書評:「戦後世代の戦争責任」 KAMOGAWAブクレット 加藤周一著
2015年07月03日 | 書評(政治経済、歴史、自然科学)
「戦後世代の戦争責任」 KAMOGAWAブクレット 加藤周一 著
本書は、東京大学駒場祭(1993年)での「学徒出陣50年の今」という講演をもとに加筆整理されたものである。
戦争を知らない世代の戦争責任とは何か。考えさせられる内容だ。加藤周一と言えば、カナダ、ドイツ、スイス、アメリカ、イギリス、イタリアなどの国々の大学で教鞭をとった「日本の碩学」だ。その碩学が若い世代に直接語りかけた興味深い講演記録だ。
短いブクレットなので、印象的な記述を引用して、書評としたい。
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・戦争に協力する大衆の存在
「戦争の中国全土への拡大は、政府の操作と、それから大衆の側における体制順応主義への強い傾向との合体の結果でした。・・・ある段階では大衆自身も、反対意見や少数意見を抹殺する方向に向かいます。・・・逆に言えば少数意見が生きている社会では体制順応主義が起こりにくい。少数意見がつぶされると、体制順応主義が加速されていきます。・・・大衆操作と体制順応主義。戦争の決定は権力だけではできないんです。」
・「だまされる」ことの快感
「戦争文化の中には・・・大衆操作ということがある。操作されやすいというか、操作された方が気持ちいい、安心できると感じる大衆のことです。・・・『だまされていた』というのがそれです。前の戦争が終わったとき、日本の多くの人びとは『だまされていた』『知らなかった』と言った。しかしそれはだまされた方が楽だったからでしょう。だまされたかったからがまされたんです。・・・『だまされる』ということが、本来、戦争文化の一面です。」
・戦争責任の成立条件
「いつ、どんな場合でも命令に従うということが、弁解にはならないということです。つまり命令に従わないこと以外に犯罪を逃れる方法はない、命令に従ったということは、責任をとるべきはずの行為だということです。」
・戦後世代の戦争責任
「一つは、主としてメディアを通じての政府の大衆操作、世論操作に弱いということ。・・・操作に流されないために、自分の持っている知的能力で、よく観察し、事実とつき合わせて分析して、嘘は嘘だと見破ることが必要です。」
「第二は、『みんなで渡ればこわくない』という体制順応主義です。・・・体制順応主義に対して抵抗しなければならない。それは少数派になる勇気と同じことです。だからこわくても少数派になる用意がなければだめだ。それが非常に大事だ。もしその勇気がなければ、それは戦争責任を果たしていないことになるんです。」
「三番目は、鎖国心理です。・・・日本人のことは心配するけれど、外国人のことは心配しない。しかるに人権というものは人類全体にある。人間に備わった権利で、何も日本に限った話じゃない。・・・外国人に対する差別も、人種による差別もみんな関連していると思う。一貫性を貫くためには、すべての差別とたたかわなければならない。」
歴史修正主義、ネオナチ、極右の論調が強まり、ヘイトスピーチなどが公然と行われる時代だからこそ、耳を傾けるべき論だと思う。
#本(レビュー感想)
1件のカスタマーレビュー
原題は1993年11月21日東京大学教養学部の駒場祭における加藤周一講演「学徒出陣五〇年の今」。
いま日本国民がかつて日本を戦争に導いた勢力につながる政党の政権を望み、支持していることが問題なのだと。
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戦争の後に生まれた人というと、今この会場では私をのぞくほとんどすべての人ということになるでしょうか。戦争のあとで生まれた人に戦争の責任があるのか、あるいは戦争犯罪を含めて責任があるのか。私は直接には、まったくないと思います。自分が生まれる前のことをコントロールのしようがない。
責任をとるということに関する近代法の基本的な考え方は、意思の自由が保障されている場合の行動に限るわけです。強制されたときにとった行動に、その人に責任がないというのが、少なくとも近代法系な考えでしょう。鉄砲を突き付けられて「隣の家の鶏を盗め」と言われて、隣の鶏を盗んでも、それは盗んだ人の責任ではい。なぜなら盗まなければ射殺されるかもしれないから。
生まれる前に何が起ころうと、それはコントロールできない。自由意思、選択の範囲はないのです。したがって、戦後に生まれたひと個人には、戦争中のあらゆることに対して責任はないと思います。
しかし、間接の責任はあると思う。戦争と戦争犯罪を生み出したところの諸々の条件の中で、社会的、経済的、文化的条件の一部は現在も存続している。その存続しているものにたいしては責任がある。もちろんそれに対しては、われわれの年齢のものにも責任がありますが、われわれだけではなく、その後に生まれた人たちにも責任はあるんです。なぜならそれは現在の問題だから。( 出典 [戦後世代の戦争責任」 1994年 かもがわブックレット)
1943年10月21日東京の神宮外苑で開かれた学徒出陣の壮行会。壮行会に参加した学生の多くは生きて日本に戻ることは無かった。
加藤周一 戦後世代も戦争責任はある
戦争の後に生まれた人というと、今この会場では私をのぞくほとんどすべての人ということになるでしょうか。
戦争のあとで生まれた人に戦争の責任があるのか、あるいは戦争犯罪を含めて責任があるのか。
私は直接には、まったくないと思います。
自分が生まれる前のことをコントロールのしようがない。
責任をとるということに関する近代法の基本的な考え方は、意思の自由が保障されている場合の行動に限るわけです。
強制されたときにとった行動に、その人に責任がないというのが、少なくとも近代法系な考えでしょう。
鉄砲を突き付けられて「隣の家の鶏を盗め」と言われて、隣の鶏を盗んでも、それは盗んだ人の責任ではい。
なぜなら盗まなければ射殺されるかもしれないから。
生まれる前に何が起ころうと、それはコントロールできない。
自由意思、選択の範囲はないのです。
したがって、戦後に生まれたひと個人には、戦争中のあらゆることに対して責任はないと思います。
しかし、間接の責任はあると思う。
戦争と戦争犯罪を生み出したところの諸々の条件の中で、社会的、経済的、文化的条件の一部は現在も存続している。
その存続しているものにたいしては責任がある。
もちろんそれに対しては、われわれの年齢のものにも責任がありますが、われわれだけではなく、その後に生まれた人たちにも責任はあるんです。
なぜならそれは現在の問題だから。
加藤周一「戦後世代の戦争責任」(原題は1993年11月21日東京大学教養学部の駒場祭における講演「学徒出陣五〇年の今」)
■安倍談話を英紙が評価 “中国、今後は反日を自己正当化に使えない”
(NewSphere - 08月18日 18:50)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=196&from=diary&id=3572140
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