2018-04-25
(高橋源一郎の「歩きながら、考える」)戦時の日本でも極秘に原爆開発:朝日新聞デジタル
(高橋源一郎の「歩きながら、考える」)戦時の日本でも極秘に原爆開発:朝日新聞デジタル
2018年4月18日05時00分
仁科芳雄の執務室で、ふだん座っていたという椅子に腰を下ろす高橋源一郎さん。机上にあるのは仁科の写真
北朝鮮政府が核開発を進めるのは、米国の強大な軍事力に抗して生き残るためだとされています。米軍と戦った第2次世界大戦中には、日本も極秘の原爆研究をしていました。作家・高橋源一郎さんがその歴史の現場を訪ねました。寄稿を掲載します。
JR駒込駅から、7、8分歩くと「公益社団法人 日本アイソトープ協会」(東京都文京区)に着く。門の中に入ると、見事に咲き誇る桜の大木があった。見ほれていると、案内してくれた人が、「駒込はソメイヨシノの発祥の地なんですよ」と教えてくれた。
満開の桜の向こう側に、旧理化学研究所の古い建物がいくつか見えた。およそ75年前、この建物の中で、学者たちは「ニッポンの原爆」を作ろうとしていたのだ。
3階建ての旧37号館に足を踏み入れると、2階に仁科芳雄の執務室が当時のまま残されていた。仁科こそ、「ニッポンの原爆」計画の中心にいた物理学者である。
明治23(1890)年に生まれた仁科芳雄は東京帝国大学の電気工学科を首席で卒業したあと、理化学研究所(理研)に入所した。理研は、1917年に創設された国内唯一の自然科学系総合研究所であった。
計画の始まりを朝日新聞は次のように紹介している。1955年8月7日「原子雲を越えて/日本も原爆計画」という記事だ。
「昭和十五(1940)年も半ば過ぎたある夏の日、新宿から立川に向(むか)う通勤列車の二等車で、こんな話がささやかれていた。『例のウラン爆弾のことだが……』と、理研の仁科芳雄博士。『ほう! いよいよ出来そうだとでも』と、ヒザを乗り出したのは陸軍航空技術研究所長安田武雄中将(現アジア製作所社長)である。『(略)まだはっきりとはいえないが、ウラン爆弾はどうにか出来そうに思える。あなたがその気なら、わたしんところでウラン爆弾製造のための実験的研究をはじめてもよいと思うんだが』」
「ニッポンの原爆」が、歴史の中に浮上した瞬間である。
第2次世界大戦下、ドイツで、アメリカやイギリスで、戦局を一変させる究極の兵器「原子爆弾」の研究や開発が進み始めていた。そして、極秘のうちに日本でも。
仁科の執務室は、当時の面影を残したままで、そこだけ時間が止まっているように見えた。書類が積まれた机の横に英語の走り書きが書かれた黒板が置かれていた。
「これは何ですか?」
わたしが訊(たず)ねると、案内してくれた仁科記念財団の矢野安重さんが、こう答えた。
「仁科先生の絶筆です。実際の黒板を複写して、そのまま再現したものです。英語で、日本経済を何とか復興せねばならない、と書いてあります」
急速に不利になりつつあった戦局の中で、陸軍は、理研・仁科研究室の「原爆開発」に大きな期待をかけ、巨額の資金を投入していった。だが、結果ははかばかしくなかった。陸軍は、繰り返し、仁科に「いつ原爆は出来るのか」と訊ねたが、仁科は答えをはぐらかすばかりだった。
「仁科さんは、ほんとうに原爆が出来ると思っていたのでしょうか」「当時の技術と国力では、出来るとは思っていなかったはずです」「では、なぜ、陸軍には『出来る』ようなそぶりを見せていたのでしょう」
「おそらく」と矢野さんは言った。「研究者を戦場に送らせないため、原子物理学の基礎研究をやめさせないために、あえてそう言い続けたのだと思います」
「ほんとうに?」
「わたしの想像ですが」
逼迫(ひっぱく)する戦況の下で、「ニッポンの原爆」の研究は続けられた。
当時、追い詰められていた陸軍は、サイパン島への原爆投下を考えていたとも言われている。米軍機による激しい空襲が続く中、「原爆」研究施設の多くを失った仁科は、1945年5月下旬に「もうウラン爆弾はできない」と陸軍に伝えた。事実上の中止宣言だった。にもかかわらず、切り落とされたトカゲの尻尾のように、「原爆」開発はその末端で生きていた。日本でほぼ唯一、ウラン鉱の採掘が可能であるとされていた福島県石川町では、8月15日の敗戦の日まで、学徒を中心として採掘が続けられていたのである。
8月6日。広島に原子爆弾が投下された。おそらく、もっとも衝撃を受けたのは仁科だったろう。
2日後の8日、仁科は軍の調査団と共に広島に派遣された。仁科は、その惨状を見て、落とされたのが、作ることは不可能であると考えていた「原子爆弾」であることにすぐに気づいた。
仁科の執務室で、わたしは、仁科が広島を調査したときのノートを見た。原爆投下の僅(わず)か2日後、高い放射能の下で爆心地付近を歩き回りながら、仁科は克明にメモを取り、スケッチを記した。そして、次のように結論づけた。「爆薬ニ非(あら)ズ」「原子弾又(また)ハ同程度ノモノ」と。仁科たちが長い間、理論と実験の中で追い求めていた「原子爆弾」は実在し、そして、ほんとうに使われたのだ。
仁科は、広島・長崎の投下直後の惨劇をその目で見た。そして、それを「生き地獄」と表現した。「原爆」の研究・開発の果てに何が待っているのかに、他の誰よりも早く気づいたのである。
歴史に「もし」はない。けれども、もし、仁科たちの研究が成功していたらどうだったろう。そして「ニッポンの原爆」が、サイパンに、あるいは、沖縄に向かうアメリカ艦隊に向けて投下されていたら。あるいは、現実的な可能性は低いとしても、もし、中国やアメリカの都市部に投下されていたら。そのとき、いや、いま、わたしたちは、どんなことを言っていただろう。「わが国の体制を維持するためには仕方なかったのだ」とか、「戦争を終わらせるためには、他に手段がなかったのだ」とか、どこかで聞いたことのあることばを吐いただろうか。そして、わたしたちではなかった「被爆国」の住人たちに対して、どんなことばを差し向けたのだろう。
北朝鮮の「核の脅威」が、公然と叫ばれるようになった。核を振りかざす独裁者にわたしたちは怒りを差し向ける。かつて、それを落とされた国の国民として。
わたしたちは、歴史上唯一の被爆国の国民として、核を所有する国を批判してきた。だが、ただ偶然そうだっただけなのだとしたら、わたしたちは、同じように彼らを批判することができるのだろうか。わたしたちの国もまた「自衛」や「体制維持」のために、核兵器を持とうとしていたのだ。
わたしは、仁科を中心とした、多くの人びとが「ニッポンの原爆」を目指す様子を調べてきた。そして、そこには欠けているものがあるように思えた。
それは「被害」への想像力である。そこには、「落とす側」からの論理しか書かれてはいなかった。確かに、巨大な爆発のパワーは計算することができた。そのとき、それに直面することになる人間が何を見るのかについて書かれたものを見つけることはできなかった。焼け焦げたふたつの街を見つめながら書き記された仁科のノート以外には。
そこには、「原爆を落とす側」の論理を熟知した者による、「原爆を落とされる側」に寄せる想像力が記されていたように思う。
「持つ側」と「持たぬ側」に超えられぬ壁がある「核の論理」。真に核兵器を批判する論理は、もしかしたら、仁科のノートから始まるべきだったのかもしれない。
■ともに歩いて
北朝鮮の核武装を批判する論理と倫理の基底をつかみたい。日本の原爆開発史を提案したのはそんな動機からでした。「大事な思考実験になるね」と高橋さん。いちど原爆を欲した後でそれへの批判を打ち立てること。仁科ノートに刻まれた学びの営為が足がかりになれば、と願います。
執務室のある旧37号館は再来年以降に取り壊されるそうです。戦争の痕跡がまた減ります。(編集委員・塩倉裕)
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