2021-09-30

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社会問題を構造化する

no.
59

教育格差
2020/12/15(火)
「育った環境で最終学歴に差がある」という現実――教育社会学者が考える日本の教育格差(前編)




「高校を卒業したら大学へ進学するのが当たり前」という環境で育ったり、周囲の友人がほぼ大卒であったりすることは、誰にとっても「普通」のことではない。

生まれ育った環境によって、受けられる教育や最終学歴に格差が存在するという現実があるのだ。
そうした教育格差が生まれる背景や、これまで日本で教育格差が問題として着目されてこなかった理由などについて、『教育格差』(ちくま新書)の著者であり、教育社会学者で早稲田大学准教授の松岡亮二さんに話を聞いた。

※本記事は、「リディ部〜社会問題を考えるみんなの部活動〜」で行われた11/6のライブ勉強会「教育格差を考える~自分の知っている世界だけが、社会じゃない~」の内容をもとに記事化した前編です。リディ部について詳しくはこちら


<松岡亮二さん>
早稲田大学准教授。ハワイ州立大学マノア校教育学部博士課程教育政策学専攻修了。博士(教育学)。東北大学大学院COEフェロー(研究員)、統計数理研究所特任研究員、早稲田大学助教を経て、同大学准教授。日本教育社会学会・国際活動奨励賞(2015年度)、早稲田大学ティーチングアワード(2015年度春学期、2018年秋学期)、東京大学社会科学研究所附属社会調査データアーカイブ研究センター優秀論文賞(2018年度)を受賞。著書『教育格差:階層・地域・学歴(ちくま新書)』は、1年間に刊行された1500点以上の新書の中から「新書大賞2020(中央公論新社)」で3位に選出された。2020年10月時点で、11刷、5万部突破。
社会階層や出身地域によって教育機会に格差がある

松岡さんの専門である教育社会学は、実証を重視する学問だ。「教育とはこうあるべき」という「理想」論に終始せず、現実のデータに基づいて考えることが特徴だという。

松岡さんはなぜ、教育社会学に興味を持ったのだろうか。

「『一人ひとりの人生をできるだけそのまま多角的に理解したい』と考えたのが、大きな理由のひとつです。バックパッカーとして数十か国を旅した経験があるのですが、さまざまな人や社会に触れる中で、常に『この人はどのようにして(現在の)この人になったのか』ということに関心がありました。

社会階層や出身地域などのように本人に変えることができない初期条件の大きさを感じることが、日本を含めてどの社会でもよくありました」




(写真 松岡亮二さん)

教育格差を考えるとき、「子ども」や「教育」という定義は社会的に構成されているものに過ぎず、そのような前提は時代や国によって変わり得ることを理解しておく必要がある。

日本の場合も、現在の小学校6年間・中学校3年間という義務教育が規定されたのは1947年のことで、いまの公教育のかたちが昔からずっと続いてきたわけではない。

「『この年齢層ではこういう教育を受ける』という制度が先にあって、その枠組みに沿って私たちは考えています。教育の成果を測るにしても、子どもの学力や社会的『成功』などの評価基準をどう定義するかによって『結果』が変わってきます」
最終学歴で制限されるキャリア

文部科学省の「学校基本調査」によると、令和元年の大学(学部)進学率は53.7 %。約半数の子どもは、4年制大学進学以外の進路を選択していることがわかる。

子どもが大卒になるか非大卒になるかは、育った環境によるものが大きいと松岡さんは言う。

「たとえば大卒の両親を持つ子どもは、『大学へ行きたい』という進学期待を持つ傾向があります。幼少時から親の大学時代のエピソードを聞く機会があるでしょうし、親からの期待もありますからね。時間をかけて自分の進路希望として内在化していくのだと考えられます。

育った家庭による選択の違いは、進学だけではありません。たとえばアメリカの貧困家庭であれば、ファーストフードばかり食べて育つことは珍しくありません。そうやって育つと大人になった後も、慣れ親しんだ不健康な料理を自分で選ぶようになる傾向があります。

この場合、本人は『自分の好みで(不健康な料理を)選んでいる』から、それで生活習慣病などになっても自己責任と思うかもしれません。ですが違う家庭で育っていれば、そのような選択の傾向はなく、病気にもならなかったかもしれないわけです」



(写真AC)

親の最終学歴や収入を含む社会経済的地位をSES(Socioeconomic Status、以下SES)と呼び、このSESの差による教育格差は様々なデータで繰り返し確認されてきた。

子ども自身ではどうしようもない家庭のSESによって、受けられる教育や最終学歴に差が出る。そしてそれは多くの場合、社会に出てからも本人のキャリアに影響を及ぼすことになる。

「大学に進学していなくても(いわゆる)能力や志が高い人たちはいますが、いまの日本では、実質的に、大卒かどうかで選べる職に大きな差があります。教育機会に恵まれずに自身の可能性を追求できないまま非大卒となり、成人後もスキルアップできるような就業機会が制限されているという現実があります」
教育格差が社会問題化してこなかった理由

日本の教育格差は近年出てきた新しい問題ではなく、いつの時代にもあった。教育格差が社会問題として着目されてこなかった理由について、松岡さんはこう推測する。

「ひとつは、高度経済成長期に醸成された幻想があると思います。経済的に豊かになっているし、他国と比較して平均的には学力も高いほうだし、ということで視野に入っていなかったのかな、と。社会学者は淡々とデータで格差の実態を示していましたが、文部科学省は長らく家庭環境に関するまっとうなデータを取ってきませんでした。

この背景には、教育にかかわる行政関係者や教師の「生まれ」の偏りがあると考えられます。比較的高SES家庭出身者が多く、4年制大学卒なので、教育格差を社会問題として実感することが難しいのではないでしょうか。大半の大学の教職課程では教育格差について学ぶ機会がないという実態もあります。

また、教育格差について語られるときには、格差が拡大したか否かという議論になりがちです。格差拡大と主張したほうが耳目を引くことができるかもしれませんが、あくまでデータに基づいた議論をしたいところです。

拡大ではなくて維持であっても、それは「生まれ」によって人生の可能性が制限された子どもたちが数多くいることを意味するわけで、本来はずっと存在している格差を縮小していこうという議論をすべきではないでしょうか」

社会問題化されていなければ対策を取る必要性もないことになってしまう。行政にとって都合の悪い事実であったとしてもデータで実態と向き合わなければ、効果のある対策を検討することすらできない。

近年行われている行政による調査も、そもそも質問項目自体が実態把握の役には立たないものが多く、悉皆で全国の学校から回答が集まっても意味をなさないと松岡さんは苦言を呈する。

そこで松岡さんは今後、他の研究者、それに教育行政と共同して、日本の教育格差の現状の詳細を調べるためのデータを取得する動きを進めている。

「データを取る度に、日本の教育格差の実態が浮き彫りになります。行政側としては『教育格差の事実を示したところでどうなるのか』と感じていたり、データが出ることによって、いまの日本の教育行政がうまくいっていないと批判されることを恐れていたりするのかもしれません。

しかし、教育行政に無謬性を求めるような批判であれば、そのほうが的外れです。拙著の国際比較の章で示したように、『生まれ』による結果の差はどこの社会でも確認できます。

データによって格差の実態が明らかになることで、まず『教育格差によって、可能性を形にできていない子どもがこれだけいるんだ』ということがわかります。そして、具体的にどこを変えていけばいいのかという議論にもつながります。

データを取らずに現実と向き合わないままでいるよりも、実態と向き合った上で教育行政が介入策を計画・実施して、効果のある実践と政策が何なのか研究知見を積み上げていくほうが健全ではないでしょうか。そうした試行錯誤を繰り返して、一人でも多くの子どもたちが自身の可能性を追求できる社会に近づけたいところです」

・・・後編「『同じ扱い』だけでは格差は縮小しない――教育社会学者が考える日本の教育格差」に続く
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