日本人女性も拉致されたのだ!
従軍慰安婦集めの悪辣なだましの手口は朝鮮人女性の場合、かなり見られた。日本人の従軍慰安婦の場合はどうだろうか。たとえば、「内地で芸者をしていたが、慰安婦になって南方に行く話を耳にして、ひと稼ぎしてこよう」と勇んででかけた女性(体験談等メモ・その34)。陸軍省の要請で、東京の私娼街の私娼たちなどが出かけて行った(その52)。東京・吉原でも、軍命令で、従軍慰安婦となって、内外各地に赴いた(その53)。これらの経験者が多かったといわれるものの、日本人女性に対してもだましの手口が横行した。以下、各地で日本人慰安婦と接した元軍人らの証言を聞こう。
満州・孫呉にいた戦車隊の主計中尉の話は、たぶん、日本人女性のことだと思うが、ひどい。「孫呉の慰安婦で可愛がっていた女がいて、たまたま日本に休暇で帰国することを話したら、その女の実家が京城市にあるので両親宛の手紙を実家に立寄って渡してくれと頼まれた」「彼女からの手紙を託され、京城で途中下車してその家を訪れた。娘を慰安婦にまでしている家庭だから貧しい家の娘と思い込んで家を探したが、その住所周辺は京城でも高級な立派な家ばかりで」「彼女の実家も立派な門がまえの家であった。両親が娘からの便りと聞いて驚いて部屋にあげ」「『ところで、家の娘は陸軍でどんな仕事をしているのですか、タイプでも打っているのかしら、あれでお役に立つのか?』と熱心に尋ねてきた」「返事に困って」「『娘さんは軍に志願して就職したのか』と尋ねてみた。『いいえ、ある日、娘が使いに出たきり帰ってこないので、心配していたら、翌日、軍の方が来られて、うちの娘を是非軍に勤めさせてくれ、協力してくれ』ということで、何が何か判らず承諾したというのである。どうやら街頭で無差別に一斉に網をかけて若い女をさらった様なものである」(その449・1)。
南方・ラバウルでは、「マニラ水交社の事務員にするんだといって連れてこられたんだけれども、船は太平洋で東に向かった。『さあ、君はどうするか』、船の上でどうするかといわれたってしょうがないから、船のままラバウルに入りましたと、こういったよ。だまされたんだね」(その85)。同じラバウルの場合。「『私は、騙されました。お願いします、お願いします』と、声をあげて泣き出した」「その女は、静岡の田舎の者で27歳になっていた。ある時、女の村へ、海軍の徴募兵と自称する軍服の男がやって来て、村役場に本部を置き、前線行の篤志看護婦を募集した」「そこで勇躍して応募し、横須賀から、同志の娘達と輸送船に乗り込んでラバウルに到着してみると、看護婦というのは真っ赤な嘘で、その晩から客をとれと強いられた」(その273・1)。
「朝鮮人だけでなく、日本からもかなりの数に上る慰安婦が送られていました」「不良少女または犯罪を犯し収容所にいた婦人が送られてきていました」(その138・4)との証言がある。次の体験と関連があるかもしれない。
昭和20年の海南島。「彼女たちは、遊郭制度廃止後かくれて営業していたところを連れてこられた人が多く、ほかに、『特殊看護婦』という名目で、本人も看護婦をするつもりで知らずにやって来たという人もいた。九州、四国の人がほとんどで、アクセントの強い方言がわからずに困った」(その30)。
インド洋・カールニコバル島でも、「慰安婦の多くは、戦地に行くと無試験で看護婦になれるとだまされてきたのだそうだ。かの女らは看護婦になるつもりで、戦地に従軍してきたらしい」(その8・1)。
中国・応山には、「『特殊慰安所』がつくられた。家は十数軒、ここには珍しく日本の若い女がたくさんいた」「こんな前線には、もったいないような若くて、程度のよい女たちだった」「そのうちの1人、丸顔の可愛い娘に聞いてみると――『私は何も知らなかったのね。新宿の喫茶店にいたのだけれど、皇軍慰問に行かないかってすすめられたのよ。皇軍慰問がどういうことかも知らなかったし、話に聞いた上海へ行けるというので誘いに乗っちゃったの。支度金も貰ったし、上海まで大はしゃぎでやってきたら、前線行きだという。前線って戦争するところでしょう。そこで苦労している兵隊さんを慰問できるなんて素敵だわ――と思ってきてみたら」特殊慰安所だった(その1・4)。
沖縄の場合、「高級将校のうちには朝鮮女性の慰安婦や現地沖縄の売春女性は相手にせず、ひめゆり部隊の上級生を壕によびよせ、泣き叫ぶ乙女を軍刀で脅迫して強姦し、そのまま慰安婦として手もとに引きつけて置くのであった」「これらの高級将校たちは、ひめゆりの上級生乙女たちにつぎのように放言するのであった。『朝鮮ピーなどは毎日何人もの兵隊を相手にして難儀している。おまえらは高級将校の慰安婦になれてありがたいと思え』……と」「なおまた驚くべきことに、当時の沖縄駐屯日本軍の多くの将校たちが、慰安婦ではなく沖縄住民の良家の婦女を将校用の慰安婦として提供することを求め、それにたいして多くの若い沖縄女性たちが応じていたのである」「求めている日本軍の将校の地位が高ければ高いほどにお国のために名誉なこととして、地元でも指導者層が進んで身内の子女から提供したと言われている」(その475)。
このような非道な慰安婦集めに対し、自身の経験から徳川夢声は怒りがおさまらなかった。彼は、17年10月、慰問団の一員でシンガポール方面に出かける。そのとき、シンガポールで総参謀長出席の大宴会に出席した。その宴席には大和部隊なる女性たちがいてお酌などをした。「〝大和部隊〟なるものだけでも、私は軍が厭になった。これは若き大和撫子の部隊であった。彼女たちは、皆ダマされてこんなところへ拉致されたのである。--若キ愛国ノ女性大募集。--南方ニ行キ、皇軍ニ協力セントスルノ純情ナル乙女ヲ求ム。--大和撫子ヨ、常夏ノ国ニ咲ケ。というような、勇ましく美しい文句に誘われて、気の毒な彼女たちは、軍を背景に持つゼゲン共の口車に乗せられ、高らかな理想と、燃ゆるが如き愛国の熱情と、絢爛たる七彩の夢を抱いて遥るばると来たのである。軍当事者とゼゲン師どもは、オクメンもなく、娘たちの身元を調査し、美醜を選び、立派な花嫁たるの資格ある処女たちを、煙草や酒を前線に送るくらいの気もちで、配給したのであった。なんたる陋劣! なんたる残酷! --あらっ、こんな約束じゃなかった。と気がついた時は、雲煙万里、もうどうしようもない所に置かれていた。その1部隊が、この偕行社で酒席の芸妓代用品とされているのだ。お酌をやらされる。手を握られる。お尻をなでられる。接吻は腕力で強請される。--が、そんなナマヤサシイことでは、大和部隊の任務は完遂されたのでない。ちゃんと、宿泊の設備アリだ」(その22・3)。
このように拉致された日本人女性もいたのだ!
(草稿・2015年10月11日・最新更新)
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