2016-04-12

11] 失望したハチ公


11] 失望したハチ公

   一、失望したハチ公

 雨の日も風の日も、死んだ主人にお伴をした習慣のままに、渋谷の駅頭に現われるハチ公である。彼は今では全くの宿なしで、大分老耗したルンペンだったが、外に行く処は別にないし、それに習慣というものは恐ろしいもので、周囲の事情がどう変ろうとも、渋谷駅の方に足が向く古い癖は決して直ろうとはしない。だが彼はこの牢として抜くべからざる奴隷的な陋習のおかげで、渋谷の駅頭ではすっかり縄張りが出来上り、顔なじみも段々殖えて、自分のルンペン振りもどうやら職業化して来たことを感じるようになったのである。
 初めは嫌な顔をして見せた駅夫達も、彼の「顔」が相当売れ始めたのを知ると、時々お世辞などを云って接近しようと企てる者さえ出て来る。特に彼が駅長の注目を惹くようになってからは、彼は云わば駅に於ける公民権を得たようなもので、前よりも一層有利な条件で以て自由に自己宣伝も出来るようになった。力めて栄養も取るように心掛け始めたので、見目形も少しは好くなって、それだけ益々有利に事情は展開するようになって来たのである。
 で遂に彼は忠義者のハチ公として、名高いハチ公として、売り出すことになって了った。実は自分でも初めはこう人気が出るとは思わなかったのに、世間は案外なもので、彼は今では押しも押されもしない街の名士になり上って了った。それで彼の処にはこの間から、新聞に書いてやろうの、写真を呉れのと、ジャーナリストが盛んに訪問して来る。俺も偉くなったものだな、と彼は何かくすぐったいような嬉しさを感じるのである。もしも主人が死ななかったら、俺もあんなに落ぶれずに済んだわけだが、併しその代りにこんなに偉くなる機会も掴めなかっただろうから、何が幸になるか判らないものだ、とつくづく考えられる日が幾日も続いた。
 処が四月の二十一日である。彼は自分が何とも知れぬ気味の悪い紅白の布を首から背中にかけられているのを発見して、スッカリ不愉快になって了った。自分の好まない衣類を着せられる程、自分を惨めに感じることはないので、彼はひどく不安そうにウロウロしないではいられなくなった。ひょっとすると自分は英雄になったのかも知れない、或いは神様に之から祭られるのかも知れない、それでこんな特別な着物を着なければならぬのかも知れないとも考えられたが、併し反対に、自分が今決死隊か何かで、又死刑囚か何かで、それとも又祭壇に捧げられる犠牲か何かで、皆んが[#「皆んが」はママ]責任を自分になすりつけるために、自分を飾り立てているのではないかしら、という心配もしないではいられなくなって来た。
 大人や小供が身動きの出来ないように列車のホームに押しかけて来た。顔馴染の人もいたが、全く見知り合いのない弥次馬風の人間も多い。愈々自分がどうにかされるのだなと覚悟を決めざるを得なくなった。処が突然ある紳士が皆の前に押し分けて出て来て、何か挨拶を始めた。それから神主が何のためか知らないが祝詞を上げた。それが終ると渋谷の駅長さんが又何か喋った。けれどもこの時からハチ公に不思議に思えてならないのは、皆んなの注目の的が、自分よりも他の何かのものに移って了っているらしいということだった。とそう思っていると十歳ばかりになった女の児が出て来て、眼の前につるしてあった、彼が着せられたと同じ紅白の幕を引き降ろすのであったが、増々皆んなはその方にばかり瞳を集めていて、ハチ公のことはもうスッカリ忘れて了っているように見えるのであった。
 彼が驚いたことには、幕が降りて現われたものは彼自身の銅像だったのである。皆んなは一緒にこの銅像に向って歓呼した。それがすむと本人のハチ公が銅像の側に引っぱり出された。そしてもう一遍皆んなが歓呼した。併し皆んなの瞳が集められているのは彼の銅像に対してであって、決してハチ公に向ってではない。
 ハチ公はつき落されたような失望と屈辱とを一遍に感じた。観衆の対手にしているのは彼ではなくて、彼よりもずっと大きくて立派な彼の銅像だったのだ。この銅像が出来ればもう自分はいらないものだとすると、ひょっとして自分は殺されるのではないかという不安さえが、急に彼を襲い始めた。彼は急いで駅の外へ飛び出した。するとそこで自分のブロマイドやハチ公煎餅やハチ公チョコレートというものを売っているのに出会した。処が今日は子供達までがハチ公などに見向きもしないで、このハチ公煎餅やハチ公チョコレートに気を取られている。
 ハチ公は自分が何か魂を搾取される手術でも受けたように、自分と自分の持っている意味とが、メリメリと引き離されるような身慄いを全身に感じた。すると夫と一緒に、例の主人のお伴をした時以来の、渋谷駅に足が向くという、どうしても癒らなかった奴隷的な陋習が、一遍に身体から抜き取られたような気がし出した。彼は渋谷駅など、満腹の時に御馳走の相談を受けた時のように、バカバカしい存在であることを発見したのである。
 後で判ったことによると、ハチ公が弥次馬だと思った大人達は、文部省や外務省や、又鉄道省やのお役人達だったということだ。鉄道省のお役人は駅のホームでハチ公の銅像の除幕式を挙げるのだからやって来たのだし、外務省のお役人は除幕式の光景をトーキーにして外国人に拝ませてやるために来たのだそうだ。文部省のお役人は恐らく、ハチ公の銅像がどの位い忠義な形をしているかを調査に来たのだろう。
 話は別であるが、司法省の皆川次官が「大孝塾」という「忠孝」の研究所を作った経緯は面白い。ある共産党の被告の一人が取調の係官に忠孝の道の尊いことを説かれて、「お話はよく判りました、併し何故忠孝の道が尊いか、その根拠を教えて下さい、なる程と得心が行けば今日ただ今からでも忠孝のために生死致します、と詰められて答えるところを知らなかった」ので、そこで忠孝研究所が出来たのだそうである。研究主任格の某君と某君との今後の努力に俟たなければならないけれども、併し両君もただ研究しているだけで、之を実践躬行するのでなければ、銅像などは立てて呉れないものと覚悟しなければならないだろう。一体この頃は銅像が仲々流行って、犬養木堂翁のも出来上ったし、鈴木喜三郎氏の銅像も除幕式が行われた。それからチャップリンの「街の灯」も銅像の除幕式から始まっている。尤もこの映画の除幕式では、貴顕紳士淑女の演説が、甚だ不敬にも、ピーピーパーパーという発音をするのであるが。

   二、体育派とスポーツ派

 問題は四月九日から上海で開かれた日支比三国の第十回極東選手権大会円卓会議に始まる。その前に予めマニラへ派遣されていた山本忠興博士等は、フィリッピン体育協会代表から、日本が上海円卓会議で満州国代表選手を出場せしめる動議を提出する際、之に協力するという言質を、予め開かれたマニラ会議の席上で得たものだと思い込んで、之を大日本体育協会に報告しておいた。処がいざ上海円卓会議になって見ると、フィリッピンは突然、非公式にではあるが、日本の該提案に対して反対を唱えて、要するに支那側に寝がえりを打って了ったのである。問題はここから起きる。
 フィリッピン代表タン教授に由ると、かつてインド選手が参加出場したのは、体育協会会議に於て会員の賛同を得た結果であったのだから、満州国選手の参加出場にも亦支那の賛同が必要だということになって来たのである。大会の所謂憲法はそういう風に解釈されねばならぬというのである。
 之を聞いた大日本体育協会はフィリッピンがマニラに於ける約束を無視した背信の非を鳴して、フィリッピン遠征を中止すべしとなし、その準備を止めて了い、大会不参加の旨をフィリッピン体育協会に打電して了った。処が上海にいた山本博士(代表)は、日本側のこの憤慨が、マニラの約束に就いての誤解から来るもので、この約束は決して公式なものではなかったことをよく理解していない処から来るのだとして、山本代表自身がフィリッピンに対して、日本体協の該電報の留保方を打電したのである。そうなると当然体協と山本代表との対立になるわけで、体協は山本代表に対して、問題の電報の留保の又留保方を、即ち前通り不参加だという打電を、命じた。山本博士はこの命令に従って、比島側に対して体協の抗議文に対する返事を促して、帰国の途に就いた。
 処が日本の体協は突然今度は「大国の襟度」を示して、第十回極東大会参加に決し、その旨フィリッピンに通告し、満州国体協には慰撫の文書を手交して、声明書を発することにした。そこで憤激したのは満州側であって、約束によれば最悪の場合には又相談しようという筈だったのに、相談もしないで勝手に一方的に参加を声明するのは怪しからんと云い出す。日本側は、あの約束は非公式だったのだから背信ではないとつっぱる。満州国体協東京委員会の藤森代表(この日本人は満州国側の代表者だと見える)は、現幹部の下に立つ限りの大日本体育協会とは、一切の関係を断つ旨を声明し、大いに山本博士に[#「山本博士に」は底本では「山本博土に」]同情を表してさえいる。どうやら山本博士は[#「山本博士は」は底本では「山本博土は」]満州側らしい。之に対して今度は体協側から満州側の誤解を指摘する番になって来て、例によって、私的意見を公的意見と思い誤ったのが満州側の誤解なのだと体協側は主張している。
 で結局日本体協は大会参加に決定して了ったわけで、もう問題は片づいたかと思うと、実は之から本当の「問題」が始まるのである。まず真先に出て来るのは、相不変現役少壮将校団だ。陸軍戸山学校の将校達が中心で、大きな背景を持つ某会が、参加絶対反対の決議をしたという噂が発生した。戸山学校長は、例の林陸相の立前を顧慮してであろうか、軍人はスポーツに断じて干渉するものではないのだから、そういう噂は至極迷惑だと発表した。
 だが、××が一旦云い出したことは仲々よく世間で受け容れるものと見えて、早大の競争部の主将西田選手が、急に参加辞退を声明したのである。甚だそうありそうなことで大して独創的な着眼ではないが、皮切りは皮切りに違いない。山本博士は早稲田の教授だから、一体に早稲田は満州側である。でこの選手によると体協側の態度には非スポーツ的なものがあり、上海円卓会議も政治問題として逆用されているから、「純スポーツ的」な立場から云って、参加する気がしない、というのである。
 そこで明大体育部も早稲田の真似をして不参加を決議する。文理大でも選手に「熟慮」を促す(尤も文理大当局によると之はデマだそうだが併し至極尤もらしいデマだと云わねばなるまい)。慶応競争部も亦不参加を決議する。どれも多分「純スポーツ的」立場からに違いないだろう。
 処が中央大学の先輩団はどう思ってか、自分の大学の選手に対して、敢然参加せよと打電したものである、あくまで「運動家としての責任」を尽せ、と云うのである。それに実は明大選手達などはなぜかひそかに出場を希望している。――で、どうもこの方がスポーツマンとして純真であるような気がしてならないと思っている矢先、突然、甲子園にいる参加傾向のある五人の陸上選手が、十数名の暴漢に襲われて、棍棒で殴打されて血を流したという不祥事件が発生したのである。無論右翼の×××の仕業で、「×××」の仕事なのだが事件が展開して行くに従って役者は銘々その正体を暴露して来るものであって、どっちが本当に「純スポーツ的」な立場かということが之で判りかけたかと思っていると、先に軍人とスポーツは無関係だと云って噂を迷惑がっていた戸山学校は今度は、例の将校団の決意を裏書きしながら、「国家を離れてスポーツなし」という新らしい発見を発表した。でこれから先は「純スポーツ的」なものには少くとも二種類あるということを忘れてはならぬ。
「我国の体育は皇国の大国是に基き、皇道精神の涵養を第一義として実施さるべきなり、陸軍戸山学校はこの大方針に基き国民体育を一層健実ならしむるため寄与する処あるを期す。」之が戸山学校の主張である。なる程戸山学校式な体操や銃剣術はそうだろう。けれどもわが国にはレッキとした体育の権威があることを忘れてはならぬ。高等師範を有っている文部省というものがあるのだ。そこで文部省は満州派の戸山学校に対して、反満州派を代表して、体協支持の声明を出すことにしようとしたが、併し流石にそれはこの際穏当でないというので、次官談の形式で遠慮がちに小さい声で声明することに決した。こうして陸上選手は一致出場に一応決意したのである。無論他の選手達は、盛んに不参加を声明して満州派振りを見せている。
 処が又々××××棍棒を持った壮漢が甲子園のスポーツマン・ホテルに殴り込みをやり、某選手などおかげで足首を挫いて了うという事件が発生した。××××を第一とする「純な」スポーツが何であるかは再び之でも判るようなものだが、今度は別に戸山学校も声明書を発表してはいない。とに角こうした弾圧の下に、反満州派の選手一行は平洋丸に乗り込み、今頃はどうやら危険区域は脱出したように見えた。尤も途中下関で上陸して練習をする筈であったが、警察当局の忠告に従って、それも止めにしたそうである。とに角日本を離れない限り、スポーツマンは命が危い。
 明大の木下総長は強硬な強硬派なので、説得使を門司にまでも走らせて、選手に不参加を説得した上、それで聴かなければ、学校の意思に従わぬものとして選手を停学処分にする積りだそうである。尤も之は棍棒で殴られたり何かするのに較べれば、ズッと割がいいが、併し日本には随分変な大学もあるものだ。事実すでに明大体育会は、五人の選手を除名処分に付したのである。早稲田・慶応・明治の競争部は、関東学生陸上競技連盟の意向に反して満州派なので、まず早稲田がこの連盟を脱退し、やがて慶応・明治も之に続くという話しだ。この学連の会長が例の山本忠興博士だったのだが、博士は満州派だったから、当然会長を辞任することになった。
 極東選手大会第十回大会満州国代表参加問題の歴史は、大体以上のようなものであるが、ここまで来ると読者は純正なスポーツに別々な二つの種類があるという結論に到達することと思う。だが一体、体育とスポーツとを混同するということが抑々の間違いの元で、実はスポーツの内に二種類あるのではなくて、本当はスポーツと体育との二種類があるに他ならない。大会に不参加を決意した例の選手達はだから、体育家ではあっても、決してスポーツマンではなかったのだ。――体育協会も、戸山学校も、文部省も、この点をもう少しハッキリさせる必要があるだろう。

   三、血液と制度との混線

 東本願寺では去る十四日、第二十五世法嗣光養麿君の得度式を行った、がそれは極めて画期的な意味のある得度式であったらしい。
 光養麿の祖父である大谷句仏氏は今は僧籍を剥脱されて一介の俗人に過ぎないのだが、それがこの得度式に前法主として出席しようと主張するのに対して、院内局側は之を阻止しようとするので、前日の十三日には十二時間にも渉る交渉をやったのだが、遂に妥協点を見出すことが出来ず、物分れとなったので、句仏氏が翌日の式場に乗り込んで来るだろうということは皆が予想していたことである。
 句仏側に云わせると、たとい僧籍はなくても光養麿の本当の祖父で且つ前法主である身である以上、得度式に出席するということは当然のことであり、それに、得度式に必要な立会人である証誠は前法主でなければならないように宗規によって決っているのだから、自分は列席する義務さえあるのだ、というのである。之に反して内局側は、たとえ前法主と雖も僧籍にないものが得度の厳儀に列席することは愛山護法のためから云って絶対に不可能であり、況して証誠のような責任を之に振りあてるなどは以ての外だ、という理窟である。
 仲裁者は、句仏氏に得度式の出席を見合わせて貰い、その代りに句仏氏の僧籍を復活し、そして僧籍復活の責任は現内局が取って、内局が引責辞職するようにしたらばどうか、と持ちかけたが、句仏氏は頑として承知しなかったということだ。
 さて愈々得度式の当日になると、果して句仏氏は前法主の法衣を身に纒うて、推参したという事件である。之を押し止めた僧侶達と押し合いへし合いしている間に、ある役員は句仏氏の中啓で頭を三遍もたたかれたかと見ている内に、句仏氏はコロリと転んで了ったという話しである。元来句仏氏は足が良くなかった。
 やがて東京にいる句仏氏の親戚は[#「親戚は」は底本では「親威は」]「句仏氏重態」の電報を受け取り、句仏氏の方では自分の行動を妨害した三重役を、傷害と礼拝妨害との廉で告訴すると云って怒っているそうである。句仏氏を転がして軽微な狭心症を起こさせた当の責任者になるわけである阿部宗務院総長は、それで辞職を決意したとかいうことだ。
 一体本願寺では法主の子供が法主になることになってるらしいから、法主の息子として産れたというが、それだけですでに非常にすばらしいことでなければならぬ。その息子が法主になっていようがいまいが、彼には自然的な或いは寧ろ偶然的な、絶対価値がある筈だ。生物的な関係がそこに実在してるのだから、之を疑ったり何かすることは出来ない。従って逆に、法主の親は前の法主であったことが当り前で、たとえこの前法主がどんなことをしようとしまいと、法主の正統な親であったという自然的な絶対価値に変りはない筈だ。彼が何をしたかということがここでは問題ではないので、彼が何の生れであるかということが、総てのことを決定するものでなくてはならぬ。
 だから前法主、即ち現法主の正統な父親が、仮にどんな困った男であったにしろ、之から僧籍を剥脱するということは無意味であって、仮に之から僧籍を剥脱して見ても、前法主としての生物的な絶対的関係に何の関わりもあり得ないことだ。僧籍は之を与えたり剥ぎ取ったりすることが出来るとしても、この僧籍が権威を生じる源は何かというと、それは他ならぬ例の生物的な血の続き合いなのだから、そしてその血を他にして法主の絶対性はなかったのだから、この血に立脚して初めて意味のある前法主から、その派生物である僧籍を剥脱するということは、丁度熱を下せば病気が治るというような考え方で、本末を顛倒していはしないかと思う。
 前法主から僧籍を剥脱するということ自身が、法主が血統に立脚しているという証拠に矛盾するのだ。
 大谷句仏氏は恐らく、その血の力によって、本能的にこういう推理を身につけるのであり、従って又本能的に、本願寺内局の自分に対する僧籍剥脱の矛盾を感じているものだから、それで一見理窟の通らない、ああした目茶な行動を取るのだろう。実際、大谷家の血統の神聖さにしか基いていない筈の本願寺の内局が、大谷家の血統にぞくする法主に就いて、その僧俗を是非するなどは、全く滑稽な矛盾だろうか。
 こういう矛盾は今日の社会では容易にゴマ化されるように出来ていて、従って面倒なものだから世間ではあまり本気になって穿鑿しないのだが、世の中が段々末世になって、句仏上人のような俗物的な宗教離れのした宗教家業の子孫が産れて来ると、この変な制度に対する血液の不平が、色々の形で爆発するようになって来る。それで句仏氏は孫の得度式に、その血統の正義から云って、正に「前法主」として、出席を要求したり何かして、法燈に嵐を吹きつけることにもなるのである。
 ――だからどうも、内局で官僚的な手腕を振ってぬけ目のない僧侶達よりも、句仏氏の方に遥かに真理があるのであって、倒錯した環境では、真理のあるものの方が、いつも評判の悪い方に廻されるのが、末世の常であるようだ。
 血液と制度との結合から来る凡ゆる混乱や矛盾は何も東大谷家に限ったことではない。これによって制度は制度としての運用の途を誤り、血液は血液としての自然を傷けられる。一方に於て客観的な事物の関係を不合理にすると共に、他方に於て人間の人間らしさが失われる。こういう関係は今に、例えば親が子を可愛がることが、大変珍らしい不思議な、従って奨励すべき得がたい模範ででもあるような風に考えられるようにさえなるかも知れない。人間もそうなってはお終いだ。(一九三四・五)
(一九三四・六)
[#改段]

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