NHK高校講座 | 世界史 | 第18回 近世の朝鮮王朝
第18回
近世の朝鮮王朝
世界史監修:東京大学教授 六反田 豊
1.朝鮮王朝の建国 2.儒教文化の担い手としての士族・両班 3.朝鮮王朝と日本とのつながり
「マジカル・ヒストリー倶楽部」にようこそ!
今回のミッションは、「近世の朝鮮王朝」です。
永松さん 「現在の韓国の紙幣には1000、5000、10000、50000ウォンがあります(左写真)。実は、全て肖像は、朝鮮王朝時代の人物が描かれています。」
眞鍋さん 「この人たちは、どういう人たち?」
永松さん 「10000ウォンが朝鮮国王、1000と5000ウォンが儒学者、つまり儒教の先生です。そして、50000ウォンの女性は芸術家としても有名なんですが、5000ウォンの儒学者を育てた母親としても有名なんです。韓国といえば “儒教の国” というイメージがあると思うんですが、それが確立したのが、この朝鮮王朝の時代なんです。」
眞鍋さん 「儒学者がお札になるくらいだからね。でも、儒教と儒学は同じものなの?」
永松さん 「基本的には同じ物ですが、儒教は中国の孔子が始めた思想で、儒学は、その儒教を研究する学問だと思ってください。」
眞鍋さん 「儒教って日本の歴史にもキーワードとして出てくるけど、この頃の朝鮮と日本って何か関係があったのかな?」
永松さん 「はい。そこで今回は、“朝鮮王朝の儒教文化と日本とのつながり” をテーマに、旅行プランをまとめました。」
今回のビュー・ポイントは、
1.朝鮮王朝の建国
2.儒教文化の担い手としての士族・両班
3.朝鮮王朝と日本とのつながり
の3点です。
訪れる場所は、朝鮮半島。時代は、14世紀末~20世紀初めです。
まずはソウルの世界遺産「宗廟」を訪れ、朝鮮王朝歴代の王たちの霊廟で、儒教文化の始まりをたどります。
そして韓国第二の都市である釜山(プサン)へ行き、交易の要衝として栄えた港湾都市で、日本とのつながりを探ります。
眞鍋さん 「以前の回で、朝鮮半島のプランを見た時は、確か高麗が朝鮮半島を統一したところまでだったよね。それが近世になって、朝鮮王朝になったっていうわけだね。でも、14世紀末の中国は元から明に変わったばかりだから、それも何か影響があったりするの?」
永松さん 「もちろん深い関係があります。まずは、朝鮮王朝の建国から見ていきましょう。」
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1.朝鮮王朝の建国
マジカル・ヒストリー・ツアー、最初に訪れるのは、韓国の首都ソウルにある世界遺産「宗廟(チョンミョ)」です。
ここには、朝鮮王朝の王と王妃の霊が奉られています。
年に一度行われる祭礼では、朝鮮王朝独自の音楽が演奏されます。
この音色は、どのようにして創られたのでしょうか。
朝鮮王朝の建国前に、マジカル・ジャンプ!
10世紀以降、朝鮮半島を治めていたのが “高麗(こうらい:コリョ)” です。
高麗は13世紀中盤に、モンゴル帝国、すなわち “元” に降伏してその支配下に入りました。
元は高麗に対し、様々な干渉を行います。その一つが、日本への遠征でした。
兵の動員を強制された高麗は、元との混成軍団による遠征である「元寇(げんこう)」に参加します。
元寇は二度(1274年 文永の役・1281年 弘安の役)に及びましたが、いずれも失敗し、高麗は多大な被害を受けました。
14世紀になると、元の支配に対する民衆の反乱が、元の各地で起こります。
元は北方に押し戻され、漢民族による “明” が建国されました。
中国での王朝の交代をきっかけに、高麗では政治を改革しようとする動きが活発になります。
そこで政治の実権を握ったのが、李成桂(りせいけい:イソンゲ)でした。
東シナ海で略奪を行っていた「倭寇(わこう)」を撃退して名を上げた高麗の将軍です。
李成桂は高麗王から王位を譲り受け、1393年、国名を “朝鮮” に改めました。
朝鮮王朝は高麗で重んじられていた仏教を退けました。仏僧たちが王朝と結びつき、腐敗していたためです。
仏教に代わり国家の学問及び思想として採用したのが、中国の孔子が始めた「儒教」です。
儒教とは「親愛の情を大切にし、家族の道徳を実践すれば、社会の秩序が保たれる」とする思想です。
中でも、朱熹(しゅき)によって体系化された、儒教の規範や秩序を厳しく定めた「朱子学」を国づくりの基本理念にしました。
明とも友好関係を築き、徐々に国の基礎が確立していきました。
第四代国王「世宗(セジョン)」の時代になると、朝鮮王朝独自の新しい文化が創り出されます。
その一つが、「ハングル(訓民正音)」という文字です。
それまでは漢字を使っていましたが、庶民には習得も難しかったため、朝鮮固有の文字として制定しました。
独自の音を奏でる、祭礼音楽を創ったのも世宗です。
それまでは中国の雅楽が主流でしたが、新しい楽器を考案し、音階を創ります。(右写真)
こうして、朝鮮王朝独自の音楽が完成しました。
朝鮮王朝は、現在につながるさまざまな文化を生み出しました。
眞鍋さん 「ハングルや朝鮮独自の文化が花開いたのが、この朝鮮王朝の時代だったわけだね。王様の世宗って、聞いたことがあるような気がする。」
永松さん 「韓国の紙幣をもう一度見てみましょう。10000ウォンが、第四代国王の世宗です。ハングル制定が現在でも評価されているため、紙幣になっているんです。」
眞鍋さん 「そうなんだ。儒教も広く取り入れられていたよね。」
永松さん 「その儒教を広めるために、士族・両班(ヤンバン)と呼ばれる人々が大きく関わったんです。」
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2.儒教文化の担い手としての士族・両班
マジカル・ヒストリー・ツアー、続いては、韓国慶州郊外の「良洞(ヤンドン)村」を訪ねます。
良洞村は、朝鮮王朝時代の歴史的重要民族文化財として、世界遺産に登録されています。
韓国では普段接することが少なくなった儒教文化に触れることが出来るため、たくさんの観光客が訪れています。
この村では年に一度、先祖供養の祭祀(さいし)を行います。
そこに集まる人たちはみな、「両班」と呼ばれる人たちの子孫です。
両班とは一体、どのような人たちなのでしょうか。マジカル・ジャンプ!
儒教を学んだ地域社会のエリート層を、「士族」といいます。
士族たちは、国家官僚になるために「科挙」と呼ばれる厳しい試験を受けました。
その合格率は約3000倍だった時期もあります。この難関の科挙に合格した官僚が、「両班」です。
両班とは文班(文官)と武班(武官)、つまり行政官と軍の指揮官のことです。
儀式の場で、国王を前に文官と武官が、それぞれに “班” という列を作って並んだことに由来します。
国のすみずみ まで儒教を浸透させるために作られたのが、「郷校(きょうこう)」という学校です。全国に、300以上の郷校が作られました。
また、地方の士族や両班たちは「書院」という私塾を作り、両班の育成に力を注ぎました。
両班は次第に士族出身の者に限られていき、後に士族そのものを両班と呼ぶようになりました。
右写真は、韓国の伝統的な結婚式の様子です。
儒教の教えは民衆の間にも広まり、結婚式などの儀式も、儒教に則って行われるようになりました。
こうして、現代にまで続く儒教文化が確立しました。
眞鍋さん 「韓国に儒教文化を根付かせた立役者は、両班だったんだ。しかし、両班になる科挙の倍率が3000倍っていうのはすごい!一部の選ばれた人しかなれなかったんだ。」
永松さん 「その科挙なんですが、朱子学の知識を問う問題が中心だったそうです。」
眞鍋さん 「やっぱり、国づくりも朱子学をもとに徹底していたってことなのかな。」
永松さん 「そういうことですね。その朱子学は、朝鮮から日本に伝わりました。これに深く関わっていたのが、あの徳川家康なんです。」
眞鍋さん 「ここで家康が出てくるんだ。つながってきたね!」
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3.朝鮮王朝と日本とのつながり
マジカル・ヒストリー・ツアー、最後は日本から最も近い韓国、釜山を訪れます。
日本との距離は、わずか50キロメートルほどです。
首都ソウルに次ぐ韓国第二の都市として、世界中から観光客が訪れます。
右写真は、釜山市街にある階段です。
これは、江戸時代に「倭館」と呼ばれる日本人居住地が置かれた場所の名残です。
外国との国交を基本的に行っていなかったはずの江戸幕府が、釜山に居留地を置いたのはなぜなのでしょうか。
マジカル・ジャンプ!
1592年、日本を統一した豊臣秀吉が明を攻めるため、大軍を朝鮮半島に送り込みます。
これが、「壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭乱」、すなわち「文禄・慶長の役」です。
朝鮮王朝は明の援軍と共にこれを退けましたが、朝鮮半島全土にわたって大きな被害を受け、国土は荒廃しました。
これにより、日本と朝鮮王朝との国交は断絶します。
この戦いで、多くの朝鮮の人たちが、捕虜として日本に連れ去られました。
その中の一人が、儒学者の姜沆(カンハン)です。25歳で科挙の試験に合格し、両班になった逸材でした。
日本で姜沆が出会ったのが、藤原惺窩(せいか)という僧侶でした。朱子学を学んでいた惺窩は、姜沆との交流を始めます。
言葉の通じない二人は、漢字で筆談を交わしました。こうして、惺窩は朝鮮半島最新の朱子学を学んでいきました。
1603年、徳川家康が江戸に幕府を開きます。
家康は、藤原惺窩の意見を聞き、朱子学を幕府公式の学問として採用します。
家康は、秩序を重んじる朱子学は、武士が身につけるべき教えと考えました。
そして、朝鮮王朝との国交回復を望みました。
1607年、朝鮮王朝は、日本へ使者を派遣することを決定します。これが「朝鮮通信使」です。医師や軍人、学者や音楽家など、500人に及ぶ大使節団でした。
朝鮮通信使は釜山から日本の対馬に渡り、瀬戸内海や大坂を越え、日本を縦断して江戸へと向かいました。
朱子学を学ぼうと、多くの日本人が朝鮮通信使のもとを訪れました。こうして通信使は、行く先々で熱烈な歓迎を受けます。
江戸城に入った朝鮮通信使は、朝鮮国王からの国書を手渡しました。いわゆる鎖国時代の日本にとって、国書を交換するような正式な国交を結んだ国は、朝鮮王朝だけでした。
その後、日本と朝鮮王朝は、貿易などの交流も盛んになります。これに伴い、釜山に日本人の居留地が出来ました。
眞鍋さん 「江戸時代って鎖国して閉ざされているイメージがあったけど、朝鮮に居留地があって、日本人が暮らしてたんだね。」
永松さん 「その居留地の倭館ですが、広さ10万坪(東京ドーム約7個分)の敷地に、沢山の建物が建ち並び、常に500人ほどの日本人が駐留したそうです。」
眞鍋さん 「結構な規模で住んでいたんだね。秀吉が朝鮮に出兵してから、ずっと関係が悪かったのかなって思ってたけど、意外に良い関係を築いていたんだね。」
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Deep in 世界史
マジカル・ヒストリー倶楽部の歴史アドバイザー、六反田 豊先生(東京大学 教授)に歴史の深い話をうかがいます。
眞鍋さん 「先生、朝鮮通信使の人たちは日本で大歓迎だったんですね。鎖国中とはいえ、当時は朝鮮からいろいろな物が入ってきていたんですか?」
六反田先生 「そうですね。日本の江戸時代にあたるこの時期、朝鮮と日本との間では、貿易も活発に行われていました。当時の日本では、高麗人参や朝鮮人参ともいわれる薬用人参が、万能薬として大変珍重され高値で取り引きされていました。それ以外にも、たとえば中国産の生糸が、朝鮮を介して輸入されていました。それが、日本の西陣織の発展に貢献するという側面もありましたね。」
眞鍋さん 「逆に、日本から朝鮮に行った物は、どのようなものがありますか?」
六反田先生 「たとえば、東南アジア産の香料や、水牛の角といったものですね。水牛の角は、武器の弓の材料になりました。あるいは、日本産の銅や銀などの貴金属を輸出していました。」
眞鍋さん 「じゃあ、日本と朝鮮だけでなく、中国や東南アジアも含めた物流ネットワークのようなものがあったんですか?」
六反田先生 「その中の朝鮮と日本の貿易という感じです。」
2人 「先生、どうもありがとうございました!」
眞鍋さん 「私、釜山には一度行ったことがあるんだけど、今度行く時は、あの日本人が住んでたエリアにもちょっと行ってみたいな。」
永松さん 「今、どうなってるんですかね。」
眞鍋さん 「その時は、お土産に朝鮮人参を買ってくるね。」
永松さん 「ぜひお願いします!」
それでは、次回もお楽しみに!
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