日本統治時代、李承晩政権時代に官僚として生きた韓国人は、韓国と日本の過去をどのように振り返っているか?
光復期の熾烈な政治闘争(権力闘争)の勝者は李承晩だった。
旧ソ連の占領下にあった北朝鮮との国家統合も失敗。1948年5月10日には国連監視下で初代総選挙が行われたが、金九や中道派の金奎植らは朝鮮半島の南北分断を固定化するとの理由で大反対、各地で総選挙阻止の武装闘争が展開が展開された。「済州島四・三事件」もその過程で起ったものだった。
この北との分断は韓国国民を混乱させ、悩ませ国民分断も招いた。李承晩は確固とした国家建設のため国民統合も成功させなければならなかったわけだが、この「済州島四・三事件」後も、この李承晩路線に承服しない韓国国民に対して、強硬な国民統合政策による血生臭い事件が続くことになったのは、戦後韓国史の通り。韓国の国民統合は朝鮮戦争で一区切りついたが(朝鮮戦争が韓国国民の国民意識を高めた)、その後も、さまざまな形で、今日に至るまでこの国民統合の問題(国民分断の問題)が断続的に繰り返されてきてる。
それはともかく、この初代総選挙に勝利したのが李承晩と韓民党(韓国民主党)である。金九らの政敵、あるいは南朝鮮労働党の政治勢力などとの光復期以来の権力闘争も、憤懣を内包しながらも、李承晩らの権力掌握ということで一区切りついた。
李承晩は日本統治時代のほとんど朝鮮半島にいたことがなく、光復後南朝鮮に戻ったわけだが、そういうことで、彼には、いわゆる「三バン」のうち、ジバン(地盤)、カンバン(看板)がない。そういう李承晩を支えたのが全羅道を本拠としていた金性洙の湖南財閥だった。
この金性洙を中心に結成されたのが韓民党であった。
この初代総選挙によって韓民党が多数派を占める制憲議会で制定されたのが「第一共和国憲法」だ。
この憲法では、この議会が大統領を選出すると定めていた。
この結果、李承晩が1948年7月20日に大韓民国の初代大統領に就任。同年8月15日に朝鮮半島南部だけを実効支配する大韓民国政府樹立が宣言された。
これによって、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁(USAMGIK、日本で言えばGHQのような軍政当局)による韓国の軍政(占領)統治は終わった。この大韓民国建国は、同年9月9日の朝鮮民主主義人民共和国建国につながり、南北分断はされに固定されたことは、皆さんのご理解の通り。
この南北分断は、今日の韓国においても、歴史における、あるいは政治のおける争点の一つになっている。
この韓国建国(政府樹立)の翌月(9月)に制定された法律に「反民族行為処罰法」(1948年9月22日、法律第3号)がある。
この法律によって1949年1月に反民族行為特別調査委員会が創設されて「親日反民族行為者」が法的に認定された。
国内の親日派を糾弾・排斥する動きは、アメリカ軍政庁統治下の南朝鮮過渡立法議院時代にすでに活発化していたが、「反民族行為処罰法」は、これを韓国の主権回復によって国内法として正式に定めたものである。
同法では、①韓国併合に加担した者は死刑か無期懲役、財産は全部または50%以上を没収、②朝鮮貴族に叙爵、または帝国議会議員だった者は5年以上の懲役。財産は全部または50%以上を没収、③独立運動家やその家族を迫害した者は死刑、無期懲役または5年以上の懲役。財産は全部または一部を没収--が規定されたほか、勅任官以上の旧朝鮮総督府の高等官3等以上、勲五等以上の官公吏も10年以下の懲役、または15年以下の公民権停止。財産は全部または一部を没収とされることになった。
同法に基づいて設置された反民族行為特別調査委員会は、日本統治時代に朝鮮発展に貢献した主要人物、有名人、知識人が多く親日反民族行為者に認定し、彼らへの糾弾も始まった。
任文桓さんは、日本統治時代、朝鮮総督府の高級官僚(キャリア官僚)だった。この「反民族行為処罰法」による親日派糾弾・排斥の矢面に立たされた人物の一人である。
彼は1907年、全羅北道の錦山に生まれた。日本統治時代初期に学齢期を過ごしたが、教育機会に恵まれないことから、1923年に故郷の友人とともに日本へ渡航した経験を持つ。
彼は当時、在朝鮮の日本人と朝鮮人の教育機会をめぐる不平等・差別に落胆。勉強がしたくて日本渡航を決意したそうだ。
日本渡航後、任文桓さんは新聞配達夫、人力車夫、牛乳配達夫と職を転々としながら予備校に通い、同志社中学への編入学試験に合格。さらに東京帝国大学に進学。
そういうことなので、任さんは日本渡航後、関東大震災を経験した。震災はまさに、任さんが日本にやってきた直後の1923年(大正12年)9月初めに起った。
東京帝大在学中に高等文官試験に合格して、東京帝大を卒業した1935年に母国朝鮮に赴任。1923年(大正12年)から1935年(昭和10年)までの12年間を日本で過ごしたわけだ。
彼は京畿道内務省学務課勤務を皮切りに彼の官僚人生が始まり、1938年には京畿道の龍仁(용인)郡守に就任したという経歴を持つ。今で言えば龍仁市(용인시)の市長のようなものだ。
1945年(昭和20年)8月15日の光復時、彼は朝鮮総督府交通局の書記官を務めていた。
李承晩政権は、任文桓さんのような官僚を多数追放したわけだが、当時の韓国政府は人材難。政府行政は滞り、経験豊富な日本統治時代の官僚を登用せざるを得なくなった。
韓国の政治的実権を掌握した中枢の政治家は、行政に関して素人であまりにも稚拙だった。さらに官僚も経験者を排除してしまったので素人。
政府機構がまともに動くはずはなく、北との緊張が高まり、また国内も政治的・経済的に疲弊・混乱が収まらない中、政府として機能しないという状況に陥ったわけだ。
そういうことで、任文桓さんら公職を追放した元官僚らに助けを求めざるを得なくなったということである。
任文桓さんも1948年、制憲国会法基礎専門委員・商工部次官として韓国政府に加わった。韓国政府中枢で、韓国の建国に関わったということである。
1950年には金融通貨運営委員会委員、保健部次官を務め、翌1951年には農林部長官に就任した。
その後彼は実業界に転じ、朝鮮商船社長、韓国貿易協会会長、海運組合連合会会長、全国経済人連合会理事・副会長、三洋観光社長、釜山プラザホテル社長・同会長を歴任。1993年6月19日に他界した。
こういう経歴の人物なので、盧武鉉政権期の2008年に発表された民族問題研究所の親日人名辞典収録予定者名簿の中の官僚部門にリストアップされている。
任文桓さんが初めて朝鮮総督府の官僚として京畿道内務省学務課で勤務を始めた1935年(昭和10年)時の朝鮮総督は第6代の宇垣一成である。
翌1936年8月5日には南次郎に変わった。南は第2次若槻内閣で陸軍大臣であった人物で、朝鮮総督就任後、内鮮一体を唱え、朝鮮人の皇民化政策を推進した人物として知られる。朝鮮総督府が創氏改名を行ったのも南次郎総督の時期だ。韓国の日帝強占期の歴史叙述におけるヤマ場の一つではある。
任文桓さんが朝鮮総督府の官僚を務めたのは、こういう時期から戦時期である。
そして、彼は韓国建国草創期の大韓民国官僚として、朝鮮戦争期まで、韓国政府の内情をつぶさに見てきた。
こういう人物が韓国で1975年に『愛と民族-ある韓国人の提言』(同成社)という自叙伝を刊行している。
その邦訳が『日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想』(草思社、 2011年6月25日刊)として日本でも出版され、2015年にはちくま文庫版が刊行されている。
鄭大均さんは同書を「植民地世代が残したもっとも劇的ですぐれた自叙伝」と高く評価している。
近く、この自叙伝を手に入れて読んでみようと思っている。
当時の政治家・官僚の自叙伝・回顧録というと、私が読んでとても感心したのは、 『思想界』(韓国の雑誌)1966年2月号・3月号に掲載された 兪鎮午(유진오)さん の「韓日会談が開かれるまで」という寄稿記事。
東亜日報は1974年5月に「秘話 第一共和国」という特集記事を掲載したが、これにも兪鎮午の「韓日会談が開かれるまで」が引用された。
同様の関連図書として朴實(박실)の『韓國外交秘史』(麒麟苑、1979年12⽉)がある。
兪鎮午さんは光復後、法学者として大韓民国憲法(第一共和国憲法)の起草に関与したほか、韓国政府樹立後は、政治家として李承晩政権中枢で活躍した。高麗大学校の総長にも就任した。
任文桓さんと同様、民族問題研究所と親日人名辞典編さん委員会の「親日人物名簿」(2005年)にリストアップされた人物だが、彼の回顧も、渦中の当事者・関係者の振り返りとして、韓国樹立後の草創期の政府内部を生々しく知ることのできる手がかりの一つになっている。
韓国では、任さんや兪さんは親日派に再認定されているから、彼の自叙伝はあまり顧みられないのかな?
しかし、日本統治時代や建国草創期の韓国の状況を多様な視点から理解しようとすることは、とても大切です。
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임문환씨는 일본 통치 시대 조선총독부의 고급관료(커리어 관료)였다. 이 '반민족행위처벌법'에 의한 친일파 규탄·배척의 화살에 섰던 인물 중 한 명이다. 그는 1907년 전라북도의 금산으로 태어났다. 일본 통치 시대 초기에 학령기를 보냈지만, 교육 기회에 좋지 않기 때문에, 1923년에 고향의 친구와 함께 일본에 도항한 경험을 가진다. 그는 당시 재조선의 일본인과 조선인의 교육 기회를 둘러싼 불평등·차별에 낙담. 공부를 하고 싶어서 일본 도항을 결의했다고 한다. 일본 도항 후, 임분환씨는 신문 배달 남편, 인력거 남편, 우유 배달 남편과 직업을 전전하면서 예비 학교에 다니고, 동지사 중학에의 편입학 시험에 합격. 또한 도쿄 제국 대학에 진학. 그렇기 때문에, 임씨는 일본 도항 후, 관동 대지진을 경험했다. 지진 재해는 바로 임씨가 일본에 온 직후인 1923년(다이쇼 12년) 9월 초에 일어났다.
도쿄 제대 재학 중에 고등 문관 시험에 합격하여 도쿄 제대를 졸업한 1935년에 모국 조선에 부임. 1923년(다이쇼 12년)부터 1935년(쇼와 10년)까지의 12년간을 일본에서 보냈던 셈이다. 그는 경기도 내무성 학무과 근무를 시작으로 그의 관료 인생이 시작되어 1938년에는 경기도 용인군수에 취임했다는 경력을 가진다. 지금 말하면 용인시의 시장과 같은 것이다.
1945년(쇼와 20년) 8월 15일 광복시 그는 조선총독부 교통국의 서기관을 맡고 있었다. 이승만 정권은 임문환씨와 같은 관료를 다수 추방한 것이지만 당시 한국 정부는 인재난. 정부 행정은 정체되어 경험 풍부한 일본 통치 시대의 관료를 등용하지 않을 수밖에 없었다. 한국의 정치적 실권을 장악한 중추의 정치가는 행정에 관해서 아마추어로 너무 치열했다. 게다가 관료도 경험자를 배제해 버렸기 때문에 아마추어. 정부기구가 제대로 움직일 리는 없고, 북과의 긴장이 높아지고, 또 국내도 정치적·경제적으로 피폐·혼란이 맞지 않는 가운데, 정부로서 기능하지 않는다는 상황에 빠진 셈이다.
그렇게 함으로써 임문환씨 등 공직을 추방한 전 관료들에게 도움을 구할 수밖에 없었다는 것이다. 임문환씨도 1948년 제헌국회법 기초전문위원·상공부 차관으로 한국 정부에 합류했다. 한국 정부 중추에서 한국의 건국에 관여했다는 것이다. 1950년에는 금융통화운영위원회 위원, 보건부 차관을 맡았고, 다음 1951년에는 농림부장관으로 취임했다. 그 후 그는 실업계로 돌아가 조선상선 사장, 한국무역협회 회장, 해운조합연합회 회장, 전국경제인연합회 이사·부회장, 산요관광사장, 부산플라자호텔 사장·동 회장을 역임. 1993년 6월 19일에 타계했다. 이런 경력의 인물이기 때문에 노무현 정권기 2008년에 발표된 민족문제연구소의 친일인사 사전 수록 예정자 명부 속 관료부문에 리스트업되고 있다.
임문환씨가 처음으로 조선총독부의 관료로서 경기도 내무성 학무과에서 근무를 시작한 1935년(쇼와 10년) 때의 조선총독은 제6대 우가키 일성이다. 다음 1936년 8월 5일에는 난지로로 바뀌었다. 남쪽은 제2차 와카츠키 내각에서 육군대신이었던 인물로 조선총독 취임 후 내선일체를 창창하고 조선인의 황민화 정책을 추진한 인물로 알려져 있다. 조선총독부가 창씨 개명을 한 것도 난지로 총독의 시기다. 한국의 일제강점기의 역사 서술에 있어서의 야마장의 하나이다. 임문환씨가 조선총독부의 관료를 맡은 것은 이런 시기부터 전시기이다. 그리고 그는 한국 건국초창기 대한민국 관료로서 조선전쟁기까지 한국 정부의 내정을 중얼거렸다.
이런 인물이 한국에서 1975년에 '사랑과 민족-한 한국인의 제언'(동성사)이라는 자서전을 간행하고 있다. 그 국역이 '일본 제국과 대한민국을 섬긴 관료의 회상'(초사사, 2011년 6월 25일 간)으로 일본에서도 출판되어 2015년에는 치쿠마 문고판이 간행되고 있다. 정대균은 이 책을 “식민지 세대가 남긴 가장 극적이고 뛰어난 자서전”이라고 높이 평가하고 있다. 가까이, 이 자서전을 손에 넣어 읽어 보려고 하고 있다.
당시의 정치가·관료의 자서전·회고록이라고 하면, 내가 읽고 매우 감탄한 것은, 「사상계」(한국의 잡지) 1966년 2월호・3월호에 게재된 유진오(유진오) )씨의 「한일 회담이 열릴 때까지」라고 하는 기고 기사.
동아일보는 1974년 5월에 '비화제일공화국'이라는 특집기사를 게재했는데, 이것에도 유진오의 '한일회담이 열릴 때까지'가 인용됐다. 같은 관련 도서로서 朴實(박실)의 『한국외교비사』(麒麟苑, 1979년 12위)가 있다. 천진오씨는 광복 후 법학자로서 대한민국 헌법(제1공화국 헌법)의 기초에 관여한 것 외에 한국 정부 수립 후에는 정치인으로서 이승만 정권 중추에서 활약했다.
고려대학교 총장에도 취임했다. 임문환씨와 마찬가지로 민족문제연구소와 친일인명사전편씨위원회의 '친일인물명부'(2005년)에 리스트업된 인물이지만
그의 회고도 와중 당사자·관계자의 되돌아 보면서 한국 수립 후 초창기 정부 내부를 생생하게 알 수 있는 단서 중 하나가 되고 있다. https:
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