2016-04-12

14] 三位一体の改組その他


14] 三位一体の改組その他

   一、三位一体の改組

 満州国の傅儀執政が登極し給い、満州国が帝国となった時、駐満大使が設置されて、関東軍司令官が当分兼任することになった。之に関東州長官を加えれば、所謂三位一体制になるのであって、曽つては関東長官と満鉄総裁と総領事とが三位一体(?)だと云われたものだが、その頃から見れば、情勢は随分変ったものだと思う。満州が独立国となり、日満鮮人の合衆国となり、それが更に名誉ある帝国にまで旬日の内に進化して了ったのは全く、大日本帝国軍部の遠大な計画に負うのであって、少くとも吾々大日本民族にとっては之が極めて慶賀すべき現象であることは、私が更めてここに証明するまでもないことだ。
 昔の三位一体とは異って、今度の三位一体はだから、甚だ張り合いのあるものであって、それだけに今日この三位一体が重大な問題となるわけである。と云うのは結局に於て関東軍司令官を中心とするこの三位一体は、元来が非常時的行政形態、戦時軍治主義だったわけであるが、この関東軍司令部を、そのまま「平時化」する必要がどこかにある以上、この戦時三位一体制は当然改廃されねばならなくなる。
 満州に於ける治安維持の確立期はすでに終り、匪賊も六分の一に減少したから(尤も一二日前にも安東付近にまで匪賊が出没したそうだが)、日本帝国の対満州国行政(?)が平時化される必要の生じて来たことは寧ろ当然であって、なぜわざわざ特に、元来が「戦時的」な筈であった満州軍司令部をば「平時化」する必要があるのか、もう少し初めから「平時」に適した機関を選んではなぜ悪いか、というような、質問は全く野暮だ。それにそういう質問は全く忘恩的なのだ。満州帝国が建国されたのは関東軍司令部のおかげだということを吾々は片時も忘れてはならない。この帝国は他の帝国と異って正に関東軍司令部が造ったのだ。
 さてそこで、この在満機関三位一体制の改革案が、この十日間程で頓に出揃うことになった。第一は陸軍省の理想案であるが、それによると関東軍司令官を総督制にし、満州経営上軍事行政司法外交一切の権限を与えようとする案で、無論今まで通りの関東長官も満州国大使も要らなくなるわけだが、併し現在の関東軍司令官は統帥権にぞくするもので、全く軍事的なものの筈だから、少くとも之を平時化するように改正する必要があるわけで、もしそれさえ手続きが済めば、完全な一位一体制の在満機関が出来ようというのである。
 処が之では折角の満州帝国が朝鮮並みに取り扱われることになりそうで、満州国独立の承認を世界に向って強要している手前、一寸具合が悪いではないか、と気のつく者もいたらしく、陸軍省ではこれの代案として、軍司令官と駐満大使との二位制にし、大使を特別に外務大臣から独立させて総理大臣直接の監督下に移し、内閣に対満事務局と云ったものを置き、大使をして外交と行政とを営ませようというのである。無論当分駐満大使は関東軍司令官と同一人物である予定だから、前の理想案代案としてはまず結構かも知れない。云うまでもなく関東長官は無いに等しい。そして駐満大使と云ってもただの外務省の大使などではない。
 処が第一納まらないのは外務省だ。大使はあくまで大使でなくてはならぬ、即ち外務大臣の管轄になくてはならぬ。なる程関東長官は関東州内に権限を制限されるべきで、関東州外の満鉄監督権や付属地行政警察権は当然駐満大使に帰するのは当然だが、その大使自身が外務省にぞくさなくてはならぬ。そうやって、軍司令官と駐満大使とからなる本当の一位一体(たとえ同一人物が兼任しても管轄が二重になる)が出来るが、それが最も妥当な案だ、と外務省は考える。
 旗色の悪いのはそこで拓務省である。一体拓務省は満州を植民地と考えたがる悪い癖があるのだが、外務省案は之とは反対に満州を独立国として、取り扱おうとする。その結果関東長官の権限は、みじめにも縮小され、それに続いて、拓務省廃止案さえ提出される。ただでさえ影が薄くて他の植民地の監督に就いてさえ色々の疑問が起きる拓務省としては、之は我慢が出来ない。外務省案にも陸軍省案にも絶対不賛成だというのである。だがそれに代る代案はまだ具体的にはなっていないらしい。――谷大使館参事官は現地案を携えて上京、外務当局や陸軍省と折衝しているが、大体外務省案付近に落ちつくのではないかと見られているようである。
 こう見て来ると満州帝国位いムツかしい国はない。読者は多分、満州をどうやって統治するかという問題で皆が提案に苦心しているのだとウッカリ考えるかも知れない。だが無論それは途方もない心得違いなのである。外国ではどういうわけかあまり同意を表せず、偶々サルバドールという国のあることが判ってそれが賛成した程度だが、併し満州は現に歴然たる独立国で、而も大事なことには、神聖な帝国だということを、何遍も云うが、忘れてはならぬ。この独立国を如何に統治(?)するかという問題だから、問題は不思議にムツかしくなるのである。ウッカリ羽目をはずすといつの間にか[#「いつの間にか」は底本では「いつ間にか」]植民地のように考えられて総督などを置きたくなるし、思い返して独立国並みに大使を置かなくてはならぬとも考えて見る。××を出さずに満州国を正当に認識するということは決して容易やさしいことではない。
 実は併し、問題を解決する一つの原則が初めからあったのである。大日本帝国が満州帝国に期待するものは、「友邦」としての友誼なのである。と云うのは、満州の軍事上の絶大な価値だったのである。有利な予想戦場として、又戦時資源として、満州は戦略上の宝庫だということは誰知らぬものもない。処で、そこからこの三位一体の三体問題解決の特有な困難が生じて来る。なぜと云うに、まず第一に何よりも軍事上の宝庫だということが先であって、その植民地的な価値や外交対象としての価値は二の次であり、植民地や市場、資本投下地、其他のものとしてよりも、軍事的地盤としての資格が絶大なのだから、外務省や拓務省腹案に較べて、陸軍省の理想案が最も正直な所であって、関東軍司令部を以て最后の在満統一機関とする理想が、他の見地から見て幾多の政治的外交的経済的困難があるにも拘らず、軍事的に云えば最も当然な建前なのである。特にわざわざ戦時的な軍司令部を選んで之を「平時化」し「平常化」す必要のある所以が之だ。外務省案乃至恐らくは現地案は、この軍事上の裸体の要求に、政治的な被服を被せたものに過ぎない。
 だが、戦時的な軍令部をなぜ一般に平時化す必要があるのか。軍事上の必要から云えば戦時的な形態で良さそうなものを、なぜ今更之を平時化さなくてはならないか[#「ならないか」は底本では「らないか」]。併し「軍事上」必要になる独特の「政治」というものもあるのだ、戦時的なものだけで軍事的なものは満足出来ない。丁度軍人が独特な「政治」を欲するように。軍事上の必要というのはただの戦争のための戦争から生じるのではなく(単に好戦的な戦争青年は論外)、チャンと外に一定の目的が、税関戦・対内外思想戦・賃銀戦・対逓減利潤戦・対恐慌戦・等々が伏在するのだが、この必要を充たすにもすでに、出来合いの資本制を採用する他はないのである。資本家には一指も触れさせない筈であった満州にも、この頃盛んに資本投下が奨励される。関東軍司令部の特務部ではもはや満州の「発達」が手におえなくなる、満州が発達するに従って、特務部の厖大な参謀組織は無用有害にさえなる。特務部長は軍人では駄目で文官でなくては困るということにもなる。本年五月に於ける関東軍司令部編制改革がこの現われなのだ。現にその際松本前商相が特務部長に就任を懇請されたとも伝えられている。
 こうして軍事上の必要は資本制上の必要に自然的に又必然的に移行する。こうして初めて満州国は「発展」する。実に関東軍司令官はこの満州国発展のための前衛司令官だったわけで、それが漸次満州国発展本隊に部署を譲って戦機を熟させて行くのである。関東軍司令部が「平時化」し「平常化」さねばならぬということは、この関係を物語っているのである。外務省や拓務省だからホンの相の手で、三位一体制の改組案として、軍部案の権威のある所以だ。――三度云うのだが、満州国の出来上ったのは軍部のおかげであった。満州国の発展もだから軍司令部に俟たねばならぬ。これが他でもない、二十世紀に発見された新しい政治形態の、又新しい政治コースの本筋なのである。

   二、警察後援会

 東京市でやっている労働者職業紹介所(十三カ所)に失業登録されている労働者は二万三千人である。登録労働者は丁度官吏や公吏と同じに公然と登録されているのだからもはや決してルンペンなどではない、実は立派な職業所有者で失業者の内には数えられない。だが今日では、職業があるか無いかも問題だが、食えるか食えないかは職業のこの有無とは無関係な別な問題なのである。例えば代議士の職業別を見ればこのことは明らかで、「無職」代議士は決して少くあるまい。けれどもルンペンで代議士というのを見た人はないだろう。それと同じに、職業があったって食えるとは限らない、登録労働者こそその良い例なのであって、月に五日や六日日庸されたところで食える筈はない。だから、云って見れば、失業労働者の登録は、失業者の文字上の定義に従う限り、単に失業者をそれだけ帳簿の上で削るためであり、又実質上の失業者として見れば、却って、月の二十日か二十五日間を失業するということに就いて、登録承認保証されることに他ならない。食える食えないは結局どうでもいいので、出来る限り多数の人間を社会の職業体系に編入することがこの目的で、即ちそうやって社会秩序を少しでも堅固にしようというのである。
 失業を単に登録されただけで失業を解消させて見せるこの紙上観念論(Paper-idealism?)の奇術の、選ばれた少数のモデルとなることは、登録労働者の甚だ迷惑な名誉であるかも知れないが、併し個々の登録労働者にして見れば、登録されない場合に較べて、無論良いに決っているから、之は極めて大事な一身上の利害だ。
 処が七月二十五日東京は突然、登録労働者の賃金(一円六〇銭乃至一円三十五銭)を八月一日から約六分五厘値下げすることを発表した。理由は内務省から来る補助費が減額されたからというのである。そこで驚いたのは例の二万余の登録労働者の諸君であった、早速代表三十名を先頭に約百名の者が即日市庁に押しかけて牛塚市長に面会し、労銀値下げ反対その他の要求を含む要求書を提出して陳述する処があった。その際定石通り丸之内署からは二十余名の警官を同じく市庁に押しかけさせたが、どう間違えたか代表と市長との面会を斡旋しつつあった黒田市議が、処もあろうに市庁それ自身の事務局控室で、例の警官達から「打つ蹴る殴るの暴行」を働かれたというのである(東朝七月三十一日付)。丸之内の署長は「市会議員ともあろう人を殴るようなことは絶対にないと思います」と推定しているが、(登録労働者なら殴られたかも知れないらしい)、市会議員であろうと無かろうと、人を殴るということは日本では悪いことになっているのだから、この署長の言うことに間違いはない筈だ。
 黒田市議は廊下ででも滑ったらしく足を傷けたそうだが、他の市議等と共に、痛い足を引きずりながら東京地方検事局に平田次席検事を訪ねて、取りあえず口頭を以て、藤沼警視総監・丸之内署警部井上徳三郎・同署特高係高林定太郎氏等を、傷害罪と涜職罪で告訴告発したというのだが、殴られもしないのに傷害罪や涜職罪で告訴するというのは全くおかしい。いずれこの点に就いては丸之内署かどこかから、適当な弁明があることと思う。
 数日後公娼廃止反対の陳情で、女郎屋の亭主達三百名が内務省と警視庁に押しかけたが、これは別に負傷者を出さなかったらしい。併しとに角、事毎に警察官と大衆との間へ疎隔を来し勝ちなのは遺憾至極と云わねばなるまい。何とか両者を、丁度労資協調や労働争議強制調停の精神のように、理想的に協調させる途はないものかとかねがね考えていた処、今では大分前になるが東京警察後援会というものが出来上ったのである。確か原嘉道氏が発企人の筆頭で、私などにも加盟を求められた事があったかと記憶するのであるが、その時私はなぜ賛同の意を表しておかなかったか一寸理由が判らないが、処がこの折角の警察後援会自身がまた、警察を相手にして問題を起して了ったのだから、始末が悪い。
 後援会は警察を後援する心算で、優秀な警官並びに警官類似の行為のあった少数の市民に対して、感謝状と金一封とを贈るの会を、二十五日警視庁内で挙行した。之は前に内務大臣賞を優秀警官に与えたことの真似だそうで、警察を後援しようというのは、それが後援である以上大衆でなければならないが、その大衆が内務大臣の真似をすることは少し出過ぎた行為だったかも知れないが、それはとに角として、その席上、後援会の理事である矢野恒太氏が、ウッカリ一種の感違いをして脱線挨拶をして了ったのである。
 矢野氏は云ったそうだ、「諸君に贈呈する賞与は決して泥棒や殺人犯人の製造を奨励する意味はない、最近若手司法官が遣り過ぎるとの世評があり、警視庁も些細な事件をほじくり過ぎる傾向があるようである、今後は何でも彼でも巡回中に犯人を捕えねばならぬという意識を捨て、剣の音をさせながら歩いて、警官がよく廻ってくるから悪いことをすれば危険だということを感じさせて、漸次自発的に罪を犯さぬようにさせる位にして欲しい」(東朝七月二十八日付)云々。――実際にはどんな風に言ったのだが判らない処もあるが、とに角以上のような言葉が甚だしく警視庁の主脳部を憤慨させたらしい。警視庁の業務執行に立ち入ることが以ての外で、そう云えば賞与贈呈ということが元来不遜だというのが、警視庁の憤慨の根拠である。
 業務執行に立ち入ると云っても、之を褒めたのなら無論問題にはならなかったろうし、又後になってから賞与贈呈が不遜だと云うのも辻褄が合わないが、それはとに角として、警視庁の方針を否定する後援会ならば潰して了えという意見さえ出るようなわけである。処で矢野氏自身は初め、警察当局に忠言を呈したので、それが悪るければ理事は辞める、寄付をしたり叱られたりしては割が合わぬよ、と云っていたが、併し穏便を第一と考えたのだろう、遂に警視庁に出頭して、後援会の理事をやめるから何分穏便に取り計らって戴きたいと陳謝したので、警察当局は矢野氏を許してやったのである。警視庁という処は本当に偉い所なのである。
 思うに矢野氏及び警察後援会の人達の間には、一つの感違いが初めからあったのだ。と云うのは、大衆が警察を後援し得るものだと初めから仮定してかかったことが、こうした脱線の原因なのである。警察の方では自分を大衆と一つになどは考えていない。警察は大衆と一体などではなくて、大衆を警察する処のものでなくてはなるまい。だからもし万一後援会なるものが許されるとすれば、それは完全に警察の云う通り注文通りになるべきであって、いやしくも警察外から忠言を呈したり注文をつけたりするような警察「後援会」はあり得ない筈だ。処が警察の外にありながら警察と一体であるようなものでなければ警察後援会という言葉の意味に合わない筈だから、つまり警察後援会なるものは論理的に不成立だということになる。まして、後援会の中に、矢野氏と同意見の不埓な人間が多数いるようでは、後援会は後援会ではない。後援会無用論は、警察と大衆とが一体でない以上、論理的に首尾一貫している。勝は警視庁の側に上らなければならぬ。
 もし警察後援会の代りに、警察オブザーバー会とでもいうべきものを造ったのだったら、矢野氏もあんな不体裁な目を見ずに済んだろう。警察に対して大衆が之をオブザーブするのである。無論この際は警察が大衆と一体だなどという仮説は成り立たないが。そうすれば矢野氏はもっと首尾一貫した立場から、警察に忠言を与えたり賞与を与えたりすることが出来たろう。そうして警察から縁切りされても心配する理由もないし、又初めから縁切りされるということの成立しない関係なのだから、警視庁へ行って謝らずに済んだだろう。警察が国民に対してなすべき警衛のサービスに就いては、国民自身が之をオブザーブしなければならない筈ではないだろうか。警衛を頼んでおいた門番や守衛にも叱られるような主人は困る。国有鉄道のサービスに注文をつけたお客さんが一々鉄道省のお役人から叱られていては大変だ。――それとももし警察が大衆へサービスすべきものではないというなら、一体警察は何にサービスする気か。私は今にしてどうやら判るのである、なぜ「警察後援会」に無条件に賛同出来なかったかが。大衆が警察を後援しようということが元来無理な企てなのだ。矢野氏の失敗が之を証明している。

   三、家庭考査

 小学校の一年からズーット一番を通して来た女の子がいて、それが教員になることを希望しているが、父親が今現に懲役に行っているので、師範学校へ這入れないと思うが、どうしたものだろう、という婦人相談がある(読売)。河崎ナツ子女史によると、理窟としては前科者の子弟であろうと何であろうと、入学を拒まれる理由はない筈であるが、今日の社会の実情から云えば、入学希望者が過剰なため、庶子や私生児や三業者の子供がいけなかったり、資産や家の大きさまでが入学に関係したりしている、ということだ。まして前科者の子弟をやというわけである。処で普通学務局長の下村寿一氏は、刑余者の子弟だという理由で入学出来なかったというような噂さは聞かぬ、師範学校の校長は併し、なるべく学風に適した生徒を取るように賢明な裁断を下すべきだろう、と云っている。処が更に女子師範学校の校長は、前科者の子弟ということに対しては小学校の児童は非常に敏感なので、自然生徒に軽侮されることになるから、結局教育家として不適任だと、相当ハッキリ告白しているのである。だが問題は単に師範学校に這入れるか這入れないかの問題ではないのであって、一般に今日男女を問わず中等学校(小学校も特別なものの場合には同様だが)以上の学校の入学考査全体に亘る問題なのである。又それに前科者の子弟であるかないかだけの問題でもない、どういう家庭の子弟かということがこの際の一般問題なのだ。
 特殊の小学校や私立女学校の或るものは、学校営業の目的から云って、児童や生徒の家庭の資産状態を重大視するのは当然で、学校への寄付能力の貧弱なものを採用したのでは引き合うまい。この方針を徹底すれば、入学金の納入高の多い者から採るのが合理的で、そして入学金を試験以前に前払いするという形式を取れば、所謂不正入学ということになるのであるが、莫大な入学金を試験前に前払い出来るような家庭の生徒を採用することは、学校自身の営業方針から云って、少しも不正なことでも何でもない。不正なのは生徒の側だけだ。それだけではなく、こうした「良家」の子弟だけを選んで入学させることは、教育の目的に最も適った実を挙げることになるのであって、下等な家庭の子女の下等な精神による影響から学校を清めることになるから、帰せずして文部省の方針に一致することになる。それから文部省から見ただけではなく、家庭の側から見ても、嫁にやるべき大事な娘などなら、あまり変な下等なお友達と一緒に教育される学校を出たのでは条件が悪るくなるし、それは学校から云えば嫁入り率が減って従って段々良家の子女が競争して集まらなくなることを意味する。前科者の子女などは縁起でもない。私生児庶子は之に次ぐもの、というわけである。
 官公立の中等学校だってこの教育の実際上の方針に就いては変りはないのだが、大体中等学校では家庭を中心にして入学考査すると見ていいだろう。処が高等学校専門学校になると、家庭よりも寧ろ本人を中心とする。本人を中心とするのは当然なようだが、本人の人格を中心とするのである。十八や十九の者に人格も何も問題になるものかと云うかも知れないが、人格というのは実は思想傾向のことに他ならない。そんな子に思想も何も問題になるかと云うかも知れないが、日本で思想というのは社会意識のことだ。即ち社会に対して一定の認識を有っていないかいるかということだ。こういう知識の所有者は教育には不適当だというわけなのである。
 処が子供のそうした「思想」は父親の思想と相当関係があるので、その限りでは本人の問題は往々矢張家庭の問題に帰着する。こうなると専門学校以上の学校でも、この意味で矢張家庭が重大な考査資料にならざるを得ない場合が生じる。士官学校などはその典型的なものだろう。これを中等学校に移せば、師範学校の場合になるのである。――家庭の階級的類別と、その家庭に育つ子弟の社会意識乃至思想との間に横たわる、この唯物史観的真理を、最も早くから知っているものは教育者夫子自身なのである。(一九三四・八)
(一九三四・九)
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