従軍慰安婦は性奴隷とする意見に対し、「性奴隷ではなく、ただの売春婦」と否定する声がある。「ただの売春婦」論にはいくつかの意味が含まれている。そのひとつは、当時、日本には合法的な公娼制度があり、従軍慰安婦制度も同種のもので、とりたてて問題視することもないというのだ。正論のように聞こえるが、実は、これはとっくの昔に決着のついている話なのだ。
例の「マリア・ルス事件」を思い起こしてほしい。明治5年のこと、ペルーの船・マリア・ルス号が横浜に寄港したとき、乗船していたのが中国人苦力約230人。人身売買による奴隷として、中国から連行されてきたのだ。その存在を知った時の神奈川県権令大江卓は、人道上許しがたいと彼らの解放を目指し、裁判に持ち込む。ところが、ペルー船船長のイギリス人弁護人が「この裁判は不当だ」と声を張り上げる。「人身売買は日本の法律で禁止されていない。日本にも奴隷制度がある」と例示したひとつが公娼のこと。「この制度を持つ日本に、奴隷問題を裁く資格はない」と反論したのである。
日本では当たり前の存在であった公娼が国際的基準では奴隷と同じだったとは、これは非常にまずい。そこで、「この頃の事務処理としては異例の早さで、このときの大蔵大輔井上馨が、当時の立法機関である正院に、つぎの建白書を提出していた」「『今や時世文明に赴き、人権愈々自由を得』『然るに尚、人の婦女を売買し、遊女、売春其の他種々の名目にて、年期を限り或いは終身其の身心の自由を束縛し、以て渡世いたし候者これあり、かつて亜米利加州にこれあり候売奴と殆ど大同小異の景況にて、其の者憫然たるは申す迄もこれなく、実に聖代の欠典、嘆息の事にこれあり』『上は朝廷を始め奉り、皇国人民の大恥これに過ぎず』」と早急な対策の必要性を説いた。つまり、公娼はアメリカの奴隷同様であると認めたのだ。その公娼は専ら性交の対象であったのだから、性奴隷そのものである。
その結果、政府は明治5年10月2日、「太政官布告第295号」を出す。「娼妓解放令」と呼ばれ、「娼妓、芸者等の年期奉公人一切解放致すべし、右に付ての貸借訴訟総て取上げず候事」と定めた(従軍慰安婦の体験談等メモ・その345・1)。
しかし、実態は解放どころか自由廃業もままならず、経営者は貸座敷業者と名を変えただけで、公娼は存在し続けた。
「娼妓解放令」から約60年後、昭和6年、国際連盟の婦人児童売買実態調査団が来日した。一行は担当官庁、新橋の芸妓学校、吉原の妓楼見学をはじめ、救世軍や矯風会などの廃娼運動家たちと面談する。「この調査団の報告書が昭和8年に発表されたが、東洋諸国の実状について500ページ余の大部のものであった」。日本軍が“慰安婦部隊”を組織し始めたころだ。「広範囲の人たちに会って勉強した調査団の成果のほどが、日本の項には盛られていた。日本政府としても『これらの少女を得る周旋業者が非合法、または秘密の方法を用いる必要がない日本』と記載され、世界に公娼国であることを喧伝された」(その439・1)。
公然と少女が人身売買され、娼婦にされ、遊廓が存在する。「公娼国」とは、国家公認の性奴隷のいる国という意味だろう。
しかし、買う男性にしてみれば、違法でもなく、金を支払って性交する売春婦としか見ない。兵士として従軍慰安婦と接したときにも、感覚はその延長線上にあったようだ。
だが、従軍慰安婦になった経緯はともかく、日本軍の“慰安婦部隊”に所属した公娼だからといって、性奴隷に変わりはない。公娼自体がそもそも性奴隷なのだ!
(草稿・2015年10月20日・最新更新)
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