〜沖縄戦シリーズ〜
Produced by Osprey Fuan Club
1945年 6月30日 『〝沖縄〟という米軍基地の建設』
米軍の動向
沖縄でロッキー少将と握手する太平洋軍艦隊付海兵隊司令官ガイガー中将。(ロッキー少将は)ガイガー中将の後継者として第3水陸両用軍団の指揮をとる(1945年6月30日撮影)Lt. Gen. Rey S. Geiger, commanding general of FMF, Pac, shakes hands on Okinawa with Maj. Gen. Keller E. Rockey who had just assumed command of the 3rd Amphibious Corps as successor to General Geiger第383歩兵連隊I中隊の仲間から“エース“と見なされている5人の第96師団のテキサス出身兵士。“エース“とは5人以上の日本人を殺した者のこと。下からウィルキンス2等軍曹、ウェルフェル上等兵、グロース上等兵、クレッパー上等兵、リナード上等兵。(1945年6月30日撮影)Five 96th Division Texans are considered ”Aces” by their buddies in Company ”I”, 383rd Infantry Regiment, an ace being anyone who killed five or more Japs. From bottom to top: S/Sgt. Vernon Z. Wilkins, 101 Chicago St., Delhart; Pfc. Albert Welfel, El Campo; Pfc. Richard S. Groce, 318 Lafitte St., San Antonio; Pfc. Roy D. Clapper, Florey; and Pfc. Russell Linnard, Pharr. All are from Texas.
掃討作戦
『掃討戦は、6月30日、予定より早く、成功裡に完了した。この作戦で、米軍はまず、南部の第1作戦地域で、いまは組織もなく、孤立化した日本軍の陣地をいくつか片づけた。洞窟は火炎放射器や爆破隊のために、幾百人の日本兵が中に入ったまま、そのまま入口を封鎖された。ところが、一方、武装した日本兵が、米軍前線を突破して、北部に抜けようとして、数回にわたって血みどろな戦闘が展開された。米軍は大がかりな偵察隊をくりだし、キビ畑や水田にひそんでいる日本兵1人1人を狩り出した。米軍が進撃方向を北に変えてからは、日本兵はしだいに少なくなり、最後である第3期作戦も、比較的容易に達成することができた。月末までに、この掃討戦で米軍はおよそ8975人の日本兵を倒し、また2092人を捕虜にし、906人の労役兵を狩り集めた。その他、莫大な量の物資や兵器を戦利品として捕獲した。米軍の損害は、6月23日から30日までのあいだに783人だったが、そのほとんどは、掃討戦を開始して最初の3日間で起きたものだった。』(515頁)
27TH DIVISION PATROL scouts a stream bed during the three-month mop-up drive in northern Okinawa. (Army Photograph)
『…米軍は、ダニのように海岸の岩山にへばりついている敗残兵に対して、摩文仁台上からの攻撃では功を奏しないと見て、海岸から水陸両用戦車を乗りつけてきた。しかも火焔放射器をはじめ手榴弾や黄燐弾まで動員してせん滅戦に打って出た。勝者にとって、敗残兵狩りは最も愉快なスポーツだろう。身を危険にさらすことなく、遊び半分に、標的を探しては腕だめしをすることが可能だからである。
〝沖縄〟という米軍基地の建設
1945年12月31日時点で建設済の米軍飛行場(投稿者注: 「MACHINATO(牧港)」の滑走路は、建設したものの「ABANDONED(放置された)」とある)
第72、第78、第82、第87海軍建設大隊によって建設中のボロ[読谷]飛行場。(1945年6月30日撮影)Aerial view of Bolo Airstrip under construction by 72nd, 78th, 82nd and 87th Naval Construction Battalion. Okinawa, Ryukyu Retto.ボロ[読谷]飛行場。(1945年6月30日撮影)沖縄の南寄り普天間の西海岸沿いのくずで覆われた丘を切り取って作られたB-29スーパーフォートレス専用滑走路。長さ7,500フィート、幅200フィート、石灰岩で覆われたこの重爆撃機滑走路は1945年6月15日に第806工兵航空大隊によって建設された。(1945年6月30日撮影)B-29 “Superfortress“ strip being cut out of the crub covered hilly terrain at Futema on the west side of the southern half of Okinawa, Ryukyu Retto. This super bomber strip was constructed by the 806 EAB's on 15 June 1945. The runway was 7,500 feet long and 200 feet wide and the surface was made of crushed coral with coral rocks for the base.《AIによるカラー処理》本島西海岸、廃墟那覇の北に第7空軍のための滑走路を建設する第874及び第1906工兵航空大隊。でこぼこは平らにされ、ダンプカーは土台や仕上げ用の石灰岩を運び入れる。工事は6月1日から7月末日までの予定。沖縄、牧港。(1945年6月30日撮影)On the west coast of Okinawa, just north of the ruins of Naha City, the 874th & 1906th Engineer Aviation Battalion started to cut an airfield out of the hilly terrain for the 7th Air Force. The sub-case had been graded and dump trucks were bringing in coral sand and rock for the base and surface of the srtip, when this photograph was taken. Construction was begun on 1 June and the completion date was the end of July 1945. Okinawa, Machinato.投稿者註: 「本島西海岸、廃墟那覇の北」とは、現在の浦添市にある米海兵隊基地キャンプ・キンザー(牧港補給地区)一帯のことであり、当時、米軍が滑走路を建設した場所は、現在、国道58号線沿いに立ち並ぶ米陸軍の倉庫群一帯である。Constructed by the NCB's, to facilitate unloading of LSTs and LSMs, coral built road jetties were built into the water to enable trucks to move up to the ships for unloading of their cargo. Okinawa.物資の運搬を容易にするコンベヤラインを持つタレ通りの物資補給所のクラスI集積所。(1945年6月30日撮影)The Quartermaster Class I dump on Tare Street has a conveyor line in operation to facilitate the movement of supplies.1945年6月30日から始まったガソリンやオイルの補給地区。ここから以前は積荷役大隊、現在は第4474兵站部隊によって、60-80オクタンガソリンと10-30-50潤滑油が全部隊へ分配される。沖縄。(1945年6月30日撮影)Rows of gas and oil drums in the supply area from which they were issued by the 4474th QM Depot Company, and formerly by the Bulk Service Battalion, started 30 June 1945. 60-80 octane gas and 10-30-50 lubricating oil was issued to all outfits. Okinawa.
第32軍の敗残兵
日本軍残党
『…数日間、大隊本部の壕は敵の掃討を受け続け、昼は各隊が洞窟の入口で激しい銃撃戦を繰り広げつつ、辛くも陣地を保持していた。夜になると、各隊から連絡があった。敵は夜になると引きあげていくようで、遮二無二になって攻撃してくることはなかった。聯隊本部と連絡が途絶えて1週間が経った頃、聯隊長以下70名も伊東たちと同じように洞窟で戦闘をしていることがわかった。伝令を派遣し、全般の状況と師団長の様子を尋ねたが、「わからぬ」との返事だった。(不明なら不明で、伝令を派遣して確かめるべきでないか)伊東は次いで樫木副官を派遣した。聯隊付の将校に、師団司令部と速やかに連絡をとり、全般の状況を確かめてほしいと具申した。しばらくして、聯隊本部から斥候が来て報告した。「司令部の壕は破壊され、黒焦げになっていた。師団長は戦死されたらしい」6月30日のことだった。』(250-251頁)
陸軍第24師団
糸満市宇江城にあるクラガー。もともと集落の水汲み場として使われていましたが、第24師団が後退してきてからは、その司令部がおかれました。糸満市史には住民の犠牲者について、アメリカ軍の攻撃だけでなく、日本軍によるガマからの追い出しや虐殺があったことが記されています。『入り口にいた老婆が方言まじりで返事をしたら、すぐに老婆は軍刀で首を切り落とされたのです』「最期の一兵に至るまで敵に出血を強要すべし。いやしくも敵の虜囚となり、恥受くるなかれ。最期の忠誠を全うすべし」最期の一兵まで敵と戦い、捕虜となってはいけないという雨宮師団長の言葉は、師団の解散後も兵士や住民たちを死へとおいやることになったのです。
そのとき、住民は・・・
遭難した疎開民 ①
沖縄本島で戦闘がほぼ終わった昭和20年6月30日の夜、石垣港の埠頭は、台湾に向かう疎開船に乗船する住民で慌ただしかった。疎開船として使用されたのは、第一千早丸(友福丸) と 第五千早丸(一心丸)で、船内は足を伸ばすことができないほど人がいた。
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