地震で多数の女工が亡くなった-『女工哀史』を読む 6- (松沢呉一) -3,294文字-
娼妓が白米を食えるのは当たり前
明治時代だと、遅い朝食は、楼主と同じ物を食べることも多かったようだ。通常、食事代は楼主が負担である。古くからのしきたりで、楼主と娼妓は、同じ卓袱台で食事をしない妓楼もあったようだが、私が以前読んだものでは、同じ卓袱台あるいはテーブルで食事をするとあったので、この妓楼については格差がない。上座に楼主が座るくらいのルールはあったにしても。
客と一緒に寝られると言っても、熟睡はできないし、中には朝まで繰り返ししようとする客もいるため、朝食が終わってから、睡眠をとる娼妓も多く、朝食はあっさりしたものだ。
仕事が始まる前に遅い昼食をとるが、斎藤真一著『吉原炎上』には業者が各種総菜を持って来て、その中から娼妓が選べるようになっていたと書かれている。
妓楼が出す食事は工場と同様、ご飯とみそ汁とタクワンだけで、あとは娼妓たちが好きなものを買ったということなのだろう。
白米を食べられるだけで幸せだと感じる層が日本には多数いたわけだが、その上、自腹であっても好きなものを好きなだけ食べられたわけだ。工場とはワケが違う。
あくまでいい客がつけば、ではあっても
晩飯は客とともに食べるので、庶民では口にすることができないようなものにもありつけた。遊廓内に、あるいは遊廓外にも各種の料理屋があって、そこから取り寄せるのだが、吉原のような大きな遊廓であれば、当時の日本で食べられる、ありとあらゆる食事ができたと言える。
明治に入ると、吉原には牛肉屋が二軒できていて、牛鍋やステーキのようなハイカラな食べ物も食べることができた。見栄を張る場所だから、梅干とタクワンの食事をする客はいない。その前に食事を済ませてから来るとしても、土産を買ってくるのが粋な客だ。残り物は捨てたりせず、翌朝、皆で片付けたりもしただろう。
馴染みをつかんでいない娼妓だと、客がつかない日もある。その時は自腹で食べることになるが、金が惜しいので、タクワンと梅干し、茶漬けということもあったろう。しかし、翌日、客がつけばまたうまいものを食える。
運動をするわけではなく、三味線以上に重いものを持つわけでもないのだから、太るのは当然かもしれない。
工場では買い物さえも制限された
客が通し物(出前のこと。「台の物」とも言う)を料理屋から頼むと、楼主が手数料を抜く。これも「金の亡者」と楼主が批判される根拠となっているが、そうせざるを得ない事情があった。税金である。
今の飲食店、風俗店は、比較的脱税が容易な業種だったりするが、当時、遊廓に対して税務署のチェックは非常に厳しく、売り上げに対して、通常の商家にかかる税金の数倍の税金がかかるため、すべての売り上げに、いちいち税金分を上乗せするしかなかった。もとの値段より手数料の方が高いこともあったようだが、とれるところからとっておかないと赤字になりかねなかったのである。
今だって、メシを頼めるラブホもあるし、飲み物だって冷蔵庫に入っているが、原価で販売しているわけもなく、遊廓だけがなぜ原価販売しないと文句を言われるのかワケがわからない。
地域によっては通し物の代金の一部が、娼妓の取り分になったので、「娼妓も金の亡者」ということになってしまおう。
対して工場では税金上の事情はないはずなのに、やっぱり値段を上乗せしていた。工場内にも寄宿舎にも売店があって、日常雑貨は買える。外出が容易ではないため、身の回りのものは売店で購入するしかない。ここで給金をしっかり工場が吸い上げるようになっていて、市価より高い値段がつけられていたと『女工哀史』にある。
遊廓では貸座敷組合が商品の共同購入を実施していたため、身の回りの商品は妓楼を通して購入することが勧められていて、ここでも妓楼が利益を得ていた可能性はあるが、客が高い石鹸を土産に持ってくることまでは制限しようがなかったろう。
対して外部との接点のない女工が売店では買えないものが欲しい時は、塀から金の入った風呂敷を垂らして、外の店から買ってきてもらうが、これは規則違反であり、それを防止するため、また、無断で外に出ることを防止するため、塀の上には竹槍やガラスなどを立てていた。まさに監獄である。
寄宿舎によっては島に建てられていたため、無断の外出などできるはずがなく、いよいよ工場内で買い物をするしかない。これでは監獄島だ。
死者が出やすい事情
明治三四年、大阪で地震があって、青蓮寺川の中洲に建てられた寄宿舎が倒壊。逃げることもできず、三百人もの死者が出ている(手元にある地震関連の資料を見たのだが、この年、大阪で大きな地震があった記録が見当たらず、著者の勘違いなのか、小さな地震にもかかわらず、大きな被害が出たのか)。遺体の回収にも手間取り、顔面が潰れていたため、個人を特定することも困難だったという。
当時の工場はレンガや石を使用した建物が多く、また、都市部の工場では、土地代を浮かせるため、二階建て、三階建てになっていた。その中に重い機械を入れていたため、地震が来たらひとたまりもなく、機械とレンガの間に挟まって死亡したのが多かったことが推測できる。
関東大震災でも、数で言えば木造家屋の火災による焼死者が多かったのだが、レンガや石づくりの建物が倒壊して圧死した人も少なくはなくて、工場では火が出る前に犠牲者が出やすかった。
「遊廓では門を閉じて逃げられなくした」というデマを今も語っている人たちがいるのに対して、門を閉じる必要もなく逃げられなかった女工たちについてはすっかり忘れられている。女工の哀れこそを感じないではいられない。
それでもこの工場の場合は慰霊塔が建てられただけまだましである。関東大震災で慰霊碑が建てられた吉原の娼妓なみの扱いはされたと言っていい。
しかし、明治二五年に大阪の紡績工場が火災で焼けて、数百名が死傷した時には慰霊塔さえ建てられず、工場の創設者の銅像が建てられているだけだと書かれている。
※写真は関東大震災時の万世駅
関東大震災での噂
『女工哀史』が雑誌「改造」に発表されたのは一九二四年(大正一三年)で、その前年の九月には関東大震災があった。執筆したのは、まさに関東大震災の年のことである
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