2016-04-12

6] 林檎が起した波紋


6] 林檎が起した波紋

   一、林檎の場合

 多分読者は東京に六大学リーグ戦というものがあるのを知っているだろう。五つの私立大学に東京帝大が加わって出来ているが、帝大には応援団もなければ大したファンもいないそうで、そのせいかどうかこの頃帝大の成績は問題にならない程悪いそうである。で帝大は云わばおつき合いに出ているようなものだから、本当をいうと五大学リーグ戦と云ってもいい位いだそうである。日大・専修大其他から出来ている所謂五大学リーグ戦と違う点は、日大などを決して入れてやろうとしないという処にあるので、即ち決して七大学リーグ戦などにならないということがその本質の一つだ。処が実はそれが六大学リーグ戦ではなくて五大学リーグ戦に外ならないのである。
 併し、この頃時々優勝するという立教や法政が、仮にリーグを脱退してもリーグにとっては大して問題ではないだろうが、之に反して、もし仮に早稲田か慶応かが脱退するとなったら、リーグ戦の価値はまず殆んど零になるだろう。云わば六大学リーグ戦は、早慶戦を合理化するために出来上ったようなもので、又早慶戦を中心に行われているようなものだ。こうなると六大学リーグ戦、実は早慶二大学リーグ戦だということになる。
 早慶を除いた外のリーグ加盟大学は早慶のおつき合いに引き出される刺身のツマのようなものだが、それで早慶外のリーグ加盟大学が損をしているかというに決してそうではないらしい。帝大は学問の上では兎に角(無論学生の学問のことで教授の学問になると仲々問題が多いが)、カレッヂボーイシップ(?)の上では問題にならないが、それでも野球部はたしかにリーグ戦のおかげで経済的に恵まれている。他の法・明・立になると、問題は単に野球部の利益などではない。これ等の大学はリーグ戦に加わっているおかげで、大学自身として計り知ることの出来ない程の利益を得ている。ラヂオや新聞や雑誌は毎月毎月、わが大学の存在を宣伝して呉れる。わが大学のマネキン選手諸君を見物するために、数万の華客が、金を払って来て呉れる。デパートと同じで、物を買いに来るお客ばかりで儲かると思うと大きな間違いなので、人気というものの営業的価値をこの際理解しておかなければならぬのである。
 もし優勝でもしようものなら入学者の数は眼に見えて増すかも知れない。たとい負けても、名も知れないような大学の学生よりも、肩身の広いカレッヂボーイになった方が、世間でモテルから、自然入学もして見たくなる。リーグ戦のおかげで、こうした大学は世間的に非常に尤もらしくなることが出来る。そうなって営業が楽になれば、やがて多少は金の高い教授も雇うことが出来るわけで、大学の一切の価値はリーグ戦から決まってくるようなものだ。
 わが「制服のマネキン」諸君を獲得するのには、だからどの大学も有形無形な大変な骨折りをしているのは当然で、文部省のお役人と甲子園の英雄諸君とは、この五大学リーグ戦加盟の大学が、最も恐懼している存在なのである。
 併し法・明・立の諸大学は何と云っても、精々おこぼれを頂戴しているに過ぎない。本体は早稲田と慶応とにあったので、この二つの大学に取ってはリーグ戦は全く死活問題なのだ。有力な多数の先輩を有っているこの二大学、即ち財閥を直接背後に持っているこの二大学は、財閥の手前から云ってもリーグ戦はおろそかに出来ない義理がある。それが学生の意識に反映すると例の勇敢な大応援団が出来上る。それから学外のファン組織も出来上る。応援団が単に選手を応援しているなどと思っては大間違いで、応援団学生は自分の大学の財閥を応援しているのである。彼等の先輩が開拓した地盤を大学の名誉ある伝統の名のために応援しているのである。彼等はグランドで正々堂々と就職運動をやっているのだ。早慶の応援団が卓越して勇壮なのはこういう就職運動にうっかり身が這入り過ぎるからでこういう「スポーツマンシップ」はたしかにラヂオ体操などでは発揮出来ない。
 それだけに問題はいつも早慶を中心にして持ち上がる。まず早稲田側では三原選手が今云ったスポーツマンシップの「真剣性」を理解しないで、恋愛などに走って了ったという事件が起きたが、之は婦人雑誌に一任するとして、他方早稲田の応援団が再び更生するという吉報が齎らされた。今春来幹部と反幹部との対立で潰れそうになっていた応援団がどうやら復活してこの秋の早慶戦に臨めそうだということになったのである。軽薄な存在には幹部と反幹部との対立などはあり得ようがなく、政党や組合というような真剣な存在であればこそ特にこうした対立がつきものなのだが、この点から見てもリーグ戦応援団の真剣性・深刻性は判るだろう。で早稲田には真剣な応援団が更生した。その活躍振りは刮目して見るべきだということになった。
 慶応は慶応で十月二十二日の早慶三回戦に先立って、リーグ当局を恫喝し始めたのである。銭村・小林の審判は御免を蒙るという申し出である。併し芸人の芸が如何に優れていても、興行主は興行主なのだから、リーグ理事会は審判の権威の名の下に、慶応の申し出を斥けて、リーグ当局自身の権威を擁護することに決心したのである。そうでもしないと、うかうかしていると、小屋が潰れて了うので、早慶自身はとに角、興行主たるリーグ当局の役員生活問題にも関わるからである。だがそれにしてもリーグ当局はそれだけ「権威」を問題にされたわけであって、この時以来慶応野球部の「権威」には恐るべきものがあることが発見された。
 早稲田の真剣な応援団と、慶応の権威ある野球部とが、顔を合せる日が来た。その日軽薄で見識のない早慶ファンが前の晩から山のようにつめかけたことは断るまでもない。処で試合中、権威ある野球部の意を体した慶応の選手は、審判官の審判の権威を盛んに覆しては、自分の権威をひけらかしたが、その結果かどうか知らないが、われ等の世界史的な審判のサイレンは遂に慶応方のために鳴り響こうとしたのである。その瞬間、神様は偶然にも楽園のアダムとイヴを思い出して了ったのである。――そこで早稲田の真剣な応援団は、猛然として贖罪と救済とのために起ち上り、同時に慶応側の権威ある指揮棒が行方不明になった。ということに、少くとも早稲田側ではなっている。この際、切符の不正改札をしたり、「顔」に向っては言葉通り顔負けをしたりしつづけている場内整理員などは、早稲田の応援団によって一たまりもなく押し除けられたのは云うまでもないし、大喜びで写真を撮り始めた新聞記者が思い切って処罰されたのも当然である。
 さて早大側は林檎をぶつけた慶応野球部選手某に謝罪しろと主張するし、慶応側は早大野球部にリーグを脱退しろと要求するので、問題はリーグの委員会にうつされることになった。早大側の要求は当然であるとして、慶応側の主張には一寸腑に落ちない点がないでもあるまい。あばれたのは早稲田野球部ではなくて応援団だったのだから、野球部にリーグ脱退を迫るということは少し変のようだが、併し、応援団が、決して野球と離れたものではなくて、大学自身にとって野球部が持っている重大な意義をば別の形で云い表わしている真剣な存在だったということを思い出せば、慶応側の要求も亦無理ではない。それは兎に角、最近妥協案が作成され、夫が両大学に対して勧告の形で示されたが、その結果はまだ判らない。悪くするとリーグ自身が、逆に早稲田辺から責任を問われる破目に陥るかも知れない。実際、大事なのは早稲田と慶応とであって、リーグ当局などは両大学の寄生虫のようなものかも知れない。この寄生虫が権威を有っていられる間が「スポーツマンシップ」の存在する期間で、この権威が両大学に移り始める時は、スポーツマンシップという得体の知れない幻影が正体に返る時である。その時こそは問題が高田閥とか三田閥とかいうものにまで純化される時なのである。
 警視庁などでは、応援団を金網に入れることを研究しているそうだから、スポーツマンシップを出来るだけ早く、こういう具合に純化して了わないと、応援団は気の毒にも金網に入れられて了う運命に見舞われるだろう。

   二、野犬狩りの真理

 応援団より気の毒なのは併し、野犬諸君である。ある二人の外国人の女が、帝都の野犬(?)を満載した三河島行きのトラックの前に立ち塞って、その犬を皆んな買います、と怒鳴り立てていたという事件がある。自分の飼い犬が見えなくなって百方手を尽してさがしていた処、幸いにもその犬が帰って来たのはいいが、首輪の代りに犬殺しの針金が首にまきついていたのだそうである。二人の婦人は之を見て犬一般に対する義憤と憐憫の情とから、この嬌態を演じたというのである。併し犬殺しは巡査立ち合いの上で犬を捕獲して歩くのだから、その行為はあくまで合法的なもので仮にその合法性の根拠が、本当に狂犬病予防のためなのかそれとも犬殺し稼業の保護のためなのかハッキリしないにしても、とに角合法的である以上、子供などにどんなに残忍な印象を与えようとも構わない筈だと私は信じている。
 高田義一郎博士は東京朝日の鉄箒欄で、この問題を取り上げ、野犬狩りの目的が狂犬病の予防にあるという仮定から、野犬狩を批判している。之に対して警視庁獣医課の係員は、如何にも警察医と犬の医者との結合物であるような口吻で、之に反駁を加えているが、博士は更にこの反駁を批判している。今はその一々の内容はどうでもいい。博士はあくまで医者の立場から野犬狩りを狂犬病の問題として取り上げているが、そうすれば当然、野犬はなるべく少ない方が望ましいわけである。そのための一つの対策として、畜犬税を半分にすれば野犬はそれだけ飼犬になって、数が減るだろうと博士は云っている。
 だが、実は野犬はなるべく沢山いないと困るのである。野犬が足りない時には飼犬の首輪を外して野犬に仕立てたり、人の家の縁の下にいる犬までも引っぱり出したりする必要が、犬殺しにはあるのである。こういう種類の窃盗や家宅侵入は、巡査が立ち合っていることになっているのだから、事実上は合法的になるのだ。で例の外国婦人が悲憤を感じたのは案外この点だったのかも知れない。
 残忍な行為はただでは決して合法的にはならない。狂犬病の予防のためなどだけなら、野犬狩りの行為は、残忍だという印象をさえ多分与えないだろう。経済上の必要が直接その後ろにかくされている時初めて或る行為が残忍という性質を受け取るので、そしてその時は同時にその残忍な行為が社会的に合法化されている時なのである。
 犬は野犬に限らない。野犬に落ちるのは大抵駄犬であって、名のある犬は大抵飼い犬になる。首輪も嵌めず定住処もなく、定職もなしにフラフラしていると、浮浪罪に問われて、タライ廻しに合った揚句、三河島で秘密裡に処置されて了うが、その代り飼い犬となって雇われたとなると、仲々尊敬されるものである。愛玩用としては、有閑マダム・スポーツマン・芸妓などと並ぶことが出来るし、警戒用としては門番や守衛や巡査などと肩を並べられるし、狩猟用としては忠勇な軍隊とさえ一緒になることが出来る。この間関東軍では、東京から京都、大阪、神戸に亘って、シェパードを軍用犬の種犬として買い上げるために徴兵検査を行ったが(甲種合格十四頭)、シッポの振り方をよく教育されていないために内地の街頭でウロウロしている野犬達に較べると、この満州行きの連中は全くの英雄ではないかと思う。
 駄犬と名犬とはこれ程待遇が違うのだが、どこで駄犬と名犬との区別がつくか。それが素質と教育とによることは云うまでもない。教育の方はこの頃世間で非常に喧ましく云われている。まるで「教育」だけで、教育が出来るかのように、教育万能を人々は信じているようだ。それだもんで食事を与える任務を帯びた女中達までが、飯をやる代りにお説教を聞かせてやったり、散歩につれて行くように云いつかっている書生君が、棍棒で説教することに方針を変えて了ったりするのである。けれども一体犬を教育するには何よりも食餌を与えるということが一等大事な手段だということを、人々は忘れてはならない。
 教育の方はまだしもとして、素質の改善の方は今まで全く等閑に付されていた。ということをこの頃人々はやっと気づいたようである。之に一等初めに本当に気づいたのは、ドイツのヒトラーという人物で、彼の優生学は何故だか雑種の発生するのを大変恐れる処の科学である。わが国の「民族衛生学界」は併しもう少し衛生学的で、「医学や懲罰等によって到底矯正されぬ病気をこの世から駆逐しよう」との目的の下に、断種法の強制を来議会に建議しようとしているそうである(十月十三日付東京朝日新聞)。
 素質の悪い処に如何に教育を施しても無駄なことは判り切っているから、素質の悪いのは絶滅させるに限るというのであって、駄犬はドシドシ淘汰されねばならぬということである。それは要するに、野犬はドシドシ退治しろということに帰着する。ここに野犬狩りの新しい真理があるのだ。

   三、内政国策会議まで

 先月十二日若槻民政党総裁は名古屋に開かれた民政党有志の歓迎会席上で、時節柄至極注目に値いする演説をやって除けた。之より先、政友会大会で鈴木政友会総裁が、民政党総裁を攻撃する積りで、うっかり若槻ロンドン軍縮会議全権の批評をして了ったのだが、そこで若槻氏は往年の軍縮全権としてロンドン条約の説明を党員に与えておかねば困ると云って、責任者として次の諸点に就いて述べる処があった。
 第一にロンドン条約は製艦費の節約によって国民の負担を六年間に亘って軽減し、又国際平和をそれだけ確保し得たというその貴重な結果を尊重されねばならぬ。第二には補助艦総トン数対米七割・大型巡洋艦対米七割・潜水艦七七八〇〇トンの確保を三大原則としたが、第三の潜水艦トン数が米国と同じく五二七〇〇トンに切り下げられたとしても、総結果から云えば、まず三原則の主旨は貫徹したと見てよく、大体に於てロンドン条約は成功であったと見るべきだということ。第三には、その際全権が政府に発した請訓は、海軍次官・軍令部長・軍事参議官列席の上で賛同を得たものであって(海軍大臣渡英中)その間何等統帥権干犯というようなことは絶対にないということ。第四には、海軍第二次補充計画は、一部に伝えられるようにロンドン条約の失敗・欠陥を埋め合わせるための計画ではなくて、正にロンドン条約自身の範囲内で行われることになっているのだから、その実現が急に必要になったのはロンドン条約が原因ではあり得ないので、何か他の国際関係から由来する外ないこと。第五には該条約は一九三六年に効力を失うものでその前年に当る一九三五年の第三次軍縮会議に於ては、日本はロンドン条約と無関係に新条約を締結し得る筈になっていること、等々である。
 海軍当局は之に対して、潜水艦の二五〇〇〇トン減少の如きは重大な欠陥を意味するもので、之を以てしても条約の成功だと考えるのは了解に苦しむ処だと云い、特に青年士官達は、統帥権干犯の事実は歴然として明らかではないかと騒ぎ出した。「かかる主張の存在に対しては従来の如く輿論を黙過することなく」、上局を促して適当な処置を取らせねばならぬということになって来たのである(十月十四日付朝日)。
 何だか軍部はこれまでいつも輿論を無視して来たかのように、この言葉は受け取られるかも知れないが、無論そういう意味ではない。処で当時、五・一五事件の花形の一人、海軍側被告の特別弁護人たる、海軍大尉朝田某は、多数少壮士官を代表して、若槻総裁に会見を申し込み、一時間程若槻邸で談判したが、「朝田大尉は容易に諒解せず、統帥権干犯については反駁して譲らず、結局物別れになったそうである」(十三日東朝夕刊)。朝田大尉は諒解する目的で出かけたのではなかったろうから容易に諒解する筈はないのである。
 併し明敏なる若槻総裁は、政党・政府、引いては国民に迷惑を及ぼすことを恐れて、以後この統帥権干犯問題には触れないという声明を与えたから、軍部も政友会もあまり深く追及することはさし控えた。十月十六日の東京に於ける民政党懇談会席上では、ロンドン条約にあまり触れないと云って、海軍第二補充計画についてだけ語っている。海軍当局は最後に、この第二回目の演説に対して非公式な声明を発して、若槻総裁を反駁した。曰くロンドン条約は欠陥だらけであり、且つ「条約締結の手続きに於て憲法上の不備の点が多々あったことは既に明なる事実であり」、海軍第二次補充計画はロンドン条約の欠陥を補うべき第一次計画と同時に、ロンドン条約の直後に立案されたもので、ロンドン条約の不備欠陥を補うのがその目的であったことは言を俟たないというのである。
 条約に欠陥があり又その埋め合わせとして第二次補充計画を立てたのだという主張は、見解や意図の問題に帰着するわけで、本当の当事者であり専門家である軍部の云うことの方が、信頼出来るような感じがするだろう。だが「憲法上の不備」云々ということになると、不幸にして世間はそう安々と同じ調子で「諒解」はしないだろう。憲法の権威ある専門家から、合理的な説明を聴くまではどんな説も徹底しない。
 処で東大教授美濃部達吉博士は、東京帝大新聞で、統帥権干犯に関する或る一つの説明を与えている。それによると、全権が軍令部の云うことを聴かないからと云って、少しも統帥権干犯などにはならぬ。軍令部と、統帥権の主体とを混同する如き態度こそ大権干犯ではないか、という要旨であった。なる程そういうものかなとは思うのであるが、之を合理的に反駁した憲法権威者の説をまだ聴いていないから、吾々素人は今の処判断しかねる。軍令部の機能が最近変更されたというような噂を耳にするから、多分海軍側にはこの点に就いて輿論が納得出来るような解明が用意されていることと信じる外に道はない。
 若槻総裁の演説は、初めは脱兎の如く終りは処女のようであったが、所謂五相会議は之に反して初めから黙々とした会合であった。五相の間に対立があったとか、その対立が止揚されたとか云った、禅機に充ち充ちた弁証法的過程の揚句に、公表された処は、「五相会議に於いては外交、国防、財政の調整の根本に関して隔意なき意見の交換を遂げたる結果相互の諒解を深めその大綱に関し意見の一致を見たり」という六十五字である。主として対ソヴィエト・対アメリカの外交政策が問題になったらしく、新聞には色々と書いてあるが、結局の処吾々に判る処は、何か無理に抽象的な報道だけだから、今の六十五字の方が却って五相会議の発表された限りの真髄に当るわけである。
 民政党はこの時に当って、一寸異様な要求を政府に提出している。それは、政治経済の革正・教育制度の改善・思想善導・その他も大事だろうが、それより今大事なのは人心の安定で、それには言論自由が何より大切だから、之を保証しろ、というのである。言論の自由が封鎖されているもんだから色々な流言飛語が乱れ飛ぶので、夫が社会不安の本質だというのである。この「社会学」はとに角として、民政党には(そして多分政友会だってそうだろう)大変言論の自由が必要であるように見える。――処で五相会議は内政国策会議へ続くのであるが、この会議に這入るに際して、陸軍は自分の「対内国策」に対する浮説を否定して非公式に声明している。「最近世上に陸軍の対内国策案に関し、各種の浮説が喧伝せられ、世人に衝動を与うることも尠くないようであるが、陸軍としては対内国策については国防の見地から慎重なる研究を為してはいるが、なおこれを発表するの機に到達しておらないのみならず、従来世上に陸軍案として発表せられたものは、全然陸軍に関係のないものであることを言明する」と(読売新聞十月二十六日夕刊)。
 なる程こんなに浮説が色々浮んでいては、人心全く不安なわけで、或いは言論の自由も少しばかり必要になるかも知れない。併し実際には、現に言論は全く自由なのである。例えば陸相は、日本が皇道精神を世界に宣揚することによって、世界平和の方策を自主的に提唱すべきだと論じたと報じられているが、之は全く自由に充ち充ちた溌剌とした言論ではないだろうか。之に対して外務省当局や消息通が、極東モンロー主義(国際連盟の脱退をそう呼ぶのだそうである)を自ら放棄するものだとか、徒らに国際政局を刺※[#「卓+戈」、124-上-10]するものだとか、批評することは、又彼等の自由である。この世界平和論と五相会議の内容とがどういう関係にあるのか併し吾々には判らない。
 とに角五相会議は終結して、世の中は内政国策会議の時代に這入った。先ず何から議論しようかということ自身がここでは議論の第一歩であったようだが、この頃流行る対立もどうやら止揚されて、後藤農相は農村問題を提げて立ち上った。併し農村というのは、米穀の[#「米穀の」は底本では「米殻の」]生産や何かはとに角として、何よりも兵隊を産出する土地のことを云うのだから、農相の説明だけでは心細い。農産物販売統制や農村工業化問題(実は工業農村化の問題)に、少くとも農村の教化問題が結び付かなければならなくなる。すると之はもう農林大臣の権限外になりはしないかと心配になるのである。
[#改段]

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