2016-04-12

10] スポーツマンシップとマネージャーシップ


10] スポーツマンシップとマネージャーシップ

   一、スポーツマンシップとマネージャーシップ

 デビスカップ戦に出場のため欧州遠征の途上にあった世界的庭球選手、早稲田大学商科学生、佐藤次郎氏がマラッカ海峡を航行中の箱根丸から突然行方不明となったが、自室から遺書が発見されたので覚悟の投身自殺を遂げたものだということが判った。
 遺書には理由らしいものは全く認めてなく単に僚友選手あての謝意と激励とが書き残されただけで、まだしかとした原因は判らないらしいが、何でも前日シンガポールに滞泊中一旦下船、帰国の決心をしたそうで、船長は極力それを勧めたのだが、シンガポール在住の邦人有力者達は是非行けというし、庭球協会からもどうしても行けという命令が来たので、遂々意を飜して再び船の上の人となったのだそうだ。月明りのマラッカ海峡が自分の最後を待っていることを、彼自身その時知っていたかいなかったか、それは想像の限りではない。
 彼は今度ですでに四度目のデビスカップ戦に行く処だった、現に昨年の秋デビスカップ戦を済まして帰って来たばかりだ。だから文部省の留学生のように郷愁に襲われるような柄ではない。けれども同行の西村選手からの電報によると、彼の脳中には何かある邪念が巣くっていてそれが彼をたまらなく不安にしていたらしい。タオルを鷲づかみにして額から両眼を何遍も何遍も拭きながら、そうした苦衷を同僚にもらしたというから、その懊悩の姿は眼に見えるようだ。何かの固定した恐迫観念が脳神経にコビリ付いていたのだろう。すでに昨秋帰朝した時以来、友人の語る処によると、数多の奇行が目立つので、友人は無論のこと、庭球協会の幹部中にも派遣反対の意見は強かったという。それがどういうわけか、恐らく当人自身も気分を転換するに好いと考えたかも知れぬ、箱根丸に乗って了ったのである。だが恐らく乗ってすぐに後悔し始めたことだろうと思うのだが。
 船の中での彼の懊悩を見て一等事物を公平に親切に考えたのは船長であったらしい。船長は先にも云ったように、帰国することを勧めた。処がシンガポールの邦人達はもっと虚栄心が強くて、日本人が勝つということが何につけ嬉しい植民地根性から、乗船を勧めたものだろう。そこへ庭球協会から、デ杯戦の基金募集がうまく行かぬと困るから是非行って呉れといって来た。庭球協会のこの勧め方は最も合理的であったようだ。併し庭球協会は一つの知識を欠いていた、もし佐藤選手が目的地に行くまでに自殺しないと、彼は必ずデ杯戦で惨敗するだろうという一つの正確な事実の知識を。そうした心理学だか生理学だかを最も好く知っていたのは不幸にして恐らく佐藤君その人に他ならなかったのだ。
 協会のこの無知に対して世間は可なりに不満の意を表している。血族や友愛関係にある人達は憤激さえしているらしい。協会葬にもして要らないという気持にさえなっているらしい。それに恐れてかどうか知らないが、或いは寧ろ之を利用してであろうが、関西支部出の協会幹部は総辞職して協会の心胆を寒からしめているようだ。関西支部が取った「責任」にはどれだけの純な所があるか一寸外から見ると疑わしいので、之で以てかねての協会改造の機会を造れると思ったのなら、単に佐藤君の死を上手に尤もらしく利用したわけになる。そうなら本部が庭球のために(?)佐藤選手を犠牲にして※(「りっしんべん+単」、第4水準2-12-55)らなかったものと五十歩百歩で、いずれもスポーツマンシップに相応した立派なマネージャーシップ(?)だとは云い兼ねる。
 だが、今日の所謂スポーツマンシップというものが、実は一向判っていない代物のようだ。ギリシアではスポーツは多分神々に見せて娯しませる儀式としての演技から始まったのだろうが、ローマ時代には支配階級の娯楽のためにスポーツ専門の奴隷が出来ていた。多少軍事的な意味や社会衛生的な目的もあったかも知れないが、どの場合にも主に、神様か人間かの区別があるだけで、とに角偉い存在の審美的な又は嗜虐的な娯楽のために、スポーツが存在したのだ。今日では神様はスポーツを好くか好かないかは知らないが、とに角明治神宮外苑などでスポーツを見る者は、時代の支配者どころではなく、中間的な存在だというサラリーマンが大部分である。だから支配関係は一見寧ろ逆で、英雄はスポーツマンの方であって、この英雄を崇拝するものの方がサラリーマンのファン達だというわけになっている。(相撲は国技だから、多分厳密なスポーツには這入らないだろうと思うが、その証拠には相撲ではひいきの旦那の方が関取に対していつも支配者だ。)そして日本ではスポーツマンの殆んど凡てが学生又は学生上りで、その点から云えば全くサラリーマンと共通の社会の出なのだが、この点は相当大切だ。現代のわが国のスポーツマンはサラリーマンにとって憧憬の的で、云わばスポーツマンになり損った卒業生がサラリーマンになっているようなものだ。
 だがこう云っても、所詮役者は役者に過ぎない。英雄と云っても人気商売の英雄はナポレオンでない限り本当の支配者ではあり得ない。それは英雄という役目を仰せつかった舞台の花形に過ぎない。丁度廓の太夫さんやサーカスの女王と同じにスポーツマンは一方に於て英雄でありながら、所詮サラリーマン達が手頼って生きている或る世界の弄びものに過ぎないのである。各種の体育協会は、この場合丁度楼主や座長のようなもので、そこから現代のマネージャーシップなるものが発生するのである。世間から一応大事にはされるが併しどこまでも娯楽用に利用されるだけだというのが、彼等選手達の宿命で、そこからあまり我儘も云えなければ自重もしなければならないというスポーツマンシップの約束が発生するわけで、この道徳を大切にする必要が選手自身の生活から云ってあるとすれば、時には選手は自身とこのスポーツマンシップとの間に板挾みにもなるだろう。その結果自殺する場合だっていくらでも想像出来るわけだ。
 独り運動選手には限らない。一切の人気稼業の者共は、文士であろうと女優であろうと今日ではこうしたスポーツマンシップを大切にしているし、又大切にしなくてはならぬ。そればかりではない、このスポーツマンシップのためならば、いつかは身を滅ぼすだろうだけの覚悟がなくてはなるまい。現代のマネージャーシップがそれを欲するのだ。

   二、賄賂から国民精神まで

 例の教育疑獄も一段落告げることになったそうである。もういい加減に一段落つげないと、四月の新学期初めの小学校人事異動には間に合うまい。で、既にこの間小学校長の大異動を見たからもう大丈夫そんなにあの疑獄は発展しないだろう。四月には第二次の大規模な人事移動が発表された。今度は収賄や贈賄の容疑者ではなくて(その方は今も云った通り一段落つげることにしたのだから)、ひそかに入学試験準備などをやっていた校長や訓導に手が廻るらしい。無論之は司法上の問題にはならないから、単に更迭されるという迄だ。
 とに角今度はよほど気をつけて、「正しい教員」だけにするか、それとももし正しくない教員が残っているならそれを「正しい教員」にたたき直さなければならぬ。で訓導教育は甚だ重大性を今の処帯びて来た。
 東京府では青山・豊島・女子・師範学校の卒業生が二日から就職することになったが、この就職ということが今の場合大問題である。別に就職難だからというのではない、ここでは士官学校と同じに就職難はまず存在しない、問題なのは就職の心掛けなのである。その心掛けは併し就職して了ってからでは多分間に合わないだろう。なぜというに、誰も初めから、就職したら収賄してやろうなどと思う者はあるまい。まして贈賄してやろうなどとは誰も思う筈はない。なる程金を溜めようと考えているものはいるかも知れないが、なるべくならば無理をしないで金にありつきたいという「純真」な気持を持たない者はあるまい。処が一旦就職すると仲々そうは云っていられないということが判って来る。だから就職して了ってからは、もうお説教しても間に合わない。就職の間際に良い心掛けを説教[#「説教」は底本では「説数」]しておくのが一等効き目があるわけだ。
 香坂府知事はそこで、三つの師範学校の卒業生四百六十八名を商工奨励館に集めて、集団的に辞令を交付する式を挙げることにした。之は辞令をなるべく出来るだけ厳粛に交付することによって、銘々の任務が並々ならず重大であるという気持を起こさせ、滅多には[#「滅多には」は底本では「減多には」]収賄も贈賄も出来ないぞという気にならせるためであるらしい。尤も香坂府知事自身が一時間も遅刻したことは、この厳粛な式の出鼻を挫いてケチをつけたわけだが、別にそう縁起を気にする必要もあるまい。
 この試みは非常に時宜に適したものであることは間違いないが、併しこれで見ると一体小学校の先生達は、その筋から大いに期待をされているのか、それとも甚だ不安がられているのか、一向判らないという人がいるかも知れない。それは全くそうで、賄賂を授受しそうであればこそああ云った式も必要だったのだから、従っていくらああいう式を挙げて見た処で、先生達は矢張、いつか賄賂を授受しなければ立ち行かない客観的情勢に立ち到るだろう。小学校教育行政組織やそれと裏表にあざなわれている師範教育の根本特色を訂正しない限り、先生方の「人格」も訂正出来ない。仮に師範学校を専門学校程度に直しても、それが「師範学校」教育である限り、他の点はとに角として、この賄賂の人格性に就いては、恐らく何の変化も齎らされないだろう。
 だが賄賂の問題は実は、小学校の先生の社会的使命から云えば、大した問題ではないのだ。それは高々府か県で心配すればいい問題で、国家乃至政府にとっては、もっともっと大きな問題があるのだ。先生の「人格」だって、教員の「正しさ」だって、そこまで行かなければ着眼点は低いというものである。でこの高い「国家」的な着眼点からいうと、小学校の先生達は、国家から何にも増して大きな最後の期待をかけられているのである。もし今日のわが国家が、この点に於て小学校の先生を疑い始めたら、それはもうわが国の厭世自殺を意味するのだ。
 そこで、堅実なる第二国民の養成を天職とする全国二十五万の小学校教員は、三万六千余名の代表者を送って、昭和聖代の御慶事 皇太子殿下の御降誕を奉祝し併せて忠君愛国の日本精神を昂揚して教育報国の誠を示す処の小学教員精神作興大会をば、神武天皇祭(四月三日午後二時)を期して宮城二重橋前広場で持つことになった。
 畏くも 天皇陛下は該式場に親臨あらせられ、御親閲を賜り、優渥な勅語を賜うた。之に対して文相斎藤総理大臣は奉答文を奏し、大会は決議に入って、一、「吾等は協心戮力国民道徳の為めに邁進し愈々国民精神を発揚して肇国の宏謨を国民教育の上に光輝あらしめむことを期す」、それから、二、「吾等は至誠一貫職分を楽み身を以て範を示し師表たるの本分を完うせむことを期す」ということに一決したのである。文相斎藤総理大臣は更に、「国体の本義に基き益々我が国民精神を作興し国本を培養して皇運を扶翼し奉るの特に急なるを」訓辞した。その次には一同は新宿御苑拝観の栄を賜り、四日には記念講演会が日比谷の公会堂や大隈講堂や日本青年館や青山会館で盛大に行われたのである。――位階勲等もない而も田舎の小学校の先生が、こういう常人には思いも及ばないような光栄と、大東京の真中のセンセーションとに値いするということは、小学校の先生達が、今のわが国家、社会からどれ程期待され信任されているかを物語るものではないか。
 こうした期待や信任に就いて不安があるからと云って、こういう式が行われたのでは断じてない。こうした期待や信任を宣布するためにこそこの式は行われたのだ。
 併し念には念を入れなければならない。小学校の先生達に対する国民精神教育の戦士としての絶対的な期待や信任はさることながら何しろ二十五万に余る先生達のことだから、賄賂の方はまあいいとして(之は「職分を楽しむ」ことに決議したから大抵大丈夫である)悪くすると一人や二人赤化教員などを出さないとも限らない。そこで東京府学務課では率先して、主として小学校の先生達を中心とする「思想問題研究会」を組織することにした。研究委員は府市学務当局を始め警視庁・裁判所・刑務所などから思想上の権威五十名を選んだもので、その哲学上の権威に於ては並ぶべきものはない。――ついでに云っておくが司法省の皆川次官の肝煎りで出来る研究会は主に経済学の権威ある研究をするらしく、転向した有名な某氏が研究主任で積極的に研究員を勧誘していると聞いている。
 文部省になると併しもっと用意周到である。文部省には学生部という特殊な存在があったが(国民精神文化研究所は確かこの管下だったと思う)それが今度思想局に昇格した。なぜ学生部が思想局に昇格したかというと、今後は学生並みに先生も取り締ろうとするからである。先生というのは無論小学校訓導から大学教授に到る迄を意味するので、だから文部省によると、小学校の先生も案外信用がないらしいということになる。之は先に云った国家による信任と期待とに一寸そぐわないようでもある。併し大学教授に較べたら、小学校の先生に対する文部省の信任と期待とは較べものにならない程大きいのだから、之は決して矛盾にはならない。
 で今に小学校の先生は、その信任と期待との徴しとして、他の学校や大学の先生より優先的に植民地のように、制服を着て剣をつるようになるかも知れぬ。大学教授にも剣をつらせていいのだが、それは、大学教授は「国民精神文化研究所」卒業の検定をとること、と云ったような規定を実施してからでもおそくない。一体大学教授に小学校の先生のように資格検定の制度がないということが、間違いの素だ。

   三、二つの問題

 わが日本帝国の製艦技術は世界の驚異だと聞いている。どうせ製艦技術と云えば軍の機密にぞくする部分が主要な点に相当するだろうから、同様に機密にぞくするだろう。外国の技術と明らさまに対比して示される筈はないから、結局噂の限度を出ない筈であるが、従って吾々は全く素人なりに、想像する他はないのだが、その吾々素人の想像によっても、わが国の製艦技術が、少くとも非常に優秀なものだろうという見当はつく理由があるのである。
 それはこういう理由からだ。わが国の科学や技術は、官公私の研究機関を通じて、恐らく世界的水準からそんなに降っているのではないようである。而もそれは極めて切りつめられた殆んど致命的な少額の研究費で維持されている研究なのである。処が陸海軍になると研究費は桁はずれて豊富であるらしい。無論決して夫で充分だとは云えないにしても大学や他の研究所に較べたら研究は極めて自由だと見ていい。これ程自由な物質的条件にあると同時に、多分特に海軍では人的に優秀な技能を選択し蓄積していると見ていい。聞く処によると明治初年の技術家や数学者の主な者はどれも海軍軍人だったそうだ。で吾々は日本海軍の製艦技術の優秀性を仮定してもいいように思えるのである。之は日本民族の優秀性というような神話的な問題ではないのだから。
 処が水雷艇「友鶴」が顛覆したのは、査問会の議論によると、操縦及び艇内の水防等に原因があるのではなくて、波浪による傾斜に対抗するだけの復原力が不足だったのに基くということが明らかになった。要するにこの新型水雷艇は、設計上根本的な弱点を持っていたというのである。
 友鶴はロンドン条約の欠陥を補うための補充計画により、制限外の補助艦の一種として造られたもので、従ってそれに対する作戦上の要求に多少の無理があったろうというような想像も出来るわけだが、とに角すでに服役中の同型艇三隻は早速改造されねばならず、第二次補充計画にぞくする未建造十六隻の水雷艇の設計も根本的に立て直さねばならぬということになり、海軍では新たに調査会を組織して対策を練ることに決定したということである。
 一方に於て設計上の責任問題も当然起きるわけで、特に顛覆当時艇長以下二百名の将兵を失っている処から、問題は極めて重大であるが、それはいずれ軍法に照して処置するものは処置するだろう。何にせよ優秀な製艦技術を誇るわが軍部としては、之は国民に顔向けならない事件だということを、深く記憶しなければなるまい。
 鳩山文相を明鏡止水の心境から辞職の決意にまで追いこんだ岡本一巳代議士は、勢いに任せて今度は小山法相の収賄問題というのを持ち出した。併し之は明らかに図に乗り過ぎて早まったという形であるように見える。というのは、本当を云うと鳩山文相が辞職したのは、決して岡本一巳氏による「暴露」などと関係があったのではない。その証拠には岡本代議士は懲罰委員会から、衆議院の登院を禁止されたのを見ても判る。その理由は、岡本氏が軽卒にもありもしない鳩山文相の不正を「暴露」したからに他ならない。だのに岡本氏は自分の云ったことが本当だったもので、鳩山は文相を罷めなければならなくなったのだと思い込んで了ったのである。で今度は、その調子で、小山松吉氏をも罷めさせてやろうと考えて憲兵隊へ訴えて出た。処が都合の悪いことには小山氏は司法大臣の職にあるので、事件は交渉の上憲兵隊から検事局に廻されて、岡本氏はどうやら逆にひねり上げられそうになって来たのである。
 小山法相(当時の検事総長)を饗応したという待合「鯉住」は、小山起三氏という弁護士の行きつけている処で、木内検事の取り調べの漸定的な結果によれば、饗応されたのは法相ではなくてこの弁護士だそうである。即ち岡本代議士は途方もなくあわてたもので、スッカリ人違いをして了ったわけだ。――だがいくら何でも時の検事総長と一弁護士とを単に名前が同じで而もあり振れた小山という名だというだけで、人違いをするのは、あまりと云えばあまりだと思っていると、岡本氏が証人として挙げている「鯉住」の女将お鯉さんが、憲兵隊へわざわざ自分から出頭して確かに検事総長の小山さんに違いないと申し出たのである。
 そこで検事局ではお鯉さんと弁護士の[#「弁護士の」は底本では「辞護士の」]方の小山氏とを対質させて見ると、弁護士は「私が鯉住へ云った」と云い、之に対してお鯉さんは「あなたは来なかった」というので、一向埒があかない。そこで、どうもお鯉さんが嘘をついているらしいと云うので、宣誓させてもう一遍テストすると、矢張小山検事総長に違いないというので、遂々検事局は、お鯉さんを偽証罪で告発し、市カ谷刑務所に収容して了ったわけである。
 お鯉さんと岡本代議士との背後には黒幕があって、それが二人を操っているという、検事局の見込みらしい。それに関係して某代議士も召喚されるかも知れないという。なる程そういうことも大いにありそうなことだ。だがお鯉さんはかつては数多の高位顕官を手玉に取った桂公の愛妾だ。老いたりと雖もメッタな嘘はつくものではないだろう。嘘をついたとすれば多分相当大きな意味を持つ嘘だろう。ただお鯉さんは何と云っても高が待合の一女将に過ぎないのだから、この大きな意味のある嘘を、「本当」にまで組織するだけの条件が欠けていたばかりに、有態に嘘つきの罪名を被せられる浮目を見なければならなかった迄だろう。
 検事局の取調べ中の事件に就いて、とや角云うことは無意味なことだし、又恐らく邪魔にもなるだろうから、深く立ち入って想像を廻らすことなどは慎まなければならないが、併し新聞を読み合わせて見てどうも判らない一点は、小山弁護士とお鯉さんとの対質で、なぜお鯉さんの方が嘘つきで小山弁護士の方が本音を吐いていると判ったかである。無論検事局ではその点ぬかりはない筈だが、新聞の上ではどうもその点がはっきりしない。で世間ではこんなようにこの関係を解釈出来やしないかと云っている者さえもいるのである。それは、小山弁護士もお鯉さんも別に嘘をついているのではなく、両方とも少しずつ思い誤りから出発しているので、特にお鯉さんは誰か小山検事総長の兄弟か何かで法相に非常に能く似た人が検事総長の名を騙ったのを、ウッカリ本物と思い込んで了ったのではないか、と。それならお鯉さんは少くとも嘘つきの悪名だけは雪げるわけである。(一九三四・四)
(一九三四・五)
[#改段]
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