、以来、取材を進めた。
(その57・1)
「ここに田口栄造(仮名)という63歳になる人物がいる」「この田口さんこそ、昭和13年中支派遣軍が初めて軍直轄慰安婦を集めたとき、女衒役をやった一人であった」「(以下、田口の話。集めたのは)内地でした」「(その方法は)ダルマ屋みたいなところを歩いてね」「部隊は北九州の兵隊が多かったものですから、やはり同郷の女がいいだろうと北九州で集めました」「(経験者ばかりを集めた。軍の出した条件は)前借金千円を前渡し。それを全部返したら自由というものです」「この募集は軍機、そう軍事機密ということになっていましたから、応募した女たちはこそこそと集まって来ました」「(実際に自由になった人は)います、います。たくさんいます。第一陣で行った連中は、遅い者でも数ヶ月で返し自由の身になりました。でも、彼女らはこの商売をやめようとしませんでした」「(内地から大陸への輸送は)当時の(輸送船の)陸軍輸送規定には生き物としては、兵隊、軍馬、軍犬、軍鳩の名はあっても、婦女子の項がなかったのです」「これには輸送指揮官、将校でしたけど、これが困ってしまったのです」「物資輸送ということにしたのです。兵器でも弾薬でも糧秣でもない物資にしたのです」「(集めた女性は何人か)はっきり憶えていませんが、百人を超えていました。もちろん私が全員集めたわけではありません。私が口をきいたのはせいぜい20人くらいでした」「(全員日本人か)朝鮮人が少しいました」(24~28ページ)
「麻生徹男という産婦人科医がおられる」「昭和12年日中戦争開始とともに応召、軍医少尉として上海戦線へ」「(以下、麻生の話)もう一人の婦人科医と一緒に慰安婦第一号の検診をしました」「彼女らの方も慣れていまして、万事スムーズに行ったことは憶えています。〝検診台にあがって〟というとケロリとあがりますし、素人の女性は恥ずかしがってようあがれないものです。それを眺めベテランだなと思ったのです。ただ申し上げにくいが朝鮮人女性が1割か2割近くか、はっきりした数字は失念しましたがとにかくいまして、その彼女らは慣れていないらしく、この種の検査に当たってもじもじしていたのを記憶しています」「(朝鮮人女性と)言葉を交わしたわけではないのではっきりした事は言えませんが、無垢の女性、つまり処女が多数その中にいました。年齢も若い女性が多かったように思います。日本人女性の方は若いのから中年まで、やや年増が多いようでした。それに方言からすぐ北九州で集められた女性と分かりましたが、彼女らの殆んど全部が客商売の経験者であることは、一見して分かりました」(31~33ページ)
「斎藤キリさんは58歳。中部中国の、九江、安慶、漢口の慰安所を転々としていた元慰安婦だった婦人である。四国の松山で私娼屋にいたのを勧誘され、四国兵団の慰安婦に昭和14年なったという」「(以下、斎藤の話)日中戦争初期のころは軍属じゃないけど、軍属みたいな顔をした民間人男性が経営者だった。それがすべてを仕切っていたけど、昭和14年ごろからは前借を返し終わった慰安婦が、自由の身になって慰安所のヤリ手婆をやっていた」(81~82ページ)
「若い朝鮮人慰安婦の中には脱走もあったという。日本人慰安婦は覚悟して来ていたが、彼女らは連れて来られて腰をぬかす者が多かったから、これも無理なかったのだろう。これに朝鮮人男性で軍通訳として雇われている者が、手引きする場合が多かったらしい」「この脱走しようとするのは最初の1か月か2か月までで、3か月過ぎると諦めが先に立つようになるという」(89ページ)
「『関特演』というものがあった。正式名を〝関東軍特別演習〟と呼ばれたもの」「目指す相手はソ連。すなわち対ソ戦のための作戦行動である」「(昭和16年)8月9日現在には北満に約70万の兵力」「が集中されていた」「〝対ソ戦準備作戦〟はその発動寸前におさえられ、陸軍はしぶしぶ諦めることになったのだったが、ここで問題になるのはその動員の中に〝慰安婦の動員〟もふくめられていたことだ。関東軍の後方担当参謀原善四郎少佐(後中佐)という人物がいたが、作戦部隊の兵隊の欲求度や所持金に女性の肉体的能力を計算したすえ〝必要慰安婦の数は2万人〟とはじき出し、飛行機で調達に朝鮮へ出かけているのである」「(以下、原の話)たまたま関特演のとき兵站担当をやっていました。そう、通称で後方参謀と呼ばれる参謀です。関東軍司令部参謀第3課に属していました」「(慰安婦集めのため)はっきり憶えていないが、朝鮮総督府総務局に行き依頼したように思います。それ以後のことは知りません。軍としてはというより私は、それ以上は関知しないことにしていたのです」「(必要数だけ示したというが、総督府の集め方は)朝鮮総督府では各道に依頼し、各道は各郡へ、各郡は各面にと流していったのではないですか」「実際に集まったのは8000人ぐらいだったのです」「集めた慰安婦を各部隊に配属したところ、中には〝そんなものは帝国陸軍にはいらない〟と断る師団長が出たのです。ところが、2か月とたたぬうち、〝やはり配属してくれ〟と泣きついて来たのです。実戦の経験のない師団長だったと思います」(95~97ページ)
「柳田芙美緒氏は」「甲種合格で静岡連隊で2年をおくったのち、同連隊専属のカメラマンになった人」「その作品集『静岡連隊』は話題になったものであったが、彼の撮った写真の中に、香港攻略戦を闘いぬいたのち、ジャワ敵前上陸へ向かう輸送船内のシーンもある。この中に兵隊と一緒に、蚕棚のような船室でころがる慰安婦の姿が、写っているのである。それも戦闘姿の兵隊に混じって彼女らはキモノを着ているのである」「これはジャワ敵前上陸の時だけではない。あの昭和16年12月8日未明、ハワイ奇襲より早く行われた、マライ半島強襲上陸の部隊でも同じであった。昭和13年10月12日のバイアス湾敵前上陸の時も同じであった」(156~157ページ)
「日本本土の軍隊に慰安婦はいなかった。慰安婦のいたのは外地の部隊だけだった」(162ページ)
(その57・2)中国。
「伊藤晃三氏。第61師団東都第63部隊の軍曹として終戦を迎えた人だ」「出征したのは昭和18年3月のこと。最初に駐屯した所は、中部中国の丹陽。それから鎮江、除県、南京、上海と、伊藤さんはわたり歩いたことになる」「(以下、伊藤の話)それぞれの町に駐屯した時、慰安婦はいました。おおよその見当で一個大隊に15人から20人ぐらいいたんじゃないかと思います」「兵長以下は、日曜日しか外出できませんから、その日曜日になると、それぞれ一個ずつ〝突撃一番〟というコンドームをもらって飛び出すんです」「バラックの建物がずらりと並び、その一つに入ると、布団が一枚。もちろん薄汚くよごれてしまっている」「彼女たちはシミーズ一枚で、その布団にくるまっているわけです。これは日本人慰安婦も朝鮮人慰安婦も中国人慰安婦も同じでした」(163~164ページ)
(その57・3)スマトラ。
「山田正三氏は」「元陸軍伍長」「出征したのは昭和19年1月。台湾を経てスマトラに入った」「(以下、山田の話)バンガラ・プランタンというところに司令部がありまして、ほとんどその近くにいたわけですが、軍の兵站部が管理する慰安婦は、かなりの人数がいたと思います」「国籍は種々雑多だったです。日本人慰安婦は、中には日本人の女もいましたよという程度でした。ところが、これは将校専用ということ」「女にもランクがあって、一番上がいま言った日本人。その下に台湾人、朝鮮人がある。その下が中国人」「その下がマレー人。最も下に言われていたのが現地の女だった」(165~166ページ)
(その57・4)ビルマ。
「堀江寿夫氏」「昭和16年に徴兵で入隊」「昭和17年12月門司港から輸送船で、シンガポール経由ビルマに連れていかれた」「ビルマ全域を歩いたという」「(以下、堀江の話)ビルマで大きな慰安所は、モールメン、トングー、ピンマナ、メークテーラ、マンダレー、ラングーンにありました。比率は朝鮮人慰安婦10、ビルマ人慰安婦4、中国人慰安婦とインド人慰安婦は2、日本人慰安婦0.8ぐらいの割りでなかったかと思います」「各部隊では、多いところで、一か所の慰安所に20人ぐらい、普通は10人ぐらい女がいました」「モールメンでは、船舶工兵のおなじバンガローに慰安婦がいて、起床をともにしていました。こんな部隊もいるのだなあと私たちは首をかしげました」「他の隊ですが、ナンジョンという石油の出る奥地に入った隊は、後方から慰安婦を送って来ないので、そこで、現地の女を集め、自分たちで勝手に慰安所を作ったと聞きました」「負け戦になって」「山の中で、よく逃げまどう朝鮮人や日本人の慰安婦に出会いました。頭を坊主にして、軍服を着て男の恰好をしているんです。軍服がボロボロになって、汗だらけなんです」(168~171ページ)
(その57・5)セレベス、インドネシア。
「富永泰史氏」「元陸軍〝飛行輝6300部隊〟。熊谷飛行学校の教官をつとめたのちセレベスへ」「(以下、富永の話)セレベス地区には第二方面軍の司令部があり、阿南大将がいました。大将は高潔な人でしたから、慰安所の開設がなかなか難しかったようです。〝そんなものいらない〟と言われたというのです。参謀将校が慰安所の効用を大将に説いて、開設されることになったのでした。こうしてセレベスのメナド、マーカッサルなどに慰安所ができたのですが、セレベス全域には慰安婦が相当数いました。いや来ました。メナドの慰安所では1棟に10人ぐらいの女性がいて陸海軍が一緒に利用していました」「慰安所に現地人も多く、なかでもミナアサ族はよく日本人女性に似ているので、日本の着物を着せると見分けがつきません。兵隊たちの評判がよかったようです」「このころ内地から日本人や朝鮮人がおくられて来ることはまれだったようです。米軍の潜水艦がうようよいましたから」「インドネシアでは、バンドン、ジャカルタ、スラバヤ、マランに慰安所があり、1か所に20人ぐらいの慰安婦がいました。なかには、30代のオランダの抑留婦人もいました」「ハルマヘラの慰安所はニッパハウスで、日本人慰安婦、朝鮮人慰安婦もいましたが、プライドが高くっておもしろくありませんでした。現地人の方がサービスがいいという評判でした」「昭和19年に入って、わたしはフィリピンのダバオを経てメナドへ来ました。ダバオの町の慰安所には日本人女性、朝鮮人女性と現地人女性が半々ぐらいずついました」(174~176ページ)
(その57・6)南ボルネオ地区。
「同地区にあった海軍根拠地隊・海軍大佐辻橋文吉氏」「陸海協定により海軍が司政権を持っていたので、慰安所も同氏の管轄にあった」「(以下、辻橋の話)カリマンタンのバリクパパンに相当規模の慰安所がありました。そのほかバデルマシン、ポンテナック、クラカンに中規模のがあった」「慰安婦には、内地から日本人、朝鮮人の女性を連れて来ていた」「連れてきた慰安婦は海軍の責任で、当初は日本へ石油を運ぶ油槽船の船員慰安という名目になっていたはずです。それを後から軍が利用する形になっていきました」「昭和20年正月ごろに米軍の圧迫攻撃が激しくなり、軍人軍属でない慰安婦を置くのは筋が通らないと判断し、慰安所を閉鎖させ日本に送り返すことにしました」「〝氷川丸〟などの病院船を強引に呼び、何十人も日本へ送還させました。船上で、〝兵隊が命がけで闘っているのに〟とか、〝お前たちを乗せるゆとりがあるなら傷病軍人を一人でも多く乗せたい〟など言われたようですが、とにかく60人か70人くらいは乗せました。しかしそれでも運びきれず、敗戦のときにまだまだ残っていました」(177~178ページ)

〔その58〕伊藤桂一著『遥かなインパール』新潮社、1993年発行。インパール作戦に参加した第15師団の歩兵第60連隊に属し、作戦の実態、兵員間の生活事情などを関係者に取材・記録したもの。
(その58・1)
「(今岡参謀が前線視察を終え、ウクルル近くの洞窟で、兵団司令部給養係・久木大尉との会話)『(久木)いい話は、メイミョウにありましたね。軍司令部には桜が咲いて美しかったです』『(今岡)そうだ。あそこは内地と同じ景色だった。松が生えていたな』『(久木)私はメイミョウで、ひと晩だけ、軍司令官気分になりました。将校クラブになっている料亭に、軍司令官直属の菊丸という女がいて、同僚が口説いてくれて、やっと抱けたんです。明日は作戦に出て、二度と生きてはもどれない、といってくれたんで、情をかけてもらえました』『(今岡)ほう。すると君も、生きてアラカンを出るわけにもいかぬな。女に合わせる顔があるまい』」「冗談とも、本気ともつかず、そんな話をしたことを、今岡参謀は思い出している」(344~347ページ)

〔その59〕石川達三著『生きている兵隊(伏字復元版)』中公文庫、1999年発行。同書の半藤一利の「解説の代えて」によると、底本は中央公論昭和13年3月号に掲載されたが、内務省の通達で、書店の店頭に並ぶ暇もなく発売禁止となる。この処分に加え、陸軍の怒りにふれ、「虚構の事実をあたかも事実の如くに空想して執筆した」として新聞紙法違反で、石川らが起訴される。石川は禁固4か月・執行猶予3年の有罪判決を受ける。石川は中央公論特派員として、昭和13年1月5日、南京に到着し、南京で8日、上海で4日、精力的に取材。帰国して2月11日には330枚を書き上げる。「あるがままの戦争の姿を知らせることによって、勝利に傲った銃後の人々に大きな反省を求めようとするつもりであった」という。中央公論掲載文は伏字が多く含まれていたが、戦後の昭和20年12月、著者の手で復元などされ、河出書房から出版された。以下、伏字復元部分は《》で示す。
(その59・1)
「(占領まもない南京で)日本軍人の為に南京市内2個所に慰安所が開かれた。《彼等壮健なしかも無聊に苦しむ肉体の欲情を慰めるのである》」(154ページ)
「彼等は酒保へ寄って一本のビールを飲み、それから南部慰安所へ出かけて行った。《百人ばかりの兵が二列に道に並んでわいわいと笑いあっている。露地の入口に鉄格子をして三人の支那人が立っている。そこの小窓が開いていて、切符売場である。1、発売時間 日本時間正午より6時 2、価額 桜花部1円50銭 但し軍票を用う 3、心得 各自望みの家屋に至り切符を交付し案内を待つ。彼等は窓口で切符を買い長い列の間に入って待った。1人が鉄格子の間から出て来ると次の1人を入れる。出て来た男はバンドを締め直しながら行列に向ってにやりと笑い、肩を振りふり帰って行く。それが慰安された表情であった。露地を入ると両側に五六軒の小さな家が並んでいて、そこに1人ずつ女がいる。女は支那姑娘であった》《彼女等の身の安全を守るために、鉄格子の入口には憲兵が銃剣をつけて立っていた》」(156~157ページ)
「(上海の)虹口一帯はほとんど盛り場の観があった」「《夜更ける頃には料理屋の暗い門前》に《軍の自動車》が《ずらりと並んで》ここは《将校の慰安所》になっていた」(163ページ)
「(上海から南京に向う車中)鉄道警備兵が三四人しきりに話しあっていた。相手は軍人でない便乗者であった」「この相手は50近い年齢の男で、その話によると最近日本人の《女たちを》連れて渡って来たのであった。突然の命令で僅に3日の間に《大阪神戸附近から86人の商売女を》駆り集め、前借を肩替りして長崎から上海へわたった。それを3つに分けて1班は蘇州、1班は鎮江、他の1班は南京まで連れて行った。契約は3年間であるけれども事情によっては1年で帰国するか2年になるかも分らない。厳重な健康診断をして好い条件で連れて来たので、《女たち》も喜んでいる、という話であった。いずれはそうした《夜の商売》をしていたであろう狡猾そうな男で、うすい外套を着て慄えながら話していた。『南京には三四日前から芸者が商売をはじめております。4人、5人居ますかなあ。漢口に居た芸者です。一旦長崎まで逃げて戻って、また南京へ行ったのです。わりに若い良い妓です』。そういう裏の事ならば何でも知っているという様子で彼は饒舌りつづけ、兵隊はほうほうと感心して聞いていた」(173~174ページ)

〔その60〕林えいだい(写真・文)ら著『グラフィック・レポート 清算されない昭和ー朝鮮人強制連行の記録』岩波書店、1990年発行。
(その60・1)
「2、天皇と松代大本営」「(地下壕工事で?)朝鮮人土工は西松組の監督下に、全員が朝鮮人飯場に入れられ、隊伍を組んで工事現場へ入った。西松組は村内の児沢聡さん宅を慰安所として借り、岩手県から朝鮮人慰安婦を6人呼んだ」(118ページ~119ページ)
「3、沖縄軍夫と従軍慰安婦」「沖縄憲兵隊西表島分遣所が白浜部落に置かれ、下士官と二等兵の2人の憲兵が常駐した」「白浜に近い内離島では、右側の平地に練兵場があって、その側の納屋に、朝鮮人の従軍慰安婦3人と、沖縄の辻遊郭の女郎を置いて、軍の慰安所にしていた。『彼女たちは兵隊相手で、内離島から出られないんですからね。時々外に出て洗濯物を干していました』と、屋良さんは語る」(120~121ページ)

〔その61〕朝日新聞テーマ談話室編『日本人の戦争』平凡社、1988年発行。テーマ談話室「戦争」シリーズ連載に投稿などしたが、紙面に掲載されなかったものの中から選んだ読者体験談。
(その61・1)中国。
「(溝口隆、昭和18年5月、23歳のとき召集)20年5月ごろ、全軍指揮官の岡村大将の命で朝礼時『焼くな、姦すな、殺すな』と唱和することになったが、1人の兵が聞こえよがしに言った。『あれほどやらせておいて、いまさらそう言っても手遅れだ』」「(荊門?)19年の盛夏に師団長宿舎の歩哨勤務についた。広い芝生の前庭、赤瓦の平屋の邸宅である。裏に川があり、舟が用意されている。緊急避難用とかの話だった。朝、太陽が昇るころ1台のトラックが毎日門を入る。漢口から300キロを夜どおし飛ばして来る。氷が荷台の隅に積んである。毎日これを眺めるのは苦痛であった」「19年の夏、当陽近くの穿心店で4個中隊が兵舎を並べていた。近くに大隊本部があり大隊長宿舎があった。日中の暑い盛り、近くの川へ洗濯に行く道すがら大隊長宿舎がいやににぎやかなのに気づいた。女性の嬌声も響く日中の大宴会の最中だった。こんな前線まで上級官のため女性までも派遣されるとは、まことに驚いた」(119ページ)
「(吉田滝蔵、69歳、満州・北安鎮?での軍隊内務班の〝暴力長屋〟の実情、規律のたるみなどをつづって)E准尉は慰安婦と無理心中、女の片腕は肩のつけ根から切断され、Eは軍服を着たままけん銃自殺。私が神田と『屍衛兵』として徹夜で焼き上がるのを待った屈辱感は今なお忘れることはできない」(236ページ)
(その61・2)ボルネオ。
「(サンダカンで司政官をしていた父親の手記の投稿。昭和20年5月末、米軍上陸に備え、サンダカンから奥地の密林へ逃避する)途中では象の大きな足跡を見受けた。またサンダカンで慰安所を経営していた両親をマラリアで失った少年が、軍票その他の遺産の重い荷物を密林中に持ち歩いている姿を見受けた。大人でも大変なのに、これからの長いジャングルの旅をどうしただろう。その後は会わなかったが、軍票は終戦後、日本人引き揚げのさい全部占領軍に没収されてサンダカンの広場に紙くず同様に積まれているのを見た」(313~314ページ)
(その61・3)ビルマ。
「(武田裕、68歳。昭和17年)ビルマ進攻作戦も終わってその年の9月半ばごろ、部隊は北ビルマの要衝ミッチーナ[当時はミートキーナといった]に駐屯した。ある日、従軍慰安婦がやってきた。以前イギリス人の屋敷だったという二階建ての建物が慰安所になった。二階の広間の中央を通路にして、両側を1坪ずつアンペラで仕切って〝部屋〟を作った。それが合計20あった。兵隊は番号に合わせて切符を買う。どの部屋の前も、順番を待つ兵隊が群れていた」「ここにも階級があり、下級士官専用は日本女性であり、以下は朝鮮・広東女性であった。上級士官には特別専用があったという」(585ページ)

〔その62〕西野留美子著『従軍慰安婦と十五年戦争ービルマ慰安所経営者の証言』明石書店、1993年発行。
(その62・1)中国・広東。
「(酒井幸江の)夫は久留米師団の軍属として中国の広東に渡った」「(夫の招きで姑が一足先に発ち、その半年後)広東の地を踏んだ。『お父さんの近くで暮らせるなら 』。1940年、幸江が22歳になった年だ。姑が始めていた店は、広東の恵福東路にある『あごすけ』という屋号の軍用食堂だった。いわゆる兵隊専用の食堂である」「ある日のこと、幸江の気さくでものおじしない陽気な人柄に目をつけた陸軍参謀は、幸江に秘密の話をもちかけてきた。『実は、あんたに頼みたいことがある。あんたならきっとやりこなしてくれると思うのだが』『何のことです?』『クーニャンを30人ほどビルマに連れていってほしい』『30人! いったい何をするんです?』『兵隊が休む慰安所をやってほしい。あんたのように兵隊の気持ちがようわかり、クーニャンをうまく使える人でなくては、この仕事は頼めない。あんたならやってくれると見込んでの話だ』」「もちろんそんな商売は今までに一度たりとて経験したこともなければ見聞もない。しかし、これは『軍命』だ。軍隊の命令には逆らえない」「夫と姑の同意は得たものの、しかしどうやって30人もの中国人女性を集めたらいいのか」「クーニャンを30人集めるには、300円を越す資金が必要だった。それまで貯めていたお金をはたいて斡旋業者に仲介を依頼し、2か月ほどのうちになんとか30人の中国人娘を買い揃えた」「『クーニャンたちは、みんなおとなしいいい子ばかりでしたよ。買われてきたわけだから、逃げようなんて娘はいやしません。(ビルマ行きの)船には、護衛の兵隊さんが何人か乗ってたけれど、他にお客はいなかったから、慰安婦を輸送する専用の船だったんでしょうね。船室は1偕2階とあり、ゴザが敷いてあって、そこで横になったりしてのんびりしていったわね。もちろん、船はただですよ。軍用船でしたからね』。1942年、春先のことだった」(43~49ページ)
「野戦重砲兵だった小田清(74歳)は、1939年4月にここに入った。すでに広東地域には多数の慰安所が設置されていた」「『その慰安所には、3人ぐらいの朝鮮人のおやじさんがそれぞれ50人ぐらいの朝鮮人慰安婦を管理していましたよ』『あるとき、馴染みになった慰安婦に、どうしてこんなところにきたのか聞いたんですよ。その「朝鮮ピー」は、准看護婦の募集があり、それに応募してきたのに慰安所に入れられたと言っていました。騙されたんですね。ほとんどの女が、18歳ぐらいから24歳ぐらいの若い娘でした』」(55~56ページ)
(その62・2)中国・杭州?。
「1938年初頭、菊兵団第18師団師団通信隊の小隊長だった小田篤(85歳)の部隊は杭州に転進した」「18師団にとって最初の軍隊慰安所には、日本人業者が連れてきた日本人慰安婦と朝鮮人慰安婦がそれぞれ半数ずついた」「師団司令部には、日本人慰安婦や芸者がいる将校専用の慰安所が作られていた。『質のいい女は、司令部の所属のようなもんですよ』『質がいいとはどういうことですか?』『まずは、日本人てことですね。なかにはときたま朝鮮人もいましたが。朝鮮人慰安婦のほとんどは、各連隊に分けましたよ』『分けたのは、誰ですか?』『軍です。配属の命令は、軍がやっておった。おまえのところは、どこどこの部隊へ行けというようにね。どこに行って営業したらいいか、業者のほうでも、許可を受けに参謀部にやってくる。そこで参謀部では、慰安婦の中身をみて、つまり「朝鮮」が多ければ各連隊にやるし、質がいいのがいたら、司令部に残しておくわけです』『配属した後は?』『連隊副官に連絡して、慰安所の建物を用意させるわけですよ。設備に関しては軍隊が準備しました。無償ですよ。適当な民家があったら、慰安婦の頭数に合わせて仕切りを作る。これも軍隊でやりました』『ほとんど軍隊がお膳立てしていたわけですね』『しかし、軍の中枢がかかわっていたかは知らん。軍が募集し、軍が前借金で女を連れてきて、軍が営業しておったなんてことは絶対にない! 実際にタッチしておったのは、業者ですよ』」(69~71ページ)
(その62・3)中国・南京。
「(香月の)岳父は南京の太平路で、『一角楼』という料理屋を開いていた。料理屋といっても、日本人慰安婦が30名ほどいる、陸海軍共用の軍隊慰安所であった」「1942年のことである」「彼(岳父)は落ち着かないようすで口をきった。『困ったことになった。実は、軍の命令で、南方に行って慰安所をやらなければならなくなった。しかし、一角楼を閉店するわけにもいかん。そこでおまえ(香月)に相談なのだが……』。岳父はすでに、軍と契約を交わしていた。契約書に、彼はサインをしていた。軍命令とあっては断るわけにもいかなかった。すでに契約は済ませ、ことは早く運ばねばならない。相談というのはほかでもない。わたしの代わりにおまえに南方へ行って慰安所を経営してほしいのだ』」「『当時、南京や上海、奉天には、日本人女性が大勢いましたよ。私(香月)が集めたのは、南京です。親父さんが蓄えていた金で女を買い集めました。軍の援助金は一切ありません。女に前借金を渡して集めるわけですが、1人二千円とか、五千円とか、まちまちでしたよ。日本人は朝鮮人や中国人より高いが、それでも何としても頭数を揃えなければなりません。全部で17万円ぐらいかかったですよ』。2か月ほどかかって27名の日本人女性を集めた。40代、20代がそれぞれ2人ほどで、ほとんどが30代だった」「これらの女性のほとんどは、前借金のために身動きできない遊郭の女だった。その金を清算してやり、『身請け』という形で買い集めたのである。なかには、八千円という前借金の女もいた。その年の7月、軍の指示で香月が女を連れていった上海の港には、同じような業者たちが、南京や蘇州などから汽車で集まっていた」「1週間で十数名の経営者が連れてきた女性は、1300名ほどにものぼった。日本人、中国人女性もいたが、その8割近くが朝鮮人女性であった」「軍が用意したアトラス号に乗り込んだ」「輸送隊長は陸軍曹長であり、数人の憲兵の姿もあった」「1か月の航海を経て、アトラス号はシンガポールの港に停泊した。ここで、1300名の慰安婦は、軍命により、どこの慰安所に行くのか振り分けられた。香月が告げられたのは、ビルマだった」
「アトラス号には、慰安所経営者井上菊夫(故人)の姿もあった」「南方に行けば儲かる。考えた末に彼は、上海駐屯軍の慰安所経営者募集に応募することにした。井上が慰安婦集めに出かけたのは、杭州だった。前借金を渡し、12人の朝鮮人女性をそろえた。『南方派遣軍総司令部の要請により、支那派遣軍総司令部これを斡旋し……』。集まった経営者を前に、参謀大佐は慰安所設置が軍命令であることを唱えた」(78ページ~82ページ)
(その62・4)中国。
「座談会『従軍慰安婦』と日本軍」(の中で、参加者・59師団伍長だった金子の発言)「臨清に行く前に東昌にいたことがあります。ここには大隊本部があって、1中隊の分遣隊がいたんです」「そこの場合は、2か月にいっぺんぐらい大隊本部から兵隊の護衛つきで、2,3名の慰安婦が派遣されてくるんです。1個中隊ぐらいの兵隊と一緒にきて、2日ぐらいいますので、そのあいだにやるわけです」「一番最初の日は、将校が独占するんですよ。その次が下士官。最後に兵隊にまわってくるわけです」「作戦のあるときには、強姦する。古い兵隊のほとんどは、強姦をしていましたよ。ですから作戦のあるときはいいわけです。お金を払わなくていいし」(208ページ)(参加者の関東軍特別情報中隊中尉だった小島の発言)「私は済南にあった慰安所『さくら』の朝鮮人慰安婦から、事務員になるとだまされて連れてこられたという話を聞きました。また、徴兵された朝鮮人の兵隊が私の部隊に入ってきたときに彼らと話したんですが、その中の1人が、自分の姉さんも、慰安婦としてすぐそばにきている。知っている若い娘のほとんどが慰安婦としてきていると言っていました」(221ページ)
(その62・5)ビルマ。
「(その62・1の幸江がビルマ到着後、幸江に)軍からまた命令が届いた。女たちを前線に連れていくという。いわゆる慰安婦を連れて戦地回りをせよというのだ」「『移動するときは、軍のトラックですよ。軍のトラックが指定した日に迎えにくるんです。いやだなんてとても言えませんでしたよ。問答無用。トラックには幌がかぶせてあってね、そこに女を24,5名ずつ乗せて行きました。連れて行ったところは前線ですから』『ただアンペラで囲っただけですよ。兵隊さんたちは、そこで用足しするだけっていう感じでしたね。そういう状態で、あちらこちらの部隊をまわりました。国境近くまで行ったこともあったわね』」(123~124ページ)

〔その63〕西野留美子著『従軍慰安婦ー元兵士たちの証言』明石書店、1992年発行。
(その63・1)千葉・柏。
「戦後、朝鮮人連盟千葉県本部の教育係の仕事についていた鄭さんは、指導のため、千葉県下の朝鮮人学校をまわった。柏の豊四季朝鮮人学校を訪れると、彼は、近くの朝鮮人飯場に立ち寄っては、彼らと話を交わした」「鄭さんが飯場の人たちと食事を共にしたある日、柏飛行場付近に軍隊用の慰安所があり、そこに朝鮮人慰安婦がいたこと、柏には、軍隊用の慰安所が3か所あったことを聞きだした。3か所のうちの一つが、東部105部隊付近の民家がそれに当てられたのではないかと推察されるようになった。当時の部隊配置図によると、他の民家がすべて接収されているにもかかわらず、2軒の民家だけが取り残されたように軒を並べている。そのうちの1軒は、窓という窓に鉄格子がはめられている」(3~4ページ)
(その63・2)中国・宜昌。
「私(78歳になる本田[仮名])は補助憲兵(の班長)として宜昌に昭和16年、17年の2年間いました。そこにあった慰安所には、30人ほどの朝鮮人慰安婦がいました」「昭和17年の春のことです。補助憲兵の隊員からこんな報告を受けました。『班長さん、毎晩酒を飲んでは暴れる慰安婦がいて、ジャグイ(楼主)も手をつけられないから、なんとかしてくれないかということですよ』」「私は軍服を脱ぎ」「民間人になりすまして女のところに行きました。『おまえ、なぜそんなに暴れるんだ?』。女は私に心を許し、泣きながら話しました。『私は、庄屋の一人娘で世間知らずでした。戦地に行った友だちからの便りに、兵隊さんを慰めて楽しく暮らしている。お金も儲かるから、あなたも来ないか。来るならジャグイに話してあげるというのです。慰安婦とも知らずに、胸はずませてはるばる中支の最前線まできました。ところが毎日毎日、兵隊の相手をさせられ、おまけに銃弾が飛びかい、明日の命さえもしれないではありませんか。帰りたくてもこの体ではもう帰ることもできません。ついやけになってお酒を飲んでしまうのです。私の心をわかってくれますか』『そうか、そうか』。私は、そうとしか言えませんでした」「女は二十二、三でした。スンナリしたかわいい顔立ちでした」(15~16ページ)
(その63・3)
「北海道開拓記念館でも、『苦力管理要綱草案』が見つかった。ここでは、強制連行された中国人労務者(苦力)のために厚生施設の項で、『性的欲望考慮』として、『朝鮮人、支那人娼婦ノ誘致』が記されている」(26ページ)
(その63・4)千葉。
「私(近衛第3師団砲兵上等兵だった谷垣)の知っている(沿岸防御陣地を構築する部隊のいた)九十九里の軍隊慰安所は、銚子、成東、茂原の3か所です」「そこにいた慰安婦の多くは、東北地方の貧農の娘でした。借金の担保として慰安所に売られてきたんですよ。『従軍看護婦募集』という体裁のいい広告でかき集められた朝鮮の娘たちもいましたね。みんな金で縛られているわけです。逃げだしたくても、派手な着物を着せられていますから、逃げることもできませんよ」「この3か所の慰安所は、一般の住民の目に触れないように深慮されていました。外目には、普通の民家です。古い民家を接収して改造した慰安所でした。看板などは、もちろん掲げてありません。ここに来る兵隊の行動は、住民感情を考え、十分慎重を期すようにいわれていました」「兵隊たちは、日曜日に限らず、作業状況により慰安所に行くことができました」(129~135ページ)
「(強制連行され敗戦後も日本にいた李の話)終戦の翌年、警察から電話がきたんです。『六軒町で朝鮮人がケンカをしているからすぐに止めにきてくれ』というのです」「私は同胞の女性がなぜこんな所にいるのか不思議に思い、彼女たちに尋ねました。女性たちは、朝鮮の江原道の出身でした。昭和18年のこと、千葉県の銚子にある缶詰工場に就職させてやるといわれ、10人でやってきたというのです。しかし、着いたところが軍隊の慰安所」「初めは抵抗しました。1人は、銚子の海に飛びこんで自殺してしまい、なかには逃げ出した人もいたといいます。そのうち木更津に海軍航空廠ができることになり、女性たちは木更津の六軒町に移されてきました」(137~138ページ)
「最近になって、筑豊炭鉱に『接客店』『特殊飲食店』などと呼ばれる慰安所が存在していたことが、『日朝合同筑豊地区強制連行真相調査会』の聞きとり調査により明らかにされてきた。これまでに、古河大峰鉱に6軒、古河峰地鉱に3軒、豊州炭鉱に1軒慰安所があったことが判明した。炭鉱労務係は、『女子挺身隊として募集し、連行してきた朝鮮人女性を、この慰安所に慰安婦として入れた』と証言している」「軍に習って、炭鉱も慰安婦を強制連行してきたということであろうか」(225ページ)

〔その64〕伊達一行著『みちのく女郎屋蜃気楼ーアネさんたちの<昭和史>』学芸書林、1990年発行。秋田県横手市にあった女郎屋に身売りされた女郎たちが、老いた今、思い出して語る娼婦暮らし。
(その64・1)秋田県横手市。
「(著者の解説部分)翌年(1944年)の2月、閣議決定された『決戦非常措置要綱』に基づいて、同年3月『高級享楽停止ニ関スル具体策要綱』が出され、3月5日から全国いっせいに高級料理屋、待合、カフェー、バー、芸者置屋、芸妓、女給の休業が実施された」「だが、新料理屋という名の娼家は営業が許可されていた」「この措置法により、女子動員強化も打ち出され、全国の芸妓3万7000人が徴用され、昼は軍需工場で挺身隊として働き、夜はモンペ姿で宴会に出た。また、酌婦、娼妓たちも夜は公務公用婦として陸海軍慰安所で奉仕させるために公募が行われた」(59ページ)
「米軍は(1945年)10月に横手に来ている。進駐軍と呼ばれる占領軍は越冬しただけで引きあげたが、このとき(横手市の遊郭街)馬口労町では役所からの命令で各娼家から1名ずつ酌婦を米軍の慰安婦として出している」(61ページ)

〔その65〕森本賢吉著『憲兵物語』光人社、1997年発行。森本は、昭和12年11月、中国・天津憲兵隊唐山分隊に配属され、敗戦時、陸軍憲兵准尉。
(その65・1)昭和12,3年ごろ?、中国。
「満州・北支で正業を持っていない連中は、禁制品を運んで商売にした。まっとうな邦人は、そんなにおらんかったのが本当のところよ。不良邦人は、朝鮮人を従軍慰安婦にして連れてきた。不良邦人は、軍にもさかんにたかっておったよ」(62ページ)
(その65・2)シベリア。
「日露戦争でも、日本軍は日本人の慰安婦をつれていっているからね。昭和12、3年ごろ、日本に帰らんかった元慰安婦に会ったよ。その女は16歳のときに慰安婦になってシベリアに行き、日本軍が引き揚げてからはだれも面倒を見てくれる者がおらん。それで、ソ連で支那人と結婚してのう。日中戦争で退去処分を食ろうて、支那の豊潤県にもどってきたのよ」(165ページ)

〔その66〕1992・京都「おしえてください!『慰安婦』情報電話報告集編集委員会編『性と侵略ー「軍隊慰安所」84か所 元日本兵らの証言《新装版》』社会評論社、1993年発行。92年3月、京都で「慰安婦」情報電話と称して、慰安婦体験情報を求めた結果をまとめたもの。
(その66・1)昭和17年秋、東京・板橋。
「私、昔、軍医をしとったんですけどね」「東京の部隊におりました」「ある日、女の身体検査をしてほしいという(軍の)依頼がありましてね」「『従軍の看護婦やなくて、慰安婦的なことをやる人なんや』ということでしてね」「(病院ではない場所へ)行ってみるとね。ちょっとおかしいなと思ったんはねえ、一つはまあ、日本人も若干おったんですが、ほとんどが、まあ、あのー、韓国の人」「非常にきれいな人で、若い人なんです」「20歳前後でしてねえ」「日本人は玄人。(100人ほどのうち)20ぐらい」「(韓国人に対する婦人科の台上での)検査なんていうのは、もじもじしてたんですかねえ」「中に気の毒なんは、処女の人が、やっぱりありました」「あんまり記憶はないんですけどねえ。やっぱり3割くらいはおったと思う」(185~187ページ)
(その66・2)昭和15年、満州・阿城。
「関東軍重砲兵として」「阿城重砲兵連隊第七中隊に入隊」「満人の慰安婦もいましたが」「朝鮮の慰安婦に比べて不潔でしたから、朝鮮の慰安婦の方しか行きませんでした。15名ぐらいいましたが、皆美人が多いので、慰安婦と仲良くなって、(2年ぐらい、月1回いっていた)本人達の素性を聞いて、小生達も同情していました。それは、自分たちは日本でいう芸妓の見習で、妓さん学校に行っていたのを、皇軍慰問のためにと言って、連れてこられた。2年になるといって、泣いて語ってくれました。小生が22歳だったから、19歳18歳ぐらいだと思いました」(218~219ページ)
(その66・3)
「(朝鮮20師団2095部隊の軍曹」「婦人狩りとか、女狩り、警察と軍隊で女狩りがあったとか、道路を歩いている女を引っ張ったとか。そんなことは絶対、聞いたこともないし、見たこともないですよ」「強制連行やないですよ」「私は朝鮮におりました。朝鮮のいなかも、ずっともう行ってましたから」(236~237ページ) (その66・4)中国・満州?。
「(昭和12年~19年、中国、満州で〝万年上等兵〟。朝鮮人慰安婦に)『歩合で来たのか』と、なじみになったので聞いたらね、『いや、みんな志願して抽選で、くじ引きで来たんや』って。皆ほがらかなもんでしたわ」「日本のものでさえ着れんような金紗の着物を着てね。そして、男が3人ほどついておったわ、朝鮮人の。それで、ときどきおらんようになるんや。どうしたんやと聞くと、『あら、私らの故郷に』、陸続きからやね、『儲けた金を故郷に、家族に』ってね。『私には9人おるし』『私は6人』って皆話をしましたわいね。皆自分から進んで来たんですよ。たくさんいたけどくじ引きで来たんやと、来れない人は泣いとったとか何とかいってね」(237ページ)

〔その67〕山田盟子著『続慰安婦たちの太平洋戦争』光人社、1992年発行。
(その67・1)南方・サイパン。
「敗色のなかで陸軍は、大本営を東京から満州へ、また長野県松代に移そうと考えていた。大元帥としての天皇もろともにである。サイパンが玉砕する前に、H島にいた女学生志願慰安婦たち数人が、隊長の配慮で最後の帰国船に乗せられたことがあった。彼女たちは出港後に、朝鮮に向う船にすれちがった。その船の甲板から、『大本営が満州になるらしいぞ!』。乗組員が叫んだ。おどろいた彼女たちは、さっそくその船に頼んで乗り継ぎをした。彼女たちは皇民教育の高揚で、H島には兵への性慰問のため、志願できていたのだった。女学生慰安婦たちは体は汚したが、天皇が満州に行くときいて、『こんどこそ満州で清らかな奉仕を。看護婦になりましょう』と、即座に決定したのだった」(264ページ)
(その67・2)
「昭和18年に入ると、博多券番も閉鎖され、昭和19年には料亭も休業となった。しかし、新柳町は禁止されなかった。軍人慰安所として必要だったからである。原田の航空兵など新柳町で一夜をすごさせてもらい、翌日は特攻として二度と帰らぬ空の旅路についた。娼妓たちは、昼は翠系学校の二階で軍用食の袋はりをした」「昭和19年2月、決戦非常措置要綱の決定し、高級享楽料亭は停止され、料理屋、カフェー、バー、芸妓置屋、芸妓女給は休業となった。このとき全国で芸妓3万7000名が徴用され、昼は軍需工場、夜は『公務公用婦』、つまり慰安婦として売春を強要され、一部は昭和20年に皇軍慰問隊として編成され、戦地へ送りこまれていった。神戸福原は」「太平洋戦争に入るや売春女子は、『労働奉仕隊』として、軍に協力をする『国家公務公用人』慰安婦として渡海させられていった」「全国の師団のある都市、海軍寄港地、または軍需産業都市の娼妓は、いずれも夜はこの『公務公用婦』として、国内臨戦慰安所の慰安婦とされたことは明白である」「また国内では産業戦士用の慰安所は、すでに州崎などは昭和16年に30軒もの業者が、『昭和飛行機、航空工廠』の工員用の慰安所として、立川に移転して開所していた」「臨時産業戦士の生産を高めるためにと、向島、渋谷、五反田など17か所にかぎって、当局は慰安所を開くことを認めた」(268~271ページ)

〔その68〕リアム・ノーラン著『「アンクル・ジョン」とよばれた男』いのちのことば社、2005年発行。牧師の渡辺潔は、昭和16年、陸軍軍属の通訳として召集され、17年2月から香港・サンシュイポ捕虜収容所に勤務する。
(その68・1)昭和17年、香港。
「日曜日になると」「制服姿で外出した。その日は1日中休みで、収容所の事務職員が外出するのは疑いの余地がなかったから、ごく普通に行動することができるのだ。その他の理由として、多くの日本軍人が中国人の女性を囲っていた。そうでなければ、広東語で書かれた風俗の看板を掲げた家々のどれかに入り浸っていた。潔が中国人の家に入って行くのを見た者があったとしても、女性を囲っているか、あるいは遊興にふけっていると思われるにちがいないと考えた」(79ページ)

〔その69〕田中寿美子・前田俊子著『ジュスマ・マンシュルさん物語』ドメス出版、1991年発行。ジュスマ・マンシュル(日本女性・山田恭)は、1943年6月ごろ、大丸百貨店の海外派遣店員として、シンガポールに行き、約半年後、スマトラ島・ブキティンギにある系列ホテルに出向。敗戦後、インドネシア人の妻となり、残留する。
(その69・1)
「赤道会(シンガポールやスマトラに派遣された軍人・軍属の友好組織)の人たちによると、東南アジアへ進駐した日本の軍人や軍属は、全員シンガポールのジュロンに集められ、終戦の翌年の夏ごろから順番に内地へ引揚げて来たのだそうです。特にジュロン村に抑留されていた女性たちが主体となって『ジュロン会』を作りました。私(田中)はこの親睦会に1976年に出席させてもらい話を聞きました。ジュスマさんも言っていたように、日本軍は必ず女たちを連れてやって来たそうです。ブキティンギにも慰安婦のような人たちが相当数いたそうです。赤道会が作った引揚者リストの女性のメンバーは100人くらいもいましたが、ブキティンギでジュスマさんのように、庶務の仕事をしていた女性は他にいなかったようです。実際の看護婦さんが病院にいた他は、その他の女性たちはみな『補助看護婦』の名で登録されました。しかし実は看護婦ではなく酌婦であったのです」(106~107ページ)「(ジュスマの発言。女性は)私の他は、立花や治作などの料理屋にたくさん来ていました。それから、何ですか時どき目をつぶりたくなるような……。芸者さんならまだ良いんですが、それ以外の人がたくさんいました」(133ページ)

〔その70〕大宅壮一編『続・わが青春放浪記』春陽堂書店、1958年発行。「虚しさの中の右往左往」と題した漫画家・清水崑の章。広東の南支派遣軍で、宣撫用伝単・ポスター作成などに携わる。
(その70・1)昭和13年?、広東。
「バイアス湾に敵前上陸して広東を占領したつい翌年のことで、治安はまだ充分でなかった」「日が経つにつれ、私は、はるばる東支那海を押し渡ってこんなところまでやって来たことを後悔し始めた。広東における高級軍人の生活の乱れが目に余ってきたのだ。軍務が夕方に終るとそれぞれ料亭やカフェーに車を走らせ、横づけにして、深夜まで女たちを侍らせて飲めや歌えである。運転手の兵隊は自動車といっしょにそとでいつまでも待たされている。将官、佐官級は連夜、途方もない機密費の大散財だ。にもかかわらず、私たちの仕事である伝単やポスター製作の予算はいくらもない」(20~21ページ)

〔その71〕総山孝雄著『スマトラの夜明けーアジア解放戦秘話』講談社、1981年発行。総山は、昭和13年、近衛師団に入営し、昭和17年、スマトラに上陸し、昭和20年8月、近衛歩兵第4連隊通信中隊長としてアチェ州で終戦を迎える。
(その71・1)昭和20年12月ごろ?、スマトラ。
「(テビン)市内には反日のアジがうず巻き、終戦前に日本軍の慰安婦をしていたジャワ族の女は、『敵軍に春を売るとは何事だ』というので、いきり立った(インドネシア)青年党員のために丸裸にされ、褐色の肌に一糸もまとわず、おいおい泣きながら町中を引廻された」(95~96ページ)

〔その72〕土方鉄編『差別を考える』三一書房、1984年発行。「教育と差別と」のタイトルで、土方が鈴木祥蔵に聞く。鈴木は、野砲将校として、満州・牡丹江の越河の戦闘に参加するも敗北し、牡丹江にかかる橋を渡り、退却。敗戦後、シベリアに抑留される。
(その72・1)昭和20年8月ごろ?、満州。
「(鈴木の話。牡丹江の)橋を渡ったとたんに、橋のたもとに(日本人の)女の人がうずくまってるんですよ。『どうしました』ってぼくが寄っていくと、『死なせてください』というんです」「『殺してください』ってねえ。『そんなこといわないで、もうすぐ敵がくるから』っていって、ぼくらの馬に乗せたんですよ。それで牡丹江まで引揚げて休憩して、めしの配給を分けて食べさせた。それからその人がボツボツいいだしたんです。ある開拓団に入っていたらしいんですが、男は全部徴用されて、女ばかり残った。団長だけひとり男性が残って、みんなに小さな袋をわたしたそうです、青酸カリの」「ソビエトの兵隊がきて辱しめをうけたらいけないので服毒するようにいわれた。ところがその日に日本の将校たちがやってきて、開拓団の酒からなにから全部徴発して飲んでしまって、そのあげくに将校団が婦人たちをみんなで強姦して、ほとんどの婦人が死んでしまったらしいんです。『私はとても死ねなかったので、ここまでたどりついた』という話なんですよ。びっくりしてね」「(その後の女性の生死は)私たちは夜中に黄道河市まで引揚げて、そこで陣地をつくっていったものですから、その人はもうどうなっているか……」(215~216ページ)

〔その73〕山岸外史著『太宰治おぼえがき』審美社、1963年発行。山岸と太宰との交遊などを描いたもの。
(その73・1)東京・洲崎。
「ぼく(山岸)は、太宰と2人で、(東京・新宿2丁目で)この夜生まれてはじめて割り部屋というのに泊った」「ベッド・ルームだったが、室の隅と隅とにおしつけられるようにあったふたつのベッドの間にわずかに間隙があって、やや厚いカーテンが下がっていた。それが2人の境界だった」「割り部屋という言葉で思いだすが、このときから何年かあと」「2人で、『洲崎』というところにいったことがある。ここでも、2人で、割り部屋というのに泊った」「大東亜戦争がタケナワだった頃で、この町はまったくさびれていた。この町のすべての妓楼が、やがて軍部関係の寮かなにかになるというすぐ前の頃で、ひどく荒廃している感じがあった」(84~85ページ)

〔その74〕さっぽろ文庫編集室編『さっぽろ文庫87・すすきの』北海道新聞社、1998年発行。
(その74・1)
「(すすきのという)この地名、札幌の地図には載っていない」「しかし、すすきのがうぶ声を上げたころ(明治初期)は明確で、現在の南四、五条通りの西三、四丁目の2町四方の4ブロックを指した」「開拓使はここを遊郭地帯と定め、新開地へ通じる幅6間半、延長905間の道路を作り上げた」「そしてこの4ブロックを区画して『旅籠屋』渡世の者に割渡し」「点在していた『淫売屋』をまとめて移転させ、家作料を貸与して店を建てさせた。官許による売春街の誕生である」「開拓使がこれほど遊郭設置に力を入れたのには理由がある」「この時期、札幌の街は、開府の仕事がしだいに軌道に乗ってきたのに、労務者たちのほとんどは一儲けしたら内地に引き揚げようという一旗組ばかりで、なかなか腰が落ちつかず、困り果てた岩村(開拓判官)は、『労務者をつなぎとめるには女の髪しかない』と遊郭建設に踏み切ったのである」「岩村は、開拓使の定額金のうち1万円を使って『西洋作之(せいようづくりの)一大妓楼』を建築するよう提案した。その理由として、官員はじめ何かと心労が多いにもかかわらずストレスを発散させる場所がないため、としている」「岩村は、妓楼が完成した後はしかるべき者に売り渡し、年賦で返済させる方針を決めた。ところがたまたま開拓使東京出張所に赴いた松本弥左衛門と城戸弥三郎が、札幌に遊女屋を開業したいので支度金6000円を拝借したいと出願し、同出張所がこれを許可した」「このためか開拓使の妓楼建設は急遽取りやめになった」(52~56ページ)

〔その75〕沖縄県退職教職員の会婦人部編『ぶっそうげの花ゆれてー沖縄戦と女教師』ドメス出版、1984年発行。同会婦人部員の戦争体験集で、那覇市・上江洲トシの「久米島での虐殺事件」と題した久米島での出来事。
(その75・1)沖縄・久米島。
「昭和18年、海軍通信隊三十数人が『あなた方を守りに来ました』と(久米島に)やって来ました」「隊長が悪名高い鹿山正兵曹長でした」「鹿山は、米軍上陸後は、農夫に変装し、クバ笠で顔をかくし、16歳の島の娘を連れて、毎日居場所を変えていた」(360~361ページ)「娘をもて遊び、子どもまでつくらせ(た)」(369~370ページ)

〔その76〕平塚柾緒編『知られざる証言者たちー兵士の告白』新人物往来社、2007年発行。『週刊アサヒ芸能』で、1971年の1年間連載された戦争体験者の証言を中心にした特集の単行本。
(その76・1)沖縄。
「那覇市の国際通り裏で小さなバーをひらいているM子さん(50)は、かつて日本軍の慰安婦をつとめたことがある」「M子さんが日本軍の慰安婦になったのは外国ではなく、地元沖縄においてであった」「沖縄の日本軍が増強されはじめてから、辻町(那覇市の遊郭)の事情が変わった」「(娼妓の)M子さんたちの客は、いつのまにか軍関係者ばかりになっていた。その前には、重大な時局に官吏や一般男子が遊郭に入りびたってばかりでは士気に影響するというので、当局の干渉がはげしかった」「軍人が出入りするのは士気の昂揚になるという手前勝手な理屈が、実は『慰安所』の開設につながった」「朝鮮娘(ピー)と呼ばれる慰安婦たちが、どんな状態におかれているか、M子さんの耳にも入っていた」「朝鮮から連れてこられた娘たちが、20人ずつくらい一緒に行動して、部隊から部隊をまわっている。ごく簡単な囲いの中で、行列をつくって待つ兵隊をつぎつぎに迎えて、くたくたになって動けないのを、つぎの部隊へ向かうためにトラックに積み込まれていた……というような話を聞いた」「あるとき、こんなことがあった。ある部隊の特務曹長だという軍人が、那覇警察署の名でアンマー(娼妓の抱え主)に集合をかけ、ズリ(娼妓)たちも集めてつぎのような演説をぶった。『いまや国民総動員体制である。前線も銃後もないのであり、女性も立派な兵器なのである。女性が兵隊を激励し、慰問することはそれだけ戦争の勝利につながる。遺憾なことに、わが隊には一人も沖縄女性がきていない。われわれは沖縄を防衛にきているというのに、肝心の沖縄女性が慰問にあらわれないということは、おまえたちに沖縄を守る気持ちがないことになる。それにひきかえ、朝鮮人はよくやっておる。心をこめて兵隊を慰問しておる。おまえたち沖縄県民は朝鮮人に恥ずかしくないのか』」「辻町の女性たちは、慰安婦になりたくないばかりに、あらゆるコネをたぐって奔走し、(娼婦廃業のため)形式だけの結婚相手をみつけ、あるいは重症の診断書をつくった」「M子さんの場合、それがうまくゆかずに焦っていた。そして、昭和19年10月10日の那覇大空襲を迎えたのだ」「辻町はみごとに焼けてしまい」「日本軍は焼跡にさっそく慰安所を建てた。『こんどは軍が直接やることでしょ、どうしようもないさ。ほんとに、どうしようもなかった』。M子さんはそこで、ぴたりと口を閉ざした」「慰安所は軍属も利用できた。小学校の高等科を出たばかりで、弾薬運びや糧秣配給にあたった小さな軍属たちにも、月1枚の慰安所券があたえられたという」(32~44ページ)
(その76・2)南洋群島・トラック島。
「慰安婦ーその名が示すように、戦地の将兵たちを慰める〝軍事要員〟である」「芸者・菊丸もその一人」「芸者・菊丸が高級将校用の慰安婦として当時の南洋群島トラック島に渡ったのは」「昭和17年3月17日であった。満19歳になったばかりのときである。菊丸さんは義務教育を北海道の夕張市で終えると」「17歳で東京・西小山の花街で芸者になった」「『私と仲のよかった仲間で五十鈴ちゃんというのが、南洋の前線基地で働こうという話を持ってきたのよ。お給料もかなりだったし借金も払ってもらえるという話でね』」「菊丸さんは、親友の五十鈴ちゃんとともに約100人近い女性たちとともに日本を離れたのだった。『横浜を出て神戸に寄って、それから韓国の釜山で韓国人の女性もかなり乗船しました。彼女たちは私たちと違って志願ではなかったようで、チョゴリを着て乗り込んできたのですが、「アイゴ、アイゴ」と泣くのがなんとも悲しくて……私たちもつられて泣き出しましたよ。ほんとうにあの日本を出発して、トラック島に着くまでのなんともわびしい気持ちは忘れられません』」「『上陸すると、そこがトラック島だったんです。最初はマーシャル群島に行く予定だったそうですが、マーシャルでは「女はいらん。兵と艦をよこせ」と断ったからなんだそうです』。女性たちは『士官用』と『兵隊用』に区別され、士官用だった菊丸さんたちは〝営業用〟の宿舎ができていなかったため、約1週間を沖縄人経営のクラブ『南海』で過ごす。兵隊用の女性たちは『第一南月寮』『第二南月寮』の2軒に分けられ、翌日から営業開始というあわただしさであった」「島での生活は想像以上に快適な毎日だった。偉い将校サンたちのお相手とはいえ、兵隊用の女性や民間の慰安婦と違って『1日1人』と決められており、それも島にいる少尉以上の将校は少なく、船が寄港したときに忙しくなる程度であった」「将校専用の女性たちは幸せだったといえる。というのは、すぐ裏には横須賀の『小松』という民間経営の慰安所が出張営業をしていたし、また一般兵隊用の女性たちは、1日1人などという贅沢は認められなかったからだ。『私の知っているもので、1日に65人を相手にしたのが新記録だったと覚えています。その女性は翌日から2日間も起き上がれなかった』」「南洋の島々にも戦火が迫り、急を告げはじめてきた。希望者(もちろん女性だけ)は日本に帰ることになったのである。昭和18年12月、第一陣が『朝日丸』で帰国した」(339ページ~349ページ)

〔その77〕林えいだい著『松代地下大本営ー証言が明かす朝鮮人強制労働の記録』明石書店、1992年発行。
(その77・1)長野・松代。
「(金錫智・元西松組社員の証言)西松組の経営ではないが、(岩手県のダム工事現場の)宮守では慰安所があった。徴用でひっぱられた朝鮮人は金銭面で遊びに行けないが、穴くりの技術屋とか親方連中が遊びに行った。そこにおる女の子は、みんな朝鮮から連れてきていた」「日本人や朝鮮人相手の慰安所だ。そこにとっても色の白い別嬪さんの娘が何人かいて、男たちが奪いあうような売れっ子がいたんだ。西松組が集団を連れて松代工事に移ってくると、宮守じゃ商売ができないから、少し後になって追いかけてきて、(松代の)西条で慰安所を開いた」「慰安所にはいつもマッカリがあって、朝鮮人の親方だけでなく、日本人もずい分遊びにきたらしい」(345ページ)
「(崔小岩・元西松組下請飯場労務者の証言)西条村の児沢さんちのところの屋敷にある工場の娯楽場が、西松組の慰安所になった。そこに親方が1人おって、朝鮮人の娘が6人いたんだ」「そこの慰安所は、わしたち朝鮮人が簡単に行けるところじゃねえんだ。西松組の幹部とか、下請けの朝鮮人の親方連中が上がって、酒を飲んで賭博をしたり、女を抱いて騒ぐだけさ。(たまたま慰安所前で)2人会った中の一人が崔という女でこれは別嬪でさ、男が見たらとても腹の虫が治まらねえような女で、それをわしはようしっとったんだ。その女たちは、岩手県の宮守のダム工事現場近くの料理屋にいたんだ。その女たちは女子挺身隊として、西松組の炊事婦ということで連れてこられて、結果的には料理屋というか、西松組の慰安所に置かれたんだ。西松組の副隊長の村井という男は岩手県出身で、樺太のタコ部屋をやったり、最後には松代にきて女まで慰安所に置いたんだ」「矢野隊長とか村井副隊長は、昼間に行って女を抱いて、夜のカスは飯場の親方たちが抱くんだ。従軍慰安婦と一つも変わりはしねえ」(461~463ページ)

〔その78〕青木孝寿著『改訂版松代大本営ー歴史の証言』新日本出版社、1997年発行。
(その78・1)長野・松代。
「(大本営建設工事の幹部補佐役だった日本人の)証言の通りとすると、『慰安所』を利用したのは朝鮮人ということになる。ただ一般の朝鮮人労働者は激しい労働を課せられているのだから、利用するはずがない。とすれば朝鮮人の飯場頭とか監督者などが来ていたのではないだろうか。児沢も、『客は多かったが、日本の軍人などは来なかった。上部の朝鮮人しか来なかった』と語っている。こうしたことからすると、松代の『慰安所』は、『労務慰安所』という区分にはいるものと思われる」「日本人の軍人・軍属は、長野市内にあった遊郭をしばしば使ったようである」(195~196ページ)

〔その79〕内海愛子ら編『ある日本兵の二つの戦場』社会評論社、2005年発行。「ある日本兵」近藤一は、1940年から独立歩兵第13大隊・第2中隊の兵隊として、44年8月中旬までは中国、その後、沖縄に移動し、米軍の捕虜となる。
(その79・1)昭和15年?、中国・山西省。
「(大隊本部のある山西省の)遼県までの途中」「トラックが10台くらい焼けたのがずらーっと並んでいたのを見ました」「古兵さんが『あれは日本軍のトラックや』と言いました。その古兵さんの話では、トラックには『朝鮮ピー』も乗っていたそうです」「何のことかわからなかったので、『朝鮮ピー』とは何なのか尋ねました。すると、それは朝鮮から来た〝おやまさん〟のことや、ということでした。当時はそんな風に呼んでいて、『慰安婦』とは言っていませんでした」「彼女たち5、6人は小隊が全滅した時に一緒にやられてしまったということでした」(50~51ページ)
(その79・2)山西省・晋祠鎮。
「中隊長のもとには、1週間に2、3回、(晋祠鎮の北方にある)太原から和服を着た女性が来て泊っていきました」(76ページ)
(その79・3)山西省・太原。
「朝鮮人女性の慰安所へも1回行ったことがあります。そのおりに女性が言うのには、自分は慶尚南道の出身で、家が貧しく兄弟が多いから、お金が儲かるということで、工場かなんかで働くのかと思ったら、ここへ連れてこられた。それでも、お金を半年間家へ送って、家のほうでは喜んでもらっていると、そういう話でした」(87ページ)

〔その80〕篠田有策著『椰子の葉隠れ』暁印書館、1970年発行。篠田は、大正末期、南洋倉庫という外地会社に入社し、ジャワ、シンガポールなどに勤務。昭和20年に社長となる。この間の南方生活の追想集。
(その80・1)シンガポール。
「戦争中昭南に南方総軍司令部が出来たので必然的に女の塞が沢山出現したが、台北のカフェ、モンパリの息子三谷君が乗出し喜楽園という名でジャンジャンやっていたが、そこで働いて居た久保という母子のホステスが居たが、娘の幸江は戦後日本でトンコ節で当てよった」「又御江戸の本格的待合小松が同地に進出し華々しくやって居た」(65ページ)

〔その81〕山室軍平著『社会廓清論』中公文庫、1977年発行(単行本は、警醒社、1914年発行)。山室は、日本の救世軍創設者で公娼廃止運動の指導者。
(その81・1)
「ことに最も奇怪なるは、兵営の附近に遊郭を設けさするという方針である。今や全国到るところ、兵営があってその附近に遊郭の設備のない所は、ほとんど稀なくらいである。先年北海道の旭川におけるごときは公娼を設けて軍隊の便宜を図るという口実の下に、男女の諸学校に近いところへ新たに遊郭を置いたような例(ためし)さえある」(120ページ)

〔その82〕大宅壮一著『炎は流れる(3)』文春文庫、1975年発行。
(その82・1)
「『朝鮮民主主義人民共和国』の首都となっている平壌に、戦前には〝妓生学校〟というのがあった。わたし(大宅)がこの学校を訪問したのは、昭和10年で、満州へ行く途中だ」「妓生は京城だけに約500人いたが、数の多いのは晋州(慶尚南道)で、そこのハエの数よりも1人多いとまでいわれていた。しかし、妓生の本場はなんといっても平壌で、妓生を養成する学校もできているときき、友人の案内で見学に出かけたのである。この学校は、〝官妓学校〟の後身で、検番の付属事業として設立され、資本金2万円の株式会社になっていた。規則書を見ると、入学資格は『普通学校(小学校)4年修了』『身体発育完全なる女子に限る』、それに『品行方正にして学業を勉励し、その成績優秀なものにたいしては、賞状ならびに賞品を授与す』と書いてあった。『〝品行方正〟とはどういうことを意味するのか』と、わたくしが質問すると、校長は笑って答えなかった。学科は、朝鮮や日本の歌舞音曲のほか、国語(日本語)、朝鮮語、算術などの普通教育課目、とくに習字や図画に重きをおいているようであった。というのは、生徒の作品展覧会を見て感心したからである。このあと、有名な牡丹台の料亭に招かれ、その席上で妓生の腕をためそうと思い、もっていた扇子を出して、これになにか一筆書いてくれといったところ、ボタンの絵と、そのころ流行していた『小原節』の文句をすらすらとしたためた」「彼女(妓生)たちの月収は、一流だと300円以上、三流でも100円にはなったという。税金は月額5円。妓生には、亭主をもっているのもあるが、これは妓夫太郎を兼ね、客にたいするサービスのしかたなどをいろいろとコーチするのだ。妓生の下には、日本の〝みずてん〟に相当する〝サンパイ〟というのがある。娼妓にあたるのが〝カルボウ〟で、京城でも平壌でも、日本の遊郭や私娼窟のように、一区画をなして営業していた」「彼女(妓生)たちはほとんど自前で、自宅に起居して料亭に呼ばれて行くのだから、日本の芸者よりもずっと自由な立場にある」(207~211ページ)

〔その83〕呉公論社編著『呉ー明治の海軍と市民生活(復刻)』あき書房、1985年発行。「第19章 遊廓、旅館、料理屋」中の「遊廓設置」の項。
(その83・1)
「呉鎮守府設置せられ、所属軍人の員数増加するに伴ひ、軍隊衛生及風紀維持の必要上、公娼制度を採用するに至るは、他の軍隊所在地と其揆を一にする所なり。而して當地方に於ける有志者も亦遊廓の設置を以て、土地繁栄の一策なりと信じ、種々協議の末、先づ吉浦村に之を設置する事となりぬ。然れども、吉浦は交通頗る不便にして、豫期の目的に副う能はざるより、遂に(明治)27年に至り新たに荘山田村に一廓を開設するに決し」「其筋の許可を得、28年開設を見るに至る。是れ朝日遊廓の濫觴なり」「朝日遊廓は、37・8年戦役後、更らに一大発展をなし、41年現在の貸座敷営業戸数は58戸、仲居数42名、妓夫42名にして、娼妓数561名を算したり」「廓内の最も殷賑を極むるは艦隊の出入當時、さては例月軍人職工の給料支給後の数日間なり」(230~232ページ)

〔その84〕浜田耕作著『東洋美術史研究』座右寶刊行会、1942年発行。「遼西義県の石窟寺」の章は、昭和8年5月、浜田が訪れた石窟寺の訪問記。同年12月に発表されたようだ。満州の大連、奉天、錦州を経由する汽車の旅だった。
(その84・1)昭和8年、満州・錦州。
「錦州へ着いたのは午後の3時頃であった。錦州は今熱河へ入り込む分岐点として、特に駅前『建国ホテル』の辺から城外の繁華はすばらしいものがある。人車を列ねて城内の『錦州ホテル』に急ぐと、城門まで凡そ10町ばかりの間に『女髪結』の看板が数ヶ所に見受けられるのを見ても、如何に我が娘子軍の進出の勇ましいものがあるかが窺はれ、私達の車と行違ひ或は並行して走る人車の上にも連続して彼女達の姿が見受けられた。実際又た熱河へ侵入する娘軍士の此処に待機しているものが多いので、一層彼女等の優勢を来しているとのことである」(121ページ)

〔その85〕永末英一著『戦争から平和へ』永末英一後援会、1978年発行。永末は、昭和17年1月、海軍経理学校に入校した。同書中、1972年に行われた海軍経理学校同期生による「ラバウル周辺戦死者追悼座談会」の一節。
(その85・1)南洋・ラバウル。
「松浦 石川についちゃおもしろい話があるんだけどね」「山の上の料亭に行ったんだよ。そうしたら一人、住友につとめておった女の子がだまされてきちゃったというんだ。石川と2人でヒューマニズムを発揮して、11航艦の施設参謀のところへいけばいいというんだ。施設参謀のところに行って何とか帰してやってくれといって、とうとう帰してやった覚えがある。
下門 あれ南洋貿易か何かのレジスターをやっててね。あれだけは手をつけるなというふれが回ってきたんです。
松浦 石川が住友なんだ。あいつはえらい同情しちゃって。『あれは絶対帰すべきだよ』といっちゃって。
須田 女性哀史だけど。山の上のはみんなだまされたのだよ。
西脇 だんだんそんな話になるけどね。おれは君に連れていかれて、おれは清潔だったんだけど、話は聞いたよ。船でとにかくマニラ水交社の事務員にするんだといって連れてこられたんだけれども、船は太平洋で東に向かった。『さあ、君はどうするか』、船の上でどうするかといわれたってしょうがないから、船のままラバウルに入りましたと、こういったよ。だまされたんだね。
永末 山の上は何ていうの。
西脇 第一羅春荘だろう。
下門 初期のころはなかったんだよ。最初のころで、その女だけが、美人だったよ。たしかに。南洋貿易という民間会社がコーヒーショップをやってたんだ。そこに須田あたりがよく飲みにおりていった。艦隊から、あの女には手を出すなという回覧板がきたよ。あの女は帰ったんだろう。
松浦 そうなんだよ」(54~55ページ)

〔その86〕和田重信著『五黄の寅ー和田重信遺稿集』私家版、1990年発行。和田は、昭和17年3月、召集され、中国を転戦、21年、復員。同書中、「無法衛生兵ー軍隊の想い出」の1節。
(その86・1)中国・南京?。
「我々の駐屯する楠林橋には支那兵の保安隊があり日本軍に協力していた。橋爪衛生兵は或る日、この支那人保安隊の一個小隊を指揮し周辺の部落を略奪して、おびただしい牛、豚、鶏、米、酒等を取って帰ってきた。保安隊長某が淋病にかかって苦しんでいるのに対し、橋爪は衛生兵の特権を利用してサルバル酸の注射をしてやり、その代り保安隊を借りて略奪に行ったわけである。その獲物は、難民区に売られ、彼は莫大な金を握ったのである。難民区にいる支那人や日本の商人との賭博は彼の持金を益々大きくした。彼は縫工兵にカバン大の財布を作らせ、それに紙幣を入れて常に持ち歩いていた」「我々の部隊が武昌の南西にある陽新に移動した時」「彼は慰安婦の中から美人のクーニャンを買いとり、難民区に家を持たせて、其処から医務室に通って居た。炊事班長は彼の命令によって将校よりも上等の食事を届け、酒やビールや煙草は彼のメモ1枚でいくらでも持って行った。彼の莫大な紙幣が、彼の腕力の強さと相俟ってこの威力を発揮していたものと思われる。討伐に行った中隊が牛の獲物をひいて帰ってきた時、僕の指揮班はその牛を殺して宴会をやった。その時である。橋爪のメモが炊事に届けられるとビールと酒が何箱も直ちに届けられ、慰安婦が数名サービスにやってきたのには僕も全くびっくりしてしまった」(71~73ページ)

〔その87〕牛島秀彦著『もう一つの昭和史③謀略の秘図辻政信』毎日新聞社、1978年発行。
(その87・1)中国・山西省。
「北京での国府居留民引き揚げ、復員交渉が進捗するにつれて、太原その他山西省各地でも1945年末から一般居留民の引き揚げがはじまった。兵隊たちは、鉄道沿線のトーチカに配置され、引き揚げ列車を見送った。この間、兵隊たちは完全無給で、ただ敗戦前と同じように、上官の命令に服従する日々であった。一方、その上官たちは、町の日本人料亭が解散し、引き揚げをはじめると、帰国途中の日本人芸者を奪い合いで将校宿舎につれこんだ。その将校宿舎には、それぞれ当番兵をつけており、当番兵は将校連の桃色生活の始末から、女の〝徴発〟までさせられた」(148~149ページ)

〔その88〕牧久著『特務機関長許斐氏利』ウェッジ、2010年発行。
(その88・1)中国・南京。
「南京での長勇についてもう1点、触れておきたい。東京裁判で田中隆吉は『彼は、南京での婦女強姦に言及しましたか』と検察当局に訊かれ、『長大佐はわれわれに、将兵があまりにもしばしば婦女を強姦するので、それを防ぐために南京に売春宿を開設した、と語りました』と答えている。南京での『軍慰安所の設置』は、中支那方面軍の指示に基づいて行われ、同方面軍参謀も兼務していた長がその担当を命じられている。といっても、実際に裏方として、慰安所設置を実行したのは長の〝影〟であった許斐氏利だった、とみてもよい。氏利はこの時、上海の地下組織と接触し、上海の売春婦を駆り集め、南京に送り込んだ、といわれている。上海は当時、世界で最も売春婦の多い都市だった。その際に強制連行したいわゆる『従軍慰安婦』がいたかどうか」「彼(許斐)は南京について戦後、口を閉ざし一言も語らなかったが、終戦直後、米軍が日本に進駐した際、『日本の婦女子を守るため』と、いち早く博多に米軍専用のキャバレーをつくった。それはこの時の暗い記憶があったからだと思われる」(189~190ページ)

〔その89〕工藤美代子著『海燃ゆ』講談社、2004年発行。
(その89・1)南洋・トラック。
「(山本)五十六が(戦艦)大和にいた頃、夏島には貿易会社、商店、役所などなんでもあって賑やかだった。1区画ずらりと料亭、待合が並び、少し離れたところに慰安所もあったという」「この中で『小松』という店は、海軍関係者の間ではかなり有名である。阿川弘之著『山本五十六』のなかに、トラック(島)には横須賀の『小松』の出店があったという1文がある。『いわゆる「海軍レス」で、露骨に言えば慰安所であるが、もうすぐ60というのに、従兵たちの話がほんとうとすれば山本は時々陸上の慰安所へも通って行ったらしい』と書かれている」「『小松』は、横須賀に海軍鎮守府がおかれた明治17年の翌年にはもう開業している」「山本五十六も横須賀の『小松』によく来た」「その出店が夏島にあったのなら、五十六としては、さぞや懐かしかっただろう。当時の夏島の料亭は、料亭とは名ばかりで、1階で食事や酒を出したが、2階は女性たちが客を取る小部屋になっていたそうだ。日本の女性だけでなく現地や朝鮮の女性も交じっていたが、やはり多いのは日本から出稼ぎに来た女性たちだった」(398~399ページ)

〔その90〕遠藤隆次著『原人発掘ー古生物学者の満州25年』春秋社、1965年発行。遠藤は、東北大学で古生物を学び、満鉄に入社。昭和8年3月には、満州教育専門学校の教授で、関東軍嘱託でもあった。同月、関東軍特務部が熱河省石油調査班を組織し、遠藤もその一員となり、熱河の入口・北票につく。
(その90・1)昭和8年、中国・北票。
「北票に来てみれば、当時の前線の状態は『飯より弾丸』という有様。現地部隊の乗用車はもちろん、トラックまでも全部、前線方面に出動した後とあって、さらに奥地へ行くためには、民間から臨時に徴用されたトラックにやむをえず便乗するにいたった」「用意万端よしとあって宿の前に出てみると、こはいかに運転台にはすでに鮮系上美人が鎮座ましまし、われらの一行は、一旗組とも思われるアンチャンや鮮系中美人もろとも荷物台の上におしあげられてしまった」「泥海に車輪をのまれ、立ち往生すること十数度。そのつど鮮系美人を除いた他の全員は荷台からとび降り、車を押すやら引くやらの大騒ぎを演ずるのである」「前線では弾丸よりもなお役に立つとか承る美人が座したもうトラックを歯をくいしばりながら押しまくったものである」(23~25ページ)

〔その91〕佐野裕二著『53年目の仏印戦線』日新報道、1998年発行。佐野は、仏印派遣軍司令部宣伝部にフランス語通訳官として勤務する。
(その91・1)仏印・サイゴン。
「1944年11月、南方総軍がマニラを撤退してサイゴンに来ることになった。開戦当初、南方総軍はサイゴンにいたそうだが」「42年には、シンガポールが陥落すると同地を昭南と改めて移り、フィリピンを制圧するとマニラに行き、戦況が悪化するとふたたびサイゴンに戻ってくることになった」「総軍と一緒にマニラから引き揚げてきた日本料亭が、サイゴン市内でずらりと開業し、夜毎に高級将校たちの乗りつけた軍用自動車が料亭の前の道路を占拠するようになった」「各料亭には軍用の司令部直通の電話が備えられていた」(80~82ページ)

〔その92〕NHK取材班著『NHKスペシャル・幻の外務省報告書ー中国人強制連行の記録』日本放送出版協会、1994年発行。
(その92・1)1944年、富山・伏木。
「20年余りにわたって中国で生活をしていた」「中国体験を買われて」「本間氏は、1944年の3月か4月頃から内務省の嘱託として、中国人を働かせていた各地の事業所に、合わせて20回程度の視察旅行を行っている。この視察旅行には、常に内務省外事課の理事官か事務官が同行し、事業所に対して、さまざまな指導を行った。中国人が最初に『試験導入』された富山県の日本港運業会伏木華工管理事務所への指導を見てみる」「本間氏はまず、中国人の食事の量を減らすよう勧告している。また、宿舎の設備や衛生施設、それに衣服も汚れて不潔だが、中国人にはこれで十分だとしている。なお、伏木には5人の中国人女性が慰安婦としていたが、中国人労働者のボスが独占していたので、彼女たちを連れ去るよう勧告したという。この勧告が出たため、中国人強制連行で慰安婦が置かれたのは、『試験導入』で最初に中国人が連行されてきた伏木だけにとどまり、それ以降、事業所に慰安婦が連れてこられることはなかった」(159~160ページ)
「資料1・昭和21年3月1日 華人労務者就労事情調査報告(要旨) 外務省管理局 」「4、処遇事情」「娯楽に関しては生活に潤を持たしむる為或る程度の措置講ぜられたるも性処理に関しては最初伏木に移入せる華人慰安婦の成績面白からず其後は此の種の措置講ぜられたるものなし」(228~232ページ)

〔その93〕大場昇著『世界無宿の女たち』文芸春秋企画出版部、2008年発行。同書中、「第3章半世紀ぶりに帰国を果たして」という題の善道キクヨについての話。キクヨは、人買いにだまされ、大正5年、マレー半島で娼婦生活をはじめる。昭和16年には娼婦をやめていた。
(その93・1)インド・デオリ。
「昭和16年12月、真珠湾の奇襲攻撃と時を同じくして、日本軍はマレーシアの東海岸コタバルに侵攻作戦を敢行した。マレーシアもシンガポールもイギリスの植民地だ。日本人であるキクヨは、敵性外国人としてイギリス軍によって(他の日本人らとともに)連行された」「収容所に入れられ、インタニー(被抑留者)として、手首に鑑別票をつけられ、番号で呼ばれた」「翌昭和17年1月、インドの収容所に移されることになり」「デリーの近くのプラナキラーの赤い城壁の古城に収容された」「1年後にはラジャスターンの砂漠の南東にあるデオリに、移動を命ぜられる。昼は60度の炎暑、夜は零下という気候と栄養失調で、1割以上の350名が命を失った」「ドイツ人やイタリア人も収容されていた。戦線婦人(従軍慰安婦)の朝鮮の若い女性も、20人ほど固まって生活していた」(93~94ページ)

〔その94〕徳川夢声著『夢声戦争日記(3)』中公文庫、1977年発行。夢声は、昭和18年1月、慰問先のシンガポールから、安芸丸に乗り、日本に向かう。
(その94・1)昭和18年1月、シンガポール。
「私たちの居所は、(安芸丸の)第四船艙である。所謂カイコダナというやつで、ハッチの鉄壁にそうて二重に床をとりつけてある。その上段に慰問団一同、男女とも押しこめられている」「私どもの床下には、妙な男女がいるなと思っていたら、女たちは朝鮮P(前線の慰安婦)であって、男たちはその支配人や、ヤリ手婆ならぬ爺どもである」(24~25ページ)

〔その95〕徳川夢声著『夢声戦争日記(5)』中公文庫、1977年発行。夢声は、昭和19年10月、東京から熱海へ向かう。その車中での話。
(その95・1)昭和19年10月。
「熱海行車中で虎眠亭の話。この頃吉原の女郎買が250円ぐらいかかるという。即ち花代70円、税金70円、金鵄1コ10円、お菓子一摘み10円、なんでも10円単位であるという。景気の好い産業戦士たちも、250円ではとても手が出ない」(186ページ)

〔その96〕徳川夢声著『夢声戦争日記(7)』中公文庫、1977年発行。夢声は、戦後、昭和20年9月、東京の「浅草松竹」に出演する。
(その96・1)昭和20年9月。
「楽屋に中野花柳界の小母さんあり、アメリカ兵たちの女買の実情を語る。大和撫子の特攻隊の話大いに銘記すべし」「夕方の五時になると、A兵の行列が物凄くエンエンと出来上がる。スン(即ちチョンの間)が55円、泊りが240円の定価。妓一人で毎夜平均8人位を引受ける。大抵はうんざりしてしまう。中には1時間で5人片づける妓もあり。ピストル騒ぎが三度ほどあり、以来憲兵が出張、夜10時を過ぐるや、各待合を点検し、残留の兵あらば、追い返す。追い返したる後、憲兵もまた金を払いて、寝て行くもあり。3人の憲兵で、順々に一人の妓で済ませ帰る事もあり」「嘗ては、断じて不見転などせずと、頑張り通せる佳き妓の、往生してA兵どもの手を引き、寝室に通うさまあわれ也。始めは、皆、降るアメリカに袖は濡らさじの気分なりしも、警察署長三度に亘る訓示ありて、いずれも思い直し、女子特攻隊の意気にて事に当れるよし。(もっとも、めぼしき妓は大部分事前に落籍されたり)」(241~242ページ)

〔その97〕高杉晋吾著『生と死の差別構造』三一書房、1983年発行。昭和17年5月、旅客船大洋丸はマニラに向かう途中で米潜水艦に撃沈される。同船には、「南方占領下の資源動員」に徴用された民間技術者ら約1400人が乗っていた。生存者は541人。同船と船団を組んでいた船に乗っていた兵士の証言。
(その97・1)昭和17年5月。
「大洋丸で遭難して助かり、これからボルネオに行くという人の話を聞いた。それによると、『大洋丸が沈むとき、和服姿の女たちが縄梯子で船から降りようとしていた。風で裾がめくれると、それを押さえようとして片手になる。それでバランスを崩して海に落ちていった女性をたくさん見た。慰安婦さんたちだろうが、可哀相だった』と言うのです。私自身も大洋丸に乗船するとき、艀に多数の女性が乗り込む姿を見ました」(65~66ページ)

〔その98〕『サンデー毎日臨時増刊(1976年6月15日号)』毎日新聞社。同号は、「ついに公開された外務省極秘文書・日本占領秘録」の緊急編集版。このうち、「インド北西部デオリの日本人収容所で、敗戦を信じない“勝ち組”と敗戦を認める“負け組”が反目、ついに暴動に発展して、鎮圧のインド兵らによって男女19人が死亡した」の前書きで紹介された資料中、「日本人抑留者の死亡について」。この資料には死亡した抑留者のリストが添付されていた。その解説を編集部が注書きしている。
(その98・1)昭和21年2月、インド・デオリ。
「(リストにある)死者30人の内訳は、病死が男7、女4、射撃の結果死んだものが男14、女5、うち1人が朝鮮人らしい名になっている」(66~68ページ)

〔その99〕榎本留蔵著『三冊の手帖ー一兵士の日中戦争従軍日誌』朝日新聞出版サービス、1998年発行。榎本は、近衛歩兵第一連隊に入隊し、陸軍二等兵として、昭和14年12月から昭和15年12月まで、中国・南方に派遣される。
(その99・1)昭和14年12月、中国・太平場。
「中央の広場に、軍の公用バスが止まっていた。和服の女が満席している。慰安婦たちで、聞くところによれば、日本人、台湾人、朝鮮人の混成であるという。今までここにいた部隊が引き揚げたので、彼女たちも後を追って、どこかに移動するのであろう」(55ページ)
(その99・2)昭和15年2月、中国・欽県。
「街にはまた2、3軒の慰安所が出来た。駐留する兵隊が多くなると、それを追いかけるようにたちまち慰安所が出来る。『喜久和』『戦勝』『突撃路』、そんな名を書いた表札が、うすきたないれんが造りの家の入り口に下げてある。そこで遊ぶ兵隊よりも、好奇の目をもって横目で通りすぎる兵隊ばかりである。私の周囲の兵隊の一人として、こういう所で遊んだ者はいない。慰安所の中は全くおそまつで、民家の部屋を板張りで仕切って、3畳くらいの小部屋が連続しているという。慰安所の移動には、軍の自動車を利用している。行き先もきまっている。すべて軍の指示によって動いているようである」(153~154ページ)
(その99・3)昭和15年8月、中国・南寧。
「(8月15日)今日は外出の許される日である」「大日本国防婦人会南寧支部(会員のほとんどは慰安婦)主催の慰問演芸もあるが、戦友たちも気のりがしないといって、宿舎でごろ寝をするという」(248ページ)

〔その100〕富村順一著『十字架と天皇』たいまつ新書、1977年発行。富村は、1930年、沖縄で生まれ、1955年、沖縄を抜け出し、日本各地を放浪。1970年、東京タワー展望台で米人宣教師を人質にし、沖縄・天皇戦争責任問題を訴えてたてこもる。
(その100・1)
「昭和23年ごろ、第一回目の沖縄知念刑務所を出所したころのことです」「私は5千円をもってパンパン町というところへ遊びにいったが、女たちは『ニンニクくさい、ニンニクくさい』といって私に寄りつこうとしない。母のつくってくれたスキヤキにニンニクがたくさん入っていたので、くさかったのだった。ただ一人の女が逃げずにいて、『ニンニク食べたの』ときいていた」「その日は町をブラブラ歩いて帰ったが、翌日もそのパンパン町にいくと、昨日ニンニクの話をした女が私のところへきて、ニンニクを売っている店を知っているかときいた。沖縄でニンニクの漬物を売る店はないので、母が自家用として漬けていることを話すと、女はお金とタバコをあげるから、あなたのお母さんからニンニクを分けてもらってくれとたのんできた」「その女は本土の女で花子といっていた。人の話では、戦後本土から流れてきたとのことだった。私はすぐ家にいって母からニンニクを受け取って花子のところへいくと、また金を千円出し、酒と肉を買ってきてくれとたのまれた。私が酒と肉を買って帰ると、花子は、今夜は仕事をやめるから2人で一杯飲もう、といいだした」「花子は一軒の家を借りていたので、2人で花子の家にいった」「(スキヤキの)全部準備が終わると花子は手を洗い、ふところから二枚の写真をとりだして、タンスの上に並べ、その写真の前に酒とニンニクに味噌をまぜたものを置き、私のわからない言葉で泣きながら写真に話しかけていた。私は花子がなぜこんなに泣き、酒をガブ飲みするのか意味もわからず、酒を飲む気にもならないでいた。酒がまわった花子は泣きながら、私は日本人でない、朝鮮ピイだといいだした。花子から朝鮮人であるときかされるまで、本土の女とばかり思っていたので、朝鮮ピイときいて、私はびっくりした。花子は泣きながら、日本人は鬼より悪いヤツ、とののしっていた。よくきくと、花子には親類もなく、一人の姉さんも日本軍のために身投げをしたとのことだった。
 姉さんには婚約者がいたが、戦争がはげしくなったので朝鮮人も軍人として出征することになり、相手の婚約者も軍隊にとられたという。そのため、姉さんも野戦看護婦として志願することになったので、花子一人では淋しいもんだから、お姉さんとともに志願したとのことだった。1か月ほど看護婦の学校で学んでから『満州』へ野戦看護婦としていった。そこで10日間ほど仕事をしていると、軍医から5、6日軍人の慰問にいくようにと命令があった。そこへいってみると、慰問というのは軍人相手の売春であって、その夜にむりやりに日本軍人の相手をさせられた。花子たち姉妹2人だけでなく、ほかにも何人かの朝鮮人女性がその夜から売春婦にさせられた。花子も姉と同じように、その夜生まれてはじめて男を知ったという。花子はその話をしながらタンスの上から写真を取ってきてわたしにみせてくれた。写真には花子と姉が白い看護婦の服装で写っていた。姉はそれから3日目に投身自殺した。姉は婚約者にすまないといい、日本人を心から憎しみののしって死んでいったという。花子は自分は意気地がないから日本軍にオモチャにされても自殺することができなかったと、くやし涙で話していた。
 戦争がはげしくなり、花子たちの部隊は南方方面へいくことになり、13人の女たちといっしょに船で南方へ出発したが、花子たちには港の名前さえ教えてくれなかった。南方方面へいく船は5、6隻で船団を組んでいったが、途中何隻かがアメリカの潜水艦に沈められたため、花子たちはやむなく沖縄におろされたという。沖縄では、はげしい戦争のさなかでも、毎日何十人となく日本軍人の相手をさせられ生きた心地はしなかったという。
 花子は少し足を引きずっていたが、戦争中米軍に撃たれたといっていた。花子は一人で酒を飲みながら、ときどき朝鮮語で写真に話しかけたり、泣きながら写真にほほずりをしていた。私も花子の話をきき、男泣きに泣きながらひと晩じゅう花子と飲み明かした。朝になると、花子も酔いが醒めたらしく、自分が朝鮮人であることを人にいってくれるなとたのんでいた」(138~142ページ)

(2014年6月18日掲載)

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