Jin Kaneko
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《日本に渡航する朝鮮人増加の背景にあった朝鮮農村事情-1935年》
備忘録として
当時の農林省内にあった日満農政研究会が1940年7月に発表した「朝鮮農村の人口排出機構」という報告書。
日本や満州に渡った朝鮮人の当時の状況について1935年に行った調査の報告書である。
以下は産経記事にある、この報告書の概要。
朝鮮半島南東部の農村、慶尚南道蔚山邑達里(現・蔚山広域市南区達洞)の人口増減の状況やその理由、流出入先などについて、同地区出身の研究者・姜鋌沢(カン・ジョンテク)が1935年10月に実施した現地調査の内容を中心にまとめたものだそうだ。
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1935年の慶尚南道蔚山邑達里の人口は131世帯(戸)・637人だが、この中の108人が蔚山邑達里を離れた。その行き先は日本54人、朝鮮の中の別の場所53人、満州1人であった。
彼らが村(邑)を離れた理由は、「耕作すべき土地をほとんど持たず、持っていても小作料が高く生活を維持できない」など。
その他、「(家産を継ぐべき)長男が次男に家の責任を押しつけて勇んで内地へ飛び出す」「次男は耕地と住宅を譲られ、その上(日本に渡った兄・長男から)幾分の仕送りもされて比較的余裕ある生活をしながらも、兄を恨み自らも内地へ移動せんと気構えている事例は多い」などとあるそうだ。
https://www.sankei.com/we…/news/190911/wst1909110002-n1.html
是非、この報告書の中身を確認してみたいと思ったら、ここに原文のPDFがあった。
日満農政研究会『日満農政研究報告』の第9輯(集)が「朝鮮農村の人口排出機構」である。ごく短い報告文だ。ここには、ほぼ上記の産経の記事のとおりの内容が書かれている。
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/14144107.pdf
その第9輯全文の画像を添付したが、読みにくかったら、上記URLからPDFをダウンロードしてご覧ください。
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《金子・メモ》
日本政府が日本企業が朝鮮において労務募集を解禁したのは1939年である。その4年前の朝鮮の農村状況ということになる。
この調査前年の1934年、岡田啓介内閣は「朝鮮⼈移住対策ノ件」を閣議決定した。当時、朝鮮⼈労働者の⽇本移⼊が増加の⼀途をたどっていたことが日本国内で問題化(朝鮮⼈流⼊に起因する失業率上昇と犯罪・トラブルの増加等)。⽇本政府は朝鮮⼈移⼊を阻⽌するため朝鮮、満洲の開発と密航の取り締まりを強化することにしたというのがこの閣議決定である。
このような背景で行われた調査の報告ということだ。
その後、急速に日本は戦時体制に移行する。日本の男性労働力の兵士としての戦争動員が進む中で、その補完としての朝鮮人労働力の必要性が増し、一転して、日本政府は朝鮮人の日本移入を、日本企業は朝鮮人労働者の募集を積極化させことは、史実のとおり。
一方、朝鮮半島南部は投資がなされ工業資本が増加した現在の北朝鮮領域とは異なり、就労人口の80~90%が農業従事者である。南朝鮮では慶尚南道蔚山邑達里を出た人たちの雇用の受け皿がない。
こうした背景で仕事のある日本を目指したということになる。この状況は、1939年以降も基本的に同じ。「強制連行」された人を含む労務募集や徴用で日本に渡航した朝鮮人は一部。大多数は日本に生活の場を求めて渡ってきた朝鮮人であった。
いなわち、1939年から1945年の間に100万人が増加して、1945年の終戦(敗戦)時、日本国内にいた朝鮮人の人口は200万人を超えていた。
この間に増加した約100万⼈のうち、約70万⼈は自から内地に職を求めてきた個別渡航と出⽣による自然増加によるもの。
残りの約30万⼈の大部分は⼯鉱業、土⽊事業等による募集に応じて自由契約に基づいて日本に渡来した者、徴用により日本国内で就労した者である。
「国⺠徴用令」による、いわゆる徴用労務者数は、1944年9月以降ということもあってごく少数であった。ほとんどが、労務募集を通じて日本に職を求めて渡ってきた労働者たちということになる。
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