NHK高校講座 | 世界史 | 第9回 古代・中世の朝鮮半島
第9回
古代・中世の朝鮮半島
世界史監修:東京大学教授 六反田 豊
1.朝鮮三国への仏教伝来 2.新羅の仏教文化とその特徴 3.高麗の仏教文化と大蔵経
「マジカル・ヒストリー倶楽部」にようこそ!
今回のミッションは「古代・中世の朝鮮半島」です。
これまで見てきたとおり、仏教はインドで生まれ、世界に広がりました。
仏教は、中国では遊牧民族をまとめるなど、国を治めるために利用されてきた歴史がありました。
そして、朝鮮半島に伝来し、日本にも伝わったと言われています。
今回のマジカル・ヒストリー・ツアーは、朝鮮半島の仏教文化を知る旅です。
朝鮮半島に伝わった仏教が、独自の文化を作っていく様子を見ていきます。
ビュー・ポイントは、
1.朝鮮三国への仏教伝来
2.新羅の仏教文化とその特徴
3.高麗の仏教文化と大蔵経
の3点です。
訪れる場所は、朝鮮半島。時代は4世紀から14世紀です。
まずは、世界遺産「仏国寺」を訪れます。
朝鮮半島 初の統一王朝が、仏教を手厚く保護し、広めた理由は何だったのでしょうか。
また「海印寺」には、国が一丸となり、15年の歳月をかけて作られた8万枚に及ぶ仏教経典があります。その信仰の源を探ります。
眞鍋さん 「朝鮮半島の仏教といっても、私が韓国に行った時は、そんなに有名なお寺があったっていう印象はなかったかな。」
永松さん 「実は、古代・中世の朝鮮半島では、仏教が国づくりに大きな役割を果たしていたんです。」
眞鍋さん 「でも、朝鮮半島と仏教って、あまりイメージがつながらないよね。どうやって広がっていったんだろう?」
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1.朝鮮三国への仏教伝来
マジカル・ヒストリー・ツアー、最初は、朝鮮半島中西部にある瑞山(そさん)渓谷を訪れます。
ここには、韓国最古の磨崖仏(まがいぶつ)として国宝に指定された「磨崖三尊仏(まがいさんぞんぶつ)」があります。
磨崖仏とは、崖を削って作った仏像のことをいいます。
微笑みを浮かべる磨崖三尊仏は、「微笑仏(みしょうぶつ)」と呼ばれています。
仏教はいつ、どのようにして朝鮮半島に伝わったのでしょうか。
時間を遡って見ていきましょう。マジカル・ジャンプ!
4世紀、仏教伝来のころの朝鮮半島では “高句麗(こうくり:コグリョ)” ・ “百済(くだら:ペクチェ)” ・ “新羅(しらぎ:シルラ)” の三国が並び立っていました。
また南部には、小国の集まりである “加羅諸国” がありました。
このころ中国は、五胡十六国時代でした。
高句麗は北の前秦(ぜんしん)、百済は南の東晋(とうしん)にそれぞれ朝貢を行っていました。
朝貢とは、中国に対して、あいさつや贈り物などの儀礼を行うことをいいます。これによって、中国から周辺地域の支配者としての地位を認めてもらっていました。
このような関係を「冊封(さくほう)」といいます。
中国は、冊封関係にあった朝鮮半島の国々に、より優れた文化として仏教を与えました。
戦乱と社会不安が続いていた五胡十六国時代の中国では、インドから伝わった仏教が信仰されていました。
こうして仏教は、4世紀末に高句麗と百済に伝来します。
そして、高句麗の強い影響下にあった新羅へは、6世紀初めに高句麗の僧によって伝わりました。
6世紀後半には、新羅が加羅諸国を滅ぼします。
新羅が領土を拡大する中で、三国の対立は激化し、朝鮮半島は戦乱の時代に突入していきました。
こうした時代に、百済の人々によって作られたのが、磨崖三尊仏でした。
眞鍋さん 「仏教が伝来したころは、三国が対立していたわけだよね。そういう不安定な時代だったから、人の心の中にも仏教というものが必要とされていたのかもしれないね。」
永松さん 「仏教の力は大きいですね。」
眞鍋さん 「ところで中国の三国志は有名で、私も大好きだけど、朝鮮半島にも三国時代というものがあったんだ。」
永松さん 「そうなんです。朝鮮半島は、高句麗・百済・新羅の三国が並び立っていました。これが、朝鮮半島の三国時代です。この中で、朝鮮半島を統一したのが、新羅だったんです。」
眞鍋さん 「じゃあ、新羅には三国志の諸葛亮みたいな凄い軍師でもいたのかな?」
永松さん 「新羅の統一を支えたのは、軍師ではなく仏の力でした。」
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2.新羅の仏教文化とその特徴
マジカル・ヒストリー・ツアー、続いては、新羅の都だった韓国の慶州を訪ねます。
ここには、世界遺産「仏国寺(プルグクサ)」があります。
日本の奈良・東大寺と同じ時代に建てられた仏国寺は、仏の世界を地上に再現していると言われています。
仏国寺には、そのシンボルとして、全く姿の異なる二つの塔が並んで建っています。釈迦塔と多宝塔です。
釈迦塔は、シンプルな直線で構成されています。これは、典型的な新羅のスタイルです。
一方で多宝塔は、釈迦塔とは対照的に装飾に富み、丸みをおびています。これは百済の文化が色濃く出ているといいます。
新羅がどのように三国を統一したのか、時間を遡ってみましょう。
マジカル・ジャンプ!
7世紀初め、新羅は百済と領土拡大を巡り対立していました。
一方、中国は南北朝から隋を経て、唐が全国を統一します。
唐はその領域を広げ、高句麗に迫っていました。そこで、高句麗は百済と連合します。
朝鮮半島で孤立した新羅は唐と連合し、百済・高句麗の連合と戦いました。
この戦いで、新羅は仏の力を利用しました。それが「護国仏教」という考えです。
護国仏教とは、仏教の力で国を外敵から守る(護る)という思想です。
つまり、新羅は仏に守られた特別な国であり、仏教を信仰すれば国を守ることができるというものでした。
新羅は高さ80メートルもの「九層塔」を建立し、塔の中で国を守るための経文を唱え続けます。護国仏教で人々を一つにまとめたのです。
新羅と唐の連合は、660年に百済、668年に高句麗を攻め滅ぼします。
さらに新羅は、唐の勢力を排除し、朝鮮半島に統一王朝を打ち立てました。
こうして朝鮮半島の統一を果たした新羅が、8世紀に建立したのが仏国寺です。
新羅の都だった慶州には、山の中にも数多くの仏像が残されています。
右写真は、庶民の手によって作られた仏像です。
護国仏教によって朝鮮半島を統一した新羅では、貴族から庶民まで、仏教が幅広く受け入れられていました。
眞鍋さん 「新羅は高句麗と比べて領土も小さかったよね。どうやって朝鮮半島を統一したのか不思議だったけど、唐の力を借りたり、仏教を使って民衆の心を一つにする方法をとったんだね。ローマ帝国もキリスト教を導入して国を治めたし、国を治めるために宗教を利用するっていうのは、やっぱり定番の方法なのかも。」
永松さん 「宗教の力は大きいですよね。ところが、その新羅はやがて滅亡してしまうんです。そして、新羅の後に、高麗(こうらい)という王朝が朝鮮半島を治めます。」
眞鍋さん 「じゃあ、新羅の仏教を使ったやり方も変わっていくのかな。どうなっていくんだろう?」
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3.高麗の仏教文化と大蔵経
マジカル・ヒストリー・ツアー、最後の見どころは、韓国中南部の山間にある海印寺(かいいんじ:ヘインサ)です。
海印寺には、世界遺産「高麗八萬大蔵経(こうらいはちまんだいぞうきょう)」があります。
大蔵経とは、ブッダの教えや僧たちが守るべき戒律をまとめ、仏教の経典を集大成したものです。
海印寺には、その版木が納められています。
本にすると6800冊、刻まれた文字は、約5200万にもなります。
なぜ、この様な膨大な仏典が作られたのでしょうか。
その謎を探るため、マジカル・ジャンプ!
10世紀初め、新羅に代わって朝鮮半島を治めたのが “高麗(こうらい:コリョ)” です。
11世紀、高麗は北方騎馬民族「契丹(きったん)(遼)」の侵攻に悩まされます。
高麗の王は、国を守るために仏の力を借りようと考えました。
そして、経典を印刷するための版木を作ります。文字を一字彫るごとに一度拝み、仏の教えを刻み続けました。これが「初彫(しょちょう)大蔵経」です。
大蔵経は、数十年の歳月を掛けて完成します。人々の心は一つにまとまり、契丹を撃退しました。
13世紀になると、中国では強大なモンゴル帝国が台頭しました。高麗はモンゴルの侵攻を受け、この戦いで初彫大蔵経は焼失しました。
しかし高麗の人々は、再び大蔵経の製作を始めます。
モンゴル軍と戦いながら、15年の歳月を掛けて完成したのが、海印寺に今も残る高麗八萬大蔵経です。
人々の心は一つにまとまり、敵の侵略を30年にわたってしのぎました。
眞鍋さん 「高麗も新羅に続いて、仏教の力を使って人々をまとめていったんだね。お経の力を使ってモンゴルと戦うというのは、まさに護国仏教って感じだね。」
永松さん 「ところが、13世紀後半、高麗はモンゴルに降伏してしまうんです。」
眞鍋さん 「仏教パワーも通じないほど、モンゴルは強かったんだ。高麗はモンゴルになってしまったということ?」
永松さん 「降伏はしましたが、モンゴルに服属しながら、高麗という国は続いていったんです。高麗は、その後も仏教を信仰し続け、大蔵経は人々の心の寄りどころとなってあがめられていきます。」
眞鍋さん 「そうだったんだ。朝鮮半島は、中国の影響を受けたりして、日本とすごく似ている部分もあるよね。でも、やっぱり大陸と陸続きだから、日本とまた少し違った歴史のたどり方をしていったんだね。」
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Deep in 世界史
歴史アドバイザーの六反田 豊先生(東京大学 教授)に、世界史の興味深い話をうかがいます。
眞鍋さん 「朝鮮半島の護国仏教という考え方は、仏教の力で国を守るという、日本とは少し違う仏教の形なのかなと感じたのですが…。」
六反田先生 「実は、仏教の力で災いから国を守るという考えは、日本にもあったんです。たとえば奈良時代に、全国に国分寺や国分尼寺といったお寺が置かれました。これは、仏が国を守り災難を除いてくれるという考えが背景になっています。それから鎌倉時代の元寇で、外国からの侵攻を受けます。そこで日蓮という僧が、仏教の力で国を守ることを強く主張しました。」
眞鍋さん 「日本には朝鮮半島から仏教が伝わったというだけあって、やっぱり少し似たところがあるんですね。」
六反田先生 「そうですね。やはり、基本的には似ているところもあるといって良いと思います。」
永松さん 「大蔵経のように、お経で敵を撃退するってすごいですよね。」
六反田先生 「大蔵経は、高麗が国をあげて作った物です。後の朝鮮王朝時代には、日本の足利幕府の将軍や有力な大名たちが、その版木で刷ったお経を求めて使者を朝鮮半島に送ります。そして実際に、大蔵経のお経が、いくつか日本に持ち込まれているんですね。そういう意味では、仏教を通じた朝鮮半島との交流というのは、時代が下ってもずっと続いていたと言えると思います。」
六反田先生 「ところで、朝鮮半島から伝わったものというのは、仏教だけかというと決してそうではなく、人もやって来ていたんですね。」
主に4世紀から7世紀にかけて、中国や朝鮮から、たくさんの人々が日本にやって来ました。彼らは今日では「渡来人」と呼ばれています。
渡来人は、機織りや養蚕(ようさん)、土木建設や武器製作などの技術者として大和王権に仕えました。また、官僚として政治にたずさわるなど、日本の古代国家建設に大きく貢献したといいます。
滅ぼされた百済からも、多くの亡命者が日本にやって来ました。
そして、日本でも新羅の侵攻に備え、防御のための朝鮮式山城が数多く築かれました。
六反田先生 「九州北部を中心とする西日本地方に行きますと、山の中に昔の城壁の石垣といったものが残っているのを、今でも見ることができます。」
永松さん 「僕の地元は福岡なんですけど…。」
六反田先生 「大野城という、朝鮮式山城がありますよ。」
永松さん 「大野城、知ってます!」
眞鍋さん 「身近にあるね!本当に日本と密接な関係にあったんだ。」
眞鍋さん 「今度 韓国に行ったら、お寺探しをしてみたいね。」
永松さん 「日本とやっぱり違うんですかね。おみくじとかあるんですか?」
六反田先生 「おみくじはあんまり見た事ないですけど…。」
眞鍋さん 「その辺は、日本とちょっと違うね。」
それでは、次回もお楽しみに!
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